原初

羅列 回帰



―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2006年10月27日(金)
誰かの為に。イコール嘘吐き。


自分の文章と言うのは果たして、読み易いものなのだろうか。もっと言えば、伝わり易いのだろうか。
目下の課題です。と言うか、悩み事? どうこうしたいというより、どうなのか知りたい。
しかしその為には主観と言うものを捨てねばならず、自分が自分である以上無理な事で、
例えどれだけ第三者的立場に立ってみたとしても、あくまで的であり、実際にはそうでない。
それでは考えるだけ無駄、とも一つの結論。それでも考えるのが、また自分と言うものであります。
そんな訳でぐだりぐだり考察が続きますので目の疲労を最近感じる方はお控えになるが吉です(笑)。

先ず、読み易いと言う点について。読み易さと言うのは、何を持ってしてだろう。
語感の響き、五七五でなくともそれに近い一定のリズム感や、句読点の打ち方。配置。
これ等が起因しあって通じているのも一つではあると思う。そしてそれらは個人差だ。
少なくとも文章を作っている側である自分としては一定のリズムに基づいて読める、
又響きを伝えられるように、一般的にはおかしな場所でも句読点を打ってみたり。
誰かの為にでは無くあくまで自分がどうか、と言うものなのは、致し方の無い姿勢。
段落一つ一つが長く、改行による空白が少ないのは、読み易さは別としても、
パッと見の印象はあるかもしれない。人にもよるけれど、ずらっと羅列されているものよりは
適度な感覚で行間があった方がなんとなく読んでやろう、なんて気にもなるんじゃ無いだろうか。
そう言いながら相変わらず改行が少ないのは、した方がいいと感じないからであり。
なんだか誤解を招きますね。決してきらいではない。詩的表現の場合はその間こそ重要でもあります。
スタイルの差とも言えるんでしょうが、話が繋がっている以上不用意に区切ってみても、
それはそれで致命的な欠陥にもなりかねない。センスの問題もあるでしょうこの辺は。
経験値や場合場合の状況にもより、いつかの自分を今見たら感じ方が違うように、
今の自分も別の時間帯の自分が見たら以前感じたそのままで、受け取る事は出来ないんだろう。
ある程度はシンクロしていても、きっと詳細は違う筈だから。全く同じ考えは、何処にも無い。
それなら自分は、その当時の自分を尊重したい。例え今の自分から見て未熟でも、
或いはそれを未熟と感じる自分の方が間違っている場合もあるのだろうけれど、
よっぽどおかしな勘違いをしていたり、誤解や誤りを人に振りまくようなもので無ければ、
恥に感じたとしても、そのままであるべきだと思う。その時の自分に、その時の誰かが、
その時だけでも、何かを感じてくれたかも、知れないのだから。
そうなると進化なり退化をしたとしても、読み易さ、と言うものはあくまで、
その時間軸に生きていた自分に委ねられてしまう感性で、それに沿わない人というのは、
即ち自分と合わない人、とでも切り捨てるしかないのだろう。昔でも、その時でも、今でも。
考えの上で切り捨てたとしても、実際切り捨てるか否かは個々の判断だ。
合わない、と感じた人は遠ざかってゆくだろうし、逆もまた然り。
そもそも切り捨てる、と言う表現が不穏かもしれない。適切な表現についても、最近考えてます。
自分は時に自己の主張の面で、それが当たると思ったから切り捨てるでも使いますが、
それが人に与える感覚と言うのは、決して喜びやそれに近いものではない筈だ。
少なくとも善い感情を齎せるとは思えない。それにやっぱり、切り捨てたい訳でも無いのだと思う。
しかし他に変換して、意味を表せる言葉を考え付かない場合は、無知の証拠に、そのまま。
冷たくても、突き放していても、迷っている類似、何処となく近いもの、
それが程度にもよりますがいい気分のしないものでも、それが一番近いとするならば、
使っていきたいのは恐れないのではなく、やっぱりただの無知に過ぎないのだろうけれど。

そこで伝わり易さにも話は接点を持ってきます。機械的、或いは攻撃的な言葉の他に、
比喩的、抽象的な表現は、それこそ受け取る側に様々な選択肢を与えている。
少なくとも限定は狭まっている筈ではないか。何故ならその表現こそ、それらなのだから。
伝えたい事が具体的か否かにもよるし、伝えたさの度合いにもよるし、
矢張り伝えたい言葉が見つからなくて、感じてくれと委ねているとも言えます。
だからこそ誤解をされても文句の言いようが無く、誤解を解く為に幾つもの台詞を上乗せして、
時には重複してしまうのなら、それは結局伝えきれていないのだから、間違いなのか。
口に出すよりは融通が利いて、だからこそ深く考えなければならない、書き文字。
特にこの世界はそれこそが全てに近いところもあるから、勿論絵だって映像だってありますが、
今自分が尤も使い必要としているのは文章と言う表現なのだから、だとしたら、
もっと深く深く、突き詰めなければいけないのだろうか。そうして悩んで、答えが見つからなくても、
時期的に今だと諦めたりせず、何処までも追求していくべきなのだろうか。
だけど語彙だって経験によって蓄積され変化を為すのだから、幾ら考えたところで、
その当時の自分にはそれ以上の大幅な改善なんて望めない事のが多い。
理想に届かなければもどかしくて、現実は見るしか出来ない訳で、齎す行動が現実となるのなら、
今出来る事を頑張った結果、間違ったり危うかったとしても、誰かに不安や不快を与えたとしても、
それを望んでいなかったとしても、そうなってしまう形しか取れないとしても、
それしか現実になれないんじゃないだろうか。行動したからこそ、現実になるんじゃないのか。
未熟でもあやふやでも曖昧でも遠くても、その時その時なりに選び取った言葉と言う選択肢、
比喩的でも、抽象的でも、冷たくても、誤解を広める色のが強かったとしても、
後からやっぱり違うんじゃないかと悩んでも、もっとこんな適切な表現があったと後悔しても、
その時その時、それでも懸命に掴んだものなら、落ち込んでも、諦めてはいけないのだと。
反省しても、悔しくても、取り戻せなくても、取り返しが付かなくても、
出来る事は出来得る限りやったのだとせめて自分には言い訳が出来るくらい、推敲を重ねて。
だけど同じ時点にいる自分が、悩んでいる間変化が、多少あったとしても
大きく及ぼす影響が無かったのなら、細かな改定しか出来ないんだ。
何がどう危なくて、どれがどのように機能して、他人に何かを及ぼすなんて、
他人の感想を貰わなくっちゃ、到底自分だけでは辿り着けない。
人からの言葉を得る事で始めて、変化に及ぶだけの影響も受け取れるんだ。
恐れず、にいる事は出来ない。恐れと不安だらけのちっぽけな弱気。
そうしたら伝わり易さだって個人差だと、終える事は簡単なのだけれど。

自分が納得出来る終わりが見つからないのなら、考え続けるしか無いんだ。
幸い、優秀かどうかは知れなくとも考える脳はあり、その行為自体はすきであり、
自分が納得出来る節目を見つけなければ諦めきれないと言うのであれば、
自分を満たす為にそれをするだけ。どうしたって、自分本位に帰結する。
悪い事じゃない。悪い事もある、と言うだけで、全てが悪い事じゃない。
つまり結論は持ち越しなんですね。だって今の自分では、そう考えるのだけで精一杯だ。
他の誰かが何かを言ったり、行動をしたり、その気は無くともこっちが見たり感じたり、
そうして変化して、今の自分が過去の自分になるまで、別の道が見つかるまで、
ある日天啓を受けなければ言葉も考えも変わらないまま、纏まらないまま。
それもまた、悪い事じゃない。悪い事もある、けれど、全部が全部悪いなんて無い。
考えるだけ。考えを綴るだけ。纏める為に、綴るだけ。そしてその纏めは今の為では無く、
今より変化した自分がいつか眺めてこういった答えもあったんじゃないかと、
新たな選択肢を見つける為の、遠い未来へのクエスチョン。
一分後でも明日でも、遠い遠い未来への道標。あなたはこれを、どう受け取りますか。

自分が一番何かを訊いてみたいのは、今と、今じゃない自分。


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