見つめる日々

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2010年07月26日(月) 
夢の中で、猛烈に熱さを感じる。何だろうこの熱は、何なんだろう、と唸って目を覚ますと、私の腹部に娘の頭がぴたっとくっついており。熱い、猛烈に熱い。思わず娘のおでこに手をやる。熱は全く無い。しかし、熱い。私は思わず小さな溜息をつく。子供の体というのは、どうしてこんなにいっぱいの熱を発するんだろう。まさに熱の塊だ。それに比べて私の体といったら。娘に比べたら冷たいくらいだ。同じ生きた人間だというのに。
起き上がり、窓を開ける。ぬるい空気がぺったりと横たわっている。風がない。もう白み始めている空の下、私は大きく伸びをしてみる。纏わりついてくる空気の熱。何処へ行ってもぺったりとくっついてくる。でも、数日前よりは、まだまし。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターの中を覗き込む。ラヴェンダーとデージーは今朝もやっぱり絡まりあっており。私はひとつずつ、それを解いてゆく。それにしても、ラヴェンダーはずいぶん長く伸びてきた。そろそろ一度長すぎる枝を切ってやる必要があるかもしれないと思うほど。本当に、種類によって同じラヴェンダーでもずいぶん違うものだ。母の庭にはこれと同じ種類と、あともう数種類あるが、たいがいはまっすぐしゃんと伸びて、てっぺんに花を咲かせる。あれが束になって咲いていると、本当に美しい。デージーはデージーで、次々花を咲かせている。こんなに強い花だとは、私は全く知らなかった。母の言っていた通りだ。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。咲いた花が二つ、ぽろん、ぽろんとついている。咲いても丸いのは変わらず。まさにぽろん、ぽろん。もう一つ蕾があるが、まだこちらは開いていない。
パスカリの、根元から新芽を出した樹。赤い縁取りのある緑の芽。くいっくいっと伸びてきて、もう五センチを越えた。他のところからは全く新芽の気配はない。
もう一本のパスカリ、蕾のついている方の樹。蕾はまたひとまわり大きくなり。根元から二本の枝葉が伸びてきている。一本は隙間から伸びてこれるだろうが、もう一本はどうだろう、横に広がった枝の下から生えてきている。これはだいぶ上まで伸びないと、日を浴びることができない。どうしよう。ちょっと悩む。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。しんしんとそこに在る。まだまだ固い新芽の塊。でも間違いなくほんのちょっとずつ、前へ前へと出てきている。
ベビーロマンティカは、私が気づかなかっただけで、葉の影に二つ、さらに蕾が生まれていた。合計五つ。そのうちの一つはもう綻び始めている。煉瓦色と黄色を混ぜたような色合い。新芽もこんもり。本当に元気な樹だ。
ミミエデン。新葉の色が、徐々に徐々に緑色に変わってきている。不思議なグラデーション。紅色から緑色へ。古い歪んだ葉を囲うように、広がってきた新芽。これなら歪んだ葉を摘んでやっても大丈夫かもしれない。今日帰ってきたら摘んでやろう。
アメリカンブルーは、二つ、今朝も新しい花をつけてくれた。染み透るような青。私はその色をじっと見つめる。見つめていると、まるでそこに、小さな海があるような気がしてくる。深い深い、海の底。
洗濯機を三回回す。一回目はシャツやらスカートやら。二回目は下着。三回目はタオル。順番に洗ってゆく。それにしても。今度注意しなければ、と思う。娘がまた、下着や靴下を丸めて出すようになった。丸めて出したら洗わないよ、と言ってあるのに。今度やったら机の上にそのまま洗わず戻してやろうと決める。
洗濯物を干し、それから原稿に向かう。少し前から、とある書類を書いているのだが、なかなか書き進まない。というのも、自分のことを書かなければならないからだ。それも自分を紹介する、というもの。私はこういうのが大の苦手だ。自分のやっていることを、こう、何と言うのだろう、外にアピールするということが、苦手なのだ。黙ってやってりゃいいじゃないか、とつい思ってしまう。でも、それじゃぁいけない。
ふと、喉が渇いて飲み物を作ることにする。友人が以前くれた梅ジャムがあと一回分くらい残っていたはず。思い出して、その梅ジャムをカップに入れ、少なめのお湯で溶き、そこに思い切り氷を入れる。ただそれだけ。ただそれだけの即席梅ジュース。でも、おいしい。
梅ジュースを飲みながら、煙草を一本くゆらす。ふと、先日会った友人と話したことを思い出す。何かの拍子に、友人が、記憶に突き刺さった死の話をしてくれた。その話を聴きながら、私は私なりのそうした記憶を辿っていた。高校の時だった。友人のお兄さんが行方不明になり。みんなで探していたら、車庫の中で首を吊っていたのだった。また、私が東京方面になかなか行けない理由のひとつに、とある駅で、友人が目の前で電車に飛び込んだ。あの時、片付けられてゆく遺体を、私はぼおっと見つめていた。でも、耳たぶだけがひとつ、ぽろんと線路に残っており。あぁ、お願い、耳たぶもちゃんと拾って、と心の中で叫んでいた。あれは、今でこそ淡々と思い出すことができるが、二十年近く心にちくちく刺さっていた。思い出すとぎゅっと胸を鷲掴みにされるような痛みを覚えた。
私はあれこれ思い巡らしている心の一方で、書類と睨めっこしている。「あの場所から」という活動で、何故写真というものを取り入れたのか、と尋ねられた。改めて思い返せば。私はただ、必死だったのだ。私にとってできることが、写真しかなかった。外と繋がるものが、写真しかなかった。そう、外界と繋がる術。私にとって当時、それは、写真しかなかった。外へ向けて発信したいと思った時、だから私は、写真という術しか思いつかなかった。
何といえばいいのだろう。あの時、思ったことを必死に手繰る。私は、自分たちが経てきたことを、外に発信すべきだと思った。このままじゃいけないと思った。今この時も、何処かで、被害を受けている人がいるかもしれない。そう思ったとき、何かしなければと思った。そして、自分に一体何ができるかを考えた。
考えたとき、毎年やっている写真展で、何か形にすることはできないか、と思った。ならば、被害者にモデルになってもらって、写真を撮り、手記を発表する、という形で外に発信できるんじゃないか、と。でもそれは、奇跡のようなものだった。何故かといえば、被害者が顔を晒すなんてこと、誰が好んでしてくれるものか、と。それがあったからだ。でも、私はその思いを、ぶつけてみずにはいられなかった。まず、声を出してみよう、そこからだ、と思った。
奇跡は、起こった。何人かの人が、参加する、と意志表明してくれた。そうして「あの場所から」は始まった。
そうして、できあがった作品の何枚かを参加してくれた友人たちに送ったとき、さらに奇跡が起こった。友人たちが言ってくれたのだ。「あぁ私たち、こんなふうに笑ってる。まだ私たち、笑えたんだね」と。
そう、写真の中の彼女たちは笑っていた。泣いてもいた。笑って泣いて、泣いて笑って。それでもちゃんと、そこに在た。
初回にモデルになってくれた一人は、私の写真の一枚を、自分が死にたくなったときにこの写真を見て、まだ大丈夫って思えるように、と、お守りにしてくれた。あれほど嬉しいことはなかった。
毎年これまで参加してくれている一人は、こんなことを言っていた。まずこうして同じ被害者が集まること、そのことが、嬉しい。ここでならどんな話もできるという安心感がある。だから何でも話せる。そうしてそのメンバーと共に写真に写ることができる。こんな嬉しいことはない、と。
写真は、残る。当たり前だが、残る代物だ。消そうとしても消えない。誤魔化そうとしても誤魔化せない。あるがままをあるがままに写し出す。彼女たちの今も残る疵も、彼女たちの越えてきた疵も、あるがまま、そのままに写し出す。だからこそ、絵でもただの手記だけでもなく、写真が必要だったのだ。と、その時改めて思った。あぁ、私は写真をやっていて、本当によかった、と、そう思った。
奇跡的に、今年、四回目まで「あの場所から」の活動は続いている。これが来年どうなるのかなんて、分からない。分からないけれど。
外界と一度切り離されてしまった私たちが、外と繋がる術として、この活動が、残っていってくれたら、と、祈るように、思う。

今年モデルになってくれた友人から連絡が来る。ねぇさん、今年のテーマのままだと、私今、原稿が書けない。うんうん。私、今を何とか乗り越えるので精一杯で、先のことなんてこれっぽっちも考えることができないの、今。うんうん、分かった。じゃぁ、「今のありのままの自分」を、書いてくれればいいよ。それなら書ける。うん、じゃあそれで書いてみて。わかった。じゃ、もうちょっと待ってて。うん、分かった。
今年文章を書いてもらうにあたり、自分の被害についてとこれからについてを両方書いてほしい、と私はみなに頼んだ。今そのみんなはどうしているだろう。彼女らのことを考えると、私は心がぴーんと張るのを感じる。生半可な気持ちで受け取りたくない。受け取れない。私もしゃんとしなければ、と思う。

じゃぁね、うん、じゃぁね、また後でね。手を振って別れる。
もう夏休みが始まった。これから私も娘に合わせて予定を立てなければ。自転車で走りながらそのことを思う。予定の立て直しが必要かもしれない。
坂を下り、信号を渡って公園の前へ。ぐわんぐわんと耳が揺れるような蝉時雨。今日は比較的涼しいというのに、この蝉時雨は半端じゃない。私は思わず頭を振る。でもこれは、命の歌なのだ。僅か数日しか生きることができない、蝉の、命の歌なのだ。それを思うと、絶対に耳を塞いではならないと思う。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。と思ったら、目の前で自転車の衝突事故。真っ直ぐに進む自転車と、脇道から出てきた自転車とがまさに衝突。どちらも謝ることがなく、罵り合っている。私はその脇を、体を小さくして通り過ぎる。
さて、やることをさっさと済ませて、家へ帰らねば。私は予定を頭の中で辿り、自転車を漕ぎ続ける。その時私の頭の上、鴎が大きく旋回して、港へと飛んでゆく姿。
さぁ、今日も一日が始まる。しゃんと背筋を伸ばして、しっかり歩いてゆかねば。


遠藤みちる HOMEMAIL

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