見つめる日々

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2010年07月18日(日) 
回し車の音がしている。から、からららら。あれは軽い音だから、ココアだろうか。私は横になったまま、しばらくその音に耳を傾けている。からら、から、からららら。リズミカルで軽い音。私は起き上がり、籠の前にしゃがみこむ。おはようココア。私は声を掛ける。声を掛けた途端、ココアはちょこちょことお尻を振って私の方に歩いてくる。ちょうどいい、と私はココアを抱き上げる。さぁ目薬。と目薬を出した途端、きっと声を上げて私の指を噛んでくる。なるほど、目薬が嫌らしい。嫌と分かれば余計に注してやりたくなるというもの。ココアァ、お目々よくしなくっちゃねぇ、と言いながら、上瞼をひっぱり上げ、目薬をぴょっと注す。ココアも馴れたもので、というか、それが本能なのかもしれないが、瞼を開けたり閉じたりし、目薬も零れることなく目の中に吸い込まれてゆく。はーい、よくできました、えらいえらい。私は思わず声を掛ける。毎朝娘がやっていること、娘が留守の時は私がやらなければならない。噛まれたのは痛かったが、まぁそのくらい、よしとしよう。
窓を開け、外に出る。すかんと抜けた青空。あぁやはり夏なんだ、と、私は空をじっと見上げる。ついこの間まであった鼠色の雲は、一体何処に消えたんだろう。今空に在るのは、さっと筆で描いたような白い髭のような雲ひとつきり。そういえば昨日は、一度もテレビを見なかった。仕事にかまけて、ニュースひとつも聴かなかった。雨の災害はどうなっているんだろう。また新たに行方不明者が出ているんだろうか。
風は微風。ちょうどいい具合に流れている。街路樹の緑はさやさやと小さく揺れるだけで、それは囁いているかのようで。何を囁いているんだろう。彼らが興味を持つものって、どんなものなんだろう。
私はしゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。昨日の夕方の風で絡まったのだろうデージーとラヴェンダーを、私は今朝もひとつずつ解いてゆく。デージーは髭のような手足をばたばたさせ、ラヴェンダーはラヴェンダーで水母のように長い手足をあちこちに伸ばし。この鉢はまるで小さなジャングルみたいだ、と思う。
その隣に置いたアメリカンブルーの鉢。今朝ひとつ、また花が開いた。真っ青な花。染み入るような蒼。私はこの色が大好きだ。見つめていると、何処か深い水の底に沈んでゆくような気持ちにさせられる。そうすると、いつか見たエメラルドブルーの水中の光景が重なり合って、私の瞼の奥深くに映し出される。私の目全体が、青色の中に沈みこむ、そんな感じ。
パスカリの花芽をつけている方は。風にゆらゆらと花芽を揺らしている。今のところ花芽は粉を噴くこともなく、無事に膨らみ続けている。さぁ、いつ頃咲いてくれるんだろう。楽しみで楽しみで仕方がない。
と、その時、はたと気づく。桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹に、三つも蕾が生まれている。一体いつこの蕾は生まれ出たんだろう。全く今日まで気づかなかった。私は思わず声を上げる。そうか、このすぐ隣に新たに挿した枝葉のせいで、そちらにばかり気が行っていて、こちらに目が行かなかったんだ、と気づく。それにしても。三つも。小さな小さな蕾三つ。嬉しい。私は思わず樹に向かって、ありがとう、と声を掛ける。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。私はじっと、その樹たちを見つめる。ふと、ホワイトクリスマスの枝と葉の間に、小さな塊を見つける。もしかしたら、これは新芽の気配かもしれない。もしかしたら。私はどきどきする。ようやく新芽を出す気持ちになってくれたか、と思うと、嬉しくて仕方がない。よかった、ちゃんと生きていた。立ち枯れることなく生きていた。それが分かっただけでも、とてもとても嬉しい。
ベビーロマンティカは、もう全身あちらこちらから新芽を吹き出させており。萌黄色の、柔らかな葉が、あっちこっちで揺れている。そしてミミエデンも。紅く紅く染まった新芽を、ぶわっと噴き出させて、今、風に揺れている。
挿し木だけを集めた小さなプランターの中、気になっている枝は、変化が見られない。ちょこっと新芽を出させた、その時点で止まっている。このまま枯れてしまうのでは、と気が気じゃない。どうかもうちょっとでも葉を広げてくれますよう。祈るように思う。
ふと顔を上げたら金魚と目が合った。はいはい、と言いながら私は餌を振り入れる。大きな尾鰭がふわりと動いて、一度沈んでから浮かび上がり、餌をつつく金魚。流線型のその体は、何処までも滑らかに動いてゆく。
部屋に戻り、お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶をいつものように入れるのだが、それだけじゃ足りず。今日は何となく、リンゴ酢に蜂蜜を垂らして飲みたい気分で。それも合わせて作ることにする。
机に座り、昨日の作業の続きに取り掛かる。「あの場所から」の、これまでの作品から、何点かずつピックアップし、また、彼女たちが寄せてくれた手記も併せて、ひとつにまとめるという作業。こうやって改めて見てみると、このシリーズを始めてすでに四年という時間が経過していることに気づく。四年。あっという間といえばあっという間。でも。同時に、それはとてつもなく長い時間、でもある。
彼女たちの手記を改めて読んでいて、私は胸がぎゅうぎゅう鷲掴みにされるような気分に陥る。これを書くのに、彼女たちはどれほどの思いをしたんだろう。ここまで書くのに、どれほどの思いを噛んできたのだろう。そう思うと、たまらない思いにさせられる。
赤裸々に、とも違う。伝わるよう、伝わってくれますよう、祈るような思いがそこに込められている。読み手への、祈りが、そこにこれでもかというほど詰まっている。
毎年そうやって私の手元に集まってくる幾つかの手記。それが、どれほど重たいものであるのかを、改めて思う。

月のものがやってくるたび、近頃思うのは、後どのくらいの間、これとのおつきあいがあるのかなぁということ。私ももういい年だ。私は始まりが早かったから、終わるのももしかしたら早いのかなぁとか、終わったらどうなるんだろう、とか、あれこれ考える。今すでに、私は眩暈やら頭痛やら、そういったものは日常茶飯事の出来事で、だから、たとえば更年期障害がやって来たとき、それだと気づくことがあるんだろうか、とか。母は、眩暈や頭痛、冷や汗などがこれでもかというほど酷くやってきた、と言っていた。その母の体質を私が受け継いでいるのなら。もしかしたら私は、それが更年期障害だと気づくこともなく、あぁいつもの眩暈ね、とか、あぁいつもの頭痛ね、と、過ごしてしまうのかしら。どうなんだろう。女の体というのは、本当に、よく分からない。

ねぇママ、ママには嫌いな人っている? ん? いるよ。え、いるんだ。うん、いるよ。ママは嫌いな人にどう接するの? んー、極力接しないようにする。どうしても接しなくちゃならないときは? 何食わぬ顔をして、普通に接する。んー、私、それができないんだよね。あなたにも嫌いな人がいるのね。そりゃいるよ。いるけど。なんか、ママが言うみたいに、普通に接するってことはできない。そうだねぇ、ママがあなたくらいのとき、そういうことが出来たかって言えば、出来なかったよ。どのくらいになったらできるようになるの? 大人って呼ばれるようになる頃かなぁ。じゃぁまだまだ先じゃん! だめじゃん! だめって、何がだめなの? なんかさ、この時は嫌いで、でも別の時は嫌いってわけでもなくて、って相手、いない? あぁそういうのもあるかもしれないね。それで? そういう人にさ、普通に接するっていうのが、私、できないんだよね。嫌なときは嫌、いいときはいい、みたいに、違う態度になっちゃう。うんうん。でも友達って、たくさんいた方がいいんでしょ? え、そうなの? え、違うの? ママは、別にたくさんいればいいってわけじゃないと思うけど。だって学校とかでは、たくさん友達作りましょうって言うじゃん。そうだね、確かにそうだ。でも、たくさん知り合いがいるだけで、本音で語り合える友達が一人もいないんじゃ、意味ないじゃん。んーーー。ママはね、心の中で、ちゃんと話ができる相手は友達、そうじゃない相手は知り合い、みたいに分けてるんだ。へぇ、そうなの? 友達は大事にするけど、知り合いだったら、ある程度、みたいに。ママにとって友達と呼べる人が、大切な相手だからね。そういう相手をこそ、大事にする。そういう相手、いっぱいいるの? いっぱいはいないよ。数えるほどだよ。友達いっぱいいなくて寂しくないの? 別に寂しくないよ。本音で語り合える相手が一人でも二人でもいれば、それでもう十分だったりするよ。んーーー、そういうもんなのかぁ。ママの友達がね、昔、こんなことを言ってたことがある。生涯で、友達と呼べる相手なんて、本当は一人か二人なのかもしれない、って。自分はだから、たった一人か二人の友人をこそ、大切にしていきたい、って。一人か二人かっていうのは置いといても、友達なんて、本当は、そんなたくさんいればいいってものじゃないんだよ。あなたが、心を割って話ができる、信頼して任せられる相手、そいう相手のことこそを、友達って言うんじゃないの。んーー。なんか分かる。うん、分かる。相手をちゃんと見て、感じて、選んでいけばいいんだよ。そうやって、大切な人を一人ずつ、増やしていけば、それでいいんだよ。みーんなにいい顔するなんて、それはそれで、変だと思うよ。八方美人って言うんだよ、そういうの。ふーん、そっかぁ。

「あなたが判断を下すや否や、あなたは固定して動かなくなってしまいます。そこで「好き」とか「嫌い」という言葉が重要になるのです。しかしあなたが名前を付けないとき、どういうことになるでしょうか。ちょうどあなたが花に名前を付けないとき、その花をじっと見なければならないように、あなたはある一つの感情や気持ちをより直接的に見るのです。そしてその感情に対して全く違った関係が生まれるのです。あなたは対象を新たに見なければならなくなります。あなたが人間の集団に命名しなければ、その人間を集団として扱うのではなく、一人一人の顔を見なければなりません。それゆえあなたはきわだって機敏になり、詳細に観察し、より多くのことを理解することになるのです。あなたはより一層深い同情と愛情を持つのです。しかしもしそれを集団として取り扱うなら、同情や愛情は消えてしまうのです。
もしあなたがレッテルをはらなければ、あなたは感情が生じるたびにその感情を一つ一つていねいに見つめなければなりません」「レッテルをはったとき、私たちはたいていその感情を強めているのです。その感情と命名は同時なのです。もし命名と感情の間に間隙があれば、その感情が命名と違ったものかどうか発見することができるでしょう。そのときあなたは命名せずにその感情を処理することができるのです」

玄関を出ようと扉に触れた途端、私は急いで手を離す。扉が燃えるように熱い。ノブに手をかけて、ゆっくり扉を開けると。そこは光の洪水で。東から伸びてくる陽光が、これでもかというほどこの辺りに降り注いでおり。光の当たっていないところなど、何処にもないかと思えるほどに、その光は平等に降り注ぎ。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂を下り、信号を渡って公園へ。こちら側から見上げると、それはもはや緑の森ではなく、影の森のようで。黒々とした姿が見上げるほどの高さまで茂っている。その森の中に入って、私は池の端に立つ。そこにだけ、やわらかな陽射しがさんさんと降り注いでおり。池はちょうどきらきらと、陽光を受けて輝いているのだった。池の向こう側には今朝も猫が二匹。彼らには今日の陽射しは強すぎるんだろうか。影になったところに、でーんと横たわり、うつらうつらしている。
私は再び走り出し、大通りを渡って、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の向こうには、澄み渡る空が広がっており。何処までも何処までも広がっており。
さぁ、今日も一日が始まる。私は思い切り、ペダルを漕ぐ足に力を込める。


遠藤みちる HOMEMAIL

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