戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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2007年10月04日(木) ■ |
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抱きしめた匂いもう一度抱いて。 |
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昨日のはねトび100円ショップで 塚地が逃げちゃ駄目だって呟いていたような気がするのは気のせいでしょうか。気のせいかもしれない。あんまり愛し過ぎていると余計な幻聴まで聞こえてきます。 余計じゃない幻聴って何さ? とはさて措き。
それ自体で何かが変わるとは、悪いけれどあまり思えない。 ただ、題目であるとか、布教であるとか、行動する事によって安定を得たり安心を得たりするのはそれこそ個々人の勝手だと思うし、良好に働くのならいいと思う。 但しどうしてもそれは、自分にしてみれば偶然若しくはその人自身の日々の積み重ねであり祈りの成果であるとは思い難いけれど。一端だとしても全てな訳も無く。 その良さを広めたいと言う気持ちも理解出来なくも無いし、大切だと思う身近こそ勧めたくなるのも真理なのだろう。 それでも相手本人が拒絶するなら持論は適度なところで引っ込めるべきだし、そんな人間の目の前で然もこの素晴らしさに平伏せと言わんばかり、けれど世界平和なんて大それたものではなく極めて私的事項を願う限りなのは、所詮その程度と思っているのか尊んでいる教義の質の程なのか。 或いは心変わりしてようやく本質が垣間見えたとこれまで蔑ろにして来た過去を後悔して泣いて縋る時までは、もう放っておいて欲しい。そうすれば此方としてもただの趣味として放っておけるのだからして。 所詮利害があるから繰り返すだけのいたちごっこなら、酔っているだけのその人にも信心故の幸福なんて起こり得はしない。そういう事でしょう?
その人だけの事なら、何も言いはしない。自分にまで火の粉が掛かって、始めて否定を口にする。 それは余計を被らない為の自衛策とも言えるし、それなりの、やさしさであるとも受け取れるもの。
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