“酩酊者は迷走する”...datenshi

 

 

全ての「何故?」に - 2004年09月15日(水)

“全ての「何故?」にいつでも、答えを求めていたあの頃”

そしてこの歌は更にこう続く。

“いつか自由になれる日を、あてもなく夢見ていた”

いま、おれはいつでも、「何故」に対する答えばかりを
探してしまっている。それは職業としてはとても大切なこと
であることも充分承知している。たいていの場合それほど
労せずに答えは見つかり、一つずつ問題をクリアして
いくことが出来ているのだけれど、




何かが足りない。




それが「自由だ!」と声高らかにセンゲンするものではなく、
何が足りないのかが分からないでいるのだ。
時折訪れる「空虚感」みたいなものは、その足りないものの
何かから由来している筈なのだ。



何が足りないんだ?


女か?そりゃあそうだわな。相当不足気味やって。

力か?いや、そんなもんいらんわ。

才能か?そんなのをひけらかす奴は大嫌いだ。







きっと、たぶん、おそらく、


「やさしさ」ではなかろうか?


「人にやさしく」というけれど、おれには
「やさしさ」というものがどういうものなのかを
いまいち理解できていないのだ。

誰かが困っている時に助けてあげるとか、
誰かが悩んでいる時に相談にのってやるとか、
誰かが道を踏み外しそうな時に叱咤激励してやるとか、

そういうことが「やさしさ」というものではないような
そんな気がするのだ。

なぜなら、
「〜〜してあげる」とか
「〜〜してやる」とか
そういうのは実は「偽善」ではないかと思うからだ。

よーするに、「おれの主観を押しつけている」のでは
ないかと思うのだ。



たしかに、おれは、おそらく周囲の人たちよりも
それなりに多くの苦労や辛いことや裏切りなんかを
味わってきた、と思う。

そして、そういうものを味わってきた人間こそが
ほんとうの「やさしさ」を知る、と囃し立てる。



そうではないのだ。

少なくとも、おれには分からない。

自分が味わってきた苦労だとか二度と思い出したくない記憶
だとか大勢の人間から裏切られたことだとか、
いちおうそういうものを乗り越えてこの年齢まで来ているけれど、

おれはやはり「やさしさ」を理解出来ていないのだ。







なぜなら、人の心の痛みに、おれは気づけていないからだ。


...




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