見つめる日々

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2010年07月24日(土) 
寝苦しくて目が覚める午前二時。何故か顔にびっしょりと汗をかいていた。あまりに汗だくで、ハンドタオル一枚じゃ利かない。何か夢でも見ていたんだろうか。覚えていない。二枚目のハンドタオルを操りながら、私は首を傾げる。
開け放した窓からは、すぅとも風が入ってこない。ベランダに出る。やはり風がない。これでは暑いわけだ、と納得する。橙色の街灯の輪の中、照らし出される街路樹の葉群れ。ぐったりと疲れ果てているかのように見える。今点っている部屋の灯りは六つ。さすがにこの時間まで起きている人は少ないらしい。
娘の様子を覗き込む。シャツを肌蹴て、でーんと足を広げて眠っている。暗い灯りの中、じっと目を凝らし、彼女の手足を確かめる。赤い腫れは、すっかり引いた。よかった。これからさらに陽射しが強くなるかもしれない季節、外で遊べないのではかわいそうだ。でもやっぱり。薬というのは或る意味怖いと思った。あれほど赤く腫れていたものを、あっという間に治めてしまうのだから。薬を常時飲むようになって十五年以上経つ私の体には、どれほどの薬の残骸が降り積もっているのだろう。想像もできない。
授業で逐語記録について学ぶ。とある文献の、カウンセラーの言葉を一言一言辿ってゆく作業。それを後でグループに分かれ、分かち合いをする。様々な意見が行き交う。たとえば私が○としていた箇所を、或る人は×としていたり。その違いは何処から生じたのかをあれこれ話し合う。そうしてみんなで意見を突き合わせながら、文字だけから解釈するのは限界があるね、と話す。機会があったら、自分自身のミニカウンセリングの様子をテープに録ってみることが必要だと思った。自分ではその場で気づけないことが、きっと山ほど出てくるはず。
午後の授業は傾聴トレーニング。久しぶりにカウンセラー役をやり、緊張する。要約は比較的できたのかもしれないが、見立てがなかなか。たった三分間のうちに、主訴と見立てと反省点をずらっと述べ切るのは、本当に難しいと思った。三分間という時間に慣れてゆく必要があると感じる。
授業でやったことを、真夜中にあれこれ振り返っていると、先生によって本当に教え方というのが異なるのだなという、当たり前といえば当たり前のことに改めてぶつかる。たとえば要所要所を端的に教えてくれる先生と、流れるように言葉を操る先生と。相性もあるのだろうが、習うというのは本当に難しいことなのだな、と、歳を重ねるごとに、痛感する。
ノートをまとめていたら、いつのまにか空が白んできた。少しけぶった空だ。私は改めてベランダに出、大きく伸びをする。ふと足元を見ると、アメリカンブルーが二輪、咲いている。あぁ、そうだった、一輪ずつ咲くわけではなく、こうやって思い思いに咲くのだった、と、去年までうちに在った株のことを思い出す。とても元気な株だったのに。根っこを虫に食われて駄目にしてしまった。本当にもったいないことをした。この今在るものを、大事に育ててやらねば。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹。一輪が咲いた。ぽっくり、ぽっくり咲いた。残りの二輪はこれからだ。ピンク色ではなくまさに桃色。やさしいやさしい色。それを見ているだけで心がやわらかくなってゆくのが分かる。
沈黙していたパスカリの、根元の方から、くいっと新芽が出ているのに気づく。あぁ、ようやっとおまえたちも動き始めたのか、と、私は半ば感動すら覚える。それは赤く縁取られた緑色をしており。小指の先ほどの、ほんのちょっとの芽だけれど。確かにここに在る。あぁ、枯れたわけでも何でもなかった。本当によかった。
もう一本のパスカリは、昨日のうちに根元から二本目の枝葉を伸ばし始めており。一粒の蕾も昨日よりさらにひとまわり、膨らんでおり。今度は真っ白な花が咲くだろうか。ちょっと心配。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、それぞれに白緑色の新芽の塊を湛え。しんしんとそこに立っている。大きく茂ったマリリン・モンローと、細めの茂みのホワイトクリスマスと。それぞれの立ち姿。
ベビーロマンティカは三つの蕾を芽吹かせながら、次々新芽を出している。今朝はどんなおしゃべりをしているのだろう。私は耳を澄ます。すると、昨日娘が歌っていた、トトロの中のとあるメロディが聴こえてくる。もちろんそれは私の錯覚と分かっているのだが、思わず私も声に出して唄い始めてしまう。
ミミエデンも順調に新葉を萌え出させている。全身紅色の葉が、徐々に徐々にその紅色を失って、緑色に変わってゆく姿。不思議なグラデーション。そろそろ古い歪んだ葉は、摘んでやってもいいかもしれない。
ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解いてやる。風がないから、ラヴェンダーの枝が擦れるたび、ふわりとあのいい香りが漂ってくる。これでお茶を入れたら、さぞやおいしいことだろう。
ふと思う。昨日は友人の誕生日だった。直前に速達で送ったプレゼントは彼女の手元にちゃんと届いただろうか。今友人は声を失っている。このところ立て続けに起きた出来事によって、精神的に崩れ、声を失った。
もともと彼女は、DVの被害者であり、かつ、性犯罪被害者でもある。若い頃に父親を自殺によって失い、母親との確執も抱えている。いまだにそれは解けていない。今病院にも行くことが叶わない状況だというから心配は募る。できることなら飛んで行きたい。飛んで行って、彼女を抱きしめたい。でも。それは今、叶わない。
ただ、信じて待つしか、私には今、できない。

ねぇママ、心が壊れるってどういうこと? ん? あなたは傷ついたり悲しくなったりしない? するよ。傷つきすぎるとね、人の心は、ぺしゃん、って壊れちゃうのよ。どうしてそういうことが起きるの? どうしてだろう、たいてい人の心は、人によって壊れてゆくんだよね。人によってって? 人間同士の、何ていうんだろう、軋轢っていうか、こう、人間同士の争いによって、人の心は壊れたり傷ついたりするんだよね。壊れるとどうなるの? 心が壊れるとね、体の調子もおかしくなってくるんだよね。どうおかしくなるの? ママは、たとえば、人に見えないものが見えたり、聴こえないはずのものが聴こえるようになったりしたなぁ。声が突然でなくなったり、何も食べることができなくなったり、眠ることもできなくなったり、ね。どうやったらそれって治るの? どうやったら治るんだろう、人によって生じた疵は、人によってしか癒されないのかもしれないってママは思うことがある。バンドエイドとか貼って、薬塗ったり飲んだりして、すぐ治らないの? そうだね、そうしてすぐ治ってくれれば、それほどいいことはないよね。でも、心が一度壊れると、なかなか治らないんだよ。どのくらい時間がかかるの? それも人によるなぁ。一年でだいぶ治っていく人もいれば、十年二十年かかる人もいる。疵の度合いによるんじゃないのかなぁ。なんか難しい。そうだね、難しいね。心ってさ、目に見えないから、手術もできないし、バンドエイドも貼れないでしょ、だから、難しいよね、余計に。心が目に見えるものだったらいいのにね。神様ってずるいな。ははは。そうかもしれないね。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。と、足元でかりかり音がする。見れば、ココアが起き出して、こちらを見上げている。おはようココア。私は手を差し伸べる。手のひらに乗ってきたココアの、左目を確認する。だいぶよくなってはいるものの、起き抜けのときはやはり、ちょっと具合が悪い。あと一週間目薬をやってくださいね、と獣医さんは言っていた。その言いつけを守って、娘は一生懸命世話をしている。無事にココアの目が治ってくれますように。祈るように思う。

それじゃぁね、じゃぁね、ママ、絶対メールちょうだいね。うんうん、約束した。でも、返事もちゃんとちょうだいね。わかってるー! 手を振って別れる。娘はバス停へ。私は自転車へ。
坂を下り、信号を渡り、公園の前へ。立ち止まった瞬間、夥しいほどの蝉の声が頭の上に降ってくる。こんな朝早くから、こんなにたくさんの蝉の声。私はあんぐりと口を開けてしまう。自転車を押して、公園の中へ入り、池の端へ。そこに立つと、ますます蝉の声が鳴り響いてくる。今私を取り囲む樹のあちこちに、蝉がへばりついている。たった数日の命を燃やし尽くすかのように、懸命に鳴いている。そう思うと、胸がぎゅっと痛くなった。たった数日。蝉にとってはそれが当然の、当たり前の命の長さだから、それについてあれこれ考える余地はないのかもしれない。でも。あまりに短くはないか。切ない。ふと桜の樹を見上げて、三匹の蝉がそこに止まっているのを見つける。足元には、彼らが出てきたのだろう小さな小さな穴が、残っている。
その穴を壊さぬよう、そっとその場を離れ、自転車に再び跨る。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の影を抜けると、肌に突き刺さるような陽光が。
土曜日とあって、人気の少ない通りを走る。ひたすら走って、海と川とが繋がる場所へ。いつのまにか水母もいなくなった。今朝は何だろう、ちょっとどんよりした水の色。それでも水は、決してひとところに止まることなく流れ続ける。そう、ひとところに止まり続ければ、それはやがて、腐ってしまう。
さぁ、今日も一日が始まる。私は向きを変え、再び自転車を走らせる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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