見つめる日々

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2010年07月16日(金) 
いつの間に眠ってしまったんだろう。覚えていない。気づくと二十三時。娘はでーんとおなかを出して眠っている。電気はつけっぱなし。ということはやはり、私が寝るつもりなく横になって眠ってしまったということか。珍しいこともあるものだ。私は起き上がり、窓を閉め、灯りも消して、再び横になる。
しかし、一旦目が覚めてしまったわけで。今度は目が冴えてちっとも眠気がやってこない。娘と久しぶりに一緒に風呂に入り、上がってきてから台所を片付け終えたのが午後八時過ぎ。その後に多分私は横になったということ。ということは、一日分、もうすっかり眠ってしまったというわけで。眠気が来ないのも当たり前か。私は溜息をつく。
ちょっと迷ったが、再び起き上がり、風呂場を暗室に変えることにする。小さな窓ひとつあるきりだから、そこに暗幕を張ればもうこの時間なら大丈夫。あとは液を作って引き伸ばし機を用意するだけ。
今年の「あの場所から」のプリントを再度試みることにする。今ひとつ、まだ自分にぴんと来ないものがあって、まだ納得していないのだ。百点近く撮った中から十五点にまで絞り込んだ。そこまではいい。しかし、そこからがまだ、こう、何と言うのだろう、がっしと自分の内側を掴んでくるようなものが、まだ得られていない。
焼きながら、ふと思い出す。夜明けを待って、スタートした撮影。思ったよりは冷え込んでいなかったとはいえ、それでも薄い白い服に着替えての撮影は寒かったろう。でも二人とも、何も言わずに着替え、動き始めてくれた。砂山を一気にのぼって欲しいと言えば、二人とも砂に足を取られながら、必死にのぼってくれた。今度は駆け下りてほしいと言えば、海に向かって一気に駆け下りていってくれた。本当に、二人には感謝している。
何だろう、天候が悪かったせいなんだろうか、画にメリハリがつかない。つけようと下手に焼き込むと、不自然さが際立つだけで、思った画にならない。これはどうしたものだろう。感度をいつもと変えて撮ってみたりしたのが、いけなかったんだろうか。普段の自分のネガとは、ちょっと違う感じがする。
でもそれは、私の違いだけでは、多分ないんだと思う。ここに写る二人の、心持が、去年と今年とでは大きく異なってきている、そのことも、影響しているんだと思う。
サバイバーとよく人は言う。サバイバーって言葉が、今ひとつ私には分からない。ぴんと来ない。素直に、生き残り、と言われる方がまだ分かる。生き残った、そう、確かに私たちは生き残った。でもそこには、血反吐に塗れた道があった、時間があった。
生き残るということを、自分の意志でしたというより、生き残ることをさせられた、というような感覚が強い時期もあった。そういう時期が長く長く在って、それからようやく、自ら、生き延びてきた、と言えるようになる。
こちらの彼女にも、あちらの彼女にも、それぞれに長い長い時間が在った。今完全に二人とも回復しているかといえば、どうなんだろう、一人は少なくとも、まだ道の途中だ。そういう私も、まだまだ道の途中。
それでも。
私たちは生きていて。今ここに在る。
そのことを、大事にしたいと思う。
一通り焼き終えて出てくると、もう空は白んでおり。いや、今日の空はちょっと違う、全体が水色だ。薄い水色。あぁ、雲がようやく少し途切れたのか、と、私は窓を開け、空を見上げる。今この時、自分の家にこうして眠っていられることに、感謝しよう。そう思う。
ベランダに出、辺りを見回す。風は昨日のように強くはなく。軽やかに流れてゆく。街路樹の緑もさやさやと、やさしく揺れている。朝焼けが強く強く光を放って、街全体を明るく照らしてゆく。あちこちのガラス窓が、光を反射させ、きらきらと輝いている。
私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。絡み合ったデージーとラヴェンダーとの枝葉をひとつずつ解いてゆく。ほろり、ほろり、解けるたび、ラヴェンダーの香りが私の鼻腔をくすぐる。デージーは細い細かな枝葉を、めいいっぱい広げており。花芽も次々生まれ出る。私が数えても、それが追いつかない程次々に。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、しんしんとそこに立っている。濃い緑色の葉が、風を受けて一瞬はらりと揺れる。まだ新芽の気配はなく。沈黙の時間を漂っているのだろうその二つの樹を、私はしばしじっと見つめる。
パスカリの花芽は風にゆらゆら揺れており。ぷっくり丸く膨らんできたその蕾は、僅かに下の花びらの色が現れてきた。真っ白のその色。私の大好きな、色。病に冒された葉は今のところ数えるほどで。それも粉を噴いているわけではなく歪んでいるだけなので、摘まずに残しておくことにする。
ベビーロマンティカはあちこちから新芽を噴き出させており。ぺちゃくちゃとおしゃべりを交わす枝葉。今朝もこの樹はとても賑やか。見ているだけでこちらの顔が綻んできてしまうのだから、この樹のエネルギーは実に強い。
ミミエデンも、二箇所から新芽を芽吹かせており。赤く染まった芽が、僅かに頭をのぞかせている。このまま葉を広げてくれたら。それも病葉じゃありませんよう。祈るように思う。
挿し木だけを集めた小さなプランターの中。新たに新芽を芽吹かせている枝。昨日と同じような位置で止まっている。大丈夫だろうか、ちゃんと葉を広げてくれるだろうか。ちょっと心配。
ふと水槽を見ると、金魚がこちらに向かって尾鰭を揺らしている。私ははいはいと言いながら、餌を振り入れる。一回潜って、それから顔を出して餌をつついと突付き始める金魚。そろそろ水槽を掃除してやらないと、私は心にメモをする。
部屋に入ると、ココアが扉の入り口に齧りついているところで。おはようココア、私は声を掛ける。そうして扉を開けて、手のひらに乗せてやる。私の目の高さのところにココアを持ってきて、彼女の様子をじっと見守る。左目は、ずいぶん調子がいいようだ。あの、ぺちゃんと潰れたような目だったのが、いつもの、くりんとした目に戻っている。目薬の威力ってすごいと改めて思う。そして、毎日ちゃんとそれをやっている娘にも、エライ、と一言心の中で声を掛ける。
母に電話をしたついでに、母にコンピューターのあれこれを説明する。それをインストールすれば、好きなときに孫とおしゃべりできるよ、と言うと、そんなことできるわけないじゃない、と反論される。いや、だから、できるんだってば、試しにインストールしてごらんよ。インストールなんてもの自体、私にはまだ分からないわよっと母。さて、と私も腰を落ち着け、結局一時間近くかけて、母にインストールの仕方を伝授する。試しにテレビ電話、やってみようか、と言って私がボタンを押すと、母の悲鳴が受話器から聴こえてくる。何これ、何かなってるわよ。その緑色のボタンの方を押してみて。緑? そう、緑。あ、映った。なんだ、あなたの映像なんてどうでもいいのよ。って言ったって、孫は今学校です。あ、そっか。無事に通話できるようになったらしい。一時間の電話代、今度返してもらおう。私は心の中、そんなことを思いながら笑ってみる。
母とこんなふうに、教えたり教わったりするのなんて、どのくらいぶりだろう。花のことはあれこれやりとりするけれど、それ以外のことでこんなやりとりをするのは、とても久しぶりのことなんじゃなかったか、と思う。そう、一度娘が赤ん坊の頃、酷くおなかを壊して、とてつもなく臭いうんちをし始めたことがあった。慌てて医学書みたいなものを広げても、訳が分からない。母におずおずと電話をすると、あぁそれはウィルスでしょ、病院行けばいっぺんで治るわよ、と笑われたっけ。あれ以来だと思う。
母とのやりとりも、父とのやりとりも、まだ私は緊張する。たかが電話一本、というけれど、そのたかが電話一本でさえ、私にはとてつもなく緊張する代物なのだ。また怒られやしないか、怒鳴られやしないか、電話を叩き切られやしないか、そういったすべてのことが、怖くてなかなか思うように電話さえできない。会いに行くことも、まだままならない。それでも。
昔よりずっと、できるようになったじゃないか、と私は心の中、呟いてみる。怒鳴る母や父の声、泣き喚く私の声、それらで部屋が充満するようなことは、もうなくなった。それだけでも、大きな変化なんじゃないか。
電話を切って、しばらくすると、コンピューターの画面に母からのメッセージが入る。
慣れるまで時間がかかると思うけれど、ありがとうね。
なんだかちょっと、私は涙ぐんでしまった。ありがとうね。その一言が、私の胸にちくり、刺さった。

ママ、生理来てる子、もう結構クラスにいるんだよね。そっかぁ。私、まだだよ。うん、別にまだでも大丈夫だよ。遅く来る方が得かもしれないし。なんで? ママもばぁばも、生理痛が酷かったから、多分あなたも生理痛持ちになると思うし。えーーー、何それ? 生理が来ると、頭痛くなったりおなか痛くなったりするの。えーー、やだ、それ、やだ。ははは。そんなこと言ってもしょうがない。当たり前のことだよ、生理痛なんて。なんか損する感じだなぁ。あぁ、それはあるね、ママもいつも、損してるなぁって思う。ママ、今も生理痛ってあるの? うん、あるね。最近は、生理の最中よりも、生理の前に、来る。え? 何それ? 生理の一週間くらい前になると、頭がふらふらしたり、痛くなったり、気持ち悪くなったりする。えーー、ますます損じゃん。ははは。まぁ、ばぁばもママも、そうやって生理とつきあってきたってことよ。ふーん。
それにしてもさ、あなた、お風呂の中でいっつもそんなふうにして遊んでるの? そうだよ。水中眼鏡して、潜って遊ぶわけ? うん! 楽しいよ。いや、楽しいのは分かるけど。だからいっつも、ぶくぶくぶくぶく、音がしてるんだ。あとは笛の音ね。あ、そう、お風呂の中でリコーダー吹くと、響いて気持ちいいんだよね。まぁね、それは分かるけど。八時過ぎたらやめてね。分かってるってー。

生姜茶を飲みながら、朝の仕事に取り掛かる。途中朝練のある娘を大声で起こし、さらに私は仕事を続ける。窓の外、今朝は雀の声が響いている。時折カーテンを揺らして、風が部屋に滑り込んでくる。気持ちのいい朝だ。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘は学校へ、私はバス停へ。
バスに乗って一瞬びっくりする。優先席二人分を、どーんと一人で占領しているおじさんがいる。シルバーのマニキュアを塗った指が、きらきら陽射しに光っている。模様のついた白いサングラスをかけて、今にも煙草をふかし出しそうな雰囲気だ。私に続いて、足の悪いおじいさんが乗ってきたのだが、全く席を譲る雰囲気がない。誰も何も言わない。
足の悪いおじいさんは結局、普通の、唯一空いていた席に座り。そのマニキュアのおじさんは、駅までずっと、鼻歌を歌いながら優先席を独占していた。私も、怖くて何も言えなかった。情けない。
バスを降り、燦々と降り注ぐ陽射しの中、川を渡る。橋の中ほどで立ち止まり、川を覗き込む。あれほどいた水母が、今朝はほとんどいない。不思議だ。何処へ行ってしまったんだろう。
それにしても。なんて明るい陽射し。空も澄み渡って。この空のずっとずっと向こう、どこかでは、雨がざんざん降っていて、今も災害に見舞われているかもしれないというのに。私は空を見上げながら、そんなことを思う。

さぁ、今日も一日が始まる。私は橋を渡り、さらに真っ直ぐ、歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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