前潟都窪の日記

2005年06月29日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂16

翌安永四年には岡山へ呼び戻されて、御供頭を仰せつかり官吏としての出世街道を驀進するのであるが、勤務の傍ら江戸で開眼した琴、絵画の道にも閑暇をぬすんでは精進するのであった。ここで感じられる兵右衛門の姿は効率的に業務をてきぱきと処理していく真面目な能吏でありながら、琴や絵画にも輝きをみせる才人というイメージである。
 この年は家庭的にも充実した日々で母親茂が古稀を迎えたので祝宴を催しているし、長女の之が誕生している。
 母親茂の古希の祝いに大阪の中井竹山は寿詞を贈っている。
                                    
 備藩浦上氏母七十寿詞                       
  行子帰養至自東 寿筵杯盤和気融 
  黄備城辺春鎮在 碧桃花下楽亡窮
  錦衣併為班衣舞 因見当年断機功

   行子 帰養するに東より至る。寿筵杯盤 和気融(やわら)ぐ。
   黄備城辺 春 在に鎮まる。碧桃花下の楽しみ 窮まることなし。
   錦衣 併せなる、班衣の舞。因りて見る 当年 断機の功

 旅人は郷里に東より帰って、母の古希のお祝いをする。このめでたい席に多くの人と祝いの酒杯をかわし、和気あいあいたるものがある。吉備の城下もまさに春たけなわ、美しい桃の花は咲き誇り、楽しみは極まるところがない。酔うほどに舞うほどに着衣が翻る。       
 この年にあたり、母親の子を思う孟母断機の教えを今更ながら痛感する。
 



2005年06月28日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂15

多岐藍渓(1732〜1801)は幕府の医官で氏は丹波、通称安元、号は藍渓、字伸明で医学生を養成する私学の躋寿館を主宰した。和漢の伝統医学の研究と教育に努め、医学界における多岐氏の地位を不動のものにした。琴をよくし藍渓の師は小野川東川、東川の師は幕臣の杉浦琴川である。そして琴川は水戸光圀の招きによって明から渡来した曹洞宗の僧心越に本格的な琴を学んでいるので江戸時代に普及した琴道の正統派であった。従って江戸在府中の短期間であったが兵右衛門は正統派の弾琴の手ほどきを多岐藍渓から受ける幸運に恵まれたのである。多岐藍渓から琴の手ほどきを受けた兵右衛門は生来の資質の良さもあってめきめき腕をあげ、次回出府した折りには日向延岡藩主の内藤政陽公に招かれて教授するまでになっていたのである。
 また高知出身の南画家中山高陽との交遊もこの頃始まっている。このように良い師、良い友に出会ったことは兵右衛門の幸せであった。儒学、医学、琴、南画、と多方面にわたって貪欲に吸収していく兵右衛門の向学心の旺盛さは類稀なものであったが、それにも増してこれらの技芸を短時日に吸収消化していった天賦の資質の高さに驚かされる。後年花開く琴と絵画の基礎作りは今回の江戸出府が大きな契機になったのである。

 この頃、玉堂が浅草鳥越の鴨方藩江戸藩邸で文人墨客と交流した状況を彷彿とさせる次のような中山高陽の詩がある。

「浦君輔の邸舎に岳子陽 松有年 山文熙 石太乙の諸子邂逅し、余に画を求む。各々詩有り、賦して答う」と前おきしてある。
  朱門邸舎緑雲端 野老誰期此共看
  独笑顛狂生故態 還欣邂逅有新歓
  揮毫何更問山影 剪灯猶能坐夜闌
  諸彦騒懐湧如酒 冷瓏満几碧琅扞

   朱門の邸舎 緑雲端(うんたん)、野老誰か期す 此に共に看る。
   独笑顛狂(どくしょうてんきょう) 故態を生じ、還(また)邂逅を欣び新歓有り 揮毫して何ぞ更に山影を問わん、灯を剪(き)り猶(なお)能く夜闌に坐すが如し諸彦騒懐(しょげんそうかい)湧くこと酒の如し、冷瓏几に満つ碧琅扞

 朱色に門柱が塗られた邸舎は緑に囲まれ、人里離れて雲さえ往き来している。田舎の老爺のような雰囲気を漂わせている玉堂を囲み、こんなに多くの仲間が集まろうとは誰も予想できなかった。久しぶりにただ笑いころげ狂態をさらけ出している。過去を懐かしみ将来を楽しみに共に遊ぶのだ。今更筆を揮って山水画をかくこともあるまいに。灯を消して暗闇で共に語りあおう。皆でわいわいがやがややっていれば仮に酒がなくても酒を飲んで騒いでいるようなものだ。そういう中にこそ玉のように美しい物がある筈だから。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         



2005年06月27日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂14

 黙翁の次に兵右衛門が江戸在勤中、彼に多大の感化を与えた人に多岐藍渓がある。
 一日、黙翁の使いで、下谷で塾を開いていた漢学者井上金我のもとを訪れた。金我は経書を講じて日毎に賃銭をとる売講の元祖として有名であるが、神田に創立された私立の医学館躋寿館の学頭をつとめたこともあり、門下生も沢山いた。この時の世間話で話題がたまたま琴のことになり、兵右衛門が琴に興味を持っていることを知り、躋寿館時代の同僚多岐藍渓を紹介したのである。

「浦上氏は備前岡山のお生まれでしたな。拙者も岡山藩の儒官井上蘭台先生に古文辞学を学びましてな、岡山とは縁があります。備前藩といえば陽明学でしたな。貴殿は陽明学についても相当造詣が深かろう。その精髄を聞かせては戴けないであろうか」
 と金我が言った。
「いやいや、さほどのことはありませぬ。藩祖光政公が熊沢蕃山先生を重用された頃は確かに陽明学では天下に冠たるものがありましたが、万治元年に中川権左衛門先生が病没されて以来、藩校の教授陣は朱子学者に代わり正規の藩学は朱子学に代わりました。今では陽明学は熊沢蕃山先生の徳を慕う家臣の間で細々と行われているにすぎませぬ。それがしは致良知を説き知行合一を目指す実践的な陽明学に今でも魅力を感じておりますが、難しい理屈は抜きにして孔子、孟子の時代に立ち返って人の道、君子の道、聖人の道を素朴に考えていくことのほうが大切なのではないかと考え始めてております」

「それでは古に帰れということですか」
「まだ模索の段階ですからなんともいえませんが孟子、老子、荘子に興味を感じはじめているところなのです」
「そうですか、それは心強い。実は、拙者も儒学は古義学から入りましたので、朱子学が本然の性=理として、仁、義、礼、智が人間に内在するとする考え方に疑問を持っており、これら四つの徳目は心の外にある客観的な規範だと思うのです。そのために古の原点に立ち返って考究する必要があると考えております。まだ研究の段階ですが老子が天地には自然に一定の秩序があり、日月も星辰も鳥獣も樹木もそれぞれに自然の秩序を保っていると説いているのに興味を持っているのです」
「なるほど、仁義を捨ててその自然の秩序に身を委ねるのが無為自然ということですね」        
「左様、人それぞれの個性を認めて自然にさせ無理矢理型にはめ込まないということですから資質の高い人には理想的な考え方だと思いますよ」
「大変勉強になりました。それがしの夢ですがそのような世界で琴を弾き、詩を作り、絵等を描いて晴耕雨読の生活ができれば素晴らしいでしょうね」「ところで貴殿は詩はお作りになりますかな」
「田舎流ではありますが少々嗜みます」
「それでは拙者の弟子の原狂斉というのを紹介しましょう。いま諸家の詩を集めて詩集を出版しようという計画がありましてな、原が中心になってやっています。作品があれば持っていかれたらどうでしょうかな」
「ありがとうございます。拙くて人様にお見せできるようなものではありませぬ」
「絵のほうは」
「特に師はなく我流ではありますが少々」
「それではそれがしの友人に文人画家で中山高陽というのがおりますから紹介致しましょう」
「それはかたじけない」
「琴はどの程度おやりになりますかな」
「恥ずかしながら岡山は田舎でございましてな良き師がおりませぬ故、多大の関心はもっておりますが全然心得がありませぬ」
「ほうそれでは、これまた良い人を紹介致しましょう。多岐藍渓という医家がいましてな。それがしが躋寿館で教えていた頃同僚として切磋琢磨した仲でござるが、琴について造詣が深く江戸の文人の間で最近盛んになっている七弦琴を巧みに弾きますのじゃ」
 と言って世話好きな金我は早速、原狂斉、中山高陽、多岐藍渓宛の紹介状を次々と達筆で認めた。
      



2005年06月25日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂13

八.江戸在勤                                         
                                  
 兵右衛門三十才の時江戸在勤となり、ほぼ一年間にわたり都会の闊達な空気に触れ儒学の面、医学の面、琴弾の面で数多くの刺激を受けた。
 先ず播磨の儒者玉田黙翁に師事して聖学を学んだ。玉田黙翁は名を信成、通称記内、別号適山、また虎渓庵とも称した。播州印南郡東志方村細工所の生まれで大庄屋柔庵玉田義道の嫡子である。山崎闇斉門の三宅尚斉の門人で程朱の儒学に於いて一家をなしていたうえに医学にも造詣が深く、弓馬槍剣の術にも秀で、産業経済についても見識を持っていた。しかし名声を求めることはせず、自ら天地一閑人と称し播州の僻地に住み天命を楽しみながら質素な生活を送っていた。ところが領主である大久保侯が、黙翁の晩年にこれを聞き是非所説を拝聴したいと招請したが固く辞退していた。度重なる熱心な懇請に折れて74才の時に二回、78才の時一度江戸へ出て大久保侯に講義をした。運良く玉田黙翁が江戸逗留中に兵右衛門が江戸在勤となったので、勤務の合間を見つけては黙翁の旅宿を訪問し、三か月間だけではあったが師の教えを乞うことができた。

 玉田黙翁は生活態度を反映するが如くその学問においても厳粛でかつ敬虔であった。君を敬し、己を修め、民を安んずることが治世の基本であることをさまざまな例を引きながら繰り返し力説した。兵右衛門は大久保侯が黙翁を招請するに当たってとった礼の厚さについて感激し、大久保侯が黙翁を迎えた態度は蜀の劉備が諸葛孔明を草盧に三顧して迎えたり、楚王が賢者を迎えるに当たっては醴酒を醸して与えたり、燕王が賢者を招いた時には黄金台を築いて迎えたという故事に悖とらない、とその著「賓師の礼」の中で述べている。そして孟子が仁義を説いて君主の心の非を糺したように黙翁はそれをなされたが、大久保侯はこれを謹んで受け入れようとしたとその修学態度に感心し、これこそ君子と賢者との理想的な姿であると感じとっていた。

 次に黙翁からは医学の知識を伝授された。この面でも師弟関係が発生し多大な感化をうけた。後年、玉堂は司馬江漢に黙翁が調剤した仙薬を送ったりしている。また、親友の鴨方藩の儒学者西山拙斉に手製の十一味地黄という薬を送っているし、玉堂の遺品として残されたものの中に薬草採取袋や計量器や薬草の断片が現存しているのである。
                                                            



2005年06月24日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂12

 七.結婚 

「兵右衛門よ、そなたもそろそろ身を固めないとお役を勤めていくうえからも都合が悪か        ろう」
 と母の茂が夕食のご飯を茶碗によそいながら言った。
「いいえ、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ありますし、旱魃の影響で領民は大変難儀をしておりますので人の上にたつ者、そのような時に我が身のことを構っているようでは仁政ができませぬ」
 と兵右衛門は上の空で答えた。この頃(1770年〜1771年)、全国的な旱魃があり飢饉の救済対策に日夜奔走しており、とりわけ義捐米を不正流用する小役人の悪事が露顕してその処置に心を痛めているときであった。政香逝去後まもなく発生したこの不祥事に仁政実現の道のほど遠いことを思いしらされていた。
「そなたがお役目大事に励んでおられるのは頼もしいことだし母としても誇りに思っております」
「今暫く、身辺の雑事に係わることなく御用大事で励みたいと思っておるのです」
「そうは言われてものう、私も歳だしいつまでもそなたの世話を続けることはできませぬのじゃ。それに浦上の姓を継ぐ子も早く設けねばのう、御先祖様に対しても申し訳なかろう」
「それはそうですが・・・・・」
「そなたさえ、その気になればすぐにでも話は進むようになっているのじゃが。親孝行すると思って考えてみては下さらぬじゃろうか。どうじゃろう、市村孫四郎盛明様の娘御、安殿を妻に迎えては」
「あの市村様の安殿ですか」
「そうじゃ、市村様なら六拾石四人扶持で多少扶持が少ないという不満はあるが、家系はしっかりしており浦上家が嫁に貰っても決して不釣り合いにはならぬ良縁じゃと思いますがの。それに安殿は見目よくしっかり者との評判だし、年は二十二才というからそなたには丁度お似合いだと思っておりますのじゃ」
「母上がそのように仰るのなら宜しくお願いします」
 と兵右衛門は結婚する意思を表明した。市村家の娘安は器量よしで貞淑であると評判の娘であったし、年老いてきた母にいつまでも身の廻りの世話を頼むのも孝道に反すると考えたからであった。
 
 安永一年(1772)兵右衛門28才の時母の勧める市村孫四郎盛明の息女安を娶った。
 安は武家の娘としての躾けは十分できており、当時の武家の子女の嗜みとして箏を爪弾くことができた。母親茂との折り合いもよく、兵右衛門はこころおきなく御用に励むことができるようになった。そして夕食後に寛いだ気分で安が奏でる四季の曲に聞き入るのは忙中閑暇、至福の一時であった。
「儂にも弾かせてくれぬか」
 と兵右衛門がある夕べ箏を弾きおわって爪を外している安に言った。懸案の義捐米流用事件の処置も終わったので、気持ちも寛ぎ酒を過ごして気持ちがおおらかになっていたのである。
「お殿様、箏は女の嗜むもので、殿方の弄ぶものではございません」
「座興じゃ。今宵は多少酔った故、陶然として精神が高揚しておる。この昂りをもっと高めてみたいのじゃ」
「兵右衛門、安の言う通りじゃ。箏はわが国では女の嗜むものと決まっておる。男が弄ぶとすればそれは盲というものじゃ。そなたは五体満足で生まれてきたのにやめなされ。そなたが箏等弄んでいると噂にでもなれば、この母の面目がたちませぬ」
「母上、確かにそうです、我が国では箏は盲でなければ男はこれを用いません。しかし、中国では琴と言って七弦のものが昔から聖人や詩人から愛され弾かれておりました。我が国でも奈良時代には和琴が盛んに弾かれたものです。琴を弾くことは心を調和させるのに最も適した手段だと考えられ、人間の精神を高揚させてくれると信じられていたのです。最近聞いた話では明の心越という僧が水戸光圀公に招かれて来日し、出府してから江戸では七弦の琴が文人の間で流行していると聞きます。私も機会があれば聖道をめざす者の嗜みとして、琴を習いたいと思っているのです。琴も箏も弦の数が違うだけで音を出す仕掛けは同じです。琴の代わりに今日は箏を試してみたいのです」
「そういうことであれば、座興としてならよいでしょう。安さん貸しておあげなさい」
 と一人息子の言い分には一も二もなく甘い茂であった。
 安から爪を借りて暫く調音していたが、天性音感が良かったのであろう、見よう見まねでやがて曲を奏でだした。毎日の夕餉の後、安の爪弾きを観察しているうちにいつの間にか演奏法を呑み込んでいたのである。
「まあ、お上手なこと。私などよりも上手ですわ」
「そうかい」
「今回限りですよ。安さんも変に煽てたりしないで下さいましよ。何と言っても岡山では箏はまだ女の嗜みですから。男が弄ぶものではありません」
 と世間体を気にする茂であったが、この日をきっかけとして兵右衛門の琴への開眼がなされたのであった。
                   



2005年06月23日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂11

               
 六.理想の藩主夭折                                                          
 明和五年(1768)心服していた藩主政香が東武より帰国して間もなく腫病に罹り、病臥に伏して数日後の八月五日に夭逝した。
 兵右衛門の受けた衝撃は大きく筆舌に尽くしがたいものであった。悲嘆にくれる兵右衛門を慰めてくれたのは母親の茂であった。
「覚えておいでかい。17年前の雪の降る夜、病の床で父上が盛者必衰、会者定離は人生の定めと言われたことを。お前は幼くして頼るべき柱石を失ったにもかかわらず、ここまで立派に生きてきたではないか。何時まで嘆いていても致し方あるまい」
「その頼るべき柱石を失った今は、暗い夜道に提灯を失った気持ちです」
「その気持ちはよく分かるが、今のお前は立場が違う。殿の信頼を得て治世の一翼を預かるまでになったではないか。今では領民から頼られる柱石の一つになっているのだ。その柱石が嘆いているばかりではこれを頼りにしている領民は何にすがればよいのじゃ。殿がやり残されたことをなし遂げていくことこそが殿の御無念を晴らすことになるのではないのかえ」

 政香の葬儀は御葬儀の件諸事取計らいを命じられた兵右衛門が取り仕切る中を粛々と挙行された。
 葬儀を無事終えて兵右衛門の脳裏を駆けめぐるのは生前政香と忌憚なく仁政実現の理想に燃えて語りあった日々のことであった。退庁してはそうした言行をかきとどめていた日誌を繙いては、ありし日の政香の姿を偲んでいたが、藩主の言行を出版してその理想を明らかにし遺志を実現していくことが最大の供養になるのではないかと考えた。

 10月に出版した「止仁録」は生前の政香の言行を記したものであるが、その序で兵右衛門は次の趣旨のことを書いている。ここでは佐々木丞平氏の口語約の名文を引用させて戴く。

「君子には君子たるべき根本となるものがある。国家を平らかに治めるにはいくら智が長けていたところで、根本のものが備わっていなければ、たとえ枝葉が美しく見えてもそれは本物ではない。その根本となるべきものは、 <大学>に謂う所の「為人君止於仁」である。即ち、天は万物を生み出したが、夫々にその止まる所、止まるべき職分を与えている。我が君は幼きより学問を好み、その身を修め、政治を行う道は、決して古の聖人の教えに違うことがなかった。ただ単に智に長けているだけでなく、真に天より与えられた職分としての仁職を知り、実に国家を治める根本をひたすらに目ざして務めていた。しかし我が君は短命にして逝ってしまわれた。悲しいことだ。実にいたましいことだ。その後君の書き遺された物を数多く見たが、一つとして政道のために益にならぬことはなかった。とりわけ烈公(光政公)の徳行を慕い、その教えの数々をみずから記しておられた。私はかつて君のおそば近くに侍していた時、君が語られる言葉、その中に秘められた情熱や理想が我が心に伝わってくるたびに、私の心はいつも躍っていた。退庁して、暇にまかせてそのことを書き記して置いたが、この頃、ふとそれを思い起こしたので、君の御言行の幾つかを書き加え、止仁録とした」

 止仁録の「止仁」の意味は人の上に立つ君主たる者は仁に安んじ、仁を把握し、自らその虜にならなければならないという古い言葉からきているのであり、政香の言行はこの言葉にぴったりのものであった。

 止仁録に盛られている思想を要約すれば、君・臣・民という三者構成の社会の中において修身・斉家・治国・平天下という理想を実現することであった。そこには人間は学問によって聖人になりうるという信念が盛り込まれており、その学問は単なる博識者になることではなく、聖人となって政治と道徳の一致を実践するものでなければならなかったのである。                                                 
 七.結婚 



2005年06月22日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂10

明和五年(1768)5月16日政香は江戸から帰館したときに久しぶりに会った兵右衛門に対して次のように言った。
「儂は道中の駕籠の中で論語を読んでいた。その中の子路の編に君主たることの難しさを認識することこそ国を興す本である、ということが書いてあった。ここの意味を考えていると儂はわが身につまされて嘆かわしくなってしまった。よく考えてみると我々は旱魃が続き作廻りがよくないことで難渋しているがそのことはちっとも憂いとするには足りないことだということに気がついた。とにかく修学の根本とするところのものが未だ備わっていないのが憂なのである。その根本とするところのものが備わっていさえすれば、作廻りのこと等は枝葉末節のことである。君主たることの難しさを知って、自らを戒め慎み、常に自分のしていることに恐れおののく気持ちを忘れずに持っていること、これこそが学問をし修行することの根本である。この根本を忘れず常に学ぶことを忘れなければ小々の困難等は憂いとしない」

 なかなか難しく判りにくい言い回しであるがここで政言が言っていることは現実世界での農作物の多寡などという政治の実効性よりもむしろ統治に当たる藩主の「真の君主性」とでもいうべきものの精神的優位性を主張しているのである。

 そしてまた次のようにも言った。
「若い時は一度しかなくて二度とは巡ってこないものである。従って近習の者は皆若いのだからいずれも文武に励むべきである。世間では大名は学問がなくてはならないというがこれは当然のことであってこういう言い方では不十分である。大名に限らず一般の人々も学問がなくてはならない。そうでなければ各々が持っている役目、務めが全うできないものだ」
 と奨学にかける熱意を常に語っている。

 兵右衛門が政香に仕えてこれらの言説を聞き、心を打たれたのは若き藩主の情熱と生来備えているロマンチストとしての性格であり人柄であった。そして言葉の端々に迸り出てくる、領民一人一人の幸せを常に願っている仁の心であった。また日常生活の中で観察される端正な立ち居振る舞いと清潔感溢れる生活態度や人生を真剣に生きて行こうとするひたむきな姿勢が見習うべき理想像として兵右衛門の心に刻みこまれていった。
                                                     



2005年06月21日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂9

「孟子は人間には誰でも人に忍びざる心つまり他人の不幸を見過ごすことのできない同情心があるとして性善説を唱えています。そしてその理由としては、よちよち歩きの幼児が井戸に落ちようとしているのを目撃したら、誰でもじっとしていられない惻隠の心にかられて助けるために駆けだすであろうということを挙げています。そしてこれは自然な行為であり、幼児の親と交際したいからでもなく、村の仲間から褒められたいからでもなく、助けなかった場合の非難を恐れてからでもないと言っているのです。これが出来ないものは人間でないと言っています。それがしもこの設例ではその通りだと思います」
「そうだね、そして彼はこの事例から類推して惻隠の心、羞恥心、謙譲心、善悪の分別心のない者は人間ではないと言っている。更に惻隠の心は仁の端であり、羞恥心は義の端であり、謙譲心は礼の端であり、分別心は智の端であり人々は自然に備わっているこの四端を拡充するように努めなければならないと述べているのだね。身近な事象から立論していくところは流石に優れた学者だね。誰にでも納得できる理屈だと感心するよ」

「殿は性悪説ですからそこで感心されていては困りますよ」
「そうだったな。荀子は人間の本性は悪であると言って次のように説いている。人間の善さというものは偽、つまり後天的な矯正の結果なのだ。人間の本性は生まれつき利益を求める傾向があり、これに引きずられるから譲りあうことなく奪い合いが起こるのである。生まれつき妬み憎む傾向があるため人を害して誠心の徳がなくなるのである。生来美しいものを見聞したがる耳目の欲望があるから無節制ででたらめになり、社会規範も社会秩序も失われてしまうのである。こういうことだから人間の生まれつきの性質や感情にまかせると必ず奪いあって社会の秩序が破られることになって、世界が混乱してしまうものである。そこで教師による感化や社会的規範による指導があって始めて社会の安定と世界の平和が保たれるのである。こう見てくると人間性の本質は悪であることは、はっきりしている。人間性が善に見えるのはあくまで後天的な矯正の結果なのである。このように性悪説を述べて具体的な日常の行為を次のように説明しているのだ。つまり人間は腹が減ると腹一杯に食べたいと思い、寒いと暖まりたいと考え、疲労すると休息したいと思うのだがこれは人間自然の性状なのである。ところが、今ある人が腹の減っているのに年長者より食事を先にとろうとせず、疲労していても休息しようとしないのは誰かに譲り、誰かに代わろうとしているからである。このような子供が父にかわり、弟が兄に譲るという行為は人間生来の自然の本性ではないのであって、後天的な教育の結果なのであると」

「荀子は人としての道を踏み外さずにおれば、天も禍害を加えることはできないと言っていますし、天道と人道との分別をはっきり知っていれば、最高の人物といえるとも言っています。更に天を偉大だとしてその恵みを慕っているよりは、自分で物を蓄積して処理していくほうがまさっている。天に従ってそれを褒めたたえているよりは、与えられたものを処理していくほうが勝っているとも述べていますね。荀子は天と人とを分離して考えているわけです。荀子にとって天は純粋な自然現象以上のものではなかったのですが孟子は天には道理があると考えている点で違いがあるようですね」

「孟子の性善説に対して告子の批判があるのを知っているとは思うが、彼は次のように言っているね。人間の性は善でも悪でもない。生命そのものが本性である。食欲と性欲が本性である。従って人間の本性は善行もできれば悪事も働ける。だからこそ文王や武王のような聖王のときには民衆は善を好んだが、幽王や霊王のような暴君のときには民衆は乱暴を好むようになったのだ。また聖天子の堯の時代に兄の舜を殺そうとした象のような男がおり、瞽叟のような悪人の子に舜のような聖人が育ったのは人間の本性は善でも悪でもないからだ。つまり人間の本性は価値判断の伴わない生き物としての現象にすぎないと言っているわけだから天は自然現象だとする荀子と似通った理論構成になっているね」

「孟子だって人間の内心には外界の刺激にひかれて悪にも向かうような自然な欲望が存在することを人間の本性として認めて、次のように言っていますよ。うまいものを食べたい、美しいものを見たい、よい音色を聞きたい、よい香りをかぎたい、体を安楽にしたいというのも人間の本性である。しかしそこに運命がありそれが得られるかどうかはままならない。そこで君子はそういうものは人間性とはしない。親子の間に仁愛が行われ、君臣の間に義理が行われ、主客の間に礼が行われ、賢者の身に知性がつまれ、天の道の上に聖徳が輝くというのはままならぬ運命である。しかしそこに人間性がある。そこで天子はそれらを運命とはしないのであると。ちょっと論理的には弱い気がしますね。孟子が強調したかったのは人間の本性は鳥や獣と違って高貴なものであるから道徳的なものでなければならないという価値判断が暗黙のうちに前提としてあって、性善説を主張したというふうに思えるのですが」「非常に難しい理屈になってしまったが、纏めてみると孟子は人間の内心にある高貴な道徳的欲求を重視してそれだけを性と称したのに対し、荀子は利益を追求する感覚的な欲望を重視してそこから性の概念を構成したと言えると思うよ。だから論理的帰結として性悪説になるわけで性そのものの見方については根本的な立場の相違があった。しかし孟子と荀子では本性論では全く正反対の立場にたったが目指したところは共通のものであった。彼らはあるべき人間の姿を道徳的なものへと導くための学説として本性論を展開したわけで両者とも仁を実現していくために修養の重要性を説く点では同じであった。儂は治世を行っていく上ではやはり光政公がそうであったように孟子の説く仁義礼智の徳は外から自分を修飾するものではなく自分が生まれつき持っているものだという考え方を支持したいと思っているし、これからも善なる性に磨きをかけるようますます修養しなければと思っているよ」



2005年06月20日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂8

明和五年(1768)24才のとき五月には御手許御用奥詰めを仰せつかり、御留方を加役された。政香と兵右衛生門の水魚の交わりはいよいよ深まり、理想実現に向かっての二人の議論はしばしば行われ、時には難解な哲学論争に及ぶこともあった。
「兵右衛門よ、人間の本質をどのようなものとしてとらえるか、とりわけその本性をどのようにみるかについて議論してみようではないか。その見方次第によっては治世のやりかたが変わってくると思うからだ」
 と政香が日頃の勉学の成果を復習するつもりなのか今日はいつもと口調が違っていた。        
 兵右衛門は改めて人間の本性はと問われると性善説とも性悪説とも決めかねるところがあった。ただ人間の本性は善でもなければ悪でもないとする告子の説に最近興味を持っていたので主君がこの難しい哲学的な課題に興味を示したのをよい機会と捉えて主君自体の考えを確かめておこうと思ったし、このさい性善説と性悪説について復習しておくのもよかろうと思った。
                                                                    「つまり性善説か性悪説かということですか」
「そうだ。そちはどちらの立場をとるのか聞いてみたい」
「それがしは時と場合によって、ある時は性善説であるときは性悪説です」
「それでは議論にならないではないか」
「人の性は半分が善であり半分が悪だと思っております」
「お互いの理解を深めるために今日は儂が性悪説にたつからそちは性善説の立場にたって勉強の成果を試してみようではないか」
「殿がそう仰るなら仮に性善説の立場にたつことにいたしましょう。殿も仰ったように諸氏百家の学説の復習を兼ねて理解を深めるということで論じますから殿が既にご存じのことを喋ることもあると思いますが本日の討議の趣旨から御容赦願います」
「勿論望むところだ」
                                                                    



2005年06月19日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂7

「人事にまで下の者の意見を反映させようとなさったのですね。とても勇気のいることだと思います」
 と磯之進は家臣達の性を善とみる光政公の人間観に今までにない斬新さを感じるのであった。

「孝道と義道の実践を奨励するため村々で評判の孝子や烈婦を推薦させて彼らに褒美を下されてもいる。実に光政公はきめ細かなところにまで心を配っておられるのじや」
「領民の心をせき立てて徳ある行為に赴かせようとされているのですね」
 と領民の動機づけまでを考えている光政公に理想の君主のイメージを見る思いで磯之進は政香の熱弁に聞き入っていた。
 またこのときの話の続きとして次のようになことも政香は言った。
「ある人が備前には光政公の教えが残っていないと言ったそうである。だが何をもってそう言うのだろうか。備前には閑谷校という藩校もある。祖先を祭る芳烈祠もある。その上閑谷校で行われている学問は正統なもので他藩の及ぶ所ではない。最終的に光政公がお考えになっていたのは家中の者が単に博識者になればよいなどということではなかった。人の踏み行うべき正しい道を知り、人の人たる道理を十分に弁えて良い藩士・領民になって欲しいと願っておられたのだ。だから藩校の教育方針も世間でとやかく言われているほど中国趣味に片寄ったものではない。聞くところによるとあの有名な足利学校でさえ、今では僧侶が全てを取り仕切っているらしい。そうであるならこれは本来の学問が歪められていると言わざるを得ない。つまり学問は何も仏教界のみのためにあるのではなく、道理を知って人の人たる道を尽くして良き士となれと願う、儒教の根本理念を実現するものとして存在べきものであろうと儂は考えている」

 別の日の夜、磯之進他の側近の者に次のようにも語った。
「そもそも人間は万物の霊長であって、天と地と並んで三才と呼ばれているものであるが勝手気儘をして、人の踏み行う正しい道を知るための学問をしなければ禽獣と同じだ。我々鴨方支藩の者が不肖の身で二万五千石の領国を先祖より受け継ぎお預かりしているのは分に過ぎた事である。しかし、一旦こうして一国を預かっている限りは光政公の言われたように、領民を飢えさせてしまっては死罪になっても贖いきれないという言葉を一時も忘れてはならない。だからよく学問をし明徳の道を明らかにして光政公が手本を示された通りのことをしなければならないと考える」

 このような藩祖光政の経世済民の実学を基本として善政を敷こうとした情熱は熱い血潮となって蘇り、若い藩主政香の体内を経由して磯之進へと流れ込みその心臓の鼓動を昂らせるのであった。いわば兵右衛門の宿志となって心の中に大きな位置を占めるようになっていった。
                          



2005年06月18日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂6

五.理想実現に向けて若き藩主を補佐                                                          
 宝暦11年(1761)磯之進17才のとき藩主の政香が従五位の下に叙せられ、内匠頭に任じられたのは磯之進にとっても嬉しい慶事であり、政香の仁政実現の理想にますます共鳴するのであった。

 翌12年には正月に御前で頭分を仰せつかり主君のために忠勤に励まなければと更に決意を固めたのだがこの年より、主君に倣って我流ではあったが絵を描く勉強も始めた。主君と同じ心境になって治世を補佐するためには主君のなされることはすべて経験する必要があると判断した結果である。このように全身全霊を傾けて主君に忠勤を励もうとする磯之進であった。

 明和三年(1766)十月十二日藩主政香は磯之進はじめ近習に次のように語った。
「儂は光政公を敬慕しているので、最近その考え方を勉強しているのだが光政公は治世のありようの基本を次のように考えておられるようだ。将軍は日本国中の人民を天から預かり、藩主は一国の領民を将軍から預かっている。家老と家士とはその藩主を補佐してその領民が安んじられるように計らなければならない。一国内の領民が安んじて生活できるか不安を抱いて生活するかの責任は一にかかって一国の藩主にある。たとえ一人であっても領民を困窮させるようなことがあると、結果的には将軍一人の責任となる。藩主は決してそのようなことにたちいたらせてはならない。そのようなことにでもなれば、将軍に対しては不忠となり、領民を困窮から救えなかったという点で不仁になる。このことによる藩主の罪は死をもってしても足りない位重いものである。だから学問をして自己を修め、民を安んじせしめることを実行しなければならない。もしも自分に悪いところがあれば、遠慮なく諌めて欲しい。怠慢だと見えたら激励して欲しい。皆を頼りにしていると仰ったの だ。儂はこの光政公のお考えを肝に命じて治世にあたりたいと思う」

「素晴らしいお考えだと思います。ところで光政公の治世の中で具体的な施策にはどのようなものがあったのでしょうか」
 と磯之進が聞いた。
「例えば承応三年(1654)の大洪水の時の藩を挙げての大救済事業がある。この洪水は藩始まって以来未曾有の大災害であった。災害の規模で言うと、流失、倒壊、破損した家屋は士屋敷、徒・足軽屋敷、町家、農家合わせて3739九戸、冠水により荒廃した田畑の石高一万1360石、流死者156人、流死牛馬210匹という大きなものであった。これに続いて引き起こった大飢饉で餓死した者は3684人にも達した。
 このとき光政公が処置された緊急対策は先ず第一に藩の米蔵を開放して一粒の米も残らないように放出されたことである。次に不足の分は他国米を買い入れたり大阪蔵屋敷の藩米を取り戻して一国の内一人たりとも困窮する領民がないようにと手を打たれた。更に第三の対策として藩役人の手で飢人調査を実施し、できる限りの米銀を支給された。この対策で翌年の一月から四月までの間に一人一日あたり一合の基準で支給された飢扶持の人数は20万6752人にのぼり、その扶持米は一日当たり206石に達した。
 復興対策としては、先ず普請及び救済用の経費として銀一千貫を上方町人から借用された。次に義母である天樹院の斡旋で幕府から金四万両を借用された。このとき復興のために要した夫役は約九十万人にものぼる大事業であった。更に洪水の予防対策として百間川を開窄された。この御仁政は未だに領民の間で語り継がれている」

「家臣や領民の苦しみを自分の苦しみだと受け取っておられたのですね。領民を慈しむ君主としての仁徳が偲ばれる事例ですね」
「その通りだ。更に凄いと思うのは、この時救済された農民に対して忝じけながらせることを厳禁し、藩主として当然のことをしたまでだと言われたことだ。この例を聞いただけでも儂が光政公を手本にしたいという意味が判るだろう。また寛文八年(1668)には百姓が代官に盆、暮れに付け届けをする慣行を禁止されるとともにその他一切の付け届けも禁止された。本来、贈答の品というのはお世話になった人へ感謝の気持ちを形として表すという意味から発生したもので、礼儀にかなっているものであるが、最近では本来の意味が失われて利益誘導のための手段として用いられるようになった。悪い心の者は自分の為に利益になるように年貢を少なくして貰いたいと思って代官に過大なお歳暮やお中元を贈ることになるし、貰う方でも贈り者の多い方へ有利な取扱いをするようになる。このような悪しき行為が行われないように付け届けを禁止されたのだ。人情の機微にまで立ち至って、不正、不公平の出来ない仕組みを作ろうとされたのだ」

「なるほど、人の心の奥底までも読み取られて不正や不公平の原因となりやすい贈り物という習慣を禁止されたわけですね」
「天和二年には人身売買を厳禁し年季奉公の期間を十年以内に制限して弱い立場にある領民を保護しようとされている」

「領民の内から一人でも不幸な者をださないという仁政理念の発露ですね」
「その通りだ。まだまだ沢山事例はあるが、凡人ではなかなか思いつかない例を幾つか拾いだして要点だけをあげてみることにしよう。その一つは仁政を実現するためにはどのようにすればいいかを藩士に提案するよう求め、意見を書き上げさせるというような思い切ったこともなされたことだ」

「藩士の考えを汲み上げて治世に生かしていこうというお考えですね。これは自らの考えの足りない所は藩士の助けを借りようというお考えですから、無能のくせに権威ばかりを重視するような為政者にはとても真似のできない英断ですね」
 と磯之進が相槌をうつと
「そう思うだろう。儂は自分も余程修業しなければそこまでの境地になれないのではないかと身の引き締まる思いで光政公の偉大さを感じている。また次のようなことまでなされている。藩政を任せるのに適任だと思う者を藩士に投票させてこれを選任されたりもしておられるのだ」
 と政香の説明にも次第に熱気がこもってくる。



2005年06月17日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂5

 年齢が一才しか違わないという親近感もあったであろうし、真面目に人生に立ち向かっていこうという意気込みがお互いの琴線を刺激しあったのか二人の間には水魚の交わりの如き関係が発生した。

「磯之進、儂は若くして藩主になった。まだまだ勉強しなければならないことが沢山あるが、堯・舜の時代のような理想的な治世をしたいという夢を持っておる。それには先ず治世の根本理念を大学に言う所の修己、治人に置かなければならないと考えている。そのためには明徳を明らかにし、民を新たにし、至善に止まるよう励まなければならないと思うのだ」
 と、政香は御側詰めを仰せつかって初めて出仕した磯之進へ所信を表明した。
「はい。新しい藩主に対して領民達は仁政を期待していると思います」
「そこで、身近な手本として藩祖光政公の治世の理念と事跡を手始めに勉強してみるのがよかろうと考えている。それは光政公が僅か八才で因幡、伯耆両国の領主に封じられてから国を治める要諦は何かと苦慮された末、儒学の勉強をされて、仁政以外に術がないとの結論を得られたからじゃ。事実光政公は仁政を施され優れた実績を挙げられているからその跡を辿ってみるのは有意義なことだと思っている」
「仰る通りだと思います」

「光政公が五才のとき家康公にお目見えしたときの逸話を聞いたことがあるか」
「いいえ、不勉強でございまして未だ・・・・・」
「家康公が光政公を膝元近くへ召して引き出物に脇差しを与えられてから髪を撫でながら<三左衛門〔輝政〕の孫よはやく成長されよ>と言葉をかけられたそうじゃ。そのとき光政公は拝領した新藤五の脇差しを取り上げすらりと抜いて、じっと見つめてから<これは本物じゃ>と言われたという。このとき家康公は<あぶない、あぶない>と手ずから鞘におさめられて光政公が退出されてから<眼光のすざまじき、唯人ならず>と感嘆されたという逸話が伝わっておる」

「天性明敏な資質をお持ちだったのですね」
「更に光政公が十四才のとき儒学を始められたがそのときの逸話を聞いたことがあるか」
「いいえ、恥ずかしながら存じません」
「光政公が夜、寝所に入っても寝つかれず睡眠不足が続いているので、近侍の者が心配してその理由を聞いたが返事をなさらなかった。ところがある夜から熟睡されるようになったので再びそのわけを聞くと、次のように答えられた。< 先祖から大国の統治を任されたが自信がなくどのようにして領民を治めればいいのだろうかと考えを巡らせているとどうしても眠ることができなかった。ところが昨日板倉勝重から論語の進講を聞いているときに大国の領主としては特に寛仁の徳が必要だと諭された。自分でも心に奮い立つものを感じて〔君子の儒〕となって領民の教導・安定化を計ろうと決意した。それからは熟睡できるようになった>ということなのだ」

「基本理念を模索されたのですね。そして非常に固い決意を持たれたのですね」
「それから、また次のような話も伝わっているのじゃ。十五才のとき京都所司代の板倉勝重に治国の要道を尋ねられたことがある。そのとき勝重は四角な箱に味噌を入れて丸い杓子で取るようにすればよかろうと答えた。すると光政公は暫く考えられて箱の隅にある味噌へ杓子が届かないのをどうすればよいかと不審を抱かれた。そこで勝重は光政公のような明敏な君主はおそらく国中を隅々まで罫線をひきつめたように統治しようと思われるだろうが、大国の政治はそのような厳密なやり方だけでは収まらぬと考えて先程のように答えたが、予想通り不審を抱かれた。国事は寛容の心をもって処理せねば人心を得ることは難しいものであると諭して勝重は落涙したというのじゃ」「寛容の心の機微についても悟られるところがあり、寛仁の徳を実践しようと決意されたのですね」
「その通りだ。それからの光政公は正月の書き初めにも好んで儒道興隆、天下泰平の八文字を書かれるようになった」

「現在の藩学は表向きは朱子学になっておりますが、光政公も始めは陽明学だったと聞いておりますが」
「その通りだ。光政公は日本で最初の陽明学者中江藤樹先生に私淑され、中江先生をお迎えしようとしたが果たさなかった。しかし手紙の頻繁なやりとりで議論をされ参勤交代で上府の折り大津の旅宿へ先生をお招きして清談を交えておられるし、先生の長子中江左右衛門、次子弥三郎を初め熊沢蕃山、泉八右衛門、中川権左衛門、加茂八兵衛門が来藩して光政公の陽明学修業は奥義を究めるまで進んだのじゃ。そして池田藩の陽明学は天下にも有名になった。特に熊沢蕃山先生を重用され治世にも実績をあげられた」

「光政公は何故そのようにまで陽明学に惚れ込まれたのでしょうか」
「陽明学の説く心即理、知行合一、致良知という考え方が魅力的だったからだと思う。つまり万物存在の根本は心にありとする心即理の一元論を基本として理論を組み立て、人間の心には先天的に是非善悪を判断できる作用すなわち良知が備わっており(致良知)、まず行ってしかるのち知るべきことの必要(知行合一)を説いているから、朱子学よりも実践的だと判断されたのだろう。それに対して朱子学は性即理、先知後行、格物致知という考え方であり、今一食い足りないものを感じられたのではなかろうか。つまり天地万物は気によってなっているが、万物を正しくあらしめるものは理である。自然法則も道徳規範も同一の理であり(性即理)、この理を窮めることによって事物の本体、人間の本性が明らかになり(格物致知)、かくて精神の修養も倫理の実践もできる(先知後行)と説いているのだ」

「いずれの学派でも修養によって聖人の域に近づき仁政を行うことを目標にしていることではたいして変わりはないと思うのですが」
「どちらかといえば朱子学が合理的客観性を重視するのに対して陽明学は心の内的契機と実践性を重視しているということが言えると思うよ」

「ところで、光政公は藩学を何故陽明学から朱子学へ変更されたのでしょうか」
「光政公の熱心な陽明学修業に対して謀叛の下心ありとの風評が立ち政治問題になったことがあるのだ」
「そんな馬鹿な」
「ところが世の中には妬みや嫉みがつきもので、大老の酒井忠勝様が自分ではあまり学問が好きでなかったものだから、光政公の篤学の評判を苦々しく思い大勢の陽明学者や家臣を集めて派手に研修会を開くのは如何なものかもう少し控え目になされてはと警告してきたり、京都所司代の板倉重宗が光政公の政治的立場を心配して研修活動の自粛を忠告してくるということがあった」

「世の中はなかなか難しいものですね」
「そんなことで信念を曲げられるような光政公ではなかったが、悪いことにたまたま江戸で浪人別木庄左衛門一党の陰謀が露顕するという事件が発生した。詮議の過程で謀叛心を抱く大名として紀伊、尾張、越後、相模、筑前の諸公の名前とともに、光政公の名前も入っていた。特に光政公に対しては逮捕された一味の一人が光政公の陽明学については表向きは儒者を装っているが内々では謀叛心を抱いていると讒言したのだ」
「悪い奴がいるものですね。それで結果はどうなりました」
「光政公に代わって子息の備前藩主綱政様と弟の播磨宍粟領主恒元様が閣老の訓戒を受けただけでそれ以上の嫌疑をかけられることはなかった。しかしこの事件がきっかけとなり酒井大老や御用学者の林道春らの干渉が厳しくなってきた。そこで光政公も事態が切迫してきたので、表向きは藩学としての陽明学を禁止したが家老達の自主的な修学は例外として意地は通された」

「御自分で修学された陽明学の信念に基づき仁政を敷こうとされる強い意思をお持ちだったのですね」
「ところがこのような幕府の陽明学に対する抑圧にあって、時勢随従型で見識のない家臣達の間に陽明学を見放して朱子学に転向する者が続出してきだした。そんなとき、たまたま熊沢蕃山先生が落馬して右手を怪我して軍務に耐えられなくなって致仕し、備前を立ち去るということがあった。この間備前にいた陽明学者達が次々病没したりしたこともあって備前の陽明学の担い手がなくなってしまった」

「それで朱子学者達が来藩して朱子学に代わってしまったのですね」
「それに蕃山先生の意見が光政公と次第に合わなくなってきていたことも見逃せない。蕃山先生は致仕後も藩政に対する様々な批判や諫言を綱政様へ手紙で書いてきておられるが所論に反して言行不一致があったり、高慢になってきて光政公が不信を抱くようになってきていたことが窺えるのだ。そんなことで光政公が従来の方針を変えて朱子学を藩学として認知されたということではなかろうかと理解している」
「御賢察だと思います。陽明学によろうと朱子学によろうと領民を教化して堯・舜の理想的な仁政を行う事を両派とも最終的な目的としているのですから」
意気のあった理想に燃える若い二人の会話は時間の経つのも忘れて続く。



2005年06月16日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂4

四.藩主政香と水魚の交わり


 浦上玉堂は延享二年(1747)、前述のように父浦上兵右衛門宗純が54才で母茂が40才のときの第四子として岡山市石関町天神山の鴨方藩邸で生まれた。父は鴨方藩主池田政倚に仕える家臣であり、母は三百五十石取りの岡山藩士水野七郎左衛門の娘茂であった。幼名市三郎のち磯之進を名乗った。鴨方藩は独自の支配統治機構は持たず屋敷を岡山に置いており、備前鴨方には領地だけがあった。

 宝暦元年二月五日、父宗純は60才で岡山市内の鴨方藩邸宅で静かに黄泉の国へ旅立った。あとには市三郎と母親茂の二人だけが残された。市三郎は七才であった。家族としては母子二人だけの寂しい野辺の送りを済ませると市三郎は家督相続を藩に申請し三月に許可された。と同時に初代藩主池田政言の側室お常の方が市三郎の大伯母にあたるという特殊な姻戚関係が配慮されて御広間詰めを仰せつかった。

 市三郎は出仕すると公務が執り行われる表御用部屋の片隅に控えて、なにかれとなく雑務を言いつけられては走り廻っていた。名前を呼ばれたときには大きな声で返事をし、目を輝かせて命令を受け復唱してから、きびきびした物腰で走り去る小さな後ろ姿には気品さえ感じられた。言いつけられたことは直ちに実行し、例え小さなことであってもその結果を必ず快活な口調で報告する態度は礼儀にかなっており、並みいる大人達をしばしば感心させていた。その立ち居振る舞いには賢い母親の躾けが偲ばれた。初学者用に編纂された小学という礼儀、修身の書を九才のときに初めて読んだと後日述べているように母の教えを自らも学問的に深めていこうという向学心が旺盛な少年であった。

 先ず、学問についてみると、10才のとき藩校への入学が許され学問に励んだ。言わば働きながらの就学であったが、真面目に学業にも勤務にも励んだ優等生であったことが「備陽国学記録」の記述によっても窺い知ることができる。即ち、14才のときには平生行儀のよい学生だけが出席できる夕食会に選抜されているし、15才のときには詩を学んでいる。そして16才のときには既に大生となっている。23才では平生怠りなく授業に出て聴講し勉学に精勤した者として表彰されているのである。

 次に、勤務についてみると、宝暦七年(1757)僅か13才の年少であるにもかかわらず、三番町にある吉田権太夫跡の家屋敷を拝領できるほどの働き振りを示している。
 宝暦十年(1760)16才のときには、藩主政方逝去の跡を三月十日政香が襲封したのであるが、その年七月九日磯之進(この頃には市三郎から磯之進に名乗りを変えていたと思われる)は新藩主に初のお目見えをした。同年九月二日には前髪を切って元服し翌三日から御広間御番として出仕した。そして九月二十一日には御側詰めを仰せつかって藩主政香に近侍することになった。このとき磯之進16才であり、政香は17才で主従共に純情多感な青年であった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    



2005年06月15日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂3

 三.家系

「儂がもの心ついた八才の時に父宗明は亡くなったのだけれど、丁度今儂がお前に話しているように病床の枕頭で儂は父から浦上家の系図を渡され、先祖のことを聞かされたのじゃ」

 翌日市三郎が母とともに宗純に呼ばれて枕頭へ正座すると一巻きの系図を手渡してから父の宗純はこう切り出した。

「遠く遡上れば浦上家の始祖は竹内宿弥(たけしうちのすくね)なのじゃ。この方は第八代天皇孝元天皇の皇子、比古布都押之信命(ひこふとおしまことのみこと)と山下影比売(やましたかげひめ)の間に生まれた御子で長寿を全うし、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に忠実に仕えられたそうじゃ。この方の末裔に紀貫之がおられる」
「あの三十六歌仙の歌人ですか」

 歌の心得のある茂が興味ぶかそうに口を出した。
「そうじゃ。土佐日記の著者としても有名な御仁じゃ」
「それでは学問がよくできるように紀貫之にあやかって、市三郎にも紀姓を名乗せてもいいのでしょうか」
「差し障りはなかろう。むしろ紀貫之も前途有為の末裔が出てきたものじゃと喜ばれることだろう」
「この紀貫之から二十二代の裔にあたる七郎兵衛行景が播州浦上庄を領した時、当時、播磨、美作、備前三国の守護であった赤松則祐に仕えたそうだ。赤松則祐は室町幕府でも侍所の所司となり四職家の一つとして重きをなした名門の武家なのじゃ」

「それでは、その頃浦上の姓がうまれたのですね」
「そのとおりじゃ。行景以降代々浦上氏を称して室町時代末の戦国時代に備前和気の天神山城に拠って備前、美作、播磨三国に武威を奮った浦上宗景という優れ者が出たのじゃ」
「その後はどうなりました」
「ところが、弱肉強食で下克上の戦国時代の中で、家臣の宇喜多直家が力をつけてきて、浦上家の家臣の中で筆頭の地位をしめるようになったのじや。そのうち、野心家の直家が権謀術策を弄して謀叛を起こし、天正五年(1577)には天神山城を攻撃してきたのじゃ。ところが、直家の調略によって宗景の重臣であった明石飛騨守景親父子、延原弾正忠景、岡本五郎左衛門龍晴らが主家を裏切り直家方についたので数日間の攻防の末あっけなく落城してしまったのじゃ。宗景様の無念が偲ばれよう」

「宗景様はその後どうされたのですか」
「一旦は播磨へ逃れ何回も再興を画策されたが成功せず、最後は頼っていた黒田官兵衛の転封に従って筑前へ下って80才の天寿を全うされたのじゃ。この宗景様のあと浦上小二郎、浦上備後守宗資と続き、浦上松右衛門宗明が黒田氏の庇護を離れて姉の常女と共に江戸へ上り昨日話した経緯を経て池田藩へ仕えることになった次第なのじゃ。名前に宗がつくのは宗景様の武勇にあやかりたいという意味があるのじゃ」

「紀之貫といい浦上宗景といい歴史に残る先祖を持っていることを誇りに思います」
「お前には於繁、於千代という二人の姉と富太郎という兄があったが、於千代と富太郎は生まれて間もなく死んでしまった。長女の於繁はお前も知っているとおり昨年、22才の若さで流行り病に罹って逝ってしまった。儂が死んだら後には母上とお前だけになってしまう。これも運命だから致し方なかろう。そこで母上の教えをよく守り、体を鍛え勉学に励み、主君に忠義を尽くさねばならぬ。そして名門の浦上家の繁栄を図って名を残して貰わねばならぬ」

「お言葉しかと肝に命じます」
「お茂も残るのは市三郎だけになるが幸いこの子は体も丈夫だし利発な子のようだから、学問に励ませ政香様のお役に立つ人物に育てて欲しい。後をよろしく頼む。儂らの若かった頃は武芸第一じゃったが、時代が変わりこれからは学問で身をたてる世になると思うからくれぐれもそのことだけは心して励んで貰いたい。儂がお前達に最後に言いたかったのはこのことじゃ」



2005年06月14日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂2

 二.池田家との関係

「市三郎、儂はもう長くは生きられないと思うのでこれから話すことは父の遺言だと思ってよく聞くがよい」
 と父の浦上兵右衛門宗純が吸呑みの薬草湯を飲んだ後、仰臥のまま窶れはてた細い両手を胸の上で組みながら言った。宗純は胃癌を患って三月ほど前から病床にあった。宝暦元年(1757)一月、後の名は浦上玉堂で幼名を市三郎といい、歳は7才、父宗純は60才で、雪の降る寒い日のことであった。

「何を仰いますか。精のつく物をたんと召し上がって養生を続けられればきっと快復なさいますよ」
 と病人の枕元に正座していた市三郎は慰め言を口にしたが、心の中では父の死期が旬日に迫ったかと愕然とし、父の話を一言も聞き漏らすまいと畏まっていた。
「いやいや、儂にはお迎えが近くまで来ていることがよく判る。盛者必衰、会者定離はこの世の定めなのだ。決して悲しいとも無念だとも思っていない・・・・・・・・・・・ところでお茂」
 と傍らに座っている妻お茂の方へ視線を移しながら言った。
「はい。病は気からと申します。気を強くお持ちなさいませ」
 と夫の容態を気遣いながらお茂は言った。このときお茂は47才であったから市三郎は両親が年とってからの所謂恥かきっ子であった。
「市三郎は親の欲目から見ても利発な子だと思う。しかしまだ7才でなにしろ幼い。儂が死んだらお茂には苦労をかけることになるかと思うがこの子をよろしく頼む。さて、お前達に話しておきたいことが三つある。最初に藩主政言様に対する御奉公のことじゃ。次に浦上家の先祖のことじゃ。最後にこれからのお前達の行く末についてじゃ」
 と言って静かに目を閉じると諭す口調で語り始めた。

「前の藩主池田政倚(まさより)様は私の甥にあたるので、とても可愛がって頂いて非常に大きな御恩を受けた。御恩返しをしなければと影日向なく忠勤に励んだつもりだが、浅学非才のため殿様の御期待に応えるだけの充分な御恩返しができないままに殿は四年前の元文三年(1747)に亡くなられた。殿は晩年に嫡子の政香様が御幼少だったので池田由道様の次男政方(まさみち)様を養子として迎えられ、政香様の後見を託された。殿御逝去と共に政方様への家督相続が幕府に認可された。そして現藩主政方様は政務の傍ら政香様の後見をしておられるが、お気の毒なことに病弱であらせられる。恐れ多いことではあるが万一のことがあれば政香様が家督を譲られることになろう。政香様はお前よりは一才年上で、英邁な方だから優れた藩主になられるであろう。ゆくゆくはお前はこのお方に忠勤を励んで藩の発展を図らねばならぬ」
「父上が前の藩主池田政倚様の叔父にあたられるとは存じませんでした」
「前の藩主池田政倚様の実母であらせられる於常の方は儂の父宗明の姉、つまり儂の伯母にあたる方なのじゃ。そなたからは大伯母にあたられる」
「そうでしたか。ちっとも知りませんでした」
「私もこのことはまだ市三郎には話しておりませぬ」
 とお茂は弁解するように言った。
「さればこそ、儂の命あるうちに二人の前で言い残しておかねばならぬ」
 と言いながら胃の腑が痛むのか顔を顰めた。

「儂の父浦上宗明とその姉の常女の二人の姉弟が筑前黒田藩の庇護を離れて江戸へ上がってきたとき、鴨方支藩の始祖池田政言様は池田光政様の嫡出の次男でまだ部屋住みの身であったが父君が参勤交代で上府されたときお供されて江戸屋敷で武芸に励まれていたのじゃ。世話する方があって姉の常女は江戸池田屋敷の奥女中として奉公にあがったのだが、生来賢く美貌で性格の良かった常女は政言様に見染められて側室になられたという次第じゃ」
「その縁でお祖父様の宗明様も池田家へご奉公することになったのですね」「結果としてはそうなったが、それには時間がかかった」
「何故ですか」
「藩祖の光政様が英明な藩主で勤倹奨学を旨とし新規の召し抱えは厳禁されたからじゃ。それには慶安四年(1651)の由井正雪の乱も納まって天下は安泰になり幕府の威光が全国津々浦々まで行き届くようになったということもある」
「尚武より奨学ということですね」

「その通りじゃ。兵乱に備えて浪人を召し抱えるよりは陽明学を奨励し知行合一の実を挙げていくことのほうが大切だと考えられたのじゃ。更に光政様が寛文七年(1667)に日蓮宗不受不施派を厳禁されたこともお召し抱えが遅れた理由の一つじゃ」
「それはまた何故ですか」
「浦上家では不受不施派ではないにしろ、先祖代々日蓮宗であったから、姻戚関係があるとはいえお祖父様の宗明を例外的に扱うわけにはいかなかったのじゃ」

「不受不施派とは何ですか」
「不受とは法華宗の寺や僧が他宗からの布施供養を受けないということであり、不施とは信者が他宗の寺や僧に布施供養を捧げないということなのだ。このことを絶対守らなければならない教えとしている日蓮宗の一つの宗派のことなのじゃ。この教えをつきつめていくと天下人といえども法華宗を信仰する信者の気持ちを曲げることはできないということになり、そこのところが藩政にとっては具合がわるいのじゃ」
「なるほど。そのことは判りました。では何時から浦上家は召し抱えられたのですか」
「新藩の鴨方藩が出来て寛文12年(1672)に政言様が初代藩主に分封されたときからじゃ」

「お祖父様は改宗されたのですか」
「いや、そうではない。光政様が隠居なさって家督を綱政様に譲られると同時に次男の政言様と三男の輝録様に備中墾田をそれぞれ二万五千石、一万五千石ずつを分与され鴨方支藩、生坂支藩を創設されて表向きの治世には口出しをしなくなられたからじゃ」
「つまり政言様が新藩主として新しくお祖父様の浦上宗明を召し抱えることについては、隠居だから支藩のことにまでは口出しされなかったので改宗しなくて済んだ」
「そういうことだ」

「それまでお祖父様の暮らし向きはどうだったのですか。難儀をされたことでしょう」
「浪人の生活は決して楽なものではなかったと思うよ。町人の子供達を集めて手習いを教えたり傘張りの内職をしたり道場へ通って師範代として稽古をつけたりして暮らしておられたと聞いておる。いずれにしても浦上家は池田家鴨方支藩に仕官できるようになったのだから忠勤に励んで御恩返しをしなければならない。お前は若いのだから政香様に御奉公することになると思うが、その時に備えて勉学に励みなされや」
「はい。陽明学を究めたいと考えております」
「それはちょっと差し障りがあるからよく考えたほうがよかろう」

「何故ですか」
「それは幕府が朱子学を重視し、藩もそれに倣ったからじゃ」
「されど岡山藩は光政様が熊沢蕃山先生を登用されて以来、治世に実績をあげられ陽明学の本拠地として学者の往来も多く、藩学としても大いに栄えたではありませぬか」
「確かに熊沢蕃山先生が正保二年(1645)に再来されて明暦三年(1657)に致仕されるまでに上げられた実績が大きかったのは事実だ。しかしそれも光政様の後楯があったればこそなのじゃ。ところが明暦三年以降、光政様は方針を変えられて次第に陽明学から朱子学に傾斜していかれた。市浦清七郎、三宅可三、林文内、小原善助、中村七左衛門、窪田道和先生等を次々と招かれて藩校の教授陣は全て朱子学者に入れ代わってしまった。今では藩学は完全に朱子学になってしまった。特に、朱子学者の林信篤が元禄四年(1691)に幕府の大学の頭に任ぜられて以来、陽明学は藩としも幕府に対する手前憚られるようになっている。密かに蕃山先生の徳を慕って陽明学を学んでいる者は藩内にもまだ沢山残っている。しかしここが肝要なところだ。幕府や藩の御政道に逆らうようなことをするのは謀叛と見做されお前のためにも先々良いことはない。時流を的確に読み取りそれに順応していくことは処世上最も大切なことじゃ。ここのところはよく思案するがよい」        
「はい。よく判りました、よく思案してみたいと思います」
「今日は疲れたのでこれで終わりにしよう。明日は浦上家の祖先のことについて話さねばならぬ」
 と言うと鼾をかいて眠りだした。
                      



2005年06月13日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂1

 一.東雲篩雪

 昭和45年4月、当時私は日本の高度成長を担う勤続10年目の中堅企業戦士として兵庫県高砂市で昼夜を分かたず懸命に働いていた。本社で会議があって上京した折りに東京三越本店で浦上玉堂名作展が開催されていることを知り休日に会場へ足を運んだ。

 玉堂の代表作の一つとして古くから紹介されており、一度や二度は美術全集などでその写真判を見たことのある「東雲篩雪」の前へ立った時、暫くその場から動くことが出来なかった。

「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」というのがその時強烈に受けた印象であった。写真判でみたときも暗い感じのする雪景色だなと思って見てはいたが、心にしみとおるという程の感じではなかった。

ところがどうだ。今実物を見ていると小さく描かれた粗末な茅屋の中の読書する高士が「どうだい、雲も凍ったように動かなくなってきたよ。重く垂れ込めた空から粉雪が音もなく降りしきっていて、やがて木々も渓谷も埋めつくしていくだろう。そんな閉ざされた寂莫の山中で、孤り自然と同化し且つ対峙している私の心境が理解できるかい」と呼びかけているように見えたのである。

 目録の年譜を見てみると備中鴨方藩を50才の時脱藩し、春琴、秋琴という二人の息子を連れて諸国を放浪。この絵が描かれたのは60才後半頃と考えられるとあった。士農工商の身分制度が確立されてあらゆる自由が束縛されていた江戸時代の封建社会にあって士分を捨てて、敢えて琴と絵の世界へ飛び出していった心境はどんなものだったのだろうとその厳しい決断に思いを致すと、この絵に仮託されて滲みでている玉堂の、雪路を行き悩む煩悶と憂愁が理解できそうだと思ったものである。

 更にこの絵に纏わる次のようなエピーソードがあるのを知った。
 この絵はもとは近江長浜の柴田家が所蔵していたのであるが、第二次世界大戦終了後の混乱期に財産税で難儀をした同家が手放したらしい。そうとは知らない作家の川端康成はこの絵に魅せられていたので是非譲って貰おうと本能寺にある玉堂の墓へ詣でた後に柴田家を訪問した。しかし、時既に遅く柴田家では手放した後だったので手にいれることができなかった。その後、この絵は当時買い手がつかないままに、愛好家や画商の間を転々としたらしい。買い手がつかなかったのは「この絵をかけていると気が滅入る」というのがその理由のようであった。

 ところが暫くして、たまたま広島の原爆の被災地の視察に赴いた川端康成が帰りに京都に立ち寄ったところ、さる画商がこの絵を持っていることを知った。早速見せて貰ってますます気にいり値段にかまわず所望した。大金の持ち合わせがなかったので大阪へ行き、朝日新聞社に借金を申し込んだ。翌日金を届けて貰って予て念願のこの絵を自分の物にすることができたという因縁があるのである。価値観が変わってしまい執筆する意欲も失せて閉塞感に苛まれていた川端康成の当時の心境にフィットするものをこの絵は持っていたのであろうか。

 今、私は企業戦士としての戦いを終え、時間にも仕事にも拘束されない自由の身になって、旅をしたり読書したりと気儘に過ごしているのだが、ある日、図書館で美術全集を繙いていて「東雲篩雪」に再会したのである。繙いた美術全集には佐々木丞平氏の次のような解説が載っていた。

「渇筆で樹の幹の輪郭線が描かれる。幹から幾つにも分かれ出た小さな枝は縮れたように短く冬枯れの風雪の厳しさを思わせる。樹木の陰に更に一層淡く梢や枝が見え隠れする。いかにも繊細な筆の運びを見せている。このかすかな筆の運びが、雪と寒さのかもしだす透明でかつ震えるような大気の厳しさを見事に描きだしている。また、藍を含んだ墨色が山の背後の暗澹たる空間を表現し、その冷気が山膚にまでしみ通るようでもある。山の中腹では不安定に立ち上がった塔やおしひしがれそうな茅屋が見る者に一層心の緊張を強いる。またその周辺に色鮮やかな朱が散りばめられ、冷徹な大気を更にひきしめている。近景の岩間に架かる板橋上には傘をさした一人物が今まさに岩蔭に隠れようとし、岩山の後方の茅屋内では高士の読書する姿が円窓を通して見える。この冬枯れの凍てつくような自然は玉堂自身の心象風景でもあったろうし、散らつく雪の中で橋を渡り終えようとする人間、窓が開け放たれ、冷気を全身に受けて読書する人間に、自らの姿を投影させていたのかも知れない。50才にして脱藩し、放浪の中に身を置く玉堂が旅の中で得た自然に対する痛いほどの共感を表現した絵といえよう。70才に近い、最も充実した頃の制作になる玉堂画の代表作である」

 東雲篩雪の実物を見たあの日から30年弱の年月が流れ、私の人生にも喜怒哀楽の種々相があった。この間の経験の功により、玉堂の心境がもっと深く理解できるようになっているのではないかと思うようになった。またここ10年続いた平成不況は八方塞がりの重苦しく鬱陶しい気分を社会の隅々に充満させた。このような閉塞感のある環境に呻吟している今だからこそ玉堂がこの絵に託した気分を理解できるのではないかと思った。そんなわけでこれから琴弾の画仙、浦上玉堂がこの絵を書くにいたった心のうちを追ってみようと思う。



2005年06月06日(月) 水蜜桃綺談12完結

荘常陸兼祐は軍使を足利直義に派遣し、難攻不落の堅城を無血開城したと見せ掛けて敵を安心させた。その上で城に火を放って天皇方を混乱に陥れ、足利方に勝利を導いたのは手柄であるから、その手柄に免じて所領を闕所とすることなく,安堵して欲しいと懇願した。           
5月15日から18日までの3日間の激戦であった。この福山合戦では荘左衞門の三人の子供太郎太、次郎太、三郎太も参戦した。三郎太は捜し求めて、裏切り者の荘常陸兼祐の首を打った。
「降参半分の慣習があるとはいえ兼祐殿あまりにも、信義にかけましょうぞ。武家は忠こそを尊びたきもの。雪姫殿とのことは破談にしてくだされ。御免」
と涙ながらに刃を走らせたのである。

荘常陸兼祐の首は高梁川の河原に曝された。           

円念は雪姫を密かに城外へ連れだし長船村の刀鍛冶景光のところへ保護を頼んだ。
いちはやく幸山城に布陣した荘左衞門はこの福山の合戦での功を認められて猿掛城の城主に封じられ、以後小田庄も知行地に加えることになった。           

垂光は福山の合戦のあと、仏門に仕えたことのある者として城内で討ち死にした荘常陸兼の首のない遺体や大江田氏経軍兵士の夥しい数の死体を弔った。

福山の合戦のあと大江田氏経の求めに応じて鍛えた一振りの刀は転戦する大江田氏経の手元へ届ける術もなく、暫く垂光の許にあった。           

1338年新田義貞が越前藤島の戦いで敗死し、大江田氏経も戦死したという便りが垂光の耳に入った。

無常を感じた垂光は刀の武器性が嫌になり刀鍛冶を辞めた。そして、桃作りに専念しながら荘常陸兼祐と大江田氏経軍兵士達の菩提を弔った。 

 雪姫は円念に助け出されたあと暫く長船村の景光鍛冶のところで庇護をうけていたが、荘三郎太との婚約も破談となり、失意の日々を送っていた。

 円念の世話で水光の女房となり彼と共に桃を作るかたわら父と兵士達の菩提を弔った。

 後年垂光の作る桃はまるで蜜のような味のすることからいつとはなしに「水蜜桃」と呼ばれるようになった。水蜜桃の名だたる産地は福山城と幸山城のあった山手村と清音村である。(平成5年1月4日脱稿)

    注 本作品は同人誌「コスモス文学」で新人賞受賞




2005年06月05日(日) 水蜜桃綺談11

このような密約に助けられて大江田氏経が福山城をなんなく攻めて落としたのは延元元年4月3日(1336年)九州にいた足利尊氏が西国武将を結集し上洛を開始したときであった。
福山城に布陣した大江田氏経は山陽道のこの要衝の地を天皇方の第一線とし、荘常陸兼祐と飽浦信胤との降参兵を天皇方に加えて大江田氏経軍兵士達の士気は大いにあがった。

この時の模様は太平記に次のように述べられている。
『新田左中将の勢、すでに備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる』

この当時所領は嫡子分割相続で細分化しており、所領を増やすには荒野を開拓するか戦争で勝ち敵方の闕所(没収地)を分配して貰うしか術がなかった。元来武士は武芸をもって支配階級に仕える専門職能集団であったが、支配階級が分裂すれば彼らも分裂するのは必然の成り行きであった。恩賞を貰うためには勝つ側に加勢しなければ意味がない。恩賞の貰えない戦には参加しないほうがよい。当時降参半分の法という慣習があり降参人は所領の半分ないし三分の一を没収されて許されていた。 従って、降参や寝返りが多く後年の江戸時代の武家社会の慣習とは大きく異なっていた。去就の自由があり主従関係は恩賞次第という即物的なものに左右された。荘常陸兼祐と飽浦信胤の裏切り行為と同じようなことが行われるのも珍しいことではなかった。

九州で陣容を立て直して、軍勢を海陸の二手にわけ東上を開始した足利勢は尊氏が5月に児島下津井に千余隻の水軍で到着し吹上に3日間陣を張った。

 一方山陽道を東上した弟の足利直義は福山城を延元元年(1336年)5月14日三方から取り囲んだ。足利直義の軍勢は30万にのぼった。対する大江田氏経は城内に僅か1,500の兵力であった。
早くから足利方に加勢していた荘左衞門次郎はこのときも足利直義軍の旗下に参じ裏切り者の荘常陸兼祐を打ち破ろうと先鋒隊を買って出て福山城を攻めた。

しかしながら城に籠もった大江田氏経直轄の城兵は士気が高く常に奇襲戦法で足利の大軍を悩ました。その勢いで本陣をつき足利直義に迫って、彼を討ちとらんばかりの勢いであった。しかしその後は膠着状態が続き勝敗の帰趨は予想すべくもなかった。裏切り者のこういう局面での決断には常人では考え及ばないものがある。荘常陸兼祐の判断も異常であった。戦況を観察していた荘常陸兼祐は一旦は天皇方に味方したものの勢力を盛り返した足利軍の方に勢いがあると見て再び裏切った。手兵に命じて密かに城内の数箇所に火を放ち火災を発生させたのである。この火事が引き金となって、城内は大混乱に陥り、足利方の軍勢の総攻撃にあい城兵500騎が討ち死にした。氏経は400に減ったにも関わらず、26回にも及ぶ逆襲をし、ついに三石城にいた新田義貞軍と合流した。                           



2005年06月04日(土) 水蜜桃綺談10

「御忠告なれど、乱世に生まれた武家の宿命。志の高い足利殿にお味方申す」
 この時の左衞門次郎は、周辺の豪族達は足利軍に加勢すると読んでいた。加勢しないまでも、中立を保ち形勢をみて、戦に分のあるほうへなびくであろうとみていた。今、左衞門次郎が足利方に加勢すれば雪崩のように周辺豪族達は自分にならって足利方へなびくものと自負していた。ただ心配なのは同族の荘兼祐の動向であった。使いに出した垂光の報告では荘兼祐は旗幟を鮮明にすることなく日和見主義でいく気配であった。戦乱の世のならいとは言え同族が敵味方に分かれて争う愚だけは避けたいと思っていた。
幸いなことに児島の飽浦信胤が兵を率いて福山城に駆けつけ荘常陸兼祐を説いて足利軍に加勢させたと知り、足利軍の有利を確信していた。

荘一族を味方に引き入れることには失敗したが大江田氏経は、左衞門次郎の予測に反して付近の豪族達を味方に引き入れることに成功した。大江田氏経が軍使に言わせたのは次のきまり文句であった。
「これは正義の戦である。天皇親政を実現するための戦である。勝利のときには加勢した武将には官位官職が恩賞として下される」
田舎の豪族達は乱世に力を蓄えてきた武士であり名門の出でない者たちは天皇家に組みし官職を貰うことで社会的な権威を獲得しようとした。彼らにとっては、手柄をたてて都で官位官職を手に入れることは魅力であったし、天皇家に忠誠を誓うことが彼らの倫理感にもあっていた。
            大江田氏経は、日和見主義者の多いこの地域では最初に行動を起こし、緒戦で圧倒的に勝つことが肝要と考えた。夜陰に乗じて全軍に火矢を持たせ一斉に福山城内へ放たせた。火矢を放ってからは全軍一斉に突撃をさせたのである。戦には勢いというものがあり、緒戦で勢いに乗った側が有利に展開することが出来る。大江田氏経は自ら先頭に立って栗毛の馬に跨がり緋縅の鎧に兜を被り、福山城に向かって突撃した。  

 雪崩の勢いの突撃であった。博打のような戦法であったが相手の出鼻を挫いて充分であった。奇襲攻撃といえた。 ところが思いがけないことが起こった。敵側より弓矢の応戦は全くなく城の門が開いて白旗をかかげた兵達がなんの抵抗をするでもなく大江田氏経軍を城内へ導きいれたのである。荘常陸兼祐と飽浦信胤とが共謀した裏切りであった。一番堅固な城と目されていた城を天皇方に渡し、逆賊となっている足利方を打ち破れば荘左衞門が領している下道庄、浅口庄、窪屋庄の領地が恩賞として貰える手筈になっていた。大江田氏経の軍使が密かに福山城を訪れた時の約束であった。



2005年06月03日(金) 水蜜桃綺談9

「なるほど、志の高さと申されるか。それにしてもお父上もお若いのう」
と常陸兼祐は志の高さだけで世の中が動けば何の苦労もないのにと心の中でつぶやきながら言った。
「しかも、今でこそ賊軍と言われていますが、必ず新しい帝の綸旨が下りると信じております。その節には立場が逆転し、新田義貞軍が逆賊になるのです」

「我らは武家だから、主人に忠節をつくすのが本分であろう。しかし恩賞あってこその忠節であろう。どちらの側の恩賞が多いだろうか」
「足利殿だと思います。ところで、お館様天皇方の先鋒隊の大江田氏経殿は必ず福山城を攻撃してきます
」と垂光は言った。   「何故、分かる」
と兼祐が聞いた。

「実は私は大江田様の刀を一振り鍛えてお届けすることになっておりますが、そのお届け先が福山城なのです」           
「なに。お主はどちらの味方なのだ。二股かけているのか」
「刀鍛冶にとっては自分の作品を買って下さる方が大切なので敵味方はありません」
「先程から、お主は足利方の方が正義で、天皇方は不正義だと言っているではないか」
「その通りです。しかし刀を買って戴くことはこれとは別のことなのです」
「そういうものかのう。いずれにしても、天皇方にお味方するか足利方にお味方するかはよく考えてみよう。父上に宜し伝えられよ」           
と言って垂光を引き取らせた兼祐はまだ結論を出さなかった。日和見主義に徹しようと思っていた。

一方天皇方の新田義貞軍の先鋒隊、大江田氏経からの勧誘の使者が荘左衞門次郎の許へ往来した。
「これは正義の戦でござる。その証拠に逆賊足利尊氏は九州に逃げたではないか。全国には帝の綸旨を奉じたてまつる武士達が結集しようとしているのだ。天皇親政を実現しようとするものでござる。我が陣について正義を実現されよ。勝利の暁には恩賞として官位官職が下されましょうぞ」

と大江田氏経の使者は言った。           
「いかにも、帝が親しく政を行われるのは結構なことでござるが、現在の知行地さえ安堵されないことがあると聞き及ぶが如何に。我等は源氏の恩顧を受けた者。足利殿は我等の棟梁でござる。この世に戦をなくそうとしておられる無欲の足利殿にお味方致す」
左衞門次郎は荘兼祐との間で争っている所領のことを思いながら言った。           
「新田殿も源氏ぞ。足利殿は天皇に弓引いた逆賊であるぞ。ここのところをよく御勘案あれ」



2005年06月02日(木) 水蜜桃綺談8

円念に伴われて、兼祐の前に連れてこられた垂光をしげしげと眺めて兼祐は言った。

「おう、これは虎丸殿、いや垂光殿でござったな。蛇丸殿も大きゅうなられたのう」
「はあ、お館様お久しゅうございます。本日は、南妙法蓮華経をお勧めに参上いたしました」

「あの幼かった虎丸殿がこのように見事に成人されて、これはまた御説法に参られたとは、人も変われば変わるものよのう」           
「これも、皆円念様の御指導と我が師景光様の御加護のせいでございます」
「ところで、幕府が滅びたうえに、帝の世継ぎの問題で争いが起こりこの山手の田舎にまでその影響がきておるぞ。はてさて、どちらが勝つのやら」           

「それはさておき、お館様は足利方と新田方とどちらへお味方なさるおつもりですか」
「何れも源氏ではないか」
「私の見るところ足利殿の方が器量が大きいように思います。今でこそ逆賊になっておりますが、この乱世を纏めていけるお方は足利尊氏殿をおいてほかにはないと考えます」

「それは、左衞門次郎殿のお考えか」
「そうです。それがしも父の考え方に同意しております」
「これはまた何故そのように思うのかの、訳を聞かせてはもらえないかの」

「さればでごさいます。それがしも、幼き頃より、生き物の世界に興味をもち争いの無い世界はないものかと考えてまいりましたが、動物どもは己の生活の領域をあらすものに対しては、果敢に死を掛けても戦います。しかしながら、己の生活の領域が確保されれば決してそれ以上のことは致しません。まして人間のように、己の名誉や家門の名誉のために争うことを致しません。足利殿はこの世に争いのない世界をつくろうと考えておいでなのです。おそれながら、現在の戦は皇位継承をめぐっての争いであろうかと考えます。天皇様を取り巻くお公家衆が民の迷惑も考えずに名誉欲と権勢欲の権化と化し権謀術策を巡らして、諸国の武士を我が味方に取り入れ天下をほしいままに動かそうということから起こった争いであると考えております。ところが、足利尊氏殿ははやくこの世の争いを無くして、民百姓が安心して暮らしていける世をつくりたいとお考えなのです。足利一族のことよりも、天下泰平を願って戦っておられるのです。それが証拠には源氏同門の新田義貞と戦っておられることでもお判りでしょう。新田殿が天皇方の策略に踊らされて、源氏の中でも下積みであった新田家の名誉を挽回しょうとしておられるのとは、志の高さが違うと思うのです」
父兼祐の傍らで雪姫は垂光の弁舌にほれぼれしながら聞き入っていた。なんと理想の高い高潔なお人柄なのであろうかと思いながら。           



2005年06月01日(水) 水蜜桃綺談7

乱発される綸旨や令旨や檄は地方の豪族達の去就を決めかねさせていた。

荘常陸兼祐は始祖太郎家長が源頼朝の恩顧をうけた武将であることから、味方するなら同じ源氏の足利側にと心密かに決めていたが、戦況や政情が目まぐるしく変わるので、旗幟鮮明にすることなく日和見主義をきめこんでいたが何れの側に加勢するにしても、平地での戦よりも石垣を持ち山の上にある福山寺を砦にした方が戦い易いと考えて、福山寺に立て籠もって情勢を見守っていた。   

一族の荘左衞門次郎はいちはやく足利直義の旗下に参じて、幸山城に布陣していた。幸山城は始祖太郎家長が武州から移ってきたとき築いた城であり、福山城とは指呼の距離にあった。

荘左衞門次郎の使者が足利方に味方するよう荘常陸兼祐の許へ幾く度か往来した。          

 垂光は、父左衞門次郎の密命を帯びて福山へ赴いた。垂光は墨染の衣を纏い僧に変装して、勝手を知った抜け道から福山城へ入城し円念と過ごした僧坊の前までたどりついたとき草むらに蛇をみつけた。垂光がいつものように左手の五本の指先を第一関節のところで曲げて掌を蛇へ向けると、蛇は竦んで身動きできなくなった。蛇を捕まえたとき、この様子を不審に思いながら見ていた警護の寺侍に誰何された。   

「お主、何者じゃ。そこで何しとる」
「ご覧の通り蛇を捕まえたのじゃ」
「蛇をつかまえてどうする」
「首に巻いて南妙法蓮華経を唱えるのじゃ」
「さては、最近蛇を首に巻いて、新しいお題目を唱えてまわる怪しげな者がいるとの噂じゃが、お主のことか」
この寺侍は最近雇いいれられた悪党の一人らしく垂光の記憶にない顔であった。眉が濃く骨太の男でずんぐりした体格であった。           
「さよう、南妙法蓮華経をお唱えんせぇ」
「怪しい奴だ、こちらへ来い」
垂光は寺侍に捕まえられて、警護小屋へ連れていかれた。警護小屋には垂光が昔円念の元で修業していた頃の顔馴染みも居たが、成長盛りに長船村の景光へ弟子入りしたので背丈、顔つきも変わっており、人相から虎丸であると気がつくものはいなかったが蛇をてなづけていることが彼らの記憶を呼び戻した。  
「若い僧侶に身をやつした密偵が捕まったそうな。蛇を首に巻いてござるそうじゃ」
「もしや、虎丸様ではなかろうか。蛇をあのように手なづけられるのは虎丸様をおいて他にはいない」
と一人の男が言った。
「そうじゃ。虎丸様じゃ」
「なんでまた密偵のような真似をしなさったのじゃろうか」
騒ぎは城中へ広がり、女中達も見物に来た。
「何と涼しげな顔立ちの坊様でござろう」
「意志の強そうな目付きをしておられることよ」

噂を聞いた常陸兼祐の娘雪姫もお付の侍女を連れておそるおそる見物にきた。虎丸が福山寺にいた頃は雪姫はまだ三才で虎丸のことは覚えていなかったのである。           

垂光がきっと正面を見つめている視線に雪姫の姿が写った。雪姫の視線と垂光の視線が交錯したとき蛇に睨まれた蛙のように、雪姫は竦み、体中に雷にうたれたような衝撃がはしった。

垂光は寺侍の総元締円念の前に引き出されことなきを得た。

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