2010年07月22日(木) |
寝苦しい。本当に寝苦しい。じっとしていても汗がじわじわと噴き出してくる。顔中汗だらけになっている気がする。何度も汗を拭い、それでも止まらない。隣の娘を見ると、おなかを丸出しにして眠っている。でも顔に汗などかいていないようで。よかった、娘だけでも気持ち悪い思いをしないで済んでいて。私はもう我慢が出来ずに起き上がる。真夜中午前一時。 窓を開けても、風はひゅるりとさえ吹き込んでこない。風が停滞している。私は窓際に立ち、煙草に火をつける。煙は真っ直ぐ立ち上り、ゆらゆらと揺れることさえしない。それほど空気が沈滞している。街路樹の葉たちは、じっとそこに在り。かさりとさえ音も立てない。 さて、どうしよう。この時間。私は首を傾げる。このもてあました時間をどう過ごそう。とりあえず椅子に座ってPCの電源を入れる。書きかけの書類を開き、睨めっこ。 自分を紹介するって、どうしてこう難しいんだろう。私は自分をアピールすることが、本当に苦手だ。できることならしたくない。でも、それがこの書類には必要で。だからなかなか進まないのだ。 プロフィール一つとっても、たとえば三百字まで書いていいというのに、私がさっと書くと、百字ちょっとで終わってしまう。こんなんじゃだめだ。書き直す。書き直そうと何度も試みるのだが、なかなかこれができない。 自分の活動の、ユニークな点について記してください、と問われても、ユニークな、という言葉で引っかかってしまう。そんな観点で、自分の活動を見たことがなかった。さて、どうしたものか。困ってしまう。 でも、せっかく私を推薦してくれようとする人がいるのだ。書かねば。私はなけなしの脳みそをぐるんぐるん回転させ、必死に文字を紡ぐ。 同時に、プリンターも動かし始める。提出する資料をプリントアウトせねばならない。こうしてプリントしてみると、それなりの量になるんだな、と改めて感じる。たった三年の、まだ今年で四年目の活動だというのに。 そうこうしているうちに、あっという間に空が白んできた。あぁ、まだ完成していない。とほほ。そう思いながら大きく伸びをする。とりあえず続きはまた後でやることにして。今は朝のいつもの仕事にとりかからねば。 その前に。 私はベランダに出、ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。ラヴェンダーとデージーと、絡まりあった枝葉を一本ずつ解いてゆく。一緒の鉢に植えたのが失敗だったかな、と、今更ながら思う。まぁもう仕方がない。デージーの花を落とさぬよう気をつけながら、一本、また一本、解いてゆく。そのたび、ラヴェンダーのいい香りが、ふわりと私の鼻腔をくすぐる。 パスカリの、二つ目の花芽。小さいけれど、間違いなくこれは花芽。今度こそ真っ白な花が咲いてくれるだろうか。どうなんだろう。この樹は昔帰りしてしまったのかもしれない。ちょっとどきどきしながら、私は蕾をじっと見つめる。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾。だんだんと膨らんできて、もう桃色の花びらが透けて見えている。もうじき咲いてくれるだろうな、と思う。私は試しに、指で三つの蕾を触ってみる。ぽろん、ぽろん、ぽろん、と、音色が聞こえてきそうな、そんな気配。かわいい蕾。 マリリン・モンローとホワイトクリスマス。それぞれに白い固い新芽の気配を湛え、今、しんしんとそこに在る。昨日よりほんのちょっとかもしれないけれど、白い固い塊が、膨らんできたような、そんな気がする。これが膨らんで膨らんで、或る日突然ぽっと割れて、そこから新芽が噴き出してくるのだ。それが早く見たい。 ベビーロマンティカは、もう全身新芽の嵐、といった具合。次々、次々、新芽を出して、それが茂みを作っている。まだ花芽はないけれど、もう十分。耳を澄ましていると、葉の影から、小人が出てきてぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋っているような、そんな錯覚を覚える。そのくらい、賑やかな樹。 ミミエデンも、紅い紅い新芽をぴんと伸ばして。今、ほぼ全身が紅色。これらが無事に開いて伸びてきたときには、古い歪んだ葉は取ってやろうと思う。 行きつけの喫茶店で知り合った、外国人留学生。人類学を研究しているのだという。特に今回日本に来たのは、「草食男子」について調べるためだという。日本語の勉強をしながら、同時にその「草食男子」についての資料を集めている彼女。日本語はムズカシイと言いながら、とても魅力的に日本語で話をしてくれる。今授業で扱っている本のひとつは村上春樹なのだという。主語が曖昧なことがあって、そういったところでつっかえてしまうという。「何かお勧めの本はありますか?」と問われ、私の口は勝手に、「梨木香歩」さんの名前を出してしまっていた。「りかさん」や「裏庭」、「からくりからくさ」などはとっても面白いと思うよ、と告げると、ノートにメモする彼女。今夜、大阪の友人と再会するのだけれども、お土産は何がいいかと問われ、二人であれこれ考える。「日本のこういう習慣、ありますけれども、アメリカにはこういう習慣、あまりないですね。友人にお土産、という習慣は、あまりないです」「あら、そうなの? 私はしょっちゅう友達にお土産買って帰ってきちゃう」「ははは。日本ならではの習慣ですね、いいです、はい」。なるほど、土産を気軽に買って帰るというのは、日本の習慣の一つなのか、と改めて知る。思ってもみなかった。再会を約束して、別れる。 昨日よりずっと、娘の手足の赤い腫れは引いてきたようで。薬をちょっと飲んだだけで、そんなにも変化するものなのか、と私は感心する。「ねぇママ、飲み薬、昼間もあったらよかったのに」。娘が言う。なんで? そしたらさ、みんなに自慢できるじゃん。薬が自慢なの? え、違うの? 違うよー、薬なんて自慢にならないよー。ははは。えー、でも、みんなと違うってとこで、注目浴びるよ? あ、注目浴びたいの? え、あ、まぁ、たまにはいいかなーと思って。なるほどなぁ、まぁそれなら、確かに注目浴びるかもしれないねぇ。それにさ、いっつもママだけ薬飲んでて、ずるいなーって思ってた。ええっ、そんなこと思ってたの? うん、私には薬ないじゃん。それは健康って証拠だから、大事なことなんだよ。んー、でも、ママの友達はたいてい、薬飲んでる。確かにそうだね、うん。みんなどっか、具合悪いからね。私だけ飲んでない。仲間はずれじゃん。ははははは。そんなことないよ、みんなにとってあなたは、希望の星なんだから。何それ? いや、だから、あなたが健康であってくれることが、みんなにとって嬉しいってことだよ。ふーん。変なの。ふふふ。
ねぇママ、私ね、もう何も立候補しないことに決めたの。え、なんで? だって、私が立候補すると、絶対誰か、文句言うんだもん。陰口っていうかさ。んー、だから立候補しないっていうこと? うん、もうやだ。あなたはそれでいいの? いや、よくないけどさ、でも、陰口叩かれるのも、もっとやだ。気持ちは分からないわけじゃないけど。そんなこと気にしてたら、何もできなくなっちゃうよ。人は勝手に他人のことあれこれ言うものなんだから。でもさ、いっつもいっつも陰口叩かれて、こっちじろーって見られてたら、たまんないじゃん。あぁそうだよねぇ、それは分かる。うんうん。でしょ? だからもうやだ。やめる。でもそれじゃぁ、あなた、自分が本当はやりたいなぁって思ったことでも、やれないまんまで終わっちゃうじゃない。それでいいの? よくはないけど。そうでしょ? よくないんだったら、堂々と立候補するのがママはいいと思うよ。陰口言われようと何しようと、構わないじゃない。いや、構うよ。後で面倒なことになったりするもん。…。最終的にはあなたが決めることだけれども、でもね、何か行動を起こそうとするときって、100パーセントの人が賛成してくれるかっていったら、違うんだよね、反対する人もいれば、賛成してくれる人もいる、それは、あなたに限らず、たとえばママだって同じだよ。それでもね、自分がやりたいと思うなら、やってみるのがいいと、ママは思ってる。…うん。あとは自分でよく考えて、決めればいい。うん。
母と電話で話をする。この酷暑は、今の母の体にはきっときついだろう。そう思い、電話を掛けてみた。母はそれでも、「そろそろ夕暮れだから、ブルーベリーの実を摘まないと。鳥と競争なのよ、大変大変」そんなことを言いながら電話を切ってしまう。まぁこれなら、とりあえず大丈夫そうだな、と私は自分で自分を納得させることにする。 それにしても。鳥と競争でブルーベリーの実を摘む母。その姿を想像し、何となく微笑んでしまう。きっと実の幾つかは、鳥に譲ってあげてしまうに違いない母。そして残りを、ヨーグルトか何かにいれて食べるのだろうな、と想像する。 ニュースでは、熱中症で百人以上が倒れ、九人ほどが重症だと言っていた。別の件では亡くなる方まであったという。 どうか、あの家が、母を守ってくれますよう。祈るように思う。
じゃぁね、じゃぁ…あ! 帽子忘れた、取って! もうっ、ほら。ありがと、じゃぁね! はいはい、じゃぁね。 今日娘は社会科見学。私より早く学校へ行った。それを見送り、私も家を出る。坂道を下り、信号を渡って公園の前へ。黒い影にさえ見えるこの大きな茂み。強烈な日差しを毎日浴びているせいか、葉もちょっと疲れ気味に見える。紫陽花などは、もうぐてんとしていて、枯れた花をそのまま残しながら、首をかっくんと折っている。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の影の中を通って、少しでも陽射しを避けながら走る。信号は青。そのまま真っ直ぐ渡って、美術館の脇を通り、港の方へ。 白い波が砕けるのを、しばらく眺めている。ぼーっと遠くで汽笛が鳴った。今日は水色の空じゃなく、白く霞んだ空が広がっている。何となく塵っぽい。海の上を渡る大橋も、けぶって見える。 さぁ、今日も一日が始まる。私はくいと自転車の方向を変え、再び走り出す。 |
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