2010年07月05日(月) |
目を覚まし、隣を見ると、娘が素っ裸で眠っている。何で素っ裸なんだろう。脱ぎ捨てられたシャツとパンツとが、丸くなって娘の体の傍らに転がっている。暑くて無意識に脱いだということなんだろうか。私はしばし、彼女の裸体に見入り、首を傾げる。 窓を開け放し、ベランダに出る。どよんと湿った空気が一気に私の体を覆う。あまりの湿り気加減に、思わずうっと声が出る。雨がすぐそこまで来ている。そういう徴だろうか。空を見上げて頷く。空は一面、こちらに迫ってくるほど重い雨雲に覆われている。 通りにまだ人の姿も車の影もない。あたりはしんと静まり返っている。あぁ、そうか、風もないのだ、と納得する。だから葉の擦れる音さえ聴こえてこないのだ。 しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。この週末で、あの茶色くなっていた枝はやはり枯れてしまった。残り四本は、元気に枝葉を伸ばしてくれていることが救いだ。大きく葉を伸ばしている者は、もう私の手のひらほどの丈はあるだろうか。それを見つめていると、なんだかほっとする。枯れてしまった二本の分も、元気に伸びていってほしいと思う。 デージーは留守にしている間に花が二つ、三つに増えた。黄色い明るい色だ。小さな花だけれども、その花びらの明るさが、ぱっとあたりを明るくしてくれる。試しに息をそっと吹きかけてみる。それだけでさやさやと揺れるほどの草だ。それでもしっかりこうして花を咲かせる。 ベビーロマンティカは四輪目も咲いた。それを切り花にしてやる。お疲れ様、と声を掛けながら鋏を入れる。花を切り落としてみると、それまでおしゃべりをしていたベビーロマンティカの葉たちが、一斉に黙り込んだ、そんな気がした。あぁやはり、本当は疲れていたのだ、花を次々と咲かせて、本当は全身、くたくただったんだ、と私は感じる。ありがとうね、しばらく休んでね、私は心の中、声を掛ける。 ミミエデンもちゃんと二輪目も咲いてくれた。小さく小さく、本当に小さくだけれども、それでも咲いた。それにも私は鋏を入れる。ありがとうねと声を掛けながら。そして、病葉を、一枚、また一枚、摘んでゆく。全部摘んだらすかすかになってしまうかもしれないけれど、それでも、一旦リセットして、またそこから始めればいい。そう思う。 ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、沈黙を続けている。昨日の強すぎるほどの陽射しで、ちょっと疲れが増しているように見える。あまりに強すぎる陽射しは葉を焼いてしまう。そんなこと気にしていたらやってられないとも思うのだが、それでもこうして朝見つめると、その疲労加減がありありと伝わってくる。人間が酷く日焼けをした後と同じだな、と思う。今頃体のあちこちが痛くて、本当は小さな悲鳴を樹も上げているのかもしれない、と思う。 パスカリたちは、留守にしている間に、新芽をまた出して、そうして今、しんしんと佇んでいる。これが病葉じゃなければいいのだけれども、と祈るように思う。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹も、なんだか疲れているようだ。やはり昨日の陽射しが効いたか。私はしゃがみこみながら、その葉をそっと撫でてみる。張りのある感触が、指先に伝わってくる。よかった、ちゃんと生きてる。私はほっとする。 私は立ち上がり、再び空を見上げる。今日雨が降るのならば、水を遣らなくてもいいだろうが、どうなんだろう。降るんだろうか。何となく降る気はする。とりあえず夕刻まで待ってみよう。 部屋に入ろうとするところで、金魚と目が合う。おはようさん。声を掛けながら餌を入れてやる。一旦水槽の底に沈んで、それから浮かび上がってきて餌をつついてゆく二匹。大きな尾鰭が、ゆらゆらと水の中、揺れている。 あの日は散々だった。午前と午後と、両方授業のある日。その午後の授業の途中から、具合が悪くなり、吐き気に襲われ、とうとう早退せざるを得ないということに。這うように家に戻り、トイレで吐く。吐くだけ吐いたら、すっきりし、でも、どっと疲労が私を襲い。私は横になった。一体何やってんだろう、お金を払って授業を受けているというのに、その授業の途中で早退だなんて。本末転倒だ。一体自分は何やってんだ、と、悔しくて悔しくて仕方がなかった。でも、それよりも何よりも今は、疲労が私を押し潰そうとしていた。 私はこんなに疲れていたんだっけか。こんなにいっぱいの重たい疲労を抱えていたんだっけか。私は改めて、この何週間かのことを思い返す。個展に葬式に。それだけでもう、十分疲れているといってよかった。なのに私は、それを多分ずっと、無視してきた。そのつけが、今、私を襲っている。そんな気がした。 とにかく眠れるだけ眠ろう。そう思った。途中娘が帰宅し、再び塾に出かけてゆくのを見送る以外、何もせず、ただ横になっていた。泥のように横たわって、その間、幾つもの夢を見ていた。 友人が亡くなったのはいつだったっけか。大叔父が亡くなったのはいつだったっけか。個展の搬出はどうやったんだっけか。怒涛のようにいろんなことが押し寄せてきては、引いていった。部屋が徐々に徐々に闇の色に染まってゆくのを、私は意識のどこかで感じていた。もう夕暮れも過ぎて夜に入った。それでもまだ、私は起き上がれなかった。 途中弟から電話が入った。仕事のことだった。その時ばかりは起き上がり、メモをし、電話を切った。けれどそれが終わるとまた、私は床に横になった。起き上がっているのが、体を立たせていることが、しんどかった。 横になりながら、私は穴ぼこに会いに行った。穴ぼこはしんとそこに佇んでおり。でも何だろう、ちょっと怒っているかのようだった。そうか、私は何だかんだいって、自分の状態をないがしろにしてきたのだな、そのことを彼女は、静かに怒っているのだな、と感じた。 「サミシイ」にも会った。「サミシイ」は、オカリナで新しい旋律を奏でていた。あぁそれは、葬送の曲だ、と、聴いた瞬間に思った。「サミシイ」なりの葬送の曲。あぁそうか、「サミシイ」は、亡くなっていった人たちを敏感に感じ取って、だからこそ今こうして、音を奏でて見送っているのだな、と感じた。あぁそうか、まだ喪の時間は続いていたのだ。そうだ、そうだった。私はまだ、喪の時間を過ごしていた。そのことをすっかり、忘れていた。情けない。 いろんなことを、そうやって私は、置き忘れていたのかもしれないと、今更ながら気づいた。ざわざわするばかりで、そのざわざわの奥底に潜むものを、ちゃんと感じ取ろうとしなかった。勝手にいいように解釈して、何とかなると高をくくっていた。何とかなる、それには限度というものがあって。そのことを私は、ちゃんと見ていなかった。 帰宅した娘が問う。今まで横になってたの? うん、そう。やっぱりねー。やっぱりねーってどうして? だってさー、ママ、全然休んでなかったじゃん、最近。そうだっけ? うん、そうだよ。 そこまで娘が言った時、急にふらふらと体が揺れた。娘がばっと私の体を支えてくれたから倒れずに済んだけれども、危なかった。まったく、こんなになるまで、私は自分を放っておいたのか。情けない。 娘に急いで夜食を作り、食べさせる。その間も、私はできるだけ体を横たえていた。娘はそんな私を横目に時折確認しながら、うどんを啜っている。 結局、娘にもつきあってもらって、早々に電気を消し、二人で横になった。でも、眠りに入ったのはもちろん娘が先で。私は置いてきぼりにされたような気分で、しばらく娘の寝顔を眺めていた。
お湯を沸かしたところで、私はふと迷う。さて、何を飲もう。とりあえず生姜茶を入れてみたけれど。でもその前に、くいっと一口、冷たい麦茶が飲みたい。そう思った。冷たいものを飲みたいなんて、どのくらいぶりだろう。冷蔵庫から、娘用に作っている麦茶を出し、コップに半分注ぎ入れる。それにしても冷たいなぁと、いや、冷蔵庫から出したんだからそれが当たり前なのだけれども、でも、普段冷たいものを飲みなれない私にとってそれはやっぱり冷たくて。体の中に、冷たいものがぐいっと入っていくのを感じながら、ごくごくと飲み干す。それから、いつものように生姜茶のカップを持って、椅子に座る。 昨日買ってきたお香を焚いてみる。それはとてもとても懐かしい、亡き祖母の匂いを思い出させるような、そんな匂いで。目を閉じると、着物姿の祖母の姿が甦る。家の中ではいつでも割烹着を着ていた。髪を結い上げて、ぱたぱたと動き回っていた祖母。今、祖母の着物は殆どすべて、母が持っている。母がもし亡くなったとき、それは何処へ行ってしまうんだろう。ふとそんなことを思った。なくなってしまうのはあまりに寂しい。祖母と、そして母の、それぞれの匂いを含んだ着物たち。できるなら私が、継いでいきたい。 そういえば父から珍しく、穏やかな電話が掛かってきた。弟のことだった。手伝ってやってほしい、と、改めて言われた。父からそんなことを言われずともそのつもりだったけれど、父に改めてそう言われ、何となく、落ち着かなくなった。お尻の隅のあたりがこそばゆい、とでもいうんだろうか。そんな感じがした。 その弟は昨日もやってきて、デザインがどうのこうのと話し合い、帰っていった。帰りがけ、土産を渡すと、俺の好きな塩辛、覚えてたか、と弟がにっと笑った。私に何ができるのかわからないけれど、できることはやるつもりだ。心の中で、改めてそう思った。
ねぇママ、塾でね、ちんけ扱いされた。ちんけ扱いって? こいつちんけで勉強もできねぇんだ、って友達に言われた。そんなこと言う人が友達なの? いや、友達じゃないけど。でも。言われた。どうして言われたの。あのね、その子がね、プリントに名前書かないでいいみたいなこと言うから、書いた方がいいと思うよって言い返したら、突然、その子がそういう態度を取り始めた。帰りがけなんて、足引っ掛けられて、もうちょっとで転ぶところだった。そうか。うん。で、ちんけってどういう意味でその子使ってるんだろう? わかんない。でも、傷ついた。そりゃ傷つくわな。私、そりゃ、あんまり勉強できないけど、ちんけって言われたり転ばさせられたりするほど、悪いことしてないと思う。そうだね、今の話からだと、ママもそう思う。これからどうすればいいと思う? 放っておきなさい。放っておくの? じゃぁ、先生に言いつける? それはやだ。じゃぁ、しばらく放っておきなさい。何言われても、無視しちゃえ。それでいいのかな? いいかどうか分からないけど、ママはそうする。うん、ママはそうするってだけなんだけど。そうすれば、その子、そういうことしなくなるかな? もししなくならないんだったら、またその時考えようよ。でもさ、でもさ、私、そんなに馬鹿なのかな。なんで? だって、勉強できねぇって。ははは。じゃぁ最初から勉強できる子、何処にいるの? そういうのは天才って言うんだよ。ママは天才じゃないから、あなたも天才じゃない、残念ながらね。努力しないと勉強できるようにはならない。うん。もし悔しいなら、勉強して、見返すしかないなぁ。そっか。そうだよね。うん、分かった。 人の言葉ってさ、無責任で、どうしようもなく鋭かったりするから、傷つくよね。うん。でもさ、それにいちいち傷ついてたら、体も心もぼろぼろになっちゃうんだよ。うん。これからまだまだ生きていかなきゃならないからね。うん。聴き流す、やり流す、ってことも、時には大事なんだと、ママは思う。ふーん。ママはそうやって来たの? そうだね、影で泣いて、でも、表では、強気でいた。ははは。平気だよって顔してた。そうなんだ。それはそれで辛いこともあるけどさ、でも、多分、大事なことのひとつだよ。ふーん。
じゃあね、それじゃぁね、ちゃんと窓と鍵、締めてね。うんうん、分かった。私たちは手を振って別れる。 と、その時、雨が降ってきた。私は傘を取りに再び玄関に戻り、じゃぁね、と声を掛け、玄関を飛び出す。 マンションを出るところで、ママ、バス来たよ!と、娘の声が上から降ってくる。ベランダに出ている娘が、急げ急げとバス停を指差している。私は慌てて大通りを渡り、娘に手を振って、バスに乗る。 混みあうバス、混みあう電車。川を渡るところで、私はじっとその川に見入る。空の色を映して、濃暗色に澱んだ川が、それでも朗々と流れてゆく様を、私は目の奥に刻んだ。 さぁ、今日も一日が始まる。ホームに滑り込んだ電車から、私は駆け出す。 |
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