見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2010年07月13日(火) 
昨日のあの強風が嘘のようだ。風が止まっている。窓を開け、一番にそのことに気づく。街路樹の緑は一斉に沈黙している。しかし、昨日の強風の名残を残しており、葉が裏返ったままのものが殆どだ。
見上げる空は鼠色。段々になった雲が一面空を覆っている。と、思っているところに、ぽつり、雨粒が落ちてきた。あぁやはり降ってきたか。そう思いながら空に手を伸ばす。ぽつぽつぽつ、という雨がやがて、さぁっという雨に変わる。泣いているというより、空が囁いているかのような、そんな音。
私はしゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗きこむ。ラヴェンダーとデージー、絡まりあった枝葉を、そうっと解いてゆく。いくらそうっとやっても、枝葉は擦れ、そのたびラヴェンダーのいい香りがぷわんと私の鼻腔をくすぐる。とりあえず、傷つけずには絡まりを解くことができた。デージーは次々花を咲かせていっている。小さい花、小さな枝葉ながら、その生命力は強く逞しいのだろう。緩むことのないその力に、私はちょっとした感動を覚える。
パスカリの、花芽をつけている方は、無事昨日の強風を乗り越えてくれたようで。今、微動だにしないこのぬるい空気の中、しんしんと立っている。花芽の近くの葉が、歪んでいる。ここも病いに冒されたか、と、私は小さく溜息をつく。私の育てている樹木の中で、パスカリは以前は強い方だったのに。今年は何故だろう、病に冒されてばかりだ。花芽には今のところ、粉が噴く気配はなく。それだけは避けたいと、心の底から思う。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹が、新芽を広げた。私が気づかないうちに広げてくれたらしい。真新しい黄緑色の葉がふわり、広がっている。
ミミエデンは、新芽の塊らしいものを秘めてはいるが、果たしてそれが本当に新芽なのか、まだ定かではない。そうでありますように、と祈るように思う。
ベビーロマンティカは新芽をどんどん燃え上がらせており。もうじき葉が開いてくるだろう。今のところ、粉が噴いている気配はなく。このままなら元気な葉が見られるかもしれない。
挿し木だけを集めているプランターの中、ぐっしょりと濡れた土の上、五本の枝が、それぞれに新芽を出している。さて、この中で根をつけているものがどれだけあるんだろう。まだ分からない。今年はこの天候のおかげで、ちっとも挿し木が育たない。いや、天候のせいだけにしてはいけないんだろうけれども、それでも、思ってしまう。少々恨めしい。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、しんしんとそこに佇んでいる。大きく枝葉を伸ばしたその姿は、凛として、私の心を励ましてくれる。ただ、心配なことが在る。ホワイトクリスマスの、どうも新芽になるはずだったものたちが、こぞって茶色くなっていることだ。どうしたんだろう。樹が弱ってきているんだろうか。それともたまたまそうなっただけなんだろうか。分からない。分からないけれど、心配だ。気になる。マリリン・モンローは、今のところホワイトクリスマスのような弱った様子もなく。淡々とそこに佇んでいる。
金魚に餌をやってから、ココアの様子を見る。昨日ようやく病院に連れて行くことができた。そこで言われたのが、結膜炎だった。先生の言うところによると、木のチップで目を傷つけたのではないか、ということだった。そんなこともあるのか、と改めて思う。これから一日三回、目薬を注してあげてね、と先生は娘に目薬の注し方を教えてくれる。娘は食い入るようにその様子を見、神妙に頷く。でもそこで気づいたのは、娘が声を出さないことだ。先生が、こうやってね、とか、これこれしてね、と言っても、頷くだけで、はい、と返事をしない。そういえば母もそんなことを言っていた。あの子は、ちゃんと声に出して言わないところがある、と。これはいけない。ちゃんと教えてやらないと、と私は心にメモをする。頷くだけでは伝わらないこともあるのだ。そのことをちゃんと娘に教えなければ。
会計をするところに、大きな籠が置いてあり、その中に子猫が二匹、入っている。生まれてまだ二ヶ月の雄猫だという。里親を探しているらしい。娘がしきりにその猫に見入っている。ママ、モモチビ思い出すね。うん、そうだね。モモもチビも、こんな小さい頃からママのところにいたの? うん、こんな小さい頃からいた。チビなんて、一ヶ月するかしないかでうちに来たんだよ。かわいいねぇ。うん。ママは懐かしくなる? そうだねぇ、もっと写真撮っておけばよかったって、今は後悔してる。ママ、なんで猫の写真撮らなかったの? なんだろうなぁ、いつもそばにいたから、そばにいるのが当たり前で、それに、写真に撮ったらそれで終わってしまうような気がして、嫌だったから写真に撮らなかったの。ふぅん、ママって変わってる。そうかな、そうかもしれない。ねぇ、学童のMさん、きっとこの子達見たら欲しがるね。教えてあげれば? 今度学童行って教えてあげようかなぁ。
その猫たちの姿は、本当に懐かしく。モモとチビの、あの小さな小さな赤ん坊の頃にとてもよく似ていて。私は少し切なくなった。モモがもう成猫になってから、チビがやってきたのだが、モモは実によく、チビの世話をしてくれた。チビがいくらふーっと喧嘩を売っても、決して相手にすることなく、それどころかチビの毛づくろいまで手伝ってやっていた。二匹が喧嘩らしい喧嘩をするところを、私は一度も見なかった。後姿がそっくりな猫たちだった。
ねぇママ、ママがもう一度動物飼うなら、猫? それとも犬? 猫だろうと思う。犬だったら何犬がいいの? グレートピレニー犬。ひゃぁ、でっかい犬選ぶねぇ。ママは、教会でその犬に出会ったんだけどね、とても穏やかで優しくて、利口な犬だった。もちろんあの犬と同じ犬が他にいるとは思わないけれど、あの姿形、とても好きだな。私、チワワがいい。えぇっ、チワワ?! うん。ママ、やだよ、踏んずけちゃいそうで、やだ。えー、かわいいじゃん、小さくて。んー。でもママ、猫がやっぱりいいんでしょ? うん、やっぱり猫だな。ママは、正面切って、飼い主に寄ってくる犬さんより、猫の、あの、独特な態度が好き。つれない態度が好き。ひねくれてるなぁ、ママ。ははは。そうなのかもね。
獣医さんが再度出てきて、こんなことを言う。最近は、ハムスター飼っていても、ハムスターに触れない子が多いんですよ。えぇ? そうなんですか? そうなんですよ、もったいないですよね、ハムスターもかわいそうだ。君はちゃんとハムスターと遊んであげてるみたいだね。いや、遊ぶどころか、毎日キスして戯れてます。ははは。いいことだ。ちゃんと遊んであげてね。目が治ったら、その足の瘤もちゃんと見てみよう。はい。
動物病院に来たのなんて、どのくらいぶりだろう。モモチビの予防接種以外で来たことがなかった。いまどきの動物病院は何てきれいなんだろう。びっくりしてしまう。娘と二人、また一週間後にね、と見送られながら、帰路に着く。

お湯を沸かし、久しぶりにレモンティーを入れる。そこで思い出す。昨日炊いたご飯をおにぎりにしてなかった。慌てて炊飯器を開けて、驚いた。臭う。たった一晩でご飯が腐っている。参った。なんで昨日握るのを忘れたんだろう。舌打ちしてももう遅い。せっかくのお米が。泣く泣く私はそれらをゴミ箱に捨てる。
マグカップを持って椅子に座り、思い出す、昨日の風景描画法をやった女の子の絵。遠近が歪んで、何とも奇妙な構図を描いていた。二方向からの視点があって、それぞれに描かれているから尚更におかしな構図になっていた。その絵を挟んで傾聴していくと、彼女は今、外の世界に対して心がぴたりと閉じていることがありありと分かった。長いこと施設で暮らしてきたことの疲れ、人間関係に対する不信感が、そうさせているらしい。そして、自分の感情を外に出すことに対して、強い諦観のようなものを持っていることも伝わってきた。続けて、自分が今家族と呼べるものについての話に移ると、今家族と思える対象以外とは、接したくない、閉じていたいという思いが強く伝わってきた。
家族。家族って一体何だろう。改めて思う。血の繋がり、だけではない、何かがそこに、在る。そう思える。血の繋がりなんかでは片付けられないものが、そこには在る。そう、思う。
自分が円枠家族描画法でもって絵を描いたときのことを思い出す。私はどうしても円枠の中に自分を描くことができなかった。円枠の中には、それぞれに父、母がそっぽを向いて点在し、私は円枠の外にしゃがみこんでいた。母のシンボルとして描いたマチ針が、円枠にぶすぶす突き刺さっており、それは私のしゃがみこむ場所に対して一番多く在った。何も意識せずそれを私は描いたが、改めて省みて、私は母を強く強く意識していたのだと改めて思う。そして、父に助けを求めながら得られなかった、そのことに対しての絶望感が、そこには横たわっていた。
それにしても。なぜあの絵の中に弟はいなかったんだろう。私にとって家族と呼べるのは、あの頃弟だけだった。なのに、絵を描いたとき、弟は何処にもいなかった。不思議だ。私にとって家族は間違いなく弟であったのに。それほどに私にとって父母という存在が大きかったということか。
家族。その摩訶不思議な代物。或る時期私にとって化け物のような、怪物のような代物だった。改めて思う。今その呪縛からだいぶ解かれて、それは穏やかな波のようになっているけれど。
あの女の子の中で今、家族はどんな姿をしているのだろう。

それじゃぁね、あ、待って。娘がココアとミルクを手のひらに乗せてやってくる。はいはい。私はそれぞれに撫でてやる。じゃぁ、学校で待ち合わせね。分かってるって。
今日は教育相談という、いわゆる三者面談がある。さて、一体どういうことを言われるんだろう。
自転車に跨り、坂道を下る。信号を渡って公園へ。微動だにしない深い緑が、まるで辺りを覆い尽くすかのようにしてそこに在る。こんな街中に、よくこんな場所が存在しているものだ、と、ここに来るたびに思う。公園の中の短い坂道を上り、池の端へ。立って見上げると、ぽっかり空いた茂みの向こうには、やはり鼠色の、厚い雲が広がっているのだった。
もう紫陽花の季節は終わりなのだろう。公園の紫陽花はみな、茶色くなるか色褪せるかしている。私はその紫陽花を眺めながら、ゆっくり坂を下り、大通りへ出てゆく。信号を渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木が鼠色の空を反映して、鈍い緑色に見える。
途中、珈琲屋に立ち寄る。昔よく立ち寄った場所のひとつだ。カフェオレを注文してみて思った。味が落ちたな、と。こういうのに出会うと、なんだか寂しい気持ちがする。せっかくのスペースなのに、おいしい珈琲が飲めないのは、残念しきりだ。
そのまま走り、病院の前を通り過ぎる。一時期本当に世話になった。何度救急車で乗り付けたか知れない病院。夜勤の看護士たちが、喫煙所で煙草を吸っている姿が見える。私はその脇を通り抜け、さらに走る。
港の外れに辿り着き、私は自転車を止める。停泊する船の甲板を、忙しげに往き来する人の姿が見える。私の周囲を、犬を連れた人たちが往き来している。この辺りがきれいに整備されてから、ここは犬の散歩道になったのだな、と改めて知る。そして代わりに。猫たちがいなくなった。整備される前はあちこちにいた猫たちの姿が、欠片さえも見えなくなった。私は空を見上げ、寂しいなぁと呟いてみる。
さぁ、今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加