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2002年05月18日(土) volunteer / 学校を休むこと

木曜日の夕方、「明日、ぼく学校休むよ」と息子2が言った。「どうして?」と訊ねると、「明日はパトロールの子たちのピクニックパーティー(遠足)だから」と言う。

メリーランド州の小学校は5年生までで、最高学年の5年生はパトロールといって登・下校時に下級生の交通整理をする役ができる。この役はボランティア(立候補)なので希望者は全員パトロールになれるのだ。パトロールはちょっとした名誉職で下級生のあこがれでもある。5年生の約9割の子がパトロールとして1年間、割り当てられた仕事をしてきたわけで、そのご褒美でパトロールの子だけピクニックに連れて行ってもらえる。そのとき、息子のように残り1割のほうにいる子は、4年生や3年生のクラスに分かれて入り、お客さんとして一日を過ごす。

「行ってもつまんないから、明日は行かないよ」と息子が言うので、「いいよ」とわたしは答えた。

それを聞いた夫は、どうして全員連れて行かないのだと怒っていたが、それがアメリカ式教育というものなのだ。怒ることじゃないのにとわたしは思う。これが日本だと5年生全員にパトロールの役が割り当てられ、全員でピクニックに行くことになるのだろう。

ボランティアは日本では「無料奉仕」と捉えられがちだが、英語の本来の意味は「自発的な」である。この日の日記にも書いたけれど、日本では「みんな同じでなければならない」という考えが、教育の現場にはびこっている。パトロールがボランティアとして位置付けられているのなら、希望しない子がいても当然だという配慮はない。

実は、こういう事を考えるきっかけとなったのは、「土曜日に運動会が行なわれ、共働きで学校に見に行けない親が、子どもを休ませることを考えている」という新聞の投書について、「学校は何があっても休んではいけないもの」と意見しているある日記を読んだからである。

わたしは、学校は必ず行かなければならないものだとは思っていない。息子1が幼稚園(幼稚園は小学校の0年生という位置付けで小学校と同じ校舎に併設されている)のとき、担任のメアリー先生に「こんど家族旅行するので学校を休ませたいのですが、どう思いますか?」と訊いたことがある。すると、先生は「それはとてもいいことですね、家族と一緒に何かするということは学校より大事な経験です。もちろん休んでもかまいませんよ」と答えたのだ。

学校は必ず行くべきものと教えるより、なぜ学校に行く必要があるのかということを考えさせて、自分のためという答えを引き出せれば、たまに休んだからといって、それが癖になることはないのではないだろうか。学校は、必要ならば(その必要性は個人の価値観によって異なるが)休んでもかまわない場所だくらいに思えばいい。

イジメなどによる不登校を親が認めず、世間体のために子どもを追い詰めるようなことをしたら、行き場を失った子どもは、非行にはしり家に帰らなくなったり、自殺してしまったりするだろう。大平光代さんの「だから、あなたも生きぬいて」を読んだとき、わたしは、彼女の親のふがいなさに憤りさえ感じ、本を投げつけたくなった。

土曜日の運動会に行けない親は、考えられる状況(次の日、話題に取り残されることになるねとか、ひとりで家にいるのもつまんないねとか)を子どもと一緒に話し合い、子どもがそれでも休むと言えば、考えられる状況については納得しているのだからそれでいいし、やっぱり行くことにするよとなればそれでいい。休むときには、嘘を吐かず「ひとりでお弁当を食べることになる子どもが不憫なので休ませる」と言えばいいのではないだろうか。

・・・と、日頃どれだけいい親をしているわけでもないわたしが、学校について考えてみた。


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