2010年07月19日(月) |
娘の蹴りで目が覚める。勢いよく肩に一撃。見ると、やはり回転して、私に向けて足をおっぽり出している。私はひとつ大きく溜息をついて肩をさする。午前一時。この時間から目が覚めてしまうと、後がなかなか眠れない。 しばらく寝床でごろごろしていたが、眠気が一向にやって来ないので私は仕方なく起き上がる。PCの電源を入れ、メールのチェック。目的の人からメールが届いている。このメールを待っていた。 早速作業に入る。もうすでに送り届けたファイルの詳細をまずはテキストに直す作業。私は、写真展の際、「あの場所から」以外、たいてい漢字三文字ほどでタイトルをつける。その読み方をよく尋ねられるのだが、ルビはあえてつけない。漢字から立ち現れる雰囲気を、その人その人が感じてくれればいいなと思っている。 幻霧景、鎮風景、創始景、鎮歌景、視線/私線、虚影、樹映…。テキストにしながら、当時のことをそれぞれ思い出す。それぞれがそれぞれ、思い出深い。台風直後の森をぐしょ濡れになりながら走り回ったこともあった、砂吹き上げる丘で砂に足を取られながら駆け回ったこともあった、戦没者墓地でしんしんと佇んだこともあった。こうして見ると、なんだかすべてが懐かしく思えてくるから不思議だ。 そもそも私が写真を始めたのはどうしてだったか。私はそれまで写真が大嫌いだった。家族で写真に写るなんてとんでもなかったし、友達同士で写真に写るのも、極力避けていた。写真というそのものが、はっきりいって嫌いだった。 それが、或る時、本屋で、と或る作家の写真集を広げ、一変した。あぁこの画面だ、この粒子だ、私はそれが、自分の表現するものの上に欲しい。そう思った。当時私は、自分の肉体が自分とかけ離れているように感じられており。この手も、この足も、自分のもののはずなのに自分のものではないような、そんな感じに囚われており。だから確かめたかった。この手は、この足は、一体何者なのか。それを、何かで捉えたかった。絵は違う、自分の想像で描けてしまう、じゃぁ何だ、ありのままにそのものを写し出す写真しか、術はなかった。 写真に詳しい友人に、とにかく尋ねて回った。この画面を、この粒子を写真に出すには、一体何が必要なのか、と。ひたすら尋ねて回った。そんな私に呆れ果てた友人が、このフィルムやこうした現像液を使ってやれば、これに近いものが出ると思うよ、と教えてくれた。早速私は実行に移した。現像の仕方も何も知らないのに、とにかく液を作り、暗室を作り、引き伸ばし機を買い込んで、風呂場に立て篭もった。 一枚のネガから、何種類もの写真が生まれることを、その時初めて知った。そのあまりの面白さに、私はどんどん惹かれていった。同時にひたすら、写真機をいじくりまわした。真っ暗な部屋、明かりはデスクライト一つきり、そんな中、自分の手足を撮りまくった。そうして生まれたのが、「腔」というシリーズだった。 「腔」となった自分の手足を見て、私はようやく安堵した。あぁ、ばらばらでもいいのだ、私とかけ離れている、私のものでないと思えたっていいのだ、それでもこの手やこの足はここにこうして在るのだ、と、実感できた。ようやく、自分のばらばらだった手足が、ひとつになった気がした。 それから、自分がこうと思えるものにはカメラを向けるようになった。 でも。 いつも思っていた。この私の呟きや叫びは、果たして誰かに届くんだろうか、と。 だから今回、海を越えた向こうの国の、それまで名前も何も知らなかった人から、声を掛けられたとき、本当に驚いた。こんなことがあるのか、と、呆然とした。 自分に今何ができるのか、正直分からない。分からないが、精一杯その人へ向けて、応えたいと思う。自分に今できることを、精一杯。 作業をしていると、本当にあっという間に朝が来る。気づけば外は明るくなっており。窓を思い切り開けると、風がぶわっと一気に滑り込んでくる。私は髪を後ろ一つに結わいて、外に出る。明るい空。本当に明るい。水色の空が一面。 ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーとラヴェンダーの、絡まった枝葉を私は今朝もまた解いてゆく。枝がこすれて香るラヴェンダーの匂いは、一瞬私の鼻をかすめ、そしてすぐに風に攫われてゆく。デージーは飽くことなく花をつけ続けている。こんな小さな、針金のように細い体の何処に、こんな膨大なエネルギーを隠しているのだろう。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹に三つの蕾。ぽん、ぽん、ぽん、と、三ついっぺんに一所から出ている。もう微かに桃色の片鱗が見えている。三つもいっぺんに花をつけて、大丈夫なんだろうか。ちょっと心配。でも、嬉しい。 花芽をつけているパスカリ。花がだいぶ綻んできているのだが、どうも花びらが、傷ついているようだ。茶色い傷がところどころに見受けられる。可哀相に。あの強い風に晒されて、あちこちに擦れたのだろう。それでも咲こうとしてくれているのだから、私はただ、信じて待つしかない。 パスカリの隣に挿した、友人から頂いた薔薇の枝。今三本残っている。枝も今のところ元気だ。さて、この三本、この先どうなっていくのだろう。根を張ってくれるだろうか。葉を出してくれるだろうか。私はどきどきしながらそれを見つめる。 マリリン・モンローとホワイトクリスマス。ようやく、新芽の塊らしい、その気配が見つかる。これが萌え出てくれれば。久しぶりに彼らの新芽が見られるのだけれども。まだまだ硬いその塊を、私はじっと見つめる。どうか萌え出てくれますように。 ベビーロマンティカはもう、あっちこっちから新芽を吹き出させている。数え切れない。しゃらしゃらとおしゃべりするその葉擦れの音に、私はしばし耳を傾ける。今日も晴れよ、きれいな晴れよ、真っ青よ、と唄うような声が聴こえてくるのは私の気のせいか。 ミミエデンも、無事新芽を開いた。少し暗めの紅色。今まさに葉全体がその色だ。でも、粉も何も噴いていない、歪んでもいない。あぁよかった、これなら健康な、元気な葉だ。私はほっとする。よく見ると、足元の方からも新芽を噴き出させており。大丈夫、これならまだまだいける。私はミミエデンを見ながら、ちょっと微笑んでしまう。 午後、実家に電話を掛ける。すると、母が、何か言いづらそうにもごもごしている。どうしたの、何かあったのね、と尋ねると。娘が自分の貯金箱から勝手にお金をいくらか持ち出したのだという。約束として、持ち出すときは必ず出納帳に書くことになっているのが、今回は勝手に持ち出して、一言もなかったのだ、という。以前にも一度そういうことがあって、問うてみたら、「ママは全然気づかないから」と娘が言っていたということを、母の言葉から知る。私はそれを聴いて、かちん、とくるものを感じる。娘め、私が全く気づいていないと思ったら大間違いぞよ、母は気づいていても何も言わないだけなんだからな、と、心の中、ひとりごちる。母にとりあえず謝罪し、娘にも一言言っておくことを告げる。 塾のテストが終わって早速電話を掛けてきた娘に、私は声を掛ける。ねぇ、お金、勝手に持ってった? …。何かお金を使いたい用事があったの? …。黙ってちゃ分からないから、ママに教えて。…明日映画に行く約束してるでしょ。うん。だからその時に、アイスとか買いたいと思って。あぁそうか、それなら、ちゃんと出納帳に書いて、ばぁばにも一言断って、それで堂々とお金を持って帰ってくればいいのに。…ごめんなさい。いや、ママに謝ってもしょうがないよ、ばぁばに謝らないと。うん、分かった。 しばらくして、メールが届く。「もう二度としないから、ごめんなさい。ばぁばには今電話して謝った。返事ください」。だから私は返事する。「そうだね、もう二度とやらないって約束だよ。じゃ、気をつけて帰ってきてね」。 とりあえず、今回はこれでさらっと済ませよう。そしてもう一度あった時には。がつんと言わなければなるまい。 そういえば。昔、小学生の頃、弟と一緒に、母の財布からお金を抜き取ったことが何度かあった。500円のお小遣いじゃ足りなくて、どうしても買いたい本があって、私たちはそんなことを何度か繰り返したっけ。誰もが一度は通る道なのかもしれない。それを思うと、ちょっと笑える。 私は、娘を叱るとき、できるかぎり、言うことを言ったら、後を引かないようにしようと決めている。ぐじぐじぐじぐじやられたら、せっかくごめんなさいという気持ちになっても、だんだん反発する気持ちの方が大きくなるものだ、と思うからだ。それに、うちは母子家庭、私が怒り続けていたら、彼女の逃げ場がなくなる。さっと怒って、さっと引く。それが、うちのルールの一つ。
突然玄関口から娘の声がする。ママ、ママ、来て! 何? 花火だよ、花火! ほら! 私が玄関を出ると、真正面のビルの脇に、港で打ち上げているのだろう花火が見えた。きれいだねぇ。うん、きれいだねぇ。ちょうど小学校の校庭では夏祭りが行なわれており。盆踊りに興じる人たちの外で、多くの人が花火に見入っている。 ママ、さっき盆踊りしたけどさ。うん。私、盆踊り、下手かも。ははは、なんで? だって、右と左、手出す場所、つい間違えちゃうんだもん。いいじゃん、間違えたってどうってことないよ、楽しく踊るのが盆踊りってもんだよ。ふーん。でも恥ずかしいよね。ははは。それもまた一興。へへへ。
「「怒り」という言葉はその感情そのものよりも大きな意味を持っているのです。実際にこれを発見するためには、感情と命名の間に間隙がなければなりません。それがこの問題の一面です。 もし私がある感情に名前を付けなければ、すなわち、もし思考が単に言葉のためだけに働いていなければ、言いかえれば、もし私が言葉やイメージやシンボルなどの観点から考えなければ―――私たちはたいていそうしているのですが―――そのときどういうことが起こるでしょうか。確かにその時、精神は単なる観察者ではありません。精神が言葉やイメージやシンボルの観点に立って考えていないとき、思考(それは言葉です)とは別の「思考する人」は存在しないのです。その時精神は静寂になっているのではないでしょうか。それも強制されてそうなったのではなく、ただ静かなのです。精神が本当に静まったとき、出てきた感情は直ちに処理することができるのです。私たちが感情に名前を与え、それによってその感情を強めてしまったときにのみ、その感情は持続するのです。そして感情はその中心に蓄えられて、今度はその感情を強化したり、あるいは伝達するために、この中心からさらに多くのレッテルを与えてしまうのです」
二人で玄関を出、階段を競争で駆け下りる。そして自転車に跨り、勢いよく走り出す。 坂道を下り、信号を渡って公園へ。鬱蒼とした森の中に、二人で分け入ってゆく。池の端に立ち、二人で空を見上げると、真っ青な空がきらきらと輝いているのが見える。ママ、すごいね、今日の空。うん、もう夏の空だね。夏真っ盛り! ははは、そうだね。 池の向こう側に、猫が一匹、休んでいる。私たちに気づいているのかいないのか、でーんと腹を出して横になっている。昔この公園のすぐ脇に、猫屋敷があって、そこのおばあさんのところにはごまんと猫が出入りしていた。もうおばあさんはこの町にはいない。猫屋敷も閉じられたままだ。この猫たちは、今どうやって暮らしているんだろう。 私たちは猫を起こさないように、そっと自転車を引いて公園を出る。そして再び走り出す。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。 ママ、今日はこっち、風が緩いね。そうだね、緩いね。眩しすぎて上向けないよ。ははは。それだけ陽射しが強いってことだ。今日一日外にいたら、それだけで真っ黒になりそうだね。 並んで走る自転車二つ。まだ通りには殆ど人はいない。私たちは思うさま、自転車で辺りを走り回る。 辿り着いた港で一休み。通りはあんなに人気がなかったけれど、こちらはもう、祝日であるにも関わらず、あちこちで船が動き始めている。そして波。ざざん、ざざんと打ち寄せる波の間から、今、一匹の魚がぱーんと飛び上がった。銀色の腹がきらり、陽光に輝く。 さぁ、今日も一日が始まる。私たちはさらにまっすぐ、自転車を走らせる。 |
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