見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2010年07月09日(金) 
ココアの回し車の音が延々と続いている。その音でどうにもこうにも眠れない。午前一時、迷いに迷った末、頓服を二錠飲む。これでも眠れないなら諦めよう、そう思った。
目の縁を怪我しているココアは、昨夜大量に目やにを出していた。それを見た娘が、またまた心配になって、ココアの籠を枕と枕の間に置いたのだ。娘はことんと寝入ってしまうから気がつかないのかもしれないが、夜が更けるにつれて大きくなる回し車の音。私はたまったものじゃない。かといって、夜行性のハムスターを怒るわけにもいかず。
薬を飲んで横になったものの、しばらくは眠れず。悶々と過ごす。一方ココアは、元気よく回し車を回し続けている。こんなに回し続けても飽きないのか、と、半ば私は感心してしまう。
結局朝まで、悶々と過ごし、私は起き上がる。窓の外はどんよりと曇っており。いつ雨が落ちてきてもおかしくはない気配。今日もまた雨か、と思っていると、さぁっと雨が降ってきた。まるで私が呼んだかのようで、何となく気まずい思いをする。呼んだわけじゃないんだけどなぁ、と思う。それは細かな細かな雨で、細い細い霧雨のようで。しとしとという音ではなく、さぁっという音を奏で。私はしばしその音に耳を傾ける。街路樹の葉に当たる雨の音、トタン屋根に当たる雨の音、みんなそれぞれ、響きが微妙に違う。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。長く伸びすぎた枝が、くたっと土近くに倒れ込んでいる。昨日水を遣ったから、水分不足というわけではない。単に、横に伸びすぎて、頭が重すぎて、支えられなくなった、というところ。何となくおかしくて、私はくすりと笑う。どういう姿であろうと、育ってくれているというのは嬉しい。
デージーは、次々に花を咲かせており。小さな小さな、黄色い花。その花びらはほんの一センチあるかないかの長さなのだけれども、黄色というだけで、花の辺りがぽっと明るく見えてくる。こんな曇天の下でも、黄色は黄色、鮮やかに色を放っている。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、沈黙の時間。大き目の葉をそれぞれに広げ、じっと佇んでいる。比べると、ホワイトクリスマスの葉の方がひとまわり、マリリン・モンローのそれよりも大きい。そしてまた、柔らかい。マリリン・モンローは頑丈そうな葉を茂らせている。今、何処から新芽を出そうか、考えている、というような感じがする。
ミミエデンは、じっとプランターの片隅に佇んでいる。どれもこれも、伸ばした葉が病葉だったのだもの、ミミエデンとしてもショックだろうなぁと思う。次に伸ばす葉が、どうか病葉ではありませんよう、私は祈るように思う。
ベビーロマンティカは、早々に新芽の塊を幾つか見せ始めており。白緑色の、新芽の塊。枝葉の間にちょこねんと、在る。耳を傾けてみるのだが、今朝はそんなに賑やかなおしゃべりは聴こえてこない。小さな小さな囁き声がしているだけ。
パスカリの一本、花芽をつけた方は、花芽を出した途端、忙しくなってきた、といった雰囲気。花芽は昨日より一段と姿を露にし。周囲の緑とは異なる、白っぽい緑色をして、くいっと首を上げている。無事に咲けよ、と、私は心の中、声を掛ける。
もう一本のパスカリは、沈黙を続けている。昨日、心配を抱えながらも、たっぷり水を遣った。次に現れる葉がどうか病葉ではありませんよう、私は祈る。
展覧会の折に頂いた薔薇の枝を、挿してあるのだが、今のところ二本が、生き延びてくれそうな雰囲気。さて、どうなるだろう。どの色の枝が残ったのかもう分からないが、どの色であっても、生き延びて、新葉を出してくれるなら、もうそれで、いい。
部屋に戻ろうとしたところで、金魚たちと目が合う。はいはい、餌だよね、と言いながら、私は水槽の蓋を開け、餌を振り入れる。一度沈んで、それから浮かび上がってきて餌を食べる金魚たち。大きな大きな尾鰭が、自由自在に動くのを、私はしばらく眺めている。
正直、憂鬱なのだ、今朝は。起きたときから憂鬱だ。この憂鬱さは何処から来るのか、もう自分には分かっている。
今日は通常の授業と、午後に傾聴の授業とがある。その、午後の授業をどうするか、で、憂鬱になっているのだ。
先週、早退なんてことを仕出かす前は、毎週受けてしまおうと思っていた。でも。
もともと傾聴の授業は二週に一回、というリズムで為される。それがたまたまこの曜日のこの時間だけ、毎週授業が為されることになっている。授業の振り替えは自由にできる。だから、たとえばこの時間帯の授業を三回受けて、別の学校で別の時間帯に授業を受けることも、可能なのだ。
午前、午後、ぶっつづけで授業を受けることが、今の私には酷くしんどいことが、先日分かった。あの時は疲れすぎていただけだ、といえなくもないが、それでも、しんどかった。中途半端になるよりも、別々の時間帯で受ける方が私には有効なんじゃなかろうか。
と同時に、まるで、私は自分が逃げているように思えるのだ。最初決めたのに、決めたとおりにできないだなんて、と。一度早退してしまったからといって、次休むなんて、どういうことなんだ、と。
自分で自分を責めている。だから私の憂鬱度はどんどん増してゆく。たまらなくなって、私は頭を抱える。抱えてみるものの、いい案は、何も浮かんでこない。
溜まっているのだ、私の中に。いろんなものが。吐き出したい、吐き出したい、と、それは叫んでいて、でも、吐き出せる相手がいなくて、私は沈黙するしかなくて。
悪循環だな、と思った。そう思って、苦笑した。
天井を見上げ、思った。自分って何て弱虫なんだろう、と。弱虫いじけ虫。みみっちいなぁと思った。
でもそれが、今の私の現実なのだと言うことを、同時にいやというほど感じた。
しばらくこの、弱虫いじけ虫の自分を、見つめてみようと思う。

お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶の入ったマグカップを持って、椅子に座る。窓の外の雨はいつの間にか止んだらしい。雨の匂いだけが微風に混じって漂ってくる。私は煙草に火をつける、そのついでに、お香にも火をつける。
今頃大叔父は、祖父や祖母と再会しているだろうか。もちろん大叔母とも再会し、またいつものように手を繋いで、笑い合っているんだろうか。
なんだかちょっと羨ましい。

ママ、「カラフル」読んだ。おお、読んだんだ。どうだった? おもしろかったよ、うん。ねぇ、次何読めばいいと思う? ママが出しておいた文庫本あったでしょ、あれ読めば? うーん、なんか字が小さすぎて、読む気にならないんだよねぇ。ははは。そっか。じゃぁ自分が読みたい本を読めばいい。読みたい本って、どうやって探すの? うーん、図書館行ったり、本屋さん行ったりして、そこで、あ、これだ!って本と出会うのがいいよね。ママはそうやってきたの? うん、たいていそうだね、で、気に入った作家が見つかったら、その作家の本を徹底的に読んでみる。って感じかな? ふーん、まだ作家とか、よく分かんないよ。そうなんだ、じゃぁ、ぱらぱら捲って、数ページなり数行読んでみて、これならいけるな、と思ったものを、次々読んでみればいいんじゃない? そんなんでいいの? いいと思うよ。本なんて出会いだから。でもばぁばは、名作って言われる本を今読みなさいって言うよ。いや、それはそれで正しいんだけど、興味ももてないのに読んだって、頭に入らなくない? うん。だったら、自分がいいなぁって思うものを読んで、心に響くものを得る方が、ずっといいと思うよ、ママは。ふーん、ママと、じじばばの言うことって、時々ものすごーく違うから、困るよね。はっはっは。そりゃ、仕方ない。じじばばは正統派だから。正統派? うーん、こう、なんていうのかなぁ、正しいって言われていることを、当たり前にやってきた人たちだからっていうような意味かな。ママは違うの? うん、多分、ママは、わき道寄り道して、あっちこっち歩いてきた方だと思うよ。ふーん。だめじゃん。ははははは。まぁまぁ、それもありってことよ。

じゃぁね、それじゃぁね。お弁当作ってあるからね、持っていくんだよ。わかったー! 手を振って別れる。玄関前。
階段を駆け下り、バス停へ、と、その瞬間、バスは去ってゆき。残念、乗り遅れた。私は十分ほど待って、次のバスに乗る。
誰もが傘を持っている。今もまた、雨がぱらついている。雨がバスの窓に描く筋が、点々とついている。
駅に着き、歩き出す。川を渡るところで立ち止まり、私は川を覗き込む。今日もまた、水母が山ほど。川にどうしてこんなに水母がいるのか、私は不思議でしょうがない。こんなに川にいるってことは、海にはもっともっと水母がいるってことなんだろうか?
憂鬱は憂鬱としてそのままに。心の隅にそっと置いてある。どのみち、自分で決めるしかないこと。
さぁ、今日も一日が始まる。私は橋を渡り、真っ直ぐに歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加