見つめる日々

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2010年06月17日(木) 
目を覚ました瞬間、蒸し暑い、と呟いていた。どんよりとぬるい大気に湿気が纏わりついている。起き上がり、窓を開けようとして、窓がすでに開いていることに驚く。娘が開けっ放しにしておいたらしい。私はそのままベランダに出る。
うっすらと空に雲がかかっているものの、雨の気配は今のところない。風もぴたりと止んでいる。あぁそうか、風がないから余計に、このぬるい大気が体に纏わりついてくるように感じられるのだ。私は納得する。そうして大きく伸びをして、周りを見やる。街路樹の緑は雨に洗われたせいか、美しい緑色を放っている。その足元に咲いていたポピーはもう、種に変わった。通りの向こう側、二階のベランダのところに、紫陽花の鉢植えが置いてある。きれいな水色をしている。ここから見て水色に見えるのだから、実際はもっと濃い色味をしているんだろう。久しぶりに雀の姿を見る。電線に三羽、囀っている。彼らにも言葉があるんじゃないかと思う。人が知らないだけで、人と同じくらい細やかな言葉があるような、そんな気がする。
しゃがみこもうとして仰天する。たった一晩のうちに、ミミエデンの新葉がすべて、粉を噴いている。参った。どうしよう。私は頭を抱える。これらすべてを摘むのはあまりに酷すぎる。じゃぁどうしよう。とりあえず、薬を噴きかけてみようか。そう決める。紅い新葉に向かって、あちこちの角度から散布する。これでどうにか収まってくれればいいのだけれども。それにしたって、たった一晩のうちにこんなになってしまうなんて。本当に、植物というのは油断できない。
ラヴェンダーは、一本を除いては、だいたい元気といっていいだろう。その一本だが、辛うじて新芽が出ているものの、他の部分はとうとう茶色くなってきてしまった。さて、この新芽がどこまで生き延びてくれることやら。このまま他の部分と一緒に茶色く変色していってしまうか、それとも伸びてくれるか。私はただ、見守るしかできない。
デージーは、大きいものはもう五センチほどまで伸びてきた。ぽわぽわした葉を茂らせて、ミニチュアの森のようだ。かわいい森。本当に、母の言葉どおり、デージーというのは強いのだなと感心する。でも同時に恨めしくもある。おまえのその逞しい生命力を予め私が知っていたら、と思うと。
ホワイトクリスマスの蕾がだいぶ膨らんできた。もう、花びらの色が垣間見えるほどになってきた。凛々と上を向いている。すっくと立つその姿に、私は思わず溜息を洩らしてしまう。美しいという言葉がこれほどに似合う立ち姿もなかなかあるまい。ただ、気になるのは、茂ってきた葉のところどころに白い粉が噴いていること。まだ摘むほどではないのだけれども。これ以上拡大しなければいいのだが。心配だ。
マリリン・モンローの蕾も、ホワイトクリスマスの蕾の隣で徐々に徐々に膨らんできている。まだこちらは、花びらの色は全く見えず、閉じている。萌黄色の蕾。マリリン・モンローの葉にも何枚か、白い粉を噴いたものが見られる。こちらは摘んでもいいかもしれない。それだけたくさんの葉が茂っている。でも、もうちょっと様子を見よう。
ベビーロマンティカは三つ目の蕾が生まれた。小さな小さな蕾。他の二つの蕾と同じように、にこにこおしゃべりしているように見えるから不思議だ。生きることをこんなに謳歌している蕾も、珍しいかもしれない、なんて思うほど。
パスカリの新芽も、半分が粉を噴いている。うどん粉病の何としつこいことか。これからの季節、もっと大変だ。梅雨という季節が恨めしい。そんな季節がなければまだましだろうに。それは植物だけじゃない、人にとってもだ。今年の天気はあまりに不安定で、心も体もついていかない。ただ過ごすだけで疲れ果ててしまう。そのせいで私の友人たちも多くが体調を崩している。もっと穏やかな気候ならいいのに、と、つくづく思う。
トラウマのある場所に戻り、仕事を得たものの、フラッシュバックが酷くなって結局休職に追い込まれてしまった知り合いからメールが来る。何の薬を飲んでも効果がない、このままじゃ生活ができなくなる、どうしたらいいだろう、と。
私は思い出す。症状が酷く出ているときというのは、私の場合、薬なんて何の役にも立たなかったな、と。症状を治めようと強い薬を飲めば飲むで、今度は眠気がやってきて、仕事にならない。要するに、薬を飲んで休んでいろ、ということであって、薬を使いながら仕事をこなし生活をこなすということは、症状が酷いときは全くできなかった。何度当時の編集長から、薬を飲むな、といわれたことか知れない。でも、飲まないと今度は、壮絶なフラッシュバックに襲われて、発作を起こし、それはそれで仕事にならなくなるわけなのだが。
これ以上医者やカウンセラーに話をするのも、傷つくから嫌だという。でもそれでは、何も始まってはくれない。悲しいかな。何も、生まれない。
自分が今何に躓いていて、何が苦しくて、何がたまらなくて、何が今自分をこうさせてしまっているのかを吐露できる専門家を見つけ、その専門家と組んで対処していくしか、術は、ない。
友達同士で慰めあってどうにかなるなら、それもありかもしれないが、もうその域を超えている。そのことを自覚し、現実を見るしか、前に進む手立ては、ない。
でもそれを、そのままの言葉で告げることはあまりに残酷で、私にはできなかった。幾つかの方法を書き、とりあえず試してみたらどうか、と勧めることしか、私にはできなかった。
昔の主治医の言葉が思い出される。トラウマのある場所に戻ることはできないのよ、戻ればまた、同じことの繰り返しになってしまうのよ、と。そんなことを彼女は言っていた。私はその言葉に当時、反発し、何度もトラウマのある場所に戻っていったが、それは、無駄な抵抗に終わった。だから私はもう二度と、その場所には戻らない。戻れない。私は生きたいから、生きていたいから、戻ることはもう、できない。

「私たちは時間によって生活しています。また私たちは時間の結果でもあります。私たちの精神は無数の昨日という過去の結果であり、現在は過去が未来に入っていくための通路に過ぎないのです。私たちの精神や行動や存在は、時間に基づいているのです。従って時間なしには私たちは何も考えることができません」「心理的な時間というものは、今日と関連した昨日としての記憶に過ぎないものであり、それが明日を形成しているのです。つまり、現在に反応して生まれた昨日の経験が、未来を作り出しているのです」「幸福は昨日のものではなく、また時間の産物でもないのです。幸福は常にこの今の中に、時間を超えた状態の中にあるのです。あなたが無我夢中になっていたり、創造的な喜びを味わっていたり、あるいは光り輝く雲の峰を眺めているとき、その瞬間には時間が全く存在しないということに、あなたは気づいたことがないでしょうか。そこには直接の現在だけがあるのです」「あなたが音楽に耳を傾けているとき、あなたの心があちこちを彷徨うことはないのです。それと同じようにあなたが闘争を理解したいと思うときには、あなたはもはや時間を少しも当てにしなくなるのです。あなたはあるがままのもの、つまり闘争に素直に直面するのです。すると即座に心の落ち着きと静寂が生まれます。あなたが時間に依存することの虚偽を理解し、あるがままのものを変革する手段として時間を当てにしなくなったとき、あなたはあるがままのものと向かい合っているのです。そしてあなたがあるがままのものを理解することに関心があれば、自然と心は静寂になるのです。そのような敏感で、同時に受動的な状態の中に理解が生まれます」「革命は未来にではなくこの今にだけ可能なのです。また新生は明日ではなく今日なのです」「時間は私たちの難局から抜け出す方法ではないことを知って、そのような虚偽から解放された人は、自然に理解しようという熱意を持つものなのです。従ってその人の精神は、強制もなしに、自発的に静かになるのです。精神がいかなる解答も結論も求めず、抵抗も回避もせずに静止したとき、そのときにのみ新生が起こりうるのです。なぜならそのとき、精神は真理であるものを知ることができるからです。そしてあなたを解放するのはこの真理であって、自由になろうとするあなたの努力ではないのです」

お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝は生姜茶と、珍しくアイスレモンティーを作ってみた。生姜茶が適度に冷めるまで、アイスレモンティーをちょこちょこと口に含む。開け放した窓の向こう、水色の空が広がってきた。風も少し出てきたようだ。カーテンが揺れている。そろそろ娘を起こす頃だ。そういえば今日はプールの日だと言っていた。どうだろう、入れるだろうか。
母に、最近眩暈が酷いのだ、という話をする。すると、更年期障害じゃないのと笑われる。最近は若くても更年期障害になる人が増えてるっていうから、あなたもそうなんじゃないの、と。まぁそうかもしれないなぁとも思う。違うとはいえない。私だってそろそろそういう年頃だ。母が言う。おばあちゃんは本当に更年期障害が酷くて、寝込んでたわね、しょっちゅう。そのおかげで私が家事とかやらなくちゃいけなくて本当に大変だったのよ。そうだったのか、と、私はその時初めてそのことを知る。四人兄弟のうち、女は母だけだった。だから母にかかる負担もさぞ大きかったことだろう。母が素直に祖母のことを好きだと言わない、いや、言えない気持ちも、今なら理解できる気がする。
そう、今、なら。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は昨日空気を入れた自転車に跨り、走り出す。坂道を下り、信号を渡って公園へ。公園の紫陽花がきらきらと輝いて見える。池の周りに立つ桜たちはこれでもかというほど葉を茂らせ、東からの陽光を遮るほどで。私は池の畔に立ち、ぱっくり開いた茂みの間から空を見上げる。眩しすぎて正視できないほど。さっきよりぐんと、空の水色の部分が広がっている。
大通りを渡ると、高架下はちょうど工事中で。それを避けながら埋立地へ。こちらも銀杏が茂って陽射しを遮るほど。でも、暑い日にはちょうどいい木陰だ。
さらに信号を渡り、プラタナスの通りを突っ切って海の公園へ。いつかこの辺りから発着しているヘリコプターに、娘を乗せてやりたいと思っている。ほんの十分か二十分の周遊らしいが、高いところが好きな娘は、大喜びするだろう。その前にお金を貯めなければいけないのだが。
生きているといろいろある。本当にいろいろ。それでも。生きていかなければならないんだと思う。どんなことがあっても。
さぁ、今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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