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―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2008年04月15日(火)
喧嘩を売るつもりでもない。


何故あの人は怒ったのだろう、なんて考える時は大抵、その人を案じているのではなく。そこに至るまでの構造に興味があると言うか、自分に都合のいい仮説であっても納得出来たなら別の機会に役立てられるのではないかと、結局は己に帰結する。
きらわれないかと怯えもするけれど、元よりそこまで好かれてもいない。心証を悪くしたいとは万人あまり考えない事柄ですが、かと言ってその心証の為に何かをする、って気にもなれない。とことん、幼稚なんだ。

例えば、調理を終えたばかりのフライパン。基本的に使用直後が洗い時だと思うんです。カレーに使った鍋とかは兎も角、炒め物程度なら冷水浴びせてさっと洗えば力も洗剤も全然必要無いし、余熱で勝手に乾いてくれます。
だけど他人の為ではなく自炊の一環として調理をしたらばつまりお腹が空いている訳で、直ぐにでも食べたい。後回しにしてでも、というのも心理。
そうして放置されたフライパンを見ると、自分が使った訳でもなく更に仕上がったものを食べる訳でもないのに気になって洗いたくなるんです。
どちらかと言えばなんでも不精なんですが、面倒を先に延ばす事も間々ありますが、後回しにした方が明らかに労力を伴うと判り切っているなら、面倒でもより面倒にならない為にやりますよそりゃ。ある意味一つの定義として後片付けまで出来て調理、なんて遠足のような格言もありますし、言葉が出来上がっていく過程には、納得出来る点があるから形が生まれるんでしょう。
しかし、別に好意や点数稼ぎではなく気になる自分の為に行なうそれが、調理した人にしてみれば、なんてお節介でこれ見よがしないやがらせをするんだろう、とも映る訳です。素直に感謝されるのと同確率かまでは判りませんが、捻くれっ子の自分には至る経緯ももう当然のように画けます。
と言って、確かにその人の為にやった事ではないにせよ、どちらかといえば習慣付けるチャンスを奪っている分いかんだろう、教育という点では単なる甘やかしにも程近く、限り無く自己満足なそれが、だからと言って、文句を言われる筋合いがあるだろうか。

あれ、微妙に例え判り辛くね? 自分にはこれ以上無い類似ケースに思えたんですが、共感は得難そう。
反感は理解出来る。恥ずかしかったり、申し訳なかったり、身につまされての哀れみかと取れてみたり、後でやるつもりだったのにという本音が嘘に見えてしまうし。
だけど怒られるべき事なのだろうか。ひたすらに、己が気になる事柄を潰したいとそれくらいの思いさえ、他人という別個体が加わると、なんて酷く難しくなるんだ。
その人の為なんて毛頭持っていなかった考えが、逆に怒られる事によって反論として起き上がってくる自分も気に食わないし、嗚呼だけど、これが所謂老婆心からくるお節介のようなものなのかな。お節介程大きなお世話も無いもんだ。結局は、噛み合わなくちゃいけない。なんにだって、相互理解とやらが付き纏う。

幼稚な己の感情は措いといて、何故、怒ったのか。それは考える必要があるし、無い。ただ、自分は、いつか又同じような事が巡って来るのなら、もっと上手い対応や、言い回しなんかが、あったらいいなと、進歩にも至らないものを願うから。
誰かの為を嫌悪はしない。あってもいいと思う。ただ、薄っぺらに取り易い言葉だから、たまにきらわれてしまうんだろう。
少なくとも自分は、自分が、最後に行動の原理や考えが帰結するところに己という対象が浮かばないならそれは純然たる他人の為だと思うし、逆ならばなんだって、己の為だと。
金銭であるとか労働であるとかが動いた際に、それについて討論になった際に、僅かでも、自分が金を出したんだとか働いたんだとか意識があったら、いつかはそんな思いが、前面には無かった筈なのに滲み出て、諍いの元になるのか。

恩着せがましいのは、だけど基本的に褒められたい心があるからか? 生来のドMだって、なんでもかんでも挫かれたらたまらないんじゃないかと、真逆の性質なので把握は出来ませんが。
許されたり、認めて貰ったり、そして褒められる事が、苦手であってもきらいという事はあまり無いのだと。上っ面だけの綺麗な言葉や偽りが紛れ込み易いから疑うだけで、喜びは、僖びなんだ。
それでもそんな根底が表に出てきたら醜く、押し付けに変わるなら、変わるから、直隠しにして生きていかなくちゃならないのか?
人間未満には考える事が多過ぎててーへんです。


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