見つめる日々

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2010年07月25日(日) 
なかなか寝付けないまま夜が更けた。気づけば午前一時。このまま一睡もせず朝を迎えるのでは絶対まずいと、頓服を呑む。麦茶を一杯、ついでに飲んで、再び横になる。なった途端、蚊のぶぅぅんというあの嫌な羽音を聴いてしまい、慌てて線香をつけ、窓も半分に閉める。
その、蚊の音がいけなかったのか、嫌な夢を立て続けに見る。うんうん唸っているうちに午前二時、三時と時間が過ぎてゆく。眠らなければという焦る気持ちと、眠れないことへの苛立ちが両方極まって、余計に神経が昂ぶってゆく。いっそのことと一度起き上がり、深呼吸をひとつしてみる。そうして再び横になり目を瞑る。
午前四時半、目が覚める。短い時間だったけれど熟睡できたんだろうか、変な体の強張りはなく。すんなり起き上がる。起き上がるとミルクがその気配を察し、ぐわっしと籠の入り口のところに齧り付き、がりがりと音を立てる。おはようミルク。私は苦笑しながら声を掛ける。でも。あなたを外に出すのは、私は怖くてできないの。ごめんね、とさらに声を掛ける。ごめんね、謝りながら、切なくなる。こんなに必死に、出して出してと言っているのに、抱いてやれない私って何だろうと思う。
そういえば、娘は赤子の頃、昼間は泣く子じゃなかった。よほどのことがなければ泣かなかったような記憶がある。代わりに、夜泣きが酷かった。突如闇を切り裂くような泣き声を上げる。私はあまりの声に吃驚して飛び起きる。そうして、恐る恐るベビーベッドの娘を見やる。娘はもう、一心不乱に泣いている。私は、こわごわとその娘を抱き上げ、あやす。そのくらいじゃ絶対泣き止まない娘。しばらく抱いているのだが、一時間もすると腕が痺れてくるから、今度は抱っこ紐を使って体に娘を巻きつけ、部屋をてこてこ歩き回る。すると、ようやくひっくひっくと声は止んでゆき。娘はうとうとし始める。でも、ここで寝床に戻すと、さらに火がついたように泣くのが常で。だから私はさらに二時間ほど部屋をひたすら歩き回る。冬の遅い夜明けが来る頃、ようやく彼女を寝床に戻し、私はぺったりと床に座り込む。
夜泣きの子供を木箱に閉じ込め、窒息死させてしまうというニュースが耳に入る。木箱で泣き声は防げたんだろうか。それとも、木箱に閉じ込めることで、もうその存在はなかったこと、としてしまっていたんだろうか。私には分からない。いや、分かってはいけない気がする。
娘の夜泣きは、離婚してもさらにしばらく、そう確か彼女が四歳くらいになるまで続いた。私はただおろおろてこてこ、彼女を抱いてひたすら部屋を歩き回る日々で。そんな毎日は、睡眠時間などほとんど無いに等しかった。等しかったが。そういうものなのだと思っていた。誰かに教えてもらったわけでも何でもないが、娘が泣くのは当たり前で、それはいつかきっと止むに違いないと、そう信じて、止むときを待っていた。
保育園も年長さんになる頃、彼女は自然、泣かなくなった。小学校に上がれば、昼間動いてくる分、彼女の熟睡度や睡眠時間も増えていった。あぁ、これが止み時なんだなぁと思ったことを、今でも覚えている。
耐えられなかったのは、彼女が泣くことよりも、泣いている彼女を私が投げ捨ててしまうかもしれないという恐怖が私の中に巣食っていたことだった。もしかしたら私は、彼女を傷つけてしまうかもしれない、投げ捨ててしまうかもしれない、そういうことに対する恐怖を、私がすでに抱いている、というそのことが、何より恐怖だった。虐待は連鎖する、というその呪文のような言葉が、ぐるぐると私の中で渦巻き、私を呑みこんでゆくようで、本当に本当に恐ろしかった。その連鎖にだけは、巻き取られたくないと、必死に抵抗していた。
もっと正直に告白すれば、赤子の彼女を抱き上げる、おむつを替える、ミルクをやる、あやす、すべてのことに対して、私はこわごわやっていた。いつ私の中に在るかもしれない虐待の芽が、ぶわっと吹き出て私を呑みこんでしまうことか、と、いつもいつも、そのことに怯えていた。虐待は連鎖する。虐待は連鎖する。あなたのような人は母親の資格は無い。妊娠中に言われ続けた、周囲から言われ続けた言葉が、私の中で大きく大きく木霊して、私はいつもその声に怯えていた。
今でこそ、私は、虐待は連鎖するものでも何でもなかった、と、ちょっと自信なさげにではあるが、言うことはできる。でもあの頃は。あの頃はとても、言えなかった。
娘がここまで無事に、育ってくれて本当によかった、と、最近つくづく思う。と同時に、ふとした時、彼女にも突然降ってくる災害があるかもしれないことに、怯える。私があの被害に遭ったように、彼女もまた被害者になる可能性がある、いや、加害者にだってなる可能性もある。それはもう、誰にも分からないことで。だからこそ、いつもその危険と背中合わせに自分らが生きていることを、思う。
白んできた空を見上げながら、ベランダに立つ。風が弱い。だからなのか、湿っぽい蒸し暑さがどよんと肌に纏わりつくのを感じる。街路樹の葉群れも、さやさやとは揺れない。その程度の風しかない朝。
私は桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹を見つめる。二つ目の花が咲きかかっている。桃色のきれいな花びらがほろり、綻び始めている。私はプランターの前にしゃがみこんで、じっとそれを見つめる。この花は、何処か日本的で。かわいらしい。
パスカリの、根元から新芽を出し始めた樹。にょきにょきとたった一日のうちに五センチほども枝を伸ばしている。なんて早いんだろう。私はちょっと呆気に取られる。でも、嬉しい。今までずっと沈黙していた樹がこうして動き始めてくれることを知ることができるのは、本当に嬉しい。
もう一本のパスカリ、花芽をつけている方も、根元から二本の新しい枝をにょきにょきと出してきている。赤い縁取りのある新枝。蕾は蕾で、またひとまわり、大きく膨らんできている。もう早々と、真っ白な花びらの色を垣間見せている。さて、これはちゃんと、全身白く咲くんだろうか。それともやっぱり、白と黄色のグラデーションを見せるんだろうか。
ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解いてやる。ラヴェンダーの香りが漂ってきて、私の鼻腔をくすぐる。デージーはまさに花盛り。一体いつまでこうして次々花をつけ続けてゆくのだろう。このエネルギーは一体何処から沸いてでてくるんだろう。こんなか細い体から。
アメリカンブルーは、今朝も二つの花を開かせており。青く青く、青く青く。目の覚めるような青がそこに在る。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、それぞれに、新芽の塊を湛えており。昨日よりさらに表に姿を出してきたその塊を、私はじっと見つめる。大丈夫、樹は確かに生きている。そのことが、嬉しい。
ベビーロマンティカは、三つじゃなく、もう四つ目の蕾もつけており。本当にこの樹は元気だ。止まることを知らないかのようだ。今朝もぺちゃくちゃおしゃべりしている葉たちに、私は耳を澄ます。彼らの言葉を私が理解できたら。きっともっともっと楽しいんだろうに、と思う。
ミミエデンは、紅色だった葉が少しずつ、緑色に変化していっている。葉脈に沿って、緑色が広がっていっているのが分かる。最後まで残る紅色はだから、縁の方で。あぁ、あと数日もすれば、この葉はすっかり緑色に変化するのだろうな、と思う。
昨日久しぶりに会った友人は、再会した幼馴染の話をいろいろ聴かせてくれた。よほど再会が嬉しいのだろう、その話をするときの彼女の顔は本当にやわらかく、明るく輝いている。こんな表情をする彼女を、私はどのくらいぶりに見るのだろう。本当に楽しげで。だから耳を傾けている私も、なんだか楽しくなってきてしまう。
結局、朝から夜までずっと話尽くめで。別れる頃には月がぼんやり高みに浮かんでいるのが見えるほどで。私たちは手を振って別れる。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。マグカップを持って机に座り、とりあえず一服。そうして私は朝の仕事に取り掛かる。
相変わらず風は弱く弱く流れており。カーテンは揺れもせず。ただ椅子に座って作業しているだけだというのに、私はあっという間に汗だくになってゆく。

電話が鳴る。娘からだ。ねぇママ、今日は三時か四時頃には帰れるからね、いい? 了解。待ってるよ。うん! 短い電話だけれど、それだけで私の中、力が沸いて来る。
よし、私も活動開始だ。鞄を肩に引っさげて、玄関を出る。階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を下って信号を渡り、公園へ。昨日以上に蝉の声がどしゃっと上から降ってくるのを感じる。私はその蝉の声にまみれながら、池の端へ。真っ直ぐ立って、上を見上げる。ぱっくり開いた茂みの向こうには、白っぽい空が広がっている。池はその陽光を受け、きらきらと輝き。蝉の声はさらに大きくなって、私の耳でわんわん木霊する。
公園の中の坂道を下り、大通りへ出て、高架下を潜り、埋立地へ。
今日は休日とあって、出勤する人ではなく、ランニングをする人たちと多くすれ違う。みんな黒く焼けた肌をして、目は前方を凝視し、一定のリズムで走っていく。私は彼らの邪魔にならぬよう、道の一番端っこを走り抜ける。
さぁ、今日も一日が始まる。やることは山ほどある。しっかりこなしていかなければ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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