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2013年09月29日(日)
『福田美蘭展』

『福田美蘭展』@東京都美術館 ギャラリーA・B・C

個展はコンスタントにやっているようなのだが、東京では随分久し振り。これだけの規模で観られたのは2001年、福田繁雄氏との父子展(世田谷美術館)以来です。最終日にすべりこみ。間に合ってよかった、観られてよかった。

繁雄氏は2009年に亡くなり、祖父である林義雄氏は2010年に亡くなった。ふたりの死に直面した美蘭氏の心の動きを追い乍ら作品を観、作品に添えられた解説を読む。1995年の阪神淡路大震災、2001年のアメリカ同時多発テロ、2011年の東日本大震災と言った大きな事件、災害から、作品を観て「ああ、そういうことがあったな」と思い出す、新聞の社会面を一時賑わせたがその後どうなったか記憶が曖昧な出来事迄、さまざまな社会的事象を扱ったセクション、古典と現代を結びつけるトリックアートのセクション、そして作家個人の思い出が反映されたセクション。

それぞれが、どこから観ても福田美蘭。学識と野性を手から画面へとおとすことが出来る怪物だ。鋭い批評と軽妙なユーモア。静かな過激。そういえば会田誠さんが「名実ともにパイセンと呼べるのは美蘭さんくらいだなぁ…。」とツイートしていたなあ。はっとして、なんだか腑に落ちた。

そんな彼女が、人生のそして芸術の先輩である父と祖父を相次いで失くし、それらが反映された作品が今回とても心に残った。繁雄氏の偉業はよく知っているしとても好きな作家だが、林氏のことは世代的にも馴染みが薄かった。今回改めて調べてみたら、肉の万世のあのキャラクター(モーちゃん・ブーちゃん)、デザインを手掛けた方だそうだ。無意識のうちに触れていた、くらしに寄り添う絵。その林氏の仕事―絵本、童話を中心に―を模写した大画面の作品『涅槃図』の前で立ち尽くす。たくさんの、たくさんのキャラクターたち。動物たち。三匹の子ぶた、さるかに合戦、桃太郎、金太郎……これもくらしに寄り添い、記憶の奥底にあるものだ。日常で思い出す機会は少なくとも、ひとめそのキャラクターを見ただけでどのむかしばなしか思い出せる。随分長い時間その絵の前にいた。模写している美蘭氏の心の動きを辿るような思いすらした。

被災によるストレスで溝が数多く刻まれたアサリも、星座になったワールドトレードセンターも、白くペイントされ植木鉢に差された人間の腕も、静かな悲しさがあった。しかし、倒壊した家屋の横に「切り倒さないでください」と札をさげられた木には花が描かれ満開だ。喪失のなかから芽吹く生命力を想像する。ここにも心を辿る旅。

会場である都美術館の設計者、前川國男への敬意をこめた作品も素敵でした。思わず笑みが零れる。

即完して再刷迄したらしい図録がまたもや完売していたのが残念。最終日だから仕方ないか…しかし……(泣)美蘭さんの作品集って、扱うモチーフがモチーフなので書店に並ぶようなものがないんですよね。入手出来ず残念だったけど、 『涅槃図』のチャリティー版画を購入しました。あの大画面が、掌に載るちいさな刷りものに。複製品の愛おしさ。



2013年09月28日(土)
『猫背シュージ vol.6』、『冒した者』二回目

『猫背シュージ vol.6』@下北沢SHELTER

猫背椿×オクイシュージのミニトークライブ=『猫背シュージ』第六回。「構成とか雑務とかトークお手伝いとか」は楠野一郎さん、ゲストはSNATCH選抜メンバーの久保田くん、後藤さん、河野くん、門田くん。「猫背椿の美味しい料理をいただく会」はしばらくお休みのようですね、猫背さんからのお話は復帰後初の連ドラ『斉藤さん2』の現場の様子、そして育児についてなど。今回は夏に上演された、楠野さん作・オクイさん演出のSNATCH『プロジェクトB』についてが主な話題でした。反省会っぽく記録映像を流し乍らコメントしたり、各メンバーについてのアンケート回答を発表したり。『プロジェクトB』を観てるとより楽しめたかと思いますが、観てなくても解説があったので大丈夫だったかな。

タイトルからも判るように、ジャッキー・チェン映画へのオマージュが盛り込まれた舞台。JAC(現JAE)所属歴もある河野くんとオクイさんがジャッキー映画を観まくって、アクションの振付をしたそうです。実際のジャッキー映画と舞台の映像を続けて観るとそれがよく判って面白かった。そしてそのアクションを二倍速で流すと、よりジャッキーに見えるんだよ!と楠野さん。二倍速するとおおお、ホントだ!キビキビ!それだけ丁寧に振付を再現していたSNATCHの皆さんすごい〜と思いましたし、二倍速にしなくてもあのアクションが出来るジャッキーを改めて尊敬した…すごかった〜。あと『誘拐報道』の例のシーンのオリジナルを観て「こーれーかー!」と皆で納得したりした。当時観たけどこんな細かいとこ迄憶えとらんわ!(笑)楠野さんの映画愛を思い知りましたね。

とにかくアクションが激しかったので、「頼むから事故だけは起こらないでくれ」と思っていた、とオクイさん。その後「誰かは怪我すると思ってたけどね。誰も怪我しなかったのかよ〜」なんて毒づいてましたが、こうやってところどころ顔を出す、オクイさんのマジコメントを聴けるのも楽しいです。「じゃあやってみればいいじゃない!同じ予算でね!!」も名言(笑)。

あと千秋楽にオクイさんが飛び入り出演して、本人としては内緒で衣裳とか小道具とか作ってサプライズにしようと思ってて、実際うまく行った(と思っていた)そうなんですが、この日門田くんに「実は皆気が付いてました」と言われしゅんとしていた。かわいそうに…(笑)。その飛び入りしたときの扮装が『八つ墓村』のあれ(山崎努)で、楠野さん曰く「この山崎努が走ってくるシーンは日本映画史上最強に格好いいシーンだと思っている」と力説、実際の映像を流したらこれがまーーーーー格好いい!!!!!すっかり忘れていたけど満開の桜が散るなかを走ってくるのね…あの扮装、山崎さんの形相のインパクトが大き過ぎて全景をちゃんと観てなかったんだなあ。山崎さんの走る姿、桜の色彩、スローモーションの演出、どれもが確かにシビれる映像でした。改めて観られてよかったよ……。

で、「役者はの到達点は山崎努」「役者は皆山崎努を目指す」とオクイさんと楠野さんで盛り上がり、猫背さんに「松坂桃李くんとかも山崎努を目指してるの…?」といいツッコミをして爆笑を呼んでおりました。

SNATCH選抜メンバーはオクイさんにいじられ放題でかわいかったわー。舞台に立つと格好いいのにね!久保田くんのレミゼナンバー独唱でおひらきとなりました。

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『冒した者』@吉祥寺シアター

二回目。うーん、やはり面白い。照明の使い方もよかったなー。演者が持つ懐中電灯の使い方も。顔だけを浮かび上がらせる照明は、どの人物が誰に興味を持ち、何を疑っているかのガイドになっている。序盤の食卓の緊張感も、その後の登場人物たちの関係性を把握するのに効果的。一度乗ってしまえば、三時間超の長さが全く苦にならない。

皆かなりの早口なのだが、分析や説明も「分析のための口調」「説明として聞き取りやすい台詞回し」で語られるので、内容が聞き取りやすく理解も円滑。これは出演者の技量が高いと言うことだよなあ…哲司さんのモノローグの説得力も素晴らしいが、長塚くんの、講義を聴かされているかのような歯切れのよい台詞回しも見事です。これらスピード感溢れるものいいと、松田くんのゆったりした言葉遣いの交差がいいリズム感を生んでいる。松田くんは「ガッカリしちゃって」「僕みたいになっちゃうよ」と言った特徴のある言葉にはっとするものがあった。終戦から少したった、現代とは少し違う、ちょっと懐かしさを感じる言葉遣いや言い回しが心地よい。松雪さんの江戸っ子口調も素敵です。それが段々狂気を帯び、「気っ風がいいにも程が…」と感じてきた丁度いい頃合いで明かされるその根拠。やっぱりこの芝居は芝居らしい、構成がしっかりしている。

と思うのは、前日譚である『浮標』から続けて観ているからだろうか。『浮標』にはなんと言うか、三好十郎が妻を亡くしたときの混乱が芝居のなかにも感じられるのだ。ひとの死には絶対的に抗えないもので、簡単には片付けられない。その決着のつかなさが、むき出しで芝居のなかにあった。そしてその『浮標』の再演で死にゆく妻を演じていた松雪さんが今回違う役で出演していることが、こちらの「芝居を観る」心構えを整えてくれたように思う。

それにしても美声揃いの出演者でしたね。江口さんも、まことさんも、吉見さんの声も好きー。桑原さんの「自分も他人も年中悪を犯しているような、罪を犯してるような気がしている」かのような声色もよかった。そしてモモちゃんを演じた木下さんは、松田くん演じる須永と、言葉を超えたところで通じ合っているかのような声を持っていた。

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想像力が豊かなひと程疑心暗鬼になりひとを信じられなくなる。医者の分析も、多くの所見を資料に想像力を働かせ、患者を診断する。

若宮や織子のように「本式に診てもらっ」ていない不明瞭な診断や宗教を心のよりどころにし、それに依存するようになるひともいれば、舟木のように分析をよりどころに自分を納得させようとするひともいる。彼らは理解し合うことが出来ない、理解出来ないことは恐怖を生む。その緊張感をスリラーとして観ることも出来る。ひとは自分の信じたいことだけを受け入れがちだし、信じたくないことには何かと不都合を見付けたがるものだ。それが夫婦の関係や、金が絡んだ契約に及ぼす影響は絶望的なものだ。信頼と言うものが如何に脆いものであるかを思い知らされる。

舟木の姿には、鴻上尚史の『トランス』に出てくる「分析するしかないじゃない!ねばり強く相手を分析して、自分を強くするしかないじゃない!答えなんて簡単に転がってないのよ!」と言った精神科医のことを思い出す。二十年も前に観た作品なのに、彼女の叫びは耳に残っている。そして『冒した者』の登場人物のなかで私の心がいちばん寄るのは舟木なのだ。分析に限界はある、そのことには気付いている。しかし、「お前の神さまは人間をこんなふうに作ってしまったんだよ!」と言う台詞には大きく頷いてしまうのだ。

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まああとあれだな…先月からの日記を読んでる方はご存知でしょうが、ここんとこの自分のAICドップリっぷりが酷くてですね…当時と同じくらい、いや当時以上にハマッている気すらする。怖い!こんなに引きずり戻されるとは!何がきっかけになるか判らないものだわ…レインは麻薬のような声の持ち主と当時言われていたものですが、今実感している!こうやって薬物とかアルコール依存のひとは再発しちゃうのね。いや麻薬やったことないですけど。アルコールもからきしダメどころかアレルギーなので依存以前の問題ですけど。もうやばいよ…ずっと脳内で曲がかかってるよ。芝居とかそういう、他のことに注意がいってるとき意外は鳴りっぱなし……。

そんな状態なので、今コカインとか言われると過剰反応し、即レインのことを連想する訳で。薬物ダメ絶対!誰か柳子さんをリハビリ施設に入れて!この時代ってまだ違法じゃなかったのかなあ…はあ〜。レインも逮捕とかされてれば強制的に施設に入れられて治療を受けることが出来たかも知れないよね…それにしてもなんで捕まらなかったのか不思議だ。あんだけアレだったのに。それ言ったらスコット・ウェイランドとかなんでああもよく捕まるんだ(笑)要領が悪いのか。って、要領悪い方がいい!むしろ!事程左様にひとの死と言うものは受け入れ難く…と『浮標』に感じる混乱とは、に繋がる訳ですよ。ああっ何が繋がるだ!繋がってるって思うのは私だけだ!(泣)……ホントすみませんね。



2013年09月23日(月)
『建てましにつぐ建てましポルカ』

ヨーロッパ企画『建てましにつぐ建てましポルカ』@本多劇場

楽しかったっ、ほっこり。タイトル通り、建てましにつぐ建てましで迷路のようになったお城に招待された貴族が迷う話です。このワンアイディアで押し切るところがすごい。貴族はとにかくパーティやってる部屋に辿り着きたい一心でめちゃがんばる。その間由緒ある貴族と新興貴族のいがみあいやら乞食やら怪物やらお姫さまやら騎士やらメイドやら出て来て、しまいには悪魔も出てくるんですが、貴族の思いはただひとつ、とにかく面倒なことは見なかったことにして、パーティに行きたい!

かわいい…かわいそう……かわいいそう………。

お城で迷うってだけでこんだけ面白いものが。緩い難題が次から次へと降り掛かり、これどうすんの、最後どうなるの…と思ってたら、どうにも、ならなかった!見ないふり見ないふり、関わりたくない!パーティ行きたい!お城の後継者争いとか、魔法で呪いでとか、言ってこないで!聞きたくない!聞かなかったことにする!貴族がワイングラス持ってるとルネッサーンスて言いたくなる、言ったらどうしようなんて思って髭男爵の功績って大きかったんだなあと思ったりもしました(笑)。怪物もかわいらしくて。あの…緑色のゴン太くんみたいなの……わざわざ作るその熱意も素晴らしい。千秋楽後はどうするの、捨てちゃうの勿体ない、でも使いまわしには出来なさそうなあの個性。いっそぬいぐるみとかストラップ作ってグッズ販売すれば当たるんじゃないの、私あったらそれ買いたい、とか余計なこと迄考えるくらいですよ!

そして桃…パン……黒胡椒のローストビーフ………。腹が!減るわ!!

緩くて牧歌的で、意地悪なひとにもどっかしら愛嬌があって、ひとつひとつのディテールがこまやかで、とにかくかわいらしい。「貴いですぞ!貴いですぞ!」が自分内ではやりそう(笑)「鷹の紋章ですぞ!」「狼の紋章ですぞ!」ていちいち言うのとか。劇団の皆さんも客演の役者さんもそのキャラクターとして見てしまう、道ばたであったら「あっ、ピートだ」とか言ってしまいそう。

井ノ原くんの出演舞台『昭和島ウォーカー』を観たのが上田誠さんとの出会いでしたが、劇団公演を観たのは初めて。いやー楽しかったです。滝本晃司さんの音楽もかわいかった。終盤からタイトル通りのポルカが流れ出すのですが、これがまたいい感じに物悲しくてね。エンディングの曲とか笑い泣きしそうなせつなさでした。



2013年09月22日(日)
『冒した者』

葛河思潮社『冒した者』@吉祥寺シアター

『浮標』同様、テキストは青空文庫で公開されています

あー、これはすごくよかった。と言うかこういうのが好きなんだな、自分が。独立して観てもいいのだけど『浮標』を観ているといろいろ思うところも多い。あの家族の記憶がのしかかる。それは自分の家族の記憶のかけらでもある。

八方塞がりの五郎が必死ですがる希望のひとつひとつを、周囲の人間がひとつずつ丁寧に潰していく重さ、上演時間の長さ、モノローグの比率の高さ。これら息詰まる要素を揃えた『浮標』を経ていると、今回の『冒した者』は全体の印象としては観やすいものになっています(それでも重量級だが)。『浮標』の後日譚としても観ることも出来ますし、須永の存在がサスペンスの要素にも成りうる。登場人物たちの内なる激情が表出するメリハリもある。そういう意味では、より芝居らしい芝居です。

五郎=私は、絵をもう描いていないのだろうか。舟木との交流が続いていることにいくばくかの安堵。妻=美緒の親兄弟との関係はどうなったのだろう。

ある人物の訪問で、日常に波風がたつ。皆が少しだけ正直になる。その正直さは、集団を崩壊に導く。現代で言えばシェアハウスのようなシチュエーションは、その場所が「定住、安住の地」ではなく、旅人たちが交流し、情報を交換しあう「オアシス」であったことを再認識させる。

『浮標』同様、登場人物は全員裸足。ほぼ正方形の舞台の上には椅子が数脚、両サイドにも数脚。完全な退場は数少なく、基本的に演者は両サイドに用意された椅子に座って出番を待ちます。この辺りも『浮標』と同じですが、『浮標』では両サイド全ての椅子が舞台に向いており、出番ではない演者は舞台に身体を向けて座っていましたが、今回はその逆で、椅子は舞台とは反対方向を前にして据えられている。演者はその椅子に座り、舞台に背を向けて座る。そのまま出番を待つか、身体を反転させて舞台を見詰めるかに分かれる。それにはある種の規則性があったのだろうか。その場にいない登場人物のことが舞台上で話されるとき、その不在の人物を演じている役者が「聴いている筈のない自分に関する話」を聴いている。そのときの表情、振る舞いに注目出来ると言う空間が前回同様用意されていたことは興味深い。今後葛河思潮社がどの作家のどの作品を上演して行くか、その際この演出方式は踏襲されるのか、と言ったこれから先のことを考える楽しみもありました。

舟木の妻の宗教観、そしてそれを論破する舟木。人間が考えうることの限界は舟木自身にも返ってくる。手を出すと言うことは、いかに罪深いことか。そしていかに利己的なことか。神の存在を認めつつ、それを人間の手で操作しようとすることへの矛盾は『90ミニッツ』でも強く感じたことだ。これは自分が一生興味を持って考え続けていくだろうと言う自覚がある。信仰を持つことと、それを宗教として扱うことは違う。全ての人類は“冒した者”であると言い放つのは、「私」か、「須永」か、三好十郎自身か。いや、そう言ったのが誰であろうと本質は変わらない。自明のことだ。

来週もう一回観ます。出演者についての感想はそのときに。



2013年09月21日(土)
東京03『タチの悪い流れ』

東京03 10周年記念 悪ふざけ公演『タチの悪い流れ』@草月ホール

ハマケンが出ると言うのでお誘い頂き行ってきました。お笑いのライヴってシティボーイズくらいしか知らないので、どんなんだろう?コントを何本も見せるもの?ハマケンは何するの、唄うの?GENTLE FOREST JAZZ BANDは生演奏?と???の嵐で会場へ。

???はある意味合ってた。ひとつひとつ上演してもオッケーな成り立ちのコントを、一本の芝居に構成したような感じでした。ハマケンは唄った。GENTLE FOREST JAZZ BANDの生演奏にのせて唄った。そしてガッツリ演者としても出演した。しかもやだもー、文字通りの妖精枠ですよ!異世界の住人ですよ!この!マンチカンめが!くぁわいい!しかしホント痩せた…やだ格好よくなっちゃう!はーしかしかわいかったね。ちっちゃくてかわいいから(周囲が同意してくれるか不安になる程ハマケンのことかわいい言ってないか……)女の子のアイドルとしてデビューさせちゃおってなるんですよ。で、それが当たって一躍スターダムにのしあがるんですが、そのときのスポーツ新聞(映像で出る)に載ってる写真、しっかりヒゲ生えてるんですよ。伸ばしてるアゴヒゲが。それで「男ってバレたらどうしよう」って、何言ってる…ここはツッコんで笑うところか…単なるミスか。舞台上のハマケンはしっかり全ヒゲ剃ってたので、そこんとこは気になるわ。

はー笑いすぎて頬骨痛い。生おぎやはぎも観られて楽しゅうございました。作中ネタにしてたけどやはぎさん怪我完治してないよね、おだいじに!日替わりゲストはザキヤマさん。どんなこまかいところも拾い、どんなこまかいところも拾わせようとするそのしつこさ(笑)で、上演時間がかなり伸びたようです。皆さんへとへとっぽかった(笑)。皆がぽかんとしてるネタを絶妙に拾った飯塚さん素晴しい、ザキヤマさん本人が感心する程だった。

それにしても角田さんの、あんな柄の組み合わせのスーツが似合うってすごいわあ…豊本さんが途中から勝井祐二に見えて来た(笑)。十周年おめでとうございます。



2013年09月20日(金)
『かもめ』

『かもめ』@シアターコクーン

北風と太陽な『かもめ』でした。場面場面は面白く、達者な演者たちの達者な振る舞いを楽しみました。やっぱりすごいなー皆、と思ったりして。

ええと説明がややこしいな…トリゴーリンとアルカージナのふたりが北風、トレープレフとニーナが太陽と言おうか。悲劇が喜劇に転じる、それは感じられるものか、感じさせられるものか。笑われるか笑わせるか。このアプローチの違いがとてもちぐはぐに感じました。この“喜劇”、結果的に喜劇に映ると言うところに哀切なユーモアがあり、個人的にはチェーホフがこの作品を喜劇と題したことは、強烈なアイロニーとしてだと解釈しています。悲劇が結果的に喜劇になってしまう、その滑稽さ。

で、途中からこれはどっち側から観ればいいかななんてことを考え乍ら観てしまった。ドールンは太陽、境界線上にソーリンとメドヴェジェンコ。たとえがこれだと北風が悪いみたいな言い草だけど決してそうではないのですよ。どの場面を背負うかにもよるけど、ここを北風方式で行くのは…ここが太陽方式では……と思うところはなかったのです。大竹さんも野村さんも、あの面白さはなあ、素晴しくて。あのとっくみあいとか。自分大好きなアルカージナと魔性の天然トリゴーリン。大竹さん、ところどころ清水ミチコのデヴィ夫人みたいな声色だーと思って笑ってて、帰宅後折り込みチラシを見たら大竹さんと清水さんの共演のお知らせ入っててウケた。

「喜劇として上演しますよ!喜劇と言えばのケラさんを呼んで!」と言う押し出しからして、観る前からこっちが勝手にもやっとしていたと言うところもある。しかし、ケラさんだからこそ、激烈に悲惨な物語から笑いが顔を出す瞬間を見逃さず、毒を以て舞台にあげてくれるだろうと言う期待もあった。それは確かにあった。でも、なんだろう…そのケラさんの毒と、チェーホフの毒の異質さが浮き彫りになったと言うか……それはそれで興味深かったんだけど。

何度か書いてるけど、ケラさんって観客を信用していないんだなあと感じることが多く、近作でまたそれが顕著になってきた。停電で、ライトスタンドがジジ、ジジ、と鳴るところの繰り返し。何故あの回数鳴らすのだろう。このくらい繰り返さないとおまえらには解らないだろうとでも言いたげな執拗さ。いや…それでケラさんのこと嫌いとか言う訳ではない……ただしょんぼりするってだけで。信用されてないって感じてるのは私だけかも知れないし。チェーホフ四部作を全部演出するシリーズだそうなので、全部このアプローチで行くのかなといろいろ考えさせられました。私が考えても意味ないのだが。

プロセニアムを意識させる、コンパクトで整然とした美術(島次郎)は、ちいさな世界で右往左往する人間たちの滑稽さを浮き上がらせて秀逸でした。冒頭舞台背景を斜めに横切る湖の青、庭の木々が揺れる嵐の描写も見事。



2013年09月14日(土)
『ヴェニスの商人』『遠景の音楽〜弦楽三重奏のための夜想曲〜』

『ヴェニスの商人』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

最初にぶっちゃけておくと、もともと好きな作品ではないのです、はああ〜。しかしシャイロックを猿之助さんがってなら、あのイヤ〜なキャラクター(笑)を面白く観られるかなと言うのと、蜷川さんが「原作にないラストシーンを加えた」と言っていたので。

そもそもこの作品が好きではないのはシャイロックがイヤ〜だから、と言う訳ではないのです。確かに彼はイヤ〜なやつですが、そのイヤ〜なやつになってしまった過程が、環境によるもの(断言するぞ)なのに本人=ユダヤ人の気質として描かれているところがイヤ〜なのねー。で、裁判にしても普段からの暮らしにしても、周囲の人間がよってたかってあげつらうとこがイ〜ヤ〜。で、それを喜劇にしてるってのもイ〜ヤ〜。なんでここ迄シャイロックがひねくれちゃったか考えてみろよと言う……。あとポーシャとバサーニオの指輪のやりとりのくだりな。ここほんとダメ、一線超えちゃった感じでダメ、ひとの携帯見たりとかヤジ馬が写メ撮るのと同じ感じで個人的にはホントダメ。ああいう形でひとを試そうって心持ちがもうイヤ〜!

とは言うものの、そのイヤ〜な話を手練の演技合戦で魅力あるものに見せてもらえたのはよかった。かなりよかった。猿之助さんは舌に紅を含んでべろ〜んと見せる等の歌舞伎的な手法を思い切り持ち込んだ外連味溢れるシャイロック像で、もうこんだけやられたら笑います、笑いますよ。横田さんのバサーニオと高橋さんのアントーニオも、天然ちゃんとナルシストの関係と見れば喜劇としての愛嬌が生まれる。しかし高橋さんて格好いいですよね、いやウィッグ着けてたからとかじゃなくて(笑)プロポーションも立ち姿もいいし、声いいし、舞台映えする。横田さんのバサーニオは、前述の指輪のくだりのボケっぷりが脱力な面白さだったので楽しく観られたよ……。こういういろんな解釈が観られるから演劇って面白い。

そして出色だったのは中村くんのポーシャ。オールメールシリーズのなかでもズバ抜けてよい女形でした。かつて(なのかな?今回出演してなかったのであらっと思って…)常連だった月川くんもすごかったが、彼も相当。発声、所作、申し分なし。男性が女性を演じ、なおかつその女性が男装で振る舞うという、オールメールシリーズならではのややこしい魅力を体現してくれました。やー、彼には『お気に召すまま』のロザリンドを演じてほしい。観たい。

セットは基本書き割り、機動力を活かしたスピーディな転換。そして巧者揃いなので早口な台詞も「おいおいなんでそんなに急ぐ、上演時間気にしてるのか」と思うこともない(笑)そういうの結構あるんだ…ただ早口で内容が伝わってこないっての。逆に伝わらなくていい箇所はそう了解させると言う、言葉の取捨選択も興味深かったです。猿之助さんのブツブツシャイロックはまさにそれ、膨大なシェイクスピアの台詞を逆手にとったもので、「あーひねくれじーさんのブツブツが始まったヨー、話半分で聴いといて構わないヨー」てなふうにもとれましたね、それでいでその挙動からは目が話せない。そしてここぞと言う場面ではしっかり言葉を通す。引力あるわ……。

ラストシーンは、喜劇を喜劇で終わらせ(たく)ないと言う、蜷川さんのシャイロックへの思い入れを感じました。改宗がどれだけ凄まじいことなのか、日本人にどのくらい伝わるかと言う提案にも思いました。

どういう運か最前列で、裁判の場面で高官たちが座る椅子が30cmもない近さ。私の前にはネクストシアターの隼太くんが座っていたのですが、局面によってちいさく呻いたりシャイロックを小馬鹿にした態度をとったり、細かい演技がよく見え聴こえたのが楽しかったです。ネクストの鈴木くんがオールメールシリーズで初めて男役を演じたところも新鮮。彼ら含むニナカン常連組のしっかりした仕事を見られるのもこのシリーズの醍醐味です。ネリッサ役の岡田さんのかわいらしさ、道化と言えばの清家さん、大川さんと新川さんの美丈夫コンビとみどころ沢山。スターを主演に呼ぶ話題性を常に持つ蜷川作品ですが、個人的には蜷川劇団の公演として観ています。

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高橋徹也『遠景の音楽〜弦楽三重奏のための夜想曲〜』@下北沢SEED SHIP

ワンマン観るのは初めて。しかも今回特別編成で、弦楽三重奏との共演です。Vo、G:高橋徹也、Pf:佐藤友亮、Vn:矢野小百合、Vla:田中詩織、Vc:今井香織。

最新作『大統領夫人と棺』リリースツアーの一環と言うことで、そのナンバーを中心に。このアルバムとてもよいのです、そもそも今回観に行こうと決めたのは六月に観たライヴで瞬時に魅了されたから。メジャーにいた頃からその存在は気になってはいたのですが…周りにファンの方が結構いたし、話もいろいろ聞いていて。なんだかんだでこのタイミングになりましたが、やはりライヴの威力はすごいな。すぐ次が観たい、もっと聴きたい、となりましたもの。これは小林建樹に感謝しなければ!彼が出演してなかったらあのイヴェントに行っていなかったもの。

SEED SHIPはビルの3F、全面ガラス張りの大きな窓をバックにしたいい雰囲気のライヴスペース。満員の観客の集中力も高く、静まり返って演奏と歌に聴き入ります。MCも終盤迄全くなし。アルバムの世界観をだいじに、丁寧に差し出そうと言う心意気を感じました。アーティスティックな職人技、と言う相反しそうな要素が無理なく同居していて圧倒されることしきり。演奏途中近くを通った救急車と消防車のサイレンが大きく響いたこと、曲間大声でスペースの空調に注文を出す客がいたこと(MC一切なしで進行していたことからも判るように、あの構成とても練られていたと思うんですよね…それが分断されたと思うのです……)が残念でしたが、演奏を始めると瞬時に空間を支配する。見事でした。キャンバスを持ってスタンドマイクで唱ったり、リーディングをラジオ音声のように鳴らしてイントロにする等の演出も格好よかったです。そしてあの声、耳を傾けずにはいられないなあ。

MCでストリングスの女性三人を紹介したあと「やっぱり女性って、ここぞと言うときはキメてきますよね…格好いい。(佐藤さんを見やって)…俺たちなあ……!」だって(爆笑)。ちょ、何言って、めちゃ素敵ですやん!何の不満が!痩身を黒の上下で包んだ衣裳とてもキマってますやん!佐藤さんだってベストにボウタイでキメてるのに!その後「脱ぐ!」とジャケットを脱ぎ、リラックスした雰囲気のなか最後の曲を。アンコールもその流れで。

前述のとおりセットリストの流れをとてもだいじにしたコンセプチュアルな内容、アルバムの楽曲そのものの魅力、それを伝えると同時に違う角度から光をあてて表現する技量。そのどれもが素晴らしく、カメラも入っていたのでこれはパッケージ化してほしいなと思いました。シビれた。

いやー、いいハシゴだった。プロフェッショナルな仕事に接すると、こちらも背筋が伸びます。ちゃんとしよう(何を)。



2013年09月11日(水)
『鈴木勝秀(suzukatz.)-130911/ウエアハウス vol.2』とか

『鈴木勝秀(suzukatz.)-130911/ウエアハウス vol.2』@SARAVAH Tokyo

配役はトミヤマショウジ=陰山泰、サトウトオル=菅原永二、ギタリスト(=演奏)ファルコン。照明=倉本泰史、音響=鈴木勝秀。基礎テキストはこちらからダウンロード出来ます

・菅原さんに「僕英語苦手なんです」と言わせるか
・このへんはサブテキストの妙味ですな。たまたま知ってるとニヤニヤする
・それにしても菅原さんの美脚っぷりよ。スキニー履いてその細さって何だ!何だこのやろう!
・身体が薄い。白いシャツが似合います

・陰山さんがあんなに絶叫するの初めて観た(笑)貴重
・あこがれのロマンスグレー
・美声。ああ美声

・それにしてもこのお二方の距離感と言うか、得体の知れない初対面のひととどうやって接していこうかな〜てなさぐりあいが生々しくてですね
・こういうサトウ=ex. ジェリー像、ちょっと新鮮。がぶりよってこない子
・トミヤマ=ex. ピーターも、持論を展開しているときの借り物っぽい言葉が徐々に自分のものになってってるようなあの感じ、境界線が判らなくなっていく感じ、過程がせつない

・サラヴァでこのリーディングシリーズ始めた頃よりフリーフォームになってきた感じがしました。特に目線が自由になってる
・つい見ちゃう、と言う感じすらする。自由=自然、のギリギリ
・フロアの中央にいる演者を客席が囲む仕様なので、演者は自由に動いているようでいてあらゆる方向にまんべんなく顔や身体を向ける。この辺りには段取りがあったようにも思いました
・円形ステージならではのしっかりしたサービスとも言える。リーディングだと椅子に座ったら基本あまり動かないものね

・カメなめんなよこのやろー!カメ馬鹿にすんなよこのやろー!(再)
・カメはとてもかわいいです!
・そりゃねこもかわいいさ、ねこ大好きさ、でもかめもかわいいの!

・ファルコンさんのギターはジャガーとアコギの二種。エフェクターもいろいろ
・ああ、巧いひとの楽器ってホント聴いてて気持ちよく鳴る。楽しい
・iPhoneの音をギターで表現。いぬも表現。楽しい
・しかしあのタイミングで客のiPhoneが鳴ったのには苦笑しましたね…しょんぼり……
・横川理彦さんが参加していた頃の『ウエアハウス』シリーズを思い出したり
・そして当時の公演を多分観ていないファルコンさんの演奏が、ところどころ横川さんのそれに共通するようなものだったことが興味深かった
・指定はなくとも、ある種の音(擬音、再現音とは別の、所謂音楽)を想起させる芯がテキストにあるのだろう

・『ウエアハウス』の初演は1993年。スマホと言うアイテムを組み込んで、テキストが再びヴィヴィッドになった。これからも更新されていくのだろう
・テレビと言うものの位置づけが当時と変わってきたなあと改めて思ったり。ブラウン管から液晶への買い替えに始まり、ワンセグと地デジ化が決定打だと思うんですが、テレビ持ってないひとがホント増えた
・そしてwebとテレビのコンテンツの違いね。スポンサーのあるなしとか
・コンテンツには勿論ホワイトノイズも含まれる
・そして震災だなあ。震災後テレビの言うことを鵜呑みにする旦那とそれにアホかと憤る嫁のtwitterでの言い合いを見たりして(苦笑)両方見たうえでの取捨選択について考えたり。webでしか見なかった情報も、テレビでしか知らされなかった情報も両方あるもの
・そしてwebにもテレビにも出てこないことはその何倍もある

・客出しがRHCP。ニヤニヤ

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さてここから先はもはや恒例、この公演と何の関係あるんだってな話ですが自分用メモですのでなまあたたかい目で見てください…むしろ読まなくていいんじゃないか。自覚はある……特に最近は物忘れっぷり甚だしく自分の日記検索して確認したりする有様、困ったものですハイ。逆に言えば、書いとけば役に立つので!自分の!(笑)基本わたくしの感想は思い込みと妄想で出来上がっております。特にスズカツさんの作品を観るときはその傾向が著しいです、やまい。

と言う訳でここんとこレイン・ステイリー関連を思い切り振り返っており(経緯は前回の日記『yanokami indoor festival』に)当時の記事なんぞを読み返したりしていたところにクリス・コーネルのこんなインタヴュー(・AlternativeNation.net | Chris Cornell Says New Wave Bands Did More Drugs Than Seattle Bands)が出たりして、シアトルシーンの薬禍っぷりってどんだけと暗澹たる気持ちになる。クリスは多くの友人をドラッグで失っているし、『PJ20』でも判るように、ここらへんの生き残り、語り部として自覚的だと思う。

で、知ってるひとは知ってるが、と言うか自分も日記に何度か書いてるような覚えがあるが、レインは『LYNX』のオガワを地で行く男だった。これ前にも書いたかも知れないけど、レインは亡くなる二ヶ月前、最後のインタヴューで"This fucking drug use is like the insulin a diabetic needs to survive,"と言っていた。オガワもドラッグのことを語るときインシュリンをひきあいに出していたが、この引用っておおもとは何なんだろうと思ったりしたものです。『LYNX』の初演は1990年、レインが亡くなったのは2002年。

彼が公の場に出たのは、バンドメイトであるジェリー・カントレルのソロライヴにゲストで出演した1998年が最後らしい。Alice In Chainsとしてのライヴは、1996年のKISSとのツアーが最後。そのちょっと前に『MTV Unplugged』に出演している。このときの映像でもなんとなく薬の影響下にあるなあと思わせられる。ゆったりとした振る舞いは、そういうふうしか動けないくらい体力が落ちていたからだろう。長袖やミトンは注射痕を隠すためなのだろう(指の付け根や掌に痕があると噂されていた)……詮索はいくらでも出来る。class of '99の「Another Brick In The Wall(Pink Floyd Cover)」が最後の作品となった。



1996年の秋に起こった出来事以降レインは生きる気力を完全に失ってしまったのだろう。それでも、それから五年半生きた。五年半もかかった、と言うべきか。その分苦しみは延長された。ひとは意外と死ねない。

ブランチ「安くないのよ、人の死は。お金がかかるのよ。」

やばい、本当に関係なくなってきた。単にレインのことについてメモを残しておきたかったんだな(ガクリ)。