サラリーマンを辞めて自分の責任において商売をすることになり、一番気を配ったことは健康管理である。欲にかられて日曜祭日に関係なく働けば仕事はいくらてもあったが、何でも自分で処理しなければならない事業者の立場にたったとき体が資本だということが実感として判った。山本は近くのテニスクラブの会員となり、一週間に一回はどんなに忙しい時でもテニスコートに通って汗を流すことにした。
いつものように、コートでボールを打ち込んで汗をかきシャワーで流した後、楽しみの一つになっている冷えたミルクを飲んでいると後ろから声をかけられた。 「山本さん。お久し振りですこと。お仕事の方も順調のようですね」 「やあ。これはこれは、増田さん。ここへはよく来られるんですか」 「毎日来ていますわよ」 「それは知らなかった。じゃあ、相当うまくなったでしょう」 「山本さんは毎週水曜日に来られているでしょう。今日で確か五回目の筈ですわ」 「よく知っていますね。何故そんなことを」 増田喜美江は妖艶な笑みを湛えている。いつも増田喜美江の行動には面食らわせられることが多い。 「びっくりなさったでしょう。貴方の行動が監視されているようで」 「全くだ。尾行されているのかもしれない」 「種明かしをすれば簡単なことですわ。このテニスクラブのオーナーは私なのですよ」 「ほう。それは大したものだ。何時からオーナーになったんですか。社長さん」 「私の父が経営しているんですよ。私はそのお手伝い」 「それでは関東石油を辞めてからここでずっと仕事をしていたということですか。それで貴方が突然会社を辞めた理由が判った」 「ここの他にもテニスクラブを五箇所とゴルフの練習場を二箇所、スイミングクラブを二箇所持っていますのよ」 「大した財閥だね。儲かってしょうがないでしょう」 「ところが、なかなか難しい問題が沢山あるのよ。良いインストラクターやコーチを確保するのが難しいのね。山本さんのような方にテニスクラブの方を見て戴けると助かるんですけれどね。如何ですか」 「突然のことなのでいきなりそう言われても返事のしようがありませんね」「私は冗談で言っているのではありませんよ。お仕事のほうもあるでしょうから良くお考えになって下さい。私は山本さんが会社を辞められた時、一緒に会社を辞めましたが、そのときから山本さんを狙っていたのですよ」 「それはどういう意味」 「私の会社でスカウトしたいということですわ」 「考えておきましょう。食えなくなったらお世話になるかもしれない」 山本には不可解であった増田喜美江の退職の動機がやっと納得できた。
山本は早速兄のところへ住み込んで翌日から兄について廻り商売の見習いを始めた。 いくら実の兄が成功し勧めるからと言っても旧帝大の工学部出身者が全然畠の違う商売を始めようとすることは通常の常識では異常としか考えられない選択であった。
兄は人の生活に必要不可欠ではあるが誰も好き好んでやりたがらないことに目をつけて、これを企業化していくことが、これからの社会で成功するビジネスであるという持論を持っていた。その手始めに弟の山本には貸しおむつをやらせようとしていた。この商売はこまめに客先を廻って、汚れたお絞りやおむつを回収し新しいものと交換する。汚れたものは専門のクリーニング工場へ納めればよいのである。商売のこつは、客先に気に入られて信用をとり如何にして新しい客層を開拓していくかというところにあるように思えた。
貸しおむつの場合には特にこのことが言えた。お絞りの場合には決まった店へ決まった時間に廻っていけば纏まった数が捌ける仕組みになっているので商売自体は安定しているが、貸しおむつの場合には一件毎に扱う数が小さく客先も特定していないので客先の口コミによる宣伝が大切であった。
山本は兄のもとで一ヵ月程見習いをすると大体商売のやり方を覚えたので山本自身の客を作ることに専念した。兄も早く独立させてやりたいと考えており、そのことについては異論はなかった。兄は専門のクリーニング工場も持っているので、客を開拓しさえすれば発展の余地は相当残されていると思った。
山本は同窓会の名簿を大学、高校、中学と取り出しアパートに入居している同窓生にダイレクトメールを発送し電話をかけることから始めた。卒業以来始めて山本と交信する者が殆どであったが誰も山本の奇抜な商売に驚いていた。丁度山本の年代の同窓生は結婚したてか結婚後3年位の者が殆どなので貸しおむつの新しい客先を開拓するには好都合であった。大阪、神戸、西宮周辺の団地のアパートや社宅に入居している同窓生は数えていけば50人ほどいた。新しく取引の始まったお客に対しては、新しいお客を一件紹介して貰う毎に紹介者に対して手数料を支払うことにした。
アパート住まいの若い主婦達はこの申し出に飛びつき次から次へと山本に新しい客を紹介してくれた。大学出の貸しおむつ屋さんという物珍しさもあった。持ち前の人当たりの良い物腰がアパートの主婦達に気に入られて、口伝えに山本の客はどんどん増えていった。
1年程で山本は兄のもとから独立し貸しビルの一室を借りて配達専門の使用人を3人雇い入れライトバンも三台持つことができるようになった。山本はアパートの主婦対象の貸しおむつ専業ではお客の入れ代わりが激しいのでやはり兄のやっているように大口の需要があり客層の安定しているお絞りにも力を入れることにした。喫茶店、料理屋、寿司屋、キャバレヒ、バー、スナック、ホテル廻りに多くの時間を割くようにした。こういうところでは既に同業者が出入りしていて新しく注文を取ることは難しかったが山本は根気 よく何回も顔を出して少しずつではあるが注文がとれるようになった。
山本は生来、人の心を読むのがうまかったので、こういう店へ出入りするときには、商売の話はしないで世間話をして帰るようにしていた。世間話の中で必ず経営者やその家族の趣味、嗜好、誕生日を聞き出すことを忘れなかった。
根気よく出入りを続ける山本に同情して試しにその使用量の何分の一かでも納めてみろということになると山本はすかさず御礼と称して家族の趣味、嗜好にあった贈り物を届け家族の誕生日にはプレゼントをすることにした。経営者の家族に気に入られるようにすることが、商売のこつであることを山本は信じていた。山本の根気よい営業が効果を現し逐次大口のお絞りの注文が増えてきだした。
ある日、山本は難波の「角寿司」へ遊びにきて世間話をして、例によって家族の趣味、嗜好、生年月日を聞き出して店へ帰ってきた。いつものように聞き出してきた情報を山本が工夫して作った得意先帳に記入した。 門川作造。 大正6年1月17日生。盆栽いじり。 門川久枝 大正9年7月22日生。芝居。 門川 久 昭和20年1月17日生。書道。独身。関西で板硝子会社勤 門川佳子 昭和22年7月3日生。書道。旅行。独身。 務 注 角寿司は作造が包丁一本で作り上げた。今では喫茶店、レストラン、ビジネスホテルを経営す。職人気質の作造を攻略することに工夫を要す。 このように記入してその日の仕事を終えた。
山本は貸しおむつ屋の方は軌道に乗りかけたが、我ながら変な商売を始めたものだと思う。兄が山本に勧めてくれて始めた商売ではあるが、商売を始めるに先立ち 「貸しおむつ屋は主婦のサシスセソ業のセ業を分担企業化したものだ。これも余暇時代の産物さ」 と言っていたことを思い出しなるほどそうだと実感が湧いてくるのである。
兄の説明によればサは裁縫のサである。シは躾け、スは炊事、セは洗濯、ソは掃除ということである。家庭の主婦は昔から家庭にあって家事に従事していた。家事といえば裁縫、躾け、炊事、洗濯、掃除に尽きる。一昔前はこのサシスセソ業に随分時間をとられたものである。化学繊維、合成繊維はまだ発明されておらず、靴下を一枚とりあげても、木綿製であり二日も履くと爪先、踵の部分に穴が開いた。穴のあいた靴下の繕いをするのは一仕事であった。既製品の服もサイズが豊富に揃っているわけではなく、布地を買ってきて子供達の背丈を計り、肩幅の寸法をとり、胴回りに巻き尺をあてて裁断し自分でミシンを踏んでいた。
子供達は母親のそんな姿を見て、母を尊敬し母の編んでくれた手袋をさすごとに母の姿を思い出したものである。
それが今は、靴下の穴かがりをする主婦はまずいない。布地を買ってきて 子供の服を縫ってやろうと考える母親もいない。靴下は穴が開けば捨てるものであり、子供の服はデパートかスーパーマーケットのバーゲンセールで吊るしを買うものだと信じている。
家庭の主婦から裁縫という仕事は無くなった。
炊事も主婦の大切な仕事である。米をといで薪を割りかまどにかけて炊いたものである。湿った薪の火付きが悪く、煙を目に入れて涙を流しながら火吹き竹を吹いたものである。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」等という飯炊きの諺もあった。生活の智慧というものである。 ところが、今は米こそ研ぐがカップで秤量したあとは電気釜に入れてスイッチを入れさえすれば、立派な御飯が出来上がる。マヨネーズは食料品店で買ってくるものだということは知っていても、卵を割ってポールに入れサラダ油を注ぎながらかき廻して作るのだということを知っている主婦は殆どいない。ここでも炊事という重要な仕事が安直に片づけられるようになってしまった。おふくろの味がなくなってハムのぶつ切り、目玉焼きと誰が作っても同じ味覚のものとなってしまった。
洗濯にしてもたらいや洗濯板なんかは探しても見つけられない時代物になってしまった。洗濯機に投げ込んでスイッチを入れておけば乾燥されて出てくるのである。
掃除。これもまた便利な道具がある。はたきをかけて、茶殻を撒いて箒で掃いたりすることもなくなってしまった。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と主婦の五大家事のうち四つまでが、一昔前に較べて手間のかからない仕事に変質してしまった。若い主婦達は便利な洗濯機があってさえ、自分の生んだ子供達のおむつを洗うのを嫌う。貸しおむつ屋を使い、使い捨ての紙おむつを使いたがる。
そのお蔭で山本の商売である貸しおむつ業なるものも存在理由が認められるようになってきた。その意味では文化生活のお蔭で主婦が楽をし楽に慣れてしまったから山本達の商売が成り立っていくのである。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と四つの家事を簡単におそらく一昔前の十分の一位の時間で済ますことのできるようになった現代の主婦達は時間をもてあましだした。豊富に使える余暇時間。この時間をどのように使うか。豊富な時間は子供の躾け(教育)に向けられるようになった。ママゴン、教育ママの出現である。
大学生の入学試験に付き添い、会社の入社試験にまで母親が付き添ってくるようになってしまった。学習塾が繁盛する理由はそこにある。これからは躾けに着目した産業が栄えることになるだろう。時代の背景がそのようにできている。
兄の説明は説得力を持っていた。自分の生業の存在理由を家庭の主婦の仕事と結びつけて説明してくれた兄の熱っぽい口調に山本は心を動かされて、この道に入ったのである。山本は自分の行為に理屈をつけないと行動できない性質の男であったといえる。いや、自分の行為に後から理由づけができないと不安になる男であると言った方が正確かもしれない。
沢村に別れを告げて車中に戻ると増田喜美江が斜め向かいの座席に座っておりにこやかに会釈するのが目に入った。 「増田君どうしてこんなところへ」 「びっくりしたでしょう。私も大阪へ行くところです。関東石油は昨日で辞めました」 「何故辞めたの」 「山本さんのいらっしゃらない会社なんかつまらないからですわ」 「会社を辞めるのはあなたの自由だが、何も私が辞めたからと言ってそのことを理由にされたんでは困るじゃぁないか」 「困ってください。そのほうが楽しいわ」 「馬鹿なことを言ってはいけないよ。少なくとも私には迷惑だ」 「大阪には私の両親がいますわ」 「それではご両親と一緒に生活するんだね」 「そうです。山本さんのお役に立ちたいから、両親のところへ帰ります。落ちつかれたら連絡して下さいね。私と交際して良かったと思う日がきっときますわよ」 増田喜美江は自信ありげに言うと世話女房気取りで沢村が脱いだ背広を受け取り折り畳んで網棚へ乗せた。 「それにしても、不思議だなあ。増田君と偶然とは言え同じ車両のしかも向かい合った座席に乗り合わせるなんて」 「偶然だと思われますか」 「というと何か細工をしたのかな」 「ふふふっ、それは秘密」 「どういうたとなんだ」 「だって、秘書課にいますと、乗車券の手配をするのはお仕事のうちですもの。入手しにくい切符を確保するための特別のルートを持っていますわよ。今回山本さんの切符を手配したのは私ですから一枚余分に手配しておいただけのことですわ」 「それにしても唐突に会社を辞める気になったものだね」 「山本さんだって同じようなものですわ」 「それはそうだが、僕の場合は会社に見切りをつけたこととサラリーマン生活がいやになったから、止むを得ない事情があったわけだ」 「私も会社に見切りをつけたことは同じことですし、山本さんの将来に賭けてみようと決心したからですわ」 「これからどうなるか判らない不安定な生活に、飛び出そうとしているんだよ」 「そこが魅力なのよ。将来に夢があるのは楽しいことですわよ」 「僕には君の好意は判るが責任は持てないよ。後で後悔しても知らないよ。君が大人の遊びをしようというのなら話は別だが」 「私が勝手に決めたことですから大人の遊びで結構よ」
増田喜美江は意味ありげに微笑むと、鞄から蜜柑を取り出して山本に勧めた。大阪までの車中の時間は山本にとって一面では楽しくもあり、また一面では、薄気味の悪いものであった。増田喜美江の真意を計りかねたからである。大阪へ到着すると山本のお茶への誘いを断って増田喜美江はアドレスを書いた紙を渡し人混みの中へ消えていった。
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山本は会社から30万円ほどの退職金を受け取ると常泉寺へ出掛け松山一朗の霊に花を供え線香を焚いて別れを告げた。住職に頼んでお経をあげて貰った。
大阪では山本の実兄が手広くクリーニング業を営んでおり最近副業で始めた貸しおしぼりが市内のホテルや梅田、心斎橋、難波界隈のバー、キャバレー、料亭に好評で商売は繁盛していた。山本は関東石油在社中からサラリーマンなんか辞めて兄の商売を手伝ってくれないかと何回も勧誘を受けていたのである。
将来第三次産業とりわけサービス業の時代がくるのははっきりしており、事務機器のように進歩の速いものや、レジャー用品、衣装類のように流行を追い陳腐化するのが早いものはリースで間に合わせようという時代が必ずくるから、この分野へ早く進出しておいた方がいいというのが兄の持論であった。その手始めに始めた貸しお絞りがうまくいっているので、今度は貸しおむつを手掛けてみたいということであった。資本は大してかからず商売に工夫をすればいくらでも発展の余地があり、これからの目のつけどころは、新興団地のアパートやマンションに出入りして注文をとることだと教えられていた。ある程度客層が安定すれば、次から次へと口コミで新しい客を紹介して貰え、一つの部門として独立することも可能であることを会う度に吹き込まれていた。
関東石油在社中は兄の勧誘もただ聞き流していたのだが、今回の事件が起こってから兄に相談したところ、そんな冷たい会社に義理立てする必要はないから明日にでも大阪へ来いと兄が積極的に勧めてくれたので、関東石油を辞める踏ん切りがついたのである。 山本は常泉寺を後にして新幹線に乗り大阪へやってきた。
新横浜駅へは報国工業の沢村が一人だけ見送りにきてくれていた。 「山本さん。私が至らなかったばっかりにあなたにはとんだ御迷惑をかけてしまいましたね。大きな借りを作ってしまいました。何時かきっとこの借りはお返ししますよ。何かお役に立つことがあれば何時でも気楽に相談して下さい」 山本は沢村の気持ちが嬉しかった。松山の事故があってからは何かにつけて力を貸してくれ、激励してくれたのも沢村であった。関東石油の同僚や友人達は口でこそ、関東石油のやり方を非難し同情もしてくれたが、親身になって相談に乗ってくれる者はいなかった。現に大阪へ新天地を求めて出掛けていく山本を見送りにきてくれたのは沢村一人だけである。 「沢村さん、最後までお世話になりましたね」 山本は万感の思いを込めて沢村の手を握った。
山本が関東石油を退職するらしいという噂が流れたとき、自分の会社へこないかと誘ってくれたのも沢村であった。関東石油の待遇よりも遙に良い条件を提示され、心が動かないでもなかったが、宮仕えを二度としたくないという気持ちが強かったので山本は沢村の申し出を断った。 「山本さんが強い決意をお持ちなら無理には勧めないことにしましょう。山本さんは失礼だが、私の見るところ組織の中では納まって行けないお人だ。御自分で何かおやりになった方が成功するという風に私は見ていました。苦労はあるかもしれませんが、お兄さんと二人で事業をなさることはいいことだと思います。山本さんならきっと成功しますよ」 沢村は強く引き止めるでもなく山本の前途を激励してくれた。山本が大阪へ引き上げることが決まると山本の荷物を送り出してくれたのも沢村であった。
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テニスコートにすらりと伸びた脚を惜しげもなく陽に曝して岡元美代子が立っている。激しいラリーの応酬。岡元美代子が陽に焼けた顔に白い歯を覗かせて打ち込んできた。茶色のアンツーカーコートの隅に白球がバウンドした。ラケットを右手に持って球を追っかけようとするが、足が動かない。球は逃げてしまった。
山本は夢を見ていた。球が逃げたところで目が覚めた。時計をみると一時間程眠りに落ちたようである。山本はここ数日、岡元美代子と会っていないのに気がついた。
岡元美代子は関東石油の秘書課に勤めている女子事務員である。美代子は東京女子大学の英文科を卒業して二年前に関東石油へ入社した。父が山王グループの商事会社の常務取締役の要職にあり、関東石油の社長とは懇意にしている。
関東石油では4年制の女子大学卒業生は採用していないので、本来ならば岡元美代子は関東石油には就職できないのであるが、父の縁故で入社したわけである。岡元美代子はうりざね顔の美人である。その均整のとれた体の線とすらりと伸びた脚線美にはミニスカートがよく似合った。彼女が入社したときは、関東石油の独身社員が騒いだ。美代子が入社したのはどうやら花婿候補を見つけるためらしいという噂がまことしやかに流れたからである。 サラリーマンから出世して山王商事の常務になった美代子の父は、美代子も将来有望なサラリーマンと結婚させたいという考えを持っていた。サラリーマンの妻となるためには、自分でも勤めの経験を持っていたほうが結婚してからも夫がよく理解できるだろうという親心から美代子を関東石油へ入社させたのである。噂は出鱈目ではなかった。
美代子は学生時代テニスをしていたので入社すると直ちにテニス部へ入部した。関東石油のテニス部員は男子20名で女子は10名であった。山本は学生時代テニスで鳴らした腕をもっていたので、入社してからもテニス部に席を置き、美代子が入社したときにはキャプテンをしていた。
美代子がテニス部へ入部するという噂が流れるとテニス部の入部希望者が急に増え、50名の大世帯になってしまった。テニスコートは本社と横浜工場と共用で関東石油横浜工場内に設けられており、本社の部員は工場まで出掛けてくることになっていた。
美代子はテニス部の中で一躍スターになり、女子部員の中には反感を持って退部する者もいたが、女子が退部しても男子の入部希望者が多かったのでテニス部としては部員の数が増える結果となった。退部した女子はいずれも部の中では女王的な存在であった。顔に自信があるかスタイルに自信を持った女達で男からちやほやされることに生き甲斐を感じるような連中である。 彼女達が去った後にも居残る女子もいたがそういう女子部員達は平均的な女子事務員で自ら中心になってクラブ活動を盛り上げて行こうというほどの積極性は持ち合わせていない。テニスを楽しみ運がよければ未来の夫を見つけようという女達である。彼女達は美代子の周りに集まった。美代子には生まれつき人を魅きつけるものがあった。
学生時代に鍛えただけに技術は高く男子部員でも彼女と試合して勝てる者は少なかった。美代子がテニス部の女王になるのに時間はかからなかった。美代子にはテニス部の男子部員からは勿論のこと、会社の独身男性から度々誘いがかかった。美代子はそうした誘いに対しては一対一の行動はとらなかった。必ずテニス部の仲間か、同期生の女子を伴ってグループで交際した。彼女の行動には賢い母の躾けが反映していた。それでも山本はテニス部のキャプテンの特権を行使して、美代子と二人だけで映画を見に行き夕食を共にしたことが一回だけあった。その時の短時間の語らいの中で美代子が山本に好意を寄せているらしいことは言葉の端々に窺うことができた。
山本は次第に美代子に魅かれていった。美代子の魅力もさることながら、美代子の父が山王グループの経営層にいることの方が山本にはもっと魅力があった。完成された管理社会の中で組織の頂点に早く登り着くためには、本人の実力もさることながら、組織の頂点にいる人の引きを得ることが一つの条件であった。
美代子が好意を寄せていると思われる男性は関東石油の中に山本を含めて三人に絞られるようになった。本社総務課の橋本と横浜工場製油課の栗原が山本のライバルであった。この三人のうち誰が美代子を射止めるだろうかという噂が独身男子の話題に登るようになっていた。それというのもこの三人が美代子の父から自宅へ麻雀の相手として招待を受けたからである。 山本、栗原、橋本は揃って美代子の自宅へ訪問する機会が多くなった。しかし、彼らは一人だけで訪問することはなかった。三人の間には、抜け駆けしないという黙契のようなものが成立していた。三人はお互いに牽制しながらも、美代子の父から麻雀の誘いがかかるのを期待して待つようになっていた。山本が美代子に会ってみようと思いついたのは、その日がテニス部の練習日だったからである。
松山一朗の事件があってからテニスの練習をさぼっていたので思い切り白球を追っかけてみたいと思った。美代子とネットをはさんで激しく白球を打ち合ってみたい衝動にかられた。そしてテニスの終わったあとで、次の日曜日にいつものメンバーでマージャンをしに行ってもいいかと申し込んでみようと思った。美代子とテニスをすることも楽しかったが、麻雀をしながら美代子の父に、今回の事件についての感想を聞いてみたいという気持ちがあった。山本が終業後、テニスコートへ久し振りにでかけてみると何時も山本より早くきて練習をしている筈の美代子の姿が見えない。 「岡元君は」 同じ秘書課の増田貴美江に聞いてみた。 「岡元さんはお休みよ。お気の毒様」 「会社も休んだのかい」 「いいえ、会社には出勤してらしたわ」 「どうしたんだろう。岡元君がテニスをさぼるなんて珍しいな」 「テニスよりデイトの方が楽しいんですって」 増田喜美江は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。 「何だって、相手は誰だ」 「まあ、そんなに怖い顔をして。山本さんは知らなかったの、最近お見合いをなさって、交際を続けていらっしゃるそうよ。相手の方は東大出のエリートで大蔵省にお勤めなんですって」 「そんな馬鹿な」 「栗原さんも、橋本さんも同じことを仰ったわ。そんな馬鹿なって。山本さんも道化の役をやらされていたのね」 「道化だと」 思わず声が大きくなった。 「三人とも鳶に油揚をさらわれたようなものね。関東石油では栗原さん、橋本さん、山本さんが岡元さんのお父様のお相手をするために麻雀に誘われていたのは有名な話だわ。皆さん鼻の下を長くしてせっせとお通いになったようですけれど、とんだ見当違いをなさっていたわけね」 「見当違いだって」 「そうなのよ。だから道化なのよ。岡元さんのお父様があなた方三人をお誘いになったのは、女姉妹ばかりの美代子さんに、男友達と親の監視のもとでお付き合いをさせるためだったのよ。岡元さんは決して一対一の交際をなさらなかったでしょう。お母様のさしがねらしいわ。岡元さんのご両親は男というものを研究させるために、関東石油の秘書課へ入社させたということだわ」 「君は誰からそんなことを聞いたのだ」 「社長からよ」 山本は痛烈な一撃を食わされた思いだった。 「山本さん。お相手をお願いします」 増田喜美江はラケットを右手に持ってアンツーカーコートを小走りに駆けて行くとサーブの球を打ち込んできた。増田喜美江がいつもになく元気に張り切っているのに彼は気がつかなかった。
山本の心に退職の気持ちが芽生えたのはこの瞬間であった。一度心の奥に芽生えた辞意はほむらのようにたちまち大きくなり、動かし難い決意に育っていった。山本は喜美江と球を打ち合いながら、自分は丁度テニスの球のような存在ではないかと思った。ラケットに打たれてあっちへ飛び、こっちへ飛んでいる。自分の意思で飛んでいくことができない。
松山一朗の事故の原因は関東石油の安全よりも生産を重視した会社の考え方に最大の原因があるにもかかわらず、それを指摘した自分が責任をとらされる。そしていままた、岡元美代子の両親の考え方を知らされた。
最初から道化の役を与えられて、有頂天になっていた自分が浅ましくもあり、情けなかった。岡元美代子を妻にして美代子の父の威光を利用し、出世の足がかりにしようと潜在意識の中で考えている自分の甘さを知った。
自分でどうすることも出来ない機構のことを思った。組織の固さというものを知った。組織というものは、要になって動かす立場にたてば組織を動かすという面白さがあるが、現在の自分の立場は組織の中で動かされているに過ぎない。岡元美代子の父親のように組織の頂点に立てば、関東石油の社長を動かし自分の娘を入社させ、山本、栗原、橋本達の純真な気持ちを踏みにじるようなことまでできる。
松山一朗の事件で示された総務部長や、製造部長のように組織の中で、何とかして頂点に近づきたいと願い保身にだけ窮々としている管理者がいる。また林田のように首にならなかっただけでも幸福だと考える男もいる。そこには主体性を持って行動する人間は見られない。山本はサラリーマンであることが嫌になった。少なくとも関東石油にいる限り、今回の事件でハンデキャップを負ってしまったので、先の望みが薄くなってしまった。林田の姿に自分の将来を見るような気がしてくる。
山本は大阪でクリーニング屋を大規模にやっている兄のことを思い出していた。兄からは自分の責任で事業をやってみるのは面白いことだから、山本にも兄の仕事を手伝わないかと今年の正月帰省したときに冗談のように勧められていた。そのときは冗談として笑い飛ばしていたが、今回のようなことがあると、真剣に考えてみなければならないことのように思えてくる。
山本は配置替えの通知を受けた翌日、辞表を提出して10日後にはさっさと会社を辞めてしまった。辞表を提出したとき工場長は型通り、慰留したが結局辞表を受理した。山本が辞表を提出したということを聞きつけて同僚やテニス部の仲間が集まり、会社の仕打ちは冷た過ぎる。組合で取り上げて問題にしようと熱っぽくいきまき心配してくれる者もいたが、山本は丁重に断り自分の意思を通した。
増田喜美江が山本さんが辞めるなら私もやめようかしらと言い、求愛の謎をかけてきたのには閉口した。
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「その通りだ。君に悪者になって貰うのが一番良い解決法だと思う。君は不本意かも知れないが、担当者段階でのミスとしておかないと大変なことになる。作業工程の妥当性にまで調査の手が伸びると操業停止にまで問題が発展することもありうる。操業停止にでもなれば、会社の損失は莫大なものになる。勿論作業工程の妥当性についての検討も行われなければならないが、それは社内的な問題として検討し、次回の定修工事に生かせばいいのであって警察に関与されることは避けなければならない。君も将来のある体だから不本意なことはよく判るが、長い目でみれば一つの経験として将来に生かせると思う。決して悪いようにはしないから、君の段階で責任の追求がストップするように考えて貰いたい。くどいようだが、君の判断で作業指示を発したと証言して欲しいのだ」
「私も自分の担当の所で発生した事故ですからその限りでは責任を感じていますし、酸素濃度検定をもっと念入りにやっておけばよかったという後悔もしています。しかし、残念なのは工程会議で私の意見が聞いて貰えなかったことです。しかし、起こってしまったことを後から悔やんでみても仕方がないことはよく判っています。私も関東石油の社員ですから、会社に及ぶ被害が最小限で済むよう善後策を講じなければならないということも理解できます。仰るように、私の段階で問題が解決されるよう努力してみます」 山本は釈然としない気持ちで答えた。工場長に一礼してから工場長室を出たが、胸の中にはふっきれないものが残った。
翌日山本は警察に呼ばれて調書を取られた。警察で調書をとられた者は山本の他にも工務課長の林田、安全課の大浦、矢口がいた。 警察での取り調べが終わって一週間が過ぎたが松山一朗の遺族は依然として現れなかった。
工務課長の林田と山本は今回の事件で書類送検されることになった。林田は山本の上司である。山本が書類送検されてから数日後、山本は社内でも閑職とされている技術室へ配置替えを命じられた。林田は工場長付きの辞令を貰った。
山本と工務課長の林田が書類送検されることで、この事件が落着するとすれば、関東石油にとってはまずまずの結果といえるものであった。 山本は送検されることは覚悟していたが、送検された時点ですぐ閑職へ配置換えされるとは予想していなかった。関東石油としては、官庁筋に対する姿勢を示したものであり、社内的には一般社員に対して今回の事故の責任の所在を明らかにするという意味を持つものであった。
山本は配置替えを申し渡されたとき、会社の措置は性急すぎると思った。送検されるということは、業務上過失致死の容疑をかけられたということであって、まだ司法的な判断が下されたわけではない。容疑をかけられただけで誰が見ても左遷と受け取れる技術室への配置換えを会社が行ったのは明らかに会社が山本に責任ありと判断したことを示している。山本は冷めた気持ちで工場長から配置換えの申し渡しを受けた。
その日山本は帰りに林田をおでん屋へ誘った。 「林田さんは今回の会社の措置をどう受け止められますか」 「人一人殺しているのだから止むを得ないと思う。僕は甘受するしかないと思っている」 「私は直接の担当者として、林田さんにまでご迷惑をかけてしまって申し訳ないと思っています。人一人が死んだのは事実ですから、処置自体に不服を言うつもりはありませんが、もっと大きな責任が追求されないところが私には納得できないのです」 「どういう意味だね」
「林田さんも工程会議では工期35日説を主張されましたね。それに対して製造部長は30日説を主張しました。そのことです」 「ああ、そういう意味か。愚痴になるから言いたくはないが、今回の定修工事は製造部の横暴に押し切られた面があるのは事実だ。そのために、危険な作業が随分多かった。だけど、一旦命令となった以上はこれに従わなければならないのが組織というものだ。そこでは個人の善意や良心はどこかへ忘れられてしまう」
「私はそうじゃぁないと思うのです。製造部長の上向きの姿勢に問題があると思うんです。本社の意向ばかり気にして現場の意向は考えない。自分の保身のことだけしか考えていないんですよ。我々が送検されることで責任を免れてしまっている。そして追い打ちをかけるように今回の人事です」
「僕も内心では口惜しいと思っているよ。だけどサラリーマンというのは辛いもので、君とこうやって酒を飲みながらせいぜい悪口を言って、憂さを晴らすことぐらいしかできないんだ。君も承知のように、僕は昨年やっと念願の家を建てた。借金だらけだ。会社の処置が冷たいと言って会社を飛び出すことも出来ない。50を過ぎたこの年では職を新たに見つけることも出来ない。忍の一字しかないんだ。屈辱に耐えて会社の措置を受け止めるより仕方がないんだ。首にならなかっただけでも有り難いと思っているんだ」
山本は、寂しい気持ちで林田と別れた。林田から激しい言葉を聞きたかった。例えごまめの歯ぎしりと言われようと犬の遠吠えと言われようと、林田と一緒に怒り狂ってみたかった。だが、現実の林田の姿は初老を迎えた生活に追い回されている哀れな男にすぎなかった。首にならなかっただけでも有り難いと思っているという林田の言葉が頭にこびりついた。
山本はその晩一晩まんじりともしなかった。眠らなければと気ばかり焦るのだが、頭は冴えて色々な想念が、消えては現れ現れては消えた。
タンクの中で二本ぶら下がっていた松山一朗の足。ピーポピーポーと間の抜けたサイレンを鳴らしながら遅ればせにやってきた救急車、松山の遺体を取り巻きながら勝っ手なことを叫んでいる群衆、器用な手つきで松山の目蓋を開いた若い医師、常泉寺に姿を現した車椅子に乗った犬山勇次、度のきつい眼鏡をかけてしたり顔に話しかけてくる総務部長、鼻の頭の汗をしきりに拭っていた葬儀屋、工程会議で製造部に押し切られて首を縦に振った工務部長、執拗に問い詰めてくる刑事、時間の脈絡なしに次から次へと現れてくるのは、いずれも今回の事件に繋がりのある情景ばかりである。
山本は眠らなければとウイスキーをコップに注いで一息に飲み干した。焼ける熱さが喉元を走り抜けた。
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山本正は松山一朗の労災事故死により、業務過失致死の容疑で基礎されてから会社の冷たさを知った。関東石油では会社の幹部に責任が及ぶのをくい止めようと画策した。その画策が見え透いた露骨なものであるだけに山本はやりばのない憤りを感じた。 山本正は報国工業の沢村が出た後、入れ代わるようにして工場室へ呼ばれた。 「山本君、御苦労様。そこへかけたまえ」 総務部長が折り畳み椅子を指しながら言った。度のきつい眼鏡のガラスが渦巻きのように光った。 「はい。今回は私の監督不十分のため会社にご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」 山本は深々と頭を下げてから腰を下ろした。 「今、いろいろ対策について考えていたところだが、君は今回の事故の原因を何だと思うかね」 「定修工事の作業工程に無理があったことが根本的な原因だと思います」 山本は工務部長の顔をみながら答えた。工務部長は山本の視線をそらすように下を向いた。山本は工務部長のそんな態度を見ながら、定修工事開始前に行われた工程会議のことを思い出していた。
その工程会議では製造部と工務部とで、工期をめぐって、大論争が行われた。定修工事をできるだけ短期間で切り上げようと主張する製造部と工期を長くしたいとする工務部との間の論争である。製造部は製造計画に基づいて一日でも早く定修工事を切り上げて貰いたいと主張し、一日工期が延びると一億円売り上げが減ると説いた。
これに対し工務部では安全確保上、製造部で主張している30日の工期では無理で、少なくとも35日は必要であると言い張った。生きている設備の一部を止めて修理をするので、有毒ガスを完全にパージして安全な環境のもとで工事を進めるためには、製造部のいうように五日間工期を短縮することは、危険であると主張した。限られた予算の中で工期を五日間短縮することは、作業能率も低下するし事故の発生しない保証ができないとまで言った。工務部の中でも山本は特に強く35日説を主張した。だが、生産第一主義の製造部が安全第一主義の工務部の意見を押し切った。
有毒ガスのパージには窒素をふんだんに使い、ガス検知と酸素濃度検定を十二分に行えば、安全作業は確保できるという製造部の説得に首を縦に振ったのが工務部長であった。 「君はまだそんなことを言っているのかね。工程会議で議論をして、その問題は充分潰した筈ではなかったのかね」 製造部長が工場長の顔を窺うようにしながら言い放った。 「はい。私は工程会議の席上で事故の起こらない保証はできないとまで言った筈です。私の虞れていた通り事故が起こりました。しかも酸素欠乏状態での死亡事故です」 「君、問題を混同してはいかんよ。有毒ガスによる事故ではなく、酸素欠乏事故なんだよ。有毒ガスは完全にパージされているんだ。酸素濃度検定は充分やったのかね」 「作業着手前の酸素濃度検定ではオーケーでした」 「そうだろう。だから、作業計画に無理があったことにはならないんだ」 製造部長は自分に言い聞かせるような言い方をした。 「しかし・・・」 「どうでしょう。事故の原因を追求するのは、調査委員会を設けて究明することになっているので、そちらの調査結果を待つということにしては。当面大切なことは、警察の取り調べに対して、会社の見解を統一しておくこととマスコミ対策だと思いますが」 工程会議での議論が蒸し返されるのをいち早く防止しようとする意思をあらわにして総務部長が言った。
関東石油会社は旧財閥系の山王化学の子会社で百パーセントの資本が山王化学から出資されている。関東石油の社長は山王化学から派遣されており、横浜工場の工場長、製造部長も山王化学出身である。横浜工場の工務部長と総務部長は関東石油固有の社員であり、工場長や製造部長に対しては公式の場では意見の開陳にも遠慮したところが窺える。もともと関東石油は岩原交通の岩原一誠が自社の車両の燃料を自給しようとの考えから出発した会社である。岩原が経営していた頃は京浜石油と称しており、会社の規模も現在とは比較にならないほど小さいものであった。規模が小さくても個人の資本では装置産業を維持してゆくことは難しかった。
日本の産業が高度成長の時代を迎え、設備の巨大化が進むにつれ岩原一誠は個人で石油会社を経営していくことの非を知り、採算の上がらぬまま痛手が大きくなる前に手を引いた方が得策であると判断し、京浜石油を売りにだしたのである。
時は産業界の資本の系列化が進んでいるときでもあり、自己の系列会社に石油精製部門を持たない山王グループが山王化学の子会社として京浜石油を買収し関東石油と社名を変更した。 首脳陣を山王化学から送り込むとともに、装置産業にふさわしい大型の設備をどんどん造って現在の規模にまで膨脹したのである。山王化学が京浜石油を買収したときには、工場は横浜工場だけであった。山王化学は間もなく水島に最新鋭の精油所を建設し関東石油水島工場とした。
水島工場の建設には横浜工場から約半数の技術陣を転勤させた。水島工場の建設にあたっては日本有数のエンジニアリング会社大日本化工機が設計施工した。 現在の横浜工場の工場長も製造部長も、山王化学による買収後、三代目であり、総務部長と工務部長は京浜石油生え抜きの社員で、買収されたときには何れも係長であった。京浜石油が山王化学に買収されたときの工場長は、関東石油本社の技術部長に収まって取締役の末席に名を連ねている。 総務部長も、工務部長も山王化学出身の工場長と製造部長の顔色を窺いながら自分も大きな失敗さえなければ、取締役の末席ぐらいにはなれるのではなかろうかという期待を持っている。それだけに陰では上に調子よく下には冷酷だという声がささやかれている。
山王化学の人事政策は巧妙である。工場長、製造部長という要職は山王化学よりの派遣社員で抑えるが総務部長、工務部長は京浜石油出身者に委ね重役へ登用の道も残して、プロパー社員の士気が低下しないように配慮している。 現在の関東石油本社の総務部長、工務部長は何れも関東石油の工場で総務部長、工務部長を経験した京浜石油出身の社員であり、重役陣の中に名を連ねさせているのである。 山本正は入社五年目である。大学は旧帝大である大阪大学の工学部を出ている。山本が大学を卒業した昭和40年は高度成長経済がその勢いを蓄えるために一休みした時であった。新聞紙上で不景気と書かれた年である。
旧帝大の工学部出身である山本は不景気であっても就職に困るということはなかった。産業界は不景気の時代だからこそ、次の好景気の時代に備えて優秀な人材を確保しておこうと求人キャラパンを繰り出した。特に旧帝大の工学部出身者は一流企業からの求人をよりどりみどりであった。山本の所にも幾つかの企業から母校の先輩を通じて勧誘があった。中にはキャバレーに連れて行ってくれて豪遊させてくれた某製薬会社に勤めるA先輩のような人もいた。電話がかかってきたり、親展の手紙を貰ったりもした。何れも先輩を使っての凄まじい求人攻勢であった。
山本は先輩や友人の話を聞いて会社選択の基準を作り、基準に合わない会社はどんどん不採用とした。まさに求職者が求人会社を採用するのではないかと思われるような凄まじい求人難の時代であったと言える。 山本の作った会社選択の基準は次のようなものであった。 ・旧帝大出身者の少ない会社であること。 ・今後成長することが予想され、社歴は浅い会社であること。 ・知名度もある程度高く、待遇のよい会社であること。 友人達が好んで超一流企業へ就職したのに較べれば一風変わった選択である。山本は何よりも、早く出世できそうな会社を選んだのである。山本の選択基準からすれば、関東石油はまさにぴたりの会社であった。 山本が予想したように、関東石油は山王化学の子会社であるとはいえ、旧帝大出身者は殆どおらず急成長を遂げており待遇も良かった。入社してみて山本を何よりも喜ばせたのは、入社間もない山本に責任のある仕事を任せてくれたことである。そして社内でも、前途有望の青年であると期待されていた。 山本は横浜工場工務部に配属された。工場は拡張期のため、新しい設備がどんどん増設された。加えて水島工場に技術陣が半数転出していたので、新しい設備の増設工事は入社したての山本が計画段階から携わることになり、大きな権限を与えられた。それは若い山本の野心を満足させるに充分のものであった。 年に一度の定修工事もやり甲斐のあるものであった。短期間のうちに五百人を超える作業員(下請け作業員ではあったが)を指揮して意のままに動かすことは男の本懐であるとまで思った。しかも工務部の若手のやり手という評判があるので、下請け会社の社長や専務があの手この手でご機嫌を取り結ぼうとするのも、若い山本の自尊心をくすぐった。
出入り業者達は競って山本に縁談を持ち込んだ。自分の姪や友人の娘、我が娘と下請け業者の社長達は、山本に先物買いをした。だが、山本は下請け業者の勧める縁談には頑として耳を貸そうとしなかった。業者と縁組すると社内的に色眼鏡で見られることは確実であり、業者に対してけじめをつけておくことが、将来社内で出世するための一つの条件であると考えたからである。 とかく業者と工務担当者との間には黒い噂が流れ勝ちであるが、山本に関してはそのような噂は聞かれなかった。
「ところで、山本君今回の松山一郎の死亡事故については、いろいろ原因も考えられるだろうし、会社としてもこれを今後の施策に生かしていかなければならないと思う。事故調査委員会も活動を始めているのは君も知っている通りだ。そこで今、大切なことは総務部長がさっき言ったように、対外的に処理する方法を検討することだ。取り敢えず急がなければならないのは、マスコミと警察だと思う。それに労働基準監督署もある。忘れてならないことは我々は組織の一員であるということだ。会社の名誉、対外的な信用これを損なうことなくうまく処理することを考えなくてはならないと思う。よし、仮に会社の名誉や信用に傷がつくとしても、最小限にくい止めなければならない。そのためには君にも覚悟を決めて貰わなければならないこともある」 工場長が煙草を忙しそうにふかしながら言った。ふかした煙草の煙が神経質そうに揺らいだ。 「工場長が言われたように、社外に対する対処の仕方を打ち合わせておきたいと思って、君に来て貰ったわけだ。一番のポイントは会社が安全をなおざりにしているのではないかという印象を与えることが一番困るところだ」 その場を取り繕うような言い方を総務部長がした。 「ですから、定修工事前の工程会議で申し上げたように、工期が短過ぎたことが今回の事故の最大の原因だと私は思います。部長そうではないですか」 「この場合、総論の議論をしても仕方がないんだ。当面どう始末するかという各論に議論の焦点を絞らなければ。さっき報国工業の沢村君がここへ来ていたが、警察で取り調べを受けたそうだ。君にも警察から呼び出しがあると思う。その時我々の言うことがチグハグになっては困る。方針ははっきりしている。関東石油に被害の及ぶことを最小限にくい止めなければならないことだ。そのためには、作業計画には無理のなかったことを主張し、立証することが大切だと思う。そのとき君の証言の仕方が問題になると思う。工期が短かすぎるなどと言って貰っては困る」 製造部長が一気に喋った。 「次に作業指示の問題だ。最終的な責任は勿論工場長にあるわけだが、個々の作業指示についてまで工場長が関与することはない筈だ。そこで大切なことは君が担当者の責任において、独自に判断して作業指示を与えたことを強調して欲しいということだ」 製造部長が続けて言った。 「ですが、作業に着手する前には、有毒ガスの検定も酸素欠乏状態の測定も行って異常がなかったのですから、当然作業指示はゴーの指示を出すことになると思いますが」 「問題はその点だ。ガス検知をやってオーケーだったから作業着手許可を与えた。しかし実際には酸欠であった。だから死亡事故が発生した。ガス検知が充分でないのに作業指示を出した。そこに過失があった。つまり君が独断でガス検知の結果,異常なしと思って作業着手許可を与えた。このように説明するのが無難だと思うんだが」 「それでは全く私が悪者になってしまうではありませんか」
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「具体的には松山一朗を名指してタンクへ入ってポルトを外す仕事をせよという指示は私どもの監督がしますが、タンクへ入ってよいかどうかの指示は関東石油の担当者が私どもの監督に対して行います。何しろ有毒ガスがあったり、可燃物があったり、酸欠状態があったりしますので、関東石油の担当者より指示がなければ、作業員をタンクの中へいれることはありません。そういう意味では関東石油の担当者の指示によるということになります」
「タンクの中の状態が危険な状態であるかどうかの判断は関東石油の係員がするということですか」 「そうです。私どもは施工業者ですから装置の中にどんな物が入っているか判りません。ですからバルブの開閉とかマンホールの開放とか装置についているスイッチ操作とか装置の運転に関することは一切、業者は行いません。仮に命令されて行う場合でも、必ず関東石油の係員の立ち会いのもとに行います。特に定修工事のように生きている工場設備を相手とするときには、作業計画上どのタンクのどのバルブを取り替えるということが判っていても業者独自の判断で着手することはありません。必ず着手前に関東石油の係員の着手オーケーの確認をとってからでなければ、たとえボルト一本でも緩めることはできません」 「松山がベンゾールタンクへ入るについては安全の確認は行われましたか」「はい。タンクの中へ入って作業するようなときには必ず、安全担当の関東石油の社員にガス検知をして貰って安全な状態であることを確認してから、関東石油の担当係員の作業着手命令を得た上で作業を進めます」 「当日ベンゾールタンクへ入ることを指示した、関東石油の担当者は誰ですか」 「工務課の山本正さんです」 「ガス検知をした人は誰ですか」 「安全課の大浦英夫さんと矢口弘さんです」 「山本正は誰の指示を受けて命令しましたか」 「関東石油の職制からすれば、工務課長の林田さんだと思われますが、確認はしておりません」 この後関東石油から報国工業に対して、出されている注文書、工事仕様書工程表、請け負い基本契約書等について調書を取られた。
沢村は二時間に渡る長谷部刑事の取り調べを終えて解放された。 警察署を出たときどっと疲れが頭から首筋を通って体中に流れ渡ったように感じた。沢村は警察では関東石油の過失責任を問題にしているなという感触を得た。長谷部刑事の取り調べの態度から推すと、報国工業に対しては過失責任を問題にしていないようなのでほっとした。
沢村が帰社するのを待ちかねていたかのように、関東石油の総務部長から呼び出しの電話がかかってきた。沢村が関東石油の工場長室へ案内されると工場長を取り巻いて総務部長と工務部長が深刻な顔をして座っていた。
部屋の黒板には今まで善後策について協議していたらしく、当日の事故発生状況の図解と定修工事中の作業管理組織図が書かれていた。 「このたびは、大変ご迷惑をかけてしまいまして申し訳ございません」 「沢村さん。警察ではどのようなことを聞かれましたか」 挨拶もそこそこに総務部長が口を開いた。度のきつい眼鏡がキラリと光り眼鏡のガラスの渦巻きが沢村の目に映った。沢村は警察での供述についてかいつまんで説明した。 「沢村さん、うちの山本の作業着手許可があったから、松山に作業指示を与えたと答えたのですか。それは早まったことをしてくれましたね」
総務部長が工場長の顔をチラリと見てから沢村の方に向き直って言った。「はい。いけなかったでしょうか」 沢村はとぼけながら、それでも恐縮した風を装って応答した。 「もっと慎重に考えて下さればよかったのに。よく調べてからお返事しますとか何とか答えておいて我々に相談してくれればよかったのに」 非難がましい口調で総務部長が言った。度のきつい眼鏡の奥にある目の表情は判らなかった。 「はあ、申し訳ありません。何しろ警察から取り調べられるのは生まれて初めてだったものですから。ありのままを話してきました。御迷惑をかけることになったのでしょうか」 「君、あんたの配下の業者が死亡事故を起こしたんだよ。関東石油の業者ならそれぐらい頭を廻してもよさそうなものを」
工務部長が苦虫を噛み潰したような顔で甲高い声を上げた。 「沢村君は頭が廻るからな」 それまで黙っていた工場長がぽつりと言った。 沢村は案の定、きたなと思った。 工場長、総務部長、工務部長の魂胆は見え透いている。今回の事故については、関東石油では全然関知するところではない。業者の報国工業が、元請けの責任において、独断で作業指示を発したということにしたかったのである。関東石油の過失を取り繕って全責任を報国工業に転嫁し、下請け業者の責任においてこの事故を処理しようと考えていたのは明白である。
「沢村君は頭が廻るからな」という工場長の言葉はそのことう裏付けるような発言であると沢村は理解した。沢村は工場長の言をかりれば頭の廻る男であった。報国工業の切れ者として同業者からも恐れられ、客先からは信頼される反面、警戒されてもいた。だが、巧みな話術とこまめに体を動かし仕事のためには、昼夜構わず動き廻る行動力は客先から重宝がられていた。
沢村は事故発生とともに、報国工業にダメージの少ない処理方法について頭をめぐらせた。一種の動物的な勘が働いた。一番最初に心配したのは、松山の遺体をどうするかということよりも、報国工業の監督が独断でタンクの中へ入るように松山に指示したのではないかということであった。常々部下達には関東石油の係員の許可がなければ、ボルト一本でも緩めるなと言い渡してあるので、まさかとは思ったが、一番気にかかるところであった。
事故の第一報を沢村が耳にしたとき、沢村が第一にしたことは、腹心の尾崎に命じて作業指示の流れを具体的に調べさせたことである。次に東都プラントの謀略でないかというのも気になるところであった。 松山の葬儀に関東石油として花環をだすべきか出さざるべきかについて総務部長と工務部長でもめているらしいという情報をキャッチしたとき沢村は覚悟した。関東石油が責任を転嫁してきたときには断固としてこれを拒否しなければならない。しかも後に尾をひかない巧妙な方法で。たとえ、沢村自身の立場が苦しくなろうとも、責任を転嫁されることだけは報国工業の経営者として免れなければならないと思った。もし客先大事とばかり、そのような言い分を受け入れたときに待ち構えているのは、そのような重大事故を起こした業者は出入り禁止にすべきであるという声が出てくるのは火を見るより明らかであった。
それが組織の論理であり、大企業に勤めるサラリーマンの保身の論理なのである。言い含める時には、必ず面倒をみるからここは泣いてくれないかと言っておきながら、承知させてしまうと手の掌をかえしたように冷たくなるのである。沢村は下請け業者の弱さと大企業の冷酷非情さというものを長年の経験を通して肌で感じ取っていた。
関東石油の幹部から因果を含められようと厭味を言われようと拒否すべきものは拒否しなければならない。 今回のケースでは沢村にとって、また報国工業にとってラッキーだったのは、関東石油から手が廻る前に、沢村が警察の取り調べを受け事実関係を証言したことである。 沢村はただひたすらバッタのようにお辞儀をして、仏頂面をした総務部長、工務部長、苦虫を噛み潰したような顔をしている工場長に別れを告げて帰宅した。
『あなたがたは管理者だと言って威張っているが所詮はサラリーマンだ。保身の術だけ考えて小田原評定している間にこちらは生活の智慧で先手をとらせて貰いましたよ』と沢村は言葉にならない言葉を胸の中で繰り返しながら頭を下げていた。彼は葬儀を報国工業の責任において実施しようと決定した社長の見通しのよい決断に人知れず感謝した。それはオーナーだからこそできる意思決定であった。
関東石油内部で、今回の事故の事後処理について議論百出している間に、犬山組の画策を封じて素早く野辺の送りを済ませてしまった手際の良さが面倒な問題の発生するのを防止した。 葬儀の後犬山組から関東石油へ数回、嫌がらせの電話があったり暴力団らしいやくざ者が徒党を組んで関東石油へ金をゆすりに来たが報国工業に対しては何もなかった。 事故発生から二週間ほど経って今回の事故について関東石油の係員山本正が業務上過失致死の容疑で起訴されたことを沢村は知った。このニュースを聞いてから間もなく山本が退職するという噂が流れた。
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翌日の新聞には『遺体の引き取り手のない葬式・・・ここにも大企業の犠牲』という見出しで松山一朗の事故と葬儀の模様が報道された。 記事は関東石油会社の安全管理体制にメスを入れるという論調で一貫しており、大企業の発展はこうした下請け企業の作業員の犠牲の上に成り立っているという論旨であった。日本新聞に記事が載った日、報国工業の沢村に警察から呼び出しがあった。 国道沿いに建っている古ぼけた鶴見警察署の長谷部刑事を沢村が訪ねていくと刑事は椅子を勧めた。隣りの机ではパジャマを着て手錠をかけられた背の高い男が中年の刑事に尋問されていた。話の様子では空き巣狙いが捕まって取り調べを受けているようである。
「報国工業の沢村でございます」 沢村が名刺を出すと長谷部刑事も机の引き出しを開けて、名刺を取り出した。 「長谷部です。ほう、重役さんですか。まあかけて下さい」 「失礼します」 沢村が腰を下ろすと刑事は世間話もないままに用件に入った。 「早速ですが、先日の松山一朗の事故死について、お聞きしたいので来て貰いました。先ず、報国工業は関東石油会社とどういう間柄の会社ですか」 「私どもは関東石油さんより,仕事を戴いて工事する配管工事の会社です。「関東石油さんの下請け工事業者です」 「報国工業に関東石油の資本は入っていますか」 「入っておりません」 「被害者の松山一朗はあなたの会社の従業員ですか」 「いいえ」 「それでは、松山一朗が従事していた仕事があなたの会社とどういう関係にあるのか説明して下さい」 「事故の発生した工事はベンゾール製造装置定修工事です。私どもは関東石油会社さんより定修工事として五つのプロックに分けて注文を戴いておりますが、ベンゾールの定修工事はその中の一つです。今回のベンゾール製造装置の定修工事は私どもが元請け会社となって山中工業に発注しました。山中工業は仕上げや機器の据え付けには定評のある会社です。私どもでは請け負い契約ですからそこから先どのような経路を辿って松山一朗のところまで流れていったかは判らないわけです」 「山中工業とお宅の会社との間には請け負い契約が結ばれているということですね。その契約書を見せて下さい」
「そうです。契約書はこれです」 沢村は予め用意してきたベンゾール製造装置定修工事についての注文書と請け書の写しを鞄の中から取り出して長谷部刑事に渡した。この注文書も事故発生後、関東石油で慌てて作成し報国工業へ届けられたものであった。 「山中工業が更にその仕事を次の業者へ発注したかどうかについては知っていますか」 「はい、正直申し上げて、今回の事故が発生するまで知りませんでした。請け負い契約の本旨から言って私どもでは山中工業さんがどのような施工方法でやられようと仕様通りの工事を納期までに完了して納めて戴ければよいからです。勿論元請け会社ですから山中工業さんの作業についての監督は私どもでやりますが、山中工業さんが自分のところの社員の手を使ってやろうと或いは下請け作業員の手を使ってやろうとそれに対しては口を挟むことはありません」 「それでは山中工業の発注先は判らないということですか」 「今回の事故が発生してから、仕事の流れを私なりに調べてみました。それで初めて判ったのですが、山中工業さんは更に仕事を二つの工区に分割して松野組と葦原機工に発注しております。海野組は極東工業を通して犬山組を使っていたことが判りました。松山一朗は犬山組の臨時工でした」 「すると関東石油、報国工業、山中工業、葦原機工、海野組、極東工業、犬山組という六段階があるということですね」 「はあ、そういうことです」 「随分多くの手を通ったものですね。私も孫受け、曾孫受けというところまでは知っていたが、六次下請けというのは初めてだね」 「どうも申し訳ありません」 「何もあなたが謝る必要はないんですよ。沢村さん。事実を正直に話して貰えればいいんですから」
長谷部刑事はハイライトの箱から一本取り出して、口にくわえながら言った。沢村は慌ててポケットの中からライターをまさぐりだして火をつけてやった。 彼は中小企業の経営者として役人を怒らせたら、どんなに怖いかということを肌身にしみて知っているので、感情を害さないように言葉を選択しながら応答した。 「工事の発注形態については判りました。ところで、作業指示の流れといいますか、末端の作業員が仕事をするまでの流れを説明して下さい」 「客先から工事仕様書というものを頂ますので私どもでは仕様書に基づいて作業を進めます。私どもが下請け業者を使う場合にも工事仕様書を与えて仕様書に基づいた仕事をさせます。勿論仕様書の他に施工図、詳細図面、材料表、工程表といったものもありますので、これらの資料を基にして作業を進めます」 「それでは松山一朗が当日タンクの中に入って作業をするということも仕様書の中に書かれているわけですか」 「そんな細かなことまでは書かれていません」 「私が聞きたいのは一般論ではなくて、当日の松山一朗の作業は誰の指示によってなされたかという具体的なことです」 「松山一朗にタンクへ入ってフランジを止めてあるボルトを外せという指示は元請けである私どもの監督がすることになります」 「関東石油の係員は全然関与しないのですか」
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9
沢村は報国工業の工事部長として、今回の関東石油横浜工場の定修工事については全責任を委ねられている。松山一朗の死亡事故が発生したからといって今回の定修工事を一日でも遅らせることは出来ない。納期は厳守しなければならない。
沢村は関東石油の定修工事を担当している主だった部下を集めて、安全作業に充分留意するよう訓示をするとともに、松山一朗の事故の処理は沢村が引き受けることを表明した。現場に対しては今回の事故で作業員の士気が低下しないよう空気を入れ、工事は納期内に完工するように特に指示した。
沢村が知り得た情報を持って関東石油に報告に行くと工場長室に工務部長製造部長、総務部長が集まってきた。ここで一番問題となったのは松山一朗の身元が判らないことである。
犬山組に残されている記録にはドヤ街にある簡易旅館福寿荘が現住所になっており、年齢26才氏名松山一朗ということだけが書かれているに過ぎない。同僚の梅林も出身地は大阪方面らしいというだけで、個人的な付き合いは全くなく、一週間程前に犬山組へ連れてこられた松山と一緒に仕事をすることになっただけであるから、何もわからないという。梅林が松山の出身地は大阪方面だとする根拠は、関西弁が会話の中に混じっていたというだけのことである。関東石油の幹部は身元のはっきりしない者が報国工業の指揮下に入って、作業していたことを取り上げて、報国工業と沢村の責任を追求した。沢村はただ平謝りに謝る他に術がなかった。
警察でも松山の身元が判らないことに対しては異常な関心を示した。 調査に来ていた刑事が 「この仏は大きな山を踏んでいるかもしれんな」と洩らしたのを沢村は耳にした。 警察では府中市の三億円強奪事件が未解決なので松山の死亡を三億円事件の犯人と関係ないだろうかという観点からチェックしているようであった。
松山一朗の遺体は身元が確認されないままで、横浜市立大学の付属病院へ移送された。司法解剖するためである。身元の調査は鶴見警察で行うことになった。
身元の確認ができないままに、遺体を何時までも放っておくわけにもいかず、報国工業の手で葬式を営むことになった。司法解剖が終わったら報国工業が責任をもって遺体を預かり、法定限度一杯預かってそれでも且つ身元が判明せず、遺族が現れない時は、火葬にすることで当座の遺体の処理については結論が出された。
元請け会社である報国工業の指揮下で発生した事故なので、遺体の引き取り手がない以上元請け会社の責任において葬儀を営むことが色々な意味で問題が少ないだろうと沢村が判断し、社長の決断を得た結果である。本来であれば犬山組と雇用契約のある松山の公務上での事故死であるから、犬山組の責任において、遺体の処理が行われる性質のものであるが、犬山組には葬儀を営むだけの資力もないし暴力団に繋がりのありそうな気配が察知されたので、関東石油に迷惑がかかることを虞れたからである。いずれ遺族が現れるとしても遺骨を遺族の手に確実に渡すためには、報国工業で供養し保管するのが最善の方法と判断された。
鶴見警察では松山の身元を確認するため、松山の宿泊先である福寿荘へ係員を派遣し経営者に松山についての情報をただしてみたが、一週間程前の4月30日に投宿し、松山一朗26才と称していたということしか判らなかった。松山の宿泊していた部屋に松山の持ち物として残されていた物はスーツケース一つに詰め込まれていた背広一着と下着類5枚、セーター1枚だけであり、あとは洗面器に投げ込まれていたタオル、歯ぶらし、石鹸、安全剃刀があるだけであった。持ち物の中には身元を知る手掛かりとなるものは何一つなかった。背広にも名前の縫い取りはしてなかった。
ただ手掛かりになるかもしれないと思われるものは、スーツケースに入っていた一冊の手帳である。この手帳は神戸銀行製のものであり、手帳の中には前から五ページほどにわたって達筆で最近流行の歌謡曲の歌詞が五曲書き抜かれていた。そして手帳の裏表紙に印刷されているカレンダーには1月17日、5月26日、7月3日、7月22日の日付に○印が付けられていた。
松山は几帳面な性格らしく、スーツケースにはいっていた下着類は綺麗に洗濯してきちんと畳んで入れられていた。布団も丁寧に畳んであり、灰皿の中には吸殻も残っていなかった。
鶴見警察では松山から採取した指紋を警視庁へ送り、犯罪者台帳の指紋と照合することを依頼した。同時に兵庫県警と大阪府警へも指紋を送ると共に松山一朗名で登録されている前科者台帳と戸籍の調査を依頼した。 沢村は鶴見警察へとりありずの挨拶に行ったときに以上のような手を警察が打っていることを聞き出してきた。 松山一朗の遺体は葬儀屋の手によって翌5月8日に常泉寺へ帰ってきた。形ばかりの通夜が遺族の参列しないまま、報国工業が施主となって寂しくとりおこなわれ、明けて5月9日午後3時より告別式と定められた。
司法解剖の結果は、外傷はなく酸素欠乏による窒息死というのが司法医の所見であった。 告別式の時間が迫ってきたが、警察の必死の調査にもかかわらず松山一朗の身元は依然として確認されない。告別式に先立ち葬儀屋が警察へ埋葬許可を貰いにいったが松山一朗の身元が確認されていないのでなかなか許可が下りず沢村はじめ関係者を慌てさせた。 常泉寺では住職が松山一朗の祭壇に向かってお経を上げはじめた。 山本正にはお経の声が一際もの悲しく聞こえた。 広いお堂には30名ばかり、喪服を着た弔問客が神妙な顔をして座っている。その中には関東石油の幹部の顔もあった。
境内にも34〜5人の参会者が整列して写真の飾ってない祭壇に向かって次々に焼香を始めた。一般の葬式と違って女と子供の姿が見えず男ばかりが集まってきている。境内には花環が10本程飾られているが、報国工業、葦原機工、海野組、極東工業の会社名がみえるだけで、あとはそれぞれの会社の従業員一同という名で飾られている。関東石油と犬山組の花環が出ていないのは奇異な感じを参会者に与えた。とりわけ沢村と山本は関東石油の花環がないのを複雑な気持ちで眺めた。 「やっと埋葬許可が貰えました。三時の出棺にはどうにか間に合いました」 警察へ交渉に行っていた葬儀屋が鼻の頭の汗を拭きながら帰ってきた。 関東工業、報国工業、葦原機工からはそれぞれ20名くらいずつ、この松山一朗の葬儀に参列したが、海野組、極東工業からは代表者が焼香にきただけであった。 犬山組からは松山と一緒に仕事をしていた梅林が音頭をとったらしく、作業服姿の職人が2〜3人梅林とともに参列していた。参列者の注目をひいたのは両足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子に座って威勢のいい若者達に取り巻かれている50年配の小柄な男である。この男が犬山組の親方犬山勇次である。犬山は読経も終わりに近づき出棺があと10分後に迫った頃、ドヤドヤとやってきてサッサッと引き上げて行った。 その時沢村は受け付け係として弔問客の名刺やら香典の整理をしていた。トラックが常泉寺の境内に乗り入れられたとみるとドヤドヤと作業服姿の若い男達が荷台からとびおりた。 屈強な若者達は車椅子を荷台から取り出すとトラックの横に置き、助手席側の扉を開けた。そこには小柄な男が座っており、若者達に抱き抱えられて車椅子に移された。その男は若者達に守られるようにして受け付けまでくるとやおら懐から香典袋を取り出して机の上に置いた。見ると三千円の札がむきだしで添えられていた。 「ご苦労さまです。どうかご署名を」 沢村がサインペンを差し出すと、犬山はジロリと沢村へ一瞥を送り金釘流の署名をした。 沢村は犬山組が今後どのような動きをするか気になった。犬山勇次は若者達を従えて、車椅子のまま仏前で焼香を済ませると不遜な態度で帰って行った。それは疾風の如く現れ、疾風の如く去っていった。
参会者があっけにとられ、静寂のあとにざわめきが起こったとき、今度は二人連れの若い男がカメラをぶち下げて受け付けへつかつかと歩み寄った。名刺には日本新聞社社会部桑山由雄と印刷されている。 「鶴見署で聞いてきたのですが、引き取り手の無い仏の葬式というのはここですか。一寸取材したいので、葬式の責任者に会わせてくれませんか」と言う。 沢村はまずいことになったなと思った。 日本新聞社は大手の新聞社であり、その社会面の記事は派手に取り扱うことで定評があったからである。関東石油では一ヵ月前にも構内の常駐清掃業者がタンク内の清掃作業中に死亡事故を起こしていたから、関東石油の安全管理体制にメスを入れた記事にされることは十二分に予想された。しかも今回の事故では引き取り手が判らないという俗受けのする記事としては恰好の材料なのである。
沢村としては関東石油の生産第一主義の管理体制に対しては常々改善方を申し入れていたし、今回の松山一朗の事故に関しても、関東石油の作業指示の仕方に過失があると考えていたので、そのこと自体を記事にされることは今後の安全管理体制の改善にとっては結構なことである。 しかし関東石油の管理体制に問題があるとはいえ、今回の事故が報国工業の配下の業者のもとで起こったものであるだけに、困った問題なのである。あまり派手に扱われると報国工業の商売にからんでくるからである。 おそらく関東石油では自社の管理体制に問題のあったことには頬かぶりして報国工業に今回の事故の責任を転嫁してくることは目に見えていた。
沢村が工場長室へ松山一朗の事故が発生した直後、謝りに行ったときにも関東石油の幹部の言動には、そのことを予想させるに充分な兆候がみられたし、今日の葬儀に関東石油から花環が贈られていないという事実が彼の予想を裏付けている。 今回の事故の責任が関東工業にあるということになれば、構内常駐業者の指定を取り消されることさえ予想される。
報国工業に替わって構内常駐業者の指定を受けようと虎視眈々として狙っている同業者は沢山ある。特に東都プラントの動きには注意しなければならなかった。今回の事故は大騒ぎにならずに秘かに処理して貰いたいというのが沢村の偽らざる心境である。 「私が責任者の沢村ですが」 「事故の原因は何だと考えますか」 「まだ調査が終わっていないのでよく判りません」 「関東石油では4月の3日にも同じような事故を起こしていますね。同じような事故が続いているのは、関東石油の安全管理体制に何か根本的な欠陥がありそうに思えますが、あなたはどう考えられますか」 案の定、沢村が予想していた質問を発してきた。 「私共は関東石油さんから御仕事を戴いている立場ですから、関東石油さんの安全管理体制に欠陥があるのかないのか軽々しく意見を申し上げることは差し控えたいと思います。一般論でよければ,私なりの見解は持っております」 「大企業の横暴というやつですか。まぁいいでしょう。その一般論を聞かせて下さい」 「私どもは工事会社ですから、関東石油さんに限らず、他の会社からも仕事を戴いて施工をしますが、安全対策にかける予算が少ないように思います。お客さんの立場に立てば施工上の安全対策費は事故さえ起こらなければ少ない方がいいに決まっています。安全対策費は付加価値を産みだす投資とはいえませんからね」 沢村は煙草を取り出して火をつけながら続けた。 「例えば、私どもでも架台の上にパイプを乗せて配管する場合は非常に多いのですが、高所作業なので足場が必要になります。安全確保の観点から言えば手すりをつけて足場の下には安全ネットを張れば万全でしょう。その上作業員には安全ベルトをつけさせます。ところが工事が終われば、足場は取り払ってしまうのですから、投資効率は非常に悪くなるわけです。できることなら最小限の費用で済ませたいと思うのは人情です」 「足場が不完全だったことが今回の事故の原因だということですか」 「最初にお断りしたように、一般論を言っているのです。次に私どもの業界にはまだ同業者組合がありませんし、新規参入者が多いため、激しい受注競争が行われます。適正な価格で競争するのならいいのですが、中には極端な安い値段を出して業界の価格体系をぶち壊してしまう業者があります。同業者組合がないのでそれを規制することができないのです。仕事を確保するためには対抗上、値を下げざるを得ない場合があります。業者がお互いに足を引っ張りあって自分の首を締めているのが現状です。このように、安値受注競争が行われれば採算をあげていくためには、安全対策費のようなものは最初に槍玉にあげられます」
沢村は煙草の吸殻を灰皿へ捨てて湯飲みに残っている冷えたお茶をすすった。 「人手不足のために、技能工が不足し素人が現場へきて一人前の顔をして作業しているのも、安全上は大きな問題を抱えています。このことは客先の会社についても言えることだと思います。会社の規模がどんどん大きくなり、設備も最新鋭のものにどんどん変わっていきますが、技術者や技能者の質、量ともにこれに追いついていくことができない。それでも採算をあげていくためには、未経験の技術者でも新鋭の設備に配置せざるをえない。特に定修工事のような場合、経験不足の技術者が工事を担当すると無知なるが故の危険な作業指示を業者に与える。これを受ける業者の作業員も未熟連工が多いので危険な作業指示に対しても疑問を抱かず指示された通りの作業をして事故を起こす」 頷きながら沢村の話を聞いていた桑山由雄が更に鋭い質問を浴びせかけてくる。 「関東石油の工事発注額に占める安全対策費は何パーセントぐらいだと思いますか」 「私どもでは判りません」
沢村のところへ新聞記者が取材にきているということを聞きつけたとみえて関東石油の総務課長が血相を変えて本堂から飛んできた。 「今、取り込み中で出棺も間近だから取材は遠慮して貰いたい。沢村さんも駄目じゃぁないか、勝ってに取材に応じたりしては」 関東石油の総務課長は顔半分をひくひくさせながら桑山と沢村に食ってかかった。 「あなたが、関東石油の広報担当者ですか。よいところへ来られた。関東石油では今回の事故に対してどのような責任をとろうと考えていますか。聞けば遺体の引き取り手がないというではありませんか」 桑山は少しも怯む様子をみせない。 「とにかく、今は取り込み中だから帰ってもらえませんか。ノーコメントです」 暫く総務課長と桑山の間で帰れ帰らぬという押し問答が繰り返されたが霊柩車が到着して出棺の時刻となったので、桑山は取材を断念したのか、意外に素直に引き上げて行った。 このようにして前代未聞の葬儀は終わった。 野辺の送りに火葬場まで同行した沢村は梅林にお骨を拾わせて、常泉寺に持ち帰り遺族の現れるまで供養して貰うよう住職に依頼した。慌ただしい一日は終わった。
8
沢村がこの事故のことを聞いて出先から現場へ駆けつけたときには、松山の遺体は医務室に移され顔には白布がかけられていた。松山という名前は沢村も初めて耳にする名前であった。松山の遺族の住所が判らないので、関東石油の担当者と警察官は沢村が駆けつけるのを待っていた。
それまでの調べでは松山について詳しく知っている者は皆無で同僚の梅林が、松山は一週間程前に犬山組へ臨時の作業員として雇われたらしいということを知っているだけであった。本籍、生年月日、現住所、家族などについて何一つ判っているものはなかった。本人が雇われている犬山組の親方は不在で連絡のとりようがないという。
今回の定修工事の元請け会社である報国工業の責任者沢村勝なら知っていることがあるかもしれないということで、沢村の到着が待たれていたのである。 沢村の周辺は俄に慌ただしくなってきた。 沢村が松山一朗の雇用系統を辿ってみると驚いたことに、六次下請けの作業員であることが判明した。 沢村の勤務する報国工業は石油精製装置の配管工事に関しては日本でもこの業界では名の通った創業30年になる老舗である。報国工業は職人上がりの創業者社長の実直な人柄と信用で関東石油から横浜工場の常駐業者に指定され、ここ15年来関東石油会社横浜工場の構内配管補修工事は一手に引き受けるまでになっていた。
今回の関東石油横浜工場の定修工事は報国工業が元請けとなり、五月一日から装置を止めて、五月末日までに操業を再開できるよう、装置の不良箇所の補修、装置の改造等を完了させなければならないのである。しかも、工期は通常よりも短く、ゴールデンウイークを返上して工事を行い、少しでも装置の止まっている期間を短くしたいという施主の強い要請があった。
昭和46年の5月といえば、ニクソンショック、オイルショック以前の時期であり、日本の高度成長は最盛期である。佐藤内閣の指導のもとに、日本の産業界はめざましい躍進をしていた。生活環境、生活様式も激しく変化していた。
産業界はスケールメリットを狙って設備投資を大胆に行い、人手不足の経済と言われ、各産業界とも人手の確保には苦労していた。報国工業でもご他聞に漏れず、人集めには難儀していた。 工事会社の特質として固有の常用労働者は工事監督と見習いだけであり、配管工、電気溶接工は一つの工事毎に職人グループの親方に話をつけて集められる仕組みになっている。 この業界では配管工、電気溶接工ともに、4〜5人乃至10人前後のグループが親方と呼ばれるボスの配下にあって工事毎に請け負い契約を結び、工事完了までその工事現場で就労するのである。工事の規模が大きくなると直接職人を集めることは煩瑣になるので、同業者で自分と同等乃至は少し規模の小さい会社へ工事を分割して発注し、これを受けた会社が職人を集めて仕事を進めていくわけである。 このような仕組みの中では、資金力と信用と技術力と監督力さえあれば、相当大きな工事でもこなしていける。
報国工業が今回受注した関東石油横浜工場の定修工事は、毎年手掛けてきているので、報国工業にとっては別段難しい仕事ではなかったが、人手の確保の面と受注単価の面でかなり厳しいやりくりを余儀なくされていた。出入りの業者を傘下に相当数抱えていたので、分野分野に応じて、配管、電気溶接、機器据え付け、土木、塗装、保温、運搬というふうにそれぞれの専門業者に発注してあとはこれらの業者を組織化し、報国工業の監督のもとに工程に合わせて仕事を進めればよいのである。
だが、問題は出入り業者に職人を集める力が弱くなってきていることであった。時世というものである。人手不足の時代で、腕のよい職人は引っ張りだこであり、彼らは10円でも20円でも賃率の良い仕事へ好んで移動して行く。雇主の迷惑など一顧だにしない。昨日まで来ていた職人が今日は顔をみせないので、親方が自宅を訪ねてみると、別の業者の所で働いているというようなことは珍しくない。
定修工事のように短期間で多数の人間を集めて、一気に片づけてしまわなければならないような工事では、職人の手間代を世間相場の五割増しから倍近くもはずまないと必要な職人の頭数を揃えることができない。腕の良い職人と腕の悪い職人とでは、仕事の能率が極端な場合、二倍も三倍も違ってくる。 報国工業では世間相場よりもかなり高い水準で、業者に発注し、質の良い職人が集められるよう特に配慮していた。沢村が松山一朗の雇用経路を辿ってみると、報国工業が熱交換機のチューブ取り替え工事等機器関係の仕事を一括発注した山中工業は更にその仕事を分割して松野組と葦原機工に発注していた。葦原機工は更に海野組に発注し、海野組は極東工業を通じて犬山組に発注していたのである。松山一朗が就労するまでには、実に六段階の経路を経ていたわけである。しかも、請け負い契約書が整備されていたのは、葦原機工までで、海野組、極東工業、犬山組の段階になると契約書はおろか、作業員の名簿や賃金台帳すら整備されていないピンハネ会社であった。調査の過程で一寸気になったのは、犬山組が東都プラント専門に人夫出しをしているブローカーであるということである。
沢村の懸命な調査で松山一朗の手に渡っていた賃金は、報国工業が山中工業に対して発注したときの基準単価の三分の一程度になっていることが判った。人手不足の時代に短期間に500人近い労働者を集めるためには、いかに老舗で名が通っているとはいえ、報国工業一社だけで、直傭の作業員を動員することは不可能である。そこで請け負いという形式によって必要な人員を集めることになる。
報国工業は工事部長の沢村が統括責任者となって、今回の定修工事を五つの工区に区分して、金山工務店、京浜工業、山中工業、宮守土建、横山管工にそれぞれの専門に応じた発注をしたのである。従って報国工業としては、直接工事を発注した五社の工事責任者に作業指示をすればいくつかの経路を経て末端の作業員に指示が流れる仕組みになっているのである。
通常、金山工務店、京浜工業、山中工務店、宮守土建、横山管工程度の規模の会社であれば、直傭の配管工、溶接工、仕上げ工、鳶工、土木工を30〜40人は抱えており、出入りの親方も14〜15人はいるので、500人程度の作業員を集めるには5〜6社に発注すれば動員可能であった。ところが、今回松山の事故があって判明したように各業者とも人手が十分確保できなかったため、次から次へと下請け契約を重ねて六次下請けにまで及ぶ異常な形になっていた。間へ業者が入るごとに末端の作業員に渡る手間代はピンハネされて安くなっていく。電話一本と机一つだけの人寄せブローカーが雨後の竹の子の如く発生し暗躍することになり、作業員の技能の程度は度外視され、頭数だけが揃えられる。
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7. 常泉寺は国鉄鶴見駅から山手へバス通りに沿って徒歩で7分程のところにある。寺の裏手にはスーパーマーケットの白い四階建ての建物が木立の間に見え隠れしている。
「まだ、埋葬許可は下りないのかね。沢村君」 「今、葬儀屋を鶴見警察へ交渉に生かせているのですが、本籍地照会の調査結果の連絡がまだ入らないそうなので、もう少し待って欲しいということです」 「たとえ、身元が判らなくても、仏様を何時までもこのままにしておくことは出来ないだろう。遺族が現れたときにはお気の毒だが、お骨で引き取って頂くことにしようではないか」と喪服に身を包んだ大柄な50歳前後の男が部下の沢村に結論を下すように言った。鼻の下に蓄えたちょび髭がこの男の言葉に重みを加えた。
社長に言われるまでもなく、沢村勝は先刻からやきもきしながら葬儀屋が帰ってくるのを待っていたのである。 寺の本堂には既に白木を組み合わせた祭壇ができあがり、拾い境内には受け付け用のテントも二張り張られている。気のはやい弔問客はぼつぼつ集まりかけている。弔問客と言っても会社関係の客ばかりで、故人の身内の者とか、親しい友人等は一人もいない。一風変わった葬式になりそうである。故人の写真が祭壇に飾られていないのも故人の死が異様のものであったことを物語っている。
故人の俗名は松山一朗といい、推定年齢は26歳であるが、偽名の可能性が強い。 松山一朗が京浜工業地帯の一角にある関東石油横浜工場の構内で石油精製装置の定修工事に従事していて事故死したのは五月七日のことであった。
松山一朗は当日犬山組の作業員として、ベンゾール製造装置の小型タンク内の配管を取り替えるため、マンホールから中へ入り込み作業中倒れたのである。 労災事故の発生とともに関東石油では所轄の鶴見警察署と鶴見労働基準監督署へ通報し、検死の結果事故死と断定されたが、死因については司法解剖の結果により判断されることになり、遺体は直ちに横浜市立大学の付属病院へ移送された。
事故に最初気づいたのは、松山と一緒に作業していた梅林である。 その日は朝からベンゾール製造装置の修理が予定されており、3日前から装置内のベンゾールは抜き取られていた。抜き取った後,残留ガスを追い出すため、窒素ガスを圧入し完全にベンゾールの残留ガスがなくなった頃を見計らってバルブとマンホールが開放されるのが通常のやり方である。マンホールからタンク内に入る前には空気を吹き込んで窒素ガスも追い出してしまうことになっている。酸素欠乏による事故が起きるのを防ぐためである。 松山と梅林は二人で組を組んでベンゾール製造装置の小型タンクに潜り込みタンク内のボルトを外し部品を交換する作業に従事するよう指示されていた。
石油精製工場内での作業は危険物を取り扱っているので、安全対策上色々な制約がある。作業員の動きは独自の判断が許されず必ず石油会社の担当係員の指示に基づいて工事監督が発する作業指示を受けてから行動するよう義務づけられている。最も注意を要するのは火気使用である。施工上ガス切断、電気溶接は不可欠の作業じあるため、ガス、電気を使うときには細心の注意が要請される。有毒ガスの発生、酸素欠乏状態の作業環境、高所での作業等危険な場所は至るところにある。その日松山と梅林はタンクの中へ入るに先立ち、ガス検知と酸素欠乏状態の有無の検査をして貰って、作業指示オーケーの指示を受けたので、先ず松山がタンクの中へ入った。
タンク内中は人一人がやっと潜り込める程の広さであり、無理な姿勢で作業をするのであまり長い時間入っていることはできない。松山が中へ入って暫くの間、タンクの中からは、スパナでボルトの頭でも叩いているらしくカーン、カーンという金属音が聞こえていた。
梅林はタンクの外で装置についているバルブを取り外す作業に精を出していた。五月の日差しは肉体労働をすると体に汗をにじませた。梅林は時々ヘルメットの顎紐を緩めてヘルメットをあみだにし、汗をぬぐい取った。ボルトが腐って錆びついているので、ボルトの頭にスパナをはめてハンマーで叩くのだが、作業は意外に手間取った。漸くボルトを一本抜いたところで時計を見ると松山がタンクへ入って既に30分は経過している。 「おーい、松山時間だよ。出てこい」とマンホールから中を覗き込んで声をかけたが何の反応もない。 明るい戸外で作業していたのでタンクの中を覗いても、暗くて中が見えない。 「おい、松山どうした。早く出てこい」 大声で梅林が怒鳴ると声がワーンワーンと聞こえるが松山の返事は返ってこない。暫く耳を澄ましてみたが、人の動く気配もない。漸く暗さに目が慣れて上の方を見上げると松山の足が二本垂れ下がっているが動かない。胸騒ぎを覚えた梅林は 「誰か来てくれ。松山の様子がおかしい」 と助けを求めた。 梅林の声に近くで作業していた作業員が4〜5人駆け寄って来た。どの作業員も汗と油にまみれ、黒く汚く汚れていた。たまたま、パトロール中の関東石油の安全担当者大浦英夫も、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。大浦はガス検知の担当者だったからもしかすると自分の手落ちで有毒ガスが残っているのに気づかずオーケーの報告をしたのではないかと内心ビクビクしていた。ガス中毒による事故でないことを願っていた。 「どうした」 と大浦が声をかけた。 「松山の様子がおかしい。いくら呼んでも返事をしないのだ」 と答えておいて梅林は同僚を救い出そうとマンホールからタンクの中へ潜り込んだ。 「危ないぞ。ガス検をして貰え」 と言って引き止めようと足を引っ張る者もいたが、梅林は意に介さなかった。狭いタンク内は梅林が入るともう他の者は入れない。梅林が小腰を屈めて上を見ると、松山はタンクの中を通っている4インチほどのパイプの上に腰を下ろして頭を前へ垂れ、うつむんたままの姿で動かないでいる。目の前に垂らしている二本の足に手をかけるとぶらぶらしている。中は狭くて松山のいる場所まで登っていくことができない。梅林は急いでタンクの外へ出て 「どうも様子が変だ。死んでいるかもしれない」 と変事を告げたが自分でも声がうわずっているのが判った。 「早く助けろ。外へ引きずり出すんだ。何をボヤボヤしている」 と急を聞いて駆けつけてきた工務課の山本正が顔色を変えて怒鳴った。
山本は梅林と入れ代わりに中へもぐり込むと松山の両足を引っ張って引きずり降ろし、両足をマンホールから外へのぞかせた。外で待機していた作業員達が松山をタンクの外へ引きずりだしてみるとぐったりして死んだように動かない。このような突発的な変事が発生したときには、大勢人は集まってきてガヤガヤ騒ぐが、てきぱきと状況を判断して適切な措置を取れる人は少ない。 「救急車に電話したか」 「早く医者を呼べ」 「医務室の医者はまだ来ないのか」 「酸素ボンベを持ってこい」 と口々に騒いでいる。思い出したように、あたふたと駆けだして行く者もある。皆がてんでに自分の思いつきを実行に移すことになるので混乱を招くことになる。後で判ったことであるが、消防署へはこの事件についての出動要請が五人の人から別々にあったそうである。五人五様に状況を説明するので混乱は増すばかりである。ある者は死んだといい、或る者は死にそうだといい或る者は怪我をしたという。
酸素を吸入させるつもりか酸素ボンベを担いできた者もいる。何を慌てたのか窒素ボンベの空瓶を運んできた粗忽者もいる。 誰もがまず思いつくことは救急車を呼ぶことである。だが自分で手を下してこの場合もっとも有効な応急手当てをすることができない。人口呼吸をしてみようということに思いつくまでにかなりの時間を徒過していた。
山本はベンゾール製造装置の直接の担当者であった。関東石油では若手の工務課員としては人当たりもよく、仕事もよくできるという評判である。下請けの作業員にも仕事は厳しいが自分達の気持ちをよく理解してくれると人望があった。決断も速いが短気で怒りっぽいのが玉に疵だと言われている。 山本は自分の担当するベンゾール製造装置で起こった事故だけに責任を感じて必死で松山を助けたいと思った。 「救急車はまだ来ないのか」 と叫びながら心臓に耳を当ててみると鼓動音が微かに聞こえている。 「まだ生きている。早く医者を」 と山本 「早く上着を脱がせて人口呼吸をしてみろ」 と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声に山本は大事なことを忘れていたぞと臍を噛む思いで松山の作業衣をめくり上げ膝を折って人口呼吸を始めた。 人口呼吸法としては、口を相手の口へあてがい呼気を直接送りこんでやるのが一番効果的だということは、この事件の後山本が医師から得た知識である。 「医者は何している。まだ来ないのか」 「今日は金曜日だから、医務室には看護婦だけしかいない。今博善病院へ医者を迎えに行っているからもうすぐ来るだろう」
ピーポー、ピーポと間の抜けたサイレンを鳴らしながら救急車が到着するのと博善病院から医者が到着するのと殆ど同時であった。 その医者は白衣に身を纏い手慣れた手つきで作業を進めた。松山の右手の脈をとり首をかしげている。心臓に聴診器をあてていたが、やがて目蓋を指先で器用にめくり懐中電灯の光を当てて瞳孔を調べている。 いつしか駆けつけた工務部長、製造部長の顔も群衆の中に認められた。
皆が固唾を飲んで見守る中で駄目だという風に首を振った。医者の一挙手一投足は言葉よりも雄弁である。松山の心臓は完全に止まってしまったようである。 藁にでも縋りたい気持ちで医者の動作を見守っていた山本はがっかりしてその場へ崩れ落ちそうになる気持ちを辛うじて耐えた。心配していたことが遂に起こったというのが実感であった。 救急車は死体を病院へ運ぶこともできず空のままで帰って行った。虚しさだけが残された。 遺体は担架で医務室へ移され、警察の手によって検死を受けることになった。
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6 プラント建設業界には石油精製会社や化成品製造会社等のユーザーを中心にその周辺に専属の下請け企業集団が形成されており、それぞれに他の業者の手出しを許さないテリトリーを持っている。 業界ではこのことを「筋」と呼んでいた。
関東石油についていえば、配管に関する構内常駐指定業者は報国工業であり、関東石油から発注される配管工事は大小を問わず、報国工業へ直接流れるのである。新たに装置を建設する場合には、大手のエンジニアリング会社、建設会社に発注され、報国工業は関東石油から推薦されて、これら大手会社の下請けとして工事に従事するのを常とした。この発注形態を「紐つき」という。
このように関東石油から発注される配管工事は、発注経路の如何を問わず報国工業に最終的に流れることも「筋」という。このような「筋」は各石油精製会社、各化成品製造会社毎に出来上がっており、この筋は業者同志相互に了解されている。判りやすくいえば、縄張りでありテリトリーである。 この筋にも二通りの筋がある。 第一の筋はメーカー(石油精製会社、化成品製造会社等)から構内常駐業者に指定され、メーカーから直接仕事を貰う所謂元請け形態の筋である。 第二の筋は大手の建設会社、エンジニアリング会社との密接な取引関係にある場合の筋である。
通常報国工業程度の規模の会社では、大きなプラントの建設工事を直接受注してこなしていくだけの能力がないので、このような場合には、施工専門会社として大手建設会社の下請けとなり、工事の一部を分担施工する。この場合には大手の建設会社の傘下の一員として建設工事に参加するので、たとえ施工場所が同業者の常駐している会社であっても「念達」をしておけば、問題になることはない。この念達は同業者に挨拶することであり、この度、客先の○○会社の下請けとしてお宅の常駐会社の構内で仕事をする事になったが、これは今回限りのことであって、決してお宅の縄張りを荒すつもりはないということである。 大手の建設会社、エンジニアリング会社はそれぞれに傘下に専門の施工会社を下請け業者としてかかえ、一つの企業グループを形成している。
報国工業クラスの施工専門の工事会社の場合、第一の筋と第二の筋を持っており、この筋を守って営業を行っているのである。この筋を間違えて、他業者の領域へ口出し手出しをすると,異端者として同業者からも嫌われ、客先会社からも嫌われ、信義のない会社として信用を落とすことになる。 河村忠夫の所属する東都プラントが関東石油に食指を動かし出したのは、大日本化工機が、関東石油の横浜工場に灯軽油の製造装置を建設したときである。
関東石油の横浜工場は報国工業のテリトリーであることは業界周知の事実であった。この時の建設工事は、工区が三つのブロックに区分され、日本鉄工、大日本化工機、興国建設の大手会社が元請けとして受注し、それぞれに傘下の下請け工事会社を率いて施工した。 報国工業は日本鉄工の下請けとしてこの工事に従事した。報国工業としてはこの時期、仕事が輻輳しており、能力的に日本鉄工からの受注をこなすだけで手一杯であり、大日本化工機や興国建設からの引き合いには応じきれなかった。
東都プラントは大日本化工機傘下の業者として乗り込んできたのである。工事完了とともに当然のことながら、各業者は引き上げた。東都プラントも引き上げたが、工事施工期間中に関東石油の工務担当者に近づき、構内常駐指定業者にして貰おうと積極的に運動した。担当者をゴルフに連れ出し、ゴルフの帰りには自ら経営するバー「姫」、キャバレー「パッション」へ繰り込み若い担当者の買収に力を注いだ。
定修工事は毎年一回行われる。報国工業にとって関東石油横浜工場のこの定修工事は年間の工事予定の中でも、もっとも大切な工事として扱われている。工事規模の大きさ、動員する作業員数、短期間の工事であること、危険な作業の伴うことなど、一時も油断の許されない工事である。周到な工事計画、余裕をもった作業編成、細心の注意が盛り込まれた安全対策、整然とした管理体制これらが有機的に補完しあって定修工事は施工される。
特に管理監督の立場にある者相互の密接な意思の疎通が最も大切なことである。客先とか業者とかの垣根を越えてコミュニケーションが円滑に行われることが定修工事の成否を決めると言っても過言ではない。
そこで、定修工事が開始されるに先立って、関東石油と報国工業の担当者は一堂に会して、打ち合わせ会を開催するのが常となっていた。酒食をともにしながらお互いにこれから定修工事という共通の目標に向かって進んでいくという意識を共有するための日本的な儀式である。この定修工事事前打ち合わせが終わりに近づくと三々五々気の合った者同志で二次会、三次会へと流れていく。
沢村も客先の若い担当者を十人程引き連れて部下の尾崎に先導させながらゆきつけのスナックバーへ乗り込んだ。カラオケの置いてあるところが人気があった。歌は決してうまい方ではなかったが、新曲をよく知っており求められればどんな曲でも一通りは歌えるということで、沢村は客先の若い人に好かれていた。 「あら、いらっしゃいませ。今日は大勢で」 「ママ、今日は大切なお客さまだからよろしく頼むよ」 席に着くと皆それぞれに好みの曲をリクエストしてマイクを握り自分の声に酔ってくる。 「サーさん、今日はどちらのお客さまですか」 『貴公子』のママが沢村の隣の席へ寄ってきて聞いた。 「関東石油さんだよ」 「関東石油と言えばつい先日東都プラントの河村さんが関東石油の製造の人と『姫』に来てたそうよ。 「名前は」 「栗原さんとか言ってたわ」 「製造の人と何を話したんだろう。商売とは関係なさそうだがね」 『姫』は東都プラントがよく使っているキャバレーである。ここ『貴公子』のママの友人が『姫』に勤めているので沢村は東都プラントの動きを知るためにママを通じて情報の提供を受けている。東都プラントの河村が接待するのだから何か画策しているのであろうか。関東石油製造課の栗原を接待する狙いが判らなかった。工事に対して発注権を持っているわけでもなく、工事の監督権限や検収権を持っているわけでもない。ちょっと理解に苦しむ河村の動きであった。
関東石油の工務担当者と東都プラントの担当者との間は急速に近づいたが構内には報国工業が専属の下請けとしてにらみを効かせており、つけいる隙がなかった。そこへ降って沸いたように発生したのが、松山一朗の労災事故であった。報国工業にとってこの事故は有形無形のダメージを与えることになった。 ことあるごとに関東石油からは、松山一朗の労災事故を例証に持ち出され発注単価を値切る種に使われた。また、東都プラントを競争相手として相見積もりをとると脅かされていた。報国工業では沢村が中心となって防戦に努め東都プラントが関東石油構内へ常駐業者として食い込んでくるのを辛うじて防いでいた。
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5. 富士山へ向かって白球が飛んで行った。 「ナイスショット。部長、素晴らしい当たりでしたね」 背丈の高いいかにもスポーツマンらしい沢村 勝が褒めた。 「部長、部長の球は真っ直ぐ飛んで行く、素直ないい球ですね。この調子だと優勝間違いなしですよ」 今度はずんぐりした体に猪首を乗せ、鋭い目つきの河村忠夫が負けてはならじと厚い唇の間に金歯を覗かせながらおだてた。 「なに、まだハーフ残っているから、下駄を履くまで判らんよ」 部長と呼ばれた初老の男は満更でもなさそうな顔で球の行方うを確かめてから赤いティーを拾った。 「それではオーナーに習ってひとつやりますか」 沢村 勝がブラックシャフトでドライバーショットをしたが、ボールが落下点でキックしてバンカーへ飛び込んだ。 「今日はついてないな。またバンカーへ入ってしまった」
沢村の口調には余裕が窺えた。部長の薬袋浩一とは17ホール終わったところで、一打の差があった。薬袋がアウトを46、インを8ホール終わったところで42というスコアで回ってきたのに対し、沢村のスコアはアウト47、インでは42叩いていた。最終ホールをパーかバーディーで纏めれば薬袋と同点又は一打勝つ勘定である。
沢村は薬袋に決して勝ってはならなかった。かといって河村には負けてはならなかった。河村のスコアはアウト47、イン43で競り合っていた。薬袋には一打差で負け、河村には二打か三打の差で勝ちたかった。もう一人のパートナーは50以上も叩いており計算にいれる必要はなかった。 富士山麓の大富士ゴルフクラブで催された「飛球会」ゴルフコンペには、大日本化工機株式会社傘下の下請け会社の営業マンがそれぞれに思惑を持って参加している。
「飛球会」を主催する工事部長薬袋浩一は飛球会に集う下請け工事会社に対して絶大な影響力を持っている。薬袋の機嫌を損ねたら、まず発注単価で苛められ仕事を廻して貰えなくなる恐れすらあった。
沢村はコンペの事前に画策して薬袋と同じ組に入ることに成功した。1.5ラウンド6〜7時間の間「飛球 会」の天皇薬袋と共に過ごすことは今後の営業活動に大きくプラスになることは間違いなかった。だが、油断できない同業の競争相手がやはり、薬袋の組に入ってきていた河村忠夫である。
沢村 勝は報国工業の工事担当者としては腕効きでゴルフにも相当の自信を持っていた。しかし、沢村は営業目的を考えて大日本化工機の工事部長薬袋浩一に気に入られることに専念するつもりであった。かと言ってあまり見え透いたこともできない。薬袋に一打差位でついていくことが最もうまい方法である。コンペである以上他社の手前もあり、良い成績をあげて一目おかさなければならない。
沢村がバンカーへ入ったボールを追ってくると河村が後ろへついてきている。サンドエッジう取り出してボールに近づき足場を確保してからスイングした。砂を浅くすくってうまいショットであった。 「ナイスアウト」 薬袋とキャディが声をかけた。そのとき河村のクレームがついた。 「沢村さん、いいショットだったけれど、アドレスのときクラブヘッドを砂につけていましたよ。ツウペナルティーではないですか。キャディーさんそうだろう」 「さあ、私はよく見ていませんでしたが、もしクラブヘッドが砂についていたらツウペナですね」 キャディーは河村の剣幕にあたりさわりのない返事をした。 「河村君、そんな固いことを言わなくてもいいじゃぁないか。私もよく注意していなかったからヘッドが砂にあたっていたかどうか判らないけど、素晴らしいショットだったことは間違いない」 薬袋が鷹揚に横から口をはさんだ。 「部長、でもルールはルールですから厳密にやらなければ、飛球会コンペの権威に係わります」 河村の強い口調に沢村は内心ムッとした。明らかにいいがかりをつけてきたのは目に見えている。昨日今日ゴルフを始めたばかりの素人ではないのだから、バンカーの中でアドレスするときにクラブヘッドを砂につけたりする筈がない。然し沢村はここで怒っては相手の策に乗ることになる。じっと我慢すべきだと考えた。 「それは,気がつきませんで大変失礼しました。今後はよく注意します。ツウペナで勘弁して下さい」 沢村は素直に謝ったが河村と視線があったとき火花が散った。 最終ホールでは薬袋はスリーオン、河村はツウオン、河村はバンカーでのペナルティーのためにファイブオンであった。 薬袋は最終ホールをボギーで纏めた。沢村はロングパットを決めてダブルボギーで終わった。
河村の順番がきた。河村はバーディを狙ってしきりに芝目を読んでいる。 午後二時を回ると山間のゴルフ場ではグリーンの上に人の影が細長く伸びている。 「沢村さん、駄目じゃぁないか、ライン上に影を作っては。飛球会のゴルフは田舎ゴルフとは違うんだよ」 河村のオクターブの高い声が飛んできた。また言いがかりである。 「申し訳ない」 沢村は逆らうべきではないと考え、更に後ろへ下がった。 河村のパットは狙いすぎてオーバーし、ホールから1mの距離を残した。 結局4パットで同じくダブルボギーにしてしまった。 「ラインに影を落とされて調子が狂ってしまった」 河村はキャディーにパターを渡しながら聞こえよがしにぶつぶつ言っている。 ワンラウンドの成績は薬袋93、沢村95、河村96であった。沢村は結果的には狙った通りの成績に終わったことに満足した。
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4. 武庫川の川沿いの閑静な所に、緑に囲まれて豪華なマンションが建っている。このマンションの日当たりの良い二階に岡元克彦は住んでいた。
「結構なお住まいですね。今日は、素晴らしいコレクションを拝見出来ると楽しみにして参りました」 名刺交換を終えると桑山は新聞記者らしいはきはきとした口調で切り出した。
「いや、これはどうも。最近東京から引っ越してきましてね。家財は東京へ残したままなので、何のおもてなしも出来ないと思いますが、ゆっくりしていって下さい。幸い書を集めるのが私の道楽でしてね。書だけは持ってきてありますから御覧にいれましょう。美代子、桑山さんにビールでも差し上げなさい」
岡元克彦は最近専務に昇格して、関西支社を統括するため大阪へ転任となったのである。一人娘の美代子が大蔵省へ勤務する原 良彦へ嫁いで間もなく発令された人事であったが、女婿の原も同じくして大阪国税局へ転勤となったので、山王商事で岡元克彦のために用意したこのマンションへ新婚の娘夫婦が同居することになったのである。岡元克彦は要職にあるため、夜は帰りが遅く、原夫婦は新婚生活を邪魔されることもなく、優雅な生活を送っていた。岡元は実の娘と同居できるので、何かと便利でマンションの生活を喜んでいた。
「はじめまして、原の家内でございます。主人からかねがねお噂は聞いておりました。何のおかまいもできませんが、どうぞごゆっくり」美代子はビールを盆に乗せてくると桑山由雄と門川佳子に挨拶をした。
岡元克彦は平沼騏一郎、犬養木堂、勝海舟、佐久間象山等の軸を出してきては、一つずつ来歴をいかにも楽しそうに説明してくれる。
佳子はいずれも名筆家ということで名前だけは聞いて知っていた大家の作品が次から次へと出てくるので、圧倒されてじっとそれらの作品に見入り、岡元の熱っぽい解説にじっと聞きいっていた。初めてみる作品ばかりであった。ふと気がつくと桑山も原夫妻も感心したような顔は装っているが、あまり興味はなさそうなので、もっとゆっくり見せて貰いたいと思ったが、他の人に悪いような気がしてきた。
「どうも貴重な作品を見せて戴きありがとうございました。良い目の保養ができました」とお礼を言った。 「若いのに書に興味を持たれるとは失礼だがなかなか殊勝な心掛けですね。自分でもお書きになるのですか」 と岡元克彦が聞いた。 「ええ、兄の影響で、真似事だけはしております」 「それはますます感心した。うちの美代子なんか、私がいくら勧めても、万年筆とタイプライターの時代に古臭い書なんか時代遅れだと言って馬鹿にしているんですよ」 「まあ、お父様たら。何も皆さんの前で、そんなことを仰らなくても・・」と美代子が抗議した。 「ヨッちゃん。今、お兄さんの影響でと言ったね。お兄さんがいたのかい。知らなかったなあ」
桑山が真剣なまなざしを佳子に向けた。佳子は桑山に見つめられて桑山の視線が眩しかった。桑山には兄の失踪のことは勿論、兄がいることも話していなかった。
兄の失踪のことを話したら桑山が自分の許を離れていきはしないかという虞があった。今なにげなく兄の影響で書道を始めたと洩らしてしまった。迂闊だったと後悔した。何れ判ることとは言え、何も初対面の岡元克彦の前で真相を語る必要もない。佳子はさりげなく言った。
「桑山さんにはお話していませんでしたが、私の兄は兵庫県で硝子会社に勤めているんですよ」と答えて俯いた。 「おいおい、桑山、新聞記者にしては呑気だな。恋人の家族関係もまだ判っていないのかい」と今度は原良彦がからかった。 「そんなんじゃぁないんだ。この人は私の行きつけの寿司屋さんの看板娘でね、書が好きだというので今日連れてきただけなんだ」と桑山が弁解した。 「そうむきにならなくてもいいよ。心臓の強いお前にしては、うぶな所があるんだね。佳子さん、こいつは案外純情な所があるんですよ」と原良彦が佳子の手前、少し桑山をからかいすぎたと思ったのか桑山をたてるような言い方をした。 「ほんとですわ。お似合いのカップルができあがりますわ。ねぇ、お父様」と原 美代子が同意を求めるように父の方を見た。 「あらっ。困りますわ。私」佳子は赤面した。現在の自分の立場が、同席の皆に誤解されていると思った。今まで、桑山のことを結婚の対象として意識したことはなかった。兄の久が失踪して寂しく思っていたところへ現れた桑山は、洋子にとって兄のような存在だった。今日も何気なく兄について展覧会にでもでかけるようなつもりでついてきたのである。ところが、岡元克彦はじめ、原夫妻も桑山と佳子を恋人同志のように理解して応対しているのである。佳子の体中にジーンと熱いものが流れた。それは今まで経験したことのない甘酸っぱい感情の波であった。そして、兄のことが話題に登らなければいいがと祈るような気持ちであった。
ところが一座の者には佳子の態度が乙女の恥じらいとして映り好感を与えた。 「桑山さんも良い人を選ばれた。書は人と為りを表すと言って書をたしなむ人に悪い人はいない。自分が書が好きだからいうわけではないが、書を書くときには無心になれる。邪心を捨てなければ素直な書は書けない。そういう意味で書を書く人に悪人はいない。特に若い女性が書を書くのはいいことだと思います。女性の綺麗な筆跡は見ていても実に気持ちがいい。桑山さんも門川さんからラブレターを貰うのが待ち遠しいことでしょうな。ハッハッハッ」 「そんな・・・・」 「私も美代子には書を習わせようとして、随分やかましく言ったが、この娘はテニスのほうが忙しくて、遂に書の良さを知らずに親元を離れて行ってしまった。良彦君、今からでも遅くはない。家庭に入ったら、テニスばかりしているわけにもいかないだろうから書を習うように勧めてやって下さい」 岡元克彦は若くて美しい同好の士ができたのが,よほど嬉しいとみえて能弁になった。
「そうですね。お義父さんの仰る通りですよ。書をたしなむ女性には奥床しさが感じられます。私の大学時代の寮での後輩に書のうまい男がいましてね、書道研究会に入って展覧会などにも頻繁に出品していましたよ。学部が違っていましたので、あまり親しい間柄ではありませんでしたが、何でも外交官を志望していましてね、語学が達者な男だったと記憶しています。風格のある男でしたよ。あの風格は書で養われたのかもしれませんね。美代子にもせいぜい家事の合間には手習いをさせるようにしますよ。勿論僕も暇をみて習うことにしたいと思います」 原良彦は岳父の手前調子のいいことを言っている。
佳子は原良彦がそう言った時、今彼が話題にとりあげた男というのは兄門川 久ではないかと思った。いや、門川 久に間違いないと思った。胸が高鳴った。兄は原と同年配で、東大の書道研究会に入部していたし、外交官を志望していた一時期があった。しかも学生寮に入寮していた。 だが、佳子はその人は自分の兄ではないかと思うということをどうしても口から出すことが出来なかった。そのことを口に出せば、兄の失踪のことをいきがかり上、説明しないわけにはいかない。兄の失踪のことを桑山に打ち明けるにしては、この場所と時はいかにも相応しくなかった。桑山を恋する女の気持ちが本能的に影の部分を隠させた。
男達は美代子の手料理に舌鼓を打ち、意気投合して杯を酌み交わしながら談笑していたが、佳子の耳にはその会話は意味のある言葉としては響かなかった。佳子は兄の安否と行方のことを案じながら桑山にどのようにして打ち明けるがを考えていた。
岡元克彦と原夫妻が名残惜しそうに引き止めるのを振り切って暇乞いをしマンションを出ると外は薄闇に覆われ、武庫川の堤防の上を行き交う自動車のヘッドライトが二人の影を写し出した。丁度通りかかったタクシーを拾って、西宮駅までと桑山が運転手に命じた。 「ヨッちゃん。何だか浮かない顔をしているね、どうしたの、気分でも悪いのかい」 「いいえ、一寸考え事をしていたのよ」 「何を考えているの」 「桑山さん、怒らないで聞いて頂けるかしら」 佳子が意を決したような口調になったので、桑山も身構えたような気持ちになり、佳子の顔を覗き込んだ。
桑山の頭には岡元家での会話のやりとりが瞬間的に脳裏を駆けめぐった。女の口から言わせてはならない言葉が、出てくるのではないかと不安になった。もし佳子の口から求愛の言葉が出てくるとすれば、このタクシーの中は場所としては相応しくない。運転手が聞き耳をたてている様子が手にとるように判る。やはり桑山の方から求愛したかった。 「ヨッちゃん、ちょっと待ってくれないか。西宮駅についてから音楽でも聞きに行こうよ」 運転手の咳払いが沈黙を破った。
「運転手さん、西宮駅前の音楽喫茶へやってくれないか」 「はい」と言って運転手はまた咳払いをした。 タクシーを乗り捨てると桑山は「白夜」という看板の出ている喫茶店へ入っていこうとした。 「桑山さん、歩きながら私の顔を見ないで聞いて欲しいの」 「待ってくれ、僕から言わせてくれないか」 「いいえ、私の方から言っておきたいことがあるの。桑山さんから嫌われると思うから今まで言いだせなかったの」 佳子の口調に桑山は自分が何か勘違いしていることに気がついた。 「どうしたんだい。さあ、黙って聞いているから言ってごらんなさい」 「さっき岡元さんのお宅で、私に兄があることが話題になったでしょう。そのことなの」
桑山は佳子の語調が乱れたので、何か事情がありそうだと気がついた。佳子の兄に何か人に言えないような事情があるのではないかと思った。見ると佳子の肩が小刻みに震えている。 桑山は色々なことを想定した。兄が前科者の場合、兄が身体障害者の場合兄が妾腹の子の場合、彼女はこれから何を言おうとしているのか。彼女がこれから打ち明けようとしている兄にまつわる秘密を聞いたとき、自分はそれを克服して愛を誓うだけの自信があるか。佳子に対する気持ちは本物の愛と言えるか。それが今試されようとしている。一瞬の間に桑山の胸中をこのような思いが電流のように交錯した。
「実は僕もそのことは初耳だったので、ヨッちゃんに是非聞いてみたいと思っていたところなんだ。お兄さんが兵庫で硝子会社に勤めておられるんだって」 「ええ、そうなの。三年前まではそうだったの」 「三年前までは・・・それでは今は」 「現在は行方不明で生死不明なのよ」 佳子は肩を震わせて泣きじゃくった。言葉に出してしまうと急に気が楽になって何でも話すことができるよしな気持ちになった。 「何だって。行方不明だって」 桑山は自分で想定していた場面よりも事態は単純なので内心ほっとした。「桑山さんには今までこのことを隠していて、申し訳なかったと思っています。兄が行方不明だと判ったら、桑山さんに嫌われると思って、なかなか言いだせなかったわ。でもいつかは打ち明けなければならない時がくるのは判っていたの。でもこんなに早くその時がくるとは思っていなかったわ」
佳子は泣くことによって心のわだかまりが浄化されたのか能弁になった。兄の生い立ちから始めて、兄が大学に進学するについて、父との間に生じた小さないさかい、兄が行方不明になった日の前後の経緯等を佳子は淡々と話した。 「それで、手掛かりは全然掴めないの。行方不明になった動機も推測できないのかね」 「私なりに色々考えてみたわ。でもどうしても判らないの。毎日兄の写真に陰膳を供えている母の姿を見るのが可哀相で堪らないわ。私はもう兄がこの世に生きていないような気がするの。私にはとっても優しくて頼りになる良い兄でしたのに」
佳子がまた涙ぐんだので、桑山はポケットからハンカチを取り出して涙をそっと拭いてやった。 「事情はよく判ったよ。僕も新聞記者だから、僕なりに調べてみよう。お兄さんはきっと健在だよ」 「さっき岡元さんのお宅で原さんが書道研究会に入部して外交官を志望している語学に堪能なお友達のことを話していらっしゃったでしょう。私はあのとききっと、その人が兄だろうと思ったわ。でも、初対面の方にお話すべきことではないので黙っていましたの。世の中って意外に狭いのね」
桑山は佳子の打ち明け話を聞いて、門川 久が生きていることを願った。 今でも佳子に好意を寄せながらも求愛できずにいたのは、佳子が角寿司の一人娘だと信じ込んでいたからである。一人娘でなく兄がいるとなれば、事情は変わってくる。正々堂々と両親に対しても佳子を嫁に欲しいと申し込むことができる。
桑山は三人兄弟の長男で姉は嫁いでいるが、下の妹は高校を卒業して九州で勤めている。両親は健在で父は九州の市役所を定年退職した後、運輸会社に再就職して事務を執っている。祖父から受け継いだ小さな家作に住んでいるが、老後を悠々自適の生活を送る程の資産や蓄えがあるわけではなく、何れは桑山が両親を呼び寄せて、老後の世話をしなければならない立場にあった。
桑山はこの立場をよく自覚していたので佳子に好意を寄せながらも煮え切らない態度をとっていたのである。角寿司の久枝から佳子にいい人があったらお婿さんを世話して下さいと謎をかけられたときも、態度をあいまいにして誤魔化してきたのである。
新聞記者という職業は自ら望んで選んだ仕事である。そして仕事に生き甲斐を感じていた。いくら佳子に好意を寄せていても、佳子が角寿司の一人娘であれば、嫁にくれとは言いだせなかった。そして望まれても、新聞記者を廃業して角寿司へ入り婿になることは最初からできない相談であった。そこに桑山のジレンマがあった。だが、今佳子から打ち明けられて、兄がいることが判った。たとえ行方不明であっても死んでしまったという証拠はない。佳子の兄を捜し出せば胸を張って、佳子に求愛することができる。桑山は一条の光を暗闇の中に発見した思いであった。
桑山は門川 久に生きていて欲しいと願った。いや生きていて貰わなければ困るのである。いまでは佳子に寄せる愛情が、丁度雪達磨がどんどん大きくなるように、次第次第に大きくなり、加速度がついて自分の手では制御できない程になっていた。それと比例して佳子の兄は自分の手で捜し出してやるぞという執念のようなものが自分の体内に膨らんでいくのを感じていた。
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3. 今日も朝からしとしと雨が降り、空はどんよりと曇っている。門川佳子は硯で墨を擦りながら床の間に飾ってある条幅に目を投じた。 杜甫の詩『春望』が草書で流れるような線によって書かれている。落款には門川孤舟と記されている。この軸は孤舟と号した兄が東大在学中、ある新聞社の書道展で特選をとった記念の軸である。 兄、久が失踪してから何年になるのだろうか。久の失踪が判ったのは、東大を卒業して昭和40年に極東硝子へ就職し、3年ほど経ったときの、丁度今日のようにしとしと雨の降っている日だったと思う。兄の会社の人事課から電話がかかってきたのである。 「もしもし、こちら極東硝子の人事課でございます。門川 久さんのお宅でしょうか」 「はい。門川でございます。いつも兄がお世話になっております」 「久君はおられますか」 「いえ、兄は会社へ出勤している筈ですが」 「えっ。久君は休暇をとってお宅へ帰っておられる筈でしたが・・・どちらかへおでかけでしょうか」 「何ですって。兄は最近こちらへは帰ってきておりませんが。何か」 「おかしいなあ。仕事に疲れたから両親の許へ7日ほど休養に帰ってくると言われて、10日ほど前に帰郷した筈ですが・・・7日過ぎてもなんの連絡もないのでどうしているかと思って電話したのですが、そうですか。そちらへは顔を見せませんでしたか」 それから大騒ぎとなった。兄は正月に帰ってきて以来,今日まで帰郷していなかったのだ。 佳子も両親も元気に会社勤めをしていると思っていたのに、突然、会社からおかしな電話がかかってきたのである。 父が急いで兄の任地へ飛び、極東硝子を訪問した。上司や同僚に会っていろいろ聞いてみたが、仕事に疲れたので暫く両親のもとで静養してくると言って、7日間の休暇届けを出して帰郷したということしか判らなかった。久の住んでいる高砂市の独身寮に行って荷物を調べても衣服類はきちんと選択して押し入れの中に仕舞ってあり、書類も本棚に綺麗に並べられている。 部屋の中では書き置きらしきものも発見されなかった。同室の同僚に尋ねてみてもスーツケース一つをぶら下げて実家へ7日ほど帰ってくるよと言い残して出掛けたのでてっきり帰郷しているものと思っていたということである。 直接の上司である労務係長の話では、最近急激に工場が膨脹し、充員、定着対策、複利厚生施設の建設、労働組合対策、集団転勤の受け入れ等と難しい問題を抱え、毎日遅くまで仕事をし、疲れていたのは事実である。しかしそのことが、原因で失踪してしまうということはあり得ないということであった。 門川家でも心当たりへは全て連絡し、会社でも久が立ち寄りそうな所へは残らず連絡をとったが、消息は不明であった。 警察へ捜索願を出したが、久の行方は杳として判らなかった。失踪の動機も判らず、久からは会社へも実家へも何の音沙汰もないまま、いつしか3年が過ぎていた。佳子は兄が失踪したときはまだ、短大へ入学したばかりであった。優しかった兄が動機の判らないまま行方不明になったことにショックを受けた。 父や母の嘆きもまた大きかった。あの事件以来、父や母はひどく老い込んだように見える。母は毎朝、背広姿の兄の写真に陰膳を供えることを欠かさない。めっきり白髪の増した母が口の中でぶつぶつお経のようなものを唱えながら、陰膳を供えている姿は痛々しくて、佳子は見るに忍びない思いをしている。 佳子の実家は父、作造が包丁一本で築き上げた寿司屋である。働き者の父は九州の片田舎から単身大阪へでてきてあちこちの料理屋へ勤め、腕を磨いた。難波で修業しているとき、大きな寿司屋で女中勤めをしていた母を見初めて世帯を持ったと聞いている。生来働き者の父と母はせっせき働いて小金を蓄え、繁華街で店を持つことが人生の目標だったそうである。 出征中は父は内地勤務で通信兵として葉山の通信学校へ勤務したらしい。母は兄と生まれて間のない佳子を九州の父の実家へ連れて行き漁師の手伝いをしながら二人の兄妹を育てたということである。 戦後復員すると、父は大阪と九州を担ぎ屋として往復し、水団やら蒸かし芋を売って元手を作り、大阪の現在の土地を購入しバラック建ての一膳飯屋からスタートして、今の店に作り上げたのである。今では板前10人を置く寿司屋を本業としながら、レストラン、喫茶店、ビジネスホテルの経営やらで相当の所得を得ている。 佳子は父や母には言えないが、ひょっとすると兄の失踪の原因は両親の家業にあったのではないだろうかと内心秘かに思っている。そう思わせる出来事が過去に幾つかあったのである。 両親に似て頭の良かった久は、中学、高校とも首席で通し語学には特に才能のあるところを示した。父が家業を継がせようとするのを嫌って、東大へ進学し家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業したのである。大学に進学するについては、寿司屋の伜に学問は不要だとする父と、寿司屋のような水商売は嫌いだという兄が口論し、担任の先生のとりなしに折れた父が、自分の力で進学し、就学するなら認めようという事件があった。 また語学に堪能で政治に興味を持っていた兄が大学へ進学してからは、外交官になるのだと言って、一生懸命勉強していた一時期があった。ある晩コンパでひどく酔って帰り, 「うちが水商売では、毛並み第一の外交官にはなれないよ」とコップに水を持っていった佳子にポツリと寂しそうに言ったことがあった。 最近では正月に帰省したとき、母が沢山用意した見合い写真を見せると写真を一瞥しただけで、 「寿司屋風情には良家の子女は寄りつかないよ」と言って母に写真をつき返した。これを傍らで聞いていた父が激昂し、 「その言いぐさは何だ。寿司屋風情とはなんだ。親の職業を愚弄するような言い方は許せん。寿司屋だって立派な生業だ。人様に迷惑をかけるわけじゃあなし。もう一度言ってみろ・・・これだから、なまじ端学問をした奴は始末に終えん」 「済みません。私の言い過ぎでした」 流石に気が咎めたのか兄が素直に謝ったのでその場は納まったが、父と母は兄の言葉を非常に気にしているようであった。 その晩、兄と二人だけになったとき、佳子に述懐した兄の言葉はいまだ鮮明に頭に焼き付けられている。 「佳子。親父やお袋が気を悪くするから内緒の話だが、良家の子女との縁談が会社で幾つかあったけれど、一つも実らなかったよ。見合いになるまでに話が立ち消えになってしまうのさ。よく調べてみると、どうも実家が水商売をやっているということが判ると先方で敬遠してしまうらしいのだ。佳子もよく知っているように、俺は実力主義,人物主義ということで、今まで通してきたが、こと縁談となるとそうもいかないところがあるもんなんだ。ケネディ家でも大統領を出すのに三代かかっているようなものさ。俺は今でも恋愛結婚よりも見合い結婚の方が合理的だという持論なんだけど、これは一般論にしか過ぎず、俺の場合には当てはまらないようだ」 誇り高くて気が強く、自分の思ったことは大体押し通してきており、挫折ということを知らない兄の言葉としては弱気だなと思いながら聞いたのであった。 しかし、見栄坊な所のあった兄にしてみれば案外、結婚問題に関連して実家の家業が、普通の人が考える以上に、大きな悩みであったのかもしれないと、強いて兄の失踪の動機づけを考えてみるのであった。 「佳子、何をしているの。下へ降りていらっしゃい。桑山さんが遊びに見えていますよ」 階下から呼ぶ母の声に佳子は我にかえった。今度の展覧会に出品するため条幅を10枚ほど書いたところであった。 「はーい。只今」 佳子が急いで片づけて階下へ降りて行くと、新聞記者の桑山が、応接室のソファーに腰を下ろして美味そうにお茶を飲んでいる。 「やぁ、ヨッちゃん。頑張っているそうだな」 桑山はにこにこしながら右手を上げた。 「珍しいこともあるんですね。桑山さんが、明るいうちにいらっしゃるなんて」 「何を寝惚けているんだい。ヨッちゃんに素晴らしいプレゼントを持ってきてあげたんだよ」 「まあ、嬉しい。どこにあるの」 佳子が桑山の身の回りを見渡してもそれらしいものはない。 「そんなにキョロキョロしても、ここにはないよ。さあ、出掛ける支度をはじめた。始めた」 「何処へ行くんですの」 「それは内緒。行ってみてのお楽しみ」 「まぁ。桑山さんたら、人をじらしておいて。教えて下さいな」 「ヨッちゃんが怒るの図か。悪くないな。ハッハッハッ・・」 「佳子、桑山さんがね、三王商事の岡元常務さんのお宅へ連れて行って下さるそうよ」 と母親が側から口をはさんだ。 「あの岡元克彦ですか。書の蒐集家の?」 「そうだよ。前々から一度自慢の書を見せて欲しいと頼んでおいたのだが、とても忙しい人でね。なかなか時間を割いて貰えなかったんだが、今朝急に電話があって、午後3時に見せてやると言うんだ」 「まあ、嬉しい。流石新聞記者は顔が効くのね」 「まあね」 「桑山さん何でもっと早く知らせて下さらなかったの。3時とすればあと2時間しかないわ。美容院へも行けないじゃぁないの。新聞記者のくせに気が効かないわね」 「おいおい、ヨッちゃん、変な言いがかりはよして呉れよ。夜討ち朝駆けが新聞記者の本性だよ。東に事件があればすっ飛び、西に騒動があれば馳せ参じる」 「判ったわよ。また始まった。時間がないので支度をしてくるわ」 佳子は満面気色を帯びて浮き立つような足取りで二階へ駆け上がって行った。
桑山由雄が東京本社から大阪支社へ転勤になったのは一年ほど前である。 桑山は寿司が好きなので、夜食には寿司屋へ立ち寄ることが多い。あちこちの寿司屋を食べ歩いて見て、何故か角寿司へ足繁く通うようになった。 新聞記者という職業柄夜遅く食事をとりながら一杯飲むことが多い。桑山が角寿司へ通うようになったのは佳子のせいだと思っている。佳子が店にでることは滅多にないが、桑山が初めて角寿司に入った時、いつもは帳場に座っている佳子の母親が風邪で寝込んでいたため、佳子が臨時に帳場へ座っていたのである。その日桑山はうっかりして財布を忘れているのに気が付かず勘定の段になって慌てた。ポケットにあちこち手を突っ込んでいる桑山の姿を見てすかさず佳子が言った。 「お客さん勘定はこの次で結構ですよ」 「だって、君初めてこの店へ来たのだよ。そうだ。明日必ず届けるから、この時計を預かってくれないか」 「いえ、結構ですわ。お客さんは良い人ですから、明日きっとまたいらっしゃるわ」 こんなやりとりがあって桑山は角寿司の常連になったのである。 「桑山さん、あの娘も年頃ですからどなたかいい人をお世話して下さいよ」 佳子が二階へ支度に行っている間、母親はお茶を勧めながら謎をかけた。「私でよかったら、いつでもどうぞ。でもヨッちゃんには新聞記者の女房は勤まらないでしょう。それに、この店だってあることだし。まあ心がけておきましょう」
桑山は本気とも冗談ともとれるような言い方をした。門川久枝は夫の作造とも相談して、息子の失踪のことは店の者達にも禁句にしていた。桑山は佳子を角寿司の一人娘だと思っているような言い方をしている。久枝は桑山と佳子の間がかなり接近してきているので、いつ兄久の失踪のことを桑山に切り出すか悩んでいた。
「どうもお待たせしました。桑山さんたら、急なお話なんですもの。私あわてちゃったわ。もっと前もって知らせて下さればもっとお洒落ができましたのに」 佳子が大急ぎで身繕いしたらしく、ハンドバッグの中を覗き込むようにしながら階段を降りてきた。 「白状すると、実は昨日大学時代の同窓会があってね。大蔵省へ勤めている友人が岡元克彦の娘と結婚していることが判ったのさ。それでよっちゃんのことを思い出して、親父に会わせろと頼んでみたわけさ。すると奴も気の早い男だから早速話をつけて今朝電話をかけてよこしたという次第なのだよ。ハッハッハッ」 「それでは新聞記者の顔ということではなかったのね」 「そういうことになるね。でも、日本の名筆コレクションが拝めるんだからいいじゃあないか」 「ありがとう。素敵なプレゼントだわ。早く行きましょうよ」 佳子は桑山をせかせて出掛けて行った 二人の後ろ姿を見送りながら久枝は、失踪した久が桑山に姿を変えて帰宅し妹を連れてでかけたのではないかという錯覚に陥るのであった。桑山と佳子との周囲には、そのような肉親の間にだけ漂う親しい暖かな雰囲気があった。
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2. 門川 久はここ一ヵ月ほど散髪していないのに気がついた。何ものにも束縛されない気儘な一週間を過ごす前に、まずこざっぱりした気持ちにならなければならないと思った。タクシーを駅前で乗り捨てると「いらっしゃいませ」という元気な声に迎えられ、理容院の客となった。
駅前の理容院にしては、お客もたてこんでおらず、三つほど空いていた椅子の一つに座ると目を閉じた。これから何をしようという当てがあるわけでもなかったが、自分で自由にできる時間が七日間もあると思うと気持ちが豊かになった。散髪をしてもらいながら一週間をどうやって過ごそうかと考えていた。両親の許へ帰ってのんびり過ごすのもよかろう。或いは行きあたりばったりに行く先を定めずに足の赴くまま、気の向くままの旅に出るのも悪くないなと考え巡らせていた。
と、突然隣で外人の声が聞こえた。 「ウオッシュアンドカット、プリーズ」 何げなく声のする方を向くと空いた椅子を前にして髭もじゃの背の高い赤毛の若い外人が、手真似で理容師に散髪方法の注文をつけている。相手をしている理容師はこれも手真似で一生懸命応答しているが、どうも意思が通じないらしく首をかしげて困った顔をしている。
久が横から英語で外人に問いかけてやるとその外人は喜びを顔面に表し、頭髪を鋏で刈って頭を洗って貰いたいと思っているのだが、そのことをこの人に説明してくれという。髭は剃らなくてよいと伝えてくれと言っている。久がその旨通訳してやると、今まで困った顔をしていた理容師は大きくうなづいて俄に元気づいた。 「シャンプーネ、ヘヤーカットネ、オーケーネ」
その理容師は自分も片言の英語なら喋れるぞということを誇示するように知っている単語を並べ立てた。 「サンキュー」と外人は人なつっこそうな笑顔を久の方へ向けて、両手を大きく開き肩をすぼめて見せた。
「お客さん、随分英語が達者なんですね。商社へお勤めですか」と久の顔を剃っていた理容師が話かけてきた。 「いや、大したことはないよ。学生の頃、外交官を志したことがあってね、多少英会話の勉強をしたことがあるだけさ」 「それにしても大したものですよ。私なんかチンプンカンプンで、何を言っているのかさっぱり判りませんでしたよ。お蔭で助かりました。あれだけ英語が喋れれば一人で外国へ行っても不自由しないでしょうね」 「それが残念ながら、外国へは台湾にしか行ったことがないんでね。でも英語なんてものは、心臓で喋るようなものだと思うよ。外人をみかけると誰彼となく話しかけてみると結構通じるものだよ。ジェスチュアーを交えながら単語を並べるだけで意思は通じると思うよ」
「そうなんですってね。私の友人で鉄工関係の仕事をしている人が横浜にいるんですがね、東南アジアへ工場の建設のために、若い職人を連れてよく出張しているんですよ。その友人が外国語は心臓で喋るものだということを言っていましたよ。何でもその友人は中学を出るとすぐ鍛冶屋の職人になって日本国内のあちらこちらの工場建設をやって歩いたらしいんですが、外国へ行ってみたいと思っていたそうです。ある日、タイで工場建設の仕事があるから行ってみないかと仲間から誘われたので二つ返事で行くことにしたそうです。まだ外国へ行くのは珍しい時代だったので、親兄弟は英語も喋れないのに外国へ行くのはやめろと反対したそうです。ところが、その友人は手真似足真似でも意思は通じる筈だと頑張り通して、タイへ二年も行って来たそうです。確かに最初は不便を感じたそうですが、心臓強く体当たりでやっているうちに英語とタイ語が喋れるようになったということですよ。今ではそのことが箔になって、まだ30歳そこそこだというのに職人を30人も使って請け負い工事をやっているそうです。請け負い工事というのは儲かるそうですね。その友人は最近、いい所に土地を買って立派な家を建てたらしいですよ。車なんかでも凄い外車に乗っていますよ」 理容師は話好きらしく、我がことのように得々と喋っている。
「へぇー、建設関係の仕事というのはそんなに儲かるのかねぇ。私なんか一生働いたって、自分の家なんか建てられないかもしれない」 「今は建設関係はいいらしいですね。その友人の話だと電気熔接工とか配管工、鳶工などの職人は一日の日当が五千円もするんだそうです。私なんかももう少し若ければ、理容師なんか止めて熔接でも覚えて商売替えしたいですよ」 「へぇー、技能工の賃金は高騰したとは聞いていたけれど一日五千円もとるのかねぇー」 久は頭の中で自分の給料を日当に換算してみるとその半分にも満たない。 「だから、最近ではメーカーの工員なんかで会社勤めを辞めて職人になる人が増えてきたんですってね」 「なるほどねぇ、そんなに日当が高いのなら、流れ作業なんかに従事しているより、余程面白いから、若い人達は転職するだろうね」 「また職人の世界というのが面白いんですね。腕のいい職人はあっちの親方こっちの親方というふうに渡り歩いて腕を磨いていくんですね。そして独り立ちすると若い衆の何人かを使って請け負い工事をやって儲けるんだそうです。その友人なんか、外国へ行ってきて英語も喋れるというんで、あちこちの大手のプラントメーカーから引っ張りだこだそうですよ。確か又近いうちにイランへ行くとか言っていましたよ」 「ふうん、建設労働者の世界を研究してみる必要があるなあ」 「すると、お客さんは人事関係のお方ですか」 「そうなんだよ。硝子会社の人事をやっているんだけど、人が集まらなくて困っているよ。最近では手と足さえついていれば、どんな人間でも採用したいくらいの気持ちだよ」
久は散髪をして貰いながら、理容師の話を聞いているうちに職業意識が頭をもたげてきて、建設労働者の労働市場のことを調べてみなければならないなと思った。何にも束縛されないで気儘な一週間を過ごしてみたいと考えていたのに、何時の間にか自分の仕事と結びつけて話を聞いていた。 「お客さんの会社なら日本でも超一流の会社だから希望者はいくらでもいるでしょう」 「ところが、そうでないから苦労しているんだよ。何か人がうまく集められる方法はないものかねぇ」 「そうですね。今はどこも人手不足で困っていますからね。でもこれも又、その友人の話ですがね、石油会社や化学会社では年に一回は、定期修理工事というのをやるんだそうですが、どこで集めてくるのか、短期間に随分多くの人足を集めるそうですよ。何でも一ヵ月の間に、工場の装置を止めてしまって、点検修理する大変な仕事だそうですが、一ヵ月の間に、500人近い人間を集めるそうですよ」 「そんな芸当みたいな事が現実の問題としてできるのかなあ。夢みたいな話だよ」
久は自分がこれから採用しなければならない人間の数を思い出しながら言った。 「どんな方法で集めるのかはよく知りませんが、その友人のの話だと結構集めているらしいんですよ。いよいよ、集まらない時には、簡易宿泊所の近くの風来坊を連れてくることもあるそうですね」 その理容師の話に久は目を開かれる思いであった。建設業と製造業とでは業種業態に相違があるとしても僅か一ヵ月の間に500人からの人間を集めるという話は驚異であった。話半分に聞いたとしても、建設関係の業者の動員力は研究してみる価値があると思った。職人という言葉がしきりに使われているので、職人の労働市場も調べておく必要があると思った。
どうせ気儘な一週間を送る予定で貰った休暇なので、建設業の職人の世界へ飛び込んで、一ヵ月で500人集める仕組みを、調べてみようと思いついた。それには,自分で作業員になりすまして、建設現場へ入り込むことが一番手っとり早い方法だろう。
久は簡易宿泊所へ投宿して様子を窺うことにした。久は横浜にやってくると寿町の簡易宿泊街で福寿荘という看板を出している宿に旅装を解いた。立ち並んでいる簡易宿泊所の中でも小奇麗な感じがしたので福寿荘を選んだ。かねて港湾労働者や建設労働者は簡易宿泊所に起居しているものが多いということを聞いていたので、とにかく泊まってみようと思い立ったのである。 宿帳に松山一朗と記入して宿の主人に何か良い仕事があったら世話して欲しいと頼んでおいた。宿の主人は久の身なりを見ながら、意味ありげに頷いて久の頼みを聞いて部屋から出て行った。久のことを何かいわくのある人間だというふうに感じたらしい。やがて宿の主人は、屈強な体格で目つきの鋭い一人の男を連れてきて言った。
「松山さん、この人が犬山組の番頭さんで菊池というお方です。今関東石油の定期修理工事で人を探しておられるそうだ。よく話を聞いてご覧なさい」 久は一週間だけ仕事をしたいと言うと、菊池はそれでは明日、マイクロバスで迎えにくるから、作業服に着替えて、朝7時に宿の前へ出て待っていろと指示して帰っていった。日当は毎日仕事が終わって帰る時に千五百円を払ってやるということであった。 久には求人がこんなに簡単な手続きでてきることは驚きであった。
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無縁仏の来歴 1. 播磨平野の風物詩は塩田である。イオン交換膜を利用した製塩工場で塩が造られるようになってからは、あの広大な塩田にも所々住宅や工場が立ち並び始めていた。それでも未だ姫路近郊にある極東硝子高砂工場のだだ広い敷地の隣には、川を隔てて流下式塩田が涯てし無く拡がり、長閑な景色を作りだしていた。
塩田ののどかさとは対照的に、ここ極東硝子高砂工場の構内はショベルカーが蟷螂のようにショベルを持ち上げ、ダンプカーが慌ただしく出入りしている。整地の終わった一角には、クレーン車が鉄骨や機器を吊り上げており、ヘルメットをかぶった作業員達がせわしなく立ち働いている。クレーン車の隣には建て方の終わったスレート葺きの硝子工場の建物が威容を誇っている。
新鋭の硝子工場の建設現場から1・ほど手前の一角には古ぼけた耐火煉瓦工場がほこりにまみれて新工場を羨むかのようにみすぼらしく立ち並んでいる。
「今日は応募者は一人もありませんでした。明日は10時から梅田の阪神デパートの選考場へ行ってきます。あまりあてにしないで下さい」と部下の白石がハンカチで額の汗をぬぐいながら報告した。夏だというのに、煉瓦工場の粉塵が舞い込むので窓を開けることが出来ない。扇風機は徒に生暖かい澱んだ空気を掻き混ぜているだけである。
門川 久の執務している事務所は、事務所というにはあまりにもみじめな建物で木造の倉庫を改造した、台風が来る度に屋根が飛ばされやしないかと心配になるほどの代物である。
「そうか、今月はまだ10人しか採用出来なかったわけだね。九州の方は確率がいいようだね。矢吹君からは、昨日博多で3人応募者があったという連絡があったよ。こうなったら手と足さえ付いていればよしとしなければならないね」 門川 久は自嘲するように言った。
門川 久は大学を卒業すると極東硝子へ入社した。最初の任地は横浜の硝子工場であった。労務課に配属になり、一年半ほど労務管理の基本的な業務を実地に体験した。その後、定期人事異動で本社に転勤となり二年間人事企画の仕事に従事した。彼が本社で人事企画の仕事に従事している頃、日本は高度成長の波に乗っており、彼の会社も設備投資を積極的に行い、耐火煉瓦の単一工場であった高砂工場の構内の空閑地にカラーテレビのブラウン管用硝子バルブの製造工場を建設することになった。
カラーテレビは造れば造る程売れ、ブラウン管用バルブの増産を電気メーカーから求められ、シェアーの拡大を図って、次々に新鋭の設備を作る競争をしているかの如き観を呈していた。工場が稼働する一年前に門川 久はこの地へ転勤を命ぜられ、着任と同時に新しい工場の充員のために、西へ東へと走り回った。とにかく一人でも多くの若い従業員を採用することが使命であった。人事管理の高邁な理論も理想もそこでは通用しなかった。
人、人、人、集めることこそが会社における正義であった。しかも、極東硝子の作業は三交代勤務であり、高熱環境下作業である。作業環境はすこぶる悪い。今日3人採用したと思ったら次の日には5人辞めていた。いくら採用しても人数は増えなかった。若い労働者は少しでも賃金の高い会社へ移動していく。就職支度金欲しさに応募してくるずるい者もいた。
組合は新工場の稼働を目前に控えて、人数が増えるどころか逆に少なくなる現状に対して、定員制を盾にして激しく会社の無策振りを攻撃してきた。
「現有設備の定員さえ、満足に確保できていないのに、新設工場の人手は確保出来るのか」 「定着対策をもっと充実させなければ、いくら人を採っても、辞めていく人間が多くて会社の充員活動は徒労に終わるのではないか」などと言うのである。
一方、新工場臨時建設部の担当者は、半年後の稼働を目前に控えて、新規労働者の訓練をしたいから早く人を入れてくれと催促してきている。
久は労務課の充員担当者として針の筵に座らされているような気持ちでこれらの言葉を毎日聞いていた。そのうえ、基幹要員を九州の工場から受け入れるための集団転勤の仕事も忙しさに拍車をかけた。受け入れ施設を整えるために鉄筋アパートも5棟建設中であり、建設業者との打ち合わせが毎日行われる。
地域の住民からは、日照権についての苦情もくる。やっと地域住民との応接を終わって、帰社すると会社を辞めたいから話を聞いてくれと言って、若い従業員が久の帰りを待っている。労務課の若手の係員はそれぞれに、九州,四国、山陰へと人の募集に散っているから、いきおい、久が一人一人と応対して、ダメと判りながらも説得しなければならない。欠員の補充さえ十分出来ない状況だから、無理な人員編成をして現場で怪我人が出る。怪我人が出れば、監督署へ届けたり家族との応対で余計な仕事が増えてくる。定着対策の一環として行っている若年層従業員のクラブ活動、懇親会という名目の宴会にも付き合わなければならないので、体が幾つあっても足りないと思えるのである。労務課員は課長、係長から係員の女子に至るまで過労気味であった。製造サイドは製造サイドで、新工場の建設と既存設備のフル操業のため忙しく立ち働いており,工場全体が一種の狂乱状態に陥っていた。
このような忙しい毎日の生活が続き、毎晩遅く疲れて独身寮に帰ってくると、久は自分は何のために働いているのかと自問してみるのであった。
新しい工場が稼働を開始すれば、今ほど雑用は多くはないであろうが、人の採用の仕事はもっと、増えてくるだろう。一体あと半年の間に新工場を動かせるだけの人員が確保できるであろうか。常に久の頭から離れることのない悩みであった。
新工場の編成人員は、500人でそのうち基幹要員として、九州から150人の集団転勤を受け入れることになっている。残りの350人のうち、150人は来年3月に高校を卒業してくる新入社員である。戦力として使えるまでには入社後、少なくとも半年はかかる。不足する200人は中途採用で充足しなければならないが、まだ、50人ほどしか採用できていない。あと150人集めることは不可能に近い。脱落する者を考えれば、300人は採用しなければ安心できない。6ケ月間に300人採用するとなれば、毎月50人宛である。ところが現実に、毎日採用面接を三箇所で行っているが、応募者の数自体が一日平均二人で、一ヵ月に採用できた人間は20人ほどである。とても無理な相談のように思われる。
久は何回か現在の労働情勢、雇用情勢についてレポートを書き、現在の生産計画、新工場の建設計画自体に充員の面で無理があるから計画の変更乃至は、世間相場を無視した大胆な労働条件の改訂、少なくとも賃金水準の全面的な改訂が必要である旨の報告を行った。しかし、新工場の計画通りの稼働は至上命令であり、労働条件の改訂は全社的な問題に波及するから出来ないというつれない回答を貰っただけであった。そして与えられた条件のもとで与えられた目的を達成するのは、社員の務めであり、腕の見せどころであるという冷たい補足がつけられていた。
久は、その年の自己申告用紙に再び現在の雇用情勢下では、現在の条件のままで、予定されている新設工場の予定通りの操業開始は雇用面で困難であるから、既設の工場から、集団転勤者の人数を増やすか、或いは操業開始時期を半年遅らせるか検討して欲しい旨を書いて提出した。
自己申告書は課長を経て本社の人事部長にに提出される建前となっているが、久の自己申告を読んだ課長は久を呼んで言った。 「門川君、君の気持ちはよく判るし、私自身、君の意見に賛成したい。だがね、サラリーマンというのは我慢が大切なのだ。君の自己申告を本社へそのまま提出したら、君の無能力振りを公表する結果となるよ。君が無能だとは僕は思っていないが、結果としてそういう評価になってしまうのだよ。考え直してみてはどうだ」
「課長、お言葉ですが今のままの状態が続いたら、この工場の管理部門の人は皆潰れてしまいますよ。まるで気違い沙汰じゃぁないですか。明けても暮れても、人、人、人。人を採用するためには、学校の先生に女まであてがってまるで女郎屋のやりて婆さんじゃありませんか。そのうえ、組合のダラ幹共と取引をして、攻撃の矛先を変えさせようとしたり、全く吐き気のする状況ですよ。そう思いませんか。こんなことになるのも、要は現在の工場新設計画に無理があるんですよ」久は堤防が切れたように喋りだした。
「君は若いな。もっとよく考えろよ。君は独身で家族がいないから無鉄砲なことが言えるけれども、この世の中は喰うか喰われるかなんだ。我慢してとにかく頑張るしかないんだよ。結果として人が集まらなくて、工場が動かなかったとしても、稟議経営のもとでは責任は分散されてしまうんだ。君がよしんば正義漢ぶって正論を唱えると、御政道を批判したことになって君の立場もなくなるし、第一、上司である私の立場が困るじゃぁないか。サラリーマンとはそのような宿命を持っているんだよ」
「課長、私はもう疲れたんですよ。皆も疲れているでしょう。言うだけのことを言っておかないとあいつは駄目な奴だったと言われるだけで終わりになってしまうでしょう」と久は反駁した。
「それは、言っちゃぁ悪いが、君の自惚れというものだよ。ごまめの歯ぎしりとしか聞いては貰えないよ。ここは忍の一字さ」と悟りきった顔で課長は言った。
「でも課長、今の工場の状態はまるで、気違い沙汰じゃあないですか。労務課員は人集めで皆疲れている。製造は増産に次ぐ増産の指令に追いかけ廻されている。臨時建設部は工期の短縮で疲れている。誰かが言わなければ工場全体がのびちゃいますよ。製造の作業員は定員割れのところへ増産を割り当てられ残業の連続ですよ。今に不満が爆発して大変なことになりますよ」 久はいい加減うんざりした顔になってきた課長になおも食い下がった。 「とにかく、工場新設計画の延期は絶対に出来ないことなんだから、黙っていたまえ。疲れたのなら一週間休暇をとりなさい。人間忙しい時ほど休養が必要なのかもしれないからね。もう一度だけ言っておくが、君の自己申告書は書き直したほうがいいよ」 課長はそう言い残すと席を立った。
久は釈然としないけれども自己申告書を書き直して提出することにした。 久は自己申告書を課長に指摘された通り書き直しながら、何というつまらない制度を会社は作ったのだろうかと思った。そもそも、久が本社で労務管理の勉強をしていたとき、得た知識から言えば自己申告は自分が会社に対して言いたいこと、聞いて貰いたいことを素直に書くところにその本来の趣旨があった筈だ。久は本来の制度の趣旨に則って言いたいことを書いたのだ。ところが課長は書き直しを命じた。建前と本音の乖離。日本的発想の形式がここにあった。本音は決して正面切って打ち明けてはならないのである。正論として吐くのはあくまで、建前の議論でなくてはならない。本音は胸の奥底に秘かにしまっておいて心ある人に察してもらうしかないのである。何という非合理な表現の形式であろうか。本音を察して貰える人があればよいがもし上司に鈍感な人がいて本音を察して貰えず、建前の議論をま正直に受け取られたとしたら何という滑稽な悲劇がそこに起こることであろうか。
久は自己申告用紙に次のように書いて提出することにした。 『現在当工場は建設の槌音も高く、新鋭工場の早期稼働に向かって、臨時建設部、製造部、労務部ががっちりスクラムを組んで多忙を極めている。現在の雇用情勢下にあっては、短期間に500人の編成人員を充員することは至難のことであるが、当工場の使命の重大さを考えるとき、泣き言を言っている場合ではない。何としても工場が稼働を開始するまでには、目標の500人を揃えるべく、求人活動を精力的に展開している。当工場における労務部の使命は充員を一日も早く完了することであると認識している。』
久は白々しい気持ちで、以上のように書き終えると我ながら抽象的で中身のない文章だなと思うのである。久は書きおえた自己申告書を封筒に入れて課長に提出すると、一週間ほど休暇を戴きたい旨申し出て休養することにした。
人、人、人に明け暮れて過労気味だったので、一週間の自由な時間は限りなく貴重な時間だと思った。
仕事を離れてホットした時、頭の中へヒョコッと浮かんだ想念がある。この想念は夏の空に突然わきでた入道雲のようにむらむらと大きく勢いを得て久の頭の中一杯に拡がった。煩わしい人間関係から抜け出して、責任も何ももない気儘な生活をしてみたいという願望にも似た想念である。
これから一週間という自由な時間を気儘に過ごしてみようと思い立った。 久は独身寮の管理人に一週間程休暇を貰ったので実家へ帰ってくると言い残して鞄一つを持って寮を後にした。
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2005年09月12日(月) |
三村一族と備中兵乱47(完結編) |
十四、甫一検校 検校にまでなった甫一という座頭の琵琶法師と中村吉右衛門という乱舞の芸者は、元親が松山城に籠城していると聞いて遠国から尋ねてきて難儀しながら松山城へ忍び込み日頃の恩に感謝した後、馬酔木門より帰ろうとしたところを悪党どもに見つかり殺されてしまった。と備中兵乱記には特記している。 十五、勝法師丸 三村元親の嫡男勝法師丸と石川久式の嫡男を備前国の住人伊賀左衛門久隆が生け捕りにして本陣に移した。久式の子は備中国の宝福寺へ送られた。勝法師丸は生年八才であったが、容貌はなはだ優れ、書は他に並ぶものがないほど上手であった。四季折々に詩歌の会を催して心を慰め、栄華の日々を送っていたが今は敵方の陣屋に捕らわれの身となっていた。 昔、御醍醐天皇の八才の皇子が天皇と別れるのを悲しみ、 「つくつくと思ひ暮らして入相の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と詠まれた歌を思い出し、過ぎた昔の哀れな話を今こそ身にしみて感じていた。 久隆が本陣に送った時、惣金の扇に古歌を書いて勝法師丸へ与えたところ、扇を開いて「夢の世に幻の身の生まれ来て露に宿かる霄の稲妻」 とあるのを見て 「さては、本陣に行ったなら殺されるに違いない。今脇差しを持っていれば自害するのに」 と後悔するのを見て、人々は感涙を催し 「助けておいて出家でもさせるか」 と相談していた。 その時、また勝法師丸が、自分の見張りをしている侍に 「私が久隆に捕らえられて送られて来た時、途中で元の家人共に出会った。彼らは馬に乗ったままであり、君臣の礼儀を失っていると私は彼らに申した。背かれるほどの主人ではあるが、これほどの恥辱はない。おのおの方も前後におられるのに馬に乗ったままで行き過ぎるのは無礼であろう。どう思うか」 と話すのを聞いた人は皆舌を巻いて驚いた。 そこで、隆景にこのことを告げたところ、 隆景はそれを聞いて 「それほどの口才があるはずがない」 と思い、別人に尋ねたところ、本当のことであると語った。 「さては、助けておくと弓矢の種になる。事が難しくなるぞ」 と言って殺してしまった。 一家滅亡の時であり、実に哀れな話であった。 高梁市の頼久寺には備中の虎三村家親、備中兵乱の主人公三村元親の墓とともに勝法師丸の墓が並んで建っており、三村家三代が今は静かに眠っている。 完
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2005年09月11日(日) |
三村一族と備中兵乱46 |
備中動乱の最後の戦いとなった備前常山城への攻撃は6月4日から始まった。それまでは隆景の分遣隊と宇喜多直家軍が包囲していたのである。攻撃の主力となったのは富川平右衛門秀安で毛利軍の案内役も買っていた。 備前常山城の城主は自刃した松山城主三村元親の妹婿上野隆徳あった。松山城が陥落して孤立無縁となった常山城の唯一の頼みは阿波三好氏からの来援であったが、毛利軍が大挙来襲すると姿を現さなかった。たまりかねた家臣が 「いっそ海を渡って四国へ渡り、三好の応援を得て、城奪回の機を窺うのが賢明かと思う」 と家臣の一人が進言したが隆徳は 「お主達の言うことはもっともであるが、毛利に弓引くように強く勧めたのはこの隆徳じゃ。その張本人が女々しく生き永らえることができようか。命の惜しい者は逃げてくれて結構じゃ。咎めはせぬ」 と城を枕に討ち死にする覚悟を披瀝した。 これを聞いて思い思いに駆け落ちする郎党達もいた。小舟を浮かべて逃げだした者もいた。彼らは逃げる途中で敵に追いかけられ殆どのものが討ち取られてしまった。 城の周囲を蟻の出る隙間もないほど包囲されて逃げ場を失った城兵は全員討ち死にを覚悟した。 六月六日の暮れに小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝が城の下に旗を掲げ先陣の兵数千人が二の丸へ攻め入り太刀を閃かし、靱を鳴らして鬨の声を上げた。 「助かろうと思う者程鬨の声に驚くものだ。明日の巳の刻(午前八時)には大矢倉で一類みな腹を切り名を後世に残したい」 隆徳は少しも騒がず静まりかえっていた。 翌七日の明けかた、城内から酒宴の声が流れた。多くは女性の声で互いに今生の名残の杯を交わしていた。 七日辰の刻(午前八時)に敵軍へ向かって 「一類自決する」 と告げると一類の人々が我先にと集まってきた。 隆徳の継母は57才であったが先ず一番に自害した。 自害するとき彼女は 「この世にあってこのような憂き目を見るのも前世の業が深かったためであろう。隆徳が腹を切るのをみると目を廻し気絶し、見苦しい姿を見せるのも口惜しい。暫時後に残るよりも先に自決したい」 と言って縁の柱に刀の柄を縛りつけそのまま走り掛かって胸を貫いたところに、隆徳が走り寄って 「五逆の罪は恐ろしいが止むを得ない」 と言って首を討ち落とした。 嫡子源五郎隆透は15才であった。父隆徳の介錯をしかたいと思ったが、少年でもあり未練が残ると思ったのか 「逆ではありますが先に腹を切りたい」 と言うと 「愚息ながら神妙な奴だ」 と扇を開きあおぎながら、つくづくと顔を見て 「生かしておきたいが、後生の障りともなるであろう」 と暫く涙を流し、袖を濡らしていた。 隆透は俯いて涙を押し留め肌を脱いで、腹十文字に掻き切りうつ伏せになるところを 隆徳が首を打ち落とした。 隆徳は8才になる隆透の弟を傍らに抱え心臓を二突きして殺した。 隆徳の妹に16才になる姫がいた。安芸の鼻高山の親戚の許へ落ちていくように勧めたが 「思いも寄らぬことです」 と言って、老母の縛りつけていた刀で乳のあたりを貫き自害した。 隆徳の妻鶴姫は三村元親の妹で、日頃から男に勝る勇気と力を持っていた。 「私は女の身であるが、武士の妻や子が敵の一騎も討たずむざむざ自害するのは口惜しい。女であっても、ひと戦しないわけにはいかない」 と鎧をつけ、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇にに挟んで広庭へ躍りでた。 これを見た春日の局やその他の青女房、端下の者に至るまで三十余人は 「思い留まって静かに自害して下さい」 と鎧の袖を掴んだが、 「貴女達は女性の身だから敵も強いては殺しはすまい。いずれの地かへ落ち延びるか、もし自害するならよく念仏を唱えて後生を助けて貰われるがよい」 と袖を振り切って出て行った。 春日の局らは 「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花ならば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しましょう」 と髪を掻き乱し、鉢巻きを締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が駆けだした。 これを見た長年恩顧をこうむった家僕達も一緒に死のうと、83騎が揃って駆け出した。 寄せ手はこれを見て 「敵は妻子を先に立てて降伏してきたな」 と思っていたところ、女性軍は、喚声をあげながら、小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝の七百余騎の真ん中目指して突っ込んだ。 女を含むとはいえ、決死の勇士が死を恐れず突きたてたので、寄せ手の兵は足並みを乱し、傷を受け死ぬ者百騎に及んだ。慌てふためくのを見て隆徳の妻は腰から銀の采配を抜き、真先に進んで 「討ち取れ、者共」 と大勢の中へ割って入った。多勢に無勢、構えを建て直した敵に追い詰めら討ち取られて味方の兵はいなくなった。 隆徳の妻は浦野兵部丞宗勝の馬の前に立ち止まって、大音声を張り上げた。 「どうした。宗勝、西国屈指の勇士と聞いている。私は女の身ではあるが、一勝負致したい。いざ」 とわめき叫んで、薙刀を水車のように廻して攻め寄せた。 「いやいやそなたは鬼ではなく、女である。武士が相手にできる人ではない」 と身を引くと、傍らの兵五十騎が攻めかかってきたので薙刀で七騎を薙伏せた。 自分も薄手を負ったがまた大音声を張り上げた。 「女の首をとろうとなさるな。方々」 と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、 「これは、わが家相伝の、国平作の名刀である。この太刀は父家親が相伝されて、特に秘蔵していたが、故あって、私が戴いた太刀である。父親だと思って肌身離さず持っていた。三村一族が滅亡する今となっては、相伝する者もない。わらわの死後には宗勝殿に進呈する。後生を弔って賜え」と言い捨て城中へ馳せ入った。 こうして西に向かって手を合わせ、 「夢の世に、幻の身の影留まりて、露に宿借る稲妻のはや立ち帰る元の道。南無阿弥陀仏」 と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥し、自害した。 隆徳も西に向かい 「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ元親、久式、元範、実親と同じ蓮台に迎え賜え」と念仏を唱えながら腹を掻き切った。 備中兵乱の悲話の中でも最も涙をそそる出来事である。
2005年09月10日(土) |
三村一族と備中兵乱45 |
天正三年(1575)4月7日から備中松山城の攻撃は開始された。この城は天下に知られた名城であったから、急に落とそうと思っても徒に人力を費やし、矢数を失うだけであった。ただ兵糧の道を断つことは効果のある攻め方だったので、小早川隆景は諸方の麦田を薙ぎ捨てにしようと考えた。 四月七日松山城のうしとらの方向にあたる河面(高梁市河面町)寺山という古寺の跡に陣を移して古瀬(高梁市巨瀬町)近郷の麦を薙ぎ捨てた。 松山城からは麦薙ぎを防ごうと兵を出したが隆景は少しも応対せずに、陣を白地(高梁市落合町福地)へ再び移して麦薙ぎを続け、28日成羽へ討ち入った。このため、近郷の百姓達は迷惑して、毛利方へ心を通じて城中への夜討ちなどの手引きをする者が多かった。だが城中の兵に捕らえられて獄門にかけられる者も多く、その数は落城までに318にもなった。 隆景は諸氏に命じて陣が長引くように仕向け、何処へも出向かず櫓などの増設や修理だけをさせた。これを見て松山城の男女は退屈を覚え、下端の者達は月夜に抜け穴をくぐって城外へ出る者も多かった。 重代恩顧の者達は 「城内には兵糧や塩は沢山あり一、二年の籠城には差し支えない。このうえは織田信長に味方して後詰めの勢力をお願いする」 として少しも怯む様子はなかった。 こうして日が経つうちに何時の世にもあるように裏切り行為をするものが出てきた。竹井宗左衛門直定、河原六郎左衛門という浪人は元親から数えきれないほどの厚恩を受けていながら、隆景の術策に踊らされて、一時の利欲に惑わされて信義にもとることをしてしまった。両人は石川久式が守っている天神丸をとろうと思い、久式に会って 「我等について、世間では逆心の噂がたっているが迷惑なことである。このことについて小松山へ行って元親殿にお目にかかり申し開きをしたいと思います」 と言った。久式もその志を感心して5月20日、留守中の諸門の警備を厳重に命令して、宝福寺の雄西堂とともに小松山へ同道した。 そこで両人の手の者は、予て計画の通り、野菜などを台に乗せて、天神丸の法印様に献上すると偽って開門を願った。門の守備兵も顔見知りの人なので怪しむことなく門を開いた。そこで大槻源内、小林又三郎はすぐ門の中へ入り、奥の座敷へ急行しそこにいた石川久式の妻子を捕らえた。続いて土居、工藤、田中、蜂谷、肥田、土師、神原など数百人が押し寄せてあちこちに火をかけた。このようなことがきっかけとなって、松山城は落城した。 三村元親の自刃をもって松山城攻撃が終了すると隆景は将兵を率いて備前常山城へ向かった。 松山城から落ちのびて父家親の墓がある頼久寺へ辿りついた元親は今回謀叛を起こした顛末を述べた輝元宛の書面を認めた後、辞世の句数句を残した。介錯は粟屋与三左衛門尉元方に依頼して検視の武士達が感嘆する見事な振る舞いで切腹した。 ・年来の馴染み細川兵部小輔宛に 一度は都の月と思ひしに 我待つ夏の雲にかくるる ・都に住む一族の武田法師宛に 言の葉のつてのみ聞て徒に この世の夢よあはて覚めぬる ・歌道の師大庭加賀殿宛に 残し置く言の葉草の影までも あはれをかけて君ぞ問うべき ・老母宛に 人という名をかる程や末の露 消えてそ帰る本の雫に
2005年09月09日(金) |
三村一族と備中兵乱44 |
道理を説かれて言葉に詰まった元親は強権を発動した。 「三村家の家長はこのわしじゃ。家長の決断に逆らうのは謀叛と同然じゃ。成敗してくれる。それへなおれ」と激しい剣幕で刀に手をかけた。 「もはやこれまで。後悔なさるなよ。御免」 と一礼して孫兵衛親頼と嫡子孫太郎親成は親宣とともに退座した。 列席した重臣と諸侍は何とかして親頼と親成を席に連れ戻し、一家の和睦を図らなければないと意見したが元親兄弟は頑として聞き入れなかった。心ある人は 「和睦して欲しい。和睦できないなら親頼と親成父子は討ち捨てるべきだ。元親は親頼父子のこれまでの忠誠心に甘えてたかをくくっている。親頼が本気だということに気がついていない。大将としての器が小さいな」 と内心思ったが口にだすものはいなかった。 元親の打倒仇敵直家の執念は胸の内でますます燃え盛り、反対する親頼、親成、親宣を殺してでも信長との盟約を実現して直家を倒そうと決意して討っ手を鶴首城へ差し向けたのである。元親が討っ手を出したという情報をキャッチした親頼は 「これは思いもしなかったことになった。我が身の浮沈はここで決まる。将軍に注進して身の難をのがれよう」 と天正2年(1574)11月の夜、鶴首城を脱出して鞆の津へ馳せつけ、将軍足利義昭へ元親が謀叛を起こしたことを注進した。 これを聞いた義昭公は驚いて、 「私が都へ帰還しようと謀をめぐらして準備 をしている時、足元に敵がいるとは思いもかけなかった。これはどういうことだ」 と早速三原の小早川隆景へ使者を走らせた。 小早川隆景は使者から知らせを聞くと直ちに毛利輝元と吉川元春へ使者を立てると同時に 「将軍が御帰洛の計画を練っている時に、将軍家を侮り、毛利家を軽んじ敵に加担する無道者は直ちに誅罰せねばならぬ」 という将軍の御内書に自分の廻文を添え、山陰、山陽四国、九州までも早馬を走らせた。 鞆の津の将軍の許へ馳せ参ずるよう陣触れをしたのである。 同年11月8日には小早川隆景、口羽・福原・宍戸・熊谷の歴々が馳せ参んじ翌日には輝元も出陣した。まもなく笠岡の浦に到着した。追々諸卒も加わりその軍勢は八万余騎に達したという。 攻撃は毛利軍が本陣を置いた備中小田の北方にある国吉城から始められた。 作州月田山城には元親の妹婿の楢崎弾正忠元兼が在城していた。元兼は元親謀叛の知らせを聞き、急に心を翻して、元親の縁者であると疑われないうちにと宇喜多直家の軍勢を城内に引き入れ、松山城の元親に加担していないことを示した。 荘勝資がすぐ山王へ兵を出し佐井田城を攻めると叶わないと思ったのか三村兵部之丞をはじめ城内の者は松山城へ逃げ込んだ。 小早川隆景を先鋒とする毛利軍の備中三村氏攻撃は電撃的に行われた。そのため天神山城の浦上宗景も宇喜多直家も毛利軍による備中三村諸城攻撃には殆ど加担出来なかった。 直家が毛利軍へ協力出来たのは備中動乱最後の常山攻撃だけであった。
2005年09月08日(木) |
三村一族と備中兵乱43 |
天下布武を目的として都に入った信長と第15代将軍義昭の親密な関係は長くは続かなかった。将軍とは名ばかりで実権の伴わない傀儡だと気がついた義昭は全国の豪族に檄をとばし打倒信長を画策した。 この呼びかけにいち早く応じて、天下に覇を唱えようとしたのは甲斐の武田信玄であった。彼は天正元年4 月(1573)三万の大軍を率いて西上の途についたが、志半ばにして信長と干戈を交えることもなく病没した。 信玄なきあと天下を統一するのは信長であろうと目されるようになっていた そのころ山陽路では安芸の毛利備前の浦上と宇喜多、備中の三村といった新旧勢力がこの地方に覇権を唱えようとしのぎを削っていた。この中で信長の力を頼んで上洛したのは浦上宗景だけであった。元亀二年(1571)信長に伺候して備前、美作、及び播磨の一部を安堵するという朱印状を賜った。 天正二年(1574)四月から備前の各地で浦上と宇喜多が熾烈な戦闘を始めた。明禅寺合戦で有名になり、浦上家を凌ぐ勢力を蓄えてきた宇喜多に浦上が難癖をつけたことが一つの原因であった。 信長に追われ毛利輝元を頼って都落ちした足利義昭は備後鞆津の地から全国の豪族に対して檄を飛ばし、打倒信長を煽動していた。 信長からの密書を受け取った三村元家は重臣を集めて評議した。 小躍りせんばかりの口調で元親が長々と発言した。 「これは願ってもないことだ。三村一族は宇喜多直家とは戦場で敵としてしばしば戦ってきた。戦いにはまだ決着がついていない。それはそれとして、宇喜多直家はわれらにとっては父子二代の怨敵である。父家親は興禅寺で卑怯な手段で闇討ちされ、佐井田城の合戦では長兄荘元祐が戦死なされた。それなのに毛利殿は三村一族の感情を逆撫でするかのように、直家と同盟し怨念を忘れて一緒に奉公せよといわれる。はからずも、このたび織田信長殿から同盟を結び前の将軍義昭と毛利氏とに対抗しようという申し入れがあった。信長殿は最近盛名を得て行く所不可はないほどの実力の持ち主じゃ。組む相手としては不足がない。毛利氏と同盟を結んだ宇喜多氏を成敗するためにはこの方法しかない。願わくば織田殿の援助を得て浦上殿と力を合わせ、宇喜多を攻撃し年来の鬱憤を晴らしたい」 「お尋ねしたい。長年誼を通じてきた毛利殿に背くということか」 と三村親頼が尋ねた。 孫兵衛親頼は元親の叔父にあたり、その母は奈々の方である。 「致し方ない。仇敵直家を討ち取るためには止むを得ぬ」 と元親。 「毛利の大軍に勝てる自信がおありかな」と 今度は親成が尋ねた。成羽の鶴首城の城主で三村家の重鎮である。元親とは従兄弟にあたる。 「織田殿だけでなく、豊後の大友氏、阿波の三好氏も応援してくれる手筈になっているから心配無用じゃ」 「しかし、織田信長という人は狂気の人だという噂が多い。恐ろしい陰謀を企む人だともいうので彼と組むのは危険が多い。毛利氏にあくまで忠誠を誓うべきだ。ましてや大友三好の援軍は遠すぎる」 と親頼は強硬に反対する。親頼はバランス感覚に優れた智将で家親なきあとの三村一族を纏めてきた柱石ともいえる人物である。積極的に表面へ出ようとはせず、常に若い元親を押し立ててよくこれを補佐し、三村一族の団結を影で支えている縁の下の力持ち的な存在でありその燻し銀のような人柄は家中の絶大な信頼を一身に集めていた。滅多に元親に異を唱えたことのない親頼が今日は顔色を変えてあくまで強硬であった。しかしながら、怨敵直家憎し、打倒直家の執念で凝り固まっている元親には冷静に客観情勢を分析して年配者の助言を謙虚に聞いてみるだけの度量が失われていた。舎弟の宮内小輔元範、上田孫治郎実親らも元親に同調して孫兵衛親頼に感情的な反論をした。 「当家の運を開き、年来の本懐を遂げる好機が到来したと喜んでいるのに、同じ一族の身でありながら、怖じ気ついてしり込みするのは卑怯じゃろう。孫兵衛殿も耄碌したか」と孫兵衛を悪しざまに罵った。 「父の恨みを晴らすのに何故人の力を借りなければならんのじゃ。およそ武士の道は忠孝と仁義が基本じゃなかろうか。たとえ主君が主君らしからぬとも家臣は家臣らしく仕えるのが武士というものじゃ。信長ははじめ、将軍に頼まれ、その御威光を後ろ楯にして五幾内を討ち従えた。しかし後には逆心を起こし遂に将軍を都から追い出し我儘に振る舞っている。これは人倫にもとる所業じゃなかろうか。このような信長を大将と仰いで何の益があろうというのじゃ」 と孫兵衛はたじろぐこともなく、醇醇と説いた。
2005年09月07日(水) |
三村一族と備中兵乱42 |
輝元は安国寺恵瓊から将軍からの下し文を受け取ると急遽本陣に元春、隆景、福原貞俊口羽通良、熊谷信直、桂元延らの重臣を集めて軍議を開いた。 「宗景と直家が度々、和睦を請うてくるからには当家としもうっちゃっておくわけにも行かぬ。この際、将軍の顔をたてて有利な条件で和睦してはどうかと考えている。皆の意見を聞かせて貰いたい」 と輝元が口をきった。 色々活発に意見がでたが総括すると 「四囲の客観情勢は当方に極めて有利であるから、これまで直家が備中において手にいれた諸城と領地を全て毛利に割譲すること。もしこの和睦条件が飲めないと言うのであれば兵馬を動かし徹底的に叩きのめす」 というものであった。 和睦条件を示されると、全面降伏に近いものであったが、直家は止むなくこれを受け入れた。浦上宗景には既に戦意がなく宇喜多単独で戦うには相手の実力が遙に自軍を凌駕していて勝算は千に一つもないと考えたからである。 宇喜多直家の西進政策は挫折した。 しかし転んでもただで起きないのが直家のしぶといところである。直家は胸の内で色々と天下の情勢について思案した。 「信長が天下布武を唱え上洛したが、彼の強さは運だけではない。兵力も違えば装備も違う。隣国が互いに力を合わせて結束しておかなければ信長は山陽路へもやがて攻めてくるだろう。その時提携する相手は誰か。浦上は織田に尻尾を振って所領安堵の紙切れを貰って喜んでいるからもはや目ではない。三村はこのわしを家親の仇だと公言しているから組める相手ではなかろう。そうすると毛利しかいないことになる。織田が攻めてくる前に三村を潰しておかねばなるまい。そのためには毛利と盟約を結ぶことだ。わしが毛利と手を握ったと知ったらあの若造め血が頭にのぼって、毛利を飛び出し織田と結ぶだろう」 直家は、早速角南如慶に恭順の意を表して毛利の麾下に入りたいという「親書」を持たせて安芸郡山へ輝元を訪問させた。 この親書を受け取った毛利輝元は直ちに軍議にかけた。 「まことに怪しからん。宇喜多が首を洗って出てきても、三村と同席させるわけにはいかん。宇喜多は三村の仇ではないか。ぬけしゃぁしゃぁと宇喜多の神経がわからん」 と激昂したのは吉川元春であった。 「三村一族は代々、長年にわたり毛利に忠勤してきた信頼のおける家臣ではないか。それなのに宇喜多を今、毛利の麾下に組み込むことになれば、三村は毛利を離れざるを得なくなるではないか」 と毛利隆景も反対した。 しかし、輝元はこの反対を無視して、宇喜多が毛利の麾下にはいることを認めてしまった。 「こともあろうに、三村家にとっては父家親兄元祐二代にわたる仇敵直家と同席せよ言われるか。つい先日までわれらの懇請により、宇喜多征伐の出陣をなされたではないか。毛利殿は父子二代にわたる献身的な忠節を弊履の如く捨てられるのか」 と三村一門の者は絶縁状を輝元に叩きつけて退場してしまった。 このことを浦上宗景の放った間諜から聞いた信長はほくそえんで、密かに使者を元親の許へ派遣した。 「この度、前将軍足利義昭は毛利と結託して謀叛を企てるとのことであるが、もし貴殿がこの企てに加わらず、この信長に味方されるならば貴殿に備中、備後の両国を進呈するであろう」 というのである。
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2005年09月06日(火) |
三村一族と備中兵乱41 |
元亀二年(1571)9月、出雲戦線から帰国した三村元親の軍勢が再び総師毛利元清の率いる八千騎の先鋒 として佐井田城に攻撃をかけた。このとき直家は主君の浦上宗景と提携して毛利軍に立ち向かう共同戦線を結成していたので、佐井田城の中には浦上宗景の武将岡本秀広と宇喜多直家の武将河口左馬進及び原二郎九郎の三人が城兵を率いて籠城していた。この年毛利元就は黄泉の国へ旅立っている。僅かな人数の尼子残党が宇喜多氏の加勢を得たからとはいえ、備中の諸城を攻略できたのは、毛利の偉大な指導者が死去して新体制が整備できていないという毛利の弱みにつけこむことができたからであり、三村氏が明禅寺崩れで大きな打撃を被っていたからでもある。 佐井田城に滞留していた尼子残党は勝久の尼子再興軍が滅亡の危機に瀕していると聞いて出雲へ帰って行った。 9月4日、三村・毛利連合軍と浦上・宇喜多連合軍との間で決戦の火蓋が切って落とされた。浦上・宇喜多連合軍は佐井田城中から城門を開いて撃って出て、城外で白兵戦が展開された。 三村元祐は二千余騎を率いて攻撃に参加していたが、敵の凶刃に倒れてしまった。毛利元清の陣中でも長井越前守が宇喜多軍の片山与一兵衛によって討ち取られた。三村・毛利連合軍は完敗して退却した。 三村・毛利連合軍が備前の浦上・宇喜多連合軍に破れたことは名門毛利輝元の面目を失うものであると同時に宇喜多直家の西進への野望に自信を持たせるものであった。 当時浦上宗景は直家と諮って豊後の大友義鎮や阿波三好氏の武将篠原長房と提携し西と南に毛利氏の包囲網を張り備中の毛利領の蚕食を始めていたので、毛利陣の先鋒三村元親は一刻も早く毛利軍が総力をあげて浦上・宇喜多連合軍を撃滅するための討伐軍を派遣するよう懇願した。 元亀三年(1572)6月毛利輝元は軍議を開き、元春、隆景の両将及び重臣達の賛同を得て7月16日に大挙して備前、備中遠征に進発すると内外に宣言した。 標的とされた浦上・宇喜多は本格的な毛利軍の攻撃宣言を耳にして慌てて特使を京都へ派遣し将軍足利義昭に毛利氏との講和斡旋を要請した。しかし毛利輝元は将軍義昭の講和斡旋を拒否して7月26日備前、備中 遠征の途についた。南北の毛利軍を糾合し、先鋒は隆景が受け持った。8月15日備中笠岡に着陣し9月から東備中の城を攻撃して備前領内へ侵入を開始した。 「今までの毛利軍と違って今回は本気のようじゃな」 と浦上宗景が言うと 「さよう。伊予で大友軍と戦っていて全力を投入できまいとたかをくくっていたら、大友軍が撤退してしまったので、伊予派遣軍までが参戦しているようです」 と直家。 「まともに向かって勝算はあるか」 「無理でしょう。このままでは滅亡あるのみです」 「なんとかうまい手はないものか」 「もう一度将軍義昭様に和睦の斡旋をお願いするしかないでしよう」 再度、急使が京都へ派遣され義昭に調停を懇願した。織田信長の援助で将軍位に復帰したものの、信長としっくりいっていなかった義昭は喜んで斡旋の労をとった。東福寺退耕庵の蔵主安国寺恵瓊を呼んで輝元宛ての将軍からの下し文を手渡すよう命じた。浦上宗景宇喜多直家と和睦するよう説得した書面である。安国寺恵瓊は将軍下し文を携えて直ちに輝元の本陣へ赴いたが、義昭は毛利が自分の新しい保護者になるよう打診させることも忘れなかった。
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2005年09月05日(月) |
三村一族と備中兵乱40 |
十三、 毛利方に決別 明禅寺合戦で三村元親に大勝した宇喜多直家は余勢をかって、備中国を切り取ろうと目論見、永禄11年(1568)8月に舎弟七郎兵衛忠家を総大将として九千余騎で侵攻を開始し、佐井田城を包囲した。毛利元就が 麾下の備中勢を率いて、九州大友氏征伐のため出陣した留守を狙っての作戦であった。城を守っていた植木秀長は、毛利方の備中松山城主三村元親や猿掛け城主荘元祐に救援を要請したが、彼らは九州の立花で大友氏と交戦中であったため、援軍を送ることができなかった。やむなく植木秀長は妻子や一族の安泰をはかるため膝を屈して、宇喜多陣営に加わった。 これに対し、毛利元就は翌年毛利元清を総大将として一万余騎で備中国へ反撃を開始した。九州遠征の留守を突かれた元就が奪われた備中の諸城を奪還するためである。九州から帰還した三村元親が先鋒を務めた。元親と穂田実親らは植木秀長の籠もる佐井田城を包囲したが、宇喜多の援軍を得た籠城軍がよく奮戦した。そのうえ城は地の利を活かした要害であるためなかなか落ちそうになかったので元清は兵糧攻めを開始した。植木秀長は巧みな用兵でしばしば城を打って出て包囲軍を悩ませたが、食料が底をついてきたので峰木与兵衛を沼城の宇喜多直家の許へ走らせ更に援軍を乞うた。 直家は一万騎を従えて自ら出馬し、佐井田城の東方一里近く隔たった丘に陣を構えて毛利軍の背後を突いた。ところが毛利軍の猛将熊谷信直と桂元隆の率いる軍勢が裏をかいて宇喜多軍の更に背後から攻撃した。敵に前後を挟撃されて宇喜多軍は130余人を討ち取られた。戦局は長引き長期戦の様相を呈した。戦局の膠 着状態に業を煮やした籠城中の宇喜多勢が 「あと二、三日で食料が尽きる。無為に籠城して餓死するよりは、敵と渡り合って討ち死にした方がよい」 と戦死を覚悟で一斉に城門を開いて突撃し迎え撃つ毛利軍との間で凄絶な白兵戦が繰り広げられた。 局面が変わったのは宇喜多軍の誇る勇将花房助兵衛が毛利軍の侍大将穂田与四郎と槍を合わせてこれを討ち取ってからである。気勢を削がれた毛利軍は総崩れとなった。猿掛け城の穂田実近が戦死し松山城の三村元親も深手を負ってしまったので元清はやむなく退却した。この時宇喜多軍が討ち取った敵の首級は680に 及んだ。 永祿九年(1566)11月月山富田城が毛利元就の手に落ち滅亡した尼子氏は遺臣達が諸国を流浪しながら尼子再興を目指して活動していたが、山中鹿之介幸盛、立原源太兵衛久綱らが新宮党の遺児尼子勝久を擁立して旗揚げした。永禄12年(1569)6月のことである。 勝久は反毛利の宇喜多氏と提携し、秋上三郎左衛門綱平を大将として備中へ兵二千余騎を派遣した。尼子・宇喜多連合軍は幸山城(都窪軍山手村西郡)、呰部(あざえ)城を攻め、佐井田城へ迫った。城主は植木秀資で秀長の跡を継いで毛利氏に服属していた。秀資は松山城の三村元親や猿掛け城の荘元祐に援軍を求めたが、折悪しく元親は毛利輝元に従軍して出雲へ出陣中であった。猿掛け城からは荘元祐の援軍が駆けつけ秀資もよく戦ったが、結局元亀元年(1570)冬白旗を掲げ、尼子軍を迎えいれた。 労せずして佐井田城を手に入れた秋上三郎左衛門綱平は尼子式部、大賀駿河守を残して出雲戦線へ復帰した。 尼子式部、大賀駿河守の両備中派遣軍は宇喜多軍の応援を得て、備中鴨方の杉山城、備中酒津村の酒津城、備中幸山城(都窪郡山手村)を次々に落とし、城主中島大炊守元行の経山城(総社市黒尾)を攻めた。中島大炊守元行は塹壕を掘ったり矢蔵門道に陥穽を設けたり或いは橋を引き落とす工夫を施したり、農民兵を組織するなどの策略を用いて尼子の備中侵略軍を撃退した。この経山合戦で尼子軍は376人の将兵を失って いる。尼子軍は大きな犠牲を払って佐井田城へ退却した。 ご訪問の記念に下記をクリックして頂ければ幸甚。
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2005年09月04日(日) |
三村一族と備中兵乱39 |
左翼の総大将三村元親はこの日の朝、巳の刻に釣りの渡しを越えて、中島大炊の先導で湯迫村より四御神村へ出た。ここから土田、古都宿を突破して沼城を襲う計画であった。 ところが、四御神村までやってきたとき、右手の明禅寺山に火煙があがっているのが見えた。さらに中央軍の石川勢は宇喜多軍に攻撃されて敗走しているという伝令が駆け込んできた。 「敵より四倍も多い兵力がありながら敗退するとは。信じられない」 と元親は絶句した。 後続部隊では歩速が鈍り、動揺が起こったようである。背後から襲撃されるのではないかと逃げ支度を始める者もでる始末である。付近は湿地帯であったから、泥田に足を取られるものが多くなり、隊列は混乱し乱れ始めた。さすがに先頭の旗本精鋭部隊は少しも備えを乱さなかったが、後陣の乱れはひどかった。このまま当初の計画通り沼城へ進撃すれば、守備兵の少ない沼城を落とすことができたかも知れないのに、味方の敗走を見て若い元親は判断を誤った。作戦を変更したのである。 「作戦を変更する」 「これより明禅寺山へ向かい、敵の本陣小丸山を攻撃する」 と侍大将が下知を大声で伝達して廻った。 「皆のもの、急げ、遅れをとるな」 隊列は方向を変えて明禅寺山目指して動きだした。これを小丸山から眺めていた直家は勝利を確信した。もっともおそれていた三村本隊による沼城襲撃が回避できたのである。「こわっぱ目、罠にかかったか」 と直家は口笛でも吹きたい気分であった。 元親を迎撃するために直家は白兵戦の陣立てを敷いた。最前線には備前軍の中で最強を誇る岡剛助と明石飛騨を置いた。後陣にはついいましがた国富村で荘元祐の軍勢を叩きのめした富川、長船、延原の部隊を配置した。 元親にとってこの合戦は父親の弔い合戦であったから、溝も畝も構わず一直線に明石、岡の備えに切り込んだ。捨て身の覚悟の突撃に明石も岡も斬りたてられて崩れ始めた。元親は今が勝機とばかり一挙に直家の旗本へ斬りかかろうとした。ちょうどそのとき、富川長船、浮田、延原の軍勢が鉄砲を撃ちながら横合いから元親軍の旗本勢へ攻めかかった。 援軍に力を得て岡、明石の兵も戦列へ復帰し三方から元親勢を攻めたから元親勢は狼狽して総崩れとなってしまった。 元親は悲憤に堪えず 「今こそ討ち死にする時ぞ」 と覚悟を決めて敵陣へ突入しようとしたとき、家来が馬の口をとり西へ向けて思い切り鞭をくれたので馬が狂ったように走りだした。大将が敵に背を向けたから左翼の軍勢もまた総崩れとなって竹田村の北まで引き揚げた。 宇喜多勢はこれを追跡し三村軍の首を多数討ち取った。 元親と石川久智は釣りの渡しを越えてほうほうの態で備中へ引き揚げた。この日の戦いを「明禅寺崩れ」といい、宇喜多にとっては躍進の三村にとっては衰退の契機となった、この時代備中地方最大の合戦であった。 明禅寺の合戦は備前の宇喜多氏と備中の三村氏が二年間にわたって綱引きをした大合戦であった。勢力人望ともに三村氏が勝っていた。それなのに僅か四分の一にも満たない勢力の宇喜多氏が勝利を得るとは誰も想像しなかった。宇喜多方の大勝利に終わったので、いままで三村方についていながら宇喜多に内通していた金光、中島、須々木等の西備前の城主達は直家に降参した。 この年織田信長は滝川一益を大将として伊勢の諸城を落として後、越前朝倉義景の許に身を寄せていた流浪の将軍足利義昭を美濃の立政寺に迎えて会見し多数の贈り物をして足利義昭を手厚くもてなした。義昭も信長の処遇に感激し「親とも頼る」と言っている。信長が義昭利用して上洛を意識し始めた時であった。
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2005年09月03日(土) |
三村一族と備中兵乱38 |
大将に遅れてならじと将兵達も勇み立ち城に怒濤のように攻め寄せた。城兵達も必死に防戦したが、勢い負けして城は忽ちのうちに寄せ手に乗っ取られてしまった。寄せ手は櫓に火を放ち散々に切りまくった。守将の祢矢も薬師寺は必死に防戦し 「この城こそ三村の生命線じゃ。もちこたえろ。援軍が間もなくやってくる。それまで耐えろ」 と絶叫して臆する城兵を叱咤した。
しかしながら、全軍を一まとめにして怒濤の勢いで攻め込んでくる宇喜多軍に対してさしもの祢矢と薬師寺の守衛軍も力尽きて瓶井山へ退いた。逃げ遅れた兵士は追い詰められて切り殺された。 明禅寺城で戦闘が行われている頃、刻一刻明禅寺城へ進撃してくる二手の隊列があった一つは右翼先陣の荘元祐であり、他の一つは中央軍の石川久智である。 「あれっ、操山の向こうに煙が上がっているぞ。宇喜多勢が、攻撃しているものとみえる。急げ、急げ」 と荘元祐は馬上から煙のほうを指さして指揮下の軍勢を叱咤した。 作戦によれば、元祐の右翼軍と石川久智の中央軍と南北相呼応して、明禅寺城を攻撃中の直家軍を挟み撃ちするのが狙いであった。城が落ちてしまってはこの作戦は成り立たない。気ばかり焦るが複雑な地形に妨げられて中々目的地へ到達しない。ようやく瓶井寺村の南を通って操山の麓に到着したとき、運悪く敗走してくる明禅寺城の城兵とぶつかってしまった。味方の兵の敗走を見て怯んだとき、敗走軍の背後から、宇喜多軍の追撃隊が鬨の声をあげながら襲ってきたから混乱は増すばかりで、元祐率いる新手の精鋭部隊はさしたる抵抗もできないままに次々と討ち取られてしまった。 荘元祐はそれでも馬上から 「ここで敵に後ろを見せては末代の恥辱。返せ、返せ」 と采配をうち振るったが、機先を制せられて意気消沈した味方の頽勢を挽回することはできなかった。
元祐は家臣の有岡某と二人で五十人ばかりの旗本を従えて踏みとどまり奮戦したが、最後は浮田忠家の軍勢と切り結んで危ないところを辛うじて逃げのびた。大将が逃げたので麾下の兵は総崩れとなった。元祐を際どいところまで追い詰めたのは宇喜多勢の能勢修理という旗本であった。 中央軍の石川久智は明禅寺城を攻撃中の直家軍の背後を突こうと原尾島村の西まできたとき明禅寺山に火煙があがったのを見た。 「これは」 と思って進軍を中止し、様子を窺っていると斥候が帰ってきて、右翼軍が敗走を始めたことを告げた。 石川久智は中島加賀という老練な家臣を呼んで尋ねた。 「予め立てた戦略が、こうも狂ってしまっては今更直家の陣へ挑んでも勝利はおぼつかない。ここはむしろ元親の本隊へ合流して改めて直家に合戦を挑んだほうが得策と考えるがどうか」 「ごもっとも。敵の近づかぬ間に旭川の西側に撤退して、備えを固め直家が川を渡って攻めかかってくるところをその途中で迎え撃つことくらいしか、策はありませぬ」と中島は言った。しかし久智の老臣達はこの意見に従わず、軍議を開いた。
このとき浮田元家・河本対馬・花房助兵衛が三手に分かれて石川久智の陣近く攻め寄せてきた。石川久智は進むことも出来ず原尾島村の中道に備えを設けて防戦したが、中島加賀はじめ多くの将兵が討ち死にし、石川久智は暫く留まって防戦した後、やがて引き揚げた。
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2005年09月02日(金) |
三村一族と備中兵乱37 |
総大将の三村元親は北軍を受持ち、中島大炊を案内人として八千余人の編成で釣りの渡しを越え、湯迫村から北の山の麓を四御神村に進み、矢津越えして沼に迫り、宇喜多勢の留守を窺い亀山城の乗っ取りを企図していた。本隊の三村元親軍は副将の植木秀長が采配を振るった。 一方宇喜多直家の備前軍は迎え撃つに僅か五千余騎である。
直家の頭の中には諜者から聞いた安芸の毛利元就が僅か四千の軍勢で陶晴賢の軍勢二万を厳島の狭隘な地へおびき寄せて殲滅した戦いのことが目まぐるしく駆けめぐっていた。「謀略以外に小勢が多勢に撃ち勝つ手だてはない。どのような手でいくか」 直家は寝床に入って奇策を思い巡らせるのであった。 出撃の朝を迎えた。一番鶏の声で布団から抜け出した直家の着替えをお福が甲斐甲斐しく手伝った。 「御武運をお祈り致しております」 と言ってお福は八幡神社で祈願したというお守りをそっと手渡した。 直家はお守りを受け取りながらお福の腹へさりげなく視線を投じながら言った。 「必ず帰ってくるからそなたは芽生えた嬰児(やや)のためにも体をいとえよ」 「はい」 と答えて見上げるお福の瞳に光るものを認めた直家は、この戦必ず勝ってみせると自分に言い聞かせて本丸の大広間へ入っていった。そこには、武装した兵士が居並んで直家の下知を待っていた。 「敵は多勢、われは無勢じゃ。だが毛利が陶を殲滅した厳島合戦の例もある。勝算は我が胸中にある。皆の者、命は全員直家に預けてわしの下知に従え。勝利は必定じゃ」 と部屋中に響きわたる声で言った。これに応えて 「オッー」 と全員が一斉に叫んだ。
直家は沼の城を出発し五千の軍勢を五隊に分けてそれぞれに部署した。敵は二万の大軍である。本陣は古都宿の山鼻に置き、主力を目黒村のあたりに配置した。古都宿は西大川の釣りの渡しを渡って沼城へ東進してくる備中勢の通路にあたる所であった。直家は先手の兵に下知して明禅寺城を攻撃させて、一戦し休息していたとき物見に出していた斥候が馳せ帰ってきた。 「後詰めの備中勢が三手に分かれて進撃してきました。一手は富山城の南、一手は首村から上伊福を経て中道へ、また一手は山裾を津島村・御野村を経て釣りの渡しにかかる様子です」 直家は斥候から報告を聞くと事態は切迫していることを感じとり、この際一気に明禅寺城を奪取すれば必ず勝機があると思った。それは多くの戦場往来をした者だけに判る勘のようなものであった。この勘は織田信長が桶狭間で今川義元を討ち破ったときの勘、また毛利元就が厳島で陶隆房の大軍を殲滅したときの勘とあい通じるものであったろう。 「戦う時はこの一瞬じゃ。備前武者の運命はこの一瞬にかかっている。ほかには目をくれず、ただひたすら明禅寺城を奪回するのじゃ手間どっていると敵に先を越されて、捕虜となってしまうぞ。城の奪回こそ勝負の分け目じゃ。死力を尽くして城を落とせ」 と直家は馬上から大音声で叫び続けた。 「備中勢なにするものぞ。かかれ、かかれ、勝てば恩賞は思いのままぞ」 直家はこう叫んで田畑の中を一直線に突っ走り明禅寺城下へ駆けつけた。
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2005年09月01日(木) |
三村一族と備中兵乱36 |
明禅寺山は標高109 メートルでもと明禅寺という古い寺があったので明禅寺山と土地の者が称している古寺跡の山塊である。この城砦は備中から沼城目指して進撃してくる敵軍を俯瞰するのには最適の場所に位置していたし、備前の直家配下の諸城と連絡を取り合うにも好都合な場所であったが、直家の本当の狙いは別のところにあったのである。沼城へ進撃してくる三村軍をこの明禅寺山におびき寄せることであった。 直家の予想では三村軍の動きは二通り考えることができた。ひとつは直家の狙い通り敵軍がこの城へ襲いかかってくれば、直家の本隊が沼城から後詰めに兵を出し背後から敵を挟み撃ちするのである。あと一つは、もし敵軍が沼城へ直接攻撃をかけてくれば、この明禅寺城から味方の兵が出撃して三村軍の背後を攻撃することが可能になるのである。 諜者の報告により直家が明禅寺城を築いて三村勢の備前侵攻に着々と備えているということを知った三村家中では、軍議の席で主戦論が澎湃として沸きたった。 「家親殿の仇を討つために、決起した五郎兵衛達の忠心を無駄にするな」 と荘元祐が言うと石川久智がうなづきながら言った。 「城主元親殿の成人を待っていては宇喜多の勢力を強化するだけじゃ。宇喜多の汚いやりかたに家中全員が憤激している今こそ、好機ではないか。五郎兵衛達が善戦したのも、忠義の心が冷めないで燃え上がっていたからじゃ」 「岡山城の金光与次郎、舟山城の須々木行連、中島城の中島大炊等に命じて沼城攻撃の準備をさせ、この包囲網で宇喜多が動けぬよう圧力を賭けるのがよかろう」 と石川久智が提案した。 「あの連中はこうもりのように、ふらついているから油断はできないぞ」 と植木秀長が言った。 「彼らをわが陣営に縛りつけておくためにも、早く宇喜多を叩いておかなければならない」 と三村政親が尻馬に乗った。 主君家親を卑怯な手段で謀殺した宇喜多直家憎し必ず仇を討つべしと復讐の鬼心に凝り固まった三村家中のものはことあるごとに国境を越えて備前領へ侵攻を進めていた。特に祢屋与七郎、薬師寺弥五郎は対宇喜多決戦に備えて、隙あらば明禅寺山城を攻撃し敵方勢力を削いでおこうと龍の口城に宿借りして虎視眈々狙っていたが、永禄十年(一五六七)春遂に好機が到来した。激しい風雨が荒れ狂った夜、予ての手筈通り精鋭百五十人で夜討ちをかけ沢田村を焼き払って、明禅寺山城へ攻め入ったのである。不意に寝込みを襲われた城兵達は敵味方の分別もできずなすすべもないままに散り散りとなって、南の山を越えて中川村へ逃れ漸く沼城へ引き揚げた。 明禅寺山城が敵の三村方に渡ったことを知った直家は反間(はんかん)を放って備中勢の誘い出し作戦を開始した。 「従来、三村氏の傘下にあった岡山城の金光氏、舟山城の須々木氏、中島城の中島氏はいずれも宇喜多直家の調略に踊らされて宇喜多方へ寝返った。もし三村の軍勢が備前平野へ進撃してくればこれらの三城主は連携して三村軍を包囲攻撃するだろう」 という噂を言いふらさせたのである。 これは直家が仕組んだデマの情報である。三村氏を後援している安芸の毛利氏が出雲の尼子氏を富田月山城で滅ぼしたあと、伊予の騒動に力いれして備前にまで手が回らないこの時期に、はやく三村氏を明禅寺山城におびき出し、打撃を与えておかなければならないと考えた直家の陰謀であった。 「宇喜多軍が岡山城の金光氏や中島、須々木の軍勢と提携してこの城へ押し寄せてくるという噂を耳にしました」 と諜者が祢矢・薬師寺の守将へこのデマ情報を報告した。小人数で強敵宇喜多氏と対峙している祢矢・薬師寺の両守将は過敏に反応した。疑心暗鬼が生じたのである。 「宇喜多攻略の橋頭堡として確保した明禅寺山城が危険に晒されています。至急援軍をお願いします」 という伝令が松山城の三村陣営に駆け込んだ。 この祢矢・薬師寺両将による明禅寺山城奪取事件と備前の金光・中島・須々木三氏が敵方へ寝返ったという情報は、三村家中の主戦論に火をつけた。打倒怨敵直家で松山城内は沸きかえった。直ちに作戦会議が開かれ、沼城を西・北・南の三方から包み込むようにして、同時に攻撃する三面作戦がたてられた。 総大将は三村元親である。総勢力二万人は辛川に結集して三軍に編成した。先陣は荘元祐の率いる七千余人で金光与次郎を案内者とし富山の南の野を斜めに押し進み、春日社の前の川瀬を越え、瓶井山沿いに明禅寺山への進出を図った。中軍は石川久智を指揮官として五千余人の兵員を従え、上伊福村の中道から岡山城の北にある瀬を渡り原尾島に進出して明禅寺山を攻める直家勢の背後を襲う手筈であった。
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