前潟都窪の日記

2005年07月31日(日) 三村一族と備中兵乱5

 「公家の 時代から武士の時代に変わったのじゃ。せぇなのに公家が経済的な基盤もないくせに権威だけ をかさにきて失地挽回を図ったのが建武の中興というわけじゃ。わしゃ、そう思うとるがのぉ」
と久次が言った。
「建武中興は時代の流れに逆行した政治ということになるのかのぉ」
と元資が言うと
「そうじゃとも、実力のない者が門閥、位階だけをたよりに威張ってみても誰もそんなもなぁ認めやせんのじゃ」
と宗親も漸く議論の中へはいつてきた。
「力の強い者が古いものを壊して新しいものを創りだしていくんじゃろうなぁ」
と久次がうなづきながら言うと
「今は、破壊の時代というわけじゃな」
と元資が言う。
「そうじゃ。だから、国が乱れた」
と久次。
「将軍が弱すぎるのじゃ」
と宗親。
「そうじゃ。時代は完全に武士の時代じゃ。
 まさに乱世じゃ」
と元資 
「乱世は力の強い者が勝つ時代じゃ」
と宗親
「下剋上の時代じゃ。主殺しでさえ通る時代じゃ」
と久次がエスカレートさせる。
「とは言っても、主殺しは忠の道に反しようが」
宗親は威儀を正しながら言った。
「そねえなことを言ようたら世の中の流れについていけんようになるぞ。時と場合によっては親でも殺す」
と久次
「親を殺す等は人の道に背くことに成ろうがのぉ。畜生になりさがってしまおうが」
と宗親は納得できないという顔付きである。
「例えばの話だ」
と久次。
「何故、武士が天下を統一できないんじゃろかのぉ」
と元資。
「圧倒的に力の強い武士がいないからじゃろうが」
と宗親。
「まてよ。今度は大内義興様が頑張りょんさるからなんとかなるのではないじゃろか」と久次が言うと
「義興様は管領になられて、幕府の重要な地位を占められたので乱世は終わりになるのじゃろか」
と元資も大内義興に期待しているらしい。
「将軍の権威が失墜してしもうたけぇ、命令が守られなくなっているからのう」
と宗親。
「ひょっとして、お館様は将軍にとって替わろうとしていなさるんじゃなかろうか」
と元資は自分の願望を述べる。
「これ、滅多なことを言うんじゃねぇ」
と宗親が唇に指をあてながら元資の顔を見る。
「尼子経久殿と大内義興殿とでは尼子経久殿のほうが実力がありそうに見えるんじゃがなぁ」
と元資が話題を変えた。
「尼子殿はもう年じゃけんのぉ」
と宗親。
「大内殿は雅びに走っしもうて、もののふの心を忘れとんさるけぇ、そう長くはないんじゃなかろうか」
と久次。
「それは言えるのぉ」
と元資。
「安芸の毛利興元殿は大内殿から名前を戴いたそうじゃな。羨ましいことじゃのぅ」
と久次が言った。
「いやいや、我等弱小国人は所詮は大内氏と尼子氏の間にあって要領よく生きていくのに汲々としているだけのことじゃろが」
と久次が言った。戦乱の時代に生きる地方の若武者達の談話はおのずと天下国家に及んでいくのである。都の一夜はこのようにして過ぎた。                                 



2005年07月30日(土) 三村一族と備中兵乱4

  四、洛中その二
                              
 宗親は備中青江の名工長谷国平が鍛えた刀を父の時親から元服の時、譲り受け、戦陣には常にこれを佩き幾多の戦功を上げてきていた。この度の遠征でも国平を持ってきていたが、機会があれば京の名工に研いで貰いたいと思っていた。また予備として京土産に良い刀を求めたいとも思っていた。聞けば、戦乱のただなかにある京であっても粟田口に名工吉光の弟子達が細々と刀を鍛えているというので、工房を訪ねてみることにした。
「御免せぇ。刀が欲しいんじゃがひとつ見せてつかぁさらんかのう」
と漸く捜しあてた刀鍛冶の工房へ宗親は入っていった。
「おこしやす」
と手をぼろ布で拭きながら出てきたのは小袖に裳袴をつけた歳の頃16〜17でがっしりした体格だが、肌はぬけるように白い女であった。見ると部屋の隅に火床とふいごが置いてあり、焼きをいれるための細長い水槽もあるが火床には火が入っていない。砥石の側には、研ぎかけらしい刀が一本横たえられている。
「吉光刀匠の在所はこちらでしょうかのぉ」
「へい。吉光刀匠はもうとっくの昔に亡くならはりましたが、うちが直系の弟子筋にあたります」
「そうか。それゃぁよかった。刀の良いのを見せてつかぁさらんかのう。都で一番といわれる刀鍛冶の鍛えた刀を買うていきたいんじ ゃが」
「それが、今は鍛えていまへん」
「どうしてじゃ」
「戦乱で腕の良い鍛冶達は皆西国へ逃げていかはりましたさけ、今はいいものはあらしまへん。情けないことどすえ」
「せぇじゃぁ、刀は全然作りょぅらんのかのぅ」
「へぇ。折角おこしやしたのにお気の毒なことどす」
「それは残念じゃのう」
と宗親が落胆するのをみかねて慰めるような口調でその女が言った。
「お侍さんはどちらの国からお越しやしたのどすか」
「備中からじゃ」
「それでは備前の福岡は近こうおすやろ。お国で買わはったほうが良いものが手にはいるのとちがいますやろか。父の弟子達もぎょうさん備前長船へ移っていかはりましたえ」
「そうか。それではどうして、お主も備前へ行かなんだんじゃ」
「父が病気にならはったからどすえ」
「そうか、親御の看病をしょうられるんかのぉ。感心なことじゃのう」
「これも定めですさかいに。父が早う元気にならはることを念じて、励んでいますえ」と明るい声で答えた。
「ところで、あそこに研ぎかけの刀が置いてあるがあれは誰が研ぎんさるんじゃろか」
「うちどす」
「ほう」
「研ぐだけなら女でも出来ます」
「もしや、お主、刀を鍛えたこともあるんじゃろか」
とそのがっしりした体躯をみながら宗親が尋ねた。
「へい。父さまが元気で働いてはった折りには、相槌を勤めたこともおますえ。しかし、父が病気になってからはよう造りません。うちが研ぎ師の真似ごとをして世を凌いでいるのどすえ」
「今は全然作ってないんじゃろか」
「へい。あいすみません」
「父さんが元気だった頃、父さんの作ったものはないじゃろかのう。できあがった物があれば、見せてつかあさらんかのぉ」
「ろくな物はあらしまへん」
と言っていたが宗親があまり熱心に頼むものだから、娘は奥から四〜五振りの刀を運んできた。
「父さまが糊口を凌ぐために泣く泣く作ったこんな物しかあらしまへん。お恥ずかしいことどす」
と娘は刀を宗親の前へ並べた。その中の一振りを取り出し宗親が懐紙を口にくわえ刀身の目効きをしていると娘が言った。
「お武家様、お腰のものをちょっと拝見させて戴くわけにはいきまへんどっしゃろか。うちら話に聞くだけの素晴らしい技物をお持ちのようなので」
「誰の作か判るかのぉ」
と宗親が佩刀を渡すと娘はおしいただいて受取り真剣な眼差しで目効きをしていたが、感極まったような声を出した。
「この刀は長船の名ある鍛冶が鍛えはったんどすやろ」
と言いながら刀に見惚れている顔には清々しいものが感じられた。
「ところが、ちょっと違うんじゃ。備中にも青江に名工がいていい刀をつくるんじゃ」
「何という名前のお方どすか」
「この刀は国平という刀鍛冶が鍛えたものじゃと、父上から聞いていますらぁ」
「ほう。国平どすか」
「そうじゃ。長谷の国平じゃ」
「お武家はん。今の京にはこれほどの刀を造れる刀匠は残念ながらいてしまへん。皆、戦を恐れて西国へ逃げていかはったんどす。悲しゅうおすえ。備前へはこの粟田口からもぎょうさんの名工達が逃げていかはりましたえ備前には福岡の市というのがおますさかいに鋤、鍬を鍛っても食べていけると言うてはりましたえ」
「どうじゃろう。この刀を研いでつかあさらんか」
「へい。有り難うぞんじます。このような名刀を研がして戴くのは幸せなことです。精一杯研がして戴きます。一晩お預かり致しますよって、替わりにこの刀をお持ち帰り下さい」
「それではお願いしますらぁ」
 宗親は刀を預けて室町の侍宿舎への帰路を急 いだ。道すがら刃先に見惚れている女の清々しい横顔が脳裏にちらついていた。宿舎へ帰りつくと部屋では元資と久次がしきりに議論をしている。
「おう、宗親よいところへ帰ってきた。お主も議論に加われ。それにしても宗親どこへ行っとったんじゃ」
と元資がかわらけを差しだし、瓠から濁り酒を注ぎながら言った。
「粟田口までじゃ」
「なんぞええことでもあったんか」
「刀を研ぎに出してきただけじゃ」
と宗親は平然さを装って言ったつもりだか、先程の女の横顔がちらつき顔が赤くなるのを自分でも感じた。それを見咎めた久次がからかった。
「お主、女と逢ってきたんじゃろ。顔に書いてあるぞ」
「いいじゃあねぇか。宗親も人の子だったということじゃ。せいぜい誑かされぬように気をつけんせぇよ」
と元資がわけしり顔でひきとった。
「そんなんじゃぁねぇ。ただ刀を・・・」
と宗親がむきになって抗弁しようとすると久次が矛先をかわした。
「それよりもさっきの話を続けよう。我等こうして、お館様に具奉して上洛し、都のありさまをみさせてもろうたが、一体世の中はどうなっていくんじゃろか。宗親よお主どう思う」
「権威と実力のある将軍がいなくなったので・・世が乱れているということじゃろうが・・・・強い将軍が出現しなければ、・・・・・世の中ますますひどくなっていくんじ ゃろうなぁ」
と宗親は注いでもらったかわらけの酒を口へ運びながらポツリポツリ言った。

ワインマーケットPARTY



2005年07月29日(金) 三村一族と備中兵乱3

  三、三村一族
                              
 三村氏の本貫の地は、信濃国洗馬郷(現長野県筑摩郡朝日村付近)であろうと言われている。太平記巻七の「船上山合戦事」に於いて、後醍醐天皇が元弘三年(1333)閏二月に、隠岐島を脱出して名和長年を伯耆国に頼り船上山に立て籠もったとき、天皇に加勢しようと馳せ参じた備中の武士達の中に三村の姓が出てくるので、三村氏はおそらく鎌倉時代の承久の乱の後に新補地頭として信濃から備中に派遣されたのではなかろうかと思われる。
 石清水八幡宮領の水内北荘(現総社市)の領地を弘石大和守資政の侵略から防いでくれるよう、三村左京亮に依頼した文書が石清水八幡宮に残されているが、その日付は貞治四年(1365)となっているのでこの頃から三村氏は高梁川流域に相当の勢力を持っていたことが窺われる。その後、明徳三年(1392〜4年)にかけて三村信濃守が天竜寺領の成羽荘を侵略しようと策動していたので備中守護の細川氏から荘園侵略をやめるよう圧力をかけられたこともある。その後約一世紀に渡って三村氏の動きは史書からは読み取ことができない。
明応三年(一四九四)に三村宗親が成羽に氏神として八幡宮を勧請した記録(成羽八幡神社旧記)が残されていることからすればこの頃、父祖以来念願の成羽入りを果して、これ以後鶴首城を築いたものと思われる。
 三村氏が根拠地とした鶴首城は標高338メートルの鶴の首のような形状の山上に築かれた山城であり、城の北側に成羽川、西に二つの谷川、南から東にかけては百谷川が流れている。天然の要害であり昔から備後と備中中部を結ぶ要衝の地でもあった。
「お館様は運の強いお方じゃ。こたびの上洛でもきっと、手柄をたてて来られるじゃろう」
と三村五郎兵衛は、主の三村宗親が神前に向かって柏手を打っているのを頼もしげに見やりながら隣に畏まっている郎党の三田権兵衛に話かけた。
「ほんまにそうじゃなぁ。星田の郷よりこの成羽の地へ出てきてから一年も経たないうちに難攻不落の鶴首城を築きんさっただけでもぼっけえことじゃと思ようたのに八幡神社の勧請をなし落慶までなし遂げられたんじゃけぇのう」と権兵衛が感極まった声で応じた。
「八幡神社は弓矢の神様じゃ。せぇがまた三村一族の氏神様でもあるんじゃけぇ余計に有り難いことじゃ。こんどの戦も必勝じゃ」
「年が若いのに信心深いことじゃ」
「そりゃぁ、尼子経久の殿を手本にしようとしておられるからじゃろう。尼子の殿は出雲大社やら日御碕神社に対する崇敬の念が強いお方と聞いているし現実に領地を次々と拡大しておられるけんのう」
「ほんまに、お館様は尼子方に組するおつもりじゃろうか」
「そこが、一番難しいところじゃろう。周防の大内義興殿を頼って都から公家衆がぎょうさん落ちていかりょぅるというけん、大内殿についたほうがええんじゃなかろうかとわしゃ思うとるんじゃがなぁ」
「こたびは、都へ将軍様が攻め上られるのにお供をされるのが大内義興殿じゃ。我がお館様は大内殿の傘下で上洛されるということじゃけえ、大内方ということじゃろうが」
「それはそうじゃが、三村の殿へも将軍から直々に檄の文が届けられとるからのう。尼子殿と大内殿と同じ扱いじゃ」
「お館様も面目を施したものじゃのう」
「都へは尼子の殿も上られるじゃろうから、戦振りを見てから決めてもよかろうと思うがのう」
「賢明な殿のことじゃ。そのへんのことはよう考えて決断されるじゃろう」 
「こたびの戦勝祈願は八幡神社の落慶も兼ねて執り行われるけんこのあと色々な催しがあるそうじゃのぅ」
「今度は、都でも有名な甫一法師の平家物語の奉納じゃ。滅多に聞けない名調子じゃけぇ耳の穴をようほじっといてからお聞きんせぇよ」
と五郎兵衛が言った。
「琵琶法師様は何処からこられたんじゃろうかのう。それにしてもお館様に輪をかけてまた若い法師様じゃなぁ」
とさっきから二人のやりとりを聞いていた山形作助が五郎兵衛に聞いた。
「年はまだ16とかで、童顔じゃが、声は美声で都でも一、二を争ったそうじゃ。こたびはお館様がわざわざ備前の福岡までお迎えに行かれて連れて来られたんじゃ」
「ここには何時までおられるんじゃろうか」
「さぁー」
「また、聞かしてもらえるんじゃろか」
「福岡まで行けば、聞かして貰えるじゃろうとおもいますらぁ」
「戦乱で混乱している都を逃れて周防の山口まで逃げて行こうとされとったんじゃが、何故か福岡が気にいられてそのまま福岡に住みつきんさったということじゃ」



2005年07月28日(木) 三村一族と備中兵乱2

 二、洛中
                          
「宗親よ、都の女性(にょしょう)にゃぁ、狐や狸のようなのが多いちゅうけん、誑かされんよう気ぃつけんせぇよ。都の女性は貢物だけ巻き上げてぇていつのまにかおらんようになるそうじゃけんのぉ」と久次が先輩面をして言った。
「そうだ。宗親は初(うぶ)で人がええけんのぉ」
と元資が同調した。
「わしゃぁ、女性(にょしょう)にゃぁ興味ねぇよ。それよりゃぁ折角都へ出てきたんじゃけん、良い刀でも捜して買うて戻りてぇと思よんじゃがなぁ」と宗親が生真面目な顔で応じた。
「刀なら粟田口へ行ってみんせぇ。腕のええ刀鍛冶がいる筈じゃけん。せぇにしても、街並みは随分荒れとるのうぉ。火事跡だらけじゃが。昔、朱雀大路のあたりにはぎょうさん店が立ち並んで賑わようたのにのう」
と元資が昔、都へ上ったことがあり、街の様子を多少は知っているのをひけらかすような口調で言った。
 周防国主・大内権助義興の京都における宿舎・大内館は、室町近くにあったが、その大内館の侍詰め所を根城として若武者達はそれぞれに羽を伸ばしていた。
 明応の政変(1493年4月将軍義材を廃立しようと、日野富子と管領細川政元が企らんだ事件)で足利義材は河内で虜囚となり、同年六月越中に逃亡した。1498年九月足利義材は朝倉氏の援助で越中に於いて京都奪回の兵を挙げるが成功せず、周防国の太主大内権助義興を頼って八年近い歳月を周防で過ごしていた。時の管領細川政元は新将軍足利義澄を擁立して、権力を掌握するが、永正四年六月(1507)家僕の香西元長、薬師寺長忠らによって入浴中暗殺された。この事件を奇貨として、再度威権を振るうべく、足利義稙(当初義材、改名し義尹、ついで義稙)は大内義興の援助を受けて山陽道及び西海道の国主へ檄を飛ばし入洛を企てた。これに応じて諸国の武将が永正五年(1508)六月に上洛したとき、義興麾下の備中の豪族達も、侍大将として義稙に具奉したが、その中に三村備中守宗親、荘備中守元資、石川左衛門尉久次がいた。
 彼らは血気盛りの若武者で、応仁の乱で荒廃していたとはいえ、都の夜を楽しんでいたのである。三人の中では宗親が一番若く、生真面目で備中の領国での小競り合いには常に勝ち抜き領地を次々と拡大し注目されている当節売り出し中の若武者であった。
 義稙が海路堺に到着し、堺から陸路入洛した日は六月八日で梅雨の雨がしとしと降っていた。
 備中の若武者達も相前後して京都へ入っていたが、その日、元資と久次は予て馴染みの白拍子を求めて賀茂川の川原へ繰り出したのである。宗親は都は初めてであるし、武者詰め所で無聊をかこっていた。
       



2005年07月27日(水) 三村一族と備中兵乱1

    三村一族と備中兵乱      
                            
  一、備中松山城
                                 
 備中松山城は臥牛山の上に築城された山城である。鬱蒼とした自然林に覆われた臥牛山は北から大松山、天神の丸、小松山、前の山の四つの峰からなっている。山頂には何れも城址がある。最高峰は天神丸で標高480メートルに及び、現存する山城としては、日本国内では最も高い所にあることで有名である。現存の城郭は小松山と前山とにあり、天神の丸と大松山にあるものは戦国時代以前の城址である。
 城の歴史は鎌倉幕府の二代執権北条義時から承久の乱の戦功で備中有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭職に任じられた秋庭三郎重信が仁治元年(1240)大松山に居館を築いたことに始まる。秋庭三郎重信は相模の国の三浦一族であった。大松山に居館が完成すると有漢の地から高梁の地へ移住し以後秋庭氏はここを本拠にした。
 その後、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げたのをきっかけに(元弘の変・1331年)、南北朝並立の動乱の時代が始まるが、天皇が幕府方に捕らえられて隠岐に流された年の元弘二年(1332)に松山城には、備後の三好一族の高橋宗康が入城し、城域を小松山まで広げ城としての縄張りは徐々に拡大された。その後、高橋氏が約25年間在城したのち正平十年(1357)高師泰の子高越後守師秀が備中守護として松山城を預かることになった。彼は家臣の秋庭信盛を執事として起用した。しかし師秀は生来猜疑心が強く施政の判断にも間違いが多かったため、信盛からしばしば諌言を受けたが聞き入れず次第に主従不和となった。正平17年(1362)に足利直冬ら諸国の南朝方が蜂起したとき、南朝方に帰順した山名時氏らの美作勢と備中の山名方の多治目備中守ら二千騎の軍勢を兵粮の蓄積された松山城へ引き入れたのが信盛であった。このため高越後守師秀はなす術もなく備前徳倉城へ逃げのびた。こうして再び秋庭重信の子孫の秋庭信盛が備中守護代として城主に帰り咲いたのである。
                                   
 応仁の乱(1467)以後戦国時代に入り秋庭元重が城主の時、1509年に毛利氏に攻められて敗北し秋庭氏の名前は松山の城郭史から消えることとなった。
 その後の戦国時代には将軍義稙の近侍上野民部大輔信孝の子である上野備前守頼久が鬼邑山城から入城し、以来上野氏、荘氏、三村氏と血に彩られた争奪戦が繰り広げられ、三村元親が最後の悲劇の城主として戦国時代に幕を閉じるのである。
 現在の「備中松山城」は天和元年(1683)に松山藩主水谷勝宗の手によって完成したものといわれており、天然の巨石を天守台として利用した木造本瓦葺、二層二階建の天守は、内部に岩石落としの仕掛けや籠城に備えた石造りの囲炉裏・落城の時城主の家族が切腹するための部屋である装束の間・御社壇等手の込んだ造りがなされている。
                          
       



2005年07月26日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂42完結編

 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。
 本稿は南画の評論ではないので玉堂の作品を一々取り上げないが、その名品の多くが六十才以降に描かれている。
 田能村竹田は玉堂の絵について再び、「山中人饒舌」の中で次のように評している。
<余、紀の画を評して三可有りとす。樹身小にして四面多し。一の可なり。点景の人物極めて小にして、これを望むも猶、文人逸士なるを知る。二の可なり。 染皴擦深く紙背に透る。三の可なり。又、三称有りとす。人は屋に称(かな)い、屋は樹に称う。>

<私は玉堂の画を評して、三つの可なるところがあるとする。樹木の形が小さく四面に枝が多いこと、これが一の可である。点景の人物が極めて小さく、これは遠くから見てさえ文人逸士であることがわかる。これが二の可である。乾かしてまた塗る、擦りつける筆遣いは紙の裏まで通るほどである。これが三つの可である。また三つの釣り合いのとれた点があるとする。作中の人物は家屋とつりあい家屋は樹木とつりあい、樹木は山とつりあっているという三点である>

 <李日華言く、「絵事は必ずや微茫惨憺をもって妙境となす」と。昔人、その此の如くならざるを苦しみ、或いは再び滌ぎ去りてしかるのちに揮染し、或いは細石を以て絹を磨き、黒色をして絹縷(けんる)に著入せしめんと要(もと)むるに至る。その心を用うること知るべきなり。紀玉堂、稍、此の旨を解す。故に吾人この人を取るあり>
<明の画家・李日華は、絵画の極意は、模糊として薄暗く趣のある様子を優れた境地とすると言った。昔の人はこのような境地をつくることのてできないことを苦しみ、あるいは何回も絵絹を洗い去った後に描いたり、あるいは細かい石で絹をこすって、墨色を絹の中にしみこませようとしたりする。画家はこのように大変苦心しているのである。浦上玉堂はやや李日華の趣旨を理解しているので、私はこの点で玉堂に学ぶところがあるのだ>
 又、画僧・雲華は次のような詩で玉堂の絵と制作態度を評している。
   玉堂酔琴士 漫筆発清機 
   妙々洋峨趣 数人坐翠微
    玉堂は酔琴士なり、漫筆清機を発し妙々たる洋峨の趣、人をして翠微にざせしむ
 玉堂はよく酒を飲む。酔えば琴を弾く。まさに酔琴士である。しかもよく筆をとる。描けば活き活きとした精気を発っする絵ができる。琴といい、絵といい、洋々峨々の趣がある。青々とした山に靄が立ち込めて、その中にじっとしている自分を思わしめるものがある。
 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。
    漁隠(後集)                           身与鶴倶痩 心将鴎共閑
   一生何活計 詩酒釣琴間
    身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり
    一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間
 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。
 晩年には長旅はせずに京都で過ごした。自然の中に身を置いて感覚を鋭利に研ぎすましていく晩年の詩に次のものがある。
    嵯峨懐古
   嵯峨山下川潯大 懐昔幽 弾玉琴
   十二峰々明月夜 松濤深処有遺音
    嵯峨の山下、川尋(せんじん)大なり。
    昔に懐(おもい)をはせれば、幽○に玉琴を弾じたり。                       十二の峰々、明月の夜。松濤(しょうとう)深き処、遺音有り。
                                   嵯峨の山の下を巡って流れる川の淵は深くて水を豊かにたたえている。ふと昔のことを思い出すと、ここで門を固く閉ざして琴を奏でたものだ。嵯峨野周辺の多くの山々は冴えざえとした明月に照らしだされて黒々とその姿を横たえている。松の梢に吹き渡る風は海鳴りのように聞こえる。その遠く奥深いところに私は太古の調べを聞きとっているのだ。            杜門弾琴
   秋風来幾日 簫索入疎林
   心外無他事 杜門独鼓琴
    秋風来って幾日ぞ。簫索(しようさく)として疎林に入る。    心外、他事無し。門を杜(とざ)して独り琴を鼓す。
 秋風が吹くようになって幾日になったであろうか。疎らに立木の生えた山に冷たい風がものさびしく吹いて梢を鳴らしている。心の外には私を煩わせるようなものは何もない。門を閉ざし独り静かに精神を集中して琴を弾いていると自然に同化していく心地がする。
 文政元年玉堂七十四才のとき吉田袖蘭という十九才の才媛に       <古木寒厳、暖気無く、君に憑(よっ)ては 願わくば数枝の花を仮らん>という詩を贈っている。
 また同じ年に袖蘭と一緒に詩仙堂で琴を合奏している。この頃、袖蘭に請われて琴を教えいたのである。老いた玉堂の回春の戯れであった。脳裏には岡山の堀船で芸妓豊蘭と交わした一番弟子にするという戯れ言が蘇っていたことであろう。
 痩せ細った白髪の老人が赤色の鶴装衣に身を包んで妙齢の女性の手をとりながら指導している姿は微笑ましいものであった。
 後集の最後の詩は次のものである。
    客中秋夜
   秋来鴻雁渡天涯 夢後沈吟忽懐家
   千里郷関離別久 夜深消息卜燈花
    秋来、鴻雁(こうがん)は天涯を渡る。             夢後沈吟して忽(たちまち)家を懐う。                千里の郷関離別して久し。 夜深くして消息を燈花に朴う。

 秋がきて白鳥や雁の群れが、大空にさまざまな線形を描きながら暖かい地を目指して渡っていく。うたた寝から目覚めて、静かに詩などを吟じていると、渡り鳥の姿に触発されて家族や知己のことが懐かしく思いだされてくる。遠く生まれ故郷を離れて随分長い年月が過ぎていった。夜も更けて燈芯の先で揺らぎながら燃え上がる炎の形で家族や知己の安否を占ってみるのである。
 仁政実現という宿志を抱いて理想に燃えながらひたむきに走り続けた青年時代。
 やがて栄進して知った現実社会の醜さと汚さ。
 理想と現実の乖離に悩み煩悶しながらも俗世間に妥協できないままに疎外されて味わった挫折感。
 周囲から痴愚と見做されているのを承知の上で自己の価値観を堅持した挙措言動。
 意地を貫き通すための脱藩。
 心身から俗情と贅肉を削ぎ落として感覚を鋭利に研ぎあげていった放浪時代。
 喜怒哀楽につけ琴を友とし自然と同化して自分のために絵を描いた弾琴の画仙浦上玉堂の画才に対してブルーノタウトは次のように限りない賛辞を呈している。
<私の感じに従えばこの人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。彼は自分のために描いた。そうせざるを得なかったからである。彼は日本美術の空に光芒を曳く彗星の如く独自の軌道を歩んだ・・・この点で彼はヴィンセント・ヴァン・ゴッホに比することができるであろう。(ブルーノ・タウト 美術と工芸 篠田英雄より)>
 文政三年(1820)九月四日京都で没した。享年七六才であった。



2005年07月25日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂41

 この詩の中で玉堂が「嗚咽愴苑」したのは三十才以上も年下の竹田が、自分と同じように藩から建言を受け入れられず、致仕して風雅の道に入り、今こうして私とともに起居しながら稽古をしている。境遇の似た者同志が気持ちを通じ合ってお互いを理解しあっている。そう考えると気脈の通じた嬉しさがこみ上げてきて、感情が爆発し嗚咽したのであるが、一旦爆発してしまうと若い竹田の境遇がかって苦労した玉堂の脱藩時の苦しみと重なってとめどなく涙がでてきたのである。
 竹田は、別にその著「竹田荘師友画録」と「山中人饒舌」の中で画家玉堂のフロフィールを次のように書き止めている。
<毎朝 早ニ起キ 室ヲ払イ 香ヲ梵キ 琴ヲ鼓チ 卯飲三爵ス 常ニ曰ウ 若シ天子勅アラバ 音律ヲ考正シ 我 焉(これ)トトモニ有ラン 必ズ其ノ力ヲ致ス >
 毎朝早く起きだして、部屋の掃除をし、香を焚いて、琴を弾き六時頃には杯三ばいの酒を飲む。もし天皇から勅命が下って、音楽のことを研究せよと仰せなら私は寝食を忘れて取り組み、必ず成果を挙げる自信をもっている。
<古人ノ書画ハ 飲興ヲ借リテ作レルモノアリ 紀玉堂 亦然リ 蓋シ酔中ニ 天趣有リテ 人ヨリ異ル為ナリ 紀ハ酣飲シテ始メテ適シ 落墨 尾々トシテ休マズ 稍 醒ムレバ則チ一幅ヲ輟(とど)メ 或イハ 十余酔ヲ経テ 甫(はじめ)テ 成ル 其ノ合作ニ至ルヤ 人神ヲシテ往カシメ 之ヲ掬スモ渇(つく)サズ 但 極酔ノ時 放筆頽然 屋宇樹石(おくゆじゅせき) 模糊トシテ 弁別スベカラザルナリ>
 昔の人の書画は、酒を飲んだとき沸き上がる興趣に基づいて作ったものがある。玉堂もそうである。酔っているときこそ天与の才能が発揮できるのだ。人よりこの辺りが異なっているところなのだ。玉堂は酒を楽しんで飲んでこそ始めて良い絵が描けるし、絵に墨を入れていくにしても飽きることなく続けられるのだ。酔いが覚めた頃には一幅の絵が出来上がっている。或いは十回程も酔ってからの方が優れた絵が描ける。合作する場合などには、心を失うくらいに飲んでもう飲めないというところまでいったほうがよい。もっとも極端に酔ったときには筆の運びもなおざりになり、酔い潰れて家も屋敷も樹木も石も弁別がつかないほど曖昧模糊としてくることもあるが、それがまた却って趣があって面白い。        
 田能村竹田は、玉堂の絵は形式などに囚われずに自由奔放に天稟の資質が赴くままに描いた方がいい作品ができると見ていたことが窺える。
 文化九年六十八才のとき、東雲篩雪図を描き上げた。
 筆者が始めてこの絵に接して感じた「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」という印象は磐梯山山麓で一冬過ごしたときに感じた玉堂の堪えがたい寂寥感がベースになっていたのである。
 モチーフを得てから既に十七年の月日が経っていた。十七年間胸中深く温め続けてやっと表出された玉堂の悲痛な叫び声であった。 この絵について久保三千雄氏は次のように解説されている。
<玉堂の状況に変化があったわけではない。依然として、自らの痴愚を嗤いながら鬱塞、沈鬱、寂寥を噛み締め堪えるのが日常であった。世の厳しい判断は筆をとる以前に既に明らかであった。筆をとれば手は慣いのままに動いたが、世に画人と認められたことなど一度もなかった。勿論、春琴のもとを訪れるような、画絹を持参して画を請う者など皆無であった。・・・・・弾琴であれば自らのすべてを吐露しようとも、胸奥の心象まで察知される危惧はないし、心象の複雑は却って音色に余情をもたらす効果を発揮したかも知れない。ところが、絵となるとすべてが誤魔化しようもなく顕れずにはいない。玉堂には剥き出しにするには憚られるものが多すぎた。画紙に向かうと苦衷が先に立って筆先をためらわせ、鈍らせてきた。それがすべての由縁を断ち切って、真に独立した模糊とした玉堂世界を描いた。頭を去らない会津での苦い記憶に正面から対して、行き処とてないままに一処に佇む己を客観視するには十七年の歳月が必要であった。筆をとるには勇気が必要であり、また胸奥での発酵を促す歳月の経過があって、初めて画紙に向かう気力が湧いたのである。この殆ど壮絶な雪景からは、誰にも訴えるすべもないまま、鬱塞に堪えて一処に足掻いていなくてはならない人間の悲痛な叫びが伝わってくる。東雲篩雪図は玉堂が初めて明らかにした己の心象の自画像に他ならない。(浦上玉堂伝 新潮社)>   



2005年07月24日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂40

 文化四年には冬大阪の持明院で田能村竹田と四十日間同宿している。
 翌文化五年六十四才のとき奥羽への旅にでた。このときは江戸へ出てから五月に水戸の立原翆軒を訪ね、会津の秋琴宅へ立ち寄った。七月には飛騨の国学者田中大秀を訪ね、赤田臥牛と知り合った。飛騨高山には百日ほど滞在し酒造家蒲を訪ねて絵をかいている。
秋に飛騨を後にし金沢へ向かった。加賀では前田藩の寺島応養を訪ねこの地に百日ほど滞在した。十二月六日には加賀を発ち再び会津へ向かった。
 文化八年、あしかけ四年に及ぶ奥羽放浪の旅を終えて京へ帰り柳馬場御池上がるに仮寓した。七月には加古川、姫路への小旅行をしている。
 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。
 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは、俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。
                                      漁隠(後集)                           身与鶴倶痩 心将鴎共閑
   一生何活計 詩酒釣琴間
    身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり
    一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間
 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。
 京阪では木村拳霞堂、浦上玉堂・春琴父子、岡田米山人、頼山陽等と交流した。
 この大阪持明院における合宿稽古場での二人の交歓の様子を竹田は「竹田荘詩話」の中に次のように書き残している。なお竹田は玉堂より三十二才年下であった。
<丁卯ノ冬 琴ヲ善クスル玉堂老人 余ト始クテ大阪府ノ持明院ニテ相見ユ 寝食ヲ同ジクスルコト四十日に殆シ 時ニ年六十余 毛髪尽(ことごと)ク白く 鬚(あごひげ)長キコト数寸 而シテ猶 童顔有リ 歌声円滑ニシテ 歯豁(ひら)クモ音を妨ゲズ 亦奇士ナリ 特ニ酒ヲ好ム 酔エバ則チ小詩ヲ賦シ 毎首スナワチ琴ノ字ヲ用ウ 又 小景ノ山水ヲ作リ 皴擦甚ダ勤メ 倶ニ俗ニ入ラズ頗(すこぶ)ル趣勝ヲ以テス 酔後ノ一絶ヲ記シテ言ワク>
   倦酒倦琴倚檻時 満園祇樹雪華飛
   雪華個々風吹去 不染琴糸染鬢糸
    酒に倦み琴に倦み 檻(てすり)に倚る時
    満園祇樹 雪華飛び
    雪華個々 風吹き去る
    琴糸を染めず 鬢糸を染む
 酒は飲み飽き、琴にも弾き飽きて、僧坊の手すりに寄り掛かって、寺院の庭を眺めてみると、折から降りだした雪が庭の木々に花のように舞い落ちている。風が吹くと雪片はあおられて飛び去っていく。琴の糸には雪も積もらないが 鬢毛には雪が付着した髭を白く染めていくのだ。
<余 偶(たまたま)客トナリテ 填詩(てんし)数首ニ余ル 老人 廼(すなわ)チ之ニ配スルニ 其ノ音ヲ階シ 嗚咽愴苑(おえつそうえん) 左右聴(みみ)ヲ聳(そば)ダツ 今 小令一○ヲ録シテ言ウ 紫燕飛ビ白燕飛ビ 飛ビ上リテ 紗窗越エテ女ノ機 双々別離無ク 天非トセズ 人非トセズ 只 是儂清ク思 微カナルニ因ル 檀郎 未ダ知ルヲ得ズ 爾後 萍ト梗ト遠ク離レ 音問終ニ絶ユ 東讃帳竹石山人徴ス 嘗テ玉堂詩集一巻ヲ揖シ刻ンデ世ニ伝ウ>
 私はたまたま玉堂の客となり、琴の曲目に合わせて詩を数首作った。玉堂老人は直ちにこの詩に合わせて琴を弾いたが、感極まって嘆き悲しみ泣き崩れた。私はびっくりして左右の耳を欹てて聞いていた。私はこの時の印象を次のような短い歌詞として記しておくことにしよう。
 自然界を観察すれば紫色した燕と白色の燕は、しきりに飛びかって絹張りした窓をすり抜け、春琴の新妻が機織りしている所へ集まっていくようだ。ここへ集まる燕達は心優しい新妻に可愛がられて、お互いに別れていくことはない。このような小鳥と人との交流は天も認めることだろう。ましてや人間であれば誰でも生き物を愛護する優しい気持ちは尊いものとみるだろう。私もこのようなほのぼのとした愛情のやりとりは清らかで好ましいものだと思う。それにつけても、新夫の春琴はこの優しい新妻の愛情にまだ気づいていない。今回の合宿が終わってしまうと浮き草のように放浪する玉堂と土塊のような私、竹田とは遠く離れて音沙汰もままならなくなってしまうのだろうか。東讃岐の長町竹石がこのやりとりを知っていてやがて明らかにするだろう。何故なら彼はかつて玉堂が詩集第一集を編集し出版したとき中心になって活動した人物なのだから。
                                        



2005年07月23日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂39

 十五.放浪そして画仙となる
                                  

 江戸へは三月三日頃到着して、長男春琴と再会したが訃報が待っていた。岡山藩士成田鉄之進に嫁いでいた長女之が前年六月に二十一才の若さで死去していたのである。
 秋琴が会津藩中屋敷へ出仕したのを見届けると、直ちに大竹政文を伴って京都へ向かった。
 自由の身になった玉堂は、京都に居を定めて、絵画製作に力を入れはじめた。
 寛政八年京都で開催された皆川淇園主催の書画合同展観には春琴とともに出品した。七月の中頃から八月のはじめにかけては大阪の木村蒹霞堂を七回訪問し、ここへ集う文人達と旧交を温めた。そのときたまたま上洛していた谷文晁と出会っている。
 寛政九年には京都で催された東山新書画会にも出品している。

 この頃「自識玉堂壁」を書いた。「自識玉堂壁」の一部は既に引用したが重複を厭わず再掲すると
<玉堂琴士 幼ニシテ孤ナリ 九才ニシテ始メテ小学ヲ読ミ 長スルニ及ビテ琴ヲ学ブ 他ニ才能ナシ 迂癖ニシテ愚鈍 凡ソ世ノ所謂博奕巴奕ノ芸ハ漕然トシテ知識ナシ 小室ニ日坐シテ手ニ一巻 倦ムレバ則チ琴ヲ弾キテ以テ閑吟ス 読書ヲ好ムモ古訓ヲ解セズ 以テ目ヲ塞グノミ 而シテ学ヲナス者ヲ恥ズ 好ミテ琴ヲ弾クモ 音律ヲ解セズ 以テ自ラ娯シムノミ 而シテ琴ヲナス家ヲ恥ズ 属文スルモ伝ウルニ足ラズ 意達スルノミ 而シテ文人タルヲ恥ズ 字ヲ作スモ 八法ヲ知ラズ 意ニ適ウノミ 而シテ書家タルヲ恥ズ 画ヲ写スモ 六法ヲ知ラズ 筆ヲ慢ルノミ 而シテ画人タルヲ恥ズ>

 このように述べて玉堂は琴、詩文書画の領域で、自分は素人であると主張しているが、その真意は弾法、文法、書法、画法等の法則に拘束されない自由奔放さが重要であると宣言したと解釈できる。

   玉堂鼓琴(後集第三詩)
   玉堂鼓琴時 其傍若無人 
   其傍何無人 荅然遺我身 
   我身化琴去 律呂入心神 
   上皇不可起 誰会此天真 

    玉堂 琴を鼓するとき その傍らに人無きが若し
    その傍らに何ぞ人無き 荅然として我身を遺(わする)ればなり
    我身は琴に化し去り 律呂(りつりょ) 心神に入る
    上皇 起たしむべからず 誰かこの天真を会せん

 自分が琴を弾くとき、傍らにまるで人がいないかのように弾く。何故ならば心身ともに脱落して我が身を忘れ、我が身は琴と一体となって琴の音が心神にしみ入ってくるからである。もはや太古の天子をいまの世に生かすことはできないのだから、誰が一体私のこの天から与えられた性を理解してくれようか。

   把酒弾琴(後集第五詩)
   琴間把酒酒猶馨 酒裏弾琴琴自清
   一酒一琴相与好 此時忘却世中情

   琴間に酒を把るに酒なお馨わし 酒裏に琴を弾ずれば琴自ずから清し
   一酒一琴あいともに好し この時世中の情を忘却す

 琴を弾く手を休めて杯をとると酒の香りが静かな部屋に満ちる。杯を置いてはまた琴を弾くと清澄な音色が五体をかけめぐる。酒を飲み琴を奏でる。こういう時が一番よい。この世の中の俗な気持ちをすべて忘れさってしまうことができるからだ
                                  
 これらの詩にみられるように京都へ暫く滞在して絵を描く傍ら琴を弾いては自然の中に同化し沈潜していく態勢を整えていくのである。
 文化三年(1806)九州へ旅したのをかわきりに放浪の旅がはじまる。熊本では細川家の儒者辛島塩井、高本紫溟に会い、帰路広島では頼春水、管茶山を訪ねた。



2005年07月22日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂38

 宿舎は磐梯山南麓に与えられ、猪苗代湖が一望できる風光明媚の地であった。ここへ逗留中に次の詩を作った。これは後集の第一詩である。

   卜居
   吁是琴翁子 心破絶知音
   超然去汚世 卜居会山峰
   魔室四席半 後有小竹林
   西園果桃実 東圃種薬岑
   携酒同友至 抱琴与月吟

    ああ是の琴翁子 心破れて知音を絶つ
    超然として汚世を去り 居を会山の峰に卜す
    魔室四席半 後に小竹林あり
    西園に桃実(とうじつ)果(みの)り 東圃に薬岑(やくぎん)を種(う)う
    酒を携えて友と同じに至り 琴を抱きて月とともに吟ず

 ああ琴人であるこの私は、仁政を実現しようと燃え立っていた気持ちも破れてしまい、友人との消息も絶ち、この世の汚さに超然として会津の山に居を定めることになった。部屋は四畳半で家の後ろに小さな竹林があり、西の庭には桃が実り、東の畑には薬草の苗が植えてある。時には訪ねてくれる友とともに酒を飲みつつ、月光の下で琴を弾いて嘯そぶくのである。
                                  
 この詩では「心破れて」と、かつて抱いていた夢が心の隅をよぎってはいるが、絶望感や敢えて自分を痴とか愚と言い聞かせようとする姿勢もなくなっている。あるがままの自分を受け入れて世捨人として生きていこうとする決意の表明と読み取ることができる
 寛政八年三月一日、玉堂は江戸の会津藩邸へ赴任する秋琴と和学修業のために初上洛する大竹政文を伴ってまだ雪の残る会津を旅立った。
 江戸への道中の途中、小仏峠を越えて諏訪神社の参詣を済ませて矢島家へ立ち寄った。
 ここで催された雅宴では請われるままに扇面に詩を賦し自製の琴を贈った。

 矢島家へは次の詩を残している。

   春行吟入白雲深 金沢青楊酔心易 
   一段別情詩酒外 片心解贈七弦琴

    春行 吟じ入り 白雲深し、金沢青楊(きんたくせいよう)酔心易し
    一段の別情 詩酒の外、片心解けて七弦の琴を贈る

 詩を吟じながら会津から信濃へやってきた。空には白雲がかかり、湖はきらきらと金色に輝き青い柳はすくすくと伸びてうっとりする眺めである。人との別れということになると酒ばかり飲んで平然と詩をつくるだけでは済むまい。また別な感慨なども催してきて七弦の琴を贈りたくなった。
 伸び伸びとおおらかに自然の風物を楽しみ、酒酌み交わしながら詩を作るなどして風雅の道を楽しんでいると、気持ちが通じあい大事にしていた自製の琴を記念に贈りたくなったとはしゃいでいる玉堂の姿が彷彿とする詩である。鬱屈した気分はもう感じられなくなっている。



2005年07月21日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂37

 その後、又、御小姓の望月志津馬、田中兵七も入門を仰せつけられ、皆段々に修業を積み、文之助はその後、玉堂の住居へ引き移っての、昼夜の稽古であった。彼は会津へ帰る前に再び訴えを出した。即ち、志津馬、兵七両人は御用の暇々での修業であるのでなかなか及び兼ね、その上、全体に、神楽歌、催馬楽等は、古来諸国の大社などで伝えてこられたものであるが、数百年来、都市部においても田舎においても共に断絶してしまったのでその調べは一向に耳慣れない為、昼夜を分かたず稽古してさえなかなか容易ではなく且つ、神楽歌は呂律の黄声で楽器に合わさねばならず、歌方二人、和琴一人笛一人、都合五人が、昼夜合奏して練習しなければなかなか整うものではない。所が、最早、日にちもあまり残ってはいない。その上、私共は稽古してそこそこまで出来上がったとしても、国へ帰って、見弥山の楽人へ伝えようとした所で、私自身の稽古が付け焼き刃で、未熟なものなので、気がつかないうちに音律を間違えて教えることもあろう。そうなっては神に対して恐れ多いことである。且つ、せっかくそろっている楽人達へうまく伝えられないということになっては全く無駄なことになってしまう。その上、色々と江戸では物入りであるので、いっそのこと、玉堂を会津へ呼んで頂き、楽人共も玉堂共に一緒に取り組めば、万事うまくゆき、この秋のご祭礼には必ず再興できるのではなかろうか。

 ところで玉堂は三月中旬には上洛する予定であるし、又、尾州徳川家からも招待されているように聞いている。今、稽古の半ばで離れてしまってはこれまでの折角の修業が水泡に帰してしまう。京、尾州へ上がられるのをお止めすることが、見弥山御社御神楽の再興にもつながるので、何とぞ会津へ下っていただくよう勧めなければならない。百年来、諸国で絶えていたものをこのたび再興しようという思し召しこそ、国中どこにも例がなく、これも御仁政のおかげであり、且つ土津神社の御余光であることを肝に銘じ、寝食をも忘れ、労費も厭わず、稽古にはげみたい旨を申し出た。大竹喜三郎からも玉堂は松島を一見したい希望があるようなので、そのついでに会津へ立ち寄っていただくようお勧めすれば来てもらえるだろうということなので、年が改まったら私共の処へ来ていただき、決して負担をかけないよう取り計らい滞留中に指南を受けられれば、一番よいことであり、見弥山の御神楽役人達も願っているので、五十日ばかりの滞留でもよい旨の申し出があった。   この話しは上からの申し出ではないので、ことさら引き立てて取り扱うよう申しつけたが、馬の貸主等の件については話しを通さなければならず、このような取扱については内々は上から差し下されることになっているのもよくわかっているので、とりあえず支度金として文之助へ十両くらい渡して済むのかどうか老職方との協議があった。・・・ ついては内々必要な経費を渡し、文之助が同道の上で、是非会津に立ち寄り指南して欲しい旨申し上げた処、聞き入れて頂けた。

 玉堂は長男紀一郎を江戸町家に置き、今年九才になる二男紀二郎をつれ、四月二十八日江戸を立ち、五月初め福良に到着した。藩からは賄い方の者を遣わし、一汁五菜、酒肴吸い物を出し、次の日は滝沢村の郷頭宅で丁重にもてなされ、宿でも料理がだされ、町人佐治吉左衛門の別荘に落ちついた。そして、日向衛士が麻の上下姿で出迎えて挨拶などをし、その後料理などを出し、十三日には荒井文之助が御使いとして御樽代金五百疋と鯛三枚が届けられた。(佐々木承平著 浦上玉堂、小学館刊日本の美術五十六より引用)>
 このように手厚く処遇された玉堂は昼夜を分かたず指南に精を出した。そして傍ら、神楽再興のため、高田伊佐須美神社や塔寺八幡等の調査や藩文庫の古文書の調査にも携わった。

 玉堂の誠心誠意の努力に対し、格別の取り計らいで玉堂父子を祭礼以前に藩公へお目見えさせることが計画され、八月二十二日実行された。
 八月二十五日には見弥山御社の祭礼が挙行され神楽の再興は見事に成功した。
 玉堂の労に対して藩から銀子三十枚、二十匁掛け蝋燭百挺、御肴一種が贈られ秋琴には別に両絹二疋、肴代二百疋が下賜された。宿舎には特別の料理が用意され長期間にわたった玉堂父子の労がねぎらわれたのである。

 会津藩の行き届いた扱いに感動した玉堂は秋には江戸に戻るつもりであったが、予定を変更して翌年の春までの逗留を願いでて許された。また、手厚く律儀な会津藩の家風に触れて、まだ幼い秋琴を教育するには理想的なところだと考えるにいたり、和学兼神楽師範の大竹政文、御小姓の望月志津馬の二人に秋琴を藩の卑役にでも登用して欲しいと懇願した。大竹、望月の二人は早速玉堂の願いを家老に取り次いだところ、家老のほうからは少ない扶持でも永く勤める意志があるかと望月を通じて尋ねた後、取り合えず秋琴に出入り扶持七人分が下されることになり出仕が許された。

 会津藩が秋琴を召し抱えるにあたっては備前岡山藩へは脱藩浪人の子息を召し抱えるについて不都合がありやなしやの照会をおこなう念の入れ方であった。
 やがて扶持十人分に加増された上で、御役目は「若殿様御供方の次 御厩別当の上」と決められ末座ではあるが若殿様の近習にとりたてられたのである。このことは江戸詰めであり玉堂にとってはこのうえの願いはない恩情あふれる取扱であった。
 脱藩の決意を固めて以来最も玉堂の頭を悩ませていたのは、まだ幼い秋琴の将来のことであった。それが会津藩の士分として仕官がかなって後顧の憂いなく、密かに心に描いていた隠者の生活へ踏み出して行くことができるようになった。そのお礼奉公の意味もあって、玉堂は冬から春にかけて雪深い会津の地で約半年間過ごして、引き続き楽人達へ神楽習得の指導にあたったのである。
                                         



2005年07月20日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂36

 十四.大阪、江戸を経て会津へ                                      

 三月半ば過ぎまで城崎で過ごした玉堂は、岡山への脱藩届けを知り合いの者へ託送してから四月の初めには大阪へ到着していた。大阪を拠点にして詩集「玉堂琴士集」出版の準備をするのが目的であった。また木村拳霞堂を訪問してその豊富な収蔵品を鑑賞するとともにここへ集う文人達と交誼を取り結び、且つ鴨方藩の探索動向についての情報を得ることも目的の一つであった。宿屋に旅装を解くと拳霞堂へは四月四日には子供の中の一人を、六日には春琴、秋琴二人の子供を、十六日には春琴を訪問させておいて、自分は京都まで足をのばした。皆川淇園に序文を依頼するとともに京都詩壇の雄、村瀬栲亭、六如上人等には巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼して歩いた。このあと大阪へきていた片山北海から跋文を受け取ると讃岐へ急いだ。「玉堂琴士詩集」へ載せる名士達の原稿を讃岐の版元へ渡すとともに、讃岐の雅人池小村、山田呆々、後藤漆谷、山田鹿庭、長町竹石等からも巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼するためであった。

 玉堂が「玉堂琴士集」の出版にあたって学界、詩壇の錚々たる顔ぶれを揃えたのは、文雅の道で今後生きていこうとする意気込みを天下に宣言する意味をもっていたし、冷遇された鴨方藩主に対する決別宣言の意味を持つものでもあった。
 このあと再び大阪へ戻り五月二十七日、六月六日、六月二十八日、八月末日に木村拳霞堂を訪れてから江戸へ向かった。

 鴨方藩では玉堂の脱藩についてお構いなしの扱いにしたという情報を得てから初秋にはいって江戸で琴の教授所を開いた。

 入門者はたちまちのうちに増えて、繁盛し風雅の町人や諸藩藩士が多かった。
 やがて会津藩徒士荒井文之助が入門してきて、玉堂父子は会津藩へ手厚く招聘されることになる。この間の経緯について会津藩の記録である「家政実記」につぶさに記録されているところを見てみると

<寛政七年四月二十八日、見弥山御社御神楽御再興の為、備前浪人浦上玉堂江戸より罷り下らるの条。
 見弥山御社の御神楽は、その草創の初、城州八幡之神官、紀斉院という者が下向して曲節を伝授した。神楽歌は吉川惟足並びに杉沢彦五郎という者の詠作で、斉院がその音節を付し演奏したと伝えられているが、後世になって常に略奏で既にとりおこなわれ、その後ますます楽歌は絶えてしまったというように聞いている。

 ところで、玉堂は備前侯末家池田信濃守様の御家来で、浦上兵右衛門と申し、御用人を相勤めていた者であるが神楽、催馬楽、東遊歌、諸国の風俗、今様歌並びに管弦、鼓搏の調奏まで詳しく、江戸在勤の時には御家中へ指南もしていたが、今から十年(本実記編集当時から)ほど前に引退し、当時、頭髪を長く伸ばして束ね、鶴装衣という鶴の羽毛で作った毛衣を着、まるで中国の隠者のような恰好で江戸に住み、和漢の詩や音楽等、広く指南し、大名衆や旗本にも罷り出て教授していた処、会津藩の和学大竹喜三郎の門弟で供方を勤めていた荒井文之助という者を、寛政六年の秋、本番勤番の為江戸に登った際、旗本中沢彦次郎の紹介で玉堂の下に入門させ、見弥山奏楽の事をも玉堂に語り、音楽の稽古等をさせていたけれども、勤務に多忙で、音楽の修業はなかなか思うにまかせず、大変であることを藩の和学大竹喜三郎に訴えでた。

 見弥山の御神楽は、以前は完備していたが、今では楽歌や本末唱和の事をも絶えてしまい、その訳をすら知る者がいないようになってしまった。鳳翔院様、徳翁様の大いなるご賢慮を以て定めおかれた御神式の内、奏楽の件は全く不備となり、長年の間嘆かわしい事と思われていたが、このたび、荒井文之助が玉堂に入門して学んでいる内、本務を免じてもらいたく、且つ諸経費もいることなので送金してもらいたいこと、又、太鼓、和琴、横笛等も学ばなければ不完全であるので、一人ではとても及び兼ねるので、扶持方の組付、上崎辰六郎の弟芝三郎を江戸へ差し向けられ、二人で学びながら、一通りのことは会得したい旨を申し出てきたので、御家老とも協議の結果、見弥山神楽歌等の再興の為にもなることでもあるので、訴えの通り、文之助を御供方の勤めから免じ、彼の跡は当座誰かを雇うことにして、稽古に専念するように仰せつかった。且つ芝三郎を江戸へ登らせたついでに、御供方安恵雄蔵がかねてから雅楽を嗜んでいると聞いたので、江戸詰めを終えて帰る所であるから、彼の本務を繰り合わせ、稽古をするよう申し添え、その通り文之助、雄蔵両人へ申しつけた。



2005年07月19日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂35

 その意味するところは単に、勤めをおろそかにし、琴や花に明け暮れするそんな玉堂の姿の現象面だけを言っているだけでなく、そうならしめた原因も含めて、郷愿(きょうげん)の目から見れば、陽明学を信奉したことのある玉堂の言動を痴と見、愚と言っているという意味に解釈したい。

つまり、孔子が「郷愿(きょうげん)は徳の賊」と言っているように、<郷愿とは謗ろうにも非難しようにも、まるで尻尾のつかまえどころがなく、流俗と歩調をあわせ、汚れた世と呼吸をひとつにし、態度は忠信に似、行為は廉潔に似、誰からも愛され、自分でも正しいと信じている・・(石田一良 東洋封建社会のモラル 平凡社 思想の歴史六巻)>小人のことである。

 また「陶令は遇うべからず、己(や)みなん、予を起たしむるもの無し」と詠じているのも世間には郷愿がいかに多いと感じているかという心情を吐露したものと解釈したい。

 寛政九年以降に出版された詩集「名公妙評玉堂集」(後集)の中に次のような詩があり五十才で出奔することを予め心の中に決めていたと読みとれる。

   五十年来一嘯中 荷衣衲々鬚瓢蓬
   烟霞深処人声絶 麋鹿群間搏尺桐

    五十年来 一嘯(いっしょう)のうち
    荷衣(かい)は衲々 鬚(しゅ)は瓢蓬(ひょうほう)
    烟霞深き処 人声絶え 麋鹿(びろく)の群間に尺桐を搏つ

 人生五十年、過去を振りかえると、あの腹から息を出して口笛を吹くように一笛の夢のような気がする。衣服はつぎはぎだらけのものとなり、髪は風に吹き飛ばされる枯れ蓬のようにはかない。人声すらない山中に、わたし独り自然と共に暮らしている。鹿の行き来するこの山中に桐の木でも植えようか。
                                  
 人生の節目とされる五十才を機会に転身を図り、世間に向けては人生を終わった者の行動であると宣言した詩だと読み取れる。



2005年07月18日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂34

   万金奇鳥困羅孚 千里名駒閙馳駆
   菽麦不分傍袖手 生来吾自守吾愚

     万金の奇鳥、羅孚(らふ)に困(くる)しみ、
     千里の名駒、馳駆に閙(さわ)がし。
     菽麦(しゅくばく)分たず、傍らに手を袖にす。
     生来、吾れ自ら吾が愚を守るのみ。

 万金に値する珍しい鳥は捕鳥網から逃れるのに苦労するし、一日千里を駆ける名馬は人を乗せて慌ただしく走りまわる。それに比べ無能の私は菽(まめ)と麦の区別もつかなくて袖に手を入れて珍鳥や名馬が活動しているのを傍らで眺めているだけだ。私は生来のこの愚かさをひたすら守って行くだけでよいのだ。

   梅花暗綻旭江春 独酌独吟懶益真
   唯有竜山峰上月 夜深来照鼓琴人

     梅花暗(ひそ)かに綻ぶ旭江の春。
     独酌独吟懶(らん)益々(ますます)真なり。
     唯だ竜山峰上に月あって、
     夜深くして来たって鼓琴の人を照らす。

 ここ岡山は旭川のあたりにも春が訪れ梅の花がひそかに綻びだした。独り酒を酌み独り琴を弾いては吟じていると、私のこのなげやりな生き方はますます本物になっていくようだ。旭川の向こうに遠く見える竜山の峰の上にかかった月だけが夜が更けて琴を弾いているこの自分を照らしてくれている。                                
   万銭買一琴 千銭買古書
   朝弾幽窓下 暮読寒燈余
   有衣聊換酒 有宇足求魚
   時或得佳客 論心歓何如
   酔歌忘日夕 襟期一清虚
   陶令不可遇 己矣無起予

     万銭もて一琴を買い、千銭もて古書を買う。
     朝には幽窓の下に弾じ、暮れには寒燈ののこりに読む。
     衣有りいささか酒に換え、宇(いえ)有り魚を求むるに足る。
     時に或は佳客を得、心を論(かたっ)て歓び何如(いかん)ぞ。    

 酔歌して日夕を忘れ、襟(むね)に期すひとたび清虚ならんと。陶令は遇うべからず、己(や)みなん、予を起たしむるもの無し。

 莫大な銭で琴を買い、多額の銭で古書を買った。早朝に人気のない静かな窓の下で琴を弾き、夕暮れには僅かに残った灯火の下で古書を読む。酒のないときは質入れして酒を買うだけの衣服はあるし、ちゃんとした家だってあるから、魚を買って調理することもできる。ときには気のあう客を迎え、胸襟を開いて語り合う歓びは、どれほどのものであろうか。酔い歌っていると昼夜を忘れ、まずは清浄虚静の境地に至ることができる。五斗の米のために阿ねるのを嫌って彭沢令の職を辞した陶淵明のような人物に出会えることももうあるまい。ああ悲しいことだが私の心を奮い立たせてくれるものはないのだ。
   
 これらの詩の中には脱藩前の玉堂の姿と心理がよく表現されている。この心理の動きを時の流れに従って柴田承平氏は次のように見事に読み取っておられる。
<若い生真面目な藩士であった玉堂にも宿志・・・・・・・・・つまりかねてからの希望が心の中で燃えていたのであるが、それも、いつのまにか、成らざることを認識するようになる。いわゆる希望から挫折へと落ちこんでゆくのであろうが、こうした精神的転換の中に、むしろ本来的な文人のパターンがあるともいえる。宿志成らずして、やがてその生活態度にも大きな変化がめだつようになり、それに気づきはじめた周囲の人々は、彼の行動、考え方、そして人間そのものを痴と見、愚と呼ぶようになる。そう呼ばれることを知っていた玉堂は、志をとげえなかった挫折感から、痴、愚と見られる境地にみずからを追いやらざるをえなかったのであろうが、そこには、やはり悔恨の念も去来していたようである。しかし、やがて、人が自分の痴愚を笑い、それを甘んじてうけ入れ、愚であることを自ら積極的に守ろうとするまでに心境は移行してゆく。これが脱藩時の頃までの玉堂の心の自然な流れであったとみてよかろう。(佐々木承平著浦上玉堂 小学館刊日本の美術56巻より引用)>



2005年07月17日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂33

 寛政六年(1794)四月二十一日城崎より出した脱藩届けが岡山へ届いた。
 斉藤一興の書いた「池田家履歴略記」にはこの間の事情が次のように記録されている。        
「池田信濃守家士浦上兵右衛門、同紀一郎・紀二郎、父子三人同道して、但州城崎の温泉に浴しけるが、彼地にて一分立ちがたき子細出来ぬとて、彼地より直に出奔せしよし書付を以て岡山に達しける。此書付四月二十一日到来せり、此兵右衛門、性質隠逸を好み、常に書画を翫び、琴を弾じ、詩を賦し、雅客を迎え、世俗のまじらひを謝し、只好事にのみ耽りければ、勤仕も心に任せずなり行き、終には仕をやむべきと思ひ定めしふるまひ、何ともなく形にあらはれ、人々いかがと思ひ居りけるが、今度出奔せしにて思ひ合わせし、城崎にて身のたたぬこと出来しといふは言をかまへたるにて、実は家を出しよりかく成るべき積もりにてぞありける」

 この文章からは同僚達にとって玉堂の脱藩は予測できた行動であり深刻には受け止められていないことが読みとれる。

 ところで玉堂の著作として二冊の漢詩集が現在に残されており、「玉堂琴士集」と称されている。前集と後集とがあり前集には六十一首、後集には七十八首の漢詩が収録されている。後集には刊行の年代が記されていないが、前集には甲寅年刊との記載があり寛政六年に讃岐で刊行されたことが判る。この前集に皆川淇園が四月九日付けの序文を書いているのでこの詩集には玉堂が城崎から脱藩状を岡山へ送りつける以前に作られた詩が搭載されていることになる。

 この詩集から何首か拾いだして玉堂の心境を追ってみることとしたい。

   磊萱生涯寄酔吟 劣能学得古般音
   到頭祉咲吾痴着 無一詩中不説琴

     らしょたる生涯酔吟に寄す。
     劣(わずか)に能く学び得たり古般の音。
     到頭祉(ただ)咲(わら)う吾が痴着を。
     一詩として中に琴を説かざるなし。

 あまりぱっとしない自分の生涯は、ただひたすら酔っては歌うことであった。
多少なりとも学び得たものと言えば古風なしらべだけである。
結局は自分の愚かさかげんをあざ笑うだけだ。
ただひたすらに琴の世界に耽り、詩を作れば何時も琴のことばかりを主題にしている。

   病中寓嘆
   病来愁白髪 夢断欲三更
   紙窓残月入 梧井宿鴉驚
   旧書展不続 宿志遂無成
   富貴何須問 痴愚畢此生

     病み来たって白髪を愁う。
     夢断たれて三更ならんと欲す。
     紙窓残月入り梧井(ごせい)宿鴉(しゅくあ)驚く。
     旧書展(ひらい)て読まず。
     宿志遂に成る無し。
     富貴何ぞ問うことを須(もち)いん。
     痴愚もて此の生を畢(おわ)らん。

 病床に臥して以来すっかり白髪が増えたしまった。夢が断たれて目覚めると真夜中だった。明かり障子からは残月の光が差し込んでいるなあと気がついた時、井戸端の青桐に止まって寝ていた鴉(からす)が何かの気配で騒ぎだした。寝つかれないままに愛読書を開いてみたが読む気がおこらない。ずうっと抱き続けてきた志も遂に成就できなかった。財産や地位など問題にすることもなかろう。自分は愚か者のままで一生を終わることだろうな。

   衰老身宜甘数奇 那論挙世笑吾痴
   春来聊有清忙事 唯是花開花落時

     衰老の身は宜しく数奇に甘んずべし。
     那(なん)ぞ論ぜん挙世吾が痴を笑うを。
     春来聊(いささ)か清忙の事あり。
     唯(ただ)是れ花開き花落つる時。

 年老いて体力の衰えた身では不遇の境遇に甘んじておくことを潔しとしよう。世間の人はこぞって私の愚かさを笑うであろうがそんなことは問題にすることではない。それよりも春になってからはいささか俗事に関わりのないことで忙しい。花が開き花が落ちるのを追っているだけで精一杯なのだ。

                            



2005年07月16日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂32

十三.脱藩
                                  

 寛政六年(1794)玉堂は五十才の年を迎えた。何回も何回も自問自答を繰り返し決意した脱藩決行の年を迎えたのである。節分までを家で過ごした玉堂は、仏前に座って母茂、妻安に脱藩決行の決意を秘かに報告した。

 藩に対しては立春とともに、心身疲労のため湯治にでかけたいからと休暇を願いでた。閑職であったから願いは直ちに聞き入れられ、玉堂は二人の子供春琴、秋琴を連れて但馬城崎へ湯治にでかけた。春琴、秋琴の二人の子供も父親と一緒の旅は始めてであったし、湯治も始めてのことだったので自炊用の薪木を拾いに山へ行ったり、魚の買い出しに浜へ漁師を訪ねたりと物珍しい体験に嬉々として過ごした。父にならって景色の写生をしたりして倦むところがなかった。山陰の風光は山陽とは異なった趣があった。海の幸も瀬戸内海ではみられない蟹や鮑などがあり食欲を増進させた。

 流石に長い逗留に飽きてきたのかある日、春琴が父に聞いた。
「既に一月近くになりますが、まだお帰りにはなりませぬか」
「そろそろ岡山が恋しくなってきたか。帰ってもお前達を可愛がってくれる母はもういないぞ」
「それでも父上のお役目があるのでは・・・」
「儂はもう岡山へは帰らぬ」
「えっ。何故ですか」
「脱藩するのじゃ。儂は国を捨てた」
「何故脱藩なさるのですか」
「儂の信念と意地を通すためじゃ」
「父上の信念とはどのようなことでしようか」
「儂は陽明学を信奉しているから、良知を致し知行合一を実践して仁政を実現しようと努めてきたが、こと志に反してもうこの藩では、儂の宿志は受け入れられなくなってしまった。そして個人的な生活信条も今の勤めを続けている限り守れなくなってきた」
「父上の生活信条とはどのようなものでしょうか」

「第一に威張らないこと。第二に嘘をつかないこと。第三に人を侮らないこと。第四に人を謗らないこと。第五に人を貶めないこと。この五つだ。お前達もうすうす気づいていたとは思うが儂の今までの挙措言動はこのような原則に基づいて行ってきたつもりだ。世間の俗物どもは、やれ融通がきかないとか頭が固いとか、贈り物もしない礼儀しらずだと言って非難をした。しかし、それは人それぞれの見方だから、謗られようと侮られようと儂は意に介しないで心の中になんのやましいこともなく生きてきた。人に後ろ指を指されるような反社会的な行為も悪事もしたことなく、ひたすら愚直に生きてきた。よくきれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないとか、世間の裏を知らなすぎるとかいかにも世の中の辛酸をなめつくしたような言い方をする人がいるが、人生や世間に対する態度が不遜に過ぎ、物の考え方が薄汚いと言わざるを得ないと思う。規範意識が乏しく倫理感の欠乏した人間ほど悲しくも哀れな存在はないと言えよう。私腹を肥やすために違法行為を行い、発覚すると藩のためにやった必要悪であり、それがお家のためには正当な行為であったと強弁し、たまたま露顕したのは運が悪かったのだとぐらいにしか捉えられない破廉恥な人間が藩内に増えてきていることは悲しいことだ。権力の頂点にいる者やそれに追随する者に規範意識がなく自ら禁則を破っておいて、下の者に対しては規則を守れと説いてもそれは通用しないということは経験則からも判っていることだろう。権力の頂点にいるから人は命令には従うかもしれないが腹の中ではせせら笑っているのが実情だろう。面従腹背ということだ。とかく愛想がよく弁のたつ人間には嘘つきが多く、ぶっきらぼうに見える口下手に誠実な人が多いというのが世の中なのだ。お前達がどのような考え方で生きようとそれはお前達の勝手だが、反社会的な行為と自分の良心に恥じる行為だけはしないようにして欲しい。多少くどくなってしまったが、これが儂の生活信条だ」

「お父上のお考えはよく判りました。それで、この次はどちらへ行かれるのですか」
「諸国を流浪する。とりあえずは大阪へ近いうちに行ってみようと思っている」
「岡山へはお立ち寄りにはならないのですか。藩へのお届けは」
「辞表を書いて送っておくだけで十分じゃ」
                   



2005年07月15日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂31

 この年暮れには近江の歌僧海量が来訪して暫く玉堂宅へ逗留して年越しをした。
 海量は歌僧、学僧としても知られ近江国犬上郡開出今村の一向宗覚勝寺に生まれ二十余才で寺を甥に譲って全国を行脚し、江戸で歌を賀茂真淵に学んだ。このとき次の詩を賦している。

 玉堂ニ二児アリ 兄ハ十有四 弟は八共ニ書ヲ読ミ書画ヲ善クス 亦琴ヲ弾ク  

    此ヲ賦シテ贈ル
  京畿昔日共相知 今日山陽再会期
  千里川原嚢裡偈 満堂書画床頭詩
  更驚童稚弾琴妙 堪賞丹青絶世奇
  海内風流実不乏 能留飛錫作遊嬉

   京畿にて昔日共に相知る 今日山陽にて再び会期す
   千里の川原 嚢裡の偈 満堂の書画 床頭の詩
   更に驚く童稚の 琴を弾くこと妙なり 堪賞丹青 絶世の奇
   海内の風流実に乏しからず 能く飛錫を留めて遊嬉を作す

 その昔京畿で厚誼を結んだが、今日山陽路で再会し旧交を温めた。背中の袋の中にはありがたい仏の教えを説いた教典を入れて千里の道のりを歩いて来た。旧友の宅で揮毫して与えたり画を描いて貰ったりまた詩を作りあったりして楽しい時を過ごした。更に驚いたことに幼い児童が琴を弾いて聞かせてくれたが驚くほど上手であった。画に用いられている赤色や青色の使い方は実に鮮やかで世にも素晴らしい。天下の風流まさにここにありという趣である。行脚の足を休めて逗留しとても楽しく過ごした。
                                  
 翌年三月三日には讃岐の青山雲隣が主催した古書画展(陽春楼書画展観)へ淵上旭江と共に赴き、秘蔵の中国書画四点を出品した。この高松で開かれた書画展は長町竹石、後藤漆谷、梶原藍渠等が鑑査し青山雲隣の陽春楼が会場となった日本で最初の大規模な中国書画展観であり、八十二点が出品された。玉堂が出品した作品は次の四点であった。

 金碧仙山楼閣図・・・林寧      雪渓漁艇図・・・・・唐寅
 楚江春暁図・・・・・謝時国     草書・・・・・・・・陳献章

 そして玉堂は陽春楼書画展観目録の序に代えて次の詩を寄せている。

  維年在癸丑 至集陽春楼
  峻嶺金中鼓 茂林筆底収
  叙情文字飲 合契蘭亭遊
  俯仰為陳迹 感慨酌忘憂

   維(こ)れ年癸丑(としきちゅう)に在り、集めて陽春楼に至る
   峻嶺金中(しゅんれいきんちゅう)の鼓、 茂林筆底(もりんひって                 い)収る。
   文字に叙情して飲み、合して蘭亭の遊を契る
   俯仰して陳迹(ちんせき)を為し、感慨酌みて憂いを忘る

 この年寛政五年三月三日は丁度王羲之が蘭亭に人を集めた日であるが、ここは蘭亭でなくて陽春楼である。琴を弾き、鼓を打ち、そして絵筆をとりあくことがない。峻嶺といい茂林といい、蘭亭そのままといっていい。書き、歌って酒を飲み、ともに心で契りあう。 
 上を向き下を見てはここがその記念の土地となることを思い、さまざまな感慨を込めて酒を飲んで憂いを忘れようとする。
                                  
 四月四日には書家、儒者として有名であった細合半斉が来訪し、翌日には二人の子供を連れて半斉を訪問した。
脱藩の意志を固めた玉堂は積極的に文人墨客との交流をするようになり、いつこれを決行するか時期を窺っていた。繰り返し反問しているうちに、玉堂の内心では年齢五十才、妻の三回忌に当たる年というのが次第に目安として固まっていった。
 妻安の死後、この頃までに長女の之は岡山藩士成田鉄之進へ嫁いでおり、女手のなくなった身辺はにわかに寒々しくなり寂寥感もいやましていった。 閑職のためこの頃には表むきの御用は殆どなくなっていたし、若い藩士達もいつしかそれとなく玉堂を敬遠するようになっていた。                                     



2005年07月14日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂30

 寛政三年(1791)五月に庭瀬の松林寺で開催された雅宴に招待され、釧雲水、淵上旭江、長町竹石らが合作した「山館読書図」に求められて七言絶句一首を賛し琴を弾じて参会者から絶賛の拍手を受けた。同年九月には求められて斉藤一興著の「九宛斉韻譜」のために序文を書いた。

 寛政四年(1792)七月八日、玉堂48才のとき最愛の妻安が病没した。
<思えば、姑の茂に口答えしていさかいを起こすこともなく、常に物静かな態度で従順に仕えてくれた。使用人達にもよく慕われて、家事育児のきりもりにも筋を通していた。家事の合間に嗜んだのは大和風の和歌や和琴であったが、その発声にはえも言われぬ品格があった。身だしなみは常に清潔でよく整っていた。二年も患ったが病床にあるときでも身だしなみを乱すことはなかった。いよいよ最後だとわかるとせがんで箏を弾いた。弾き終わるとそれが別れの挨拶だったかのように安らかな顔をして旅立って行った。本当に良妻賢母の典型だった>
と野辺の送りを済ませて帰ってきた玉堂は、独り新しい位牌に向かって手を合わせ、妻の在りし日の面影を偲ぶのであった。

 妻安の墓碑にはその人と為を大原翼の撰で次のように印刻されている。
「・・・・人となり寡言貞静、姿儀端麗、能く婢僕を愛し、家政倫(みち)あり、旁ら圀風(こくふう)を好み吟ずるところみな韻あり、罹病二祀(二年)未だかつて、一日も褥に臥すも漱梳(そうそ。口をすすぎ髪をくしけずる)を廃せず・・・・箏(十三弦の和琴)を鼓し歌詠しおわりて偃然(えんぜん。やすらかに)として逝く。婦にして敏捷その徳を捐(あたえ)る、敏にして慎重は古の則・・・」

 玉堂琴士集後編には安女の死に関して次のような詩が収録されている。

  夜雨書感
  新鼓荘盆独抱憂 長嗟人事逝如流
  旧来親友曽黄土 夜雨灯前涙不収

   新に荘盆を鼓して独り憂を抱く
   長く嗟(なげ)く 人事の逝く流れの如きを
   旧来の親友はかつて黄土
   夜雨灯前(やうとうぜん) 涙収まらず

 今、盆を鼓ちつつこのうえもない悲しみの中にいる。孔子が逝くものはかくの如くか昼夜をおかずと言ったがまさに逝く川の流れの悲しさがある。もはや帰らぬ人となってしまった。今夜屋外は雨で、私は灯火の下でただ涙を流しているのである。

 36年間苦しいにつけ嬉しいにつけ、影のように付き添ってきた妻の逝去は人生の無常を感じさせ、藩政からの疎外感ともあいまって寂しさが心にしみわたるのであった。と同時に脱藩の意志がますます固まっていくのをどうしようもなかった。

<自分の信奉する価値観が受け入れられないのなら、そんな所に何時までも義理立てする必要もなかろう。人生五十年とも言うし、五十才になったらけじめをつけよう。ちょうどそれは、妻の三回忌の年にあたる筈だ。その年から別の世界で生きるのだ。その年まで耐えていこう。せめてそれまでは慣れ親しみ、苦楽を共にしたこの家で供養してやらなければ仏も浮かばれまい。 世間では儂の最近の振る舞いをとやかく言っているようだがもう少しの辛抱だ。今の勤めは世を忍ぶ仮の姿なのだと自分に言い聞かせて辛抱しよう>
と毎朝仏壇に向かうとき玉堂は思うのであった。
                                         



2005年07月13日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂29

 十二.寛政異学の禁
                                  

 寛政二年(1790)幕府により異学が禁じられた。野望実現のため将軍家治の世子、家基を毒殺したのではないかという噂のあった老中田沼意次が家治の病気に際して、またもや将軍毒殺を企てたことが露顕し、天明六年老中職を罷免された後を受けて登場した老中松平定信が行った寛政の改革の一貫として行ったものである。世に寛政異学の禁と言われている。

 ここで江戸幕府の文教政策を振り返ってみると、幕府は開幕当初林羅山を召し抱え、林家とは特殊な関係を結び、また朱子学者を幕政に参与させることもあったが、朱子学を正学と定めたことはなかった。ただ既述のように、熊沢蕃山の影響による備前藩内における陽明学流行に難色を示したり、古学者山鹿素行が「聖教要録」で朱子学を批判し赤穂に配流されたという先駆的な事例はあった。その後林家に人材を得ず、けい園学派、折衷学派など在野の学派が清新な学風の展開を見せたため林大学頭に朱子学を正学とし、異学を禁じ正学講究を奨励する諭達を出した。同時に林家の私塾であった昌平黌を幕府の官学として直轄し、そこで朱子学による官吏採用試験を制度化した学制改革である。

 この寛政異学の禁は伊予国川之江出身の儒学者尾藤二州が朱子学擁護論を唱え、その義弟にあたる頼春水等が同調して幕府の儒官柴野林山、古賀精里等に異学の禁を建言したことがこの措置発令の端緒となった。また鴨方藩領の西山拙斉は「吾程朱の道は孔孟の道、孔孟の道は堯舜の道、堯舜の道は久しかたの道・・・・」とする建白書を柴野林山に送り異学の禁発令に与かって力があった。赤松滄州は柴野林山に対しこれは学問の封鎖であると激しく攻撃した。玉堂の交際していた友人がそれぞれ反対の立場にたったわけである。          
 この異学の禁により、玉堂も出入りしていた「経誼堂」が藩により閉鎖された。経誼堂は河本一阿の先代巣居が万巻の蔵書を保管していた書庫で、これを受け継いだ一阿が多くの陽明学者に開放し、子弟を集めて陽明学の講義を行わしめていたのである。一阿は謹慎して備中井山の宝福寺へ隠遁することになった。

 玉堂はこの異学の禁に本藩が素早く反応して経誼堂を閉鎖し幕政随順の態度を示したことに少なからぬ衝撃を受けた。弾圧を逃れるため河本一阿が謹慎の態度を表して備中総社へ隠棲したことも処世のあり方として大いに考えさせられるところがあった。また西山拙斉が異学の禁を建白したことも玉堂の驚きであったし気の滅入るできごとであった。これ以後西山拙斉とは厚誼が絶えてしまうのである。

<陽明学を信奉している限り、もうこの藩では自分の存在価値がないのではないか。現実に左遷という仕打ちを受けている、やがてこれが弾圧に変わってくる恐れは大いに予想されるところである。かといって手の掌を返すように朱子学への転向を声明して俗吏、俗官どもに媚びへつらっていくことなど性格的にもできるわけがない。この藩ではもはや行政の面で自分の理想を実現していく可能性は全くなくなってしまった。価値観が異なってしまった以上この藩には見切りをつけて去っていくしか方法は残されていないのではなかろうか。礼記の中にも、もし父が間違った行為をしたときには子たる者三度諌めて、それで聞きいれられないときには、号泣しつつそれに従うが、君に対しては三たび諌めて聞き入れられなければ、去るという風に書いてあった。何度も進言しそれでも受け入れられず左遷の憂き目にあわされているのだから、仮に去っていっても不忠にはならない筈だ。こんな道理の通らない藩主や薄汚い世界には潔く決別して、新天地を求めたほうがいいのではなかろうか。幸い自分には琴がある。絵もある。詩作もある。医学もある。琴で弟子を取っても食っていける。その時にはあの豊蘭が一番弟子になることだろう。それも悪くはないな。絵の目きき料でも食っていける。琴を作って売っても食っていける。もっと描きこんでいけばそのうち絵だって売れるようになるかもしれない。子供達にもあまり手がかからなくなってきている。煩わしい世事や拘束から解放されて好きなことを気儘にやりながら過ごすのも悪くない気がする。だが何時これを決行するかが問題だ。時期については慎重に考えなければならない。まだ暫くは今までと素振りは変えずにいよう。ただ口は災いの本というから寡黙に徹することにしよう>

 このような思いが頭の中を駆けめぐるようになった。

 異学の禁発令以来、玉堂の琴や絵のために費やす時間が目に見えて増えてきたし、文人墨客の往来も頻繁になってきた。



2005年07月12日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂28

 この日から二日置いて伊勢長島の藩士で画家でもあった青木南湖が主命により長崎へ来朝中の清の画家、費晴湖に絵を学びに赴く途中、正午過ぎに玉堂宅を訪れた。

 江戸出府のおり友誼を結んで以来久しぶりに再会した青木南湖はとても懐かしかった。
「いやあ、お懐かしい。江戸ではよく小料理屋で飲みましたな。お互いに若かったがあの頃が懐かしい。あの頃の若い気持ちに立ち返って今宵は岡山の町を探索したい。どこかよい所へ案内して下さらぬか。なあに銭なら路銀をこのように沢山戴いておるから御心配には及ばぬ」
 と酒好きの南湖が懐を叩きながらしきりに玉堂を誘った。

 玉堂も南湖とはよく気が合ったので心行くまで飲んでみたいと思った。船宿「堀船」のことが頭にあったので、妻女の安が用意した遅い昼食をとってしばし談笑した後、頃合いを見て駕籠を呼んで出掛けることにした。
「玉堂先生、踏みつけて壊すといけませんからそのお琴はこちらでお預かりしておきましょう」
 と豊蘭が玉堂の前へきて七弦琴を預かり床の間の前へ置いた。
「まずは何はおいても一献どうぞ。今宵もまたあの素晴らしい琴の音色が聞かせて戴けるかと思うと今から心が踊ります。これこのように」
 と豊蘭が艶っぽい笑みを浮かべながら玉堂の手をとり自分の胸にあてた後お酌した。
「ほう、これはお安くないですね。玉堂先生、ここへはよく来られるのですか」
 と目敏くこの動作を見つけた南湖がからかうように言いながら、傍らに座った芸妓の酌を受けている。
「いいえ、先日司馬江漢先生と御一緒してからこれで二度目です」
 と初な玉堂は顔を赤らめながらどこまでも正直である。
「ほう、江漢先生も長崎へ行っておられるのですか。あちらで会えるかもしれませんね」と南湖。

「江漢先生と言えば地動説という新説を聞いて、大いに目を開かれました」 と玉堂は豊蘭に手毬を持参させ、先日聞いた話の受け売りをした後、オランダ式勘定も説明してから今日の払いはオランダ式にしようと提案した。
「ははあ、なるほどそれは煩わしくなくてよいですな」
 と南湖も意外に素直に同意した。
 このやりとりを聞いていた豊蘭が感心したように言った。
「最近稀に聞く清々しいお話しですこと。御家中のお侍に聞かせてやりたいですわ」
「そなたもそう思うか。地動説というのは面白いだろう」
 と玉堂が言うと
「いいえ、そのお話しは狐につままれているようでさっぱり判りません。わたしが感心しているのはオランダ式勘定方式のことですよ。最近のお侍さんは商人にたかることばかり考えているんだから。同輩同志できても相手に払わせることばかり考えているし、武士道も地に落ちたものですよ。全く。あら御免なさい、お二人もお武家さんでしたわね」
 と豊蘭が口元を両手で慌てて抑えた。その仕種に二人は苦笑した。
 さされるままに杯を傾け、積もる話に時間が経つのも忘れて話しこむ二人であったが、豊蘭に請われて玉堂は琴を弾いた。

 南湖は筆と硯と半紙を持ってこさせ、芸妓の姿絵を軽妙な筆さばきで描いて手渡すことのできる遊び上手であった。
「ありがとうございます。絵は難しくて真似はできませんが、琴なら弾けそうです。玉堂先生。わたしもお琴を習いたいのですが弟子入りさせては戴けませんか」
 と琴の音にうっとりして聞き惚れていた豊蘭が、酔いの廻った妖艶な顔で玉堂にせがんだ。
「宮仕えの身だからそれは出来ぬ」
「ではお役目を辞められたらお弟子にとって戴けますか」
「そのときにはよかろう」
「まあ、嬉しい。一番弟子ですね。きっとお約束ですよ」
「玉堂殿、致仕するお考えがあるのですか」
 と聞き咎めた南湖が心配そうに聞いた。
「なあに、座興でござる」
「まあ、憎らしい」
 と豊蘭がわざとしなを作って玉堂を叩く真似をした。
 玉堂の心に宮仕えを辞めて弟子をとり、琴三昧の生活もいいなという考えが芽生えたのはこの時であった。

 この夜は玉堂宅へ泊めて貰った南湖は玉堂の娘之(ゆき)が奏でる箏に耳を傾けた。そして翌日には玉堂も同道して備中屋安之助宅を訪問した。備中屋の藤田家は河本家と並び立つほどの岡山の豪商で代々風雅の道を好み当代の一流人士と幅広い交際があった。南湖は安之助の依頼に応じて違い棚や襖に山水図を描いた。玉堂とは余程肝胆あい照らしたと見えて長崎からの帰途再び南湖は玉堂宅を訪れている。
 寛政元年(1789)予てより準備を進めていた「玉堂琴譜」を京都の芸香堂・玉樹堂から出版した。二月には河本立軒のために琴を作った。
             



2005年07月11日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂27

 天明七年(1787)五月七日大目付役を突然罷免され、大取次御小姓支配役を仰せつけられた。これは閑職であり明らかに左遷であった。

 玉堂には左遷された理由はほぼ見当がついていた。昨年正月に本藩の藩主池田治政公にお目見えして以来、藩主の政直の態度がよそよそしくなり、玉堂を避けるようになっていたのである。しかし自分の信念を曲げて藩主におもねることはできなかった。玉堂は従前と変わることなく平然と出仕し、若い家士をつかまえては綱紀粛清の道理を説いて倦むところがなかった。


 そんなある日、赤穂屋喜左衛門が司馬江漢を連れて玉堂宅を訪問した。喜左衛門は大阪の木村拳霞堂とも商売や風雅の面で交流のある岡山の富商で玉堂とはよく気があい親密な交遊があった。たまたま司馬江漢が長崎へ蘭学の修業に赴く途中立ち寄ったのである。
 司馬江漢は江戸の人で、はじめ狩野派に学び浮世絵なども描いたが、後に平賀源内、前野良沢らと交わって蘭学を学んだ。天明三年(1783)日本で初めて腐食法による銅版画を制作し、洋画風の絵画も多く残した。西洋文化に深い関心を示し地動説を紹介した。また、封建社会の不合理を批判したり、人間平等論の萌芽も見られた。晩年には虚無的厭世的な傾向を強めた。著書に「西洋画談」「和蘭天説」「天地理譚」がある。
 玉堂宅では安が豆腐と蒲鉾に酒をつけてもてなした。

「どうです、今日は司馬先生の壮行会ということで、これから席を変えて中の島へ繰り出し、大いに楽しみましょう。玉堂先生、ご自慢の琴をお忘れなく」
 と、喜左衛門は供の者に言いつけて駕籠を呼ばせると二人を籠へ押し込んだ。
「これは、これは赤穂屋の旦那様いつも御贔屓にあずかりまして」

 女中に案内されて部屋へ通るとやがて主が挨拶に来た。挨拶に出た主の顔を見て玉堂は驚いた。先日、大目付就任祝いの挨拶に鯛と酒樽を持参した堀源左衛門なのである。堀源左衛門は赤ら顔の眉ひとつ動かさず素知らぬ顔で初対面を装っている。場なれした喜左衛門の計らいで芸技もあげて、三人は時に艶めく下世話な話題に、時に高尚な芸術論にと風論淡発した。喜左衛門は座持ちが巧く三味線にあわせて浄瑠璃の名場面を語ったりした。     
江漢は現在取り組んでいる銅版画について熱っぽく語り、長崎へ行くのはこの同版画を完成させるための文献を探しに行くのも目的の一つだと語った。玉堂にとって江漢の遊んでいる世界は初めて垣間見る物珍しい世界ばかりで大いに蒙を開かれる思いであった。とりわけ彼の話した地動説はあたかも太陽が西から昇り、東へ沈むかの如き驚きであった。
「ははあ、この世界は丸い球であって自らぐるぐる廻りながら更に太陽の周囲を廻っているのですか、そしてどこまでもどこまでも海山を越えて真っ直ぐに進んでいけば元の場所へ戻ってくるということですか」
 と玉堂は江漢が説明に使った手毬に印をつけてぐるぐる廻して眺めながら感嘆の声を上げた。 

「さようマゼランというポルトガルの船乗りは船で世界を一周してこの世界は円いものであることを証明しております」
 と江漢がその該博な知識を披露するのであった。

 玉堂は勧められるままに杯を傾け、請われるままに七弦琴を弾き仙境に遊ぶ思いであった。この船宿「堀船」は玉堂には始めてであったが、左遷された鬱懐を晴らすにはいい場所だと思った。機会があればまた訪ねてみようと秘かに思っていた。七弦琴を弾く玉堂の側に侍っている芸技の豊蘭はうっとりした表情で琴の音に聞き入っていた。

 やがて引き上げる段になったとき、玉堂はやおら懐から取り出した巾着を喜左衛門に預けようとして二人の間で口論が始まった。
「玉堂先生それはいけませぬ。手前の方からお誘いしたのですからここは手前の方で持たせて戴きます。それにこの店は手前どもの馴染みの店なので節気払いにしてありますからどうか御心配なく」
 と喜左衛門は巾着を押し返してくる。
「お気持ちは有り難いが、拙者は痩せても枯れても、鴨方藩の大目付のお役目まで勤めた身でござる。立場上からも家法を曲げることはできませぬ。ここは是非拙者にお任せ下され」
 と押し問答が始まってしまった。

「オランダではこのような場合、お互いに折半するのが習わしになっておりますぞ。如何かなオランダ方式になさっては。合理的だと思いませぬか。拙者は客人ということで御馳走にあいなりますがの、はっはっはっ」
 と江漢はどこまでも屈託がない。

「なるほど、それは巧い方法じゃ。理屈にかなっておりますな。赤穂屋殿、今日のところは江漢先生の大岡裁きにき従うことにしましょうぞ」
 という玉堂の提案でその場は収まった。このやりとりを見送りに出た船宿主の源左衛門の蔭に隠れて豊蘭がじっと見つめていた
                                         



2005年07月10日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂26

 このとき西山拙州が玉堂の弾琴に感銘を受けて次の詩を残している。

  君蓋玉堂琴 奇珍値万金
  峩洋償夙志 韶 想遺音
  誰熟更張法 能伝鸞鳳吟
  南薫何日奏 解慍正民心

    君玉堂琴を蓋(か)う。奇珍にして万金に値(あた)る。
    峩洋として夙志を償い、韶 (しょうかく)遺音を想う。
    誰か熟(よ)く更に法を張りて、能く鸞鳳の吟を伝え、
    南薫何(いず)れの日か奏して慍(いかり)を解し民心を正さん。

 君は玉堂琴を買った。類稀なる珍しいもので非常に高価なものであった。琴の音の響きはけわしい山のように高く、広い海のような拡がりを持っていて、君の早くからの志にかなうものであり、その楽曲には太古に理想の皇帝舜が奏でたものに通じるものがある。今の世の中でいったい誰が更によく、法の精神を徹底させ、徳ある君子の世にだけ現れて鳴くという瑞鳥のさえずりを聞かせてくれるのだろうか。民の恨みや怒りが解かれて天下がよく治まっている時、吹くという南からの薫ぐわしい風は何時ふいて太平の世がくるのだろうか。
                                  
 胸襟を開いて清談に耽りながら杯を酌み交わしているうちに、正月に玉堂が本藩の藩主に敢然として所見を開陳したことも話題になっていた。鴨方の田舎に身をひそめてじっと世の中を眺めていた拙斉には玉堂の言動と人柄に清廉潔白で端正なものを感じとり、琴の音に耳を傾けているうちに感銘をうけたのである。詩にはその気持ちがよく現れている。         
 この年五月には母茂が81才で天寿を全うした。
 安永四年に母の古稀の寿宴を催したとき大阪生まれの朱子学者中井竹山が既述のように寿詩を贈っており、その末尾の付記に「浦上氏幼にして孤、母氏実に義方の訓あり」と書いている。また「自識玉堂壁」の冒頭で「玉堂琴士幼にして孤、九才始めて小学を読み、長ずるに及んで琴を学ぶ。他の才能なく迂癖愚鈍、凡そ世のいわゆる博打、歌舞の芸、おろかにして知識なし」と自ら記している。このように幼くして父を失い、母の手ひとつで浮薄な道に走らないよう徳義を旨として育てられた玉堂にとって、天寿であったとはいえ精神的な支えであった母を失った悲しみは大きかった。
       



2005年07月09日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂25

 その一方で恩師の玉田黙翁が89才の天命を全うして永眠するという不幸もあった。なお玉田黙翁が健在であったこの年正月三十日付けの司馬江漢より浦上玉堂宛の書簡が残っていて 

「先達者玉田翁僊薬百目被遣 此代六○為持上候 御落手可被下候」
 となっていて玉田黙翁処方の薬を玉堂が司馬江漢へ仲介している。
更にこの書簡の追伸として 

「紅毛者色々出候得共 遠方故御目に懸難候」
 とあり、玉堂の好奇心の強さと交遊が多方面にわたっていたことを窺わせる。

天明六年(1786)正月、本藩の藩主池田治政へ初めてお目見えした。   
初のお目見えであるから藩主から特に下問のない限り、挨拶だけ言上して引き下がるのが通例であるが、この御目見えでは大飢饉についてどのように考えるかとの下問が特別にあった。知行合一を実践しようとしている玉堂は下問に対して臆することなく所信を表明した。

 先ず当面の飢饉対策としては、

 ・藩が米価の暴騰を利用して米の転売により利さやを稼いでいるのを即刻やめること、         
・商人から借銀してでも領民の救済対策にもっと力を入れること、
 ・当面年貢の税率を低くして困窮民の窮状を緩和すること、
 ・音物禁止令の適用を厳格にして儀礼的な贈答を全面禁止し贈収賄の絶滅を徹底して藩経費の節減を図ること
 を挙げ

 次に将来の対策として

 ・児島湾の干拓を積極的に推進し収穫高の増大を図ること
 ・甘薯の山地栽培を奨励し米麦の補完的な役割を持たせるようにすること ・藩財政の独立採算制を断行し本藩に頼らず自己の才覚で財政運用できる体制を作ること
 ・参勤交代制度を幕府に働きかけて廃止し、経費節減を図ること
 と主張し

 最後に上下ともに教導して良知を致し質実剛健で規律ある藩風を確立することが最も大切なことであると結んだ

 鴨方藩主政直と平生行っているやりとりと、同じような内容の繰り返しに過ぎなかったが、何時も煮え切らない態度をとる政直に対して、大きな影響力を持つ本藩の藩主に直接意見を開陳できたので、鬱屈する気持ちが晴れる思いであった
 しかしながら玉堂が受けた印象は、私淑する光政とも理想の君主として仕えた政香とも全く肌合いが違っており、政直と同類の凡庸な藩主であった。

 この頃琴を自作することも面白くなっていて、石室眷兄のために唐製琴の「雷かく」に模した琴を作って贈った。

 春の一日、予て交遊を結んでいた赤松滄州、西山拙斉、菅茶山、姫井桃源が玉堂宅に会合して酒宴を催し夜ふけて玉堂の琴に聞き入った。

 赤松滄州は播磨の人で医学に通じた儒学者で赤穂藩の藩儒となり、家老を勤めて治績を残した後、致仕してからは京都で儒学を講じていた。

 西山拙斉は鴨方の儒学者で、若い頃大阪で医学と朱子学を学び詩をよくした。この頃は郷里で欽塾を開いて育英に任じておりその高潔な人格を讃えられていた。
 菅茶山は備後の詩人であり、姫井桃源は岡山藩の儒官であった。
                                                                



2005年07月08日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂24

 天明三年(1783)には毛利扶揺が六年後に出版される玉堂琴譜の序文を脱稿しているからこの頃、玉堂は余暇に没入する世界では琴譜出版の準備に余念がなかった。

 毛利扶揺は豊後国佐伯侯の庶子で名は聚、字は公錦、図書と称した漢学者である。水戸藩の家老山野辺義胤に養子いりしたが後に離縁され以後は江戸で文墨一筋で過ごした。

 毛利扶揺の詩の中に玉堂との親密な交遊を窺わせる次のような詩がある。

  春日含輝亭ニ遊ブ 紀君輔琴ノ賦ヲ弾テ贈ル
  一唔空亭上 相知旧侶同
  江花薫酒溘 嶽雪照緑桐
  逐臭幽闌合 移情流水通
  曲中無限意 挙目送帰鴻

   一唔す空亭の上(ほとり)、相知ること旧侶同じ。
   江花 酒溘(しゅこう)を薫じ、嶽雪 緑桐を照らす。
   臭を逐えば幽闌(ゆうらん)合し、情を移せば流水通る。
   曲中 無限の意、目を挙げて帰鴻を送る。

 誰もいない含輝亭で偶然にも玉堂に出会った。一目会っただけで長年の友人のように親しみあった。そこは川のほとりで花は咲き乱れ、酒のにおいとともに芳しい香を放ち、山野の残雪は輝いて桐葉を照らす。じっと匂えばかぐわしい蘭のようなかすかな匂いが満ち、心は何のわだかまりもなく通じ合う。彼の弾く曲には無限の味わいがあり、じっと聞きすます私の目には、ねぐらに帰る鳥が空高く見える」
     
 天明五年(1785)家庭的には慶事があり次男の紀二郎(秋琴)が生まれた。又母親茂の八十才の祝いの年にあたり鴨方藩領内の儒学者が次のような寿詞を寄せている。

  浦上氏令堂八十初度ヲ寿ギ奉ル
  退食自公爰問安 南山唱寿坐団欒
  凱風翻奏瑶琴曲 愛日新成金鼎丹
  錫類何唯東閣望 平友況奉北堂歓
  歓声自是春難老 班綵蹲前帯笑看

   退食公(たいしょくおおやけ)よりし、爰(ここ)に安(あん)を問う
   南山唱寿(なんざんしょうじゅ)し、団欒に坐す
   凱風(がいふう)翻奏(はんそう)す、瑶琴(ようきん)の曲
   愛日新成(あいじつしんせい) 金鼎丹(きんていたん)
   錫類(しゃくるい)何ぞただ東閣を望まん
   平友(へいゆう)況(いわん)や北堂を歓び
   歓声この春より老い難し
   班綵(はんさい)の蹲前(そんぜん) 笑看を帯ぶ

 公より職を退いてここに母堂の安否をお伺いします。丁度八十才の誕生日を迎えそのお祝いに人々が多く集まっている。その喜びの中、琴を奏でる。不老不死の薬もあり、身を潔める錫もありこれ以上望むものはない。
                          



2005年07月07日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂23

「藩の収入が減っては体面も保てなくなるではないか。お前は政治悪だというが、必要悪ということだってあるではないか」
「非常時に体面を言っているときでしょうか。税を減らして収入の減った分は藩の出費を抑えるよう倹約につとめることです。例えば参勤交代を取り止めて経費節減を図ることを幕府に働きかけてみる方法だってあるでしょう」「そんな大それたことができる訳ないではないか。それこそ不忠になる」
「最初から諦めているのではなく、先ず行動してみることではないでしょうか」

「それは難しい。本藩の治政様だってそんなだいそれたことを幕府へ進言できる筈がないではないか」
「今すぐの対策としては間に合いませんが、児島湾の干拓事業にもっと力を入れて耕地面積を増やし収穫を上げることです。また米、麦の代用になる甘薯の山地栽培を奨励してみるのも有力でしょう。それにもっと基本的なこととして、藩財政を独立採算にして自己の才覚で財政運営できるよう制度を改定する必要があると思います」
「干拓事業と甘薯の山地栽培は確かにお前の言うように努力しなければならない課題だとは思うが即効性がない。そして藩財政の独立採算化は本藩から独立してしまうという意味合いがあり独自の組織を編成しなければならずそのためには人と経費が余計にかかるではないか。現実的ではないと思うし、大体本藩に対して謀叛の心ありと疑われる恐れだってあるではないか」
 と政直の反応はあくまで成り行きまかせで現状改革の意欲は微塵も窺えないものであった。

「経費節減について、もっと言えば儀礼的な慣行を見直して例えば贈答を厳禁することです。そもそも光政公が音物禁止令を出され、その後何回か禁止令がだされているにもかかわらず、これが遵守されません。綱紀粛清に藩主が率先して範を垂れ弛緩した綱紀を引き締めるのが最も有効な方法だと思いますが」
「幕府の要人に対する付け届けを惜しむと赤穂藩の二の舞になってしまうじゃあないか」        
「そこのところを将軍に道理を説いて、奸臣を追放し上から変えていく努力をなさるのが将軍の臣下たる藩主としてのお勤めであり、忠節を尽くし仁政を実現する道ではないでしょうか」
 と食い下がっていく玉堂であった。
「松の廊下の刃傷についてだって、幕府は吉良殿にお咎めなしの裁定をなさっておる。この事件は場所柄を弁えず私怨を晴らそうとした乱心行為だというのがその理由なのだ。浅野殿にもっと領民の幸せを願う慈しみの心があれば浅野殿の個人的な屈辱は我慢できたのではないか。それこそ不徳の藩主だったというのが公式の見解なのだ。更に四十七士の討ち入りにしろ幕府を恐れぬ不埒な行為として浅野家の再興は許していないし、首謀者大石以下全員切腹させられている。切腹ということで武士の面目をたてるようはからっているのだ。いずれにしても幕府に逆らうのは得策でない」
「それがしにはそうとは思えませぬ。四十七士は幕府の片手落ちのお裁きに異議を唱えて自ずからの良知に従い命をかけて理非曲直を世間に問うた義挙であると思っております」        
「馬鹿な世間の者はそのようにいうが、それは弱い者のいうことであって世の中そんなに甘いものではない。すべては強い者に道理があるのだ。強い者が黒いものを白だといえば白になるのが世の中だと儂は考える。お前はいつもそのように理想論ばかり言うが、人間きれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないではないか。あまりにも現実を知らなすぎる理屈ではないのか」
「それがしにはそうとはおもえませぬ。世の中が乱れてくればくる程、正義を主張して警鐘を鳴らさなければと思っております」

「学者がそう言って主張するのは仮によいとしても、お前は民を治める立場だ。もっと現実をよく見て時勢に順応していかなければ藩自体が幕府に睨まれてたちいかなくなることだってあるだろう。むしろそちらの方が怖いことだ。それに百姓・町民共は牛、馬よりは多少ましな生き物でおとなしく年貢を治めていればいいのだ。百姓達がいなくなってしまうと米が作れなくなって困るから、家康公も言われたように連中は生かさぬよう殺さぬよう絞りあげていくのが治世の要諦だと思うがのう。ましてや全国的な大飢饉のときは非常時なんだからどの藩だって、満足のいくような救済のできるわけがないではないか。餓死する者は運命だと思って諦めて貰うしかしようがないではないか。暫く成り行きを見守ろう」

 実りのない議論を終わって退出した玉堂は、例え愚だと言われ融通のきかない狷介な性格だと思われようが自分の良知を致し、繰り返し何度でも懲りずに主張し実践していくしかないなと観念する孤高の陽明学徒であった。


 ところで余談であるが、世の中には絶対的な究極価値は一つしかないという価値絶対主義の立場に立てば、自分と異なる価値観を主張する相手に対しては、これをあらゆる手段に訴えて説得し、同化させるか、相手を抹殺するしか方法がなくなってくる。これは最も先鋭化した宗教の立場とか例えばヒットラーの如き立場しかないことになる。
 これに対して、世の中には相対的な価値しか存在しないとする価値相対主義の立場にたてば価値観が異なる二人が対峙した場合、相手の立場を全否定はしないが、相手から自分の立場も全否定させないという態度をとることになり、お互いに価値観を微修正しながら折り合える場を探し求めていくことになる。もしも共存できる場が見つからない場合には袂を分かち、別の世界で暮らすしかなくなることになる。この立場はデモクラシーの立場である。こうした見方で観察した場合、玉堂は価値相対主義の立場をとっていたように筆者には思えてならない。



2005年07月06日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂22

 備前備中でも東北地方の如く飢餓民が人肉を食むというほどのものではなかったが前年に続き飢饉が発生した。

 玉堂は承応三年の大飢饉の時に光政がとった大救済事業に倣って、藩米の放出と有力町人からの借銀による窮民の救済を献策したが、今回の飢饉が全国的な規模のものであったせいもあって、地主や商人の買い占め売り惜しみとあいまって米価が暴騰し他藩から米を買いつけることは非常に難儀を極めた。本藩の岡山藩がこの大飢饉に際して取りえた領民の救済対策は天明四年に米一万俵と銀四百貫を飢餓者に支給するという程度のことしかできなかった。

 しかも幕府からは洪水で荒廃した関東の諸河川の川浚の賦役を課されたため藩財政は困窮の度合いを増していく一方であった。

 このような状況に対処して積極果敢な対策を実施していける英邁な藩主を本藩である岡山藩も支藩の鴨方藩も戴いていなかった。当時の岡山藩主は池田治政であり、鴨方藩主は池田政直であったが両者とも幕政随順型の凡庸な藩主であり幕府の田沼意次が行った賄賂政治の醸成した綱紀弛緩の風潮に危機感を持つ精神すら欠如していた。
「今回の飢饉は承応三年の飢饉を上回る規模の未曾有のものですから本藩と支藩合わせて一万石の救援米と四百貫の銀だけでは焼け石に水です。もっと有効な手を打たなければ餓死者が増える一方です」
 と玉堂は深刻な語調で藩主政直へ進言した。

「藩の米蔵は底をついたし、米価が高騰してしまい米商人から買い入れようにも金がないではないか。ましてや我が鴨方支藩の財政は本藩の岡山藩からの交付金で賄われているので、自らの才覚で臨時の予算を組むことはできない仕掛けになっておる。ない袖は振れぬのがものの道理じゃ。ここは成り行きに任すしか致し方あるまい。それともそちに何か良い思案でもあるか。あるなら申してみよ」
 と政直が応じた。鴨方藩の財政は藩成立当初から独立採算を基調とするものではなく、本藩に依存する傾向が強かった。即ち鴨方藩の領知高に本藩の平均税率を掛けたものが与えられ、この範囲で財政を賄う仕組みになっていた。赤字のときは本藩からの補助を仰がねばならなかったのである。

「金がなければ商人から借りてでも飢餓民対策をするのが仁政というものでしょう」
「金利が高騰しているし商人が貸したがらなくなっている」
「それがしの調べたところでは、本藩では藩財政の窮乏を救うために購入した備蓄米を転売して米商人に売り付けて利ざやを稼いでは、それを藩費に充当しているではありませんか。これは君子のとるべき施策ではなくて、悪政というものではないでしょうか。先ずこれを正して止めて戴くことです。次に税を軽くして領民達に当面の飢餓の危機を切り抜けさせることです」



2005年07月05日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂21

 十一.左遷
                                  
 天明二年(1782)38才の時江戸で選集された「大東詩集」に玉堂の詩、従軍行が一編だけ採録された。井上金峨の高弟である原狂斉がこの詩集には序を寄せていから、金峨の故縁を頼りに自作の詩を世に問うてみようと原狂斉らの編集者に採録を願って奔走した成果といえる。

  従軍行
  漢王推轂去 飛将向楼蘭
  不厭辺城苦 祇思社稷安
  陰風金鼓動 朔雪鉄衣寒
  欲払胡塵色 征人撫剱看

   漢王轂(こしき)を推して去り、飛びて将(まさ)に楼蘭に向わんとす。
   辺城の苦しみを厭わず、祇(ただ)社稷(しゃしょく)の安きを思う。陰風に金鼓動き、朔雪に鉄衣寒し。

 天明三年の天候は全国的な異常気象で土用に冬着を必要とするほどの冷夏であり全国的な大凶作となった。特に関東地方では、六月に発生した利根川をはじめとする諸河川の大洪水、七月に噴火した浅間山の「浅間焼け」による流出溶岩流、降灰等の天災も重なって未曾有の大凶作となった。冷夏の被害は東北地方へ行くほど甚大であった。天候不順は翌年以降も続いたため天明三年から八年にかけて全国的に大飢饉が発生した。

 天明大飢饉の様子を三河岡崎生まれで流浪の著述家、菅江真澄の紀行文「楚堵賀浜風」から覗いてみると次のように凄惨な地獄図であった。

<天明五年(1785)八月三日、出羽の境、木蓮寺の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鰺ケ沢の湊をへて十日に床前という村に足を踏み入れた。陰暦の八月といえば、もう初秋で空気もうすらつめたい。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨が沢山散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。驚いた真澄が思わず「ああ」と嘆声を発すると、うしろからきた百姓が「これはみな餓死者の骨なのです」という。

「一昨年卯歳の冬から昨春にかけて雪中で倒れ死んだ人達で、そのときはまだ息のあるのも大勢おりました。積み重なって道をふさいでいるので、通行人もそれを踏み越え踏み越え歩くのですが、夜道や夕暮れなどにはうっかり死体の骨を踏み折ったり、腐った腹などに足を突っ込んだりしたものです。その悪臭がどんなにひどいものかおわかりにはなりますまい。わたしどもは飢えから逃れるために、生きている馬を捕らえ、首に縄をかけて梁に吊るし脇差・小刀をその腹に突き刺して、血の滴る肉を草の根と一緒に煮て食べました。そればかりではありません。野原を駆ける鶏や犬を捕まえて食べ、それが尽きると自分の生んだ子や兄弟、或いは疫病に罹って死にかかっている者を脇差しで刺し殺してその肉を食べたり、胸のあたりを食い破って飢えを凌ぎました。人肉を食べた者は眼が狼のように異様に光ります。いまもそうした人間が村に沢山おります。今年もこのあいだの潮風で作柄がよくないので、またまた飢饉になりそうです」こう言い残すと、その百姓は泣きながら別の道を去っていった」(中央公論社刊の日本の歴史第十八巻、北島正元著天明の大飢饉より引用)>



2005年07月04日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂20

 翌日致仕して隠居している前任者を訪問し音物の取扱について前例を確かめると、儀礼的な範囲のものであれば、音物禁止令があるにもかかわらず、例え大目付であっても役職就任祝いの挨拶の品程度のものは受け取るのが礼にかなっているという見解のもとに慣行化されており、このことが問題になったことはないという回答であった。そんなことは皆がやっていることだし殊更に取り上げて藩内に波風立てることもなかろうという意見であった。

 やがていつとはなしに藩内で今度の大目付は礼儀しらずで融通がきかないという噂が流布するようになった。


 大目付けに昇進したこの年愛用の七弦琴を見本にして漆塗りの琴を自作しているが、寸暇を見つけては琴の世界へのめり込んでいった。煩わしい職務を忘れて無心に琴を弾くと心が洗われて明日への英気が養われるような気持ちになるのであった。

 やっと、新しい仕事にも慣れ、見えてきた役人達の執務態度は、役得意識の瀰漫、依怙贔屓の傾向、慢心と上司を軽んじ侮る傾向、前例準拠の保身主義、責任回避のことなかれ主義であり、良致知を研ぎ澄まし知行合一を実践して仁政を目指そうという陽明学の行動規範からは許せないものばかりであった。特に、藩主の政直は亡き兄への反発があるのか陽明学を毛嫌いしており、賄賂の横行を容認しようとする性向があり玉堂の頭を悩ませるところであった。



2005年07月03日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂19

 光政公の再来と期待され、仁政実現の理想に燃えた清廉潔白な若き藩主政香に薫陶を受けた玉堂にとって、新しい役目は気の重い任務であった。政務監察の役目は藩政全般を大所高所から監査して、不審を明らかにし、不明を教化し、不良を改善し、不正を糺して藩務の効率化、合理化を図っていくことにあったが、真剣になって真面目に監察の目で周囲を見回せば賄賂、役得の横行がすぐさま目についた。年貢を納める領民の心はすさび、役人の無責任、無気力とそれとは裏腹の横柄な態度が蔓延していて社会の実態はほとほと目にあまるものばかりであった。現実の社会は玉堂の目指していた理想の政治とはあまりにもかけ離れ過ぎていた。それでも就任当初は正義感に燃えて、仁義の道を説き綱紀の粛正を目指して家臣の教化善導に力を注いだが、弛緩しきった家臣達の心に改革の灯を点じることはできなかった。

「殿様、船宿講の堀様がお見えですが」
 と安が奥の部屋で未完成の絵に筆を入れている玉堂へ取り次いだ。大目付の辞令を頂いて一両日経ち、退庁して藩邸の自室で寛いでいるときのことであった。
「はて、用向きは」
「大目付御就任のお祝いと御挨拶だと申されてこのような品を御持参になりましたが」
 と言って安がとれたてらしく、まだぴちぴち動いている大きな鯛の入った籠と朱塗りの酒樽を重たそうに運んできて見せた。
「はて、挨拶にしてはこのような大行なものを・・・とりあえずはお通ししてくれ」
 お茂に案内されて入ってきた男は小気味よく太った赤ら顔の男で、縞の羽織を着て揉み手をしながら愛想笑いを浮かべて入ってきた。
「お初にお目にかかります。手前、堀源左衛門と申しまして中の島で船宿を営んでおりまする。このたびは大役の御就任、祝着に存じます、何はともあれ中の島の船宿講の代表として御挨拶に参上致しました」
「これはまた、ご丁寧に。ところでこのような物を持参されては困ります。お定めにより挨拶に音物の持参は禁止されているのは御存の筈だが」
「まま、そう固いことを仰らずにほんのお近づきの印ですから」
「お役目柄それは困る」
「これはまた律儀なことを。殿様はお若いのでまだご存じないかもしれませぬが、大目付に御就任になれば先ず、船宿講で鯛と酒樽をお届けしてお祝い申し上げるのがしきたりになっております。前任の方もその前の方にも受けて頂いておりますので、これはもう受けて頂かなければ手前の立場がありませぬ」
「いやいや前例がどうあろうともお定めはお定めだから、取り締まる立場にある拙者としては受け取るわけにはいかぬ。気持ちだけは有り難く頂戴するがこの品は持ちかえって下され」
とこのような受けよ受けぬの押し問答が繰り返された後、堀源左衛門は首をかしげながら竹籠と酒樽を下男に担がせて引き上げていった。

 堀源左衛門を追い返してほっとしたのも束の間で、今度は鴨方の郡代がこれも酒樽と竹皮製で二つ折りの籠に包まれた大きな鯛の浜焼きを持って挨拶にきた。人目を憚って九里の夜道を馬を飛ばしてやってきたので遅くなってしまったと弁解した。備中鴨方は備前岡山の西方35・の地点にあり、ここへ郡代を置いて知行地の管理にあたられているのである。

 郡代の主たる職掌は鴨方藩の知行地に設けられた陣屋に常駐して、年貢の取立率を決定し、領地を巡回して農事を奨励し風俗の改善をはかり、村役人を監督して人柄の清潔な者を任命するとともに、宗門改め・諸法度の伝達などであった。郡代は領地の用水・普請・御林等の検分、高掛物の割当の取締り、加損改・作柄予想・新田の収穫量と年貢の見積もり等の時には、これらの実務に詳しい下役人の助言を受けて業務を執行したから鴨方藩の現地駐在最高責任者であった。

 こちらの方も道理を説いて持参した品は持ち帰らせたが、就任そうそう、いきなり思いもかけなかった二人の音物攻勢に兵右衛門は考えこんでしまった。
<禁止令があることと役目柄を理由に心尽くしの贈り物を受け取らず、二人ともつれなく追い返してしまったが儀礼の点から問題はなかったか。孔子は礼を教えの基本において特に重んじているから今回儂のとった態度はその点からいえば礼に反したことになるのではなかろうか。それにしても堀源左衛門の場合は市内だからまだいいとしても、郡代の場合は遠路鴨方からわざわざ祝いにきてくれたのに追い返してしまったのは気の毒なことをしたな。その労を多とする意味からも受け取っておいて後日同価値のものを届けるということでもよかったのではなかろうか。そうすれば儂には役得をしたいという私心のないことが判って貰えて相手に嫌な思いをさせなくて済んだのではないだろうか。いやいやそれはいけないことだ。最初は小さな単なる儀礼的な音物のつもりが次第に過熱して利益誘導の手段になり果てるということなんだろうな。音物禁止令の趣旨はそういうことに違いなかろう。それにしても彼等の魂胆は何だろう。堀源左衛門は船宿講の代表と言っていたな、すると講全体として何か企みがあるな、そうか運上金の率について匙加減をして貰いたいということか。それでは郡代の狙いはなんだろう。郡代は肝煎(きもいり、村の世話役)に対して年貢の取立率を決める権限を持っているから郡代と肝煎の間になにかいわくがありそうだな。それにしても重役就任の初日からこんな状態だから、藩内で利権の伴う役目のところへは、相当な賄賂が贈られていると考えてもいいのだろうな。これは余程心してかからなければ、誘惑に負けてしまいそうだな。この悪弊を直していくのは相当難儀なことだろうなあ、どうしたらいいのだろう>

 と兵右衛門は自問自答しながら重役に就任してから日を置かずして、綱紀弛緩の匂いを嗅ぎつけ前途に待ち受けている役目の難儀に思いを致すのであった。



2005年07月02日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂18

 十.昇進
                                  

 天明元年(1781)37才のとき、1月11日御前で新知行90石を下され大目付役を仰せつかって同月15日には御折り紙を頂戴した。藩政監察を主要任務とする重職に就任したのである。大目付の職掌は江戸幕府の例でみると礼式、訴訟、諸士分限、服忌、日記、鉄砲改め、宗門改め、道中奉行であったから鴨方藩においても類似のものであったと思われる。

 この時の藩主は池田政直で夭折した政香の弟であったが、兄政香のような理想に燃えて仁政を実現していこうという覇気が感ぜられず、時勢隋順型の凡庸な人柄であった。藩主が凡庸であれば次第に士風が頽廃していくのは世の常であるが、玉堂が大目付に就任した頃には規律が相当弛緩していた。

 翻って本藩である備前岡山藩の士風の変遷を振り返ってみると、始祖池田光政が治世に当たっていた頃の政治理念はすぐれて文治主義的な仁政理念に貫かれたものであったが、その一方では強権を発動して厳しく統制を加えていくという武断的な要素も多分にみられたので、江戸表でも「備前風」と評判になるほどの質実剛健な規律ある士風が保たれていた。しかし光政が隠居して綱政に家督を譲った頃から士風弛緩の萌芽がみられた。家督を譲った嫡男綱政の性格には父光政と対照的なところがあり、不作法、気隋、向女色の性向に加えて文学(特に和歌)、芸能(特に能楽)を愛好し仏道の信奉と幕政随順の態度が顕著であった。
 勿論武技も修めたがどちらかといえば文人的要素が強い藩主であった。このため「公私の典故」は綱政時代に大いに完備されたが無責任な気風が芽生え時代を経るにつれ綱紀は次第に弛緩していった。六代斉政の頃には役務に関して「音物(いんもつ)」「振舞」の横行が目にあまるようになった。贈賄した町人とともに、収賄した不徳義の役人を厳罰に処するという法令をわざわざ重ねて、出さなければならない程の綱紀の乱れが生じていた。貨幣経済発達による町人勢力の増大という趨勢に加えて、幕府で田沼意次が側用人として起用され賄賂政治を行った悪風が備前藩にも次第に浸透してきていたのである。本藩の士風が弛緩してくれば統治機構が共通であった支藩の鴨方藩にもその悪弊が及んでくるのは当然のことであった。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      



2005年07月01日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂17

 九.玉堂清韻との出会い


 宝暦七年(1778)兵右衛門34才のとき江戸で時疫を患い病床に伏した。病臥にあることを知った玉田黙翁が老体をひきさげて、江戸藩邸へ逗留して親しく兵右衛門の脈をとって処方調剤をした。兵右衛門が従喜の涙を流したことはいうまでもない。
 宝暦八年(1779)35五才のとき兵右衛門は江戸出張を命ぜられ上府の途中、大阪の木村蒹霞堂を一月と二月に二回訪問した。訪問の目的はその膨大な収集品である万巻の典籍、書画、博物標本、古器古銭を閲覧させて貰うとともにここへ集う文人画家達と厚誼を結ぶためであつた。木村蒹霞堂は代々造り酒屋であったが若い頃より本草学を学び花鳥画や山水画も修め、財に任せて集めたコレクションは希望する閲覧者には快く公開していたので文人、画家、書家の出入りが多く、当時の大阪における芸術サロンとなっていた。        
 この年江戸出府中、兵右衛門は明の大学博士顧元昭が造った七弦琴を手にいれた。この琴には朱文で「玉堂清韻」と琴銘が記されていたので、名品を手にいれた記念に以後兵右衛門は自らを玉堂琴士と号することにした。この年五月に留守中岡山で長男紀一郎が誕生しているが号を春琴と名乗らせている。

 玉堂が琴について初めて記述した「玉堂琴記」をこの年8月18日脱稿しているがその中で名器「玉堂清韻」入手の経緯を認めている。      
 これによると                           
「この琴は、長崎の通詞劉益賢の言うところによれば、明の大学博士顧元昭が造ったものであり、清の李子福という人物が持っていた。彼は、寛文年中にこの琴を携えて長崎に渡り、彭城某に贈呈した。彭城某はこれを劉益賢に贈り、劉益賢は長崎鎮台の某に献じた。それ以来百有余年、何人に渡ったか不明であった。その後、玉堂が江戸で日向延岡藩主の内藤政陽公に弾琴法を教授しているとき内藤公が中国製の琴を手にいれたいと思っているが心当たりはないかと尋ねられた。玉堂はかつて散楽人北条某の家に小倉侯から賜った古い琴があると聞いたことがあったのでそれが中国製であると思うと答えた。すると内藤政陽公は北条なら懇意にしているので借りてみようということになり、玉堂も一緒に見ることができた。その後玉堂は岡山へ帰り、内藤政陽公も他界されたのでそのまま幾年もの歳月が流れた。再度玉堂が江戸詰めとなったとき、溝口子 が人にこの琴を持たせて寄越し、これは北条某の持ち物であるが、かつて玉堂が琴を好むと聞いたことがあるので、玉堂に贈りたいと言った。その理由は玉堂の手元にあれば自分の所にあると同じことで、末永く世に伝えて貰えると思うからであるということであった。こういう経過をたどって玉堂の持ち物となった。子孫は永くこれを宝として欲しい」とその由来が記されている。
 この頃の玉堂は35才であり、政務にも油が乗り人柄にも円熟味が加わって職務以外の趣味に関する領域にも幅広く関心を広げていった。そして名器玉堂清韻を得てからは弾琴の世界へのめりこんでいく自分を制御できなくなると共に仁政実現一筋の気持ちをますます固めていくのであった。   
 この琴を入手して間もない時期に作った次の詩の中でこの琴にかかわる感慨を述べている。

  俸余蓄得許多金
  不買青山却買琴
  朝坐花前宵月下
  磴然弾散是非心

   俸余蓄え得たり許多(あまた)の金
   青山を買わずして却って琴を買う
   朝には花前に坐して宵には月下に
   磴然として弾じ散ず是非の心

 自分は宮仕えする身だが、戴いた俸祿を大切にしていると随分多くの蓄えができた。悠々自適するための美しい山を買って墓地も用意するのが普通だろうが、代わりに琴を買った。朝には花の前に座り、夕べには月光の下にすわって琴を奏でるのだ。心を虚しくし忘我の境に浸って弾くとその音色が五体にしみ入り是非に悩む心等は吹き飛んでしまうのだ。
                                  
 ここで是非の心という意味は一般的には善悪の心ということであるが、この頃の玉堂の心境を推し量って解釈すれば仁政が行われるべき理想社会の姿が善であり、人間の欲望が渦巻き汚れた現象ばかり目立つ現実社会の姿が悪なのである。そして善に赴こうとするが悪に妨げられて煩悶している心を是非の心と言っているのである。
 琴こそ理想実現への志を高揚させてくれる友達だと観じてますます琴を慈しむ気持ちに拍車がかかるのである。

 また絵画の面でも当時江戸で高名な中山高陽等との交遊を通じて文人画に関心を示しその気韻、風雅を楽しむようになっていた。中国製の文人画などの出物があれば買い集めるようになったのもこの頃からであり、数多くの絵を見ているうちに「目利き」の目も次第に養われていった。そして、安永九年安房へ漂着した清の画家方西園が幕府の命で長崎へ回送される途中描いた「富嶽図」を習作のつもりでこの頃模写している。

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