2010年06月14日(月) |
目を覚ますと午前五時少し前。よく眠ったなぁと我ながら吃驚する。このところ小刻みの睡眠しかとれていなかったから、なんだか体の重さがふっと軽くなったようにさえ感じられる。でも。外は雨。 窓を開けると、しとしとと雨。みっしりと降っている。こんな雨はどのくらいぶりだろう。雨と雨の隙間が感じられないほどにぎっしりと降っている。音もなくただ、降っている。 足元でココアががりがりと籠の扉を噛んでいる。おはようココア。でも、おねえちゃんはまだいないの。今日の午後帰ってくるからね、そしたらいっぱい遊んでもらいなね。私は声を掛けながら彼女の頭をこにょこにょと撫でる。 その気配を察したのか、ゴロまでが小屋から出てくる。後ろ足で立って、こちらを見上げている。おはようゴロ。私は苦笑する。おねえちゃんはまだ帰ってこないんだよね、今日帰ってくるから、それまで待っててね。私はココアに言ったのと同じことを繰り返す。納得がいかないらしいゴロは、しばらく小屋の中をぐるぐる回っていたが、諦めて、再び小屋に入っていった。 私はベランダに出て、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。萎れかけている一本はやはりそのままで。ぴくりとも変化がない。それでもまだ、葉は緑色をしていてくれている。まだ、諦めるには早い。そう言われている気がする。まだもうちょっと、もうちょっと待っていておくれ、そんな言葉が響いてくるような気がする。気のせいだと分かっていても、私は頷いてしまう。うん、待ってる。とことん待ってる。信じて待ってるよ。 ホワイトクリスマスの蕾は一段と膨らんできて。まっすぐに天を向いて立っている。その隣、マリリン・モンローの蕾もまた、まっすぐ天を向いて立っている。隣り合わせの蕾たち。でも、形は全然違う。色も微妙に違う。 ベビーロマンティカの蕾たちは、今朝もまた、おしゃべりをしている。もしかしたら、雨なんていやねぇ、なんてことを喋っているのかもしれない。いやねぇと言いながらも彼女らは実に楽しげで。私は思わず微笑んでしまう。 ミミエデンの紅い新芽。徐々に緑色に染まり始めている。でもまだ、新たに顔を出そうとしているものもおり。今ミミエデンの内側は一体どんなふうになっているのだろう。フル稼働しているに違いない。そんなに急がなくていいよ、私は声を掛けてみる。ゆっくりゆっくりでいいんだよ、と。 パスカリはしばし沈黙の時期らしい。じっとしている。その間で、桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹が、少しずつ、少しずつ新芽を出してきている。それはとてもゆっくりで、控えめで。注意していないと見逃してしまいそうなほどで。 友人が、誕生日プレゼントにとワンピースをプレゼントしてくれる。スカートやワンピースをプレゼントされるなんてどのくらいぶりだろう。嬉しくて、でも、ちょっと恥ずかしくて、お礼がうまく言えない。ちゃんと今度着て見せてよね、と友人が笑っている。私も照れながら頷く。 気づいたら、個展直前になっている。今回は、モノクロ写真と短めのテキストをあわせて展示することにしている。そういう展示の仕方をしたことがないから、搬入設営が手こずるかもしれないが、まぁそんなことはいい。 この一週間を振り返ると、まさに、熱病に魘されていたかのような気がする。自分じゃどうにもコントロールできないところで、ばたばたと足掻いていた、そんな気がする。今、その熱も下がって、だいぶ落ち着いてきて思うのは、もっと自分をコントロールできるようになりたい、ってことだ。そして、できることならもう、自分で自分を傷つけることは、やめたい。 自分を追い詰めることが必要なことも、もちろん在る。でも、私の追い詰め方は、自分に刃を向けてしまうというところで間違ってる。そう思う。 娘は私に何も言わなかったし、これからも多分、何も言わないんだろうと思うが、私がリストカットをして数日経った夜、私の腕を握ってきた。その後、おやすみと布団にもぐりこみ、声を殺して泣いていた。あれは、私が私をまた傷つけたせいだったんじゃなかろうか。もしかしたら違う理由もあったのかもしれないが、あの時、つくづく思った、私は、私を傷つけていることに間違いないけれど、同時に、私の大切な人たちの心も傷つけているのだ、ってこと。 忘れないでいよう。心にしかと刻んでおこう。
「私たちの心の中には、兵士を監督し威圧している指揮官のように、「私」という上から見下ろしているもう一人の立派な実体が常に存在しているのです」 「自我を非難したり正当化したりせずに、その自我の働きを目を凝らしてじっと見つめていること」 「私たちの生活の複雑な問題を見つめ、私たち自身の思考の過程を注意深く観察し、そして思考は実際にはいかなる結論へも導かないことを認識したとき、個人のものでも集団のものでもない真の理解力が、確実に生まれてくるのです」 「私が何かを理解し、よく見てみたいと思うとき、私はそれについて考えたりする必要はないのです。私はそれをただ見るだけでよいのです」 「あなたは反駁されるかもしれません。「もし思考がなければどうして私は存在し、生きることができるのか。どうして私は空っぽな精神を持ったりできるのだろうか」と。空っぽの精神とはあなたにとっては無気力とか白痴を意味しているのです。従ってそれに対するあなたの本能的な反応は、そういう精神をきっぱり拒絶することなのです。しかしながら、非常に静寂で、思考によって撹乱されていない精神や、何でも自由に受け容れられる開かれた精神は、問題をきわめて直接的に、かつ非常に素朴に見ることができるのです。そして私たちの問題を解決する唯一のものは、このような注意力を逸らさずに問題を見つめる能力なのです。またそのためには、静止した落ち着いた精神がなければならないのです」
ひとつの岐路に立っている気がする。ここから私はどこへ行くのか。右へゆくのか、左へゆくのか。まだ分からない。でも、その決断を、迫られている気がしている。
お湯を沸かし、お茶を入れる。友人にはペパーミントティー、私には生姜茶。開け放した窓の向こうでは雨が降り続いている。 こんなに眠れたのって、どのくらいぶりだろう。そう二人言い合って笑う。あたたかいお茶は、私たちの心も体も、ぽっくりと暖めてくれる。
バスに乗り、駅へ。降り続く雨の中、私たちは歩いてゆく。晴れていれば向こうの方に見えるはずの風車も、今日は雲って欠片さえ見えない。海と川とが繋がる場所、忙しなく人が行き交い、私たちはその間をゆっくりと縫って歩く。 明日、晴れるといいね。うん。そうだね。
さぁ、今日も一日が始まる。 |
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