samahani
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2003年02月01日(土) |
「重いコンダラ」を思い込んだら |
「聖書を読んだことがないと、シェークスピアは理解できない」そのフレーズをどこかで聞きかじった私は教会に行ってみたいと思っていた。10年程前の話である。
ちょうどその頃、私たちはボストンに住んでいた。アメリカに住めるのは、きっちり2年だと初めから決まっていたので、とにかくこの2年の間に、何でも見てみたい、どこにでも出かけて、何でも食べて、できるだけたくさんの人と出会って、できるだけのたくさんの経験をしたい、そう思っていた。私はあのころ、好奇心とバイタリティーの塊だったのだ。
実際、どんな小さな機会でも積極的に自分から飛び込んでいき、神出鬼没だったので、狭い日本人社会で同じ人と違う活動で顔を合わせることも多くなった。そんなある日、「ボストンでやまださん(私)を知らない人はもぐりだって言われてるの知ってる?」と友だちに言われた。
日本人社会だけでなく、アメリカ人とも積極的に関わりたいと思った私たちは、毎週、教会に通った。英語もよく分からないのに本当によく続いたものだと思う。クリスチャンならば当たり前のことだろうけれど、私も夫もクリスチャンではない。
英語も充分に分からなかったのに、それでも、教会の人たちは私たちにとてもよくしてくれて、一緒にりんご狩りに行ったり、個人のお宅のパーティーに呼ばれたり、その教会で結婚式があったときにはドレスアップして出かけたり、楽しいことばかりだった。
あるとき、「さとこにはもっと英語の勉強が必要なんじゃない?」と牧師さんに言われ、「教会のメンバーにさとこの teacher になってもらったらどうだろうか」と提案を受けた。「もちろん、喜んで」とこたえた。きっと教会の人だから、家庭教師代も安くしてくれるのだろうとそのときは思った。
そのあとすぐ、ブルック・シールズ並みにきれいな、MITの数学科の学生であるアンカさんがウチにやって来た。レッスンをしたあと 帰りがけに、アルバイト代はいくら払ったらいいのでしょう?と言うと、「えっ?」と驚いて、そんなものは貰えないと彼女は言った。そのあと、アンカさんは毎週1回、1年半くらい試験期間以外は ずっと私の家庭教師をしてくれた。
1年以上経った そんなある日、礼拝のあとのリフレッシュメント(軽食)で牧師さんや皆と話をしているとき、私たちはクリスチャンではない(洗礼を受けていない)ということを話すと、牧師さんも皆も、とてもとても驚いた様子で、ショックを受けたようだった。もちろん私たちは、そのことを隠していたわけではない。初めから、クリスチャンかどうかがそんなに大事なことだとは思っていなかったのである。
私たちの方も、少なからずショックだった。皆があれほどよくしてくれたのは、私たちがクリスチャンだと思い込んでいたからなのだと知って。
日本ではキリスト教徒の人口は1%未満なのだそうだ。日本の多くの教会は、教会に来る人を歓迎してくれるし、クリスチャンではない人がそこに居ても、むしろ喜んでくれるし、洗礼を受けるまでに時間がかかっても長い間待っていてくれる。日本は、クリスチャンではない人がほとんどだから、教会や聖書のことを知りたいと言う人が、学びの場として教会に来るのもありうることとして受け入れられている。
そんなことは、アメリカではあり得ないらしい。キリスト教が何かなどということは、学ぶまでもなく常識なのだろう。聖書を勉強して信じるか信じないかという選択をするのではない。そういうやり方をしている人は、たぶん、いつまで経っても信じられるというところまではたどり着けないものなのだ。
教養として聖書を学びたいということは、(皆には言わなかったけれど、)教会の人たちを冒涜していることなのだろうかという気持ちになり、申し訳なさでいっぱいにもなった。
牧師さんは洗礼を受けてクリスチャンになるか、そうでなければ別の方法を考えるが(暗に、教会に通うのは止めてもらいたいと言っているように聞こえた)どちらかにして欲しいと言い、
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