見つめる日々

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2010年07月20日(火) 
隣の娘の足蹴りにあって目を覚ます。サイズもでかい娘の足。だが今、全面に汗疹ができている。暗闇の中、娘の足に触ってみる。熱い。私の足と比べると断然熱い。汗をかいているわけではないのだが、この熱のこもり方、まだ彼女は子供なんだなぁと思う。でーんと両手を広げて、頭には従兄弟から貰ったぬいぐるみの枕をして口を開けて眠っている。私はそんな彼女の足をしばらくさすっていたが、このままじゃ眠れそうになく起き上がる。午前一時。
娘と過ごした昨日は、あっという間に過ぎた。映画を見に行くという約束をようやく果たすことができた。子供との約束を放っておくというのは、どうも心地が悪い。昔誰かに言われた。子供との約束はどんなことがあっても守らなければならないんだ、と。子供は一心に信じているのだから、それを裏切ってはならないのだ、と。そう、昔夜の店で働いていたとき、客がそんなことを言っていた。あの言葉は今でもはっきり覚えている。
しばらく窓辺に座っていたが、こうしていても何もならないと立ち上がり、風呂場を暗室に変えることにする。こういう、何と言うんだろう、心がざわざわする時は、写真を焼くにかぎる。
写真を焼きながら、私は夕刻、外国に住む最近知り合った女性と話したことを思い出している。彼女から尋ねられたこと。そもそもどうして写真を始めたのか、どうして性犯罪被害者と共同作業をしようと思ったのか、その時彼女たちはどういう気持ちでカメラの前に立つのだろう、など、いろいろな彼女の言葉が甦る。
私も最初、無理だと思った。声を掛けてみたって、それは無理な話だ、と思った。顔を晒すなんてこと、誰もしたくはないだろう、と思った。それなのに。
集まってくれた人がいた。あの時の驚きと嬉しさは、今も忘れられない。
そうして撮影を終えた後、彼女らに作品を届けたとき、彼女らの共通した一言、それも忘れられない。「あぁ私、まだ笑えるんだ、こんな顔、できるんだ」と。
被害の折、カメラを向けられた被害者もいる。その被害者にとって、カメラの音もさることながら、カメラ自体が恐ろしい存在になっている。それなのに、そういう被害者たちまでもが集まってくれたことに、今も私は感謝している。
もちろん、カメラの前に出ることが叶わない者もたくさんいる。そういう者は、撮影に同行し、荷物番をしてくれたり、焚き火の守りをしてくれたりする。ただその場所にみんな一緒にいる、というそのこと自体が大切なことなのだ、と私は思っている。誰も信じることができなくなった、誰かと一緒にいることさえ怖くなった人間にとって、そうした時間は、とてつもなく貴重だからだ。
手記にだけ参加してくれる人もいる。自分の体験や思いを、改めて書き言葉にするという作業。それが、どれだけしんどいものか、私は私なりに知っている。書いている途中でフラッシュバックを起こす者もいるだろう、書いている途中でもしかしたら自分の腕に刃を向ける者もいるかもしれない。それでも書いてくれる、そういう人たちの声を、私は外に向かって飛び立たせたい。
そうした被害者たちは、どんな表現活動を行なっているのだろう、という問いもあった。私の知っている限り、詩を書く者もいれば、ビーズで小さな小物を作り、販売している者もいる、絵を描いている者もいる。でも、それは多分、少数だ。そうした表現活動さえできなくなる者が、大多数だろう。
私は。
いつも思うのだが、彼女たちの「今」を撮りたいと思う。彼女たちの過去を撮るのではなく。そのことをいつも、思う。彼女たちが今ここに在ること、そのことをこそ、撮りたいと。だから、いつも極力彼女たちの過去に接点のない撮影場所を選ぶ。その方が彼女たちが自分を解放できるんじゃないか、と思えるからだ。
今年もどんどん、展覧会の日が近づいてきている。今、手記の声掛けをしているところだ。今年どのくらいの声が集まってくれるのか、まだ分からない。分からないけれど。そのどれもを私は大事にしたい。大切に大切に、羽ばたかせたい、そう思う。
プリントを15枚ほど完成させたところで区切りにした。風呂場を出、窓に寄ると、もう空は白んでおり。きれいな薄い水色の空がそこに在り。私はひとつ、大きく深呼吸する。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこみ、いつものように絡み合ったデージーとラベンダーとを解き始める。この作業、結構好きだ。時折ラヴェンダーの香りがふわりと漂ってくる、それが何ともいえず気分がいい。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾がぽろんぽろんと垂れ下がっている。そう、この樹の花は、そうやって垂れ下がるようにして咲くのだ。ぶら下がるようにして。その感じと花の雰囲気とがとても似合っていて、とてもかわいらしい。今から咲いてくれるのが楽しみでならない。
パスカリの、花芽をつけている一本。もしかしたらこれも花芽かもしれない、という新たな芽が芽吹き始めた。多分これも花芽だと思う。小さな小さな徴。そんないっぺんに二つも三つも咲かせなくてもいいよ、と声を掛けながら、でも、嬉しくて仕方がない。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。もうじき新芽がその気配を露にするだろうと思える。白緑色の塊が、枝と葉の間で膨らんできている。ようやく君たちの新芽に再び出会えるのか。ようやっと。私はそれぞれの葉を指で撫でる。
ベビーロマンティカはもう本当にあっちこっちから新芽を芽吹かせており。あっちで一声、こっちで一声、木霊しあうようにおしゃべりしている。この樹はいつ見ても楽しげで賑やかだ。そんな姿に私はいつも、励まされる。
アメリカンブルーは、今朝は一輪も花はついていず。まだこんな早い時間だからかもしれない。私は土が乾いていないことを確かめ、そっと枝を揺らしてみる。大丈夫、根はしっかりついている。また虫にやられるのは、ごめんだ。
ミミエデン。紅色の新葉を思い切り広げている。よかった、どれもこれも病葉じゃぁない。このまま緑色になって、きれいな緑色になって、元気な葉を大きく広げていってほしい。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れながら、その傍らで、水筒にリンゴ酢のジュースを作る。リンゴ酢と蜂蜜、氷を入れてしゃかしゃか振る。娘が起きてきたら飲むだろうジュース。娘がお酢好きな子供でよかった。
マグカップをもって机に座る。煙草に一本火をつける。もうその頃には、空はふわぁっとさらに明るくなって、そして水色はさらに濃くなって。うっすらとした雲が所々、浮かんでいるのが見える。

「精神がもはや中心でなくなったとき、つまり言葉や、過去のいろいろな経験―――それはすべて記憶やレッテルであり、それが蓄積されて分類整理されたものです―――から成り立っている「思考する人」でなくなったとき、そして精神がそういうことを一切やめたとき、そのとき精神は確実に静かになるのです。精神はもはや束縛されず、また「私」―――つまり私の家、私の業績、私の仕事というような―――としての中心を持っていないのです。私の家とか私の業績というようなものはすべて言葉であり、それが感情に刺激を与え、その結果記憶を強化してしまうのです。こういうことが全然起こらないときには、精神は非常に静かです。その状態は無ではありません」「意味の全体を辿り、それを実際に経験し、さらに精神の働き方を知ることによって、もはやあなたが命名したりしない段階に達すること―――つまりもはやそこには思考とは別の中心が存在しないという意味です―――この全体の過程こそ真の瞑想なのです」

ねぇママ、ママ! 何? ココアの目のシコリ、なくなったよ。おお、よかったじゃん。目薬の効き目だね。うん、よかった。よかったねぇココア。ねぇ、お医者さんって、何でこんなことできるのかな? うーん、そういうお勉強をしてきてるんだよ。ママのお医者さんは、どうしてママのこと、すぐに治してくれないの? へ? だって、ココアは一週間で目のシコリがなくなったんだよ。ママも一週間で病気治ればいいのに。そうだよねぇ、ママもそう思う。多分、ママの病気は心の病気だから、心って目に見えないから、だから余計に治すのが難しいのかもしれないね。ふぅん、でも、ママ、ヤブ医者にかかってない? 大丈夫? ははははは、わかんないけど。まぁ、今の先生を信じてやっていくしかないなぁ。うーん。早く治ればいいのになぁ。私、医者になろうかな。え? お医者さんになるの? うん、それで、すぐ治しちゃうの、みんなのこと。ブラックジャックみたいじゃん。それ。うんうん、でもそれには、ピノコがいないとだめだよね。はっはっは。そんな有能な助手、いるのかなぁ。わかんない。ははははは。

じゃぁね、それじゃあね、あ、お昼はおにぎり食べておいてね。できるだけ早く帰るから。分かったー。
私は階段を駆け下り、ゴミを出して、通りを渡ってバス停へ。すぐやってきたバスに乗る。ちょうど盲導犬を連れた女性が同乗しており。いつ見ても、盲導犬というのは本当に利口だ。飼い主を絶対に守ろうと、目を配っている。それが自分の役目なのだ、と。私は彼の邪魔をしないよう、そっと脇に寄って立つ。
駅で下り、走ってはみるが、いつもの電車には間に合わず。一本後の急行に乗る。女性専用車両ができて本当に私にとってありがたい。助かっている。こういう時間帯に電車に乗らなければならないとき、この車両がなければ、私はばったり倒れるかパニックを起こすかしているんだろうと思う。
川を渡るとき。燦々と降り注ぐ陽光に輝く川面が見える。一面鏡のようにきらきらと輝いている。本当に美しい。そして、淡々と流れ続ける。この川のようになれたら、と、いつも思う。

さぁ今日も一日が始まる。私はホームに飛び降り、階段を駆け上がる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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