見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2010年07月01日(木) 
夜中過ぎに目が覚める。眠ることが出来たのは、約二時間というわけか。ちゃんと薬を飲んで寝たはずなのに。なんだかがっかりする。でも、頭は冴え渡っており。どうにもこうにも、再度横になるということができそうにない。私は仕方なく、起き上がる。
窓を半分開けた後、PCの電源を入れる。そして昨日作ったファイルを全部、頭からチェックすることにする。どこかに間違いはないか、スペルミスはないか。しつこくしつこくモニターと睨めっこ。
昨日会った弟は、久しぶりに生き生きとした顔をしていた。疲れは滲み出ているけれども、それでも彼は今気力に満ちている。それが分かった。こういう時の弟はちょっと怖い。いい意味で怖い。気力が先走りして、足元が疎かになっていることが多々在る。だから私は、用心深く彼の話に耳を傾ける。
私が今更何を言おうと、彼の決定は変わらないのだな、と分かった。彼の意志は強固で、私以外の誰であっても、それを突き崩すことはできないだろうと思えた。それなら私にできることは何か。彼が次々に私に案を放り投げる。私はキャッチできるものはキャッチして、できないものはできないと意思表示する。
私にも、多少のプライドは在るというもので。特に自分の仕事に関しては、それなりにプライドを持っているから、妥協はしたくない。弟と私と、向き合って、案をすり合せる。できること、できないことを、こういうときこそはっきりさせておかないと、後でとんでもないことになる。それは二人とも分かっている。こういうとき、姉弟という関係が、遠慮をなくさせてくれる。都合がいい。
突然ふと、思った。弟の人生脚本は、どんなものだろう、と。今までのものを見る限り、彼には、成功してはいけない、という禁止令が強く働いているように思える。
彼には凄まじい劣等感とプライドとが同居している。今気力が漲っているからそれがあまり目立って見えないが、彼の気の力が弱くなったとき、それが露骨に見えてくる。私はそれらが、どういう経緯を経て彼の中に巣食っているのか、いやというほど分かる気がした。父母の影響は、弟にも多大に作用している。
彼は脚本を描き変えることができるだろうか。もう年齢的にもぎりぎりだろう。これが或る意味、最後のチャンスかもしれない。ならば。
私にできることは、すべてやろう。そう思った。
私には、弟に対して、大きな大きな借りがある。
被害に遭った直後の日曜日。いや、もうあれは月曜日になっていたか。丑三つ時に、私は弟にSOSの電話を掛けた。弟は何も言わず、始発で飛んできてくれた。そして、会社にまで付き添ってくれた。それから後も、折々に、私をサポートしてくれた。
その借りを、返せる機会なのかもしれない、この今という時が。
そう思ったら、眠る気も失せるというもの。明日また会う時間になるまでに、私に用意できるものはすべて、用意しておきたい。
気づけば外は薄明るくなってきており。時計を見れば午前四時半。耳をすっと澄ますと、雀の啼く声がする。私は思い切り食堂の窓を開け、外に出る。ベランダから見える空は雲に覆われており。また雨が降るんだろうか。それとも日中はもつんだろうか。私は見上げながら手を差し出してみる。湿気を含んだぬるい風が、私の腕に纏わりつく。街路樹の緑は静かに佇んでおり。風はゆるく流れている。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーの花の咲き方というのは、ちょっと変わっているのだな、と気づく。花びらが徐々に徐々に伸びてくる、そんな感じなのだ。今、丸い玉の周りに黄色い細い花びらがびっしり生え、それがちょっとずつ、ちょっとずつ伸びてきている。
ラヴェンダーは、よく見れば、一本が危うい気配を漂わせている。新芽が出ていないわけではないのだが、伸びがよくない。これも、前に枯れたものと同じ、古い枝だ。古い枝だから水の吸い上げが悪いんだろうか。だからこんなふうに、育つものも育たなくなってしまうんだろうか。このまま枯れるのは寂しいよ、私は心の中、声を掛ける。伸びておくれ、枯れないでおくれ。もうこれ以上。
ミミエデンの二輪目の蕾が、今一生懸命開こうと努力している。一輪目のすぐ脇で、二輪目はまだ丸く、閉じており。でも、花開こうと頑張っているのは強く伝わってくる。それにしても。この病葉はどうだろう。これでもかというほど。新葉という新葉がすべて、粉を噴いている。薬を噴き掛けて、多少今収まってはいるが。もう元に戻ることはない、歪んだ葉たち。花が咲いた後、どうやって手当てしてあげたらいいんだろう。私は頭を抱えてしまう。
ベビーロマンティカの蕾は昨日のうちには開かなかった。私はそっと指で撫でてみる。やわらかい花びらの感触が、指先からじわじわと伝わってくるのが分かる。うふふ、ふふふ、と、笑っているようなベビーロマンティカ。こんな天気でも、君は楽しげにそうやって笑うんだね、と、私は心の中声を掛ける。そう、どんなときでも楽しげな声を響かせてくれる。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。沈黙の時間、だ。しんしんとそこに立っている。マリリン・モンローの、内側の葉をよく見れば、自分の棘にやられて傷ついた葉が幾枚か。摘もうかどうしようか迷って、一番酷いものだけを一枚、摘んだ。
パスカリの一本が、急に動き出している。にょきにょきと根元から枝を伸ばしてきている。とりあえず今のところ、それは病気には冒されていないようで。私はほっとする。
母から連絡が入る。兄さんが、あなたからメールが来たんだってわざわざ電話をよこしたのよ。喜んでたわ。と。それだけの短い電話だった。そんな、私は別に、挨拶代わりに出しただけのメールだったのに、そんなに喜んでくれたなんて。なんだか急に照れくさくなる。でも、これで終わりになってしまうのもつまらないので、まだムーミンのおじちゃんが会っていないわが娘の写真を、小さく縮小して送ることにする。おじちゃんは何て言うだろう。娘は誰に似ていると言うだろう。母か、私か、それとも祖母か。
ふと思う。人とのつながりって、こうしたささやかなものの積み重ねなんだよな、と。そう、別に特別なことはなくても、小さな小さなことが積み重なって、大きく育ってゆく。そういう、もの。

ねぇママ、痛いところなぁい? あるある、足が痛い、脹脛。揉んであげようか? え、いいの? うん。ありがとー。あ、でも、それはくすぐってるっていう感じだから、いっそのこと、とんとん叩いて。そんなに痛いの? うん、今日は特に痛い。うちにお金があったらねぇ。え? だから、うちが金持ちだったら、こんなにしんどくないのにねぇ。あんた、何突然、そんなこと言ってんの? 貧乏なのが嫌になった? いや、別に、そういうわけじゃないけど、お金あったらなぁって思うワケよ。ははは。そりゃ、働かなきゃお金入ってこないね。うん、そうなんだけどさ! 宝くじでも当たればねぇ。ママ、宝くじ買ったの? ううん、買ってない。なんだ、買わなきゃ当たるもんも当たらないじゃん。いやー、なんかねー、買う気にならないのよー。宝くじ買うなら、そのお金で二人でアイス食べられるじゃん。まぁねー、そうなんだけどねー。ははは。ま、うちは、何処までいっても貧乏だね。だね!

ママ、この写真、覚えてるよ。こっちがチビで、こっちがモモでしょ? うん、そう。あ、私がモモの頭叩いてる! うん、この時、あなたがモモの背中の毛むしったり、頭叩いたりしてるのに、モモ、じーっと我慢してたんだよ。チビは? チビはたたたーーーって逃げてった。わはははは。モモは偉い猫だ、うん。はっはっは。
ママ、この写真、何やってるところ? あ、それは、あなたがティッシュペーパーを次々引っ張り出しては放り投げてるところ。えーー、そんなことやってないよ。やったんだってば。そのティッシュペーパー、どうしたの? 集めてママが鼻紙に使ったよ。えー、やだー! なんでやなのよ? 棄てればいいのに。もったいない、あなた、一箱分全部引っ張り出したんだよ。えー、知らない知らない、覚えてないから! ははははは。
この辺から、モモもチビもいないね。うん、そうだね。ママ、また猫飼いたい? うん、いつか飼いたい。私は犬が飼いたい! じゃ、犬と猫が飼える家に住まないと。だね、ってことは、やっぱりお金が必要じゃん。あー、働けってことかー。ママ、頑張れ。はいはいはいー。

「問題は何をなすべきかということです。当然のことですが、私たちは逃避するわけにはいかないのです。逃避することはあまりにも愚かで大人げないことです。しかしあなたがありのままの自分と向かい合ったとき、あなたはどうしたらよいのでしょうか。まず初めに、ありのままのあなたを否定したり正当化したりせずに、ただそれと共に留まっていることはできるでしょうか。これはきわめて難しいことです。なぜかと申しますと、精神は説明や非難や同一化を求めるからなのです。もし精神がそういうことを一切やめて、そのままじっとしているなら、そのとき精神は何かを受け容れているような状態になっているのです」「あるがままのものを受け容れるのは非常に難しいことなのです。あなたがそれから逃避しないときにのみ、それを受け容れることができるのです。非難や正当化は一種の逃避なのです。それゆえ、私たちがなぜうわさ話をするのかということの全体の過程を理解し、そこに含まれている愚かさや残酷さやその他すべてのものを認識したとき、そのとき私たちはありのままの自分になるのです。しかし私たちは常にそれを破壊するか、あるいは別のものに変えるために、自分自身に近づいてゆくのです。もし私たちがそういうことをせず、ありのままの自己を理解し、完全にそれと一体でいるという熱意を持って自分自身に近づくなら、もはやそれは恐れたりするものではないことに気づくでしょう。そのとき、あるがままのものが自ずから変容する可能性が生まれるのです」

じゃぁね、それじゃぁね。気をつけてね! 手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車に跨って走り出す。
坂を下り、信号を渡って公園へ。公園の水色の紫陽花の色が少しずつ褪せてゆく。ほんの少しずつだけれども。それにしても、このあたりの家々にも紫陽花の樹が多くあるのだな、と、改めて気づく。紫色のものもあれば、ピンク色のものもあり、水色のものもあり。色とりどり。
大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。信号をそのまま一気に渡り、モミジフウの樹のそばを通り、さらに私は走る。
海と川とが繋がる場所で、自転車を止める。濃紺と緑色を混ぜたら、こんな色の海になるんだろうか。私はただ、じっと、海を見つめている。
強い風が吹きつける。そのたび波がばしゃんと音を立てる。遠く汽笛の音が響いている。ただそれだけなのに。私はなんだかほっとする。
さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、先を急ぐ。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加