前潟都窪の日記

2005年03月31日(木) 秦   河 勝 連載43

 このとき、後継天皇候補としての有力者は三人いた。敏達天皇の子で早くから太子の地位にあった押坂彦人皇子、用明天皇の嫡長子である厩戸皇子、敏達天皇と炊屋姫皇后との間に生まれた竹田皇子の三人である。

河勝としては、皇位継承問題がこじれずに厩戸皇子が即位するためには、次の次をねらうのが得策であると判断していた。このとき厩戸皇子は19歳であったからただちに即位するには若すぎるであろう。三人の中で一番年長者である押坂彦人皇子がまず即位し、病弱故に治世は長くないであろうからその次に厩戸皇子が即位するのが理想的と考えていた。問題は、竹田皇子との関係である。英明なことでは厩戸皇子のほうが勝るが、長年皇后の地位にあり発言力の強い炊屋姫は自分の腹を痛めた竹田皇子を即位させたいであろう。
秦河勝は厩戸皇子の所へ駆けつけた。
「皇子いよいよ天皇御即位のチャンスが到来しましたね」と河勝。
「私には政治をしたいという欲望はない。願わくば御仏の教えをひろめることに力を注ぎたい」
「勿体ないことでございます。皇子のように聡明なお方が天下をしろしめされなくて誰ができましょうや」
「世間は虚仮。唯仏是真」と聖徳太子。
「難しい言葉ですね。世間が虚しく仮の姿であったとしても、御仏の教えを広めるためにも即位される必要があるのではないでしょうか」と河勝。
「機会に恵まれれば即位しても構わないがその時は、捨命と捨身は皆是死也という心境で統治してみようと思う」



2005年03月30日(水) 秦   河 勝 連載42

このような謀議があって駒の手によって天皇は殺された。秦河勝はこの儀式に天皇を警護する役割で陪席していたが、瞬時の出来事であった。河勝が異変に気づき、駒を取り押さえようと倒れた天皇の側へ駆けつけたときには一足早く、駒は戸外へ飛び出し待たせてあった馬に乗って逃げ去ってしまった。
群臣の面前で天皇を殺害したことは蘇我馬子の権力と威厳を示すのに役だった。天皇の遺体は殯宮が営まれることもなく即日倉梯岡陵に葬られた。この時代の天皇で殯宮も営まれずその日のうちに葬られた例はないから庶人並の扱いを受けた存在感のない惨めな天皇であったといえよう。

 崇竣天皇暗殺の衝撃は大きかった。秦河勝のうけた衝撃もまた大きかった。
天皇の護衛につけた駒が天皇を弑逆するとは考えてもみなかったことである。
群臣達の間からも駒を処罰すべしとの声が高まった。流石の独裁者蘇我馬子も群臣の面前で天皇を暗殺した駒を庇うことはできなかった。駒を天皇暗殺の下手人として糾弾しさらに、その妃を盗んで妻としたことを臣下としてあるまじき行為だと宣言して兵を差し向け駒を殺させた。駒を処刑したことで日本史にも稀にしか例のない天皇暗殺の責任は首謀者である馬子に対して問われることもなくうやむやのうちに不問にふされることになってしまった。
この事件のため任那への外征は中止となったが、馬子は筑紫に派遣されていた将軍達に急使を派遣し、内乱のために外事を怠るなと言って動揺を静めた。

二万の軍隊は筑紫に滞留したままで推古朝を迎え595 年(推古3年)に大和へひきあげることになる。
崇竣天皇が暗殺された現場に居合わせた河勝は蘇我馬子の凄腕を思いしらされた。

 天皇から馬子謀殺の謎をかけられたとき、冷静に逃げたことは一族存続の為にも賢明な対応であったと秘かに胸をなで下ろした。猪を献上したとき 天皇の暗示にうっかり乗って馬子に立ち向かっていたらいまごろは命がなかったであろうと冷や汗をかくのであった。駒の軍団を警護に派遣したのは賢明な判断であつたと思った。駒が犠牲になって蘇我氏対秦氏の紛争を未然に防止することになったのである。

 それにしても天皇を弑逆することを思いつくとはとんでもない悪玉だといまさらのように馬子の悪辣暴虐振りに思いを致すのであった。
同時に彼の心従する厩戸皇子にも皇位継承のチャンスが到来したと秘かに喜んだが即位の時期が問題であると読んでいた。



2005年03月29日(火) 秦   河 勝 連載41

小手子の使者は馬子に訴えた。
「天皇の許へ猪を献上する者がありました。天皇は猪を指さして(猪の頸を切る如くに、いつの日か私が憎いと思っている人を斬りたいものだ)と言っておられました。どうか懲らしめてあげて下さい。それに何をお考えなのか東漢直駒の兵を宮城へお集めになっております」

密告により、天皇が馬子を憎み攻撃しようとしていると判断した馬子は、直ちに東漢直駒を呼んで素知らぬ顔で相談した。
「駒よ。天皇が私に兵を向けて戦を仕掛けてくる用意をしているようだ。どうしたらよいか」
「そんなことがある筈はありません」
「何故判る」
「秦河勝様より要請を受けて天皇の身辺警護のために手勢のものを配置したばかりです」と東漢直駒は何がなんだか判らずに目を白黒させながら答えた。
「そうか。秦河勝の指図で動いたのか。他に何か命令されていないか」
「主上を警護奉れと言われただけです」
「実は天皇が私の首を切りたいと言っていると密告してきたものがいるのだ」
「誰ですか」
「皇后だ」
「ははあ。私が貢物を河上嬪にしか持っていかないので、つむじをまげましたか」
「天皇が私を討つためにお前に兵を集めさせているとも言った」
「それは違います。私は軍政官の秦河勝の指示に従っただけです」
「そういうことか。お前は軍政官の秦河勝と私とどちらが大切だと思うか」
「勿論大臣です」
「それなら、何故宮城へ兵を配置した」
「秦河勝に言われて天皇の身辺をお守りし忠節を誓うためです」
「お前の気持ちは判った。改めて命令する。策は秘なるがよい。兵をいますぐ引き上げよ」
「それはまずいでしょう。天皇に気づかれると騒ぎが大きくなりますし、秦河勝が疑いをもちます」
「成るほど。秦一族を敵に廻すと面倒なことになるな」
「御意」
「天皇を弑逆奉る決心をした」
「恐れ多いことです。逆賊になりますよ」
「私が天皇になるのだ」
「本気ですか」
「本気だ。こんなこと冗談でいえることではない」
「そこまで覚悟されているなら、天皇に気づかれぬことが肝要です。私の兵はそのまま警備させておいたほうがよいでしょう素早く手練を使って一人で行動することが肝要かと思います」
「なるほど。よく判っているな。その役はお前が果たすのだ」
「恐れ多いことでございます。私が逆賊になってしまいますが」
「私は司法権も掌握している。お前を罪人にすることはない」
「どのようにして天皇に近づきますか」
「十一月三日に東国より調を奉納する儀式を催すことになっている。東国は天皇の所領の多い所だから必ず天皇は出席なさるであろう。そこでお前は天皇が着席なされたら、直ちに刀を抜き喉元を突いて弑逆奉ってくれ」
「承知致しました。殺し屋は私の得意とするところです。ところで報酬には何を戴けますか」
「天皇の嬪河上娘をお前の妻にしてもよい。宮城から略奪しても構わない」
「本当ですか」
「本来なら、お前の一族は帰化人だから皇室と縁組することはできない。だが河上娘は我が娘であり皇后ではないが妃であり身分も高い。やがて私が天皇になれば、お前は天皇の娘を妻にもつことになる。帰化人のお前の一族がこの国で繁栄していくためには格もあがることになるのだからよい報酬であろうが」
「有り難き幸せでございます」



2005年03月28日(月) 秦   河 勝 連載40

河勝としては19歳の厩戸皇子が皇位につくためには、崇峻天皇にもう2〜
3年在位していて貰わなければ困るのである。そのためには、強い武力を持った東漢直駒であれば、馬子に命じられた暗殺団が襲撃しても防戦し、天皇を守ることができるであろうという思いと場合によっては天皇を奉じて豪族を糾合し、馬子を征伐できるチャンスが生まれるかもしれないという思惑もあった。

秦河勝の脳裏には天皇家と姻戚関係をもちたがっていた父国勝の遺志が稲妻のように駆けめぐった。今天皇を奉じて蘇我一族に立ち向かったらどれだけの豪族がついてくるだろうかとも考えてみた。現在の兵力、経済力を比較したとき秦氏と蘇我氏とどちらが優位だろうか、経済力では秦氏が絶対的に優位だが兵力では蘇我氏に劣るかもしれない。さればこそ、軍政官の地位を苦労して手にいれ諸豪族に多少睨みが効くようになったのだが、諸豪族は秦氏の実力をどこまで評価しているのであろうか。そこが問題だが、諸豪族を糾合できればあるいは蘇我氏を征伐できるかもしれない。もし蘇我一族を征伐できたら、その時には彼が尊敬してやまない厩戸皇子を皇太子に擁立して、崇峻天皇の次の天皇に推挙するのである。厩戸皇子が即位すれば自分の立場は現在の蘇我馬子のように朝廷のあらゆる実権を掌握できるかもしれない。ここは慎重に冷静に対応しなければならないと心に言い聞かせるのであった。
「私の命令はなんでも素直に聞くだろうか」
「それは忠義一途の者ですから、お上の命令ならなんなりと仰せつけ下さい」と河勝は答えたが、天皇はもしかすると駒に命じて蘇我馬子の謀殺を企んでいるのではないだろうか、そうであれば蘇我一族を征伐するきっかけが出来ると心臓の動悸が高まるの禁じえなかった。
「あの時の先鋒隊か、雨のように飛んでくる矢をものともせずに、血路を開いた働きは見事であった。そのものを配置してくれ」と崇峻天皇は言われた。
 河勝は伝令を飛ばして東漢直駒の手のものを配置した。
 秦河勝と天皇のやりとりを聞いていた妃の大伴嬪小手子は、蘇我の馬子大臣に訴えて、天皇を懲らしめて貰うには絶好の機会だと単純に考えた。小手子は早速馬子の許へ使いを遣わした。



2005年03月27日(日) 秦   河 勝 連載39

 591 年(崇峻天皇四年)天皇の詔によって任那再興軍の派遣が決まり、紀臣男麻呂・巨勢臣猿・大伴連噛・葛城臣烏奈良らを大将軍としてその他の諸氏からも兵を集め、二万余の軍勢が筑紫へ出兵した。ここに名を連ねた各氏族はその殆どが物部守屋との戦で馬子を支援しているので、遠征軍は馬子の呼びかけに呼応したものであり、詔も馬子に勧められて下されたものであった。秦河勝も九州の秦一族に号令して任那再興軍に参加させていた。
崇峻天皇は統帥権さえも大臣蘇我馬子に握られている傀儡政権であった。

592 年(崇峻天皇五年)の冬、秦河勝は飛鳥の橘宮へ厩戸皇子を表敬訪問
した後葛城山の山奥で捕獲した猪を天皇に献上した。
 献上された猪を見て天皇は
「元気のよい猪だね、どこで捕れたのか」と河勝に聞かれた。
「葛城山の山中でございます」
「葛城は蘇我大臣馬子の本貫の地ではないか」
「御意」
「今宵の夕餉には久しぶりに膳部に命じて猪肉の串焼きをつくらせよう」
「光栄至極でございます」
「それにしても、いつの日かこの猪の首を切るように憎い人の首を切りたいものだ」と漏らされた。
「おそれながら、お心のうちは、お漏らしにならぬが賢明かと存じ上げ奉ります。それがし、只今のお言葉、聞かなかったことに致します」河勝はいまただちに厄介な事件に巻き込まれるのは御免だという思いをこめて言った。心の中では天皇は蘇我馬子を成敗したいと考えて、私にそれとなく謎をかけて唆せているなと受け止めていた。
「ところで、筑紫の国へ沢山の軍勢が出征しているので、宮城の護衛の兵士の数が少なくおぼつかない。身辺警護の兵を増やしたいが精鋭の部隊を派遣しては貰えぬか」と天皇もさりげなく河勝に言った。
「東漢直駒という戦上手の帰化人がおりますがその手のものでは如何でしょう」と秦河勝は天皇の腹のうちをさぐるつもりで答えた。
「どのような素性の者か」
「お上も御記憶にあろうかと思いますが、物部守屋の討伐戦の時、新しい武具で装備し、先鋒隊を務めた騎馬軍団の首領が東漢直駒です。武力だけが取り柄の人間ですが、お上に忠義を尽くしたいと日頃申しております」と河勝が答えた。



2005年03月26日(土) 秦   河  勝 連載38

 物部一族が討伐されて間もなく、8月2日炊屋姫と群臣達は泊瀬部皇子に勧めて天皇即位の礼を行った。同じ月に倉梯に柴垣宮を造営したが現在の桜井市から多武峰街道を寺川沿いに遡った山峡にある倉梯の集落は、視界を妨げられる山ふところに位置しており、山々に囲まれたその場所からは、大和朝廷の心の故郷である三輪山の姿は全く見ることが出来ない。まさに幽閉の場所であった。

 崇峻天皇は即位した翌年春三月に大伴糠手連の女小手子を立てて妃とした。 即位したものの、政治の実権から切り離され、馬子の采配によって政治が進行し、異母姉の炊屋姫からは皇太后の立場を楯に何かにつけて、口出しされるので、政治を傍観するしかなく、馬子と炊屋姫に対する反感が鬱積していった。
妃に立てた小手子の父の大伴糠手は連姓の氏族であり、本来皇后を立てられる氏ではない。今では大連の地位からも外され、蘇我氏の手足となることに甘んじている二流の氏族であり、大臣蘇我馬子に対抗していくだけの実力もなく頼りにならなかった。小手子は天皇との間に一皇子、一皇女をもうけたが、次第に天皇の寵愛が薄れて馬子の娘である妃の蘇我嬪河上娘に移っていくのを恨んでいた。それに蘇我嬪河上娘のところへは舶来の香料・衣等の貢ぎ物が頻繁に届けられるのに小手子のところへはそれが無かった。足しげく貢ぎ物を運んでくるのは東駒直という帰化人でいろいろ半島の風俗・習慣等の話を面白おかしくしているらしいと侍女達から漏れ聞くのも癪の種であった。小手子は親の実力の相違がこのように、貢ぎ物にまで影響を及ぼし、天皇の愛情にまでおよぶものかと慨嘆してだけはいられなかった。親に力がなければ皇后という立場を利用して、機会を見すまして実力者である大臣蘇我馬子に命じ、天皇をいさめて貰おうと考えていた。



2005年03月25日(金) 秦   河 勝 連載37

「これは縁起がよい。白膠木は勝軍木ともいい、霊木じゃ」
「おお、それは縁起がよい」と周囲の者も喜んだ。
「司馬達等を呼んでくだされ」
「はい。御前に」
「仏師は参戦しておらぬか。四天王の像を彫ってもらいたいのだが」
「生憎、仏師は参戦しておりませんが、それがしにも仏像作りの心得はあります。やってみましょう」司馬達等が言った。
「非常の時だから、簡単なものでよい。形が出来ただけでよい」

 厩戸皇子は、出来あがった四天王の像を束髪の上に乗せ誓いを立てて言われた。
「この戦は仏法を護るための戦です。持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王よ、我が軍を守り勝利を与え賜え。もし自分を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四天王のため寺塔を建てましょう」
 このとき秦河勝も皇子と一緒に願をかけたが、憑依現象は起きなかった。厩戸皇子の超能力の方が秦河勝のそれを凌駕していたものであろう。

「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と蘇我馬子大臣も誓いをたてて言った。
誓いを立て終わって、士気の高揚した馬子軍は、武備を整えなおして進撃を開始した。

跡見首赤寿が狙いをつけて物部守屋に矢を射かけると見事命中した。榎の木股から落ちてきた物部守屋の首を秦河勝が打ち落とした。これによって物部軍は自然に崩れて兵士は四散した。この戦で物部氏は没落し渋川の邸宅、難波の管理事務所や、支配していた田荘は全て没収された。物部氏が滅亡してはじめて蘇我氏および崇仏派は自由に活動することが出来るようになったのである。

 仏教の興隆を志す馬子は、飛鳥の真神原に本格的な寺の建設を始めた。法興寺(飛鳥寺)である。これより後、飛鳥時代の仏教の中心的存在となる寺である。



2005年03月24日(木) 秦   河 勝 連載36

 泊瀬部皇子を筆頭とする諸皇子の他に、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸豪族が蘇我馬子側についた。大和、河内の主要な豪族うち揃っての軍団編成であった。とりわけ先鋒隊をつとめた大和檜前の東漢氏の軍勢は、優秀な武器・武具で装備された精鋭部隊であった。

これらの軍勢は蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏から
なる主力軍と大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる第二群とに分かれて進軍した。

 主力軍は、飛鳥で勢揃いし奈良盆地南部を西進してから、逢坂越えをして国分から船橋へ出て物部氏の軍に攻めかかった。第二軍は大和川北辺を通る竜田道を越えて信貴山西麓の志紀の地に出て、一気に渋川の物部氏の本拠を横あいから急襲した。

 物部守屋は稲を積んで砦を作り、子弟と奴からなる軍を率いて防戦したが、不意をつかれたために、渋川の本拠を放棄して、北方の衣摺まで後退して戦った。このあたりは泥深い沼のある地帯で馬子軍も攻めあぐんだ。大連の物部守屋は、大きな榎の木に登って馬子軍を俯瞰し、泥沼で足を取られ動きの鈍い馬子軍に雨の如く矢を射かけたし、よく訓練されて戦上手の物部氏の兵達が頑強に戦ったので、馬子軍は三度も退却しなければならなかった。

 厩戸皇子は瓠形の結髪をして馬子軍の後方に従っていたが、味方が三度も退却するのをみて何となく不安になった。厩戸皇子の側には秦河勝と跡見首赤寿(とみのおびといちい)が従い護衛していた。
「大勢がよくない。何か手をうたないとこの戦は負けるかもしれない」と厩戸皇子が言われた。
「仰る通り形勢は、我が軍に不利のようでございます」と跡見首赤寿が同意した。
「この戦に負けると仏の教えは広まらない。仏教を守護する四天王に願をかけよう。誰か、仏像を彫る木を捜してきて欲しい」
 河勝が近くの山へ入ると直ぐ目の前に身丈程の白膠木(ぬりで)が生えていたのでこれを切り取ってきて捧げた。



2005年03月22日(火) 秦   河 勝 連載35

 穴穂部間人皇后はこうして用明帝の喪も明けないうちに義理の子つまり用明帝と蘇我稲目の娘石寸名との間に生まれた多目皇子の妃として嫁がされ佐富女王を生むことになるのである。
詔勅は秦河勝を使いとして佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛等の氏族に届けられた。彼らは炊屋姫の詔勅を奉じて両皇子を攻め殺してしまったのである。

馬子に先手をとられ、肝心の穴穂部皇子を失ってしまった物部守屋は孤立
してしまった。これに対し馬子は、物部守屋を攻めるのは今がチャンスと秦河勝を使って、朝敵穴穂部皇子に加勢した物部守屋一族を討伐しようとの檄をとばした。檄に応じて、泊瀬部皇子をはじめとして敏達天皇の子の竹田の皇子等が参戦した。

 秦河勝は馬子の檄文を携えて飛鳥へ赴き厩戸皇子と出会ったときのことが忘れられない。
「物部守屋討伐の檄を預かって参じました」と河勝が言った。
「このたびの戦の大義名分は何か」と厩戸皇子は質問したが、14才とは思えない風格があり、威容辺りを圧する荘厳さを備えていた。
「伯母上にあたられる炊屋姫が出された、穴穂部皇子を討伐せよとの詔勅でございます」
「穴穂部皇子は征伐されたではないか」
「御意。しかしながら朝敵に加担した大連物部守屋が討伐されておりませぬ」
「皇位継承の争いが原因か」
「御意。もう一つ崇仏か排仏かの争いに決着をつける意味もあります」
「大連物部守屋は排仏を唱えているのであったな」
「御意。仏法の教えを広めるためにも大連物部守屋は討伐せねばなりませぬ」
「おことは崇仏か排仏か」
「内国神も認めた上での崇仏の立場でございます」
「仏像を拝観したことがあるか」
「ございます」
「それは何時のことか」
「子供の頃と、つい最近のことですが蘇我大臣の向原のお屋敷で二度程拝観
したことがございます」
「それでは仏の教えの神髄は何か」
「恥ずかしながら判りません」
「一つだけ教えよう。捨命と捨身とは皆是死也」と厩戸皇子が言ったとき、河勝には言葉の真意は分からなかったが、厩戸皇子の姿が神々しくみえ思わず手を合わせた。この時河勝に憑依現象が起こった。手足が震え顔がこわばると、耳の奥で声が聞こえた。それは遠い昔、大原の桜の木の下で聞いた先祖霊の言葉と同じ声音であった。
「汝の臣従すべき皇子が今姿を現された」と

 



2005年03月21日(月) 秦   河 勝 連載34

物情騒然となってきた中で物部守屋側には物部一族の他に大市造・漆部造の一部等が加わってきた。一方蘇我馬子側には大伴比羅夫が手に弓矢と皮楯を持って馬子の身辺警護にあたった。このように緊迫した状況の中で、用明天皇の病気は進み豊国法師らの懸命な治療と祈祷の甲斐もなく587 年(用明2年)4月に崩御した。天然痘の業病であったので早々に磐余池上陵に葬られた。

次の天皇は用明天皇の甥であり皇太子である押坂彦人皇子が有力であった。

しかし皇室に関しては兄弟相続が過去にも例が多かったので、堅塩媛系の用明天皇の次は小姉君系の皇子を支持する氏族も多かった。この空気を察して守屋は小姉君系の穴穂部皇子を擁立して即位させよう調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

この動きに同調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた、堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

蘇我馬子が物部守屋に勝って権勢を保持するためには、崇仏の念の強い姪の炊屋姫に取り入って穴穂部皇子の失脚を狙わなければならなかった。その妙案が穴穂部皇子の同母弟にあたる泊瀬部皇子を皇位継承者として擁立し小姉君系の結束を揺さぶり、分裂させることであった。

「皇太后には兄上の先帝がお隠れになってお寂しゅうございましょう。心よりお悔やみ申し上げます。ところで穴穂部皇子が皇位継承者として大連物部守屋と共謀し兵を集めているのをご存じでしょうか」と大臣の蘇我馬子が眠ったような顔をして言った。

「聞いています。またあのづうづうしい皇子が性懲りもなく画策しているのですか。宅部皇子までが同調しているというではありませんか、困ったものです。竹田皇子はまだ幼少で帝には無理だろうし、厩戸皇子も聡明とはいえこちらも幼すぎるし」と炊屋姫が言う。

「そこでございます。あの目立ちたがり屋で、粗野な穴穂部皇子が天皇になれば、後は小姉君系の皇子に皇位は盥回しされて、竹田皇子や厩戸皇子が成人されてもそのチャンスは失せるでしょう」と馬子が唆す。

「何か良い方策はないものでしょうか」と炊屋姫
「私に妙案があります」と馬子
「是非聞きたいですね」
「穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅を下して戴くことです」
「理由は」

「皇太后に対して不敬の振る舞いがあったということと、先帝の寵臣三輪逆を物部守屋に命じて殺害させたということで十分でしょう」
「それでは、次の天皇は誰にするのですか」
「泊瀬部皇子です」
「小姉君の皇子ではありませんか」
「竹田皇子や厩戸皇子が大きくなられたときのためです」
「厩戸皇子は小姉君系でしょう」と炊屋姫

「いかにも、しかし同時に堅塩媛系でもあります」
「判りました。用命天皇が亡くなられて、穴穂部間人皇后はまだお若いのにお気の毒です。多目皇子の妃として輿入れさせようではないですか」と炊屋姫が澄ました顔で言った。心の中では美貌の誉れ高い穴穂部間人皇后にこれで辛い思いを味わわせることができるのは痛快なことだと思っていた。
「少し残酷ではないでしょうか。多目皇子は穴穂部間人皇后の義理の子にあたられるのですよ」と馬子

「多目皇子は亡き用明帝にそっくりの顔形をしておいでです、穴穂部間人皇后の寂しさを紛らわすのには良い考えだと思いますわ」

「成るほど。厩戸皇子が成人した時の用心のため、皇太后としての力を蓄えておかれるおつもりですな。穴穂部間人皇后には私から話しましょう、その代わり穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅は戴けるのでしょうな」

「そうしましょう」
 



2005年03月20日(日) 秦   河 勝 連載33

用命天皇は即位後、僅か二年で病に倒れた。天然痘であった。蘇我の馬子は用命天皇の叔父にあたるので、一年前仏に帰依して病気平癒した馬子にあやかり天皇も仏に帰依しようと決意した。
「朕は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思うので、卿らも承知して欲しい」と侍仕する群臣に言われた。

 仏教伝来以来初めて天皇が自らの意思で仏教を受容したのである。
「畏れ多くも、三種の神器を奉安し天照大皇神を司祭する立場にある天皇が国神に背いて他国の神を敬う等ということが許されてよいものでしょうか。このようなことは前代未聞でございます。お立場をお弁え願わしゅう存じます」と大連物部守屋と連中臣勝海が口を揃えて言った。
「天皇の御意思は尊重すべきであると存じます。臣達はすべからく詔に従って御協力申し上げるべきだと存じます」と蘇我馬子大臣は誇らしげに言った。
穴穂部皇子は早速豊国法師をつれて天皇の元へ伺候したので、これを見た物部守屋は穴穂部皇子の後ろ姿を睨みつけながら言った。
「実にけしからん」心の中では、用明天皇の対抗馬として皇位を争ったとき世話になっておきながら、また私が仏教に反対しているのを知っていながら、法師を連れてくるとは何と恩知らずな皇子であろうかと悔しい思いをしていた。

 排仏派の雄であった物部氏も天皇が自らの意思で仏に帰依すると表明してからは立場が苦しくなった。身の危険を感じた物部守屋は本拠である河内の渋川に引上げ軍勢をあつめて警戒体制に入った。排仏派の有力者中臣勝海も兵を集め物部支持の準備をし更に太子押坂彦人皇子と竹田皇子の人形をつくって呪詛した。彼らは次期天皇候補として第一、第二順位に位置していたからである。

 穴穂部皇子を擁立するためには、これらの皇子達は邪魔になるのである。ところが中臣勝海は物部側の形勢が悪くなったと気がつくと寝返って、押坂彦人皇子の水派宮に司候した。
舎人の跡見赤寿は無骨者であったが、忠義一筋の武辺の男であったから、変節漢の中臣勝海を許すことができなかった。中臣勝海が押坂彦人皇子のもとから退出するところを狙って切り殺してしまった。



2005年03月19日(土) 秦   河 勝 連載32

 大三輪逆は炊屋姫の寵臣として秘密を知っていたので穴穂部皇子を殯宮に入れることは断じてできることではなかった。
怒り心頭に達した穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋の両名を呼んで大三輪逆は皇子に対して無礼な態度振る舞いをしたので、切り捨てたいと言うと二人とも「御随意に」と言った。

 炊屋姫の寵臣大三輪を穴穂部皇子に殺させるのは蘇我馬子の策謀であった。炊屋姫の穴穂部皇子に対する怒りを増幅するためである。

 一方、穴穂部皇子は、協力者の支援を取り付けて次期天皇になろうと企んでいたので、何かと邪魔をする大三輪逆を口実を設けて殺そうと考えていたのである。大臣と大連の同意を取り付けた穴穂部皇子は、物部守屋と共に兵を率いて大三輪逆を討つべく磐余の池辺を包囲したが、大三輪逆は本拠地の三輪山に逃れた。形勢不利とみた大三輪逆は夜陰に乗じて、炊屋姫の海石榴市宮に保護を求めた。炊屋姫のかねてよりの寵臣として姫の信頼を受けているという自負と殯宮では、穴穂部皇子の毒牙から姫を守った功績が大三輪逆の拠り所であった。

 それに皇位継承に関する故敏達天皇の遺命を書き記した詔勅を炊屋姫へ渡さなければならなかったからである。ところが何時の世にもあることであるが、窮地に陥った人間の足を引っ張って、手柄にしようという輩が現れるものである。大三輪逆の一族の白堤と横山が大三輪逆の居所を物部守屋へ内通したので、物部守屋の兵に捕まり斬り殺された。

 寵臣の大三輪逆を失った炊屋姫は穴穂部皇子と物部守屋に対する恨みを心の中に蓄積した。



2005年03月18日(金) 秦   河 勝 連載31

大三輪逆は敏達天皇が生前皇后の炊屋姫と皇位継承に関して交わした次の会話を先帝の遺命であると心に刻み日記に記録したことを今思い出していたのである。
「朕の崩御後は、皇位継承の古来の慣行に従い兄弟相続を第一原則とし、第二原則としては兄弟が老齢で激務に耐えないとき若しくは幼少のときは先帝の直系の皇子に皇位を継承することにしたい」と敏達天皇が言われた。
「そうしますと次期天皇候補者はお上の異母弟の橘豊日皇子になりますね」と炊屋姫が質問した。
「その通りだ。そなたの同腹の兄上が、天皇になれるのは喜ばしいことであろう」
「お上のご配慮に御礼申し上げ、感謝致します」
「母親の格、本人の年齢からいえばこれが一番納得できる選択だと信じているよ」
「その次はどのようにお考えでしようか」と炊屋姫は自分が腹を痛めた竹田皇子の顔を瞼に描きながら質問した。
「橘豊日皇子がそんなに早く亡くなるとは考えたくないが、もしそのときは、年齢、母たる皇后の格からいって第二原則を適用して押坂彦人大兄皇子が適任であろう」
「第二原則の時、竹田皇子は如何ですか」
「チャンスはあるが押坂彦人大兄皇子のほうが年長者だから第二候補ということになる」
「でも押坂彦人大兄皇子は病弱ですわ」
「押坂彦人大兄皇子が亡くなれば竹田皇子と厩戸皇子が有力だ」
「第一原則適用の時、穴穂部皇子はどうですか」
「橘豊日皇子が長命であれば、穴穂部皇子のほうが押坂彦人大兄皇子よりだいぶ若いからチャンスはあるだろう」
「でもあの皇子は下品だから駄目ですわ」
「そのときには泊瀬部皇子か宅部皇子がいる」
「母親が小姉君ですわ」
「欽明天皇の妃であったから格式では問題がない」
「小姉君の系統が天皇になるのは我慢なりませんわ」
「堅塩姫と小姉君は同腹の姉妹だよ」
「女の姉妹は対抗意識が男より激しいものですわ」
「そういうものかね。それではその時はそなたが先帝の皇后として即位すればよい」
「女が天皇になった先例はありませんよ」
「それでは第三原則を作っておこう。第一原則、第二原則でも選定できないときは先帝の皇后が即位するということだ。このことは、私の遺命として大三輪逆に記録させておこう」



2005年03月17日(木) 秦   河 勝 連載30

穴穂部皇子は異母妹にあたる炊屋姫にかねてより想いをかけていたが、炊屋姫が敏達天皇の后として入内してからは、相聞歌を贈ることもかなわず片思いに終わっていた。殯宮で悲嘆に暮れている炊屋姫にお悔やみを述べ、慰めるとともに長年の思いもぶつけてみたいと考えた穴穂部皇子は使いを出して、弔問の意を伝えようとしたが、大三輪逆の手のものが、粗野な野心家で通っている穴穂部皇子の下心を見抜いて取りつがなかった。使いの者から門前払いの扱いを受けたとの報告を受けた時、皇子のプライドはいたく傷つけられるとともに疑心暗鬼を生じた。自分が皇位継承で破れたのは炊屋姫が反対に廻ったからだという思いにかられ、憎悪が嵩じた。

 用命天皇の次の天皇候補者は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子にいくであろう。そうなると小姉君系の皇子が天皇になるチャンスは薄くなる一方である。ここで一騒動起こして、世の注目を引いておかなくてはならないという思いも心の隅に潜んでいた。殯宮に押し入りやるかたない憤懣をぶちまけるとともに長年の思いを遂げようと行動に移した。

 穴穂部皇子は自ら手兵を率いて殯宮に赴き、門衛の兵士に尋ねた。
「この宮門を守っているのは誰か」
「大三輪逆がお守りしています」と門衛は答えた。
「門を開けよ。私は皇子の穴穂部皇子だ。殯宮の庭で誄(しのびごと)を読み上げ皇太后にはお悔やみを申し上げたい」
「主命により開けられません」
「主とは誰か」
「大三輪逆です」
「臣下のくせに皇子に対して無礼であろう。早く門を開けよ」
「開けられません」
 このような押し問答が七回も繰り返されたが、門は遂に開かれなかった。炊屋姫の寵臣大三輪逆が敏達天皇の遺命を帯して護衛の兵士達に殯宮の門を固めさせたからである。



2005年03月16日(水) 秦   河 勝 連載29

敏達天皇には皇子が何人かおり広姫を母とする押坂彦人大兄皇子(おさかひこひとおひねのみこ)が母の身分も高く、最年長でもあったので次期天皇としては有力な候補であった。しかし、古代の天皇家では皇位は兄弟相続で継承されることが多く、有力な弟がある場合には弟に皇位が譲られるのが普通であった。

 敏達天皇には異母兄弟が多く、堅塩姫を母とする橘豊日皇子と小姉君を母
に持つ穴穂部皇子が皇位を争うことになった。堅塩姫、小姉君はともに蘇我稲目の娘であり欽明天皇の后であると同時に蘇我馬子の姉と妹であった。橘豊日皇子の同母妹にあたる炊屋姫は故敏達天皇の后であった。このような複雑に血筋の絡み合った人脈の中では、皇位の継承は天皇家内部の問題に止まることが出来ず、崇仏・排仏論争とも関係して豪族層も巻き込んだ政治問題となっていた。

 橘豊日皇子は母の身分も高く天皇の兄弟の中では最年長であったし予てよ
り仏教に関心を寄せていたので敏達天皇の后炊屋姫と大臣蘇我馬子との支持を得て対抗馬である穴穂部皇子を蹴落とし磐余の池辺雙槻宮で即位することができた。用命天皇である。

 穴穂部皇子は皇位への希望を絶たれたあと次の機会を待って排仏派の有力者である大連物部守屋に接近し皇位争奪の秘策を練っていた。

 当時天皇が崩御するとその死を悼んで、葬送の時まで遺体を安置する殯宮(もがりのみや)が営まれる習わしであり、敏達天皇の殯宮は広瀬(奈良県北葛城郡)に造営された。后の炊屋姫は殯宮に侍して悲嘆にくれていた。



2005年03月15日(火) 秦   河 勝 連載28

崇仏派の雄、大臣蘇我馬子は584 年(敏達天皇12年)に鹿深臣が百済からもち帰った弥勒石像一体と、佐伯連が百済から将来した仏像一体を二つとも貰い受け、石川の自宅に仏殿を造って安置し法会を営んだ。これと前後して司馬達等の娘嶋(善信尼、出家当時11才であったという)・漢人夜菩の娘豊女(禅蔵尼)・錦織壺の娘石女(恵善尼)の三人を出家させ彼女らに法衣を供し仏像を祭らせた。

このようにして馬子は仏教の受容を積極的に勧めた。

 ところが翌年(585 年)再び疫病が大流行した。排仏派の物部守屋と中臣勝海は疫病が発生したのは馬子が異国の神である仏像を拝んでいるせいであると主張し敏達天皇に仏法の禁止を奏請した。敏達天皇は疫病の蔓延を阻止するには仏法を破断するしかないと判断し、大連物部守屋に仏法の処断を許可した。

 守屋は中臣連磐余等を率いて、大野丘の北の仏塔を切り倒し蘇我馬子が建てた石川の仏殿を焼き、再び仏像を難波の堀へ棄てた。善信尼ら三人の尼は法衣を奪われ、海石榴市に監禁され尻や肩を笞うたれた。このようにして破仏は実行されたが疫病は終焉しなかった。そればかりでなく,仏像を焼き、尼を罰したことが仏の祟りとして現れ、疫病をますます流行らせる原因となったというう風評が流布した。また、敏達天皇が破仏を許可したことも非難の対象となった。そのうえ敏達天皇と蘇我馬子とが相次いで疱瘡に冒され床についた。

 馬子は自分の病は重く、仏の加護を受けなければ治らないと思うので仏法に帰依することを許可願いたいと天皇に懇願した。天皇は譲歩してこれを認めたが馬子一人だけに許すので他の人には認めないという条件がついていた。三人の尼も馬子に返された。

 馬子の病気はまもなく快癒したが天皇はやがて崩御した。馬子の病気回復は仏の恵みであり、天皇の崩御は排仏の祟りであると当時の人々に思われた。こうして他国神の威力が国神を圧倒することが証明された。
大臣の蘇我馬子が卜占せしめたところ、父稲目が祭った他国神(仏)の祟りであることが明らかとなった。その神は12年前に難波の堀に流されて以来、ずっと祭られておらず、いま自己の祭祀を要求したのである。仏の要求をいれて祭るなら国内の災禍は消えるであろうと。



2005年03月14日(月) 秦   河 勝 連載27

 国勝が亡くなって半年ほど経った頃玉依郎女に初潮があった。
玉依郎女の乳母からこの報告を受けた河勝は赤飯を炊かせて玉依郎女が大人になった祝いの宴を一族で営んだ。祝い膳が終わって食器を屋敷の前を流れる桂川で女達が洗っていた。玉依郎女も女達に混じって手伝いをしていた。族長の娘ではあるが大人になった証明として家事の手伝いをしてみせるという一種の通過儀礼であった。その時玉依郎女の目の前を丹塗りの矢が上流から流れてきた。

「あれ、姫様、丹塗りの矢ですよ」と乳母が言った。
「はやくお拾いください」と別の女が言うのも待たず玉依郎女はいち早く矢を右手で掴んでいた。
「この矢は御寝所の入口に突き刺して今宵はお休み下さい」と乳母が教えた。

この丹塗りの矢は夜這って来ていた鴨氏の嫡男に玉依郎女から渡されて鴨一族と秦一族の絆が発生したのである。丹塗りの矢は河勝が密かに手下に命じて河の上流から頃合いを見計らって流させたものであった。



2005年03月13日(日) 秦   河 勝 連載26

「仮に入内がうまくいったとしても、皇子が生まれるかどうか判りませんよ」
「秦一族の場合は女で子を生まなかった者は今まで一人もいなかった。とにかく入内することが、今一族にとって一番大切なことだ」
「父上、玉依郎女を入内させて、皇子が誕生したとしてもその皇子が天皇に必ずなれるという保証はないのですよ」

「それはそうだが、入内できなければ何事も始まらない。経済力では蘇我氏にも物部氏にも決して劣らない。ただ官位だけが不足しているのじゃ」
「父上、官位が欲しいお気持ちは分かりますが、考えてみて下さい。大伴氏や物部氏等の連姓の氏族は、天地開闢以来天皇家の臣下であることが運命づけられていますから、彼らの娘達は皇后や后にはなれなかったでしょう。我等秦氏は帰化人だから土着の豪族蘇我氏とは格が低いと見做されているのですよ。とても玉依郎女が入内出来るとは思えませんがね」

「なに、秦氏の先祖は秦の始皇帝にまでたどりつくのだ。帰化人とはいえ、格からいえば天皇家に匹敵する筈だ。ましてや、地方の一豪族であった蘇我氏よりも由緒ある氏族だと思うよ。だからこそ、秦氏の実力を認めさせるためにも、秦氏から皇后や后を出して、天皇家の外戚にならなければならないと思う。
私の代で実現できなければ子孫の代には是非実現してもらいたい。これは、私の悲願であり、子孫に語り継いで貰いたい一族の目標であると思ってくれ」

「お言葉を返すようですが、私は秦一族は政治には関与しない方が賢明であろうと考えております。政治に関与するとどうしても皇位継承権を目指して血生臭い争いの中に巻き込まれてしまいます。政権争いに負けると一族全員が破滅するか地獄をみることになると思います。葛城氏、平群氏、吉備氏、大伴氏等不幸な例は沢山あるでしょう。むしろ政治には直接関与せず、経済の面で力を蓄え、祭祀を司るほうが、子孫の繁栄に繋がると考えます。そしてお寺を建てて、仏教を広めるのです」

「お前は未だ若いのに闘争を恐れてどうする。農耕、養蚕、機織、醸造、土木とあらゆる分野において、第一の力を蓄えている秦一族が何で政治の面でも第一人者となれないのか。挑戦してみるがよい。私の言いたいのはそういうことだ」

「父上のお考えはよく分かりました。御期待に添えるように努力してみたいと思います」
「それにお前も、深草の大叔父の勧める娘を早く娶って私の目の黒いうちに孫の顔を見せてくれ」
「承知しました」

河勝と国勝親子の間でこのようなやりとりがあってから、数日後に国勝は流
行病に侵されて死亡した。



2005年03月12日(土) 秦   河 勝 連載25

「そりゃ何時頃のことですかのう」と機織りが聞いた。
「もう十年以上も昔のことじゃそうな」と河勝が答えた。
「随分執念深い神様じゃのう」とさきほどの機織りが慨嘆するような口調で言った。
「その仏様とやらいう他国の神様を祭ったから、逆にこの国の神様が妬んで祟りをなされたのではなかろうか。わしはそう考えますがな」と年寄りの百姓が言った。
「どだい、お姿が見えないから神様なので、人間の顔をした神様なんかはいかがわしいと、わしゃ思いますがの」と信心深い籠作りが言った。
「わしら、祟りさえなければ、神様でも仏様でもお祭りしますがな。のう、皆の衆、そうじゃろうが」と壺作りが言った。
「そうじゃ」
「そうじゃ」

 秦河勝は父の名代として用事を済ませたのでその報告のため、病床に父を見舞った。
「父上、只今帰りました。蘇我馬子大臣には、父上の贈り物をお渡しし、お願いもしてきましたが、大臣はただ聞いておくといわれただけで、特にどうしろという御指示はありませんでした」
「そうか。玉依郎女にも、そろそろ月のものがめぐってこよう。それまでに入内の話が決まればと考えているのだが」と国勝は病床から河勝の報告を聞きながら言った。
「丹塗りの矢が流れてくるまでに決まればよいですね」と河勝は松尾神社で受けた先祖霊の託宣のことを思いだしながら言った。
「そのことよ。わしも、最近鴨氏の若い衆が夜、通ってきては、機織女達にちょっかいをかけているので、変な虫が玉依郎女につかなければよいがと心配しているところなのだ」と国勝が言った。

「鴨氏の嫡男が最近、夜這ってきているそうですね。玉依郎女が狙われているかもしれませんよ。私はあてにならない入内の機会を待っているよりも、鴨氏の嫡男を婿にして、賀茂神社の祭祀権を握ったほうが将来得策だと思いますがね。そうすれば、葛野と北山背を支配していくのに良い条件が整うと思うのです。仏教がこれから主流になるでしょう。しかし内国神を疎かにすることはできません。 我々氏族には先祖霊がついており、氏神として祭ってきたのです。秦一族の氏神は深草に稲荷神社、葛野に蚕の社、松尾に松尾神社として祭られているのですから、今、鴨氏と縁戚関係ができれば、山背国全体を覆う祭祀を主催できることになるわけです」
「それはそうかもしれないが、やはり天皇の后を狙うべきだと思う。それだけの力は養ってある筈だから」と国勝は娘入内の希望をすてきれない。



2005年03月11日(金) 秦   河 勝 連載24

 583 年(敏達天皇11年)都に疫病が蔓延した。秦河勝は、23才であった。
この年の夏、父国勝が体調を崩して床についたので、河勝は父国勝の名代として大和の要人のところへ貢物を届けて、葛野の里へ帰ってくると、村人達が集まって噂をしている。

「深草の里では病が流行って、沢山人が死んだそうじゃ。熱が出て腹を下し物が食べられなくなるそうじゃ。この里にもやってくるかもしれんぞ」
「水を飲むと腹をこわして下痢が止まらなくなるそうじゃ。熱くても水は沸かしてお湯にして飲んだほうがよいそうじゃ」
「何でも都では人間の顔をした神様をお祭りしなかったため祟りで、病が流行りだしたということじゃ。若殿、都の様子はどうですか」と中年の百姓の男が河勝に聞いてきた。

「腹が痛くなり、下痢をする病が流行っているのは確かじゃ。人も沢山死んでいる」と河勝は道端に転がっていた乞食の死骸を思いだしながら言った。
「人間の顔をした神様なんてものがあるのじゃろうか。神様のお姿はわしらの目には見えないものじゃと思うとりましたがのう」
「私は子供の頃、父に連れられて蘇我稲目大臣の向原のお寺で初めて仏様を拝ませて戴いたが人間の顔をしておられた。それは清々しいお顔じゃったという印象をうけたものだが、この度も拝ませて戴いた。心が洗われるような気持になったよ」とその時の光景を思いだしながら河勝は言った。
「わしらもどげなお姿なのか見てみたいものじゃのう」
「将来、私も仏様を迎えてお寺を建てたいと思っているよ」と河勝が言った。
「その時には是非とも拝ませて下さい」
「いいとも」
「海の向うから渡ってこられた神様は御利益の多い神様のようじゃな」
「御利益が多いからこそ粗末に扱うと祟りが大きいそうじゃ」
「祟られるようなことを誰がしたのじゃろうか。若殿は遠出されることが多いから何か知っておられるじゃろう。教えてくださらんか」と機織りの男が言った。

「都で聞いた噂では大連の物部守屋様が蘇我氏の屋敷を襲って仏様をお祭りしてある仏殿を焼き払い、仏像を堀に流されたのでその祟りがでたということじゃ」と河勝は最近仕入れた情報を公開した。



2005年03月10日(木) 秦   河 勝 連載23

 額田部皇女が13歳のとき聞かされた姉磐隈皇女の受難の物語は本能的に彼等を毛嫌いさせた。

「伊勢大神宮にお仕えなさっている磐隈皇女がお役を解かれたそうですね。お気の毒なことです」と侍女が言った。
「まあ、姉君が。何故なの」
「神に仕える身でありながら、人間と通じ、汚れたからです」
「あの潔癖好きな姉君が男と通じるなんて信じられないわ。どうしてなの」
「皇女様もそう思われるでしょう。私達も口惜しいですわ。ある皇子から何度も歌を贈られたけれど磐隈皇女は神に仕える身であることをよく弁えておられるので、無視し続けられたそうです」
「巫女としては当然の事でしよう」
「返歌のないのを逆恨みされて御寝所に忍びこまれて無理やり犯されたということです」
「一体相手は誰ですの」
「茨城皇子ということです」
「茨城皇子といえば私にも歌を贈ってきたことがありますわ」
「皇女様、あの兄弟は程度が悪いから気をお付けになってくださいませよ」
「それで茨城皇子はどうなりました」
「お構いなしです」
「磐隈皇女はどうなさいましたか」
「臣下の大伴氏へ下げ渡されました」

 額田部皇女が15歳になったとき、茨城皇子からの相聞歌が届いたが姉磐隈皇女の受難の物語を思い出しこれを無視した。神に仕える巫女を犯すような粗野な行為が許せなかったので、返歌を贈ろうという気すら起きなかった。やがて、茨城皇子の弟の穴穂部皇子からも相聞歌が届けられるようになったが、これも無視し続けた。小姉君を母とする皇子達兄弟はいずれも粗野で向こう意気ばかり強く品位にかけていた。

それにひきかえ淳中倉太珠敷皇子は母が宣化天皇の二女であり立ち居振る舞いには洗練されたところがあり、文章をよくし史学を愛するインテリであったので豊御食炊屋姫の好みにあっていた。欽明天皇が崩御されると、淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となられた。皇后を立てられることもなく、先帝の皇后石姫を敬って皇大后と称していたので、炊屋姫は自分が皇后になれるかもしれないと、密かに胸をときめかせていたが、息長真手王の女広姫が皇后と決まったと聴かされてがっかりした。しかしながら間もなく、広姫が一男二女を残して薨去し、炊屋姫が皇后に立てられたときには炊屋姫の自尊心は大いに満足させられた。天皇そのものではないが、皇后という天皇に最も近い立場になれて、幼少の頃の夢の一部がかなえられたからである。



2005年03月09日(水) 秦   河 勝 連載22

蘇我稲目の死去を狙って決行された物部守屋らの排仏運動もひとたび火のついた崇仏派の求法の情熱の火を消すことはできなかった。帰化人達は崇仏の念厚く蘇我氏を支援した。特に飛鳥に本拠を置く鞍作氏(司馬氏)は積極的に蘇我氏を支援した。

 この年病床にあった欽明天皇は、太子の淳中倉太珠敷皇子(ぬなくらふとたましきのみこ)を枕頭に呼び、任那の復興を託して、翌年四月、金刺宮で崩去した。

淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となった。欽明天皇と宣化天皇の皇女石姫との間に生まれた第二皇子であった。

豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は18才の時敏達天皇の皇后となった。幼少の時は額田部皇女と呼ばれ、才気煥発の人でその質問には侍女達もしばしばたじたじとなることが多かった。

「どうして女は天皇になれないのじゃ」
「昔々からのしきたりでございます」
「何故そのようなしきたりができたのじゃ」
「皇祖の神武天皇以来,天皇は皇子が継承することになっているのでございます」
「私は天皇になりたい」
「皇女様が今度お生まれになるときは皇子としてお生まれになることですね。天皇にもなれますよ」と乳母達は自己顕示欲の強い姫を宥めるのが精一杯であった。

 長じてからは容姿端麗で、立ち居振る舞いにはメリハリがきいており、数多い同年代の皇子皇女達の中では一際目立つ存在であつた。母は蘇我大臣稲目の娘堅塩媛で欽明天皇との間に七男六女をもうけた子福者であった。他にも異母兄弟姉妹が大勢いたが、小姉君を母とする茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の兄弟達とはうまがあわなかった。穴穂部間人皇女の美貌は許しがたかったが、控えめな性格は自分の性格と裏腹であるため絶好のいじめの対象であった。



2005年03月08日(火) 秦   河 勝 連載21

 570 年(欽明天皇31年)三月に蘇我稲目が死に、稲目の後を継いで馬子が大臣に就任した。稲目の死とあい前後して尾輿も死んだ。後を継いで大連となった物部守屋は予てから崇仏派の祭る仏像を破棄してやろうと機会を窺っていたが、稲目の死亡がチャンスとばかり蘇我氏の向原の家を襲って仏殿を焼き、聖明王から献上されて祭られていた仏像を持ち帰ると自宅近くの難波の堀江に流した。

人間が被る災禍や疫病の穢れは、禊や祓によって清められるという日本古来の神道の考え方による行動であった。

 蘇我稲目の逝去に先立つ570 年正月、八才になった秦河勝は父に連れられ蘇我稲目の向原の自宅を年賀に訪れ、仏像を拝まして貰った。予てより仏教に関心を示していた父秦国勝が、年賀にことよせて稲目の崇拝する仏像を拝観させて貰おうと、秦大津父を通じて稲目に渡りをつけておいたのである。河勝にとっては父と一緒の初の大和路への旅であった。秦氏の一族は大和にも住んでおり、父が出仕するときに利用する館も大和に用意されていた。

河勝が初めて仏像を拝観したときの気持ちは荘厳なものであり、人間の顔をした外国の神様はやさしく微笑んでいた。

「ありがたい仏様だ」と国勝は魂を奪われ、恍惚境に彷徨った。
「私も仏像をお祭りできるようになりたい」と河勝は祈るのであった。
「河勝よ仏像を将来お迎えすることができたらお寺を建てよう」と国勝が言った。
「是非そうしましょう」河勝は将来仏像を我が手で祭ることを夢みながら頷いた。



2005年03月07日(月) 秦   河 勝 連載20

 蘇我稲目は天皇のこの言葉を聞くと跪いて仏像と教典を恭しく拝受し、お礼をいった。
「必ず仏法がこの国に根づくと信じていますが、それまでは私がお預かりしお守り致しましょう」

贈られた仏像は、悉達太子の半跏思惟像であった。蘇我稲目は取り敢えず豊浦にある小墾田の家を清めてその仏像を安置したが、やがて向原の家を寺としてこれを祭った。ここに於いて日本における最初の仏教帰依者が誕生したのである。

彼が仏像礼拝を始めてから一年程経った頃、疫病が流行して多数の死者が出た。崇仏派攻撃の口実を捜していた物部尾輿と中臣鎌子はこれにとびついた。
疫病流行の原因は、蘇我稲目が他国神である仏像を祭ったからだというのである。これに対して蘇我稲目は、疫病流行の原因は他国神拒否による無礼な措置が仏の祟りとして現れたのだと主張した。疫病がはやったり、飢饉がおきたりするとその度に原因をめぐって崇仏派と排仏派が論争を繰り返した。



2005年03月06日(日) 秦   河 勝 連載19

「私は今までこのような尊い妙法を聞いたことがなかつた。すぐにでも入信したい気持ちだ。しかし大和朝廷の天皇としては影響するところが多いの で、採否をいますぐ決定し返答することは差し控えたいと思う」

次いで、天皇は聖明王の使者接待のために集まってきている群臣達に下問した。
「諸卿に聞くが西の国から伝わった端麗な美を備えたこの仏像を祀るべきかどうか意見を述べて欲しい」

「おそれながら、天皇が天下を大王として統治していらっしゃるのは、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬お祀りなさっているからでございます。このたび仮初めにも蛮神を拝むことになると、必ず国つ神の怒りを受ける事になるでしょう」と中臣鎌子が他国神を祭ることに反発し、物部尾輿も拒否を表明した。

 これに対し蘇我稲目は崇仏を主張して言った。

「西の国では諸国が皆仏を礼拝しています。豊秋の日本だけがなんで拝まないで済まされましょうか。大いに礼拝すべきです」

 天皇は三種の神器を奉安し、天神地祇を司祭する立場にあったから中臣鎌子や物部尾輿の意見はよく理解できた。一方では進取の気にも富んでいたから、蘇我稲目の意見にも心を引かれた。

 しかしここでは自分の意思を明確に表示することは賢明でないと判断し、目先の効く蘇我の稲目に仏を預け自分の態度を明確にしないほうが得策で
あると考え次のように言った。

「それでは願い人の蘇我稲目に仏と教典を預けて、試しに礼拝させてみよう」



2005年03月05日(土) 秦   河 勝 連載18

 他方、臣姓の氏族は本貫の地名を氏の名とする在地性の強い集団である。大和朝廷が統一王朝を確立するまではこれに対抗するだけの力を持っていた。彼らは帰順した服属集団であり葛城、平群、巨勢、和珥、蘇我等の氏族である。    

 中でも蘇我氏は古くから帰化人の東漢氏や西文氏らとの接触を通じて、大陸の事情にも明るく大陸文化の優越性を認めていたから仏教の受容についても積極的な姿勢を示していた。そこへ仏教が仏像という具体的な形をもったものとして外国から入ってきたのだからその受容をめぐる争いは崇仏派と排仏派の対立を産み出し、皇位継承問題と絡んで壮絶を究めるものとなった。

一般民衆にとっては神であろうが仏であろうが祟りさえなければよかった。お加護があればそちらのほうがよかった。

しかし、権力の中枢にあるものにとっては崇仏派に属するか、排仏派に属するかは将来の生き残りをかけた死活の問題であった。

538 年に百済の聖明王から欽明天皇に仏像と教典が献上された。聖明王は使者を遣わして、次のように言上した。

「この法は諸法の中で最も優れております。見かけは解りにくく、入り難くて、かの賢人周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、この 仏像を拝みさえすれば無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を生じることができるのです。例えば、人が随意宝珠(物事が思うがままになる宝珠)を抱いて、何でも思い通りになるようにするようなものです。この法は遠く天竺から三韓に至るまで、教えに従う人々に尊敬されています。それ故百済の王である私は侍臣を遣わして、御地の朝廷にこの有り難い仏像と経論を伝え国中に流布させて頂き、お釈迦さまが願われたことを実現したいと思うのでございます」

これを聞き天皇は欣喜雀躍して百済の使者に言った。



2005年03月04日(金) 秦   河 勝 連載17 

国内問題としてもう一つの大きな問題は仏教の受容をめぐって、崇仏派の大臣蘇我氏と排仏派の大連物部氏とが対立を深めつつあった事である。

 当時の大和朝廷では皇祖神(天照大神)と地主神(倭大国魂神)二柱の神を祭っており、奉安されている三種の神器の八咫鏡・八尺に曲玉・草薙剣 は統治権の正当な継承者即ち天皇の地位と権威の象徴であった。国神 (くにつかみ)の司祭者としての天皇家が他国神(あだしくにのかみ)である仏教をただちに受容することは天皇家の権威にかかわることであり、容易に決断出来る問題ではなかった。万物には神が宿るという考え方は皇室を始め一般民衆にいたるまで素直に信じられていた。

農耕の豊かな収穫は神の恩恵であった。穀物の霊も神と仰がれた。山の神、水の神、河の神、森の神、大地の神、神の憑り代としての樹木や岩石などが神として崇拝された。言葉にも霊が宿るという言霊思想も流布していた。神々は各氏族集団の祭祀の対象であり、守護神としての氏神になるものもあった。

 そもそも、日本の氏族には連姓を持つものと臣姓をもつものがあった。連姓は神話の世界である天上の高天原において、中臣、忌部、猿女、鏡作、玉祖という各氏族の祖先が天皇家の伴(とも、隷属者)として発生した。これらの伴は五伴緒(いつとものお)と呼ばれた。天孫降臨のとき護衛をつとめた大伴氏や、神武天皇にいちはやく帰順した物部氏は神代時代から天皇家の家臣であると位置づけられていた。

 五伴緒の鏡作、玉祖の二氏は祭具の製作に携わった。    

 中臣、忌部、猿女の三氏は司祭者であり、天皇家の伝統と権威の源泉である神宝を奉祭することで天皇に仕えた。是等の氏族は職掌柄他国神を受容することはできなかった。



2005年03月03日(木) 秦   河 勝 連載16

 聖徳太子の幼名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたがこれは母親の穴穂部間人皇女が、池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の庭を散歩 中、にわかに産気づき厩戸の前で出産したので厩戸皇子と名付けられたという。

 穴穂部間人皇女の母は、堅塩姫の同母妹の小姉君(こあねぎみ)であり、ともに欽明天皇の后である。
聖徳太子の生まれた574 年(敏達天皇3年)といえば大和朝廷は内外とも
に、多くの難問を抱えていた。

 対外的には562 年(欽明天皇23年 この年秦河勝誕生)に新羅に奪い取
られた任那の奪回、百済の軍事的救援と百済や新羅の大和朝廷に対する朝貢
体制の維持強化が、最大の課題であった。

 国内的には大和朝廷内における天皇専制の確立であった。継体天皇の御代に中央権力の強化策として、政治組織は氏姓制から官司制へと、改革され ていたが、まだ天皇専制が確立されていたとはいえなかった。敏達天皇の朝廷には二つの中心勢力が拮抗していた。一つは天皇、一つは官司制の指導者蘇我氏である。

 天皇の意図する方向は天皇専制であるが、蘇我氏との間で幾重にも絡み合った姻戚関係はこれに制肘を加えていたのである。蘇我氏は天皇を上にい
ただきながら、朝廷のありかたとしては、豪族連合政権の性格を強く打ち出し、自分が連合政権の指導者になろうとしていた。連合政権を 固めるため波多、平群、紀、巨勢、葛城等の大和朝廷を構成する主要豪族は、自分と同じ祖先を持つ同族であるという系譜を作り上げようとさえした。そして帰化系氏族を配下に置き、官司制を掌握することにより連合政府の指導者として実権を握り天皇を飾りものにしようと画策した。その最たるものが蘇我稲目が欽明天皇に対してとった外戚政策である。即ち自分の娘である堅塩媛・小姉君という同腹の姉妹を欽明天皇の妃として送りこんだのである。



2005年03月02日(水) 秦   河 勝 連載15

 秦河勝と聖徳太子との関わり合いは河勝が12才になったときから始まる。
この年574 年(敏達天皇三年)聖徳太子が、橘豊日皇子(たちばなとよひのみこ・用明天皇)を父とし、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)を母として誕生した。

「若様、そろそろ昼餉の時間です。あの桜の木の下で一休みしましょう」と馬で大原近くまで遠乗りをした河勝に供の下僕が言った。今日は河勝の十二才の誕生日を記念するために乗馬の訓練も兼ねてここまでやってきたのである。

「今日は天気もいいし、陽気もよくてよかったね。腹も減ったしそうしよう」
と河勝は馬から下りて手綱を桜の木の枝に結んだ。

「こんなに遠くまで来たのでさぞ腹もすいたでしょう。しっかり食べてください」下僕は竹の皮に包んだ握り飯を差しだしながら勧めた。

「ああ、美味しい。握り飯がこんなに美味しいと感じたのは今日が初めてだ」
と河勝は下僕の差し出す竹の筒に入った水を飲みながら言った。

「若様が、こんなに遠くまで出掛けられたのは今日が初めてなので、きっとお腹がすいたのでしょう。お腹のすいたときは何を食べても美味しく感じるものですよ」

「お米の神様に感謝しなければ」そう言うとと河勝は苗代にすくすくと伸びている緑の稲の苗に向かって手を合わせた。暫くお祈りをしていた河勝の顔つきが変わった。
 目はつりあがり口を尖らして、嗄れた声で喋りだした。憑依現象が始まったのである。

「汝に告げる。都で世継ぎの皇子が誕生された。汝はこの皇子に臣従すべし」

「ああ、若様に神様が憑いた」と下僕は地面にはいつくばり、頭を地面にすりつけて河勝を拝み出した。やがて、憑依現象は収まったが、河勝には臣従すべしとお告げのあった世継ぎの皇子の名前は判らなかった。しかし,河勝の心はまだ見ぬ主の姿形をいろいろ想像しては満たされた気持ちになるのであった。



2005年03月01日(火) 秦   河 勝 連載14

 この事件があってから河勝が神前で精神を集中して祈祷をすると、憑依現象がおきることがときどき見られるようになった。

河勝は自分に霊能者としての超能力があることを自覚すると、一族の支配統制のために最大限に活用した。

祭りと政は原始社会においては一体のものであり、分離されることなく祭政一致で統治されてきた。裁判はすべて神前裁判であり、処罰処刑も神意の発現としておこなわれた。

秦河勝の時代には大和朝廷の基盤も確立し、祭祀と政治は分離されていた。分離されていたとはいえ、その所管は何れも天皇家であった。

政治は天皇を中心とする大和朝廷がこれを司り、祭祀は天皇家が三種の神器を奉じて皇祖神を祭り、天神地祇を祭ることであった。但し、この頃になると朝廷内部の分業が進んだため、連の姓を持つ豪族に宗教的職分や特高警察的な職分はまかされていった。

前者をまかされたのが忌部氏や中臣氏であり、後者を任されたのが物部氏であった。氏族は天皇の臣下であり、各氏族固有の氏神を祭った。河勝に霊能者としての超能力が備わっており、彼が精神を集中して超能力を発揮するときは必ず憑依現象が発生したので、部民達は彼を一族の長として畏敬の念をもって仰いでいた。

秦人即ち秦部は大和、山城、河内、摂津、和泉、近江、美濃、尾張、若狭、播磨、紀伊、丹波、備前、讃岐 伊予、阿波、豊前と広範囲にわたって住んでいた。特に山城盆地にははやくから住んでおり大きな勢力を持つようになっていた。

日本書紀によれば欽明天皇元年に秦人、漢人ら諸蕃の帰化したものを国郡にそれぞれ定住させて戸籍を編んだところ秦人の戸数は7,513戸にのぼったと記されている。この頃秦河勝の大叔父大蔵掾秦大津父は秦伴造に任命されている。

【楽天トラベル】


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加