2010年07月21日(水) |
久しぶりに娘の蹴りもなく、眠り続けることができた。午前四時。起き上がって窓を開ける。むわっとしたぬるい空気が充満している。風もない。風がないから余計に、空気の暑さを感じるのだなと思う。微動だにしない街路樹の緑をじっと見つめる。東から伸びてくる陽光がトタン屋根をぎらぎらと照らし出している。今日もきっと暑い。 しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そうして絡まりあったラヴェンダーとデージーとを解いてやる。その時、ぷっつりデージーの細い枝が切れてしまった。その先には小さな花がついてたのに。悪いことをした。私はデージーの、細い細い切れた枝を摘み上げる。これだけでも水に挿してやらねば。私はテーブルの上にそれを置く。 パスカリの花が咲いた。どうもいつもと様子が違う。花の芯の方が黄色い。何だろう。この色は。何処から出てきたんだろう。真っ白な花が咲くはずなのに。私は首を傾げる。もしかして、これは接木で増やしたから、元の樹の色が出てきてしまったんだろうかとも考えたが、それはあるまい。どうしてなんだろう。不思議だ。私はとりあえずそれを切り花にし、残った枝を挿し木にする。そしてもう一つ、この樹から新たな蕾が出ているのを確認する。確かにこれは花芽だ。間違いない。昨日よりくいっと首を伸ばして丸い粒が見える。なんだか嬉しい。こんな暑い暑い中でも、花芽を出してくれるなんて。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾。新芽もあちこちから噴き出してきており。蕾は昨日よりひとまわり、また大きく膨らんだようだ。今のところ粉を噴く気配もない。これなら大丈夫。三つとも無事に咲いてくれるに違いない。 マリリン・モンローとホワイトクリスマス。白く固い新芽の塊を、枝と葉の間に湛えている。よかった、これなら大丈夫。私は心底ほっとする。正直、ここまで沈黙を続けていたから、心配だったのだ。立ち枯れてしまうんじゃないか、と。本当によかった。 ベビーロマンティカは、昨日よりさらにたくさんの新葉を広げている。もう茂みがこんもり。本当に不思議な樹だ。次から次に新芽を出したり花を咲かせたり。こんな天気の中でも、元気さを失わない。見つめているとだから、こちらも元気でいなくては、と思う。 ミミエデンは、全身紅色の葉を広げ。これが徐々に徐々に緑色に落ち着いてゆくのだから、色というのは不思議だ。 挿し木だけを集めたプランターの中。立ち枯れてしまった枝を一本、抜く。切ない。せっかく新芽を噴き出させていたのに。それなのに立ち枯れてしまった。私に何ができるというわけでもないことは分かっているけれど、それでも切ない。申し訳なくなる。私はごめんねと心の中呟きながら、枝をゴミ袋に入れる。 それにしても。昨日の夕焼けは美しかった。茜色というより、紅色を水で溶いたような、そんな色が西の空全体に広がって。所々浮かぶ雲も全身その色に染まり。しばし窓際で私は佇んでしまった。そのくらい、美しかった。 病院の帰り道、友人と会う。友人が、とてつもない穴に落ちたような、もう生きることができないんじゃないかって思うくらいの穴で、とぽつぽつと話してくれる。どこか目が虚ろで、私はその彼女の目の先を追う。もちろん彼女と同じものが見えるわけもないのだけれども。それでも追ってしまう。これまで似通った穴に落ちたことはあったけれど、でもそのたび、辛いのは私だけじゃないと自分を鼓舞してくることができた。でも今回は、それがどうにもできそうになくて。彼女が言う。あぁ、そういうことが確かに私にも在った、と私は思い出す。辛いのは自分だけじゃないなんて、思うことさえできなくて、もう駄目だ、すべてのこの世との緒は切れた、というような感覚に陥る。そういうことが確かに在った。それでも生きていかねばならないことなど百も承知で、それでも、もう駄目だ、私は駄目だ、としか思えなくなる。そんな時が。思い出すと、ぎゅっと胸を掴まれたような感覚に陥る。 友人と別れ、私は今度は娘を連れて病院へ。手足の赤い腫れがひかないのだ。皮膚科にかかるなんて、全くといっていいほどないから、なんだか緊張しながら名前を呼ばれるのを待つ。でも穏やかな丸い顔をした先生が座っていて。私はほっとする。あぁ、二つ考えられるのだけれども、ひとつは紫外線アレルギー。もうひとつはウィルス性のアレルギー。どちらかだと思うんだけど、日の当たるところだけ赤くなっているところを見ると、紫外線アレルギーかな、お薬出しますから、ちゃんと飲んでね、と言われる。 紫外線アレルギー。初めて聴く言葉だった。紫外線に急激に当たると起こるのだという。そういえば、以前ロサンジェルスに行った折、私自身、なったことがあったんじゃなかったか? あの時は紫外線アレルギーとは言われず、皮膚が炎症を起こしたのだと説明されたが、これと似た症状じゃぁなかったか? 思い出し、納得する。でも、私の場合は確かに、急激に強い陽射しを浴びたから、と説明がつくが、娘の場合はどうなんだろう。そんな、急激に強い陽射しを浴びた、というほどのことはなかった気がする。何故こんなことが起きたんだろう。私は首を傾げる。ともかくも、処方された薬をしっかり飲んで、様子を見るしかない。 そして次、今度はココアを連れて三人で病院へ。病院の先生は、前回同様丁寧にココアを診察してくれて。目はあと一週間くらい目薬をし続ければ大丈夫、と言われる。が、問題は足の腫瘍だった。関節のところにできているため、もし手術をしても、後が大変だ、ということで。最悪の場合、足を切断しなければならなくなる可能性もあるとのこと。ココアが歩くのに支障がないのなら、このままそっとしておくことがいいかもしれない、よく考えて判断してくださいね、と言われる。腫瘍、と言われて、私は自分の額の腫瘍を思い出す。私の場合、軟骨腫。ココアはどうなんだろう。ただの脂肪の塊なんだろうか、それとも悪性の腫瘍なんだろうか。それさえ今の段階では分からない。でも。 足を切断しなければならないような事態になるのであれば。ハムスターの寿命は二年か三年。たった二年か三年だ。その間、不自由させて生き延びさせるより、痛みがないのなら、このままにしてやった方がいいんじゃないか、と私は思った。娘はどう考えているのだろう。まだ実感しきれない顔をしている。「また時々様子を見せに来てね」と言われ、ありがとうございましたと返事をして診察室を出る。 ココアの籠が必要以上に揺れないよう、抑えながら坂道を自転車で上る。ママ、暑いからアイス食べたい。そうだね、スーパーでアイス買って帰ろう。私たちはクーラーが強力にかかっているスーパーの中に入る。一瞬くらりと眩暈。 野菜の値段が、いつもより少しずつ高くなっているのに気づく。私は最低限のものだけを買い物籠に入れてゆく。娘の視線の先を見ると、ジュースの棚。そういえば、うちには麦茶しか冷蔵庫に入っていない。たまにはジュースを買ってみるのもいいか、と、一番安いジュースを選ぶ。パイナップルジュース。娘がにっと笑う。アイスは一袋に二個入っているものを選び、買い物終了。 夕食を作り、風呂から上がると、もうぐでんぐでんに疲れている自分を発見する。たったこれだけ動いただけなのに、正直もうだめだ。疲れた。私は何も言わず、椅子にでーんと寄りかかる。ママ、早く横になったら? うん。あなたも早く寝たら? うん。両方で気のない返事を返しているのに気づいて、二人して笑う。 明日からもう、塾の夏期講習が始まる。またお弁当作りの毎日が始まる、ということだ。あぁ、お弁当のおかずの分を買い物し忘れた、と思い出す。仕方ない、何かありあわせのもので済ませよう。考えるのも面倒で、私はとりあえず考えることは放棄する。
お湯を沸かし、生姜茶を用意する。切り花にしたパスカリを改めて見つめる。やはり、芯の方の花びらが黄色い。白から黄色へのグラデーションの花。不思議な花。 昨日電話で久しぶりに話しをした遠い町に住む友人は、思っていた以上に元気だった。新しく治療として始めた、EMDRが自分に合っているのかもしれない、と彼女は話す。EMDRを初めて受けた日、これまで一度としてなかったくらいに熟睡できたのだという。これから続けていくつもりだと彼女は話していた。仕事の方も、新しく始まったらしく、その職場でならしばらくは働けそうだと話していた。よかった。なんだか順調にいろんなことが運んでいて、怖いくらいだよ、と彼女が笑う。そうかもしれない。でも、順調ならそれでいい。それに越したことはない。私は電話を切った後、しばらく受話器を見つめる。もう一人、気になる子がいる。彼女は大丈夫だろうか。連絡がないところを見ると、よほど思いつめているに違いない。それが気がかりだ。
三年分の、「あの場所から」の資料をまとめていて、たった三年だけれど、こんなにもたくさんの声があったんだな、と改めて思う。大切にしなければ、と。 そして、これを続けてゆくために、今私に何ができるだろう、と、考える。今私にできること。それは何。
ママ、学校に連絡しといてね。分かった、中休み外で遊べませんってちゃんと言っておくよ。うん。それじゃ、昼には戻るから。うん。じゃぁね、じゃぁね。 学校に行く娘より一足先に、私は家を出る。むわむわした暑い空気があたりに立ち込めている。その中を、自転車で一気に駆ける。 坂道を下り、公園へ。鬱蒼としたその森。緑の匂いがむわんむわんと通りにまで漂ってきている。私は自転車を引いて池の方まで。池の端に立ち、空を見上げる。ぽっかりあいた茂みの穴から見える空は、美しい水色に染まって。この断面を写真にできたらきっときれいなんだろうなぁなんてことを思う。公園の周りの紫陽花はもう、ぐったりと首を垂れている。色褪せたもの、枯れ始めたもの、それぞれに、ぐったりと。それほどに陽射しは強く、暑い。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木が作ってくれる木陰を走り、さらに信号を渡って真っ直ぐ走る。 海と川とが繋がる場所。眩しいほどの陽射しが降り注いでいる。流れはきらきらと陽光を受けて輝き。こんな容赦ない陽射しの下にいたら、誰もが干上がってしまうんじゃないかとさえ思う。 流れを凝視していると、水の中、泳ぐ魚の群れを見つける。彼らにとっても暑いだろう。いつもより水温は間違いなく上昇しているに違いない。 私は思い切り顔を上げ、空を見上げる。くらりと体が揺れそうになって、私は慌てて手すりに掴まる。ほんの数秒の出来事なのだけれども、じりじりと顔が焼かれるのを感じる。 さぁ今日も一日が始まる。私はさらに続く道を、自転車で走り出す。 |
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