見つめる日々

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2010年08月17日(火) 
今年もまた、奴らの季節がやってきた。私の大切な薔薇に憑依しようと、あちこちからやってくる奴らの季節が。マンションの廊下を歩いていると、階段を歩いていると、あちこちに転がっている奴ら。私は見つけるたび、もはや何の感情もなく、奴らを足で踏み潰す。
乾いた音が一瞬、そこいらに響く。くしゃっ、或いは、かしゃっというその音。その一瞬で奴らの命が終わる。私はその一瞬、自分の胸がぐしゃっと痛むのを感じる。感じるが、どうしようもない。喰うか喰われるか、それしかない。奴らが先に憑依するか、私が先に奴らを殺すか。それしかもう、ない。
奴らを見つけるたび、私はまるで、無感情の殺人鬼になったような気持ちにさせられる。私のサンダルには、奴らの怨念がべったり貼り付いているような気さえしてくる。それでも、私は見つければ奴らを踏み潰さずにはいられない。それが、何より腹が立つ。
いや、本当は、哀しいのだ。とても哀しい。どうしてこんなことになっているんだろう、世界は、と、世界の仕組みを呪わずにはいられなくなる。奴らが薔薇の根を喰わなければ、私は奴らとこんなふうに張り合う必要はないというのに。どうして世界はこんなふうになっているんだろう。
ホワイトクリスマスの蕾がぼわっと咲いた。一気に咲いた。あぁ、と思って近寄ったら、そこに奴らがいた。花の中心で、交尾している。私は愕然とした。せっかく咲いたと思って近寄った瞬間、奴らがいたのだ。たまらない。指で直に掴むこともできず、私は慌てて部屋に戻り、ビニール袋を手に被せ、奴らを薔薇の花から引っぺがす。そのままビニールに包んで、私は足で、やっぱり足で、奴らを踏み潰す。嫌な音が響く。耳の内奥にべったり、こびりつくように。
あぁもう嫌だ。こんなことは嫌だ。そう思うのに、どうしようもない。私はどっと疲労に襲われ、崩れ落ちるように床にぺたり、座り込む。
ひとつの命を救うために、幾つもの命を奪ってゆく自分のこの足。この足は一体何様なんだろう。何者なんだろう。殺めるためにここに在るわけじゃあるまいに。それでも私は踏み潰すのだ、奴らを見つければ、容赦なく。そのたび現れる哀しみを呑み込み、知らぬふりをしながら。
友人から電話があったのは夜。自分から掛けて来たのに、早々に切ろうとする友人。でも、今私が何か言っても、多分余計なことになってしまう。そんな気がした。ひどく気になりながらも、私は黙って切った。また日を改めて、彼女に電話をしよう。心のメモに、そう記して。
友人とはもうどのくらいのつきあいになるんだろう。私がもう考えてみれば十年を越える。面長の顔に、真っ直ぐの目を持った友人。私は彼女が好きだ。たまらなく好きだ。理屈を抜きにして、私は彼女が好きでたまらない。別にしょっちゅう連絡を取り合うわけではなく。でも、要所要所、振り返れば彼女が在る。
遠慮なく、私の腕の傷痕を、それは普通に見て怖いよ、と言ってくれるのは、彼女くらいだろう。私はそんな彼女の声に、いつも励まされる。
でも、彼女には暗い暗い穴がある。いつの頃からから生まれた穴ぼこ。それは底なしの穴のように彼女を蝕んでいる。
彼女が穴から這い出ようとするたび、穴は彼女の足を捕え、再び穴に引きずり戻す。だから彼女は、疲れてしまう。もういいよと何もかもを放り出したくなってしまう。
私は彼女の後ろに広がるその穴に、触れていいのかどうか、まだ分からない。分からないけれど、もしその穴が彼女を呑みこもうとするならば、私は必死で彼女の腕をひっぱるだろう。どうやってでもひっぱって、こちらに引きずり戻そうとするんだろう。私にとって彼女は、そういう存在だ。
私がどうしようもなかった頃、彼女はただ、そこに在てくれた。ただそこに在て、待っていてくれた。それがどれほど大きな存在だったか、彼女は知っているんだろうか。私にとってそれが、どれほど大きな光だったか、彼女は気づいているだろうか。
気づいていようといまいと、私にとって彼女は、かけがえのない存在に変わりはない。私は、何となく、壁に貼り付けてある彼女の娘と私の娘とが並んで写っている写真を見やる。二人とも大きな笑顔で、はじけんばかりの笑顔で、そこに在る。
ベランダに出て、空を見上げる。薄い水色の空が、ほんのりそこに広がっている。風は緩く、だからかもしれないが、湿気を強く感じる。
ラヴェンダーのプランターの脇、しゃがみこんで、絡まり合ったデージーとラヴェンダーの枝葉を解く。いつのまにかこんなにもデージーの葉が茂っていた。細い細い、糸のような枝葉。でもこれが厄介なのだ。雀の巣のようになってしまう。だから私は、毎朝毎朝、こうして解きにかかる。
友人がくれた枝を挿したものの、蕾に色が見え始めた。あぁ、赤色だ。私は何となしに微笑む。赤色が生き残ってくれたのか。あともう一本は何色なんだろう。こちらはまだ花芽をつけていないから分からないけれども。友人に早速知らせよう。
隣のパスカリの枝葉を見つめていて、はっとする。嫌な感じ。まだ葉の表側に異常はないけれど。やっぱり。私は慌てて農薬を撒く。葉の裏側中心に薬を撒いて、次いで指で葉を拭う。これは一体何という虫なんだろう。私は知らない。母に聴いてみないと。
ミミエデンも続けて見つめる。続けて拭っていたのが功を奏したのか、今朝は比較的いい感じだ。でも。
その隣のベビーロマンティカに、移行していただけだった。私は思わず舌打ちする。何てこった、ベビーロマンティカにまで広がるとは。私は薬を吹きかけ、指で葉を拭ってゆく。それでどうにかなるものなのかどうかも分からないけれど、今はそれしか術が思いつかない。今ベビーロマンティカには二つの蕾もあるし、新芽もあちこちから吹き出しているし、これ以上これが広がったらとんでもないことになる。私は丹念に、とにかくあやしいところは全部、指で拭ってゆく。私の指は、あちこちの棘に傷ついて、いつのまにか赤い血が滲み出している。でもそんなことはどうでもいい。とにかく手当てをしないと。
マリリン・モンローの方は無事のようだ。よかった。でも油断はできない。これから気をつけて見ておかないと。二つの蕾は、徐々に徐々に膨らんできている。蕾にまで影響はないとは思うが、それでも。
何だか今朝はベランダの作業だけでぐったり疲れた。アメリカンブルーが五つの花を揺らしている。それだけが救いかもしれない。
部屋に戻り、お湯を沸かす。レモン&ジンジャーのハーブティーを作る。それを持って机に座り、取り掛かっている作業の続きをする。
娘はといえば、枕とは逆向きに寝っ転がって、ぐーかーいびきをかいている。起きるまでまだ時間はある。やれることを済ませておかないと。私は背筋を伸ばし、モニターに向かう。

郵便局でそれ用の口座を作れることは分かった。あとは明日の電話工事を待って、それからだ。果たして誰かの役になんて立てるんだろうか。性犯罪被害者のサポート電話なんて、本当に役に立つんだろうか。分からない。分からないけれど。
できることからやっていくしかない。
ふと、父の嘆く顔が浮かぶ。おまえはまたそんなくだらんことを、という顔。私は心の中、小さい声で、ごめんね、と謝る。それでも私には、こういうことしかできない。

いつまでも眠っている娘を叩き起こす。彼女が準備をしている間に、私は弁当を作る。卵のサンドウィッチ。ゆで卵を潰した中に、胡瓜を細かく切ったものを混ぜて、マヨネーズと塩胡椒で味付けして。簡単簡単。
ほら、行くよ、と声を掛け、私はゴミ袋を持って外に出る。慌ててついてきた娘が、そのまま階段を駆け下りていく。それを追うように私も駆け下りる。
二人して自転車に跨り、坂道を下る。信号を渡って公園へ。
何人かの散歩の人が、めいめい樹を見上げている。私たちもそれに習って樹を見上げると、ちょうどそこで、蝉の羽化が始まっていた。
ママ、喋っちゃ駄目だよ。うん。すごいね、透明だね。うん。今鳥なんかが来たら、いっぺんでやられちゃうよ、どうする? しっ、黙って。
どのくらいそうしていたんだろう。私たちの目の前で、蝉は殻を脱ぎ捨てた。じっと樹にしがみつき、体が乾くのを待っている。気づけば私たちの周りは蝉の声だらけで。もうあちこちの樹から、蝉の声が降り注いでおり。
ママ、蝉って、命が短いこと、知ってるのかな? どうだろう。命が短いから、こんなに必死になるのかな? 知っていても知らなくても、生きてる者はいつでも、必死だよ。そうなのかな、だったら人間が、怠け者ってことなのかな。ははは。どうだろうね。
再び私たちは自転車に跨り、大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。いつもとは逆の方向へ走る。海と川とが繋がる場所。水は灰色と緑色を混ぜたような色合いで。そこに、水母がぷかり、ぷかり、浮いている。さらにそこを越えて、三角公園へ。ベンチに座る老人が、群がる鳩に餌をやっている。私たちはそれを、後ろの方からじっと、眺めている。
ママ、朝って忙しいね。ははは、そうだね。私たちはさらに、目的地へ向かって走り出す。
さぁ、もう一日は始まっている。しかと歩いていかなければ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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