2010年08月20日(金) |
雲が広がっている。空一面。何処にもその割れ目は見えず。雲を透かして漏れてくる光のみ。それは柔らかい光で。何故だかほっとする。 ベランダに出て一番に目に映ったのは、紅い小さな小さな薔薇の花。あぁ、友人があの日くれた花束の花だ。そう思った。もちろん今目に映る花はそれよりももっと小さな小さな、本当に小さな花だけれど。間違いなくあの日貰った花の色だった。私はそっと指で触れてみる。柔らかな花びらの感触。ひんやり冷たい。よかった、本当に咲いたんだ。私はちょっと信じられない思いでその花を見つめる。こんなに短期間で根付いて、しかも花をつけるなんて。私が今まで育ててきたものの中で多分、一番早い。 改めてしゃがみこみ、ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解く。風がないから、ラヴェンダーの香りがふわんふわんと私の鼻腔をくすぐってくる。デージーは、もうこれが最後、最後、と言わんばかりに咲き乱れており。でもこれも、じきに、本当に終わりになるんだろう。葉はすっかり黄色くなってきている。 アメリカンブルーは今朝は三つの花をつけており。この灰色の空の下、その青色が鮮やかに映える。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。もうこの花も切ってやった方がいいかもしれない。今日帰ってきたら切ってやろう。私は心に小さくメモする。 パスカリの、葉を拭う。まだ指先に、小さな染みができる。いくらやっても終わらない気がする。でも、それを諦めたらそれこそもう終わりだから、私は飽きずに拭う。私が諦めるということは、虫が勝つということで。そればっかりは赦せない。自分に赦せない。 ミミエデンも、今はしんと静まり返っており。こういうとき、不安になる。次にちゃんと新芽が出てくれるのか、と。特にこのミミエデンは。これまで何度も枯らしてきているからなおのこと。 ベビーロマンティカのひとつの蕾、無事に開いた。何だか遅いと思っていたが、これも天候のせいなのか。分からないけれど。もうひとつの蕾はまだ小さく。私はその蕾も指で拭う。葉も、手が届くところは全部拭う。 マリリン・モンローは二つの蕾を必死に抱いており。きっと立つ母親のような姿をしている。でもまさに今そうなのかもしれない。この厳しい暑さは、マリリン・モンローにとっても思ってみない災難だろう。花をつけるのだって本当は至難の業かもしれない。人間にとって言ってみればそれは、子供を孕むようなものなんじゃなかろうか。だとしたら、毎回毎回、花を開かせるたび、マリリン・モンローはどれだけの労力を払っているのか。 ホワイトクリスマスはしんしんと、そこに在り。沈黙しながらそこに在り。でもその存在感はやはり大きい。凛と立つその姿が、私を励ましてくれる。 部屋に戻り、お湯を沸かす。ふくぎ茶を入れる。先日買って来たポットいっぱいに作っておく。これはお茶というより、ハーブティーなんだろうなと、飲むたびに思う。 机に座り、煙草に火をつける。そういえば昨夜、娘はちょっとおかしかった。やたらに私に絡まってきては、難癖をつける。それを繰り返し、繰り返し、していた。いい加減私が疲れたところで、勘弁してもらったが、するとぷいっと横を向いて、布団をかぶって寝てしまった。もっと相手をしてやらなくちゃならなかったんだろうか。私はしばしひとり、考えたが、もうどうしようもない。今日何処かで埋め合わせをしてやろうとは思っているけれど、あの子は何と言うのだろう、甘えっ子になるときとそうでないときとの差が結構極端で。私は時々、どっちに対応したらいいのか、迷うことがある。まぁそういうのも含めて、かわいいことに変わりはないのだが。 授業で一緒だったメンバーの一人と会う。その人が実際にカウンセラーとして動き出すためのホームページを、作って欲しいということだった。もともと絵描きでもあるその人は、ホームページについて何の知識も持ってはいない。だからかもしれないが、彼女が描いてきてくれたラフデザインは、ホームページで再現するにはちょっと困難なものが多く。でもまぁそれは、これから調整していけばいいかと、話を進める。 その方は、授業の受け方からしてとても積極的な方だった。ただ、何だろう、自分が健常者であることに酷くこだわっていて。その点で、私と違う方向を向いている人だった。たとえば、交流分析の禁止令のところで、私には禁止令はひとつたりともかかっていない、と、断言できるような方で。私はその正反対で。同じグループで分かち合いをしたのだが、互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかったのを覚えている。 でも、私は或る意味、彼女のような人を、羨ましいと思う。自分に災難が突如降ってくることなど、これっぽっちも信じていない。思ってもみない。その自信は一体何処から来るのだろうと、いつもぼおっとしながら考えていた。 彼女が突如、あなたって一体どうやって収入を得てるの? と尋ねてくる。あまりに唐突に尋ねられ、私は吹きだしてしまった。いや、私は私なりの伝を辿って、ひとつひとつ仕事を得ているだけの話で。じゃぁどれがメインなの? 別にどれをメインに置いているつもりもなく、できることだったら何でもやるっていういわゆる何でも屋の立場かも。そう言うと、目を丸くして、不思議そうな顔をしていた。私はそれ以上、詳しい説明をするのを省いて、にっと笑って誤魔化すことにした。 実は噂になっていたのよ、あなたって人は一体どういう人なんだろうって。みんなでお昼を食べるとき、たいていそういう話になっていたのよ、と彼女が続ける。私は苦笑してしまった。そんな話、私のいないところでいくらしたって、どうにもならないだろうに、と心の中思ったが、言わなかった。 本当に。いろんな人がいる。授業で一緒にならなかったら、私はきっと彼女との接点は何処にもなかっただろう。確かに彼女は絵を描き、私は写真を撮る。お互い表現する立場ではある。でも、多分そのスタンスは、全く異なるものなんだと、思う。 そんな彼女と夕刻まであれやこれやホームページのことで話し合い、別れる。 家に帰るとまた一仕事。性犯罪被害者サポート電話を始めるにあたって、IP電話を引こうと決めたのだが、この設置が私にはわけがわからず。一度繋がったかと思えば、突然切れる。切れたかと思えばまた繋がる。その繰り返しで、結局仕上がったのは夜になってしまった。これでもまだ、不安は拭えはしないが。とにかく使えるようにはなったらしい。 今のところ、私を含め、三人が立ち上げメンバーになりそうだ。何処までできるかわからないが、やってみるしかない。スタッフの紹介頁を作りながら、三人が三人、切実に、この件に向き合っていることを、確認する。
ママ、何でママは、そんなことしようと思うの? なんでって? だってさぁ、今仕事するだけで手一杯じゃん。なのになんで、そんなことまでしようと思うわけ? うーん、ママが病気になり始めた頃、そういう場所があったらどれだけ救われただろう、って思うから。なんでそういう場所があったら救われるの? なんていったらいいのかなぁ、藁にも縋りたい気持ちの時ってあるんだよ。でも、縋りたいけど怖い。また辛い目に遭うくらいなら、このまま黙って身を縮めている方がいいかもしれないって思う。でもね、本当は吐き出したいことがいっぱいあって、聴いてほしいことがいっぱいあって。だから、同じ被害者にだったら、話せることがあるんじゃないかって思うから。そんなにいっぱい被害者っているの? いるよ。たくさんいる。今この瞬間も、そういう被害に遭っている人は、いるんだよ。なんでそんなことになるの? なんで…人間が人間として在るかぎり、犯罪っていうのはなくならないんだよ。じゃぁ人間って最悪じゃん。うーん、この件に関しては最悪かもしれないけど、でもね、同時に、そうやって人間によって穿たれた穴は、人間によってしか埋められない、そういうものなんじゃないかと、ママは思う。じじに怒られるよ? きっと怒られるよ、おまえは何やってんだ!って。ははは。そうだね。だから秘密にしといて。えーーー。いいじゃん、ママとあなたの秘密にしといて。もう、しょうがないなぁ。じゃ、100円頂戴! えっ?! 100円?! 口止め料。えへ。何よー、まったくもう。いっつもお弁当やらジュースやら用意してる分だけで、ママのお財布、空っぽだよ! 冗談だよ冗談。うそうそ。いいよ、秘密にしといてあげる。うん。
それじゃぁね、じゃぁまた後でね、昼には合流ってことで。うん、わかった。玄関前、手を振って別れる。娘の手には、ミルクがしっかり握られており。ミルクは娘がぶんぶん手をふるたび、きっとぎょっとしていたに違いない。 自転車に跨り、坂道を下って信号を渡って公園へ。今日は何処か、蝉の声も静かに聴こえる。それがちょっと切ない。もうもしかしたら、秋の虫たちが何処かで音色を奏でているのかもしれない。私の耳にはまだ届いていないだけで。 池に映る空は、一面雲に覆われ。薄暗い朝。でも、あの肌を刺すような痛い陽射しよりは、ずっと心地よい。 六月に花盛りだった紫陽花は、すっかりもう色が変わり、くすんだ色のまま、くてん、とくっついている。このまま冬まで、静かに立ち枯れてゆくのだろう。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。変わりかけた信号を思い切ってダッシュで渡り、そのまま真っ直ぐ走る。モミジフウの脇を通って、海の公園へ。 灰色と深緑色を混ぜたような海の色。ばしゃん、ばしゃんと打ち寄せる波。弾ける飛沫。目の前を鴎がすうっと飛んでゆく。 さぁ、今日も一日が始まる。私はくるりと海に背を向け、再び走り出す。 |
|