前潟都窪の日記

2005年08月31日(水) 三村一族と備中兵乱35

 五郎兵衛は直ちに一族若党五十余騎の軍装を整えて出陣したので、道中話を聞いて加勢に参じた家親恩顧の国人達もあった。しかし総勢百騎にも満たない小軍団である。一同は一途に、討ち死にを覚悟して近くの禅院に赴き、松峰和尚に逆修の法事を依頼し鬼伝録に一同の名前を記してから焼香三拝した。
 三村五郎兵衛は宇喜多直家へ使者をたてて
「主君家親の無念を晴らすべく弔い合戦に出向いてきた。尋常に勝負せよ」
と挑戦状を突きつけた。
 手勢を二手に分けて、一手は矢津越えして直接沼城へ攻撃をかけさせた。もう一手は五郎兵衛が自ら率いて釣りの渡しより南へ迂回して進撃した。
 物見の兵から五郎兵衛の動きを聞いた直家は弟の七郎兵衛忠家を総大将に任命し、長船越中守、岡剛助、富川肥後守、小原新明等を配して三村軍を攻撃させた。
「五郎兵衛は三村家中でも最強の勇士であるから、彼を討ちとったら三村家の柱礎石を破壊したようなもので、その後の三村軍団の退治はたやすくなるのは必定。手柄をたてたいと願う者は撃って出よ」
と直家は下知した。

 宇喜多軍は総勢三千騎である。戦闘は最初に釣りの渡しより南へ迂回してきた三村五郎兵衛率いる五十余騎と長船・岡麾下の宇喜多軍との間で火蓋が切って落とされた。僅か五十騎の軍団ではあったが、忠義を死後の世界に残すのが武門の習いと死を覚悟した五郎兵衛の軍勢は強かった。五十余騎をひとつに纏めて、一番先に控えていた長船越中守の一千余騎の真ん中に撃って入り、暫く戦ったのちこの隊列を撃ち破り、二陣にいた明石飛騨守の隊列に切り込みをかけ、四方八方に奮戦した。さすがの宇喜多勢も浮き足たったが、やがて総大将の七郎忠家の率いる本隊が三村軍の横合いから攻めたて三村軍の背後に回り込んで攻撃したので、勢力を挽回し、さしもの三村軍も全員壮烈な戦死を遂げた。
 一方、矢津越より東進して沼城へ襲いかかった三村軍には富川平右衛門の軍勢がこれを迎え撃った。この戦いでも決死の三村軍の攻撃に宇喜多軍はたじたじとなり劣勢であったが、小原藤内の率いる後続部隊が後詰めに駆けつけたため態勢を挽回した。多勢に無勢で結局ここでも三村軍は全員はなばなしく戦死した。しかし、直家はこの合戦で家親亡きあとも三村軍は手強い相手であることを思いしらされた。戦闘に参加した宇喜多軍の将兵のうち小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら四十七人を失い、百余人の怪我人をだしたからである。
 近い将来、三村軍は勢力を養ってから備前平野に侵攻してくるに違いないと考えた直家は上道郡沢田村の明禅寺山に堅牢な城砦を築き始めたのである。

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2005年08月30日(火) 三村一族と備中兵乱34

 十二、 明禅寺合戦
                     
 備中の松山城では、家親の喪が明けた永禄九年(1566)四月重臣達が集まって家親の弔い合戦のことを協議した。家親には嫡男四人と庶腹の男子二人の他女子三人が残された。嫡男は長男元祐、次男元親、三男元範、四男実親である。他に庶子としては出家した河西入道と三村忠秀がいる。女子は長女が幸山城(都窪郡山手村西郡)城主石川久式の正室、次女が月田山城(真庭郡勝山町月田)城主楢崎元兼の正室、三女が常山城(玉野市字藤木)城主上野隆徳の正室となった鶴姫である。
 長男元祐は知勇兼備の将といわれた父家親の性格をもっともよく受け継いだ人物といわれ、父家親が猿掛け城の荘為資を攻撃したとき勝負がつかず、毛利氏の斡旋で荘氏の養子となり、永禄二年から猿掛け城主に納まっていた。毛利氏の戦いには数多く参戦し勇名を轟かせた。
 備中の松山城を相続したのは次男の元親である。元親以下三男、四男はまだ若輩であった。
「亡き殿の喪も明けたことだし弔い合戦をしよう。われら三村家は備中の名門である。亡き殿は備中の虎といわれ、その武名を天下に轟かせた智勇兼備で、有徳の名将でおわした。それにひきかえ備前の宇喜多直家は浮浪者あがりで岳父を騙し討ちして沼城主となった没義道な男である。まともに戦えば勝てないことが判っている家親の殿を卑劣にも鉄砲で闇討ちした男である。一刻も早く、備中へ攻め入って仇討ちをしましょうぞ」
と強硬に弔い合戦を主張したのは三村五郎兵衛であつた。 
「偉大な殿が亡くなられた今、徒に血気にはやるのは如何なものか。敵の思う壺じゃと思わぬか。ここは一族で結束を固め、若い元親元範、実親の三兄弟をもりたてていくことが肝要じゃ。御兄弟が成人なさってから一戦を交わえるべきじゃ」
と当主が若いことを理由に時期尚早論を述べたのは、元親の叔父孫兵衛親頼である。
 親頼は三村氏が松山城へ入城した後、成羽の鶴首城を預かっていたのであるが、バランス感覚には優れたものを持っており、家親の良き参謀役であった。
 意見は即戦論と時期尚早論に別れたが、並みいる家臣達の多くが親成の時期尚早論を支持した。
 軍議も意見が出尽くして終盤になった頃、五郎兵衛は立ち上がって言った。
「成るほど大方の諸君が言われるように若い三兄弟を育てあげてからことに当たるというのは正論じゃろう。しかしながら、私は皆も知っての通り、愚昧なため忠義だけで生きてきたような男じゃ。私が生き延びても御兄弟の育成には少しもお役にたてることはないじゃろう。さればこそ、死して亡き家親殿に忠義を励もうと決意したんじゃ。皆は生き長らえて御兄弟の養育育成に功績をたてんさりゃぁよかろう。今生の別れですらあ」
と言って深々と一礼すると軍議の席から退出した。



2005年08月29日(月) 三村一族と備中兵乱33

 美作興禅寺本堂で三村家親が何者かによって暗殺されたことは、事件からかなりの時が経過するまで世間には知らされなかった。三村家ではこれを秘事として厳しく箝口令をひいた。
 三村家親の庶腹の弟孫兵衛親頼は、家親が暗殺されたとき、三村家の重臣達と相談して家親の遺言通り、家親の死を隠し
「家親の体調がすぐれない」
ということにして美作から兵を引いた。
 智将で鳴る親頼はもしこの事実が世間に広まれば、家中に動揺が起こり、敵に乗ぜられると判断したからである。遠藤兄弟が事件後さしたる困難もなく逃げおおせたのはその所為であった。
 喜び勇んで報告にきた遠藤兄弟の話を宇喜多直家は、半信半疑で聞き、恩賞をなかなか与えようとしなかった。
 三村家では何時までも家親の不慮の死を伏せておきたかったのだが、家親の病気見舞いに訪れた家中の者達にも顔を見せることができなかったので、いつしか家中の噂となり、隠し通せるものではない状況がでてきたので遂に家親の喪を発表せざるを得なくなった。 これを聞いて、宇喜多直家は遠藤兄弟へ約束通り知行を与え浮田の苗字を与えた。
 暫くして、宇喜多家で遠藤又次郎と弟喜三郎という鉄砲の名人が高禄で召し抱えられたという噂が備中成羽城にも流れてきた。兄は一万石、弟は三千石という破格の待遇であった。このことから三村家では家親を狙撃したのは遠藤兄弟であろうと推測し、黒幕は宇喜多直家に違いないと考えるようになった。
 そして又次郎が三村家の弓衆として在籍したことがあり、鉄砲仕入れに堺へ出奔したまま帰ってこなかった男と判って、宇喜多家に対する憎悪を倍加させていった。

 三村家親が不慮の死を遂げたという報は美作の地を再び動乱の地と化した。
 第11代当主三浦貞勝が薬師堂で自刃してから野に潜んで再起の時を窺っていた三浦家の旧臣である牧管兵衛・玉串監物・蘆田五郎太郎らの各氏が三浦家第10代当主故貞久の末弟貞盛を擁立して永禄九年(1566)旗揚げしたのである。これに呼応して恩顧の国人たちも馳せ参じた。この動乱の時高田城の守将は津川土佐守であったが、蜂起軍の猛攻を受けて数十名の部下とともに壮烈な討ち死にをした。高田城は再び三浦一族の手に戻ったのである。
 この朗報は宇喜多直家の沼城で食客となっているお福のところへ牧管兵衛の使者によってもたらされた。
「お方さま、お喜び下さい。高田城が再び我等の手に戻りました。直ちにこの城を引き払い美作の高田城へ戻りましょう。牧管兵衛殿がお迎えの使者を寄越されました」
と郎党の江川小四郎がお福を促した。
「亡夫貞勝の怨敵三村家親を宇喜多直家殿が討って下されたし、もう一人の仇敵金田源左衛門はこたびの戦で三浦軍によって討ちとられたのであろう」
とお福が言った。
「いかにも」 
と江川小四郎が答えた。
「されば、もう三浦家に対する義理は何もない。お主達は貞盛殿をもり立てて下され。桃寿丸が高田城へ戻ると先々叔父にあたる貞盛殿との間がまずかろう。必ず争いの種になりましょう」
と言って沼城を離れようとはしなかった。
「お方様、我等を見捨てられるのですか」
「そうではない。家親殿の仇を討って下さった宇喜多直家殿への恩義もあるし、桃寿丸の将来は直家殿が面倒を見て下さるとのお約束じゃ。そのほうが桃寿丸のためにもいいし三浦家のためにも良いことだと思うのじゃ」
「それでは、お方様は直家殿の正室になられるという噂は本当なのですか」
「直家殿のお心次第じゃ」
とお福は頬を紅潮させながら言った。 
 その時、お福は三村家親が暗殺されたという知らせを受けた日に、直家に誘われるままに直家の寝所へ入ったときのことを思い出していたのである。
「のう、お福殿、そなたの怨敵三村家親はこの直家が確かに仇をとって進ぜましたぞ。今日は亡き貞勝殿への供養を兼ねて心ゆくまで祝杯をあげましょうぞ」
と言って杯を勧められた。
 勧められるままに気持ちよく杯を重ねているうちにいつしか酔いがまわっていた。
女盛りを空閨で過ごしてきた体が酔いの所為で行動を大胆にした。
「わしの亡き妻達は皆、女腹での七人も子を産みながら全部女児じゃった。そなたのような美しい女との間に生まれていればさぞ美人揃いであったろうに、わしの娘達はどれも皆ぶす揃いじゃ」
と直家が遠巻きに誘ったとき、
「私に生ませてみては如何でしょう」
と言ってしまったのである。

 あとは酔いも手伝ってか直家の腕の中に抱かれ、恥じらいも忘れて燃えに燃えた。それ以来お福は逞しい男の腕に抱かれる度に女としての歓びを感じていたので、沼城をでる気持ちはすっかり失せていたのである。それに桃寿丸はまだ三才なので高田城へ戻ったところで城主がつとまるわけがない。新城主は亡夫貞勝の叔父である。今更高田城へ舞い戻って家臣達の間に家督相続を巡っての紛争の種を蒔くことは賢明ではない。桃寿丸の将来のことは、直家に縋ったほうが後見人としては頼もしいし、三浦一族のほうも丸く納まるだろうと考えたのである。

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2005年08月27日(土) 三村一族と備中兵乱32

 本堂の座敷と濡れ縁を遮る障子の紙に穴を開けて家親とおぼしき人物に狙いをつけていた遠藤又次郎が明かりに照らし出された家親の顔をはっきり確かめて火縄銃を発射したのである。
 家親は床柱を背にして座っていたが、仰向けに床柱へ叩きつけられてから崩れ落ちた。 銃声を聞いて、本堂へ家臣達が殺到してきた。
「曲者だ。逃がすな」
「曲者はどこだ」
 大勢のわめき声が一段と大きくなり境内は何事が起こったのか判らないまま殺到した家臣達で混乱していた。
 軍議に参加していた親頼、親成、政親、貞親らが駆け寄って家親を抱きおこしたが、胸からは血が噴き出し手の施しようがなかった。
「医者を呼びにやれ」
と親頼が叫んだ。
「やめろ、親頼。騒ぐでない。今生の別れとなるやも知れぬが、決してわしの死を外部に悟られてはならぬ。密かに陣を払ってわしを備中松山城へ運べ」
と苦しい息で近侍の家臣に指図した家親はやがて昏睡状態に陥り、息を引き取った。
 家臣達は遺言に従って遺体と共に無念の陣払いをした。
 家親が崩れ落ちるのを見届けた又次郎は、心で快哉を叫びながら闇の中を破れ土塀へ突っ走った。弟の喜三郎も床下から飛び出し兄の後を追った。二人は破れ土塀を飛び越えると本堂裏手の藪の中へ駆け込み、草の茂みに身を隠し、いつでも発砲できるように鉄砲を構えた。しばらく様子を窺っていたが、急に騒ぎが静かになった。
「どうもおかしいのう。銃声がした後、蜂の巣をつついた程の騒がしさだった寺の中が急に静かになったのは腑に落ちない。兄者、間違いなく家親をしとめたのか」
「馬鹿言うんじゃない。見事命中して前へ崩れ落ちるところまで確かめてから逃げたのじゃから」」
「闇夜だから、人間違いをしてはいないだろうな。確かに家親だったのかいな」
「燭台に誰かが油を注いで部屋が明るくなった、時はっきり家親の顔をこの目で確かめた。まぎれもなく正面から家親だと確かめたうえで引き金をひいたから、万が一、人違いであるはずがない」
「今日の首尾を宇喜多直家様に報告して約束の恩賞を頂くのが楽しみじゃのう」
「本当に恩賞は呉れるんじゃろうな」
「起請文まで自ら言いだして書いたんじゃけえ、まさかとは思うがのう」
「それまで、この鉄砲は一時たりとも手放せないぞ。第二の刺客がわれらを狙っているかも知れんしのう」
「宇喜多直家様は狡いお方じゃから、用心せにゃぁのう」
と二人の兄弟は言い交わしながら、灌木や草むらをかき分けてもと来た道を三村勢に見つかることもなく無事引き返した。
 三村家親の暗殺は宇喜多直家に二つの結果をもたらした。ひとつは三村一族の激しい憎しみである。いまひとつはお福の愛である。



2005年08月26日(金) 三村一族と備中兵乱31

 三村家親が本陣を構えている下籾の興禅寺へ向かって、更に弓削から誕生寺川を下り上神目まで辿りついた時、三村家親の配下の兵が数人ずつ隊列を組んで巡回警備している姿を目撃した。いよいよ敵陣近く潜入してきたのである。
「兄者、これはぼっけぇ警備じゃのう。迂闊には近寄れんようじゃなあ」
と喜三郎が囁くと
「なあに、日が暮れれば目につきにくくなるわな。それまで動かずに隠れていよう」
と又次郎が囁きかえした。
 二人は灌木の中に姿を隠し、お互いの顔を見つめあった。これからやろうとしていることの難しさを改めて反芻したのである。このあたりは、猟場を求めてよく往来した所なので地理は頭の中に入っている。敵の監視の目をかいくぐって、じわじわと興禅寺近くまで辿りつくことができた。時刻はたそがれどきであり、身を隠すには都合のよい時刻と言えた。兄弟は寺横の竹藪の中に潜み巡回してくる警護の隊列をやり過ごしておいてから、土塀の破れより境内を窺ってみた。意外にも境内の警備は手薄のようである。定期的に二人一組で五組の足軽が交代で一定の間隔を置いて境内を巡回しているのが判った。
「これなら、暗くなるのを待って忍びこめば家親の陣屋へ潜りこめるかもしれんぞ」
「月の光も乏しいから夜になれば、勝機が掴めるかもしれんのう」
「そうじゃ、足軽の扮装をして警備陣に紛れこもう」
「うまい考えだ。こそこそやるより、敵の中へ飛び込むほうが却って怪しまれないで済むかもしれない。かけてみよう」
「逃げ道もよく調べておこう」
「夜は敵も警戒していることだから、十分気をつけるんだぞ」
 用意を整えた遠藤兄弟は月光のない二月五日、夜空のしたを、夜回りの足軽に扮装して土塀の破れから興禅寺境内へ忍びこんだ。
 草むらに身を隠して正面を見ると黒々と本堂が建っている。最初に来た警邏の足軽をやり過ごしておいてから、素早く本堂の床下に潜りこんだ。次に来た巡回の足軽を再びやり過ごしてから喜三郎を見張りとして床下に残し又次郎が本堂の濡れ縁へ上がった。縁側と座敷を隔てた格子戸に近づいて内部を窺うと軍議の最中らしい。又次郎には軍議の内容までは聞き取れなかった。
「お館様が興禅寺へ陣を張っておられるだけで、恐れをなして傘下に入りたいと誼を通じてくる国人衆もぎょうさんおります。大した御威光ですなあ」
と植木秀長が言った。
「金光宗高の岡山城、中島元行の中島城、須須木豊前守の船山城もわれらの手に落ちた今となっては、美作を平定してしまえば、都へ一歩近づいたようなものじゃ」
と三村家親が言うと 
「松田も先が見えたし、備前のことは宇喜多氏を叩ければ手に入ったも同然ですらぁ。浦上氏も宇喜多直家がいなければ、赤子も同然というものじゃろう。浦上宗景も最近宇喜多に手こずっていると諜者が報告してきておりますぞ」
と石川久智が浦上家の内紛を披露した。
「興禅寺で冬籠もりというのも無粋なものだが、兵を休養させるのも大切なことだ。たまには近くの温泉にでも漬かって英気を養っておくんじゃなあ。雪解けになったら一気に備前へ攻め入ろう」
と三村家親が言った。
「早く雪解けにならないものかのう。腕がなるわ」
と荘 元祐がいうと
「そうじゃ。わしゃ、じっとしておれん性分でな」
と植木秀長も髭をなぜながら言った。
「夜も更けたし、寒さも厳しくなった。寒さ凌ぎに一杯飲んでくれ」
と家親が言って瓠を回すと親成が杯で濁り酒を受け、おし頂いてから旨そうに口に含んで言った。
「暗いと酒が不味くなるので、明かりを大きくしましょう」
と燭台に菜種油を注ぎ、灯心をかきたてた。
 部屋の中が急にパッと明るくなった。この時一発の銃声が轟いた。
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2005年08月25日(木) 三村一族と備中兵乱30

 宇喜多直家は家臣の花房職勝と長船貞親を呼び家親謀殺の相談をもちかけた。
「三村家親とはいずれ一戦を交える時がこようが、今はまだそのときではない。謀略で家親めを密かにしとめるうまい手だてはないものかのう」
「忍びの者を放って暗殺するのが一策かと」
職勝が言うと
「警戒の厳重な家親の身辺近くまでうまく近づけるかのう」
と直家がこの策の難しさに言及した。
「されば、得物は鉄砲を使います」
と長船貞親が言う。
「家中の鉄砲隊の中に気の効いた者がいるか」
「そこが問題です。忍びの心得のある者でなければこの仕事はできません」
と職勝。
「心当たりはあるのか」
「一、二適当な者がおりますが、家親の顔を知りませぬ」
と職勝が困惑した顔で答えた。
「事前に忍ばせて顔を確認させれば良かろう」
「危険です。相手に気づかれては警戒されましよう。この計画は、失敗がゆるされません。一回でしとめねばなりませぬ」
と長船貞親。
「では、家親めの顔を知っており、鉄砲の使える忍びの者を探すしかないではないか」
「その通りです。私にある人物の心当たりがあります。呼んでみましょう」
との長船貞親の答に希望を繋いでその日の謀議は終わった。
「殿、この前お話した鉄砲の使えるよい人物を連れて参りました」
と長船貞親が言って一人の猟師を直家の前に連れてきた。
「遠藤又次郎です。今は猟師をしていますが、かつて三村家親殿にお仕えし、お顔も間近に拝したことがあるそうです。橋本一巴に鉄砲を習った鉄砲打ちの名人です」
と手短に紹介し又次郎を直家に引き合わせた。
 直家は近習達に人払いを命じてから言った。
「面をあげよ」
 鋭い目つきの男であった。
「他聞を憚る。もっと近う寄れ」
とその男を身近に呼び寄せた。
「そちは、備中成羽に住んで三村家親殿に仕えたことがあるそうじゃが、家親殿の面体は見知っているじゃろうな」
「はい。弓衆の一員として家親殿に仕えていましたけぇ、間近にお顔を拝し直接言葉のやりとりをしたこともありますらぁ」
「そうか。鉄砲は何処で習った」
「舎弟の喜三郎より堺で習いました」
「貞親は橋本一巴に習ったと言っているが」
「それは舎弟のほうですが。私は弟に学びましたけぇ、橋本一巴の又弟子にあたりますんじゃ」
「弓矢の名人林弥七郎と対決して勝った橋本一巴のことか」 
「そうです」
「もう一つ聞くが、その方美作の地理には詳しいか」
「はい。家親殿からお暇を頂いてから、鉄砲の腕を活かすため猟師を家業として美作、備前の山野を駆けめぐつていますけぇ、庭のようなものですらぁ」
と言ってから直家は又次郎の目を見据えた。又次郎はたじろぐことなく眼光鋭く直家の目を直視し、互いの視線が交錯して火花を散らした。
「心得ております」
「そのほう、三村家親が美作に出陣していることは知っていようの」
「はい。存じております」
「そちに頼みたいことは、三村家親の陣屋に忍び込み家親を得意の鉄砲で暗殺して欲しいのじゃ。恩賞はそちの望みのままとらせるぞ」
「・・・・・・・・・」
 さすがに、鉄砲の名手又次郎の顔色が変わった。身震いがした。備中の虎という異名を持つ知勇兼備の当時傑出した戦国大名の三村家親を暗殺せよという。しかも、かつては仕えたこともある主を闇討ちにせよとの密命である。
「どうした。怖じ気ついたか。秘密を打ち明けた以上、いやとは言わせぬ。心して返事をいたせ」 
「このような大役を新参者のそれがしに仰せ下され、恐悦至極でございます。確かに承知致しました。しかし、御依頼のことは難儀なことです。三村家親は用心深い人物で、いつも大勢の家来に護衛されている大将ですから、私一人で討ち取ることは至難のことでございます」
「何か頼みたいことでもあるのか。許すから申してみよ」
「二つばかりお願いしたいことが有りますんじゃ」
「許す。何なりと申してみよ」
「されば、このような大事、失敗は許されませぬ」
「よい心掛けじゃ」
「されば、万が一のことも考えて、私の弟喜三郎にもこの大役を仰せつけ下さいますようお願い申し上げます。私以上に鉄砲の名手にございますけぇ、私にもしものことがあれば、私に替わってやり遂げますらぁ」
「よかろう。そちひとりでは何かと心もとないであろう。成功の暁には喜三郎にも恩賞をとらせよう。後一つの願いは何じゃ」
「運悪く功を遂げずして落命した時には、残された妻子のことがきがかりです。今は一介の猟師ですから、妻子にまで累が及ぶようでは不憫でなりませぬ」
「そのことなら、心配いらぬ。妻子と縁者の行く末のことはこの直家が誓って責任をもって面倒みようぞ」
と言って又次郎の目を凝視した。又次郎の心の動きを探る鋭い目つきであった。又次郎は直家が新参者のだす条件を簡単に認めるので却って不安になった。ここまで秘密を知らされた以上断れば、直ちに殺されるであろうし、家親の暗殺に成功したとして本当に、恩賞が貰えるのだろうか、何しろ権謀術策でのし上がってきた直家のことであるから誓紙でも貰っておかなければ、安心できない。しかし、誓紙を書いてくれとも言いだしにくい。しばらく沈黙の時間が流れた後、直家が答えを促すように言った。
「どうじゃな。憎い家親めを見事うちとめたときには、そのほうに一万石を与えよう。この直家が信用できるかどうか思案しているのであれば、誓紙血判してつかわそう」
「恐れ多いことです。喜んでお引受いたします」
と言う又次郎の答えを聞くと
「よし。家族のことも心配ないから、思う存分働いてくれ。起請文を書いておこう」
と言って自ら硯を取り出し墨を磨って、筆をとるや熊野牛王に宛てた起請文を認めた。
 遠藤又次郎と弟の喜三郎は直家の密命を帯びて、美作の興禅寺を目指して沼城を出発した。吉井川を遡り、川沿いに美作の久米郡棚原を経由して栗子あたりまでやってきた。そこで鉄砲の手入れをしてから本山寺道を通って南下し右手に妙見山、左手に栗子山を仰ぎながら山狭の険しい獣道を抜けて久米南の弓削へ出た。

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2005年08月24日(水) 三村一族と備中兵乱29

「お福殿、そなた達親子を賓客として迎えようと思よんじゃ。この城は自分のうちだと思うて気儘に振る舞われりゃよろしいが」
「これはまた、勿体ないお言葉ですなぁ、有り難くうけたまわります」
とお福が深々と頭を下げるとまたして、芳香が流れた。
「それで、お福殿この直家が力になれることがあれば力を貸しますらぁ。なんなりと遠慮のう申されりゃぁよろしいが」
と慈父が愛娘に言うような口調で言った。
「お言葉に甘えまして」
「よしよし、はっきり言うてみられぇ」
「桃寿丸のこと、行く末が案じられるんです」
「そのことよ、間もなく兵を出し、高田城から毛利の軍勢を追い散らし、桃寿丸殿を城主として送り込んであげますらぁ。勿論この直家が後見致しますらぁ」
「有り難う存じます。そのお言葉を聞いて、心が晴れました」
と婉然と微笑む笑顔がまことに魅力的である。すっかり心を奪われた直家が、
「そのほかには」
と言うと
「亡き夫の仇を討ちたいと思います。一日も早く、憎き三村家親の首を討って夫の墓前に供えとうございます」
と美しい顔が憂いを帯びてくる。
「憎い金田源左衛門ともども、三村家親もこの直家が討ち取って貞勝殿の無念を晴らしてあげますらぁ。それにしても家親は手強い相手故、暫く時間を下され。何か良い思案はないものかのう」
「そこまでは・・・」
とお福が言いかけると目で制して激しく手を鳴らした。
「お福殿がお休みになられるんじゃが。誰か案内を」
 お福と桃寿丸とは沼城で過ごすこととなったが桃寿丸は幼く可愛いかった。お福は未亡人とはいえ若く美しかった。嫡男に恵まれなかった直家は桃寿丸をわが子のように可愛がった。自分の子のように慈しむことがお福への愛情を深めさせた。沼城が明るくなって、家臣達はいつしか
「お福殿が殿の後添えになられるのでは」   
と噂しあうようになっていた。

永禄九年(1566)二月初旬の寒い朝、物見から帰った江川小四郎が直家の館にお福を訪ねてきた。
「お方さま、三村家親がまた美作に兵を入れました。久米郡弓削荘の仏調山興禅寺に本陣を置いて、家親はここを宿舎にしています」
と江川小四郎が言った。
「三浦の遺臣だけで家親を討つつもりか」
とお福が聞いた。
「もとよりその覚悟です。しかしながら、中々用心深く、近寄ることができません。我等人数も少なく宇喜多の殿のお力を借りることができないかお方さまに相談に参った次第です」
「わたしからお頼みしてみましょう」 
お福は直家の部屋へ桃寿丸と小四郎を伴って伺候した。
「これは、お福殿と桃寿丸殿、それに小四郎殿もお揃いで何か急な御用かな。家親が美作で動きだしたことと関係がありそうじゃな」
と直家は親子の用向きに察しをつけながら言った。
「御意。興禅寺は雪が深く、家親は暫く滞在する気配ですらぁ。警戒も薄いようなので奇襲をかけるには絶好の機会かと考え、御加勢をお願いに参上致しました」
と小四郎が言えば、
「亡き夫の無念を晴らすためにお力添えを桃寿丸ともどもお願い申し上げます」
とお福が愁訴の眼差しで直家をみあげてから、深々と頭を下げた。
「お殿様、お願い致します」
と桃寿丸も母に習って頭を下げた。
 いずれは家親と一戦交え、雌雄を決せねばなるまいと考えていたし、お福に想いを懸けるようになっていた直家としては、潤んだ瞳で懇願されると無下には断ることができなかった。
「よし。判った。一臂の力を貸しましょうぞ」
この言葉を聞いてお福の顔に喜色が迸った。桃寿丸の手をとって何度も頭を下げた。
「ありがとう存じます。流石、備前にその人ありと噂の宇喜多様でございますわ。何と頼り甲斐のあるお殿様ですこと」
とすかさず煽てた。古今を問わず、女からのこの種のお世辞は男をして、有頂天にさせ、実のあるところを示さねばならぬという気持ちにさせるものである。相手に好意を抱いていればその効果は倍加する。
 お福は天性として男を虜にしてしまう話術と仕種を身につけていたのであろう。後年、豊臣秀吉が備中高松城攻略を前にして岡山城へ滞在したとき、お福の虜になったことからも、その天稟は窺える。

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2005年08月23日(火) 三村一族と備中兵乱28

「ところで、今日は虎倉から素晴らしいお土産を持参致しました」
と妹の梢が言った。
「ほう。何を持参致した」
「ご覧になってからのお楽しみ」
と梢が言って控えの小姓に目配せすると、次の間の障子が開かれた。そこには妙齢の婦人が三つ指ついて平伏している。
「ほう。女ではないか。面をあげい」
直家の声に応えて、女が静かに顔を上げて直家を正視した。色白で形のよい顔は鼻筋が通っており、ふくよかな頬の奥には人懐かしげな目がこころなしか潤んでいる。
「ほお。美しいお人よのう。名は何と言う」
直家は体の中を美しいものにふれた感動の波が走るのを感じていた。
「お初におめもじを得ます。お福と申します。美作勝山の三浦一族の者でございます」
「・・・・・・・・」
何か言おうと口をもぐもぐさせただけで直家は暫し言葉を失っていた。あまりの美しさに見とれていたのと、頭の中に蓄えられている近隣諸国の出来事の情報を組み合わせてお福の背景を考えていたからである。やがて
「この度の合戦では、貞勝殿が落命された由。お福殿にはご愁傷のことと思います。聞けば城内の裏切り者による内通が敗因とか。さぞ口惜しいことでござろう」
と直家が言うと
「・・・・・ 」
お福は頭を下げただけで言葉がでない。涙ぐむ様子がしおらしい。
「忠臣、舟津弾正に讒言により詰め腹を切らさせたことといい、三村家親へ内通したことといい、金田源左衛門めは八つ裂きにしても憎みたりないことであろう」
「お悔やみのお言葉かたじけのうございます」
「桃寿丸殿が成人されるまで、ゆるりと過ごされよ」
「重ね重ねの御配慮いたみいります。こたびは無念の最後を遂げた夫貞勝の忘れ形見桃寿丸ともども、御引見賜り、いままた逗留をお許し戴き有り難う存じます。お福御礼の申し上げようもござりませぬ」
「なんの、なんの。お福殿そちらは畳もござらぬ板間ゆえ、脚も痛かろう、もそっとこちらへお越しあれ」
初対面で心を虜にされた直家は、お福のほうへ立ち上がって行き、その手を取って直家の席の前へ導いた。
「あれま、はしたないことで」
と消え入りそうな風情のお福を労り、励ますように直家が囁いた。
「桃寿丸殿の将来のこととか、貞勝殿の仇打ちとか他聞を憚ることもあるので話は近いほうがよい。遠慮されることはない」
 伏目がちにしているお福の着衣から、微かに沈香の匂いが流れて、直家の鼻孔を刺激した。近くで見ると唇に引いた口紅が薄化粧した顔に映え形のよい顔容を引き立てていた。(これは噂に違わぬ絶世の美女だ。このようなたおやかな美女ならば、後添えにしても生活に張りがでるだろう)とこみあげてくるものがあるのを直家は抑えかねて言った。

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2005年08月22日(月) 三村一族と備中兵乱27

 宇喜多直家の正室奈美は沼城(岡山市沼)城主中山備中守信正の娘である。沼城は平山城ではあるが、備前の中央部に位置し屈指の穀倉地帯をその領地内に抱え、国人達の垂涎の地であった。天文18年(1549)直家は若干21才で新庄山城(岡山市角山)に城を築き、主君浦上宗景の命により、浦上家の財務担当の重臣・中山信正の娘を妻に迎えた。新庄山城は備前の東部盆地を北方に見下ろすことができ、盆地の南端を抑える要害の地であったから中山信正にとってこの縁談は政略的にも都合のよいものであった。中山備中守信正は当時上道郡東部盆地の大半を領有する大身であったから、遠く京都の公家にも名前が知られているほどの実力者であった。蝶よ花よと何不自由なく育てられた妻奈美は気位が高く、なにかにつけ実家のことを自慢する誇り高き女性であった。

 一方の直家は幼くして父を失い、流浪生活までして辛酸を嘗め尽くした上で成り上がってきた男だけに、名門の妻を迎えた喜びは大きく、束の間ではあったが、新庄山城で送った甘い新婚の生活は戦場往来の殺伐とした気持ちに安らぎを与えるものであった。従って気位の高い妻のわがまま勝ってな振る舞いも気に触るどころか却って、自分ももっと大身になって妻から尊敬されるようにならなければと闘志をかきたてさせるのであった。夜毎同衾して、乱れ狂う奈美の白い裸身の餅肌が桃色に変わり、切なく喘ぐ声は直家の征服感を満足させるものであった。それはまた誇り高い鼻をへし折られ、羞恥の気持ちを苛まれ歓喜の世界へ誘われるのを成熟した女体が待ちのぞんでいるという合図のようにも思えるのであった。そのような新婚生活の結果として直家と奈美の間に双子の女児が誕生した。長女を美代、次女を千代と名付けたが、二人の姉妹が11才になったとき、悲劇が発生した。

永禄二年(1559)正月天神山城へ伺候して、主君浦上宗景に年賀の挨拶をしたとき非情冷酷な命令を受けた。
「一大事が発生した。お主の舅、中山備中信正が首謀者として謀叛を企て島村観阿弥と結託しているという確かな情報が手に入ったのじゃ。この浦上宗景を亡きものにして、わしにとって替わろうという魂胆じゃ。信正は東大川と西大川とに挟まれた肥沃な穀倉地帯を領地に持っている。一方島村観阿弥は砥石城(邑久町豊原)にあって千町平野の肥沃地を領有しておりその収穫高は備前一だと言われている。この二人が提携して、備前を統一しようということらしい。お主の祖父の能家は島村観阿弥に弑いされて、砥石城を奪われたのであろう。お主の仇敵島村観阿弥とこたびの謀叛の張本人中山信正の征伐を命ずる」というものであった。

 古来、内外を問わず実力のない主君は、力をつけてきた家臣達を権力闘争に巻き込みお互いに覇を競わせて勢力を消耗させ、その均衡の上に立って自らの権威を維持しようとする。無理難題をふっかけられた直家は策略を巡らして二人を倒すしかないと決意した。

 直家は沼城の近くに茶亭をつくり狩猟にことよせてしばしば岳父の中山信正を茶亭に招待して供応したが、そのうち信正は城から茶亭へ遠回りするのが面倒になり、茶亭と城の間の沼に仮橋を架けるよう勧めた。内心喜んだ直家はおくびにも顔にださず、橋を架けその後もしばしば信正を招いて茶亭で酒宴を開いていた。

 永録二年(1559)の初秋、狩猟帰りに茶亭へ立ち寄った直家はその日獲物が多く酒宴が盛り上がり夜半に及んだので、信正に勧められるままに沼城へ宿泊した。深夜城中が寝静まったところを見計らって直家は突然信正の寝所へ襲いかかったのである。合図に従って直家の家来達は手筈通り、仮橋を渡って沼城へ雪崩れこみ信正を討ってこの城を奪取したのである。

 沼城に狼煙があがるのを見た島村観阿弥は砥石城から僅かの人数で急行したが、予ての打合せ通り出撃してきた浦上宗景の応援部隊と協同して一挙に島村観阿弥を討ちとってしまったのである。この事件によって直家は沼城の他に砥石城を手にすることになったのであるが、実の父親を夫に殺害された妻の奈美は双子の姉妹美代と千代を道連にして戦国の女性らしく自決したのである。この事件以来、直家は勧める人があっても決して後妻を娶ろうとはしなかった。 


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2005年08月21日(日) 三村一族と備中兵乱26

  十一、興禅寺の暗殺
                      
 三浦貞勝が薬師堂で自刃したとき、お福は郎党の江川小四郎に三才の桃寿丸を背負わせ女とともに、山中を歩いて真庭郡の久世へ逃れた。その後、旭川を下り、備前領内の下土井村(現御津郡加茂川町下土井)の山中へ難を避けていた。
 遠藤又次郎は三村家中にあったとき、鉄砲隊を編成して装備を近代化するという提案を実現するため、見本の鉄砲を仕入れる目的で、堺へ行ったが、旅籠で資金を盗まれてしまった。これを機に三村家を離れ、堺で手に入れた鉄砲を頼りに故郷へ舞い戻り猟師生活をしていた。
 ある日、加茂郷の山中で猟をしていると笹の葉が揺れている。獲物の熊がいるのかと鉄砲を構えたところ、
「おなかが空いたよ」
という子供の声が聞こえた。
「若、お静かに、声を出してはなりませぬ。三村の者達が追ってきているかもしれませんぞ」
とたしなめる若い男の声が続いた。
「もうすぐ土井の婆(ばば)さまのところへ着きますからね。それまでの辛抱ですよ」と若い女の声に
「早く婆さまのところへ行こうよ」
と再び子供の声である。目を凝らして見ると笹の葉の合間から人影が見える。どうやら四人のようであるが武士は一人しかいないようである。
「こんな所で何しとる」
 遠藤又次郎は、鉄砲を構えて大声で叫んだ。
「何者だ」
不意に声をかけられて驚愕した若い武士が刀を構えて立ち上がった。
「動くな。動くと撃つぞ」
鉄砲に気がついて、若い武士は構えを崩さず言った。
「三村の者か」
「違う。この辺りを仕事場にしている猟師じゃこんなところで何しとる」
「敵に追われている。見逃してくれ」
「三浦家中の者か。落人だな」
「そうだ。拙者、江川小四郎と申す。土井一族と縁のある者じゃ」
「危ない所じゃったぞ。熊と間違えられて、ズドン」と言って笑いながら又次郎が鉄砲の構えを解くと江川も刀を下ろして言った。
「土井氏の館は近くか」
「もうじきじゃ。案内してやろう」
と又次郎が先頭に発った。
 この村の豪族土井氏を頼るためお福主従は土井までたどりついたところであった。お福の母方の里が美作勝山の三浦氏であったからその嫁ぎ先の縁故を頼りにしたのである。
「どうじゃ。この城で三浦の遺児達を匿うのは憚りが多い。そなたの兄の宇喜多直家は知恵者じゃから、沼城へ挨拶に伺候させては」
と虎倉城主伊賀久隆が妻の梢へ言った。お福主従に転げこまれた土井氏は、三村家親が探索している落人を匿っていると面倒なことが起こると考えて、いちはやく上司の伊賀氏のところへつれてきたのである。厄介者を虎倉城で預かってもらおうと、思ってのことである。
 一方、土井氏から相談をもちかけられた伊賀氏は、従来松田氏に服属し臣下の礼をとってきたが、松田氏の勢力の衰えとともに縁を切り宇喜多氏と誼を通じて、直家の妹・梢を妻として迎えていた。今、三浦一族の遺児を匿うことは三村、松田、浦上に対しても憚りがあった。できれば厄介者は宇喜多直家に預けてしまいたかったのである。結局、盥廻しさせられてお福は宇喜多直家の沼城へつれてこられた。梢が口をきいたのである。
「お兄さん、御無沙汰しておりました。お盛んなようでなによりです」
と梢が兄へ挨拶した。
「梢、久振りだな。久隆殿とは仲良うやっているか」
「はい。お蔭様で」
「子供はまだか」
「ええ、そのうち。ところで兄さんの方は後添えは如何なっておりますか」 「その話はまだ早い。奈美の七回忌も終わっておらぬ」
「何時までも奈美さんが忘れられないのね」
と言う梢の言葉に直家は表情を険しくした。



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2005年08月20日(土) 三村一族と備中兵乱25

 軍議を決めた三村家親は鶴首城を出陣し、永禄8 年11月(1565)陣山から高田川を挟んで三浦貞勝の拠る高田城に猛攻撃をかけた。
 作州高田城は、大総山と称する山に築かれた山城である。別名勝山城とも称し、標高322メートルの如意 山に本丸があり、その前の標高261メートルの勝山には出丸がある。両山とも鬱蒼とした常緑樹に覆われて いる。
 初代の城主は三浦貞宗で東国から地頭としてこの地に移って来て、南北朝時代が終結する頃、この地に築城した。遠祖は関東の豪族三浦大介義明である。
 三浦氏は室町時代、戦国時代にかけて、美作の真島、大庭両郡を支配し美作西部に覇権を樹立していた。しかし天文17年(1548)落城の悲運に遭遇した。同年9 月16日に第十代当主三浦貞久が病死したのを奇貨として、予て美作の地を狙っていた尼子氏が攻め入ったのである。貞久の跡を相続した第十一代城主は未だ10才の嫡子貞勝であったが、伯耆国日野郡より南下してきた尼子軍に攻撃され落城の憂き目にあってしまった。尼子軍の大将は宇山久信であった。城主の貞勝は家臣達に守られ城を捨てて脱出した。高田城の守将に選任されたのは尼子軍の宇山久信である。
 尼子氏は天文17年(1548)から永録2 年まで11年間高田城を占拠していた。落城後、備前や備中の山野に雌伏していた三浦一族は永録2 年3 月(1559)備前の浦上氏の援護を受けて高田城を攻撃し奪回に成功した。城の奪回戦に活躍した重臣の舟津、牧金田等の諸氏に助けられて、城主として返り咲いたのが貞勝であり22才に成長していた。
 貞勝は23才になったとき、15才のお福を妻に迎え桃寿丸という男子を設けた。お福は絶世の美女で三浦氏の庶族三浦能登守の娘であった。
 三村家親軍の猛烈な攻撃をうけながらも、三浦軍はよく抗戦し一ヵ月が過ぎた。攻めあぐんでいる三村家親の許へ諜者の総帥である琵琶法師の甫一から耳寄りな情報が入った。予て城へ潜入させていた諜者の一人から知らせてきた情報とは次のようなものであった。
「高田城主貞勝の妹・勝つ姫に重臣の金田源左衛門が懸想していたが、貞勝がお勝を舟津弾正という重臣に嫁がせたので、源左衛門は貞勝に恨みを抱いている」
「それだけか」
と家親が聞くと
「そればかりでなく、奸智にたけた源左衛門は、恋仇の舟津弾正を誣告して切腹させてしまった。このように、自分本意の邪悪な心を持った男だから、餌を撒けば食いついてきます。今、寝返るよう説得していますから、間もなく手引きするでしよう」
「餌は何を撒けばよいのか」
「命を助け所領を安堵した上に切腹した舟津弾正の所領を与えることです。如何でしようか」
「それだけで源左衛門は動くか」
「必ず動きます」
「何故分かる」
「欲の深い人間は餌が大きい程うまく釣れます。御決裁下さいますか」
「良かろう」
 やがて、隠密裏に示し合わせた三村軍は源左衛門の手引きによって城へなだれ込み城を落とした。
 貞勝は三村軍が城内に進入してくると妻のお福へ毅然とした口調で言った。 
「三浦一族は団結力を誇ってきた決死の強者揃いの軍団じゃ。しかし今度ばかりは難しそうじゃ。団結を破る内通者がでたからじゃ。浦上氏へも救援を頼んでおいたが間にあいそうもない。かくなる上は武門の意地を通して城を枕に討ち死にする覚悟じゃ。しかし福は女子じゃ。桃寿丸を護って逃げてくれ。血筋を残すのは女子の勤めじゃ。桃寿丸を無事に育てて、父の無念を晴らしてくれ」
 貞勝の反対を許さぬ厳しい言葉に促されたお福は桃寿丸を抱き、牧管兵衛、牧河内、江川小四郎ら僅かな近臣に護られて囲みを切り抜け城を脱出した。美作の国境を越え、備前津高郡下土井村まで落ちのびた。
 一方、貞勝は、敵の目を欺くために、自分達は反対側の急峻な崖を近習十一人と駆け降りたのである。そこは城の麓を西へ迂回して流れている高田川の川岸であった。
「ここまで来れば、陣山とは視界が遮られているので追手に見つかることはないでしょう川を渡れば組村です。そこまで行けば大丈夫だと思います」
と近習の一人が言った。
「組村から北の尼子領に入って暫く時節を待つことにしよう」
と貞勝主従が高田川を渡って、這いあがるところを三村の兵三騎に見つかってしまった。城主が脱出したと知った三村軍が先廻りしていたのである。貞勝は近習を指揮して戦い自らも槍を奮って敵を突き伏せた。漸く血路を開き組村へ入り、三浦谷へ逃げ込んだ。山や谷を伝って、尼子領へ逃れようと北を目指した。ようやく井原村蓬の薬師堂まで辿りつき疲労困憊した体を休めていたところを追跡してきた三村軍に襲われた。貞勝主従は最後の力を振り絞って血刀で防戦したが、運命の尽きたことを悟った貞勝は薬師堂に籠もって家臣達に言い残した。
「腹はわし一人が切ればすむ。汝らは逃げのびてくれ。必ず生きて三浦家の再興を図って欲しい。貞勝最後の頼みじゃ。逃げてくれ」
 貞勝は薬師堂で自ら腹を切り22年の生涯を終えた。

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2005年08月19日(金) 三村一族と備中兵乱24

 5月24日次郎四郎は愛宕精進のため、城の前の川に出て体を清めていたところ、三村の軍勢が繰り出してきたので、城に立ち帰り甲冑をつけて城をでた。その時既に城兵一人が先に立って敵方の三村軍の兵と槍を合わせていた。この立ち合いを目撃した別の三村兵が城兵の槍脇を狙った。それを見た次郎四郎は、弓を手に持った二人の敵に突いてかかった。あまりに距離が近かったので、敵は矢を放つことができず刀を抜いて切りかかって来たが、次郎四郎は手に持った槍で強くつきたてたので敵はかなわず逃げていった。また一人の敵が槍を持ってかかってきたので、次郎四郎はこの敵と槍を合わせた。はじめ槍を合わせた三村の兵が城側の兵との勝負を止めて四郎次郎の背後から突いてかかった。次郎四郎は前後の敵を一手に引受けることになったが、少し退き二人を相手に戦った。相手の隙をみてとった四郎次郎は敵の手にする二本の槍を一つに掴んで放さなかった。そこで二の敵が跪き倒れたところを取り押さえ首をとった。

 そこへ敵兵二、三人が駆けつけ、馬場の兜をとって引き倒そうとしたが、四郎次郎がそれを切り払い、更に切りかかっていったからその勇敢さに恐れをなして近づくものはなくなった。その後も小競り合いだけで合戦らしい合戦はなく矢文の応酬があった。
 三村方からの矢文の狂歌は
「井楼を上げて攻めるぞ三つ星を天神そへて周匝(すさ)いくひ物」
というものであった。
 歌意は
「井桁に組んだ櫓を上げてさあ攻撃するぞと三星城内の敵情を観察すれば、中は天神山城からの浦上軍の応援部隊が取り巻いているではないか。まるで蒸籠の中の混ぜ物入りの不味い食べ物のようなもので実力の程は知れたものよ」と相手を挑発している。
 一方、城方からは額田与右衛門が返歌を書いて三村の陣中へ射返した。
「天神の祈りのつよき三星をなりはすまいぞ家ちかに居れ」
 歌意は
「天の神が必勝を祈願して下さった三星城は決して落城することはない。浦上軍の応援もあることだし三村軍の総帥家親は諦めて帰り、自分の家でも守っていたらどうですか」というものであり、敵味方お互いに城の攻防を楽しんでいる風情が窺える。
 三星城攻めではさしたる戦果もなく、むしろ馬場四郎次郎に功名をあげさせるだけの結果に終わって、備中へ引き揚げた。
「東海地方で織田信長が暴れまわっているらしい。やがては都へ上るばかりの勢いだという。毛利の殿もいずれ上洛の意思を固められるときがこよう。そのときに通り道に立ちはだかる備前勢を片付けねばならぬ。いずれは一戦交えなければならなくなるだろう。その前に小手試しに美作に兵を入れ、地慣らしをしておかねばなるまい」
 三村家親は一族、重臣を集めた軍議の席で口を開いた。
「それにしても、三星城の戦いではぶざまな戦をしたものよ」
と嫡男の元親が言った。
「敵を侮ったのがいけなかった」
と親成が反省の気持ちを述べると
「今度は、総力を上げてかからねばならぬ」
と家親が一同を見回しながら、毅然とした口調で言った。
「次の目当ては当然高田城ということになるでしょう」
と次男の元親が父の考えを忖度して言った。
「出雲路は概ねかたがついているので、都を目指さねばなるまい。毛利の殿からはまだ命令を頂いてはおらぬが、殿は必ず都を目指される。今のうちに高田城を落として足場を固めておくのも御奉公というものじゃ」
と言うと列座の親頼、親成、政親、親重等主だった将に異存はなく、高田城攻撃が決まった。

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2005年08月18日(木) 三村一族と備中兵乱23

  十、 船山城攻め 
                    
 三村家親は毛利元就と同盟を結ぶと、伯耆の不動嶽に立て籠もり尼子勢と休む暇なく戦った。その後法勝寺(鳥取県西伯町)にあって武威を振るい伯州を鎮圧した。しかしながら長年の遠征で、自国の防衛に手がまわらなかった。そこへ備前へ放しておいた諜者から浦上氏、宇喜多氏、松田氏の動きについて情報が入った。
「浦上宗景と松田将元が和議を結びました。裏で糸を引いているのは宇喜多直家のようです」
「証拠は」
「浦上宗景とは犬猿の仲だった将元自身が、宗景の居城天神山城へ出仕するようになったし、直家の二人の娘のうち一人を将元に嫁がせたことです」
「それだけか」
「さらに直家はもう一人の娘を美作の三星城城主後藤勝元へ嫁がせました」
「後藤勝元は尼子の傘下だった筈だが」
「そこが直家の老獪なところで、後藤を尼子から離脱させ浦上と同盟を結び北の脅威をなくしておこうという魂胆です」
「狙いは」
「備中へ侵攻してくる準備かと」
 当初は自国の勢力を維持するだけの目的で尼子氏と結んでいた備前の松田氏であったが三村家親の不在を狙って備中に手を出して領地を侵犯しはじめた。知らせを受けた家親は尼子氏の勢力が衰え僅かに出雲の富田城一つを維持するに過ぎなくなったことでもあるし家親が伯州に留まっている必要もなくなったので暫く本国へ帰って領地を固め、松田氏を討って備中から尼子の勢力を駆逐したいと毛利元就に願い出た。
「尾張の織田信長が今川義元を桶狭間で打ち破り(1560)美濃をも攻略して、都を窺っています。殿も早く都を目指して下さい」
「都を目指すには、備前と播磨を攻略して置かねばなるまい」
「備前攻めはお任せ下さい。存分にお役に立ってご覧にいれます」
「頼もしく思うぞ」
「ついては、備中へ帰国することをお許しください」
「あい分かった」
 許されて備中へ帰ってみると松田氏は今まで敵対していた宇喜多直家と和睦し浦上宗景の麾下として備中進出を企てているということが分かった。浦上氏の家中では、宇喜多直家が新興ではあるが最大の実力者になっていた。浦上氏の意向もあって松田氏は直家と同盟し、三村氏に対抗しようとしたのである。 金川城主松田元輝の嫡男元賢と宇喜多直家の娘との結婚はこのような背景のもとに行われた政略結婚であった。
 帰国した三村家親は、電光石化の如く備前に進出して金光与次郎の拠る石山城(1563)を攻めこれを一気に落とした。次いで船山城(1563)を攻撃してこれも難なく落とし、須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。 
 永祿八年(1565)五月三村家親は美作へ出陣し、後藤勝元の三星城を攻めた。後藤氏の三星城は現在の英田郡美作町明見にあった山城で梶並川と滝川の合流点の西側に位置していた。城主の勝元は、金川城の松田氏と同様これまで尼子氏の支配下にあったが、尼子氏の衰退に伴って離脱し、西の三村氏に対抗するため東備前の浦上氏と結んで、東美作の地を浦上氏と分けあったのである。また勝元は宇喜多直家の娘婿でもあったから宇喜多直家は三星城への応援として馬場次郎四郎に足軽を添えて美作へ行かせた。

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2005年08月17日(水) 三村一族と備中兵乱22

 義辰は世に聞こえた大剛の武将だったので手勢僅か三百でよく抗戦し家親、光景の軍勢をてこずらせた。しかしながら兵糧も尽きて残す所十日分ほどになったので、籠城の兵に最後の決戦を促した。
「三村軍には加勢があるので、いつもより兵の数は多く見える。城はすっかり取り囲まれたので、一人の命も助かる見込みはない。後は兵糧が尽きて身は疲れ力は落ちて、敵と太刀を交えることも出来ず、むざむざ飢え死にするだけだ。まだ精気が残っているうちに撃って出て、一方をうち破って落ちていこうと思う。もし敵が強くて切り抜けることができない時は、皆で枕を並べて討ち死にしよう」
「いざ戦おう」
「もとより覚悟の上」
と一族郎党は口々に決意を示し意気軒昂であった。
 翌日四月六日全員二日分の兵糧を持って、大手門の門を開くと、なんの名乗りもせずに三村の陣へ切ってかかった。
 これをみた三村勢は
「さあ、吉田が撃ってでたぞ。漏らさず討ち取れ」
としきりに命令して戦った。しかし、不意をつかれた三村軍は陣型を立て直すこともできず、軍旗は乱れ、弓は前後に混乱して撃てなかった。
 敵が怯んだところを吉田義辰は
「孫子十三篇にいう、虚実の二字あり。敵の備えの虚なるところを撃ってこそ、必勝の術である。者ども続け」
と一文字に切って入った。
 これに対して、真先に立ち向かった三村親房はここを破られてはかなわないと必死に切り結んだが、深手を負ってしまった。それを見た兵は気を削がれてしどろもどろになり、ついに五百騎の備えが崩れてしまった。
 三村勢が引くのに替わって香川光景の兵三百騎が戦った。吉田義辰はここを破れば取りあえず切り抜けて落ちることができると考えて、ひときわ激しく戦った。
 そこへ三村家親の隊一千騎ばかりが押し寄せ横合いから切ってかかった。戦死を覚悟した吉田が一歩も引かず戦っているうちにどうした弾みか、一隅を打ち破って、吉田は落ちていった。
 これを見た三村家親は
「吉田軍は僅か二三百の勢力であったのに、上下ひとつとなって死を覚悟して戦うので我が大軍にもかかわらず逃がしてしまった。味方は多勢を頼み死を恐れたためにこんなぶざまなことになってしまった。どんなことがあっても負けるわけにはいかないのじゃ」
と怒りを爆発させた。
 これを聞いて三村の郎党が我先にと追いかけると吉田義辰は引き返して戦った。はじめは七八十名程の兵が従っており、主人を討たせてなるものかととって返して戦い討ち死にするものもあり、或いは逃げ延びるものもあって、最後は西郷修理勝清ただ一人になってしまった。西郷勝清は主人をなんとか落ちのびさせようとして、数回敵に立ち向かい切りむすんだが股を二カ所突かれて、倒れもはやこれが最後かと思われたとき、吉田義辰が相手の敵を追い払い勝清の手を引いて落ちて行った。
 勝清は主人に向かい、
「自分はたとえ、郷里に帰ることができてもこのように、深手を受けているのでとても療養できるものではありません。ましてや、前後の敵を打ち払って逃げることは難しいことです。どうか、私を捨てて、殿一人でも国へ帰られて晴久公にお仕え下さい。臣下を救うという義のために主君への忠節をおろそかにすることは、勇士や義人の本意ではありません。早く落ちて下さい」と再三諌めた。
 しかし義辰は
「わしは戦場で討たれて、死にかけたことが何度かあったが、お前が身命を捨てて危ういところを助けられた。そのお蔭で度々功績を立てて名を上げることができた。この恩に報いないわけにはいかない。死ぬなら一緒ぞ」
と言って、手をとって肩に引っかけて落ちて行った。
 そのうちに武装した土地の百姓達が、落人があると聞いて、馬や武具を奪い取ろうとして七八百人があつまり、逃げ道を遮った。義辰は大太刀を奮って切り払い、漸く川辺まで逃げ延びた。
 一息ついて川の対岸をみると武装した百姓達二三百人が、弓矢をつがえて待ち構えている。後ろを振り返ると三村親宣が五六十騎で追いかけて来ている。 「勝清、こうなっては網にかかった魚と同じでもはや、逃れる術はない。自害しよう。お主死出の旅路の供をせよ」
と義辰が言うと
「私を打ち捨てて落ちれば、その機会は十分あったのに、自分を助けようとして敵に取り込まれるのは残念でなりません。自分の身がまともであれば、ここを打ち破って落として差し上げましょうに、却って足手まといになることが口惜しいことです。しかしながらその御志の有り難さは七世まで生まれかわっても忘れることはできません。どうか早く首を打って下さい」
と言って勝清は首を差し出した。義辰は太刀を振り上げて勝清の首を打ち落とした。そこへ義辰に縁のある禅僧が走ってきて
「まず、自分の寺に入りなさい。手だてを考えて落としましょう」
と言ったが義辰は
「命を助けようと思えば予ての謀も有りましょうが、勝清と共に死のうと決心したのでこのように敵に囲まれてしまいました。そのため貴僧にまで迷惑をかけるわけにはいきません。御志は有り難いと思いますが、どうかここは死なせて下さい。お情けあるならば一門の者へ自分の最後をお伝え下さい」
と前後の様子を詳しく語って、川中の石の上に腰を掛け大音声を張り上げた。 「吉田左京亮義辰という剛の者が切腹するのを見ておき後世の物語にせよ」と叫んで腹を十文字に掻き切り、太刀を取り直して自ら喉を押し切り、川の中へ飛び込んだ。これを見て周囲の敵の感じいった声は、しばし鳴りやまなかった。
 三村親宣は義辰の首を取って帰り、主人の家親に見せたところ、家親も
「義辰は勝れた勇士である。懇ろに葬ってやれ」
と命じて、松月和尚という曹洞宗の僧を招き寄せて義辰の供養を懇ろに執り行った。
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2005年08月16日(火) 三村一族と備中兵乱21

  九、松山城へ家親入城
                             
 松山城には上野氏を滅ぼした荘為資が猿掛け城から移ってきていた。この時期の荘氏は尼子氏と結んでいた。毛利元就と結んだ三村家親との二回に及ぶ戦いで決着のつかなかった猿掛け城攻防戦では、三村家親の嫡男を養子に迎えるという屈辱的な和睦を余儀なくされて猿掛け城は養子の元祐に譲って隠居したが、松山城も嫡男高資に譲っていた。猿掛け城が実質的に三村氏の支配下にはいった今、備中地方で尼子氏にとって最後の拠点となった松山城の守りを強化するために、吉田左京亮義辰が守将として派遣されていたが、城主の高資と折り合いがよくなかった。
「お館様、荘為資が死にました」
と諜者の家好が家親に報告した。
「死因は」
「卒中のようです」
「松山城の様子は」
「高資と義辰の仲がよくありません」
「不和の原因はなんだ」
「高資が備中の宇喜多直家と結ぶよう画策しているからです」
「若造め、背後から攻めようという魂胆か」
「宇喜多に対する備えをお忘れなく」
「憮川城を築城中じゃ」
「さすが、お館様。手のうちかたがお早い」
「高資は城にいるのか」
「いません」
「何処へ行った」
「備中の宇喜多に隠まわれている疑いがあります」
「為資が卒し、高資が城をでた今が攻撃のチャンスだな」
「御意」この情報を入手した家親は直ちに、琵琶法師の甫一を使者として毛利元就の許へ派遣した。知らせを聞いた毛利元就は直ちに香川光景と三村家親に出陣命令を下した。
家親は備中、備後の国人を集め、三千騎で永禄二年(1559)三月中旬松山へ撃って出た。

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2005年08月15日(月) 三村一族と備中兵乱20

 一方、荘ではこのことを夢にも知らず鶏が暁を告げたのを合図に先陣、後陣の順で撃ってでた。荘が敵陣五、六町まで進んだとき、隊列の中ほどへ両手を広げて飛び出してきた百姓の風体をした若い男がある。
「止まられえ。とまられえ。お館様に御注進じゃ。一大事じゃ」
「何者じゃ」
と誰何するものや槍を突きつける兵の動きで隊列の動きが乱れた。
「なんだ、お主、庭番の小田崎ではないか。慌てふためいてどげぇした」
と騒ぎに気付いた荘為資が言った。
「今宵の夜討ちの計画は敵に漏れて、敵はいろいろ先手をとって待ち構えておりますらぁ。夜討ちはおえません。おやめんせえ。危険ですらぁ」
と小田崎が答えた。
「お主誰から聞いたのじゃ」
「わたしの長年の知人が、成羽におりますのじゃが、先ほど密かに私のところへ訪れて夜討ちの事が三村方に漏れていると知らせてくれたんですらぁ」
「そうか。よく知らせてくれた。それでは敵の気がつかないうちに引き揚げよう」
と下知をだし、行吉を殿にして静かに諸軍を引き返した。
 荘軍の動きに気付いた三村の物見の者が急いで馳せ帰り家親に報告した。
「なんでそのようなことがあろうか」
と再度物見を出したが同じ報告であった。
「敵は夜討ちを止めて引いている。一気に追って攻めよ」
と家親が下知すると、一千騎が鬨の声を一斉にあげながら荘軍をおいかけたので、五郎兵衛、三徳斉らもこれを聞いて追撃に加わった。孫兵衛、松山、水落末田などの後詰隊も荘軍の横合いをついて撃って掛かった。
 攻撃を受けた荘 為資は
「一方を討ち破って引き揚げよう」
と言って兵士を一か所に集めて様子を窺っていた。
「お館様はここを引いて下さい。先方の敵の数は鬨の声からすると僅かなものだと思います。殿(しんがり)はそれがしが仕りましょう」
と為資に向かって行吉が言って引き返そうとしたとき藤井四郎次郎もこの場に駆せ寄ってきて両勢合わせて七百騎が死を決して進んで行った。家親軍がこれを迎え討ち、孫兵衛、熊谷、天野らが藤井、行吉軍へ前後左右から襲いかかり大激戦となった。荘為資も三村孫兵衛と渡りあったが次第に押されて、荘軍は引いていった。
 村田掃部助は先陣の方からの鬨の声が近くに聞こえたので心配になり物見を出した。
「味方は、敵に押されて引いているところです」
という報告なので、
「お館様のもとへ」
と叫んで馬に鞭を加えて為資軍と合流しようとした。そこへ、藤井、行吉が散り散りになって逃げてきた。為資は集まってきた藤井、行吉、村田らの荘軍と共に反撃した。両軍が切り合い、突き合いの激しい戦いとなった。しかしながら暗夜の戦いなので、敵味方の区別がつきにくく、名乗りを挙げる声や合言葉を頼りに走り廻りながら討ちあった。
 三村軍はかねて打合せた通りの戦いができたが、荘軍は不意の戦いであったから次第に押されて負けるところとなり退いた。
 家親は勝ちに乗じて逃げる者をしきりに追ったので行吉は為資を逃がすために取って返し、激しく切り結んで壮烈な討ち死にをした。
 藤井四郎次郎は大小三カ所に傷を受け郎党に助けられながら逃げのびた。為資の手の者は散り散りになってしまい為資一騎のみでようよう猿掛け城へたどり着いた。
「勝って兜の緒を締めよじゃ。戦いはこれまで。深追いするな」
と家親が言って引き返した。
 討ち取った首を改めてみると、村田掃部助行吉某、池上七郎四郎、加藤十兵衛らの大将首をはじめとして百七十余あった。
 荘為資は家親の謀略によって戦に負けたので、もう一度戦って鬱憤を晴らしたいと思った。しかし、冷静に考えてみると夜討ちをかけるという謀りごとが敵に漏れたのは内部に密通者がいるに違いない。内部を固めてからにしないとまた、負けるかもしれないと考えるようになった。
 一方の三村家親も今回は為資を討ち取ることができた筈なのに、彼が途中から引き揚げたのは、味方の兵が敵に情報を与えたからに違いないと思うようになり自重して戦を仕掛けようとはしなかった。
 為資は尼子の力が衰えてきたいま、三村と戦うことは毛利を敵に廻すことであり、いずれ家を潰してしまうことになると考え、人質を出して和睦した。
 その後毛利元就の斡旋で三村から家親の長男元祐を養子に貰い受け為資は家督を譲って隠居した。



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2005年08月14日(日) 三村一族と備中兵乱19

三村家親は今回の戦では吉川軍の井上河内守の弓矢の加勢によって危うく難を逃れたので吉川元春の陣屋 へ御礼の挨拶に伺候した。
「この度、敵を侮って一戦を仕損じたのは私の不覚でした。もう一度猿掛け城へ押し寄せて挑戦し荘を討ち破らなければ家親の名がすたります。どうかあとは家親にお任せ願い元就公には陣を払ってお引き揚げ下さるよう申し上げてつかあさい」
と家親が言った。
「そうか、それではその旨わしからよく伝えておこう。お主の今後の働き振りはこの元春が引き続き在陣してしかと見届けようぞ」
「有り難きしあわせ」

 元春への挨拶を終えた家親は、中村家好を呼んで
「三村家親は荘との戦で負けてしまい、面目を失墜したので次の戦には玉砕する積もりで掛かってくる準備をしている」
という噂を猿掛け城内で広めるよう指示した。

 緒戦から二か月後の四月三日、三村家親の千五百騎が、先陣として先に進発し、元春が熊谷、天野ら二千余騎を従えて後陣に控えそれぞれに井原へ布陣した。

 このことを聞いた荘為資は
「家親は先日の合戦で負けた無念を晴らすため、撃ってでたのだろう。必死の覚悟ができているから今度は手強いぞ。味方は普通の戦いをしたのでは勝ち目がない。井原へ夜討ちをかけよう」
と言って次のように下知した。
「わしは七百余騎で三村家親の陣を討つ。元春は三村の陣が夜討ちを受けたと聞いたら必ず援兵をだすであろう。藤井四郎次郎は五百騎で手薄になった元春の陣中へ駆け込んで不意に戦をしかけよ」
「村田掃部助は三百騎を率いて遙かかなたの後陣に控え、もし夜討ちに失敗した兵が引き退いてきたら、備えを固くして待ちうけ諸勢を引き取れ」
「行吉は二百騎で為資の後陣から三町ほど引き下がって備え、夜討ちが難儀のようであるならば合図を待って交代せよ。合戦は五日の丑の刻とする」
 三村家親の陣へ諜者の座頭が馳せて来て
「荘の陣では今夜、夜討ちをかける準備をしようると聞きましたけん、用心してつかあせい」
と告げた。
「そうか。噂に騙されて動きだしたか。願ってもないことよ」
と家親は言って三村五郎兵衛、篠村三徳斉、三村孫兵衛らを呼んで次々に下知した。
「五郎兵衛と三徳斉は三百騎を率いて、八町先の井谷の茂みに隠れて待機せよ。夜討ちの兵が引き揚げる所をさえぎって襲え」
「孫兵衛は松山勘解由、水落甲斐守、末田勘解由、末田縫殿助らと三百騎を従えて二町下がった民家の傍らの竹林に待機して、夜討ちの戦いが半ば頃になったら後詰めをせよ」
「熊谷、天野、香川は荘が夜討ちにでてくるところを取り巻き四方からかかれ」
 家親は千余騎で荘の本陣へ切り掛かろうと待ちうけていた。

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2005年08月13日(土) 三村一族と備中兵乱18

 猿掛け城の城代は荘一族の荘実近であったが急を聞いて松山城から駆けつけた荘為資は世に聞こえた猛将だったので勇みたって城兵に下知した。
「敵に城下を焼かれるのを遠くから見ようるわけにはいかんじゃろう。すぐに撃って出て家親を追い散らし、元春と直ちに勝負を決しようぞ。まず、千余騎を従え、為資が自ら三村家親の手勢を攻撃する」
 ついで藤井四郎次郎に向かって
「お主は五百騎で三村の後陣をうつように見せかけて元春の本陣へかかれ」と命じた。そして
「自分は家親を追い散らしてすぐに元春の陣へ切ってかかる。前後からかかれば元春がいかに勇猛であろうと備えが乱れて戦にはならんじゃろう。しかし三村家親の兵が引かないうちに元春に襲いかかってはおえんぞ。引く敵と一つになつて追いかけ、不意に懸かって切り崩すんじゃ」
と作戦を立て合図を決めて敵の様子を窺っていた。

 陽もやがて西へ沈みかけたので家親は士卒に向かって
「兵法にいう鋭く迫ってくる敵は避けて、緩んできた敵は討つべしとは、今のような状況の時のことじゃ。さあ、かかるぞ、ものども続け」
と下知して、自ら千余騎を率いて撃って出た。そして味方陣営の田治見、石賀伊達などには
「兵五六百騎を率いて右の永田山に上がって、元春の本陣へ懸かるような態勢をとるよう」
指示した。

 為資は三村勢が兵を引く後をつけて、射手を先行させて追いかけたところ家親は作戦を見破って、とって返し応戦した。
「日が暮れた。夜になってはたとえ一戦に勝ったとしても、引き退くことが難しい。敵から離れて引き揚げることにしよう」
と家親が考えていると藤井四郎次郎が半月の指し物に緋縅の鎧を着て黒い馬に跨がり五百騎ばかりの集団を率いて一挙に襲いかかった。家親も対抗する術がなく、
「ひけ、ひけ」
と下知して屋陰を目指して引き揚げた。

 吉田から出張ってきた志道次郎四郎、椿新五郎左衛門、臼井藤次郎、桜井某らは三村軍に加わっていたが、
「味方が敗北するのは口惜しい。おめおめ逃げては吉田勢の面目がたたぬ」ととって返し抗戦し四人は華々しく討ち死にした。

 藤井四郎次郎の軍勢はいよいよ勝ちに乗じて鬨をあげ、やがて元春の旗本を目指して進んできた。元春はこれを見て二千騎を二手に分けて陰陽の備えをとり射手を左右に進めて「吉川元春これにあり、恐れて逃げるか、悔しかったら引き返してきて我と戦い討ち死にせよ」
と大音声を張り上げた。この頃中国地方では大猛将として名高い元春に目の前で名乗られると藤井軍は怖じ気ついて、突撃をやめ馬を一所において徒に鬨の声だけをあげているだけであった。そのありさまは、ちょうど獅子が一吼えすれば百獣が慌てふためくようなものであった。

 このとき家親軍を援護するため河原毛の馬に打ち乗り鍬形打った甲に黒具足を着けた武者がただ一騎、道の小高い所へ馬を乗り上げ
「井上河内守はここにあり、井上の者共はここへ集まり来るべし」
と呼ばわったので源五郎、源三郎、与三右衛門、右衛門大夫、玄蕃をはじめとして五十騎ばかりが井上の周りに集まった。いずれも弓の上手であったので、鏃を揃えて散々に発射した。この井上の手ごわい反撃にたじろいで、追手の藤井四郎次郎の一団も深追いすることなく引き揚げた。緒戦はこのようにして日没引き分けとなった。



2005年08月12日(金) 三村一族と備中兵乱17

八、猿掛け城攻め
                           
 毛利元就と誼を通じた三村家親は備中の城を殆ど制圧し、一族の豊富な人材を配置して武威を誇っていたが、荘為資の拠る猿掛け城と松山城だけが自分の意のままにならない尼子方の城であった。中国地方はいずれ、尼子と毛利の決戦で雌雄が決まると考えた家親は尼子攻略の手始めに猿掛け城を攻撃することとし、再び五郎兵衛を元就の許へ派遣し応援を頼んだ。これに先立ち荘の領地内へは中村家好を頭とする諜者団を密かに潜入させた。

この時代は謀略の時代であった。多くの紛争は合戦で決着がついたが、それは結果であって直接武力が激突する前に諜報活動が密かに繰り広げられ、諜報・謀略戦で敵方にダメージを与えておくことが、合戦の帰趨を左右した。勝つためには諜報・謀略を用いることは卑劣なことでもなく恥ずべき行為でもなく、相手の裏をかいたり奇策を用いる作戦が知謀・利巧として高く評価された。汚い手段を用いて卑怯と非難されても、恬として恥ない図太さを戦国大名達は備えていた。和睦と離反、懐柔と背信、連合と裏切りが日常茶飯事の如く、起こるこの時代においては、疑心暗鬼に陥り必要以上に用心深くなり、かえって罠にはまりやすくなることがあった。
 家親が猿掛け城に放っておいた諜者団には、琵琶法師や乱舞の芸人などがいた。また、芸州仏通寺の沙門が托鉢するのに紛れて出家を数人作りたて敵国へ潜入させもした。彼らの情報を分析して、猿掛け城を攻撃する時は今だと判断し、応援依頼の使者を派遣したのである。
 家親の依頼をうけた毛利は盟約に従い、元就、隆元、元春の親子三人で、天文23年(1553年) 二月初旬芸州吉田を出発した。元就隆元の二人は、備中国伊末井原に陣を張った。猛将として知られた元春は自信満々備中猿掛け近くまで打ち出した。
 三村家親は先陣として千五百騎を猿掛け城下近辺の屋陰へ繰り出し、村々に放火して相手方を挑発した。



2005年08月11日(木) 三村一族と備中兵乱16

 三村家親は鶴首城を拠点として毛利氏と提携しながら尼子氏と戦い備中に勢力を伸ばした。また美作への侵攻を繰り返しながらさらには備前へ進出の機会を狙っていた。

 堺へ出てきた又次郎は異質な雰囲気を感じていた。何か人の精神を開放的にさせるものを町がもっていた。町に活気があった。しかも、それは何者にも束縛されないで人人が自分のために働いているのである。自立自尊の精神が横溢しているように感じとっていた。
 町人達が戦国の動乱から町を守るために、濠を堀り、武装して自衛の態勢を整え、有力町人十人による会合衆によって町政を指導する自治体制を確立していた。永祿十一年(1568)織田信長の矢銭二万貫の要求に対してこれを拒絶するほどの力を蓄えていた。

 又次郎は弟の喜三郎を探しだした。喜三郎は師匠の橋本一巴が美濃の織田信長に鉄砲指南役として召し抱えられたので堺の鉄砲鍛冶の工房へ用心棒を兼ねて鉄砲職人として奉公していた。
「兄者久しぶりじゃのう」
「お主も達者でなによりじゃ。お主は鉄砲鍛冶で奉公しているそうじゃが、田舎へは帰らんつもりかのう」
「鉄砲鍛冶に奉公しとるんは、鉄砲の腕を磨きたいからじゃ。腕を磨いたら田舎へ帰って猟師をしようと思うとるんじゃ」
「青江で鉄砲鍛冶をやればええが」
「それも考えて奉公しとるんじゃ。わしゃ根から鉄砲が好きでのう、猟師に早うなりたいと思もよんじゃ」
「そうじゃったんか。わしも猟師になろうかのう」
「何でそねえことを言うんじゃ、兄者は三村様の御家中で奉公していたんじゃろ。何ぞ落ち度でもあったのかいな」
「そうじゃぁねぇ。堺の町を歩きょうるとのう、誰にも束縛されない生活のことを考えさせられるんじゃ。自由な生活といゃぁ田舎では猟師ぐれえしかなかろうが」
「ところで堺へは何しにきたんじゃ」
「殿の御用で鉄砲を買いにきたんじゃが」
「何丁欲しいんじゃ」
「一丁か二丁でええんじゃがのう」
「金はぎょうさん持ってきたんか」
「百貫ほどじゃ」
「それじゃ、買うのは難しいじゃろうな」
「なぜじゃ」
「一丁や二丁ならぼっこう高けえからのう」
「ほう、なぜだ」
「出回っている数が少ねえけえ高こうなるんじゃ」
「鉄砲鍛冶の所へ行けば買えようが」
「それがまた難儀じゃ」
「どうして」
「よほどのつてがねえと売ってもらえねえんじゃ」
「それはまた何故じゃ」
「大名家が纏めて買ってしまう」
「どんな大名が買うんじゃろか」
「甲斐の武田では三百集めようとしているし美濃の織田では三千集めるという話じゃ」
「お主の奉公している鉄砲鍛冶ではわけて貰えねえかのう」
「そりゃ無理じゃ。織田家の注文をこなすのに汲々しているし、第一織田以外に売ったことがばれたら首が飛ぶ」
「困ったのう。なにかええ智恵はないもんかのう」
「一丁だけなら、わしが昔使っていたのがあるが」
「使い古しじゃ、殿に渡すわけにはいかんじゃろ」
「兄者が使えばええが」
「そうじゃのう撃ち方をわしも習いたいしのう。よろしゅう頼みますらあ」 
「明日手ほどきしよう」
 喜三郎から手ほどきを受けて鉄砲の扱い方は身につけたが、肝心の鉄砲が手にはいらない。そうこうしているうちに鉄砲を買うために持ってきた百貫の銭を旅籠で盗まれてしまって国へ帰れなくなってしまった遠藤又次郎である。
    

  
                    



2005年08月10日(水) 三村一族と備中兵乱15

 遠征をしないときには、家親は鶴首城に家臣達を集めて会議を開いた。この会議は寄り合いと称し、領地の経営についても家臣達に智恵や意見を出させて自由に討議させた。農作方法の改善、武器武具の改良、輸送手段の改善、築城技術の改善等まで広範な領域にわたって家臣達の意見を広く取り上げた。現代の企業経営で従業員の参画意識を高め、やる気を喚起する方法として広く用いられているTQC的な発想を用いて領内の経営にあたったのである。

 ある者が高梁川を利用した舟による交易を考え、積み荷を多くするため舟底の浅い高瀬舟を提案した。高梁川を南下すると玉島、水島を通過して瀬戸内海へ至る。高梁川の上流には良い品質の鉄鉱石が採れる千屋があり、成羽の吹屋では銅を産出したのでこれらの鉄や銅の一次加工品を舟で玉島まで運び水島灘を航行して下津井港に到り、ここに寄港する遣明船の帰り船に売り捌こうというアイデアである。帰り船は自由港堺へ向かうものであった。当時の堺は商人達が自治的な共同体組織を作り上げ、会合衆という数名から十数名の富裕な商人からなる機関が合議制で政治を取り仕切っていた。この堺の商人達は御朱印船に代わって遣明船を仕立てて対明貿易を行い、巨大な利益を得ていたのである。

 そして、高瀬舟は積み荷を遣明船に売り捌くと瀬戸内海で採れる新鮮な魚貝類や沿岸地区で生産される塩を仕入れて帰り、内陸部の高梁地区の市で売り捌こうという着想としては優れたものであった。この高瀬舟の発想は家親によって取り入れられ実施された。この高瀬舟を更に発展させたのが備前の覇者となった宇喜多直家である。その宇喜多直家の客人として一夕高梁に遊んだ河村瑞軒が高梁川を往来する高瀬舟を見て感心し、後年京都に運河を開き高瀬舟を運河に浮かべて都会地への物資の大量輸送を実現したのである。

 この寄り合いは天下の情報についての意見交換会の役目も果たした。その情報は安芸、出雲、備前、京都へもぐらせている諜者達からの報告を家親が解説する形で行われることが多かった。桶狭間で永禄三年(1560)織田信長が今川義元を討ち破ったこと、同年毛利元就が天皇家に対して即位資を献上したこと、長尾輝虎が皇居修理料を献上したこと尾張で永禄元年弓矢の名人林弥七郎と橋本一巴が鉄砲で決闘して鉄砲が勝ったこと等が話題となった。
「申し上げたいことがございます」
と弓衆の又次郎が寄り合いで家親に申し立てた。
「なんだ」
「お館様は鉄砲というものをご覧になったことがありますか」
「まだ、ない。しかし話によれば雷のような音がして弾丸が目にも見えない速さで飛び出し、的に命中させことの出来る武器だというではないか」
「よく御存じで。私は三村の弓衆には鉄砲を持たせたらいいのにと思っております」
「お主は鉄砲をどこで見た」
「福岡で見ました」
「堺まで行かねば見られないのによくまあ」
「実はわたしの弟が橋本一巴の弟子でして、師匠から貰ったのを持っています。それをみました」
「高いだろう」
「橋本一巴は一丁五百金で南蛮人から贖ったそうです」
「そんな高価なものは時期尚早だ」
「そうはおもいません。技術革新は早い程他に差別をつけて優位にたてると思います」
「よそで使い出してから様子をみてからにしよう」
「それでは、遅すぎます。こんなものは人に先駆けてやってこそ優位性がえられるのですよ」
「そうかそれでは試しに使ってみるか」
「御英断です」
「舶来品だというではないか。つてはあるのか」
「私におまかせ下さい。堺へ行けば手にはいる筈です」
「よし。それでは一丁見本に求めて来るがよい」
との家親の命令を受けて、又次郎は堺へ出奔した。






2005年08月09日(火) 三村一族と備中兵乱14

  七、雲州富田城攻め
                           
 周防国の太守大内義隆は、安芸、備後、出雲、石見の諸豪族ら13人が一味同心して出雲遠征を促したので、これに応えて山口築山の屋形を天文12年(1542)正月11日出陣した。養嗣子大内晴持を始め、陶隆房、杉重矩、内藤興盛の三重臣以下精兵約一万五千がこれに従った。途中安芸の国府で毛利元就らの率いる安芸・備後の兵と合流し、雲州富田城を目指した。先鋒は三月、出羽の二ツ山に陣をしき、石見の諸将らが此処で参陣した。
 大内軍は最初の攻撃目標として赤穴の瀬戸山城を選んだ。攻撃の先鋒を命じられたのは毛利元就であった。この城は出雲、石見、備後の接するあたりに位置し尼子氏の戦略上の拠点となっているからである。雲州赤穴の瀬戸山城主赤穴左京亮光清は三千騎をもって城へ通じる道の難所に陣取り防戦した。

 この時三村家親も備中成羽から郎党百騎程を連れて参戦していた。
「又次郎、遅れをとるな。この戦いは筑前、肥前、周防、長門、石見、安芸備後、備中の武者が手柄を競う戦いぞ。初陣の手柄をたてるのはこのときぞ。怯むな」
と家親は又次郎の背中を叩いていった。
「はい。おやかた様」
又次郎は武者振るいしながら応えた。

 大内軍の三村家親、二階堂近江守、伊達宮内少輔、赤木蔵人、杉原播磨守、有地民部、楢崎十兵衛らの備後備中勢は六月先駆けして戦い赤穴光清を居城へ追い込んだ。
「血祭りにして軍神にささげよう」
と兵達は城の四方を取り囲んで弓矢を射かけて攻撃した。
 赤穴光清は名将の誉れ高く、富田城からの援将田中三郎左衛門らとともに籠城し、四方に弓の名手を配置して石弓を使って決死の防戦をするので、手負い死亡するものも多かった。
 寄せ手の大内方は城に突入することができないまま膠着状態が続いた。六月七日膠着状態に変化が現れた。
「おう、あの武者は」
 包囲した武者達の視線を一点に釘付けにしたのは武者二騎。馬上で抜刀した刀剣を夕日にきらめかせた。
「安芸の熊谷直続ではないか」
「もう一人続いているのは」
「直純の傅人兄弟荒川与三だ」

 城を取り巻く兵士達の衆人環視の中でそれは一際目だった行動であった。刀をふりかざすと突然大音声を張り上げたのである。
「我こそは、先の守護武田元繁の家臣熊谷元直の舎弟熊谷直続なるぞ。こたびの合戦では毛利元就殿の傘下で出陣そうらえども、元をただせば、室町幕府の七頭として栄し武田氏信の末裔なるぞ。そのまた元をたずぬれば、清和天皇の六代の末裔にして源の義光公こそは我等が先祖なり。赤穴の光清殿にはいでて尋常に勝負めされい」
と言い終わるや城めがけて突進したのである。これを合図に熊谷直続の手勢二百騎が直続の後を追った。
「又次郎よく見ておけ。これが礼法にかなった戦ぞ。近頃清々しい、戦いの作法よ」
「危ないですね。弓矢で射られたらどうするのだろう」
と又次郎が正直な感想を述べた。
「名乗りを挙げて、切りこむときは一騎討ちを求めているのだ。敵方の赤穴光清は出てきて熊谷直続と勝負するのが武士というものだ。者ども、射方やめー」
と家親が配下の兵に大声で怒鳴った。

 暫く矢音が止み、城の大手門がひらきかけたので一騎打ちが始まるかと期待感が渦巻いたが、門は開かず、矢が一斉に飛んできた。熊谷直続の手勢の半分ほどが弓矢で射られ倒れたところへ門が開いて赤穴勢が一千騎程城外へ打ち出してきた。
 直続は奮戦し目前の敵を討ち取ったが、多勢に無勢、だんだん追い詰められたところへ狙いすませて城の中から射られた矢を顔と喉へ射こまれて倒れてしまった。
「犬死にだ」
と又次郎は思った。
「家柄を誇り、出自の良さを自慢してみても死んでしまえばお終いだ。戦では必ず勝たねばならない。勝つことが正義だ。勝つためには弓矢の威力を十分引き出せるような戦術を考えださなければならない」
と呟いて自分に言い聞かせていた。
 双方引かぬままに再び膠着状態が訪れたが7月27日未明、毛利元就は大内方四万の大軍で総攻撃を敢行した。

 総攻撃では赤穴城のそれぞれの上り口に迫ったが、赤穴城からは小石が次々に飛んでくる。赤穴勢の必死の反撃に戦線を突破することができず、逆に退却した兵士も少なくなかった。合戦は長引くかと思われたが、まもなく赤穴城は陥落した。城主の赤穴光清が流れ矢に当たって無念の死をとげるというハプニングが生じたからである。総大将を失って戦意を喪失した籠城軍は光清の妻子を助けるという約束で開城し、その夜老幼合わせて三千人が月山目指して逃げていった。
 この合戦での死者は双方合わせて千数百人に及んだと記録されている。





2005年08月08日(月) 三村一族と備中兵乱13

 尼子晴久は安芸の国へ侵攻する場合、備後国比叡尾城(現広島県三次市畠敷町)が尼子軍の通路を妨害していることになり、兵糧を送るのに邪魔になるからこれを打ち従えようと考えた。そこで、天文九年(1504)八月尼子久幸尼子清定らを先陣として五万六千騎を率いて、府野(広島県双三郡布野村)山内(広島県庄原氏山内)へ布陣した。比叡尾城の城将は、国人の備後三吉入道とその嫡子新兵衛であった。彼らは最初数か月はよく奮戦し防戦したが、なにせ多勢に無勢である。精鋭とはいえ少勢ではこの大軍を支えきれないと判断し大内家に応援を求めた。

 直ちに大内家では幕下の国々へ廻文し、これに応じた侍大将達は備後三吉の居城へ後詰を行った。備中からは船で鞆の津へ石川左衛門尉らが六千騎の兵を率いて到着した。また陸路を三村家親、二階堂近江守、野山宮内少輔、赤木蔵人、上田右衛門、穴田伊賀の六千騎が駆けつけ、備後国東条と出雲横田を結ぶ大阪峠の難所に要害を築き、敵に備えた。

 三村家親らの南備中勢は諜者を城へ忍ばせ味方が到着したことを告げ合図をまっていたところ、
「九月二日の深夜城兵が夜討ちにでる。城内で法螺を鳴らすので、一斉に尼子晴久の本陣に攻め込んで欲しい」
という知らせがあった。
「合い言葉をかけながら、深くせめいり、浅く引き、敵を打っても首は取らないことにしよう」
と約束ごとをを決めて丑の刻に尼子の陣へ押し寄せ鬨の声を挙げた。
 寝耳に水の尼子軍が慌てふためいている所へ矢を射かけ、突きかかり多くの敵をうちとった。尼子晴久が旗や幕をうちすてて逃げるところを東条と横田の境目で待ち受けていた備中の三村家親が尼子晴久の旗本へ切りかかった。不意をつかれた尼子勢力は慌てふためいて道もない山へかけのぼり谷底へ雪崩落ちていった。中には自分の持っていた太刀に貫かれて死んだ兵も数人いた。

 天文十年(1541)尼子晴久は再び山陰七か国の軍勢七万騎を率いて芸州へ出陣し、毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃した。この合戦では大内義隆卿より派遣された援軍の深野平左衛門、宍戸左衛門尉、宮川甲斐守らが尼子晴久勢の背後を襲ったが大軍でありなかなか勝敗は決しなかった。
 この時大内義隆から備中各国の麾下の侍大将に出された下知は
「尼子晴久は大軍をもって備中国をおしとおるので、各自の城を固く守り街道の要所には関番を置き雲州勢の陣所へ兵粮を送れないように妨害せよ」
ということであった。この下知に従い石川左衛門尉、二階堂近江守、高橋玄蕃上田右衛門、清水備後は荘庄太夫の居城である猿掛山城と石田の要害に立て籠もり、関か鼻をきりふさいで兵粮の通路を止めた。

 三村家親、赤木蔵人、野山宮内少輔、秋庭大膳、鈴木孫右衛門は東条へ出陣し大阪峠に要害を構えて兵粮の通路を押さえ尼子勢の往来を止めた。尼子晴久は数ヵ月にわたって吉田郡山城を攻めたが、勝利を得ることができず引き上げた。元就からは備中の侍大将達に厚礼があった。

 丁度この頃、日本の戦法に、革命的な変化をもたらすことになる武器が西洋から伝来した。ポルトガル船が種子島へ漂着し、鉄砲が日本へ伝わったのである。天文十二年(1543)のことである。

 備中の虎として周辺の国人達に恐れられる程の武威を誇るようになった家親は、将来、中国地方の覇者となるのは誰だろうと尼子晴久、毛利元就、宇喜多直家、松田元輝等の器量を観察したところ毛利元就がもっとも有望であると考えて、その傘下に入ることを決意した。
 使者として一族の三村五郎兵衛を元就の許へ派遣し親書を渡し口上を述べさせた。
「これまでは、どの陣営にも属さず独力で戦ってきましたが、今後は毛利の殿のお味方をして忠勤を励みたいと思います。殿は中国地方を平定され、ゆくゆくは都へも上られる器量のお方だと信じております。この家親、殿のお役にたてるよう身命をなげうってぞんぶんに手柄をたててご覧にいれましょう。そこで中国を悉く御平定なさった暁には、私が身命をなげうって切り取ったところは全て賜りたい。また天下を平定されたときは備前、備中、備後の三か国を賜りたい。家親が一人お味方につけば、殿の声望と相まって備後、備中の国人達は三年のうちに悉く我等の味方になるでしょう。そのためには先ず当面の敵である猿掛け城に籠もる荘を攻めほろぼすことが肝要です。荘が落ちたら細川、石川、伊勢の一族どもはやがて降参してくるでしょう。どうかこの趣旨を御理解願って早く援軍を賜りたい」
と申し上げたところ毛利元就は、
「家親が味方になれば、千人の味方を得たようなものだ。荘を攻める日時が決まり次第早速応援しよう」
と喜んで約束した。





2005年08月07日(日) 三村一族と備中兵乱12

  六、荘 一族
                               
 荘氏は源平合戦で活躍した武蔵七党の一つ児玉党の一員であり、荘家長が建久七年(1192)一の谷の合戦で平重衡を生けどった功により、源頼朝から備中四庄を恩賞として貰い、武州から移住してきて土着した。最初は幸山城(都窪郡山手村西郡)に拠ったが、延元元年(1336)荘左衛門次郎は足利尊氏が九州から東上した際、足利直義の旗下に加わり、備中福山城(幸山城と同じ山にあった)で足利軍が新田義貞を破った合戦に参加した功で猿掛城主になっている。

 猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境に位置する猿掛山(標高232m )の山頂にあって昔の山陽道 を眼下に見下ろす要衝の地であった。
その後、正平18年(1363)足利直冬のために、一時この城を追われるが、細川頼之が備中守護職になると応永年間(1394〜1428)に荘資政の代になって再び城主に復帰した。幸山城へは石川氏が入った。城主交代の背景には細川氏の政略的な意向がはたらいていたのである。
 その後の荘氏は永享年間(1429〜1441)に備中守護細川氏のもとで猿掛城にあって幸山城の石川氏とともに守護代を務め勢力を伸ばした。荘孫四郎太郎資正、荘甲斐守資友、荘四郎五郎等がこの地を中心に多くの支城を築き城主となった。

 応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱で備中守護職細川勝久は細川総領家の勝元の指揮下で東軍の有力な武将として戦った。この大乱を機に備中でも寺社領や公家領の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化してきた。特に守護代荘元資の活動が目立ち、延徳三年(1491)には讃岐の香西氏と連携して守護細川方の軍勢と合戦し五百余人を討ち取った。
 在京していた守護の勝久は翌年の明応元年(1492)に軍勢をひきつれて備中に入国し、元資を破って反乱を一旦鎮め元資と和睦した。
 前に述べたように元資は永正五年(1508)大内義興が将軍義稙を奉じて上洛したとき石川久次や三村宗親らと共に船岡山の戦いに参加し武功をあげ、都の生活を経験している。

 出雲の太主・尼子晴久は天文六年(1537)尼子の家督を継承してから、祖父尼子経久の志を継ごうと決意した。祖父の志とは上洛して天下に覇を唱えることであった。
 尼子の軍勢は天文七年播磨に入り、播磨国守護の赤松政村を追い、八年十月には英賀城を攻略した。また赤松政村を応援するため備中に進出してきた阿波国守護細川持隆の兵を撃破して武威を高めた。伯耆・因幡・但馬の名族山名一族には既に昔日の力は無くなっていたし、今また尼子に敗れた赤松氏にはかって美作・備前・播磨を統治した名族としての権威も地に落ちたので、東部中国の諸豪族は顔色なく尼子晴久が天下の覇権を握る日は近づいていた。
 しかしながら、大内義隆を後ろ楯に持つ毛利元就の勢力には侮り難いものがあったので晴久は安芸・備後を制圧して背後の心配をなくしてから東上しようと考えるに至った。
 尼子晴久は天文八年(1539)一族と重臣を招集して軍議を開いた。

「伯耆・因幡・但馬の山名に力なく、東に赤松を破った今、上洛して天下に覇を唱える時期が近づいたが後顧の憂いをなくする為に安芸・備後へ遠征して毛利の拠る吉田郡山城を攻めようと思うが、各々思う所を聞かせて欲しい」
と晴久が言った。
「賛成でござる。先鋒は是非それがしに」
「いよいよ天下取りに向かって御進発ですかおめでとうございます」
と大半の出席者が賛意を表明して大勢は出撃という熱い空気が漲ったとき、突如冷たい空気が流れこんだ。今まで苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙って聞いていた晴久の大叔父尼子久幸がやおら手を上げて発言を求めた。
「皆の意見は毛利討伐に固まっているようだが、最近の戦での勝利に奢って毛利の怖さに気がついていない。毛利の城は晴久傘下の城などとは違って、簡単に落とせる代物ではないぞ。毛利元就という名大将に立ち向かって遅れをとるようなことがあっては末代までの名折れになろう。わしは今回の毛利攻めには反対だ。皆の者、もう一度よく考えてこのたびの遠征は思い止まるほうがよい」
 主戦論に水をさされた晴久は
「野州殿も歳をとられたらこうも臆病になられるものか。毛利が力をつけて強くなる前に叩いておくのが、戦略というものであろう」
と二十六才の血気に任せて諫止の言葉を押し切ってしまった。

 当時、隠居して病床にあった経久は後日軍議の様子を聞いて
「久幸の判断は、私の気持ちによく合っている。小勢であるからといって毛利元就を侮ってはいけない。私の命は尽きかけているので私が死んだら久幸を私だと思い、軍事につけ政道につけ彼の諫言を尊重して領国を治めなさい。しかし、久幸も老年なので、新宮の国久を後見としなさい。新宮党を軍事の柱として一家が和合し、お互いに尊敬しあってことにあたれば領国の民が背くこともないであろう。そもそも家が滅びるのは一族の不和が原因である。よくよくこのことに思いを致して親類を労り、尊敬してわがままの驕奢を慎まなければならない」
と尼子氏の行く末を暗示するような訓戒を言い残している。

プライズ・プライズ!




2005年08月06日(土) 三村一族と備中兵乱11

 家親の放った諜者中村家好を頭とする諜者軍団の活躍で上野伊豆守の嫡男鷹千代丸は無事家親の手元に届けられ、以後鶴首城で家親の子息達と同様に養育されることになった。

「鷹千代丸は奈々の方に養育して貰うたほうがええと思うんじゃ。奈々の方は人の情けがようわかるお人じゃ。鷹千代丸は親を不条理にも突然失って寄る辺をなくした悲しさにうちひしがれている。この悲しさを判ってやれるのは、同じ境遇にあった奈々殿しかおりゃあすまい」
と言ったのは家親である。
「さすが殿。人の心をよく読んでおられるものじゃ。こういう殿についていく限り三村家の団結は万全じゃ」
と三村五郎兵衛がうなづきながら賛意を表明した。
「この城で生活になれてきたら、母御前には礼法を手ほどきして貰うことにしようと思うとるんじゃ。上野家は室町礼式については格式の高い家柄じゃけえのう。その美しきよき流れは、受け継いで子孫へ伝えていかねばならんのじゃ。また、三村一族も何時までも備中式に固執していたんでは都へ上がったとき恥をかくけんのう。なんでも若いうちに稽古することじゃ。若い者は志を大きく持つことじゃ」
と家親は三村一族が天下に覇を唱える志のあることを仄めかした。
 奈々の方の薫陶の甲斐あって鷹千代丸は情けのわかる武将に成人した。

 鷹千代丸の元服式の日のことである。
「ようここまで成人された。本日より鷹千代丸より名を改め、上野隆徳と名乗られるがよい。祝いに常山城を預けよう。備前常山城は三村陣営の最南端で備前の宇喜多勢とは鋭く対峙する重要な城じゃ。心してまもられよ」
と家親が言った。
「ははあ、有り難き幸せ。実の親にも勝る御配慮いたみいります」
と隆徳が応えると
「なんの、備前勢の抑えとして、それだけお主に期待しているということじゃ。ついては鶴姫と祝言をあげるがよかろう。元親とは義兄弟ということになる。いざというときには元親を助けて欲しいのじゃ」と家親が言う。
家親の信念は、一族団結こそが乱世を乗り切る秘訣であると考えているのである。
「ははあ、有り難き幸せ。重ね重ねの御恩、隆徳終生忘れませぬ」
と隆徳が礼を言った。
「鶴姫は気が強くて男勝りじゃが、根は優しい娘じゃ。末永く可愛いがってくれ。鶴姫さあ隆徳殿に御挨拶せぬか」と家親が言うと
「不束ものではございますが、よろしゅうお願い致します」
と三つ指ついて挨拶してから家親に向かって言った。
「父上、私にもお祝いの品を戴きとうございます」
「なんなりと申してみよ」
と末娘の頼みだけに備中の虎も好々爺ぶりである。
「先祖代々相伝の長谷の国平が鍛えた名刀を所望したいのですが」
「まて、あの刀はお奈々の方の父上の血で汚されて以来、不吉な刀として相伝することは止めにしたのじゃ」
「私は逆に、あの名刀は刀鍛冶の血で清められたと考えとうございます。是非御祝儀の品として戴きとう存じます」
と鶴姫は強硬である。
「隆徳殿如何かな」
と家親が聞くと
「名刀国平は当家の御先祖様が佩いて幾多の戦功をあげられたと聞いております。私を育ててつかぁさったお奈々の方に研いで頂いたこともある、由緒ある刀とも窺っております。鶴姫殿の申される通り、汚れたと考えるよりは刀鍛冶の血によって清められ魂を入れられたと考えるべきじゃなかろうかと思います。魔除けとしても是非所望したいと考えます。どうか鶴姫殿へ御祝儀としてお贈り下さい」
と隆徳も懇願した。このようにして国平の名刀は鶴姫に相伝された。



2005年08月05日(金) 三村一族と備中兵乱10

 家親の父宗親は松山城へ将軍足利義稙の近侍として入城した上野信孝の妹須磨の方を正室としていたので鷹千代丸は従兄弟の子という縁戚関係にあったのである。
 早速、鶴首城に重臣達が集められ軍議が開かれた。
「絶好の機会じゃ、お館様も荘と組んで松山城を攻められりゃぁ、備中制覇の夢が実現しますが」
と親頼が言った。
「荘為資の父親荘元資はお館様の父上、宗親様と京都船岡山の戦の折り、苦労を共になさった仲じゃ。荘に味方して上野を攻めれば、勝利は間違いない。いわば荘氏は三村と同族のようなものじゃ」
と政親が言った。
「今、荘に加勢すれば尼子方につくことになる。尼子につくことは、将来毛利と手を組むときの障害となる」
と家親が言った。
「松山城の上野伊豆守は殿の母御前を通じて縁戚にあたられるけぇ、攻めるこたぁでけんのじゃ」
と五郎兵衛が家親の苦しい胸の内を代弁した。
「五郎兵衛の言う通りじゃ。上野は縁戚じゃが荘は縁戚ではない。しかも将来戦わねばならない相手じゃ」
と家親が言った。
「戦国の世に親族も親子も関係はなかろうがな。今は何処でもそうじゃ」
と親頼が言うと
「世の風潮がどのようなものであれ、一族が 相争わず、協力してことにあたるのが、三村一族の行き方じゃ。一族団結こそが三村一族がここまで繁栄してこられた根本精神じゃ。この良き風習をわしの代でなくすことはでけんのじゃ。ここのところをよう判って欲しいのじゃ」
と家親が額の汗を拭いながら言う。
「なるほど、今までは確かにそうじゃった。しかし、何時までも古い観念に縛られていたらこの厳しい乱世に生き残っていかれんじゃろうと思うんじゃがな。好機きたれば、親でも殺す」
と親頼が言った。
「それは暴言じゃ。人の道を外すことは断じて許すことができない。三村家の棟梁として命令する。こたびは出兵しないでこの城をかためるだけにする。荘にも上野にも味方しないで様子をみることにする。皆のものそう心得よ」
と家親が断を下した。
「心得申した」
と一座の者が唱和した。
「もし上野が負けたら荘は松山城へ入るじゃろう。そしたら猿掛け城は手薄になる。そのとき一挙に猿掛け城を攻める。そして松山城も手に入れる。そのときは尼子と一戦構える覚悟が必要となる。物には順序と時が必要じゃ」
「なるほど、お館様のほうが一枚上手じゃわい」
と五郎兵衛が感心した口調で言った。

 三村一族は鶴首城を固め、何時でも松山城へ出撃できる体制を整えたが結局動かなかった。家親が動かなかったので荘為資の松山城奇襲作戦は功を奏し、城主上野伊豆の守は植木秀長に首級を挙げられてしまった。

 植木秀長について若干説明すると、彼は荘為資の甥であった。上房郡北房町上中津井にある佐井田城は、標高285メートルの山の上にあったが、この城を築いたのは荘為資の弟藤資の嫡男植木秀長であると言われている。藤資は上呰部(あざえ)の植木に館を構えていたので植木藤資と呼ばれた。彼は永正十四年(1517)以降に植木城からこの佐井田城へ本拠を移した。植木秀長は武勇の誉れ高く、若干18才で父藤資の代理として三好長基の軍に従い、大内勢と戦ったとき、一番槍を入れ敵を撃退している。



2005年08月04日(木) 三村一族と備中兵乱9

 奈々が鶴首城へ身を寄せてから間もなく、正室須磨の方の輿入れがあった。奈々は須磨の方お付きの侍女に抜擢された。奈々は影日向なく、常に真心込めて甲斐甲斐しく勤めたのでその明るい人柄は須磨の方にも気にいられた。都育ちであるということも都から遠く鄙びた土地へ輿入れした須磨の方には懐かしかった。何かにつけ頼もしく、頼り甲斐があったのである。献身的な奈々の接遇態度は人と所を選ばなかった。たまに戦場より帰還して息抜きをする宗親に対しては、恩義を感じているだけに誠心誠意尽くすので、宗親が側室にしたいと考えるようになるのに時間はかからなかった。
                                                
 側室になって男子を産んでから奈々の悩みが始まった。虎丸と犬丸の関係をどのように調整していくのが二人のためになるのかということである。庶子とは言え、武家の男子として生を受けたからには、戦国の世にあっては肉親同志で殺戮しあわねばならない事態が発生することも覚悟しておかなければならない。犬丸の行動を見ていると肉親同志で争うことは悪であると思い込んでいるふしが見受けられる。子供心にそう考えているのが母親としてはいじらしくもあり切ないのである。犬丸はいずれ早い時期に出家させたほうがいいのかもしれないと奈々の悩みは続くのである。

家親が二十一才になったとき父の宗親は備中制覇の野望を抱きながら、ある朝突然脳溢血で倒れてしまった。
「成羽の地を足掛かりにして備中、備後、備前を制覇するのがわしの夢じゃった。しかも一族相争うことなく、力を合わせて一族が繁栄することじゃ。わしの見るところ尼子よりも毛利のほうが有望じゃ。毛利に加担してこのわしの願いを実現して欲しい」
というのが宗親の遺言であった。

 家親は父の所領を受け継ぐと鶴首城を根拠にして備中、備後、備前の制覇に本腰をいれる決意を固めた。

 家親は、親頼、政親という弟達のほかに親房、親重等武勇に優れた親族に恵まれたことも幸いして、いつしか小田、後月、阿賀、哲多、川上等の五郡を押さえ領内に三十にも余る枝城を構え「備中の虎」と恐れられるようになっていた。備前や美作へもしばしば侵略を繰り返し、伯耆から遠征してきた尼子経久の孫晴久としばしば衝突した。
 家親が家督を継いだ天文二年(1533)のある日の朝、城内の庭の植木に水をやっている家親の前へ忍びに身をやつした中村吉右衛門尉家好という乱舞の芸者がやってきた。 家親が猿掛け城の動きを探る為に放っておいた諜者である。
「お館様、猿掛け城の荘為資が今宵、松山城を攻撃します」
「尼子の命令か」
「いかにも」
「上野の動きは」
「全然気がついていないようです」
「そうか。しかし、今尼子を敵に廻すことは得策ではない」
「上野を見殺しになさるおつもりか」
「止む終えぬ」
「事は急です。御指示を」
「その方の手下は何人いるか」
「五人は庭木の下に待機しています」
「ご苦労。密かに松山城へ入り若君の鷹千代丸を助けだして欲しい」
「心得えました」と諜者の家好は茂みへ消えていった。

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2005年08月03日(水) 三村一族と備中兵乱8

 余談ながらこの寺は城主上野頼久の遺徳を讃え安国頼久寺と改称された。その後、慶長五年(1600)小堀新助政次が備中国に一万石余を領し、没後一子遠州が遺領を継ぎ、禅院式蓬莱庭園を作庭し国指定の名勝になっている。
京都への遠征から帰国した宗親は席の温まる間もなく伯州へ、或いは美作へと遠征してその度に武威を高めていた。この間三村一族の所領である川上郡成羽郷で正妻「須磨」の方との間にもうけたのが嫡子家親である。幼名を虎丸といった。一年遅れて弟親頼が生まれ犬丸と称したが、彼は庶子であり、母は京都から連れて帰って側室とした刀鍛冶の娘奈々である。
「母上、お父上は何時、帰られるんじゃろうか」
と虎丸が母の須磨に聞いた。
「お父上は伯耆の国の不動嶽のお城で戦をしておられるのじゃ」
「虎丸もお父上の所へ行って戦がしてぇな」
「子供が行ってもお邪魔なだけじゃ。それよりも、早う大きゅうなることじゃ」
「どうすれば早よう大きくなれるんじゃろかなぁ」
「好き嫌いを言わずになんでも食べることじゃ」と偏食の虎丸を諭すように言った。
「でも、人参はよう食べんが」
「犬丸をご覧なさい、人参だって美味しいと言ってよく食べますよ。貴方は嫡男じゃけぇ犬丸に負けてはおえんのじゃが」
と須磨の方が言う。嫁いできたときは、都言葉を使っていた須磨の方であったが、鄙びたところで都風を押し通すことには、さまざまな摩擦があっていつしか、備中言葉も身についてきていた。
「負けりゃぁせんが。何時も泣かしているもん」
と虎丸が抗議した。
「よろしい。侍の子は強いことが一番じゃ、じゃがのう、人の道に外れるようなことをしてはなりませぬぞ」
「人の道とはなんじゃろうか」
「忠と孝と礼と信じゃ。そなたも志を大きく持って、やがては都へ出て活躍せねばなりませぬ。そのためには礼儀作法というものが必要になりますぞ。そなたの伯父の信孝殿は将軍近侍で室町礼法を心得られたお方じゃ。伯父上にお願いしてあげますからよく習われるがよかろう」
と須磨の方は幼い家親の躾けには都風で臨むのであった。松山城から室町礼式に詳しい者を招き寄せて養育にあたらせた。
 一方側室奈々はこれまた虎丸に負けない子を育てようと犬丸の養育に当たった。
「犬丸よ。乱世に生きるには強くなければなりませぬえ。親子、兄弟といえども敵として戦わねばならない時があるんですよ」
と奈々は明らかに虎丸と喧嘩して負けて帰ってきた犬丸を見る度に切なくなるのである。体は大きくて力もあるので、子供同志の喧嘩ではけっして負けることがないのに、虎丸に対してだけはいつも立ち向かっていこうとせずに勝ちをあっさり譲ってしまうのである。側室の子の立場を弁えて行動する犬丸の心情がいとおしくなる奈々である。
 親兄弟、甥伯父という肉親が相争い殺戮しあうことは悲しいことである。できれば我が子にはそのような悲しい思いをさせたくないという思いは強い。
 自分自身が混乱の都にあって、目の前で賊に父親を斬殺されるという地獄を見てきている。父の野辺の送りを一人寂しくひっそりと済ませてから、宗親が手配してくれた、備中へ帰る荷駄の隊列の中に加えて貰って成羽の鶴首城へ辿りついた。鶴首城では食客として遇されている兄の甫一にも再会することができたし、自分の身は雑役係ではあるが鶴首城へ置いて貰うことができた。これはひとえに宗親の人間味溢れる思いやりの深く優しい人柄のなせるところであった。
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2005年08月02日(火) 三村一族と備中兵乱7

五、船岡山
                        
 三村宗親は足利義稙に供奉して上洛したとき、船岡山の戦い(1511)で華々しい活躍をして、荘 元資、石川久次らと共に備中武者の名を高めた。船岡山の合戦は堀越公方足利政知の子義澄を擁立する細川澄元、細川政賢らの軍勢と足利義稙を推戴する細川高国、大内義興ら西国諸将の連合軍が京都北郊船岡山で激突し義稙軍が勝った戦である。この戦では尼子経久、大内義興が先陣を争ったが細川高国の斡旋で先陣大内、二陣尼子と決定し大内義興は先陣の名に相応しい働きをして面目を施した。即ち義興は船岡山の合戦の殊勲者として永正九年(1512)従三位に叙せられて田舎武士としては破格ともいえる公卿の座に列することができた。
                                                
 一方大内の後塵を浴びることとなった尼子経久はこれを不服として戦に参加せずさっさっと兵を纏めて領国の出雲へ帰国してしまった。中国制覇の準備を始めるためである。
 この戦には毛利元就の兄毛利興元も参戦しているが目だった働きはしていない。それにひきかえ三村宗親の働きは目覚ましいものがあり、義稙の近侍上野民部大輔信孝の目にとまるところとなった。
 将軍に復帰し船岡山の合戦で細川政賢・澄元軍に大勝した義稙は幕府の威権を示すために永正九年三月(1511)全国の国主を集め年来の軍忠を讃え行賞を行った。このとき備中国に対しては近侍の二階堂大蔵小輔政行、上野民部大輔信孝、伊勢左京亮貞信を派遣することにし、備中の国侍達を懐柔し味方につけることが使命として与えられた。
                                                
 将軍近侍の使者達が用いた懐柔策は官位を斡旋することと戦乱の都を嫌って西国へ都落しようとする公家達の子女との縁組みを仲介することであった。官位や身分の高い公家の子女と縁組みできるという餌は田舎の国侍達には魅力的であった。備中の国人達は競って彼等に誼を通じようとした。
 上野民部大輔信孝は下道郡下原郷の鬼邑山(現岡山県総社市下原)に、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村の高越山(現井原市西江原)に、二階堂大蔵少輔政行は浅口郡片島(現倉敷市、片島)の城に入り近隣の国人を従え領国に善政を敷いた。
                                                
 上野民部大輔信孝はかねて宗親に注目し好意を抱いていたので備中鬼邑山へ入ると自分の妹「須磨」を都から呼び寄せて宗親の正室として娶らせるよう工作した。律儀者の宗親に異存のある筈もなく、家格が上がると喜んだ。
 丁度この頃備中では北には出雲の尼子氏が西方には周防の大内氏が、東には播磨の赤松氏、南からは四国の細川氏と三好氏がそれぞれに勢力を蓄え領土を狙っていたので、備中の国人達は或いは尼子の旗下に加わり、或るものは赤松氏の麾下にはいり、細川や三好と誼を通じるものもあって国中が乱れていた。 上野民部大輔信孝は鬼邑山に砦を築いた後民心の収攬を図るため、年貢を少なくし、貧者や身寄りのない者を救済する方法として寺を活用し実効をあげていた。この頃中央においては管領細川政元の勢威が衰え大内義興が幕政を牛耳ったので、その命により上野氏は間もなく松山城へ移ることになった。信孝の嫡男上野頼久は備中の安国寺を改修して善政を敷いた。

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2005年08月01日(月) 三村一族と備中兵乱6

 翌日の夕刻、宗親が粟田口の刀鍛冶の工房へ研ぎあがった刀を受け取るために、武者詰め所をでかけようとすると荘元資がどこへいくのかと興味ありげに問いかけてきた。
「粟田口まで研ぎに出した刀を受取に行こうとしとるんじゃ」
「ほんまに、刀をとりにいくのかのぉ。誰かいい女性(にょしょう)でもできたのじぁあないのけ」
「そんなんじぁあないけん。嘘と思うならついてきんせい」  
「そりゃあ面白い。そしたらついて行こうか、わしも退屈しとるけんのぉ」 「そりゃぁ有り難い。途中物騒な森を通り抜けていかにゃあならんけん、ぼっこう助かりますらぁ」
 二人は黄昏時を連れだって、粟田口の工房へ向かった。工房近くまできたとき元資が言った。
「俺は外で待っているけんお主、中へ入って用を足してこられぇ」
と心得顔で言った。
「そうか、それではお主ここで待っていてくれ」
と宗親もさからわない。宗親が工房の中へ入ろうとしたとき異様な殺気を感じた。
「この刀は渡すわけにはいかぬ」
と咳こみながら抗う男の声が聞こえた。
「ぐずぐず言わずにこちらへ寄越せ。さもないと娘を明国へ売りとばすぞ」とだみ声が続いた。
「娘に手出しをすると容赦はせぬぞ」
と再び咳こみながら抗う悲鳴に近い男の声が聞こえた。
「押し入りか」
と思いながら刀の鯉口に手をかけたとき、工房の中から刃を打ち合わせる金属音が聞こえた。
「行くぞ。元資あとへ続け」
と叫びながら宗親は工房の中へ飛び込んだ。その一瞬、覆面をした男がふりおろした刀が対峙している男の肩を断ち切り血飛沫が上がった。
「助太刀するぞ」
と叫びながら宗親が抜き打ちに刀を一閃すると覆面の男はのけぞりかえって倒れた。胴に入った一撃で男は絶命してしまった。覆面の男が右手に持っている血糊のついた刀は、まがうかたなく昨日研ぎに預けた国平である。
「どうした。大事ないか」
肩を切られて倒れた男に駆け寄るとその後ろには、昨日の刀研ぎの女がさる轡をはめられて後ろ手に縛られて転がされている。男の体をだきおこすと、喘ぎながら
「お助け下さって有り難うございます。私は刀鍛冶の吉正でございます。長年労咳を患っておりまして、刀を鍛えることもできなくなってしまい、生恥を曝しておりました。娘がお預かりした刀を研ぎ終わり神棚へ奉納したところへ押し込み強盗に入られ、情けない姿をお見せすることになってしまいました。若い頃剣術を学んだことがありますので、無我夢中で立ち向かっていきました。お預かりした刀を賊に奪われてはならないとその一心でした。この病と傷では助かりますまい。どうか娘のことを宜しくお願い致します」
と言った。その間に元資が娘の縄をといたので娘が父親にとりすがった。
「お父さん。死んじゃだめ。」
「奈々よ。兄のもとへ行け」
と喘ぎながら吉正は娘の顔をじっと見つめて言ったが、これが最後の言葉になった。がくりと頭を垂らして息を引き取った。
「お父さん。こんな姿にならはって。あんまりどす。わてもつれていっておくれやす」と号泣が続いた。
 宗親と元資はなす術もなくしばし娘の愁嘆場を見ていた。
 やがて、娘は我にかえって人がいるのを思い出し、今度はばったのようにぺこぺこ頭を下げた。
「お許し下さい。大事な刀を盗まれてしまいました。どうかお許し下さい」と哀願するのである。
「刀ならこの通り、取り返した。だが、この刀がお主の父親を殺したとはのぉ。因果なことじゃなぁ」
と宗親も慰める言葉もない。
「お主、身寄りは」
「兄が一人」
「近くにいるのか」
「いいえ」
「遠いところか」
「はい」
「何処にいるのだ」
「備前長船です」
「刀鍛冶か」
「へい昔は」
「それでは、今は」
「琵琶法師どす」
「眼が悪いのか」
「へい、8才のとき父の相槌を打ってはったときに鉄の火の粉が眼にはいりそのまま眼が見えなくならはったんどす」
「そうか。気の毒にのぉ。それで兄者の名はなんという」
「甫一と申します」
「なに、琵琶法師の甫一じゃと」
「なんぞ、お心あたりでもおますのか」
「甫一法師なら備中にもきたことがある。わしの館に泊まったこともある」 「あんれまぁー。それでは兄者の消息を御存じで」
「しらいでか。こたびの上洛にあたっては、八幡神社で戦勝祈願をしたとき琵琶を奉納して貰ったばかりじゃ」
「神仏のお導きか。どうぞ甫一兄者に会わせてくださいませ」
「お主、備中まで行く気があるか」
「父がこのような姿になってしまはったので野辺の送りを済ませましたらきっと備中へ参ります。どうぞ兄者に会わせておくれやす」
「よし。ほんじゃ、近く備中へ帰る者がいるけえその隊列に加わりんせぇ。手紙を書いてもたせてあげますらぁ」
「おおきに。ほんまにおおきに」
「ところで、お主名はなんというんじゃ」
「奈々と申します」


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