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2020年11月30日(月) ■ |
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配信の『M』 |
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・予告編《有料配信決定!版》
・予告編《舞台PV》
配信初日にまずタブレットで各シーンをザクッと観て、休日にPC画面で全編鑑賞。平日は毎晩好きなシーン、確認したい箇所とクライマックスを観てから眠る日々。時間のある限り、も〜ギリギリのギリ迄観てた。視聴期間は11月30日23:59迄となっていましたが、それを過ぎても(確認した限りでは26時過ぎでも)観られたので、23:59にスタートボタンを押しておけば全編(約100分)観られる時間は確保されていたのかもしれません。海外からも視聴出来るプログラムだったので、時差も考慮されていたのかな。ちなみに配信最終日は、ジョルジュ・ドンの命日でもありました。
ここ、この瞬間! というシーンをしっかり引きで、あるいは寄りで捉えるカメラと編集が見事でした。音の良さにも感動。フルハイヴィジョンで撮っているとのこと、ソフト化あってほしいなあ。フィジカルでそばに置いて繰り返し観たい。今回客席減らしての公演だったし、アーカイヴやソフト販売で多くのひとに観てほしい。バレエ団の収入にもなるし……。
配信は終了していますが、自分用メモを。いくつも気づきがあり、その度に身震いしました。
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■使用曲 --- クロード・ドビュッシー「聖セバスチャンの殉教」より“ファンファーレ”:セバスチャンソロ〜イチ、ニ、サン、シのパ・ド・カトル ヨハン・シュトラウスII世「南国のばら」:鹿鳴館 エリック・サティ「あなたが欲しい」:禁色 リヒャルト・ワーグナー(ピアノ編曲/フランツ・リスト)「トリスタンとイゾルデ」より“愛の死”:楯の会登場〜割腹、前半でも使用 L. ポトラ/D. オリヴィエリ「待ちましょう」〈歌〉ティノ・ロッシ:エンディング --- それ以外は黛敏郎のオリジナル曲。能楽をベースに、オンド・マルトノを使用した幻想的な音も。「あなたが欲しい」と“愛の死”は、“ピアニスト”として出演していた菊池洋子さんによるピアノ生演奏
■映像作品用の演出 ・冒頭、呂の声が流れる暗闇に、NBSのウェブマガジンに掲載されていた三島由紀夫の直筆が浮かび上がる──「バレエはただバレエであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさわやかであればよい。人間の姿態の最上の美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい」。 (原稿画像はこちら) 「人間の姿態の最上の美しい瞬間の羅列」。ベジャールのバレエは正にそれに当てはまる。各シーンのタブローの美しさが堪能出来ました ・日本語の歌や台詞も多い作品でしたが、字幕が出たのはシが黒板の文字、「死」を書き終えた瞬間に出た「Death」のみ。「シ」が「死」と同じ発音であること、「IV」の意味もあることが海外の視聴者にどう伝わっただろうと思う反面、説明過多にならずよかったと思います ・エンドロールには「カンパニーと観客の安全と健康を第一に考え感染対策を行ったこと、11月17日現在、カンパニーにも観客にも感染者が出ていないこと」についての詳しい英文メッセージがありました(思わずスクショ撮って熟読してしまった)。これ、記録としても貴重かと ・これを書いているのは、神奈川公演から二週間後。こちらも感染者が出たという話は伝わっていない。無事千秋楽を迎えられてよかった
・演者の表情がアップで観られたこともうれしい。劇場では叶わないことだ。序盤の少年、緊張した面持ちにはこちらもドキドキ。そんな彼の顔つきが、クライマックスが近づくにつれ変わっていく。達観したかのような、覚悟を持ったような顔 ・少年と祖母が手を繋ぎ歩く場面も、最初と最後では意味合いが違って感じられる。出発と帰還 ・祖母の清らかな所作。伸ばしたその手の先には何があるのか? ・桜のシーンの少年とシの表情をしっかり観られるのも映像の醍醐味。あんな目をしていたのか ・池本祥真さんのシ、つくづくベジャールさんに観てもらいたかった ・それにしてもシ、衣裳替えが多い(笑) ・といえば最初の衣裳替えの着物を脱ぐところ。早替えだから仕方ないけどマジックテープのバリバリって音がしてしまうので、劇場で観たときはちょっと笑ってしまっていたのだけど、この配信では着脱の様子を映していなかったので本当に変身したみたいでよかったな ・ピアニストがピアノを離れる〜ピアニストとシの対峙〜退場を捉えた映像もいい。少年に手を伸ばすピアニストの所作は、何処かへと手を伸ばす祖母に重なる
・少年はシ、祖母、セバスチャンと手を繋ぐ。それぞれが少年をだいじに扱っているように見える。ふわっと包み込むような感じ。役としての少年と、カンパニー唯一のこどもをサポートする感覚と ・セバスチャンと少年の羽ばたきが重なることに気づいて血の涙が出そう
・現場で観ているとき、セバスチャンが与え、シが奪うという規則性がある……と思っていたが、シが最後に少年の赤いリボンを手渡すのはセバスチャンだったというのに気づいてまた血の涙が出そう ・配信がなかったら気づくの十年後とかだったかもしれないと思うと……ひーん
■「禁色」、薔薇の行方 サティ「あなたが欲しい」で幸せそうに踊る登場人物たち。彼らを縫うように歩く、薔薇に手をしたセバスチャンと手を繋いだ少年 シ(ストライプの黒ジャケと白パンツ、中は白のベスト)が現れ手を叩くと、照明のトーンが寒色モノトーンに変わる。能楽で踊る登場人物たち セバスチャン、少年に薔薇を手渡す→セバスチャンの羽ばたき→シが椅子を持ってきて座る→シが見ている状態で再びサティ、踊る登場人物たち 能楽。椅子から降りたシが舞台前方に正座する少年から薔薇を奪い、左肩を軽く押す→コロリと倒れる少年→薔薇を投げ捨てるシ→シとセバスチャンのデュエット。セバスチャンと登場人物たちの踊りは苦悶の表現に変化する 前方に出てきた水夫が薔薇を取り出し、倒れている少年の上に放る。このときセバスチャンは倒れている少年の傍に跪いている→セバスチャン、薔薇を拾い上げ慈しむ→少年、起き上がり薔薇を手にしたセバスチャンと手を繋ぎ走って退場(ここ迄サティ、最後はメロディが崩壊する)→能楽の囃子と鼓のみでシのソロ
・鼓と謡だけで踊るシのソロ。どうやってリズムをとっているんだろう、と思って観ていたけれど、そのうち「これしかない」という印象に変わってくる ・少年を死に迎え入れたとき、“愛の死”でのシのソロも日本的な所作が多い内容だったが、なんて美しいのだろう。激しく腿を打つ、その音も捉えられていた。素晴らしい ・ドビュッシーの“ファンファーレ”、金管のハーモニーで踊るセバスチャンの華やかなソロから、ティンパニとシンバルのみのイチ、ニ、サン、シ──言葉、精神、力(肉体)、行動(それ即ち死)──のパ・ド・カトル。スリルに満ちた競演
■「鏡子の家」 ・上野水香さんと柄本弾さんのパ・ド・ドゥは流石の安定感。鋭利で色気のある、男と女の表現。本当に絵になる。星が、華がある ・【フォト&インタビュー】東京バレエ団「M」上野水香インタビュー〜ベジャールはなぜ“女”という役を描いたのか┃バレエチャンネル 「あの“赤い線”で繋がれていく人物たちは、『女』も含めて、三島の人生を彩った人々なのだと私自身は解釈しています。その場面があまりにも美しいから、やはり踊り終わったあと、そして見終わったあとには、『人生は美しいのだ』と思えるんです。」 ・少年が読んでいる雑誌、何だろうなーと思っていたけど確認出来た。『少年世界』でした
・カーテンコール、少年を前に送り出し自分は控えめに一礼するのみのシ。絵になってた
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それにしても、舞台公演を配信で観る難しさよ……ひとりきりの時間と場所、雑音が入らない環境を確保する難しさ。真夜中にヘッドフォンをして集中しても、劇場のようには没頭出来ない。配信があってうれしいやら現場が恋しいやら、記録と記憶を天秤にかけたら? なんて考えたり。武満徹の『November Steps』、武田和命の『Gentle November』へとイメージは拡がり、ついついエモくなってしまった11月でした。
出来ることならもっと早く、再会する日を楽しみに。
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・三島由紀夫没後50周年記念公演 東京バレエ団 モーリス・ベジャール振付 「M」┃VOGUE Blog
・小林十市 連載エッセイ「南仏の街で、僕はバレエのことを考えた。」┃バレエチャンネル 【第12回】東京バレエ団「M」のリハーサルをしています。 【第13回】「M」という作品と向き合って。 【第14回】10月11日朝6時37分。起きたての頭でふと考えたこと。 指導のため帰国していた十市さんのエッセイ。本番のときも帰ってくるプランがあったようですが、叶わなかったようです。帰国後は二週間の自主隔離、それからようやく稽古に参加。たいへんなことだ……。 「まあ、この『M』の初演の時に生まれていないダンサーが半分以上いるってことですからね〜、こっちも年取るわけです(苦笑)。」 ひー。初演のクリエイションチームは少しずついなくなっていく。作品を後世に残すため、沢山のひとが関わり思考錯誤している。 「池本祥真くんの「金閣寺」のソロのあとの刀さばきが心配です、ってプレッシャーかけてどうする(笑)。」 ははは大丈夫、キマってましたよ!(確かにあそこ、緊張感ありました・笑)
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2020年11月21日(土) ■ |
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横浜の『M』 |
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東京バレエ団『M』@神奈川県民ホール 大ホール
海上の月とはならず、海側から振り返ると神奈川県民ホール上の月、だった。そして目と鼻の先にある横浜山手は『午後の曳航』の舞台だという。これは未読だった、チェックしてみよう。
東京公演から一ヶ月、三島由紀夫とモーリス・ベジャール、そしてフレディ・マーキュリー、ジョルジュ・ドンが亡くなった11月。NBSのツイートで知ったが、アンドレ・マルローが亡くなったのも11月だそうだ。前回(2010年)の上演は12月だったが、初演メンバーが揃ったイチ、ニ、サン、シのなか、この日を最後に現役を引退した小林十市の本名は「十一」。このときも「11月」に上演されることの意味を考えていた。ようやく「その月」の上演を観ることが出来た。 (20201221追記:十市さん、2013年にも『中国の不思議な役人』で一度復活したんでした。はー忘れてるもんだわーというか時間が前後してるわー。書いとくと役立ちますね……書いてるから安心して忘れるのかもしれんが。あかん)
前回からそう間をおかず、全く違う位置から観られたことで気づいたことも多い。先月は最前列の上手端、この日は26列目の下手寄りセンター。演者の躍動を間近に感じられた(肌と、そのなかにある臓器の動きすら目の当たりにした!)最前列の臨場感は何ものにも代え難い体験だったが、やはりこの舞台は全景に醍醐味があるようにも思う。ペールグリーンの衣裳を着たダンサーたちが波のように寄せては返す。競うようにソロを踊るイチ、ニ、サン、シ。舞台を覆う幕越しに見る聖セバスチャンのシルエット。人間ムカデ、楯の会の隊列。桜が降り散る瞬間のカタルシス。三島作品の分身たちが集う「待ちましょう」、彼らを縫う血のような赤い帯……。溢れる色彩、緻密な構図。シーンのひとつひとつが絵画のよう。
そして改めて観ると、聖セバスチャンが与え、シが奪うという規則性に気づく。東京公演では見間違いをしていた。「禁色」のパートで薔薇を手にしていたのは聖セバスチャンで、少年は彼に手を引かれて歩く。男と女、男と男、女と女のペアを縫うように、眺めるように。その後聖セバスチャンが少年に手渡した薔薇は、シが持ち去ってしまう。そして終盤、苦悶の聖セバスチャンは少年に手を差し伸べるが、少年は彼を振り返ることなくシに手を引かれ離れていく。聖セバスチャンは生命の光と美しさを少年に見せていくが、シはその向こうにある世界──死──の、抗いようのない魅力へと少年をいざなう。
全てのカップルを祝福していた聖セバスチャンと少年は、どちらも死へ引き寄せられていくのだ。
東京公演時の「シがシであり乍ら少年の死を悲しんでいるようにも見えた」という指摘には私も頷いたが、この日のシはそれから一歩進んだ解釈を提示してくれた。シが少年を慈しむ様子はより強く感じられた。扇を開く少年、その背中をそっと押し、倒すシ。少年が死の世界へと足を踏み込んだ瞬間、弾けるように歓喜を全身で表現するシは、同時に少年を悼んでもいる。どんな者も必ず死を迎える。こちら側に来る。それをちょっとつまらなくも感じている……それが「惜しい。少しでも長く生きていればよかったのに」という悼みになる。池本祥真は、そんなシを見せてくれた。これは当たり役ではないだろうか。また彼が踊るシを観たい。出来るだけ早く。そう思った。
「待ちましょう」の、血の帯の円環には楯の会隊員のペアもいる。折しもこれを書いている今日は11月25日、三島の命日だ。観る度に新しい発見がある。それは常に現在を生きているダンサーたちと観客がいるからだ。この作品が上演され続けることを願う。三島も、ベジャールも、その度に思い出され、悼まれ、甦る。
黛敏郎の知識が自分には乏しく、音楽についての感想をあまり書けないのが残念。しかしこの十年、桜が散る場面のピアノ曲(『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」)は忘れることがなかった。それにしても、26列目からでもダンサーたちの息づかいが聴こえたのには驚いた。あれだけのプリンシパルが総出で、出ずっぱりで、踊りっぱなし。観る側は眼福でたまらないのだが、ダンサーは違う意味でたまらないだろう(笑)。ベジャールの鬼振付よ……と畏怖の念を抱く。
コロナの第三波が迫るなか、席は千鳥配置。席を減らしてのチケット発売、その後状況を見乍ら追加席を販売していったようですが……記念公演でもあるので満席でダンサーたちを迎えたかった。手が痛くなる迄拍手しました。この作品が次に舞台に載るとき、客席が多くの観客で埋まっていることを願うばかりです。
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配信も楽しみ。神奈川公演の映像も一部使われるそうです。トレイラーの通り、引きの画の美しさは映像でも映えると思う
・この配信、海外からでも観られるそうだから是非ジェイムズにだな……誰か伝えて〜
・「M」 三島への鎮魂歌 - 東京バレエ団┃鳥酉Ballet日記 「“死”でありながら少年の死を悼まずにはいられないのは彼の若さ故か!?」 「樋口セバスチャンは首藤さんの官能性は全く追求しない。三島が求めた男性性と女性性を無理なく出して、セバスチャン自身が第五の三島となった。」 「没後50年が経ち、群舞にも生々しさはなくなり、聖VS俗の構図は薄れた。最初と最後の菩薩九人が並ぶ海は涅槃と繋がる豊饒の海。三島の神聖化が進み、鎮魂歌へと昇華した舞台で、《生命の円環》《エロス&タナトス》の深淵を導き出した菊池洋子さんのピアノ演奏が圧巻だった。」 東京公演のレヴュー。頷きすぎて首がもげそう
・この上なくベジャール的な三島由紀夫解釈 モーリス・ベジャール振付『M』(東京バレエ団)┃下降の旋律 「ベジャールの美学と三島の美学はどうも正反対のように思えてなりません。前者は生命力への肯定的な信仰であり、後者は美しき生命への破壊欲です。」 「しかしこれがベジャールマジックで、少なくとも私の三島由紀夫解釈と異なるバレエを提示されているにもかかわらず、『M』は独立した作品として完璧に完成されているがゆえに心底魅せられてしまいます。」 こちらも東京公演のレヴュー。膝を打ちすぎて脱臼しそう
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2020年11月01日(日) ■ |
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downy『雨曝しの月』 |
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downy『雨曝しの月』@WWW X
ロビンさん曰く、裕さんは「やさしい呪いをかけてくれた」。「気にしいのひとだったから、これで安心してくれたんじゃないかな」。
もともとは6月に行われる予定でした。5月に延期のお知らせが届き、このまま中止になってしまうのかな……と思っていた9月末に振替日程が、その翌週に配信(当日ライヴ配信、29日から「カメラ台数を倍増&音もRemix」したプレミアム配信)がアナウンスされました。秋山さんが「生配信は最初で最後っぽい?」とツイートしていましたが、オーディエンスと向き合うライヴの感覚をバンドはだいじにしているのかな。しかし配信するからには自分たちにしか出来ないものを、といった意欲も感じられました。少ない本数とはいえ、これ迄に観たdownyのどのライヴにも似ていないものを体験することが出来ました。
問診、検温、消毒、セルフもぎり。そろそろ慣れてきましたが、スタンディングのライヴハウスでは初めてです。バミリで区切られた枠に立ち、そこからはみ出さずにいられるかという緊張感もあり。とはいえ、「前に押さずに上に跳べ!」というチバユウスケの名言を思い出せば、実はそう難しいことではないですね。モッシュが起こるフロアを眺めるのは好き(としよりなので巻き込まれるのはもういいです)だし、ぶつかりあいたいひとの気持ちは判るので、いつかもとどおりになるといいなあと願っています。
枠からはみ出さずに盛り上がれたのは、downyのライヴだったからというのも大きい。あまりに演奏が凄まじすぎて呆然としちゃうんですよね。勿論踊れるし、リズムに合わせ身体を揺らすことはあれど、轟音と変則ビートを浴びているうちに立ち尽くしてしまう。曲間の沈黙すら聴いていたい、そして拍手のタイミングを逃す(笑)。それは他の観客もそうだったようで、拍手が起こるときと起こらないときがありました。まるでバンドの呼吸に合わせているかのよう。
珍しくMCがありました。もともとライヴを作品録(撮)りする計画があった。裕さんと約束し、SUNNOVAくんもいるから大丈夫、と安心してもらって病院に送り出した。作品は録(撮)れていなかったのでやっと約束が果たせた、というようなことをロビンさんがポツリポツリと話す。そして「下弦の月」へ。初めて聴く、アコースティックギターを中心に据えたアレンジ。ヒリヒリと、しかしやさしく心に沁みる。自粛期間中、沖縄からロビンさんが何度かインスタライヴを開催してくれたのだが、そのときの弾き語りから発展したもののよう。「視界不良」「砂上、燃ユ。残像」も作品とは違うアレンジになっていた。ライヴの醍醐味。
まあそれにしても皆さんクールなこと、涼しい顔して超絶技巧。それぞれが誰にも似ていない。ポンチさんが「秋山さんの顔と演奏がどう考えても合ってない」といってたけど名言すぎる。前にも書いた憶えがあるが、あんなフィル叩いといてリムショットになるミスがひとっつもないのが恐ろしすぎる。もはや気味が悪い(賛辞です)。仲俣さんも穏やかそーなふりしてゴリッゴリのグルーヴをホイホイ生み出しつつ、「海の静寂」では美しいベースのコードを聴かせる。そんなふたりが「曦ヲ見ヨ!」のブレイクで顔を見合わせて笑っていた。何その余裕、怖いよー(褒めてるんですよ)。明晰な狂気といおうか。
いちばん歳下のSUNNOVAくんがやはり弟っぽい立ち位置ではあるんだけど、彼は踊り乍らも他の三人をよくみている。裕さんの音を預かっている、という心持ちもあるだろうが、トム・モレロばりのエフェクターかけたギター音をブーストする等(「海の静寂」アウトロのヘリコプターのプロペラ音のように聴こえてくるあれ!)音響面の貢献も大きい。今後どうバンドにコミットしていくのかも楽しみです。配信や制作まわりに関しても積極的に動いていて心強い。 (20201130追記:ぎゃー配信観たらこの音を出してたのロビンさんだった。失礼しました…後方位置だったからロビンさん座奏になると何してるか全く見えなかったんですよね……)
ロビンさんはギターもヴォーカルも負担が増えたことに加え、機材トラブルもあったようで(明らかに弾いてるのに音が出てない)キエーってなってるようなところもあったのですが、それすらも絵になりますね。裕さんの「やさしい呪い」は、こんなロビンさんの姿を、downyの未来を見据えていただろうか。面白がってくれてるといいな。
今回は映像だけでなく照明の演出効果も大きかったです。配信を考えてのことかな。その場にいると、自分の身体があの映像に侵食されていくような感覚はたまりませんが、映像だけというのは画面越しに観ると印象が違うのかもしれない。音響もクリア。歌声の通りもよく、歌詞の美しさに改めて感銘を受ける。
「弌」で本編終了。「生配信の本編終了後に未発表曲を初公開」というオフィシャルのツイートを勘違いしていて、ライヴのアンコールでその未発表曲が演奏されると思っていた。普段はやらないアンコールがあるのかあ、と再び出てくるメンバーを見ていると、ロビンさんが「今、配信では新曲が流れてるんだけど……」。え、じゃあ? 困惑するなか演奏されたのは「猿の手柄」、続けて「安心」。どちらも第一作品集からの曲だ。配信を観ているひとたちと現場にいるひと、それぞれにプレゼントを用意してくれていたんだな。これもやさしい呪いだろうか。全ては手に入れられない、でも、手に入れたものはかけがえのないもの。
それにしても、体感時間の短かったこと。一時間くらいかな、と思って終演後時計を観たら、それより30分以上長かった。しかし疲労度は三時間超のライヴを観たときくらい。久しぶりの現場に加え、やはり演奏の圧に相当やられたようです。
終演後「これから二週間なにごともなく過ぎてくれ」、と祈るような気持ちになる。他の公演も同じといえば同じだが、スタンディングのライヴとなるとやはりその切実さがひと段落違うように感じる。バンドもハコも来場者も、皆細心の注意を払っていた。ライヴハウスで音楽を聴くために。これからも聴いていけるように。
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皆さんヘトヘトのようですが(笑)いい顔してますね
・downy web shop┃BASE ・downy×クリフビール Original craft beer┃クリフビール オンラインショップ アロマキャンドル等いつもバンドイメージにぴったりな物販をしてくれるdownyですが、今回も楽しいアイテム揃いで充実しています。SNSでメンバーが「配信のお供に是非」「当日に間に合うよう発送します」といっていたので会場販売ないのかな? とドキドキしていましたがあった〜、よかった〜。カカオニブもコーヒーもすっきりしたおいしさです。 ライヴ終了後は規制退場し、物販コーナーは別フロア。スタッフの案内と列整理もしっかりあり、混雑することなく購入することが出来ました。downyは客も大人というか落ち着いてるよね。 ビールの会場販売はなし。酒類のため販売資格を持つクリフビールさんで通販を受け付けています。呑めないけど気になるわ……
・物販といえば、会場にdeftonesのパーカー着てるひとがいてアガった。あれ通販でしか売ってないやーつ。Tシャツは迷ってるうちに売り切れたやーつ。最近CDにグッズを同梱して売るショップが増えたので、それを期待して待ってるうちに売り切れてしまいましたよね……キイィ
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