2010年08月16日(月) |
痛い、と思って目を覚ますと、私の顔のすぐ横に娘のでかい足が。やられた、と思いながら私はひとつ溜息をつく。ねぇ痛いよ、と言いながら娘の足をぱちんと叩く。これくらいやり返すのは、赦されるだろう。 何度か寝返りを打ち、でも戻ってこない眠りを諦め、起き上がる。白み始めた空。私は窓を開け、ベランダに出る。 薄い雲が空のところどころに浮かんでいる。この分じゃ、今日も暑くなるのだろう。思いながら私は大きく伸びをする。風もまだ殆どない朝。昨日の夜干した娘の洗濯物も、じっと垂れ下がっている。 私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーとラヴェンダーの絡まり合った枝葉を解いてゆく。風がないせいだろう、いつもよりずっと、ラヴェンダーの香りが濃く漂ってくる。私はその香りを、ゆっくりと吸い込む。 パスカリの蕾たち。まだまだ小さなその蕾。でも確かにそこに在る。そこに在るということが、私を励ます。頑張れ、もうちょっと大きく膨らんでおくれ。私は心の中、声を掛ける。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。こちらもまた小さな蕾をつけている。この炎天下、しんどいだろうに。それでも一生懸命蕾を守って立っている。私はこちらにも、踏ん張れよ、と声を掛ける。 友人から頂いた枝を挿したもの。蕾をぴんと空に向けている。まだその花びらの色は分からない。何色が咲くのだろう。気になって気になって仕方がない。 ミミエデン。今朝も私はその葉の裏を指で拭う。今朝は昨日ほど茶色い染みはつかず。少しずつでもいい、害虫がいなくなってくれればそれでいい。私は丹念に、指で葉を拭う。 ベビーロマンティカ。二つの蕾をつけて、あちこちから新芽を吹き出させている。なんだか今朝はひそひそ話をしているかのように見える。風も吹かない朝、ひそひそ、ひそひそ、小さな声で。 ホワイトクリスマスの蕾が綻び始めた。思っていたよりもずっと早い。だからかもしれない、ちょっと花は小さめだ。それでも、咲いてくれることに変わりはない。嬉しい。 マリリン・モンローは、まだその蕾を固く閉じており。でも、見るごとに少しずつ膨らんできているのが分かる。 アメリカンブルーは今朝、三つの花を咲かせている。この花は早起きだ。私よりずっと。一体いつ花を開かせるんだろう。それが知りたい。 私は部屋に戻り、お湯を沸かす。レモン&ジンジャーのハーブティーを入れることにする。少し濃い目に入れて、氷で割る。瞬く間に溶けてゆく氷。少しぬるめのハーブティーのできあがり。 私はそれを持って、机に座る。昨日始めた作業の続きに取り掛かる。数年前に撮った写真、「緑破片」と私は名づけた、その写真群。たまたま私の緑色のワンピースを彼女が着て撮ったせいかもしれない。いや、季節がたまたま、緑溢れる季節だったからかもしれない。どちらか分からないけれども、緑の印象があって。そしてまた、破片というのは彼女だ。粉々に砕けた破片。性犯罪被害とDVの被害を受けてもなお、必死に生き延びる彼女の象徴。 改めて写真を見ていて、彼女は生きているのだなということを、痛いほど感じる。それは当たり前のことに見えるかもしれないが、決して当たり前なんかじゃない。彼女が一分一秒、必死になって越えてきているからこそ、在るものだ。当たり前なんかじゃ、決して、ない。 ねぇさん、どうしてみんな、私に、頑張れだとか何だとか、言ってくるんだろう。私もう精一杯頑張ってるのに。彼女が以前言っていた言葉だ。本当にそうだと思う。殺されるかもしれないという時間を越えて、それでもはいつくばって、必死に生きている彼女に、どうしてこれ以上頑張れなんて言えるのか。 彼女の体は、傷だらけだ。私とはまた違う傷。腕だけじゃない、あちこちに、在る。彼女が生き延びてくるために必要だった傷痕。 ねぇさん、こういうことが、突然降って来るってこと、みんな知ってるのかな。きっとみんな、自分にはあり得ないって思ってるよね。私だって、自分の身の上に起こるまでは、きっとそう思ってた。でも、自分の身にそれが降りかかって、分かったんだ。これは、どこにでも起こり得ることなんだって。DVの被害も、性犯罪の被害も、ね。 そう、誰も望んでそんな被害に遭うわけじゃない。思ってもみないところで、思ってもみない形で、突如襲い掛かってくるのだ。 襲い掛かられてから慌てたって、もう声なんて、出なかったりする。抗おうにも抗えなかったりする。その現実を、どれだけの人が、自分の身に置き換えて考えているんだろう。多分、ほとんど、いないんじゃないか。 強姦のドラマも、DVのドラマも、テレビで放映されたことがある。でも、それを、現実にあり得ることとして、わが身に起こり得ることとして捉えていた人は、どのくらいいるんだろう。 膝を抱えて、夜、語り合った彼女の顔を、改めて思い出す。私たちにとってもうそれは、日常で。みんなが起こり得ないと思っていることに襲い掛かられた私たちの日常は、一分一秒を生き延びることが、もうそれだけで必死で。 でも、それでも、容赦なく周囲から言われるのだ。「もういい加減昔のことなのだから忘れなさい」「もう過去のことなのだから」「頑張らなきゃだめでしょ」などなど。 そのたび、私たちはさらに、傷つくのだ。どうしてこれ以上頑張れるのだ、と。今すでにもう十分頑張ってるじゃないか。どうしてそれが伝わらないんだ、と。 でも。 伝わらないんだ。 悲しいことに。 みんな「過去」にしたいから。そういった記憶はさっさと過去にして、蓋をしてしまいたいから、見ないで済むなら見たくないから。みんなそうやって、さっさと先に歩いていってしまう。 取り残されて、私たちはさらに取り残されて、ぽつり、ひとり、膝を抱える。 ねぇさん、私、頑張ってるよね。 そう言った彼女の声が、私の耳から、離れない。
娘が帰って来た。従兄弟たちと十二分に遊べたらしい。天気は悪かったけれど、その中で存分に遊べたのだろう。日焼けした顔がそう物語っている。 ママ、ミルクもココアも、みんな、デブになってる! え? ママ、餌やりすぎたんじゃないの? ええ、そうなの? だってみんな、デブになってるよ、ほら。うーん、ママ、わかんない。ミルクなんて、顔までたぷたぷになってる。どうすんのー?! し、しらないよ。ママのせいじゃないって。あーあ、また運動させなきゃ。 娘の高い声が部屋中に響き渡る。私はその声を、遠巻きに眺めている。
じゃぁね、それじゃぁね。ママが病院行ってる間、しっかり復習やっときなよ。わかってるってー。手を振って別れる。玄関前。 私は階段を駆け下り、バスに飛び乗る。いつもよりは空いているバスの中。ぼんやり車窓を見やりながら、駅へ。 それでも、女性専用車両があることは、助かる。お盆休みをまだ取っている人がいるはずでも、混みあう電車。私は専用車両にさっと乗り込み、扉に一番近い場所に立つ。そこが定位置。 電車が川を渡ってゆく。水嵩がずいぶん増している。それだけ上流では雨が降っているということなんだろうか。春に撮影に来たとき走った場所は、今、水の中。 やりたいこと、やらなきゃいけないこと、山積みだ。しっかりこなしていかないと。ようやく駅に着いた電車から、私は駆け下りる。 さぁ、今日も一日が始まる。 |
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