2010年07月08日(木) |
寝ようとする段になって、娘がばたばたし始める。どうしたの? ママ、ママ、ココアの目が変なんだよ。ほら。ん? わかんないの? ほら、赤くなってるじゃん。あらほんとだ、どうしたんだろう。ねぇ、どうしよう、病院行かなくていいの? 今病院やってないよ。でも、何かあったらどうしよう、ねぇどうしよう。大丈夫だよ、このくらいなら。どこかにひっかけたんじゃないのかな。でも、どうしよう、どうしよう、ねぇ今日、ココアの籠、枕の隣に持ってきていい? えぇっ? いいよね、いいよね? …しょうがないなぁ。そうして私と娘の枕の間に、ココアの籠が置かれ、灯りを消した。しかし、娘はことんと寝入ったものの、私はといえば、ココアの回し車を回す音でどうにも眠れず。結局うとうとするばかりで熟睡できずに朝を迎える。目覚めてすぐ、ココアを手のひらに乗せ、左目のところを見てみたが、これなら大丈夫そうだ、と判断する。よかった。実は、回し車の音を聴きながら、どうしよう、何かあったら、と私は思っていたのだ。ハムスターが自分から頭をどこかにぶつけるとは思えないし、よりにもよって目の周りが赤くなるというのは、解せなかった。だから心配だった。でもよかった、これなら大丈夫だ。 起き上がり、窓を開ける。夜のうちにまた雨が降ったのだろう、アスファルトが湿っている。けれど、何だろう、風が軽い。そう思いながらベランダに立って空を見上げると、昨日までの雲とは全く異なる、軽い雲が広がっている。玄関に回り、東の空を見上げてみれば、明るい陽光が伸びてきている。よかった、今日は晴れる。 ベランダに戻り、ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。ラヴェンダーはもうだいぶ伸びてきた。四本の枝からそれぞれに伸びて、長いものは私の手のひらを超える長さになっている。そしてデージーはデージーで、次々花を咲かせている。黄色い黄色い、小さな花だけれど、そこだけぽっと明るい火が点っているように見える。元気の印。 マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、天を向いて、しんしんと立っている。マリリン・モンローの足元の方、枯れた葉を今日も何枚か摘む。摘むというより、触っただけでほろりと落ちる。新芽の気配は、今のところ、ない。ホワイトクリスマスは枯れる葉もなく、ただじっと、そそり立っている。 ミミエデン。病葉の何枚かを摘んでゆく。こちらも今のところ新芽の気配は、ない。正直、ミミエデンは自信がない。いつ枯れるか、いつ倒れてしまうか、と心配でならない。毎朝こうして見つめているが、このままになってしまったらどうしよう、と、いつも心のどこかで思っている。 ベビーロマンティカは、もう新芽の気配を漂わせている。早い。なんでこんなに次々反応するんだろう、この樹は。目を見張るばかりだ。私は半ば呆気にとられながら、樹の、新芽の塊の部分を見つめる。嬉しいけれど、大丈夫なんだろうか、ミミエデンとは別の意味で心配になる。こんなに次々。少しは休んでいいのに、と。 パスカリの一本。花芽を見せ始めた樹を、じっと見つめる。昨日よりふっくらして、明らかに花芽と分かるようになった。それにしても、何だろう、この樹は、縦に伸びるのではなく、今、横に広がっている。横に横に、と、枝葉を伸ばそうとしている。奇妙な伸び方をしているなぁと思いながら、私は葉にそっと触れる。柔らかい感触が、指の腹に伝わってくる。 もう一本のパスカリは、今、まだ沈黙の時間らしい。じっと黙って、佇んでいる。水が足りないのかと水を遣れば、うどん粉病を発してしまう樹。どうしてやるのが一番いいのだろう。 部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れてそのマグカップを持って机へ。椅子に座り再び空を見上げる。開け放した窓から見える空は、まだ雲がかかっているものの、じきにそれも消えてゆくんだろう。そんな気配がしている。天気予報では最近、ゲリラ雷雨という言葉が繰り返し聴かれる。私の住むこの辺りは、そのゲリラ雷雨というものには今のところ襲われていないけれど。友人たちの住む街は、どうなんだろう。大丈夫だろうか。 テレビを眺めていた娘が突如言う。ねぇママ、冤罪って何? 冤罪かぁ、罪を犯してないのに、罪を犯したってされてしまうこと、かなぁ。なんでそんなことが起きるの? なんでだろう、ママは警察嫌いだから、よく分からない。ママ、なんで警察嫌いなの? うーん、ママ、警察でいやな目にあったことがあるから。どういうこと? それは、あなたがもう少し大きくなったら話すよ。どうして今じゃないの? 今はまだママが話したくないから。ふーん。 まだ話したくはない。というのは正確だろうか。まだ君が受け止め切れないんじゃないかと思うから、私はまだ話したくないと思うのだ。警察官は正しいことをする人、規律を守ってくれる人、と学校で習っただろう。でも、その警察官が、酷いことをしでかす可能性を持っている人だなんて、今彼女が知ったら、どうなるんだろう。人間であれば誰でも、どんな立場に立つ人であっても、間違いを犯す可能性がある、ということを、何歳になったらあなたは、考えるようになるんだろう。 今でこそ、PTSDのことも知られるようになり、勉強をしている警察官は、処方箋を述べただけで、PTSDであることを察知し、それなりの対応をしてくれることもある、と、友人に聴いた。私が被害に遭った頃はまだ、そういう体制は整っていず。散々な対応をされたことを思い出す。性犯罪被害というものにも、そもそも偏見があった。いや、今もまだ、それらは残っているのかもしれないが。弁護士にも、そういう偏見はあった。ストックホルム症候群というものを、理解できる弁護士など、何処にもいなかった。犯罪被害者が、犯人に対し、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことなどあり得ない、と、一蹴されるばかりだった。当時を振り返って、つくづく思う。 私は幸運だったと思う。最初に駆け込んだ病院で、あの女医と出会うことができた。PTSDに関する知識を豊富に持つ医者に。もし出会うことができていなければ、私は今頃どうなっていただろう。それを考えるとぞっとする。私の状態を見てすぐ、医者は私に説明をしてくれた。これがどんな病気で、だから今私が呈する症状はちっともおかしなものではないということを。それが、当時の私をどれほどに安心させたか知れない。理解してもらえないというところから、理解してくれる人が一人でもいる、というところに引き上げられたのだ。それはとてつもなく大きな違いだった。 そしてまた、場所は違えど、殆どといっていいほど同じ被害に苦しんでいる友人を見つけた。その友人と、国際電話を通じて、何度抱き合ったことだろう。お互いに励まし合い、慰め合いしながら、必死の思いで生き延びた。 その友人を含め、私が生き延びてくる過程で得た友人たちは、今、当たり前のように私の心の中に在る。そしてまた、私の娘の中にも在てくれている。その友人たちの経緯をいつか、私は話すことがあるのかもしれない。いや、いずれ話すだろう。でもその時はいつか。いつだろう。まだ、分からない。中学に入ってすぐかもしれないし、高校生になる頃になるかもしれない。あの子の様子を見ながら、それは推し量っていきたいと思う。
「あなたが何かを理解したいと思っているとき、あなたの精神状態はどのようになっているのでしょうか。…そういうときには、あなたは他の人が言っていることを分析したり、批判したり、判断を下したりしてはいないのです。あなたはただ耳を傾けているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考の過程が活発に動いているのではなく、油断なく見張っている状態になっているのです。その状態は時間に属するものでしょうか。あなたはただ油断なく観察し、受動的に感受性が強く、しかも十分に意識が働いているのです。このような状態の中にのみ、理解が生まれるのです」「あなたが間違いを間違いとして認識したとき、あなたは真実そのものが何であるか知り始めるのです。そしてあなたをその背景から解放してくれるのは、その真実なのです」
じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。 自転車に跨り、走り出す。日向を通った途端、ぐんと気温が上がるのを感じる。それどころか、この時間から肌がひりひり焼け付くような、そんな感覚を覚える。一体今日は何処まで暑くなるんだか。 坂を下り、信号を渡って公園の前へ。烏がやけに公園の柵沿いに集っている。烏に見つからないようそっと自転車を押して、公園の中に入る。池の端に立ち、見上げると、ぽっかり空いた樹の茂みの向こう、青々とした空が広がっているのが分かる。空の高いところでは風が強く流れているんだろうか。薄い雲がびゅんびゅんと流れてゆく。ふと池の向こう岸に目を遣ると、トラ猫が、大きく伸びをして、去ってゆくところだった。もしかしたら朝寝の邪魔をしてしまったのかもしれない。申し訳ないことをした。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木は、見事な日陰を作ってくれる程に育っており。私はその日陰を走ってゆく。交差点で信号待ちしていると、朝の散歩なんだろう、大きな大きな白と黒の犬を二匹連れたおじさんが、ゆったりと歩いてくる。私とすれ違うときも、お行儀よく通り過ぎていった。思わず微笑んでしまう。 信号を渡り、真っ直ぐ走る。モミジフウも今はすっかり茂っており。じきにあの、いつもの実の姿も見られるようになるんだろう。今年はまた、娘と拾いにきて、季節になったらリースでも作ろうかと思う。 辿り着いた海と川とが繋がる場所。ここにも、水母が山ほど漂っている。正直ちょっとぞっとする光景だ。あまりの夥しい水母の数に、慄いてしまう。港を見回すと、巡視艇が行き交っているところで。遠くに汽笛が響いている。 さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。 |
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