見つめる日々

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2010年06月16日(水) 
細く開けたままだった窓から、だるく湿った風が吹き込んでくる。閉めに行きたいのだが起き上がれない。娘が私の胸を枕に眠っているからだ。重い重いと思っていたら、いつの間にかここまで転がってきていたらしい。それにしたって、私を枕にする必要はないだろうに。しばらくは我慢していたのだが、とうとう重みに耐えられなくなって、彼女の頭をそっとどかす。途端に娘は、さらに私の方へと転がってくる。私はどんどん廊下の方へと追いやられる。もう諦めて起き上がるのがいいらしい。そうして起き上がり、窓に寄る。びゅうびゅうと吹き付ける雨風。こんな風雨は久しぶりだと、しばし見惚れる。或る意味気持ちがいい。潔くここまで嬲りつけるような雨風。
植木は大丈夫だろうか。私は髪をきつく結い、外に出る。一番心配なのは蕾たちだ。この風雨の中、どうなっているだろう。ホワイトクリスマスの蕾もマリリン・モンローの蕾も、嬲られるままになってしまっている。どうしよう。支えは何かないだろうか。いや、多少の支えなんてあったって、これは無駄かもしれない。私は結局諦める。ベビーロマンティカの蕾は茂みの中にまだ在るから、風に嬲られるほどではない。大丈夫だ。ミミエデンも、びゅうびゅう吹かれてはいるが、折れるわけでもない。ラヴェンダーたちも、何とか必死に土にしがみついていてくれている。
見上げると、空には明るいグレーの雲が、ぐいぐい流れてゆく。街路樹の葉は風に翻り、裏側を晒している。夜のうちに出されたゴミが、通りの中央まで吹っ飛んでいる。でも、さすがにこんな天気、啄ばみにくる烏はいない。
昨日のあの天気が嘘のようだ。一体何処へ行ったんだろう。昨日の天気は本当に、幸運としかいいようがない。搬入さえ無事に済めば、あとはどうとでもなる。
そう、昨日は搬入の日だった。朝早く手伝ってくれる友人と待ち合わせ、電車に乗る。今回は額縁七つと少なめだったにも関わらず、朝のラッシュ時、それを運ぶのはかなり無理があった。友人がいなくて私ひとりだったら、立っていることもままならなかったろう。
友人がふと言った。もし私がドタキャンしたら、あなたはどうするの?と。思ってもみない言葉だったから、一瞬驚いた。でも、ドタキャンされてもおかしくないことなのだ、厚意で手伝ってくれているだけなのだから。だからドタキャンされたとしたら、そのままひとりでともかくも搬入し、展示を無事に終えるだけ、だ。でも。
私は多分、無条件に信じているのだ。彼女は約束をちゃんと守ってくれる人だ、と。たとえ当日になって彼女が実際にドタキャンしたとしても、それはやむを得ない事情だったのだろうと私は思うのだろう。そうして一人で、何とかするんだろう。そう思う。
今回、とりたてて、新しいものはない。今まで撮り貯めたものの中から選んだ。一点でしか飾りようのないもの七点を選び、それに短めのテキストを添えて展示することにした。ただそれだけの展示なのだが、今までやったことのない形式だったから、私はひどく緊張していた。一点一点壁に掛けてゆく、それだけで汗だくになった。展示が終わったときには、もう、正直くたくただった。
手伝ってくれた友人を見送ったその直後、思ってもみなかった人が現れた。外出することもままならないはずの友人だった。一体どうやってここまで辿り着いたのか、私は本当に吃驚した。無事に辿り着けるかどうか分からなかったから、知らせないで来てみたの、と彼女は笑った。途中で薬のお世話にもなったけど、でも、どうにか辿り着いたよ、と。
どれほど私が嬉しかったか知れない。まさか彼女がここまで来てくれるとは、本当に思ってもみなかった。被害に遭って以来、車掌さんの姿が見える車両にしか乗ることができない彼女が、ここまでやって来た。すごいことだと思った。涙が出そうだった。
普段ランチを注文しても半分は残してしまう彼女が、おいしいおいしいと言ってランチを食べ尽くすのを、私は見守っていた。こういうとき、展覧会をやってよかった、と、つくづく思う。
気をつけて帰ってね、と彼女を見送り、私は店の外で煙草を一本、吸い込む。なんだかもう、今日の分は全部やり尽くしたような、そんな気分にさえなってしまう。彼女が無事に帰宅できますよう。私は空に向かって祈る。

休憩していると、娘からメールが届く。頑張ってるかーい。と書いてある。だから、頑張ってるよー、そっちも頑張れー、と返事を書く。
本当に暑い日で。太陽は夏のようにぎらぎらと輝き、降り注ぐ陽光は肌を焦がすのだった。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ついでに何となく、レモン&ジンジャーのハーブティーも入れてみる。両方のカップを持って机に運び、窓の外を眺める。風は止む様子はなく。細めに開けた窓からは、重たい湿った風がひゅるひゅると流れ込んでくる。
何となく音を聴いた気がして、ハムスターたちの籠の方に近寄ってみる。一昨日娘が作ったクッションは、ゴロの籠の中に入れられているのだが、そのクッションを、ゴロががしがしと噛んではひっぱっている。じきに糸が切れて、中に詰めた藁が飛び出してくるんだろう。私はその様子をじっと見守っている。そんな私に気づいたゴロが、後ろ足で立ってこちらを見上げてくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。するとその声に反応し、ココアもミルクも起きてくる。参った。私は、ちょうどいい頃合だと、娘を起こしにかかる。みんな起きて待ってるよ、と言うと、それまでごろごろ寝床に転がっていた娘がすっくと立ち上がり、まずはミルクを抱き上げる。抱き上げて、そのままぶちゅーっとキスをする。それが彼女の挨拶らしい。
ねぇママ、ミルクたち、あとどのくらい生きてくれるんだろう。うーん、二年くらいが寿命って言ってたもんねぇ、もう少しで一年経つね。どうして二年しか生きられないんだろう。体が小さいからなぁ、それだけ寿命も短いんだよ、きっと。私、ミルクたちが死んじゃったら、生きていけない。そうかなぁ? ミルクたちの体が死んでも、あなたの中にミルクたちの思い出は生きているでしょう? そうである限り、ミルクもココアもゴロも、死なないんだよ。ママはそう思う。…。

「私たちは真相を探求する必要はありません。真相はどこか遠いところにあるものではないのです。なぜかと言いますと、それは精神についての真相であり、またその精神の一瞬一瞬の活動についての真相だからなのです。もし私たちが一瞬一瞬の真相と、時間の過程の全体を注視しているなら、その注視そのものが、私たちの内部の意識やエネルギーを解放してくれるのです。そしてこの解放された意識とエネルギーが、同時に理解力でもあり愛でもあるのです。精神が意識を自我の活動として利用している限り、そこに時間が介入して、あらゆる悲惨や闘争や害毒や、あるいは意図的な欺瞞をもたらすのです。そしてこの全体の過程を理解することによって精神が静止したときにのみ、愛の誕生が可能になるのです」

朝練の娘を送り出し、私も家を出る。雨はさほどではないが、風が唸っている。校庭を見やると、同じく朝練に参加する子供らの姿が、ぽつぽつと見られる。いまどきの子は長靴というものを履かないんだろうか。みんな運動靴だ。そのうちの一人の男の子が、校庭にできた大きな水溜りにじゃぽんと突っ込んでいく。周りに居た女の子たちが嬌声を上げるのがここまで響いてくる。
私は階段を駆け下り、バス停へ。この天気でバスは遅れ気味。ようやくやってきたバスに乗ると、これでもかというほど混み合っており。私は後ろの方に何とか位置をとる。終点で降りる。海と川とが繋がる場所でふと立ち止まる。水は波立ち、がらがらと流れてゆく。鳥は一羽もいない。どこかで雨宿りしているのならいいのだけれども。
歩道橋を渡ろうと上がったところで、立ち止まる。遠く左手に、大きな大きな風車が見える。ぐるぐると勢いよく回っており、そのさらに向こうには大橋がかすんで見える。この歩道橋からこんな景色が見られたなんて、今の今まで気づかなかった。私は雨が降っているのも忘れ、しばし佇む。
幾人もの人に追い越されながら、私はそれでも風車に見入り。やがてその風車も、雲の中に隠れてしまう。
さぁ、今日も一日が始まる。私は、滑らないように気をつけながら、階段を降りてゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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