2010年08月18日(水) |
何をしても汗が垂れてくる。シャワーを浴びようとタオルで拭おうと、次々、次々。もはや暑いとは感じないほど。何なんだろうこれは、と思いながら、窓の外を見やる。風は吹いているのだが、私の部屋にとっては方角が悪いのだろう、全然風が部屋に入ってこない。 娘は大の字になって眠っている。いつのまにか回転して、私の顔の方に足を向けて。つくづく思うのだが、私と彼女の体の作りは、どうやっても違うと思う。彼女は暑さにも寒さにも強い。私はとてもじゃないが、こんな暑い中、眠れそうにない。 起き上がって机に座り、煙草に火をつける。窓の外はまだ暗い。のっぺりとした闇が広がっている。 昼間に届いたCDをプレイヤーにセットする。それを聴きながら、ぼんやり考え事をする。 何となしにネットを徘徊していて、見つけてしまったのだ、見たくないものを。そのことが、頭の中、べったりとくっついて離れない。 加害者が今何をしていようと、私には関係ない。そう思ってきた。私の場合、直接的な加害者と間接的な加害者といるが、その両方とも、私にはもはや関係はないと思ってきた。思ってきたけれど。 情報を得てしまうと。たまらない思いが込み上げてきた。どうしてこの人たちは、こんなふうに平気な顔をして生きていられるのだろう。そう思えた。私がこんな状況に今まだあるのに、どうしてこの人たちは。 私が為したかった仕事にいまだに就いて、平然と本を出している。どうしてどうしてどうして。あんなことを為した人たちがどうして、平然とこんなふうに生活していられるんだ? どうしてなの? どうして?! その思いが、怒涛のように押し寄せて止まない。 そんな思い、抱くだけ無駄だと、もう分かっているはずなのに。この人たちに通じるわけがない、私の言葉など、通じるわけがないと分かっているはずなのに。それでも。 それでも、悔しい。たまらない。たまらなくてたまらなくて、この唇なんて噛み切ってしまいたくなる。 不公平だ。彼らはこうやって平然と、あの出来事から飛び立って、もはや知らぬ顔をして、平然と日々を営むことができているのに。私はどうだ? 被害者はいつだって、こうやって唇を噛むばかりなのか。こんな不公平なことって、ありか。どうしてなんだ。どうして。 意識を変えようと、私は、娘が100円ショップで買ってくれたマニキュアに手を伸ばす。ママに似合うよ、と選んでくれたマニキュアは、玉虫色のマニキュアで。普段私はマニキュアなど一切塗らない。塗らないのだけれど。 私はマニキュアの蓋を開け、左手の指から塗り始める。一本、また一本。できるだけその作業に集中して、浮かび上がってくるあの出来事にまつわる人たちの顔、顔、顔、を、拭い去るように、懸命にマニキュアを塗る。 左手が終わったら右手。右手が終わったらついでに足の指にも。塗って塗って、塗って塗って。全部塗り潰して。 塗り潰して、ふと、涙が出た。私はどうしてこんなにもこだわっているんだろう。どうしてこんなにこだわらなくちゃいけないんだろう。そう思ったら、涙が出た。ぼろぼろ、ぼろぼろ、止まらなくなった。 忘れてしまえばいい。過去なんだから、葬ってしまえばいい。何度そう自分に言い聞かせたことだろう。周りからも幾度、そう言い聞かされてきただろう。 それでも。 忘れられないのだ。自分の体を心を嬲り倒した奴らのことを。私の心を体をずたぼろにした奴らのことを。忘れられない! こんなに一生懸命、毎日を生きているのに。こんなに一生懸命毎日笑っているのに。こんなに一生懸命毎日を重ねているのに。それでも。消えない。消えてくれない! 思わず刃に手を伸ばしそうになって、慌てる。駄目だ、それじゃ繰り返しだ。もし朝起きてこの場所が血みどろになっていたら、娘がどうなるか。それじゃ同じじゃないか、奴らと同じになってしまうじゃないか、そんなの、嫌だ。娘の中にトラウマを作ることなど、私は決して望んでいない。 刃を放り投げて、壁に投げつけて、私は頭を抱えた。どうしてどうしてどうして。その言葉が、渦になって私の中、怒号を響かせていた。 どうやったら納得できるんだ。どうやったら私は。どうやったら。 こんな思い、もう抱きたくないというのに。こんな、やり場のない思い、抱いたって仕方がないってもう嫌というほど分かっているっていうのに。それなのに。 私はどうにも、これ以上、動けない。
白み始めた空の下。顔を洗い、髪を結う。ベランダに出て、空を見上げる。泣きはらした目には、どんな空も沁みる。 ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解く。ふと思う。こんなふうに、解くことができればいいのに、と。私の中のトラウマも、こんなふうに解いて、元に戻すことができればいいのに。思って、すぐ、それは無理な話だ、と苦笑する。 友人から貰った花束から挿し木した枝。赤い蕾をつけている。それは血の色より切ない赤で。私はそっと指先で、その花を撫でる。無事に咲いておくれ。その祈りを込めて。 パスカリの一本、ちょっと様子がおかしい。葉が縮んでいる。水が足りないんだろうか。そんなはずはないのだけれど。思いながら、でも、こんなに暑い日照りが続いているのだから、仕方ないのかもしれないとも思う。このまま枯れてしまわなければいいのだけれども。それだけが、心配。 ステレオからはCoccoの「十三夜」が繰り返し流れている。その音を聴きながら、私はもう一本のパスカリを見やる。横に伸びている枝葉。もう少し伸びると、窓にぶつかってしまうなぁ、と思うのだが、今その枝を切るわけにはいかない。その先に、花芽がつくかもしれないから。しばらく様子を見守るしか、なさそうだ。 ミミエデン。薬をかけられたせいもあるんだろう、何処か元気がない。でも、虫はいなくなったようで。それだけがせめてもの救い。また新しい葉を出してくれることを、待つばかり。 ベビーロマンティカは、ひとつの蕾が開き始めており。今日がまた昨日のような天気なら、あっという間に開いてくるだろう。帰ってきたら切り花にしてやろう。私は心にメモをする。もうひとつのつぼみはまだ、固い。 マリリン・モンローは二つの蕾をしっかり抱いて立っている。真っ直ぐ、真っ直ぐに。どうして私もこんなふうに、真っ直ぐに立てないんだろう。いつまでもこうやって、足を取られて、何処にも進めないでいる私は、なんて情けないんだろう。 ホワイトクリスマス。根元から伸ばし始めた枝が、もうだいぶ高さを持ってきた。今ここから見つめていると、その枝の先は、向こうから伸びてきた光の中に溶けてゆくかのようで。切ない。いや、切ないのは、私の心の中、だ。きっと。 部屋に戻り、お湯を沸かす。レモン&ジンジャーのハーブティーを、できるだけ丁寧に入れる。こういうときは、こうやって、日々繰り返していることを、丁寧に丁寧に、やって積み重ねていくに限る。そうやって、自分を日常に戻してゆくほか、術はない。 もういい加減泣き止んで、顔をさっぱり洗って、笑う練習をしておかないと。娘に勘付かれる。ママ、どうしたの、と問われても、私は今、答えることは、できない。
娘に頼まれたツナサンドを作る。胡瓜たくさんの、ツナサンド。マヨネーズと塩胡椒で味付け。ついでにトマトを薄切りにしたものも、挟んでおく。娘の口に合うかどうかわからないが。 なかなか起きてこない娘の顔に、ミルクをとてんと乗せた。娘は途端に起き上がり、ミルクゥ、おまえはおデブだねぇ、と言い始める。思わず笑ってしまう。ほら、早く起きなさい。朝はしゃっきり起きるものだよ。私は彼女に声を掛ける。そう、朝はしゃっきりと。私は改めて、背筋を伸ばす。
じゃぁね、それじゃぁね。ちゃんと宿題やるんだよ。ママも頑張りなよ。わかってるって。手を振って別れる。 階段を駆け下り、自転車に跨って走り出そうとすると、上から声が降ってくる。じゃぁねぇ! 娘だ。私は大きく手を振り返す。 坂道を下り、信号を渡り、公園へ。蝉時雨を浴びながら、つい思ってしまう。私の人生の時間が、おまえたちほどだったなら、私はもうちょっと、楽になれたかもしれないのに、なんて。あり得ないことだと分かっていながら、つい。そもそもそんなことを思うこと自体、蝉に対して申し訳ない。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。強い陽射しが東からざんざん降っている。逃れようのない陽射し。容赦ない陽射し。私はその下を、自転車で走る。 何もかも、飛んでいってしまえ。日に焼かれて消滅してしまえばいい。無駄なことと知りつつ、そんなことが頭に浮かぶ。 泣いても笑っても、結局、私の中にはこのお化けがとりついているんだ。どう日々を丁寧に生きようと、このお化けは私の中、巣食って離れてはくれないんだ。それが、たまらない。たまらなく嫌だ。 それでも私は、生きていかなくちゃならない。どうあっても。
さぁ、一日はもう始まっている。私はただひたすら、自転車を漕ぐ。 |
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