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2013年04月28日(日) ■ |
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『ヘンリー四世』 |
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『ヘンリー四世』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
4時間20分見せ切る見せ切る!座組もよかった。
二部作を一本にまとめているので上演時間は長いのですが、その割に間延びがなくスピーディに進みます。蜷川さんが近作で重要視している機動力をフルに活かしている。隊列の行進も印象的で、長い距離を移動しているのだと言うことを、舞台を斜めに横切ると言う形で見せる。一幕と二幕で違う役を演じる役者さんがまたいい。一幕で悲劇の結末を終えた人物が、二幕で違う人生を歩んでる。その逆もある。二幕冒頭は白眉、客席から登場する街のひとびとの魅力的なことと言ったら!これはカンパニーの魅力でもある。こういう、物語の中心となる人物の言動によって自分たちの生活を左右される市井のひとびとの視線を常に置いていくと言う蜷川演出の基本姿勢が、自分にとってはすごく信用出来る。
場面転換は背景幕を換えることで了解させ、それでいてその幕の下から役者が顔を出したりと言う「芝居のお約束」に自覚的な演出も。森のシーンが特によくて、幕の下からひょっこり顔を出したハルたちは、芝居のお約束――お芝居だから背景は絵なんですよ、と周知させ乍らも、緑の木々に埋もれて隠れているように見えた。彼らが鬱蒼とした森にいると言うことがより視覚化し、観客にイメージの拡がりを提案してくれた。このアイディアは役者からのものなのか、蜷川さんが指示したのかどちらかしら。ハッとさせられました。
背景幕がないときは、舞台の奥行きをフルに使い、演者の身体を信用している場をつくる。疾走するハル、跳び回るハル、追いかけるフォルスタッフ。ほぼ裸舞台でふたりの役者だけを見せる。この登場場面数十秒で、ふたりのキャラクターが把握出来る。見ている側はあっという間にふたりに魅了される。それだけに、成長し国を治める立場となったハルの成長と、彼がくだした決断によりこれ迄の呑気な生活が暗転するフォルスタッフの終幕がより胸に迫る。結末を知らないひとには衝撃を、知っているひとには感傷を。青春の季節とその終わりを痛切に伝える両シーン、素晴らしかったです。
鋼太郎さんのフォルスタッフはほんとすっごかったわー、笑わすわ泣かせるわ。これぞシェイクスピア役者!身体に相当な負荷がかかるあの衣裳、あのメイクで、台詞も動きもキレッキレ。観客を巻き込み味方につける、狡猾なのに憎めないフォルスタッフ!女にやたらモテるとこもなんか鋼太郎さんらしいわ(笑)名誉についてのモノローグシーンでは、幕間前とかでもないのに拍手が起こりました。名モノローグであり乍ら名スピーチにもなっていた。それだけにもーね、あのラストがね…(涙)わかっちゃいるけど、自業自得だけどつらすぎた。そしてこの自業自得って言葉は昨今の自己責任って言葉を連想させ、正論だけがまかり通る世の中の窮屈さを皮肉っているようにも見えた。彼のことをほら見たことか、と嘲笑出来る人物は、どれだけ聖人なのだろう。そもそも聖人は嘲笑などしない。
あれよね、イエスキリストが罪を犯したことのないひとだけ石を投げなさ〜いて言ったら誰も投げられなかったって話聖書にあるけど、今はヘーキで石投げるひとが沢山いそーよねってことですよ……。自戒を込めて。我が身を振り返る作業は忘れちゃダメ!
閑話休題。ハル役は松坂桃李くん、シェイクスピア芝居が初めてとは思えない台詞まわし。リズム感がいいのかな、「読んでる」域をちゃんと出ている。いやあよかったわあ、あの冒頭のシーンの無邪気さ。裸舞台を全力で走る。若さの魅力に溢れてる。やがて無邪気ではいられない国の指導者として成長していかねばならず、それが大人になると言うことで、その辺りの揺れを気持ちよく見せてくれました。タイトルロールのヘンリー四世、木場勝己さんもよかったなー。国を統治する荒ぶりと自身の衰えの自覚と、後継者としてのヘンリー五世と同時に息子であるハルへの愛情と。引き裂かれる複雑な感情表現に良心を感じました。『葛城事件』で声はスズナリ、本体はさい芸に同時出演中(笑)の塚本さんはなんだかかわいらしい召使や街のひとをいい笑顔で演じておりました。前述した「市井のひとびと」を演じるニナカンの役者さんは本当に魅力的なひとばかり。岡田さんは最近すっかりおかまちゃんの役が多いですね(笑)。
そして立石涼子さん、冨樫真さん、土井睦月子さんの三人の女優さんが皆素晴らしくて!特に冨樫さん。一幕では夫を戦地に送りそして喪うパーシー夫人、二幕では威勢のいい娼婦ドル。全く違うキャラクターを演じ分ける実力もすごいけど、この二役を同じひとが演じていると、夫を亡くしたパーシー夫人のその後の人生をドルに見るような錯覚が起きます。そこでまた、環境や状況により人生を激変させされる市井のひとびとのことを思う。土井さんの役もそうで、一幕では夫の国(スコットランド)の言葉も判らないまま結婚したウェールズ人(ウェールズ語も披露)、二幕では夫と街を歩く溌剌とした女性。立石さんは二幕通して同じクイックリー役ですが、やはり夫を失っている。この辺り、蜷川さんがさい芸で演出した『オセロー』のデズデモーナとエミリアのことを思い出しました。「打ち捨てられた者たちの悲しみ」。こういう視線を忘れないところも、蜷川演出の好きなとこ。
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2013年04月27日(土) ■ |
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『ホーリー・モーターズ』 |
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『ホーリー・モーターズ』@シネマカリテ スクリーン2
非常にレオス・カラックス監督自身のパーソナルな側面が表れているにも関わらず、そういうところこそに普遍を感じ、人生というものに思いを馳せる。誰かの人生を生きる仕事。誰かって?それが他人だと言い切れる?自分ではない誰かだと言い切れる?父親に嘘をついた女の子はこう言い渡される。「おまえが受ける罰は、おまえがおまえとして生き続けることだ」。自分が自分でしかないことの苦痛、演じるという行為の美しさ、映画のなかに生きる、痛みを持ち演じ続ける者たちの美しさ。
カラックス本人がベッドで目覚める、傍らにはテオそっくりのいぬがまるくなっている。テオは死んでしまったカラックスのいぬだが、映画のなかでは生きている。クラシカルな映画館、顔の見えない多くの観客。その古びた映画館の通路を、ちいさなこどもが危なっかしく歩いていく。そしてドニ・ラヴァン演じるオスカーが登場する。オスカーは11のキャラクターを演じる。アポが沢山入っている。リムジンのなかでメイクを変え、衣裳を替え、台詞を覚える。準備を終え、パリのあらゆる場所に降り立ち職務をこなす。「メルド」という呟きにニヤリ、ミシェル・ピコリの登場に胸を熱くする。やがてオスカーは、かつてポンヌフでともに暮らしていた(のであろう)ジーンと再会する。彼女はリムジンに乗っている。オスカーと同業者のようだ。サマリテーヌ百貨店は廃墟になっている。ジーンを演じる小柄で華奢なカイリー・ミノーグに、ふとジュリエット・ビノシュの姿を思い出す。フィクションと理解し乍らも、ドキュメントを観ているような気分になる。
ときどきシリアス、ときどきマヌケ。ときに泣き叫び、ときに心の底から笑う。疲れ果て家に戻り、家族という役を演じることで一日を終える。リムジンは車庫へ戻り、運転手を演じていたセリーヌも違うキャラクターの仮面を被り家路につく。
ずっと誰かを演じている彼らだが、演じることから解放されるひとときがある。笑うことにさえ時間制限があり、そこに心が着いてくるか不安を感じていたオスカーとセリーヌに、鳩と言うハプニングが現れる。彼らはそこで心の底から笑う。セリーヌの笑顔に魅了される。こういう瞬間があるから、人間は生きていけるのだ。何度も死ぬキャラクター。かつての恋人も百貨店から飛び降りる。その姿を見て慟哭しても、違う世界でまた彼女は生きているのだと心のどこかで思うことが出来る。それは安息でもあり、新しい疲労をまた肌にまとうことでもある。そしてそれらには音楽が寄り添う。今思い返してみれば使用曲の数は少なく、単なるBGMとしての使われ方はしていない。父娘の乗ったカーラジオから流れてくる曲、インターミッションでオスカーが音楽隊を引き連れて演奏する曲、ジーンが百貨店で唄う曲。どれもが心に残る、印象的な、映画の、人生のサウンドトラックだ。
SFのフォーマットをとり、カラックスは過去の自分の作品、そして個人史を辿る。短期間で撮ったと言うが、撮影に入る迄の準備をしっかりしている印象がある。衣裳、メイクは勿論、セックスシーンもダンスのように緻密な振付が施されている。ラヴァンの身体能力を堪能。よく知られていることだが、カラックスの作品に登場する「アレックス」はカラックスの本名だ。今回の「オスカー」も同様。ラヴァンはカラックスの分身を演じる。冒頭のシーンで森のような模様の壁紙をつたって歩いていたカラックスに、オスカーの呟き「森が恋しい」が繋がる。その森とは、ピエールが暮らしたノルマンディの森なのだろうか?ラヴァンが不在だった『ポーラX』の森。カラックスもラヴァンも50歳を超えた。彼らの人生の先輩とも言える、セリーヌを演じるエディット・スコブはある種の信頼感を与えてくれる。棺桶のようなリムジン、演じたキャラクターを弔い、再び新しいキャラクターに生まれ変わるためのリムジン。それを運転するセリーヌという女性の颯爽とした美しさ。ここにも行為の美しさがある。
ひとりひとり、演じていた人生を終えていった。ピエールを演じたギョーム・ドパルデュー、仲違いしたままだった撮影監督ジャン=イヴ・エスコフィエ、ともにテオ・フィルムを設立したアルベール・プレヴォ。そしてパートナー、カテリーナ・ゴルベワ。エンドロールには彼女の肖像写真と、ロシア語で短く書かれた「カーチャ、君に」の献辞が映る。ゴルベワの娘ナースチャは、冒頭のシーンで丸窓の奥からオスカーを見送る。この映画で個人的にいちばん心に残ったキャラクターは、初めてのパーティに出掛けて行った娘を迎えに行く父親。ラヴァンの装いはまるでカラックスのそれだった。父と娘の会話を、カラックスはラヴァンに託した。ラヴァンとゴルベワは確か共演したことがないが、ふたりの間にはカラックスとクレール・ドゥニがいる。ゴルベワの死後数ヶ月でクランクインした『ホーリー・モーターズ』は、彼女が新しい人生を演じることを祈るものにもなっているのかも知れない。ラヴァンの言うように、彼女はこの映画のなかにいる。
カラックスは次回どんな映画を撮るのだろう。ちいさな光が見えた気がした。そこにはアレックスではなく、オスカーがいるのではないだろうか。勿論、演じるのはラヴァンだ。
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・シネマカリテ初めて行きました。昨年末オープンしたミニシアター、隠れ家みたいで居心地いい。長く続いてほしいな
・YOMIURI ONLINE|「ホーリー・モーターズ」レオス・カラックス監督…新しい自分を発明
・映画.com|ドニ・ラバンが語るレオス・カラックスとのコラボレーションの変遷
・PICK UP『ホーリー・モーターズ』|UNZIP
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2013年04月26日(金) ■ |
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『大きなトランクの中の箱』 |
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庭劇団ペニノ 21th はこぶね作品『大きなトランクの中の箱』@森下スタジオ Bスタジオ
おはつでございます。マンションの一室を改造したアトリエ「はこぶね」がクローズ(入っている建物老朽化のためとのこと)してしまい、そっちに間に合わなかったのが残念だー。今回はその「はこぶね」作品の手法を森下スタジオへ持ってきたもののようです。
それにしても噂に違わず美術がすごかった。最初三角形状のせまーい和室から始まって、確かにいい再現度だな、でもそんなに騒がれる程…?と思ってたらいやいやいや、舞台は回転式で四面あったんですよ。一場が終わって暗転、しばらくして照明がついたら……!!!ええっ転換音とか全くしなかったよ!?その後場が変わる度ひゃーとかギョーとかなって、話の内容にもギョヘーとかなっていると、終盤演者の移動とともにぐるりとその四面を回して見せられると言う。和室/ピアノ付レストラン、ぶたちゃんとひつじちゃんのおうち/父子の愛情部屋が対称位置にあるんですね。で、後者の部屋は二層になっている。その設計も面白いが、それぞれの部屋の作り込みっぷりがすごい。和室のリアルさ、他の部屋の抽象的美術、どちらもあまりにもすごすぎてなんだこれ…と思う程です。
あの、下世話な話ですけど絶対入場料で採算とれないですよね。これを作り上げる表現欲求と情熱って……作演出のタニノクロウ氏は精神科医としてのキャリアを持つ方だそうですが、同じく精神科医で現代美術コレクターでもある高橋龍太郎氏を思い出しました。そしてこれをマンション自室でやってたと言うところで日本一のリノベ劇団(笑)第七病棟を連想しましたが、タニノさんのインタヴューによるとルーツは唐さんだそうで成程と思ったりもしました。
なんだか嬉しくなっちゃった。儲けがとか話題性がとか、そういうことを意識していないように感じる。観ている方の勝手な解釈かも知れないけど、そう思わせられるクリエイションを見せてもらえるってのはすごく嬉しいことでした。しかもこんなにクオリティ高いものを。こちらももう結構スレた観劇趣味者なので、観ていてあー制作大変そうだなーこういう宣伝展開しなきゃひと呼べないのかなーでもこの宣伝あんまり功を奏してないよなー客と言うよりお金を呼びたい興行なのかなーなんて思ってしまう舞台ってあるのです。綺麗ごと言ってんじゃないわ、お金を呼んでこその興行でしょうがとも思いますが、あまりにもそれが透けて見えてしまうとね……。このバランスってとても難しい。
ちなみに劇団名ペニノはペニスとタニノを掛けているそうで、ストーリーはフロイディズム直球。エディプスコンプレックスを43歳になった今も抱え込んでいる受験生(そう受験生なのよ…43歳だけど……)健次くんの不条理冒険譚。いやはやどんな感想言っても心理分析されそうで恐ろしいわ…エッヘ(ex. HIGHLEG JESUS)の山田伊久麿さんが健次くんを熱演。文字通り熱演。いろんな汁を飛ばして熱演。それにしても下層階にいるときの健次くんや、ぶたちゃんとひつじちゃんの基本姿勢がものすんごく身体に負担かかるだろうなと言う体勢で、怪我等せずに千秋楽を迎えられるといいなと思いました。徹底的に抑制された身体能力と最低限の台詞の繰り返しで主人公の悪夢(淫夢)を見せる、強力な世界観。こいつはクセになる。
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2013年04月24日(水) ■ |
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『おのれナポレオン L'honneur de Napoléon』 |
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『おのれナポレオン L'honneur de Napoléon』@東京芸術劇場 プレイハウス
わーい面白かったー。野田さんが他人に演出されてるのに好き勝手やってるように見えるとこがまたいい(笑)。そこらへん三谷さんのおしひき加減の妙でしょうか。試合巧者の役者陣が、丁寧に舞台を作り上げています。以下ネタバレあります。ミステリ仕立てなので未見の方はご注意を。
幽閉先のセントヘレナ島で、胃がんによって死んだとされるナポレオン・ボナパルト。彼の死に疑問を持った医学生ビクトールが、当時セントヘレナ島でナポレオンとともに過ごした人物たちのもとへ、話を聞きに訪れる。実際には舞台には登場しないビクトールに語りかけると言う形で、五人の証言者が“藪の中”よろしくセントヘレナ島で起こったことについて語る場面、それを再現する場面で構成されています。ナポレオンの死の真相とは?
面白いのは、こういうのって証言者によって対象者が全く違う顔を見せるものですが、ナポレオンに関してはそれがない。傲慢で、せっかちで、と言う性格が揺らがない揺らがない(笑)。彼はいろんなひとに妬まれ、財産を、命を狙われ、そして憎まれ愛される。ナポレオンの“違う顔”…いや、誰もがうっすら気付いてはいただろうが辿り着けなかったその顔をただひとり目にしていたのは浅利陽介くん演じるマルシャンだけ。ナポレオンの忠実な従者であり、唯一秘密を知っていて、ナポレオンの死に疑問を持つ者が現れる度に職務を果たす。それは一生の仕事であり、一生ナポレオンに縛られるということです。他の四人と同様”チェスの駒”だった彼は、唯一駒だということを自覚の上で動き、秘密を葬り続け、自らもその秘密を墓に持っていくのでしょう。
笑いも満載、謎解きにもハラハラ。ものっそいどんでん返しがあると言う訳ではありませんが(ナポレオンがそうした、と言うのは彼の人物像から納得、予想出来ることではある)、エピソードの組み込み方が上手く退屈させません。演出もバラエティに富んだもので、生演奏の劇伴音楽、映像使い、ステージを小さめに組んでコの字型に客席を配置し、観客を目撃者に見立てる仕掛けも成程と思わせるもの。ちょっと惜しいなと思ったのは、ハドソン・ロウのナポレオンに対する愛憎が台詞によって説明され過ぎなところ。「ボナパルト将軍は私が守る!」とうっかり言っちゃうところも、前振りが沢山あったのでうっかりって感じがしなかったのですね。これは他の登場人物たちにも感じられたことで、ビクトールに語りかけると言う設定だから尚更台詞で当時の心情を細やかなところ迄台詞で語ってしまうのです。ちょっと親切過ぎるかなあ。しかしこの劇場くらいのキャパだからこそなのかも知れませんね。とても楽しめました。
いやーそれにしても見たい野田さんが見られた。登場迄かなり引っ張るんですよね、それ迄散々他の登場人物が言う訳です、ナポレオンがどんなヤな人物だったかを(笑)。待たせて待たせて、やがてパタパタパタ…と子供が走るような足音が聴こえてくる。客席からクスクス笑い声が漏れてくる。客席通路に野田さんが現れる。パタパタパタパタパタパタ……皆待ってる、客席も舞台上の皆も。距離が長い。立ち止まることなく、待ってるひとたちを一瞥することもなく、あの甲高い声(と言うかいつもより意識的に高めにしてたような)で第一声、「潮が、満ちるー」。そのまま舞台奥にある設定の海辺へとパタパタパタ…と駆けていく。
……出オチか!
潮干狩りの習慣って外国にもあるのね…イタリアにもあさりはあるわね……なんだか言われる迄気付かなかったわ。そして今書いてて気付いたけどあさりって浅利くんに掛けてたのかしら。二重で笑うとこだったのかしら。
その後もまーちょこまかちょこまか動きよる。食べこぼしが多いのもの頷ける…いやこれはナポレオンの方だったか?本人もそうだって言ってたよね?ちっちゃい!ちっちゃい!「デカい!」と叫ばれた天海さん、「自分がちっちゃいのよね?」(大笑)いやどっちもどっちです。いやーちっちゃいわーかわいいわーしかし腹立つわーイラッとするわー。ときどき野田さんがローラに見えましたね。あ、ローラのことは好きですよ。そんなこんなで周りのひとは振り回されっぱなしなのですが、チェスの場面でその空気が凍り付く。あれは怖かったねえ!ロウもあー地雷踏んじゃったーって感じだったよねえ!
しかしこうなるとなんてえの、芸劇で毎年…いや毎年は無理でも数年毎に『役者・野田秀樹を演出する』って企画やってもらいたいわー(ことだま)。ニーナに演出される野田さんとか観てみたいわー。カムカムミニキーナ『鈴木の大地』にまた出るとか(笑)。
あ、そして個人的に何にビックリしたかって 芳垣さん出るって知らなかったよ!!!音楽が高良さんってのはアナウンスされてたけど芳垣さんも演奏で参加している…と言う訳で劇伴がパーカッションによる生演奏なんだけど、おふたり途中と最後に衣裳着て出てきましたよ。いやもうビックリした…いいもの観た……。
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2013年04月21日(日) ■ |
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『矢野顕子、忌野清志郎を歌う ツアー2013』 |
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『矢野顕子、忌野清志郎を歌う ツアー2013』@日比谷公会堂
トリビュートアルバムではなくカヴァーアルバム、のツアーです。ゲストはMATOKKU。あの音がライヴで聴けるというところも目玉でした。
風船や星形の切り抜きで飾られたカラフルなステージ上にはスクリーン。徐々に暗くなっていくと、いつのライヴだろう、やのさんとキヨシローさんの共演の様子が浮かび上がる。「キヨシロー!」と声がとび、拍手が起こった。「ひとつだけ」を唄いはじめるふたりの映像がフェイドアウト、やのさん登場。まずは「誇り高く生きよう」。ピアノ弾き語りでアルバム収録曲を紡いでいく。キヨシローさんの曲がすっかりやのさんのものになっている。と同時に、キヨシローさんが書いた詞に込められた普遍的なメッセージ、違う角度から光を当てたことで発見する楽曲の新しい魅力が次々と転がり出る。ライヴ初演のナンバーも多く、アレンジもアルバムとは変化しているところがあり、これは相当リハを積んだのではないかな…と思わせられる緊張感。演奏はよりアグレッシヴ、リズムの高揚に足を激しく踏みならすやのさん。うお、格好いい!ブルッと身震い。
MATOKKUは松本淳一さん(Pf)、トリ音さん(Theremin)、久保智美さん(Ondes Martenot)のトリオ。松本さんはMacでリズムトラック等も操作していました。最近ではレディオヘッドのジョニーが使ってるので有名な、オンドマルトノの生音が聴けたのも嬉しかった。微弱音、サイン波で奏でられる「500マイル」「多摩蘭坂」はインプロ要素も盛り沢山。スタンドマイクでヴォーカル+ヴォーカリゼーションに専念するやのさん、メロディを発し乍らもリズムをも歌にする。テルミンやマルトノはピアノより微分音が出せるので、その揺らぎと声の波が非常に心地よくしかし激しく厳しく響く。まるで鳥のような声、獣のような咆哮。やのさんは綺麗なソプラノを持っているけれど、こんな生命力漲るワイルドな叫びも持っている。まさしく“荒野の呼び声”。いやあ、このセッションはすごかった。
すごかったと言えば毎度の「いもむしごろごろ」、今回は「いい日旅立ち」との人力マッシュアップ。ものまねでしか「いもむしごろごろ」を知らないひとは、ホントライヴでこれ聴いてほしい。やのさんのピアノはすごいんだよ!清水さんやエハラさんのものまね好きだけど(笑)あんまりすごいものを聴くと笑っちゃうが、その笑いの向こう側がまだあったんだ!と思わせられる凄まじさは是非ライヴで聴いてほしいです。
アルバム収録曲は殆どやったかな…やらなかったのは「毎日がブランニューデイ」だけかな。以前からカヴァーしていた『Home Girl Journey』収録の「海辺のワインディング・ロード」もやりました。キヨシローさんの曲ではないものも、そして新曲も披露されました。
いつものやのさんのコンサートのようでしたが、やはりところどころシン、とした空気が張りつめる。MCでもぽつりぽろり。「私の好きになるひとたちは、皆早く死んじゃうんですよね」「困る!」。ここ数年のことを思い返し、そして『LOVE IS HERE』の時期を思い出す。おおきなおおきな悲しみ。「震災で傷付いたひとたちへ…と作ったら、こういう曲になっちゃいました」と紹介された新曲「海のものとも山のものとも」の、“明日に希望が持てなくても 明日は来る”と言うフレーズ。愛するひとがこの世からいなくなっても、時間がそこで止まることはない。自分が死んだときも同様だ、時間は止まらない。「いくつもこの曲での共演の申し込みを頂いてるんですが、これはキヨちゃんとの曲なんだ。キヨちゃんと唄うんだ」と、本編最後は「ひとつだけ」。キヨシローさんのパートもやのさんが唄う。ああ、キヨシローさんはもういないんだな、彼がいなくても明日は来るんだ。と改めて思う。
最後に演奏された曲はMATOKKUとの「Prayer」。テルミンのほわりとしたサイン波とやのさんの澄んだ声が会場に満ちていく。感謝し、祈り、聴き入りました。静かな静かな、いい時間。「これからも、忌野清志郎の曲を聴いて下さい」と言って、やのさんはステージを去っていきました。
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2013年04月20日(土) ■ |
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『今ひとたびの修羅』 |
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シス・カンパニー『今ひとたびの修羅』@新国立劇場 中劇場
堤さんの殺陣観るのって『蜉蝣峠』以来かな。いやーやっぱり格好いい!この劇場って奥行き含め舞台が広いうえ、舞台から客席が近い。生身の人間のダイナミックなアクションが映える。渡世人風情のナリが似合うし、片手で扱う刀が軽々と感じられるところもいい。杜夫さんは渋くて男も女も惚れるキャラクターだし、コメディリリーフな浅野さんや浩介さんは面白いし(浅野さんはシリーウォーク迄見せてくれますよ)、女優陣は素敵だし美人ばっかだし、出演者はホントよかった!
……と言うのも、あの、ホンが………いやそれとも構成が…………。
ええと、原作『人生劇場』を読んでいないし、舞台化されたものを観たのも初めてだったのですが、これ、ホンをカットしたり構成しなおしたり、してますか……?展開がとてもスピーディなんですが、あのースピーディ過ぎてええ〜?となる箇所がすんごく多くてですね……。
いちばん損してる感じがするのは宮沢りえさんの役、おとよ。旦那である飛車角がおつとめに行ってる間、飛車角の舎弟である宮川に走ってあんな男もういいんだーっつって、飛車角が戻ってきたらやっぱりあんたのことがー!つって、しまいには「皆死んでしまえばいいー!」ジャーン!(音楽)って。……えーっ、えーっ。劇中照代のことをヴァンプだと言う台詞がありますが、いやヴァンプはおとよだろ…(悪い意味で)。照代やお袖は強くていい女!
と言うのも、黒幕が組を裏切っていたこと、それにまつわる借金をおとよとお袖が抱え込んでいたこと等、話の核になる部分の扱いがすんごいちいさい上に終盤ぱぱぱっと説明台詞で片付けられちゃうんですね。なのでおとよの葛藤とかが全く見えてこない。前述の浅野さんや浩介さんの役柄も、なんか、勿体ない……と言う気持ちが立ってしまいます。実際彼らが出てくるシーンは楽しんだし笑ったし、いい仕事だなあと感心するんだけど、でも、せっかくシスの公演なのに…これなら彼らをしっかり観るならシス以外で呼ばれた公演の方がいいのかな…と思ってしまうんですよ……。
ちなみにいちばん可哀相(これは見せ場どうこう、ではなくてストーリー上)な役柄は岡本健一さん演じる宮川。か、かわいそう!かわいそう過ぎる!てか岡本さんがあんなに髪短くしてるの初めて見たので最初誰か気付かなくて、細身で綺麗な役者さんだなあとか思っていました…そんな宮川と飛車角が並んで討ち入りするシーンは格好よかったですなあ。杜夫さん演じる吉良常のやり手婆か!てな手回しのよさにも感心しましたし。てか吉良常格好いい!素敵!あんな気配りの出来る人間になりたい!
そうなんですよ。殺陣はとにかく格好いいし、堤さんは昭和の侠客ズッパマリの格好よさだし、りえさんは美しいし、小池栄子さんは素敵で所作も美しいし声もいいし、そんで何度も言うが杜夫さんがほんとーにいい役で格好よかったし、演出もいのうえさんらしいな〜と思いました。楽しんでないってことは全くなくむしろ大層楽しく観たんですが、いろいろひっかかるところが沢山あった舞台だったと…思います……。
あ、あとおとよの三味線で飛車角が唄うシーンは若干緊張が走りました。「飛車角唄ってくれよ〜」て台詞出たときええっとなったよ!堤さんの歌初めて聴いた(笑)。
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2013年04月19日(金) ■ |
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『葛城事件』 |
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THE SHAMPOO HAT『葛城事件』@ザ・スズナリ
始まったばかりなのでネタバレを避けつつ…と言いつつネタバレあります。未見の方はご注意を。
『その夜の侍』のあとの『立川ドライブ』、そして映画『その夜の侍』のあとの今作『葛城事件』。こうやってみると、『その夜の侍』と言うのは劇団にとっても、劇作家・演出家=赤堀さんにとってもおおきなエポックだったように思う。一場を具象で徹底的に作り込む手法から、抽象的な美術で場面転換を多用する手法へと、演出面に新しい展開が見られたのもこの作品だった。ある種の“しばり”から一歩踏み出すことは、得意技の手数を増やすことになり、劇団の色がより芳醇なものになった。飛び道具的なワンポイント出演だった役者・赤堀さんが前面に立つようになったのもこの頃からだ。
ここ迄さらけ出してしまってどうするのだろう、このひとはこれから何を書くのだろう、と身震いした『その夜の侍』の次に来たのは、実在の事件から着想された『立川ドライブ』だった。この流れは『砂町の王』に受け継がれ、バイオレンス描写に磨きをかけた。一方で、『沼袋十人斬り』のような軽妙な凶暴を描く。そのどれにもちいさな光を残す。その光をつかみとるか、手を伸ばさないか、登場人物たちはそれぞれの人生でそれぞれの選択をする。赤堀さんの役は、思い描いた夢が砂のように掌からこぼれ落ちていくさまを不様に、滑稽に見せる。個人的には『その夜の侍』の彼の人生が『沼袋十人斬り』の彼の人生へと続いたかのような錯覚が起きた。滝沢さんは一見無神経にも映る明るさを処世術とし、介護士と言う職業で身を立てる人物の強さを見せる。思い返せば今回日比さんが演じた人物は『砂町の王』の彼に通じるところがあり、野中さんの役は『その夜の侍』のときの彼がこう歩んだかも知れない別の道を示す。児玉さんの役は『沼袋十人斬り』の彼のようにちいさな幸せをだいじに抱える心優しき不幸な男で、黒田さんが演じたリンゴちゃんは、そのものズバリ同じ役名、同じ職業で『沼袋十人斬り』に出てくる。そして“ある家族の物語”は『一丁目ぞめき』が記憶に新しい。
今回の作品は、『その夜の侍』以降の集大成のようにも思えた。ありったけの得意技と、ありったけのチャレンジをつめこんだ、THE SHAMPOO HATの劇団公演。当日配布パンフレットのごあいさつに赤堀さんが書いた『劇団公演へようこそ』。映画や客演(この呼び方に対しての赤堀さんの言及にはニヤニヤした)をきっかけに、初めて劇団公演にやってきた観客へ渡す名刺のような作品。稔が作った「泌尿器科の医者の名刺」のような、手の込んだ決死の自己紹介だ。
ちょっとした瞬間に真実が見えたような気になる言葉の迸り。気のせいかもしれない、それでもそれを信じて、しがみついて生きていく。自分に都合のいい、良い思い出だけを抱えて狂気に逃げ込む。露悪的で生真面目、照れてしまうが故に素直に表現出来ない情熱、空回りする愛情。それはお互い解っている、しっかり愛情は届いている、それでもそれが何の役にも立たないことがある。ほんのひとときでも心に触れた気がするのは、多分気のせいではない。それらが丁寧に、会話で綴られていく。ちょっとでも色めき立ったり、ちょっとでも作為を感じさせると台無しになりかねない繊細な台詞。それこそ稔のように敏感な観客からは「説教か?」と言われてしまいそうな細やかなニュアンスを、演者たちは献身的に伝えていく。この辺り、劇団員のひとたちはある種の了解…言ってしまえば家族のような阿吽の呼吸があるのだと思いますが、客演(と敢えて書いちゃう)の三人も見事でした。新井浩文くん演じる稔が終盤に見せた「どうでもいいなげやり」な仮面がはがれ落ちる一瞬、安藤聖さん演じる稔と獄中結婚した女性が稔の父親に最後に吐く言葉、そして鈴木砂羽さん演じる稔の母が、稔の三番目の妻を問いつめた言葉。どれもが胸に刺さる、それでいて感傷を許さない厳しさがある。
『立川ドライブ』は実在の事件から着想されたものだが、今回の『葛城事件』もそれにあたる。この事件で個人的に印象に残っていることがある。彼の死刑が執行されたときの、スズカツさんと鈴木慶一さんのtwitterでのやりとり。それが随分遠い昔のことのように思えてしまうのは、あれからいろんなことが、本当にいろんなことがあったからだろう。世界にも、この国にも、自分にも。 (追記:twiterでの、は記憶違いでした。ブログでのやりとりだった)
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その他。
・確か初めて見る男優さんがふたり。スタッフクレジットにも名前が連ねられていたので、新しい劇団員さんなのかしら?これからの展開が楽しみです。しかし予告にもあったが劇団本公演って次回一年半先なんだってー。はやくも待ち遠しいですよ
・ニナカンでもおなじみ、塚本幸男さんが声の出演
・吉牟田さん、メイクと髪型の効果もあるのかな、砂羽さんとすごく印象が似てた!お母さんの面影がある女性を稔が選んだんだなと思えて説得力あった
・カラオケの選曲が絶妙でした(笑)事件が起こった年代を意識しているのかも知れないけど、あの微妙な取り残され感はいろいろと想像が拡がる。面影ラッキーホールの曲に出てきそうな郊外都市かな、とか地方かな、とか。嵐でもなくももクロでもなく、SMAPにモー娘。そして三年目の浮気
・赤堀さんの腹がたぬきのようで、もはやチャームポイントなのですが、ご本人それをよしとしていると言うか、役者としておいしいと感じているのか、敢えて見せてますよね。ステキです(笑)
・いや、最近演劇ぶっくのBN押し入れから引っ張り出して読んでたら、すっごい痩せてる頃の赤堀さんが出てきて……(笑)
・そう考えると?野中さんのガラ悪い格好よさと対照的である。どちらも素敵である(真顔で)
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2013年04月17日(水) ■ |
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『走りながら眠れ』 |
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平田オリザ・演劇展 vol.3『走りながら眠れ』@こまばアゴラ劇場
うわーこれはよかった。大杉栄と伊藤野枝の最後の夏を四場で。アナキストの自由恋愛主義者、と言う過激なイメージがある彼らの、穏やかな日常を覗き見する80分間です。革命家が家でどんな会話をして、どんなふうに暮らしていたかを描く、劇作家の妄想をおすそわけしてもらった時間でもありました。予備知識なくとも楽しめますが、ふたりがいつ、どういう死に方をしたか、だけでもうっすらと知っておくとよりグッときます。
とは言え、知っとけば知っといた分おお、と思う箇所は増える。『美しきものの伝説』観といてよかったとは思った。ちなみに自分がこのあたりに興味持ったのって、『ラストエンペラー』で坂本龍一が演じた甘粕正彦を観たからだったわ……。「チェロを習いにきた百姓」が宮沢賢治だってピンとくる楽しさみたいなものもあります。ちなみに今回の平田オリザ・演劇展、『銀河鉄道の夜』もラインナップされています。
台詞のひとつひとつがとても愛らしいものだったので、終演後上演台本を買って読んでいるのですが、登場人物は「男」「女」とだけ記載されていました。ふたりが栄と野枝だと言うことは、公演情報でしか知らされていません(追記:あ、台詞中に「大杉栄ひとりきり」「野枝さんとふたりきり」って名前出てくるところがあった。失礼しました)。知らないで観たらそれはそれで面白そう。普通の夫婦の会話だなあ、あれ?でもちょっと変?みたいな。え、なんでフランスで監獄入ってたの、なんで尾行がついてるの、とか、へえーこの旦那女に刺されたことあるんだーとか(笑)栄と平塚らいてうの話ウケたー。そりゃそうだ、フツーに「平塚さん」て呼ぶわよね、ご近所よもやま話みたいなのに急に有名人の名前が入ってくると一瞬誰かと思うわ(笑)。
そんなフツーの夫婦の会話に時折入るドキリとする言葉。「世の中が、ゆっくりとさせてくれないかもしれないけど」「幸せになるために一緒に暮してるわけじゃないからね」。ふたりは夫婦だけど、ともに革命を目指す同志なのだ。そして、死がそう遠くないものと予感している。
7月12日、8月10日、8月20日、8月31日からなる四場。ちなみにこれらの日付は、一場=栄が投獄されていたフランスから強制送還され帰国した翌日、二場=長男ネストルが生まれた翌日、四場=関東大震災の前日なのですが、三場だけ何があった前後か判らなかった。ここだけは何もなかったのかなー、普通の一日として切り取ったのかなーと思いつつも気になって検索してみたら…8月20日は甘粕の命日だった。のわーゾワーッときた!これ、意図的…だよね?それともこの日、栄と野枝周辺で他に何かあったのかしら。き、気になる…でも栄と野枝は22年後のこの日に何があったか知らないんだよね……と思いまたしみじみしました。
追記:あった!実際にはこの日のようです。だから「今日久し振りに平塚さんに会って」って台詞があったのね。 ・アナキスト 大杉栄 1922-1923 1923 8月20日<30日の説もある> 大杉、アナキストの《連合》を企図して根津権現の貸し席で集りを開く。新山初代の<証言>「望月桂、岩佐作太郎等、2,30名集まって無政府主義者の連合組織問題の相談会がありました。私は鄭と一緒にその会に行きました。金重漢、洪鎮裕が来て居りましたが朴烈夫婦は来て居りませぬでした」
舞台上では日付が具体的に提示されることはなく、初夏だな、暑い盛りだな、あ、こども生まれたんだ。涼しくなってきたんだな、とだけ判る。繊細な季節の移ろいを、会話とそこから派生する小道具だけで表現しきっているさりげなさが見事。入場と同時に聴こえてくる風鈴の音だけで、ああ、舞台は夏なんだなと判る。ちなみにこの風鈴、実際に鳴らしているのかなと思う程澄んだ綺麗な音で、開演前にきょろきょろして風鈴の所在を探しているひとが結構いました。見付からなかったけどあれはいい音だったなあ。素晴らしい音響でした。そしてさりげないと言えば、四場全部衣装替えがあるんだけど(時間が経ってるからあたりまえっちゃああたりまえなんだけど)これ、なにげにすごく早くなかったか……?こういうとこも巧いわー。
そんなさりげない夏の風景のなか、なにげない会話から浮かび上がる夫婦の姿。家事にも積極的な夫、翻訳を手伝う妻。栄の優しさ、野枝の強さ。ふたりのあっけらかんとした思想、うっすら漂う未来からの陰。尾行のひとを気軽にお茶に誘ったり、訳していたファーブルの『昆虫記』の解釈の違いにちょっとむくれたり、コワい話をワザとしたり。畳敷きの部屋ってのがまたよくて、ふたりはそこでお茶飲んだりお菓子食べたり、あぐらかいたりゴロゴロ寝っ転がったりし乍ら話す。そこにほわんとした色気が宿る。栄が野枝の足首ひっぱってじゃれて、野枝のふくらはぎが露になるとことかドキッとしたー。腿じゃなくてふくらはぎ、こういうエロス大好きです。ゴロゴロしてるうち足がつった野枝が、だまーーーーーってゆーーーーーっくりのたうちまわっていたシーンも笑ったわー。ジワジワくるおかしみ。
本来これらの光景は他人が見ることのないもので、栄も野枝もお互いにしか見せなかったであろう表情を観客の前にぽーんとさらけ出してちゃってる訳です。これは照れる。こういうところが覗き見っぽくて、もーふたりがかわいらしいやらあいらしいやらノロけやがってにくたらしいやらでニヤニヤするわ!てなものですよ。また声がいいんだよね…張らない声、家でフツーに喋る音量。演じたのは野枝=能島瑞穂さん、栄=古屋隆太さん。いやー惚れるわー、古屋さんは勿論能島さんにも惚れるわー。ふたりとも服が似合うわー、和服も洋服も。あ、あと古屋さん、擬音が上手い。汽笛とか、シャンパンの栓抜く音とか(笑)。それにしても栄の白いスーツ+カンカン帽、これは男前が着ると男前度がより上がるね!古屋さんもー男前でたいへん。ネクストシアターで栄を演じた松田慎也くんも美丈夫でしたもんね。
それにしても平田オリザの作品のタイトルはどれも格好いい。走りながら眠るように生きたふたりの最後の夏。シンプルでいて味わい深い作品でした。
こういう良作を気軽にふらっと小さな劇場に観に行ける、って環境があるといいですよね…実際はパンパンの満席だったので当日券どのくらい出したか判らないが。自分の席だけチラシの束に当日パンフが折り込まれてなくて(多分前回のひとが当パンだけ抜いて帰っちゃったんだと思う)スタッフクレジットが分からないのがちょっと残念(泣)。と言うか、「当パン」って言うんだと初めて知りました…(スタッフさんが言ってたのを聴いた)。
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2013年04月13日(土) ■ |
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『ゴドーは待たれながら』 |
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ナイロン100°C結成20周年記念企画第二弾 NYLON 100°C side SESSION #12『ゴドーは待たれながら』@東京芸術劇場 シアターイースト
初演は1992年、いとうせいこうさん作演出、きたろうさんのひとり芝居。今回は初演より台詞を二割方減らして上演時間を二時間内に抑え、ケラさん演出、大倉くん出演での再演。……てことは、初演は二時間以上あったのか。今回観ただけでも相当な台詞量に圧倒されたのですが、これ以上あった台詞を当時のきたろうさんは全部憶えたのか…今となっては信じ難い(失礼)。いやその、ここ十数年きたろうさんの舞台ってシティボーイズMIXでしか観ていないもので。で、そのグダグダ加減がもはや魅力にもなっているので。
それにしてもドシッとくる。ゴドー待ちでエストラゴンが「どうにもならん」と言っていた頃、ゴドーはゴドーでどうにもならなくなっている。ゴドー待ちと言うとこれと、別役実さんの『やってきたゴドー』との関連性をケラさんがコメントしていたが、個人的には、と言うか第三舞台を観ていたひとの殆どがそうだろうが、『朝日のような夕日をつれて』が入ってくる。考えてみればゴドー待ちを知ったのも第三舞台がきっかけで、実際に舞台に載ったゴドー待ちを観たのも、1994年春の鴻上さん演出のものだった(@同じ芸劇、中劇場)。そして同じ年の秋に蜷川さん演出の男版、女版2ヴァージョンのゴドー待ちを観たんだったな(@銀座セゾン劇場)。
絶望的な状況のなか、どう生きるか。どう遊ぶか。そして、そんな絶望的な状況に灯る希望とは何か。
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俺は何かを頼まれてるに違いない。 ただ会うだけじゃなかろう。 つまり相手にとっちゃ、俺は一つの希望だ。 (にやりとする)なにしろ、そいつは俺を待ってるんだから。
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待たれることは希望なのだ。「時間切れだ」と言われる迄、誰かが何かを待っていること。シティボーイズを観た翌週にこの公演が観られてよかったな。戯曲掲載のパンフ買ったので読むのが楽しみです。
さて大倉くんですが、対他人の状況で光る印象が強く、実際受けの演技も巧いひとなだけに、ひとりだとどうなるのかなと思っていました。得意技を封じてのチャレンジングな苦闘を強く感じましたが、焦燥や逡巡の表現等、新しい魅力を見ることも出来たように思います。そして『消失』のときのような、笑い以外の場面で発揮される冥い色気を観られたのも嬉しかった。あとなんというか、長身で腕脚の長いゴドーって、なんだか自分のイメージになかったんです。それが観られたのも面白かったな。あの服、あの帽子を大倉くんが着るとこうなるんだなあって。
そして声の共演、野田さん。ああ、イラッとする(笑)かわいい声。反転して、ゴドー待ちの少年の役を野田さんで観てみたいななんてことも思いました。ゴドー待ちをケラさんが演出してみたものも観てみたい。
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2013年04月06日(土) ■ |
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『西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』 |
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シティボーイズミックス PRESENTS『西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』@世田谷パブリックシアター
ラジカル・ガジベリビンバ・システムには間に合わなかった世代です。と言うか、当時田舎で宝島に載ってる記事を読んで憧れていた世代です。私が上京して芝居を観始めたとき、シティボーイズは三木さんと組んでいて、宮沢さんは遊園地再生事業団を旗揚げしていました。
宮沢さんが書いた所謂“コント”は映像、あるいはテキストでしか知らない。しかし遊園地再生事業団や他の演出作品を実際に観るようになり、イメージ連鎖を喚起し笑いと恐怖を自在に行き来する台詞、洗練された情景が立ち上がる舞台空間に魅了されていきました。『スチャダラ2010』のラストシーンは今でも鮮烈に憶えています。劇中SDPの三人が野球をする。束ねられたかるたを投げる、打つ、かるたが散らばる、途端にかるた大会が始まる。同じ行為がラストシーンで繰り返される。ボールに誂えられたものを投げる、打つ、……それはかるたではなく花弁の塊で、打ったと同時に目の醒めるような赤がぱっと散る。間髪入れずに暗転、暗闇の視界に赤い花弁の残像が焼き付く。涙があふれる。かつて大笑いした光景は、かるたを花弁に変換し繰り返すことで予想外の感情を沸き起こしました。同じ行為が繰り返される間に、死者や、精神を病んで遠くへ行ってしまった者たちとの対話のシーンが挿入され、世界に横たわる寂しさと対峙し乍らどう遊び続けるか、と言う意識を掘り起こされると言う前兆があってのことでした。こんなふうに感情を揺さぶられるとは。
(追記:今気付いたが『スチャダラ2010』はコントだったか。でもこれ、宮沢さんは構成演出で作家陣は他にいたんですよね。クレジットはなくともアイディアを出したところはあるのでしょうが…ラストシーンがあまりにも印象的で、コントだと言うことを忘れていた)
ほぼ四半世紀を経て、シティボーイズと宮沢さんが組むと言う。あの笑いと寂しさが紙一重の、美しい世界が観られるだろうか。楽しみ過ぎて前夜は夢に宮沢さんが出てきました(笑)何故まことじゃないのだ…と思いましたが……普段からここを読んでくださっている方はご存知でしょうが、わたくしシティボーイズのライヴ行くときは気合い入れ過ぎたメイクが戦化粧のようになってしまうくらいまことが好き過ぎるのです。何故まことのこととなると中高生マインドをこじらせたような「好き!」になってしまうのか未だに自分でも謎です。
どんどん話が逸れていく。爆弾低気圧に怯え乍ら三軒茶屋へ向かいました。
席は三階最前どセンター。着席してすぐ、目の前に拡がる光景に見入る。思えば宮沢さんの演出作品をSePT規模で観るのは初めてですし、SePTの独特な劇場空間をどう使うのかにも興味と期待がありました。果たして「美しい世界」が、劇場サイズとキャパシティに最適な状態で用意されていました(となると他の劇場でも観てみたくなる訳ですが)。林巻子さんの美術、高橋啓祐さんの映像、高田漣さんの音楽により、確固とした美意識をまとった舞台空間。高い天井から降ろされた巨大な白い布はステージの四分の一程の幅だろうか。ぴんと張られたものでなく、舞台上へとドレープを描いている。布がない空間から見える舞台のその奥は、照明により顔色を変える。布はスクリーンとしても使われる。映像は近年の恒例だったエピソード毎の転換用スケッチとは違い、あく迄劇中の美術として扱われる。幕のサイズ感にヤラれ、その幕と幕からはみ出し増殖していく映像の拡がりにヤラれる。壁面、幕面、その幕に載る映像。二層にも三層にもなる舞台。そこへに出演者たちがノイズを加えていき、またその層が増殖する。
興味深かったのは、これらがまるでダンスカンパニーの作品のように感じられる要素を持っていたことです。美術と衣裳、演者の動き。各々のシーンが、観ている者の記憶と想像力をフルスロットルで叩き起こす。舞台上に五人の男が現れる。揃いの黒いスーツ。一瞬喪服かと思うが、ネクタイに柄がある。手にはやはり揃いの黒いキャリーバッグ。限りなくダンスに近い、キャリーをひく五人の歩行。このシーンだけでも、砂漠監視隊(観ていないのに!想像力を喚起させる言葉の力)、砂丘、植田正治、青山演劇フェスティバル、トランス、鴻上尚史、ハッシャ・バイ、パレード旅団、フィリップ・ジャンティと言うイメージが数珠繋ぎに拡大される。公的なこと、私的なこと、さまざまなイメージだ。
ブルーシート、荒れる上司、何度も並べ替えられる大量の椅子。支離滅裂であり乍ら整然とした状況の変化と、迅速に右往左往する者たちから想像されるものは何か?宣美の写真にもある、花見が行われていた場所はどこだ?春に、桜の下で、私たちは何をはじめるのだ?それは言葉も同様で、「門が閉まる」「時間切れだ」(ここからのシークエンスにはシビれた)と言った台詞からは“狭き門より入れ”、聖書(これは実際にモチーフとして出てくる)、反復、前川知大、概念、略奪、と言ったイメージが次々に浮かぶ。ときには自分の脳の処理速度が追いつかず苛立つことすらあった。そして実際「オフト」が出て来なかった(笑)。オチかこれは。くやしい!「オ」てきたら「オシム」から遡れなかった!(笑)ノスタルジーはドタバタに踏み荒らされ、怒りのエネルギーはギリギリの笑いでワイルドサイドを走る。なんてスリル、なんてエキサイティング!
なんとか説明したい思いからつらつら駄文をつらねてますが、ひとことで言えばもう、めちゃくちゃ格好よかったんです。ああ、格好よかった!格好よかった!!!
近年シティボーイズって別枠で観てる感じなんですが…別枠ってのは、ああおじいちゃんたちががんばってるう、この三人さえ揃えばなんでも楽しいって意味で……実際もうその存在だけで面白いので、こう思ってしまうのは失礼かも知れないけど悪いとは思わないのですよ。そういう存在ってスペシャルだから。やっぱり年齢のこともあるし、観られるだけで嬉しいってところもあるんです。でも今回はもうそういうの関係なしで、舞台作品としてもものすごく衝撃を受けた。「今の笑いを教えてほしい」と宮沢さんを呼び出した安定志向なんてどこ吹く風のきたろうさんや、身体大丈夫か!?と心配になってしまう程のまことさんの縦横無尽(まさかまことさんの木村伝兵衛が観られるとは!まず机にバーン!て上げられる脚に感動したよね…わっあんなに脚上がるんだ!って・笑)、リアルで出ずっぱり(笑)のゆうじさん、テンションの持って行き場が全く読めない戌井さん、そんな男たちの間をふわりふわりと駆け抜け、彼らの尻を叩く笠木さん。いつもは三人の「翻訳」を務めるようなせいこうさんが同じ線上に立っているように感じたことや、近年定番になっていたようなしげるさんの破壊兵器っぷりが影を潜め、それでもしげるはしげる(笑)だったことも新鮮でした。ドリームチームみたいな座組だった。
と言いつつ、「(チーズ)ケーキです」(ケーキを置く)「コーヒーです」(コーヒーを置く)を「ケーキです」(ケーキを置く)「チーズケーキです」(コーヒーを置く)「コーヒーです」(エアー)と言ってごまかしきろうとしたきたろうさんには舌を巻いたな(笑)予測不可能過ぎる。「ケーキです」で充分通じるのになんで言い直すかな!最高!そして逃げようとしたきたろうさんの腕をふん捕まえて追及したまことさんも最高。
いんやそれにしても、そこに立つ人物含めた舞台空間が本当に素晴らしかった。全景をひきで観られる席で至福でした。しかし今、それがよかったからこそ他の角度から観てみたいと言う気持ちも猛烈に沸き上がっている。今回のチケットホントに激戦だったようで、ギリ迄プレが外れまくって冷や汗かいた程だったのですが、当日券が毎日出ると言う宮沢さんのツイートを見てリピート欲が…ううう……。
カーテンコールのトークはまず気象&交通情報でした(笑)ソワレが17時開演で助かった…帰宅してから天気大荒れ。まことさんの「来年くらいに、またお会い出来たらなと思っております」との言葉が聴けたことも嬉しかったです。
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2013年04月02日(火) ■ |
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『杮葺落四月大歌舞伎』初日 |
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歌舞伎座新開場『杮葺落四月大歌舞伎』第一部@歌舞伎座
『御名残四月大歌舞伎』千秋楽から三年、なんだかんだであっと言う間。その短く感じたあっと言う間に、開場を心待ちにしていた役者さんたちが多く旅立ってしまいました。この日記さっき読み返してみたら、勘三郎さんが「新しい劇場で、また沢山夢を見させてもらいましょうよ」と言っていて……。團十郎さんも、こんなことになるなんて。前日から降り始めた雨に、「團十郎さんと勘三郎さんのうれし涙ですねって言ってるけど、くやし涙でしょ」「キー!俺だってここに立つ予定だったのに!ってね」「團十郎さんはキーとか言わないよ。困った笑顔でまあまあ、とか言ってるよ」などと話す。
『杮葺落四月大歌舞伎』、初日に行って参りました。
何から書けばいいやら…舞台上で起こったことは沢山報道もされたし、長年の歌舞伎ファンの方があちこちで書かれていると思います。私もこれからそんなニュースやブログ記事を読みに行きます。楽しみです。こちらでは、舞台外で自分が見た、思ったことを中心に。
勘三郎さんに続き團十郎さんが亡くなったとき、「歌舞伎を観に行くモチベーションが下がった」と言うひとがぽつぽつ周りにいたし、web上でもそんな意見を多く目にしました。新しい歌舞伎座は不吉だ、なんて酷い書き込みを何度も見た。野田さんは、勘三郎さんが亡くなったことを「災害に近い」と言っていた。そんななか、見知らぬひとのとあるツイートに随分心が軽くなったものでした。「歌舞伎座は何度も建て替えてるよ。壊したからどうの、とかやめて。これから新歌舞伎座で役者さんたちが新たな伝説をつくっていく、希望のハコなんだよ。盛り上げていこうよー。」PC画面の前でべそかきましたよ。
過去の歌舞伎座閉場時にも大看板役者が相次いで亡くなったことがある、その都度次世代の役者たちが成長し、危機を乗り越えてきたと言う記事も読んだ。当時の市井の歌舞伎好きたちがどんな世間話をしたか、どう歌舞伎を見守っていたか知る術はない。このときもきっと、今と同じように嘆き悲しみ、将来を不安に思うひとが多くいたのだろう。そのひとたちがその後の歌舞伎を観て「観続けてきてよかった!歌舞伎が好きでよかった!」と思ったのはいつだったのだろう。これからのことは判らない。興味云々だけでなく、自分たちの暮らしに何か重大なことが起こったときは、芝居など観に行けなくなる。役者たちと直接顔を合わす訳でもない、知り合いになることもない。そんな名も知らぬひとたちが、歌舞伎が好きだと言う思いを抱えて歌舞伎座に集まってくる。市井のひとたちの思いを受けて、役者たちは舞台に立っている。離れたひとがまた戻ってきたときも、同じように歌舞伎座で公演を打っているように。
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雨のなか銀座へ。銀座で地下鉄を降り、お弁当を買おうと三越に寄ると、開店したばかりなのにお弁当売り場が活気づいている。観劇弁当花盛り、お店のひとたちが呼び込む呼び込む(笑)。この時点でなんだかジーンときてしまった。街そのものがうきうきしている感じ。篠井英介さん言うところの「歌舞伎座という劇場の威力」は、劇場の外にも及んでいる。この三年の間に閉店してしまったお店もあるけれど…うわーんぎんざ日乃出に戻ってきてほしいよー。とか言いつつ、最近お気に入りの浅草田甫草津亭のお弁当をいそいそと買うのであった。
そのまま地下道を通り大混雑の歌舞伎座地下『木挽町広場』へ。「エクレールカブキ」を販売しているフォションの大行列を遠巻きに眺める。それにしてもエクレールカブキ、アゲハの幼虫ぽい(笑)。エスカレーターをのぼってすぐの歌舞伎稲荷神社にご挨拶、正面玄関へ。おお、銀座に着いてから一度も傘を差さずに入場出来た!地下からアクセス出来る快適さを早速体験。「雨は縁起がいいのよ!」笑顔で颯爽と入場していく和服姿のおばあさま、格好いい!
まず絨毯のふっかふかっぷりに感動しましたよね…足が沈む……ヒールのひととか気を付けないと足取られそう。木挽町広場から入口からすごい数の報道陣がいたが、場内でもそれは同じ。レポーター、カメラマン、隅に座り込んでPCから画像を転送したり記事を書いている記者。ニュースや新聞も楽しみだな。専門誌の記事もいいけれど、ニュースや新聞による記事って、舞台の周辺にいる裏方や観客の様子に焦点をあて、対象がどんなふうに世の中に存在しているか多角的に知ることが出来る。そういうところが好きです。
ようやく三階席に辿り着くとおっ、山川静夫さん。長年三階席の常連でもある山川さん、取材を受けるためか休憩時間は必ずロビーにいらっしゃいました。帰宅して夕刊を開いたら早速記事が載っていた(『朝日新聞デジタル:元NHK・山川静夫さん「空間広がる」歌舞伎座再開場』)。
席に着いて深呼吸、場内を見渡す。五分前のアナウンス、慌ただしく席へと向かう一階席のひとたちを眺める。一瞬の静けさ、幕が揺らいだと同時に「待ってました!!!」「歌舞伎座!!!」怒濤の大向こう。
大向こうの多さ大きさはそりゃもうすごいもんでした。また声が通る。エコーやディレイがかかっているかのように響く。もうこの時点で鳥肌です。なんと言うか、新しい歌舞伎座が開くのを待っていたひとたちの気持ちみたいなものが、肌で感じられたように思いました。人数の多さだけでなく、ここにはいないひとたちの思いも乗っかってるような。
『壽祝歌舞伎華彩(ことぶきいわうかぶきのいろどり)鶴寿千歳』。魁春さんと怪我から復帰した染五郎さんが踊ります。うはーこの間口の広さ!その横幅広い舞台にふたりきりで立ってこの存在感!三階席なのでセリが下がるのが見える。お、ここから…?と待っているときたー鶴に扮した藤十郎さん。万雷の拍手。「人間国宝が三人、大看板がふたり」世を去り、想像出来ぬ程のご心痛もあったのではないかと思います。真女形筆頭の舞を厳かな気持ちで観る。鶴は花道で一度立ち止まり、場内を見渡し、上階の客席にもぐるりと視線を巡らし、拍手のなかゆったり去っていきました。鶴の寿歌で五代目歌舞伎座の幕開けです。
短い休憩を挟んで『十八世中村勘三郎に捧ぐ お祭り(おまつり)』、泣き過ぎて小山三さんを見逃すと言う痛恨のエラー(帰宅後ニュース映像で確認しました…)。しかし彌十郎さんと新悟くんはしっかと見たわー素敵だったわー。ふたりとも身長あるからぱっと目が行くし。ああん彌十郎さん素敵!格好いい!声も素敵!女形としての成長著しく、おとうさんが拗ねちゃってる(笑)新悟くんも素敵よ!
いやだっでざ…だだでざえ中村屋一門がどーんといるその光景だけでもううっどなっだのに、花道方面からどよめきが聞こえたので(三階席から見える花道は舞台寄り数メートルです。しかし確かに以前より見える!)勘九郎くんと七之助くんだね…と思って、視界に入るのを待っていたらちっちゃい子が…な、なーおーやーくーんー!!!これはサプライズ…二歳ですよ、二歳。いや期待してなかった訳ではないけど、実際のとこ舞台に立つのはあと一年後くらいかなと思ってて…それが。それが。この辺りから客席のあちこちから鼻をすする音が…勘三郎さんが生きていたら演じたであろう鳶頭を演じる三津五郎さんが「十八代目も喜んでいることでしょう」、勘九郎くんが「倅の七緒八をつれてきました」と言うと早速チビちゃんに「中村屋!」と声が掛かり、続いて「まああ」「ほおお」と言う声が上がる。このあと入れ替わり立ち代わりの踊り合戦が始まるのですが、いやはや七緒八くん落ち着いてるわ。縁台に座って持った扇子をゆらゆらさせて、踊る役者たちを見ている。勘九郎くんが踊ってるときは「おとうさんなにやってんの」みたいな表情で見てて、それを隣で見守っている七之助くんがおかあさんみたいだった(笑)。配役表に名前なかったけど(そりゃそうか)全日出るのかな?
つーか勘九郎くんの踊りがめっちゃよくてさ…いやもうこのひとの踊りはほんと格好ええなー。働き盛りの若々しさ、躍動感溢れる、キレのある美しさ。これは今しか観られない。そして歳を重ねての風雅な踊りも、そのときにしか観られない。瑞々しさと円熟と、このひとはいつでもそのときにしか見られない踊りを見せてくれるのではないでしょうか。
はー泣いたわー…そのあとがお弁当の時間っていうね……もう何がなんだか。泣き腫らした目で食堂へ向かうお嬢さんやおばさま方をぼんやり見やりつつしっかり食べましたけども。お手洗いに行くと動線がシアターオーブみたいになっており(一通で入口側に手洗い場がないので知らずに戻ってきたひとが困惑する)、並んでいた方と「初めてですからねえ、まだ慣れませんわねえ」などと話す。そうそうこういうとこも独特な高揚感があって、見知らぬひととフツーに笑顔で言葉を交わす機会が結構あって面白かった。席に戻るとき通路が狭くて「椅子は大きくなったって言うけど、こういうとこは変わってませんよねえ」「一階は広々してるのかしら」なんて話したり(笑)。
第一部の最後を飾るのは『一谷嫩軍記 熊谷陣屋(くまがいじんや)』。観るのは三年前の『御名残四月大歌舞伎』以来です。今読みなおして気付く、前回はこれのあとにごはんだったのね…複雑な気分ですよね……てかごはんのことばかり書いてる自分もどうかと思いますね……。
熊谷直実は吉右衛門さんでしか観たことがない。吉右衛門さん、陰のある役と言うか激しく深い怒りや悲しみを押し殺している役柄で観ることが多くて、実人生と関係ない筈なのにつらくなるわ……。今回の相模は玉三郎さん、藤の方は菊之助さん。玉三郎さんを観るのも随分久し振り…新橋演舞場には出演されませんからねえ。七緒八くんを見たばかりのこともあり、未来を断たれたこどもとその親の気持ちに思いを馳せ、胸が塞ぎました。同時に、こどもたちの未来が明るいものであることを祈りました。とか言いつつ、義経役の仁左衛門さんが格好よくてぽわーとしてました。
そしてこれ、浄瑠璃が格好いいんだ!竹本葵太夫さん。三味線の鶴澤寿治郎さんとの阿吽の呼吸から丁々発止、時間を追う毎に熱を帯び、顔が真っ赤。ちょっとの間に素早く水筒で喉を潤しているのが見えた。そして大詰め、幕が滑り舞台が隠される。ひとり花道に残る直実。そこへするりと寿治郎さんが現れる。世のしがらみを振り切り、悲しみを押し殺して旅立つ吉右衛門さんと、立奏台に片足をかけ三味線を奏でるその姿の粋なこと。
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「観続けてきてよかった!」と私が言うのはおこがましいが、「観に来てよかった!歌舞伎が好きでよかった!」は、随分早くやってきた。磨き抜かれた芸を観ることは勿論だが、伝統芸能と言うものは、それだけではない要素がある。芸が代々、生身の人間に伝えられていくこと。その「芸を受け継ぐひと」の存在と成長を、リアルタイムで目撃出来ること。この場に居合わせられたことの幸運と、芝居を楽しむことが出来る幸福を、忘れないでおこう。
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