見つめる日々

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2010年06月29日(火) 
娘にぴっとりくっついて眠られて、私は暑くて暑くて、眠るどころではなかった。汗だくの娘の頭を脇に感じながら、彼女が赤子の頃のことを思い出していた。彼女が赤子の頃、私は彼女に添い寝することが怖くて怖くて仕方がなかった。乳を口に咥えたまま眠ってしまう彼女を、寝床に横にさせ、自分も横になればそれでいいというのに、私は怖くて、隣に眠ることができなかった。潰してしまうんじゃないかとか、私の穢れが移ってしまうんじゃないかとか、様々なことが頭を巡って、どうにもこうにもいかなかったのを思い出す。あの頃はそういえばモモとチビという猫も一緒に暮らしていた。不思議なことに、赤子のいる部屋には一切入ろうとしない猫たちで。娘がはいはいできるようになってからは、娘の遊び物にされても、絶対に娘を引っかいたりしない、不思議な猫たちだった。懐かしい。今まだ生きていたら、娘のいい相談相手になってくれただろうに。そんなことを思う。
娘の体を跨いで起き上がり、窓を開ける。あぁ、今すぐにも雨が降ってきそうだ。そう思った。思いながら見上げる空は、まさに鼠色で。もくもくとした雲がこれでもかというほど敷き詰められており。手を伸ばせば今すぐにでも、雨粒が落ちてきそうなほど湿っていた。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。五本の枝葉たちは、めいめいに伸びている。背の高いものはもう十センチになるだろうか。今のところ、彼らの根を食う虫は、鉢の中にいないらしい。もうあんな目に遭うのは嫌だなと思う。
デージーに、小さな小さな丸い、粒のように丸いものがくっつき始めた。これは花芽なんだろうか。母だったらすぐに分かるんだろうに。私には、自信がない。花芽といえばそのような気もするのだが。どうなんだろう。
ミミエデンが咲いた。一輪咲いた。濃いピンクの中心をもつ花だ。病に冒されながら、よく咲いてくれた。私はじっとその花を見つめる。今日帰ってきたら、早速切ってやろうと決める。そして病気の葉も、何とかしてやろう。そう思う。
ベビーロマンティカの蕾もまた、綻び出している。肥料も殆どやっていないというのに、よく続いて咲いてくれるものだと思う。この生命力は一体何処から来るんだろう。この鼠色の空の下でも、さわさわとおしゃべりしているような賑やかさ。こんな季節なんだもの、雨が降るのは当たり前よ、と笑っているように見える。
マリリン・モンローは、一輪の花を咲かせ終え、今、沈黙の時期に入っているようだ。しんと静まり返っている。何処からも紅い新芽の気配はなく。しばらくはこのままなんだろう。お疲れ様、私は心の中、声を掛ける。
その隣のホワイトクリスマスも、今は沈黙の時期。でも僅かに、枝葉の付け根に、新芽の気配。固い固い芽の気配。伸びてくるといいな、とそう思う。
パスカリたちの一本は、新芽を次々伸ばしてくれているのだが、その大半がうどん粉病にかかっている。かわいそうに。全身粉を噴いているわけではないのだけれども、葉が歪んでいる。もう一本のパスカリの新芽は、今のところ大丈夫そうだ。
しかし、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の新芽は。これもまたうどん粉病に冒されており。せっかく伸ばしてくれる葉の殆どが粉を噴いている。困った。どうしよう。全部を摘むにはあまりに忍びなく。私は数枚だけ、酷いものだけをとりあえず摘んでみる。残りは様子を見よう。
ふと気配を感じ振り返ると、雨が降り始めていた。しっとりと降る雨だ。激しいわけではなく、でも、細かい雨だ。
玄関に回り、校庭を見やれば。けぶるような雨の様。埋立地の高層ビル群は、雨と雲の向こう側に埋もれている。今日は誰も、校庭で遊ぶ子はいないんだろうなと思うと、ちょっと寂しい。
部屋に戻り、娘を起こす。五時に起こせと言われていた。揺り起こし、シャワーを浴びるように言う。
その間に私はお湯を沸かし、生姜茶を入れる。そうして椅子に座り、煙草に一本、火をつける。半分開けた窓からは、雨の静かな音がみっしりと響いてくる。

私にはもう、弟はいないと思っているの。母が電話口で言った。母は四人兄弟だ。兄が一人と弟が二人。その二人のうちの一人の弟は、もう癌で亡くなった。一番下の弟は健在だが、母にとってもう、その人は弟ではないと言う。どうして、とは聴けなかった。おじが亡くなったときの、下のおじの仕打ちは、私も知っていたからだ。
だから私の兄弟はもう、兄さんだけよ。母が言う。その兄さんというのは、私にとってはムーミンのおじさんと呼んでいるおじさんで、もう七十一を数える。
大叔父の葬儀の折、ムーミンのおじさんは母にぴったりくっついていた。いや、母がおじさんにくっついていたのかもしれない。どちらか、それは分からない。その様子を見ながら、私は、お兄さんがいたらこんな感じなのかな、なんて想像した。
親族と呼ばれる人たちの様子を、ぼんやり眺めながら、もう二度と会わないのかもしれないのだなとも思った。
血のつながりって、何だろう。

ねぇママ、たった一日で、ディズニーランド、全部回っちゃったんだよ、乗り残した乗り物、ひとつもないんだよ。すごいでしょ。娘が興奮しながら言う。うんうん、すごいね、みんな疲れなかったの? 疲れたよぉ、でも、絶対全部乗ろうねって約束したの。何が一番面白かったの? お化けのお屋敷かなぁ。え? ジェットコースターじゃないの? うん、だって、ジェットコースター、あんまし怖くなかった。あ、そうなの。ご飯は何食べたの? ピザ! ねぇママ、ママにお土産に買ってきたノートだけどさ、あれ、私にくれない? なんで? 日記帳にしたいんだけど。あ、いいよ、分かった。ママに買ってきたんだけどさ、でもさ。分かってるって。いいよ、日記帳に使いな。うん!
じじばばには絶対秘密だね。もちろんだよ、秘密だよ。その分ちゃんと、勉強しないとバレちゃうよ。大丈夫大丈夫、絶対頑張るから。頼むよっ。
私は娘の話を聴きながら、あれこれ想像した。人ごみがだめな私の代わりに、娘をディズニーランドに連れて行ってくれた友人二人。さぞや疲れたことだろう。本当にありがたいことだ。まさか娘に、ディズニーランドを体験させてやれるとは思ってもみなかった。ありがとう、ありがとう。

亡くなった友人の夢を短く見る。それは、彼女が暗闇の中、じっと身を潜めているところで。ハリネズミのように全身の毛を逆立てて闇に目を配り、敵が何処にいるのかを凝視しているところで。そんな彼女の姿に、私は、思わず手を伸ばそうとして。そこで夢が醒めた。
大丈夫、もう、そんなふうに、身を潜めていなくてもいいんだよ、もう大丈夫なところにあなたは逝ったのだから。夢が醒めてから、私は心の中、彼女に言った。私の声は、届いたろうか。

次の個展が決まった。秋だ。十月下旬から十二月。毎年国立の書簡集でやらせてもらっている。今年も、「あの場所から」を前期に展示する予定だ。
「あの場所から」も今年で四回目になる。性犯罪被害者の友人たちが参加してくれての撮影だ。そろそろ彼女たちに、今年のテキストを頼む時期にも来ているなと思い出す。七月に入ったら早速その作業に入らないと。私は予定表に書き込む。
今回は、撮影のモデルになってくれた子が二人、撮影の手伝いをしてくれた子が一人、その他文章で参加してくれると言ってくれている子が二人いる。
性犯罪被害者の人たちが本当に参加してくれるんですか、と、百音の個展の最中に問われた。そう思う人が多いのかもしれない。でも、実際に参加してくれるからこそ、この撮影は成り立っている。
私は、彼女たちの悲惨さを写し出したいわけじゃぁない。「今」の彼女たちを写したいといつも思っている。「今」を生きている彼女たちを写すことで、彼女たちが乗り越えてきたものたちがどんなものたちであるのかを、見てくれる人たちがそれぞれに想像してくれたら、と思っている。
今ネガを机に広げながら、どこから手をつけようかと考えている。今回はしんしんとした画になりそうだな、という予感がする。

「もしあなたが悲しければ、悲しみなさい。それから抜け出す方法を探そうとしてはいけません」「自己認識というものは、他人や、書物や、告白や、心理学や、精神分析学者などを通じて寄せ集めたりすることができないのです。それはあなた自身が発見しなければなりません。なぜならこれはあなたの人生だからです」「精神の自己閉鎖的な活動を超えるためには、あなたはその活動を理解しなければなりません。それを理解するということは、物や人間や観念との関係の中であなたの行為を注意深く見守ることなのです。その関係―――それは鏡の役目をするのです―――の中で、私たちは正当化も非難もせずに、私たち自身の姿を見始めるのです」

じゃぁね、それじゃぁね、また後でね。手を振って娘と別れる。私はゴミを出し、そのまま通りを渡ってバス停へ。
混みあうバスの中、ヘッドフォンから流れてくるのはSecret GardenのEscape。まさに今このバスの中から逃げ出したい気分だと、私はこっそり下を向いて笑う。
ちょうど出勤時刻。これでもかというほどの人ごみ。私は頭がくらくらしてきそうになるのを何とか支え、階段を上る。
晴れていれば、駅三つ分を自転車でかっ飛ばして走れたのに。そう思いながら走り出す電車の窓の外を眺める。このあたりも随分変わった。昔デパートがあったところに、高層マンションができたり、逆に昔ながらのビルががら空きになっていたり。
明日弟と会う前に、準備をしておかなければならないことを思い出し、急いでメモする。弟は今、再び、岐路に立たされている。その手伝いが少しでもできれば。
さぁ、今日も一日が始まる。滑り込んだホーム、私は勢いよく駆け下りてゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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