見つめる日々

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2010年06月18日(金) 
娘の熱い体がぴっとりと私に張り付いてくる。何度避けても、そのたび娘は転がって、私にくっついてくる。冬ならばちょうど湯たんぽ代わりでいいのだけれども、もうこの季節になるとさすがにきついものがある。娘の両手両足に、大きなイルカのぬいぐるみを挟み込んでみる。これで抱き枕にもなるだろう。
起き上がり、窓を開ける。ぬるい風がゆるくゆるく流れている。私はベランダに出、空を見上げる。しっとりとした雲が一面に広がっている。東から漏れてくる陽光で街全体は明るいのだが、それでもこの雲は拭えないらしい。やはり天気予報の通り、今日からしばらく雨になるんだろうか。考えるだけで憂鬱になる。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。五本の枝葉はそれなりに元気だ。そう、一本を除いては。この一本は本当にどうなってしまうんだろう。やはりこのまま枯れるんだろうか。徐々に徐々に茶色い色が枝全体に広がっていっている。私があの時もっと早く決断して、土をひっくり返していれば。幼虫を退治していれば。こんなことにはならなかったのに。そう思うともう、悔しくて悔しくて仕方がなくなる。でも、いくら悔やんでももう遅い。
薬を散布したミミエデンは、今日はおとなしげにそこに在る。ふと見ると、花芽がふたつ、生まれている。こんな、挿し木したばかりのものに花芽ができるなんて。吃驚だ。しかもふたつ。あぁそうか、ミミエデンはこうやって、群れて咲く花だった。
ホワイトクリスマスは蕾をてっぺんにしてすっくと立っている。花びらの白い色が鮮やかに映えている。少しクリーム色がかって見えるのは気のせいだろうか。いや、ホワイトクリスマスは真っ白のはず。私は首を傾げる。
その隣で、マリリン・モンローが蕾を天に向けて立っている。それにしてもよく茂ったものだ。たくさんの葉に囲まれて、蕾はひときわ明るい色味で立っている。まだ花びらの色は見えない。幾枚かの葉に白い斑点。このままにしておいても大丈夫か、それとも摘むべきか。まだ私は決めかねている。
ステレオから流れてくるのはSecret GardenのElegie。切なくて、何処か懐かしいような旋律。ゆったりと響いてくる。
ベビーロマンティカの三つの蕾たち。くくくっという笑い声が聴こえてきそうな気配。あちこちから新葉を燃え立たせて、蕾たちを守っているこの樹を見ていると、本当に、生きることは楽しいもののように見えてくる。いや、こうして笑っている陰に、どんな辛いことが潜んでいるんだろう。それを決して表に見せず、ただ笑い声をあたりに響かせている姿が、私はいとおしくてたまらない。
パスカリも、新葉を出すには出しているのだが、その大半が白く粉を噴いている。こちらはあまりに見事に粉を噴いているから、摘まずにはいられない。私はそっと指で挟んでそれを摘む。
パスカリの間に挟まれて、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹が、少しずつ少しずつ新芽を出している。けれどその速度はとてもゆっくりで。一体今度いつ花を咲かせるのか。そこには二年、三年という時間が流れてしまいそうな気配さえする。
ノートの整理をしながら、思う。いくら勉強したって、これでいいということはないのだろう、と。これで終わりということはあり得ないのだろう、と。やればやるほど、それを感じる。人を相手にするのだ、その人は常に唯一無二の存在で。この世にひとつしかない人生を背負って現れるのであり。それを受け止める、受け容れる、包み込む、それは、こんな、机上の勉強をいくらしたって、足りるものじゃぁない。
私にできることは何だろう。私が生きているその瞬間瞬間こそが、多分、勉強なのだと思う。いかに生きるか、それが試されているんだと思う。
曲が変わった。Gates of Dawn。私は鼻歌でメロディを辿る。
金魚がこちらを見ている。必死に尾鰭を揺らし、体を支え、こちらに合図を送っている。私は水槽の蓋を開け、餌をぱらぱらと撒く。一瞬の間を置いて、金魚たちが餌を啄ばみ始める。
西の町に住む友人から、何度も電話が掛かる。死ななければならない、という思いに囚われてしまって動けない、と。それを決断するなら、私は死ななければいけない、という思いに囚われてしまうのだ、と。
何か行動を新たに起こそうとするたび、こんな自分は消滅しなければいけないに違いない、という思いに囚われていた時期があったことを思い出す。その行動を起こす権利なんて自分にはなく、そう思ってしまう自分は罪で、だから自分は消滅しなければならない、と。そんな具合だったと思う。
自分を評価することが極端にできない。自分を認めることが全くできない。そういう位置に立っていると、自分のすることの何もかもが、罪で、罪悪で、だから、自分は消えなければならない、というような思いになってしまう。
でも。
違うよ、と今の私なら思う。あなたがそう思ったなら、思ったとおりにしてごらんよ、それでいいんだよ、と、言いたい。
自分を守って何が悪い。自分を守ることは大切なことじゃぁないか。自分を守るために行動を起こす、それのどこが間違っているというのか。あなたは消える必要なんてどこにもない。むしろ、精一杯生きて、生き延びていけばいい。私はそう思う。
電話の途中で彼女が何度も痙攣を起こしているらしく、声が途切れる。私はただ、じっと、それが収まるのを電話口で待っている。そして彼女に語りかける。大丈夫、あなたはあなたが信じたようにやればいい、間違ってなんかいないよ、消える必要なんてどこにもないんだよ、と。
もし近くに住んでいたら。飛んでいって、彼女に思い切りハグすることができるのに。その思いで唇を噛み締めながら、私はただ、電話の向こうの彼女を待つ。

ママ、水泳のさ、目標、私、ないよ。ん? ほら、見て。ここに書いてあるでしょ? ああ、ほんとだ。クロール何メートル泳げるようになる、とか、平泳ぎ何メートル泳げるようになるとか。私、全部できるもん。目標、ない。そうだねぇ、じゃぁ、あなたはここに、自分の目標を書き加えたらどう? 自分の目標? うん、そう、ここにはないから、新しくこの下に書き加えて、それを目標にしたらどう? そんなことしたら、目立っちゃってやだよ。目立っちゃってやなの? どうして? みんなから何言われるかわかんないからやだ。あぁなるほどねぇ。それは分かる気がするよ、ママも、いろいろみんなからからかわれたり虐められたりしたことあったから。ママが虐められるってなんか変。どうして? だってママ、強そうだもん。ははははは。でもママ、ちょうどあなたの年頃とか、中学生の頃とか、すんごい虐められてたよ。なんで虐められてたの? うーん、なんでなんだろ、よくわかんないけど、目立つからじゃないの? やっぱり、目立つと虐められるんだ。そうだね、飛びぬけてると、虐められるよね。でも、それもまぁ、いいんじゃん。なんでいいの? 虐めたい奴らに負けてるのも悔しいじゃん。ママ、虐められてたとき、どうしてた? ん? 虐められてたとき? 知らん顔してた。ロッカー室に閉じ込められたり、教科書なくされたり、いろいろしたけど。知らん顔してたよ。それでどうなった? 一年経つ頃には、虐めが突然終わった。ふーん。私、虐められるのも、目立つのも、やだなぁ。ははは。でもさ、目標がないのも、つまんなくない? まぁそれはそうなんだけど。じゃ、分かった、ここには書かないけど、あなたの心の中で、これが目標っていうのをはっきり作りなよ。たとえば? バタフライで50メートル泳ぐとか。それ、できるもん。あ、そっか、じゃぁ、平泳ぎで何秒出す、とか。あ、それいいね、ってか、ママに勝つってのを目標にしよう! ええっ、ママに勝つの、大変だよ。ママ、平泳ぎ得意だから。だからいいんじゃん、それ目標にしよう。ははははは。

ねぇママ、うちはどうして貧乏なの? それは、ママが病気で、十分に働けないからお金が足りないんだよ。パパもいないしね。うん、そうだね。普通はさ、パパが働いて、ママもちょっと働いたりして、そうやってお金作っていくんだよね。まぁそうなのかな。ママにはよく分からないけど。SちゃんのとことかAちゃんのとことか、そうだよ。じゃぁそうなんだね。パパってなんで突然働かなくなったの? うーん、分からない、突然働かなくなった。それでホームレスになればいいって言ってた。私、ホームレス、やだよ。やだよね、学校も行けないもんね。どうしてそんなこと、パパは言ったのかな。どうしてかな。ママにも分からない。ママ、別れてよかったね。え? 別れてよかったんだよ、きっと。…。

娘がどんな気持ちで、「別れてよかったんだよ」なんてことを言ったのか、私には分からなかった。いろんな思いが交錯していたに違いない。
うちは貧乏だ。確かに貧乏だ。それでも。この子が精一杯生きられるよう、私が何とかしていくしか、ないんだ。

じゃぁね、それじゃぁね、ほら、早くあなたも支度しなさい、朝練でしょうが。分かってるって、ママ先行っていいよっ。じゃあね。
階段を駆け下りて、バス停へ。ちょうどやって来たバスに飛び乗る。天気は中途半端なまま。やはり今夜から雨は降るんだろうか。
駅を渡り、川を渡り。川はこんな日でも朗々と流れ往く。止まることなく流れ往く。昨日などもうとおの向こうに押し流し、ここに在るのは今この時だけだ。
さぁ、今日も一日が始まる。私もしっかり、歩いていかなければ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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