前潟都窪の日記

2005年04月11日(月) 秦   川 勝 連載54

 大化の改新の始まる直前の644 年東国の富士川のほとりで虫を祭る新興宗教が流行の兆しを見せていた。教祖は大生部多といい、祭神は常世の神と称する虫であった。その虫は長さ四寸あまりで親指ぐらいの太さで緑色に黒い
斑があり蚕によく似ていた。教祖の大生部多は人の心を捉えるのがうまく、常世の神を祭れば富と長寿が得られると説いて回っていた。「常世の神に捧げるお布施の量が多ければ多い程、貧しい人は富を得、老人は若返る」という神のお告げがあったと巫女達にしゃべらせていた。この言葉に乗せられて村里の善男、善女達は、家財を投げ出し、酒や野菜や馬、牛、羊、豚、犬、鶏等の家畜を道端に並べて「新しい富が入ってきたぞ」と連呼しては歌い踊りながら屯宅の方へ誘導されていくのである。群衆は煽動されているのもわからずに、恍惚として屯宅を襲い、手当たり次第に米や布を持ち出す暴徒の集団になっていった。大生部多が巧みに民衆の心をつかみ、唆して仕組んだ朝廷に対する反逆であった。規模が次第次第に大きくなっていくが首謀者の大生部多は巧みに隠れて指令を出しているので騒動は収まらず、東国の国造の手では鎮圧することができなかった。
「利益誘導して人心を惑わせるようなものは神でも仏でもない。大生部多は世の秩序を破壊し人心を惑わす邪教の元凶であるから成敗しなければならない。それが神祇を司り、仏教を崇拝する秦一族の務めであろう。私が世の中にお返しする最後のお務めとなろう」と宣言して秦河勝は精鋭の手勢を連れて出動した。秦河勝が念力をかけて透視すると大生部多は富士山麓の溶岩の中を迷走する風穴の中に潜んでいることが分かった。大生部多は秦河勝の手の者に捕まり成敗された。
 人々は「太秦は神とも神と聞こえくる常世の神を打ちき罰ますも」という歌を作って秦河勝の功績を讃えた。歌の意味は太秦の河勝は神の中の神という評判が聞こえてくるよ。常世の神といいふらした者を打ち殺したのだからということである。
このとき河勝は82才の高齢であった。精力を使い果たしたのか凱旋する と病床についた。
645 年6 月11日に秦河勝は「明日、大変なことが起きる」と言い残して病没した。奇しくも蘇我入鹿が大極殿で中大兄皇子らに暗殺される日の前日であった。

京福電鉄嵐山線帷子ノ辻駅から徒歩で十分程の所に「蛇塚古墳」と呼ばれる横穴式の前方後円墳が残されているがこれは秦河勝の墓とみられている。巨石を積み上げた幅4米、高さ5米、奥行き6米の石室が残されている。これは蘇我馬子の桃原墓に擬されている奈良の石舞台と同年代の7世紀頃に作られた古墳であり、その規模の大きさから秦氏の実力の程が窺われる。蛇塚古墳の東方にも天塚古墳が残されており、秦氏一族の古墳とみられている。
また京福電鉄嵐山線蚕の社駅から北へ徒歩5分のところに「木島坐天照御魂神社」があるが俗に「蚕の社」で通っている神社である。本殿東側にある養蚕神社は生糸を扱う人の信仰が厚く、秦氏の本拠地に鎮座していることは養蚕と機織りの技術に秀でた秦氏になんらかの形であやかろうとして建立されたものであろう。 (了)

明日からクロアチアとスロベニアへ旅行のため暫くの間、書き込みは休止します。

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2005年04月10日(日) 秦   川 勝 連載53

628 年推古天皇は後継者を決めないまま75才で崩御した。36年間に及ぶ治世であった。推古天皇の遺詔をめぐって始まった皇位継承の争いは、敏達天皇崩御後の争いと同じような性格のものであるとしか秦河勝の目には映らなかった。
河勝は皇位継承をめぐる争いがおきるのは天皇が生前、勇気をもって皇太子を指名しておかないことに最大の原因があると考えていた。またしても推古天皇は皇太子を決定しないで争いの種を残したまま他界してしまわれた。

河勝は推古天皇が即位したとき聖徳太子に「美しいことは罪悪です」と言ったことを思い出しながら、このドグマは正しかったことが証明されたと思った。

皇位は聖徳太子の長子の山背大兄皇子と押坂彦人太子の子の田村皇子を支 持する二派に別れて争われることになった。山背大兄皇子は用明天皇の孫で
あり、田村皇子は敏達天皇の孫で年はいずれも同年の36才なので血統の良さでも年齢の点でも甲乙つけがたかった。この頃馬子は既に世になく蝦夷 が大臣になっていた。蝦夷の叔父境部臣摩理勢が山背大兄皇子を支持して運動を始めたので、これが刺激となって蝦夷は境部臣摩理勢を強引に攻め殺して田村皇子を即位させた。舒明天皇である。

舒明天皇は13年程の治世ののち皇太子を定めないまま641 年崩御した。後継天皇の候補者には舒明天皇の皇子として古人皇子と中大兄皇子の二人がいた。そして舒明天皇と皇位を争った聖徳太子の皇子山背大兄皇子も健在で有力候補に数えられていた。三者三竦みの状態にあり、群臣会議では天皇を決めることができず、舒明天皇の皇后宝皇女が皇位を継いで641 年皇極天皇となった。推古天皇が即位したときと全く同じパターンの女帝の出現であった。

蘇我蝦夷は643 年病気と称して参内せず大臣のしるしの紫の冠を天皇の許可なく入鹿に授けて大臣の地位を与えた。入鹿の専横がはじまったのであ る。その手始めに入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇太子にするためには有力な対立候補である山背大兄皇子を倒すことが必要だと考えて、巨勢臣徳太・土師娑婆連を斑鳩に送り込んで山背大兄皇子の宮を不意打ちさせた。入鹿側の攻撃に対して奴の三成をはじめ舎人数十人が防戦した。攻撃側の土師娑婆連を討ち取り攻撃を一時中止させるまで善戦したが、城砦ではないので防ぎきれず、山背大兄皇子は隙をみて妃や側近を連れて生駒山に逃れた。
「ひとまず、深草の屯倉まで落ち延び、そこから馬を乗り継いで東国へゆき、領地の乳部を根拠地にして兵を集めて反撃すれば必ず勝つことができます」と三輪文屋君が再挙を勧めた。
「お前の言うように場所を選んで挙兵すれば、あるいは勝つこともできるだろう。深草へいけば秦河勝の一族もいるし、山背から兵を集めて助力してくれるであろうが、戦場になった場所の無辜の民に苦しみを与えることになる。それは私の信条に反することである。私は潔くこの身を逆賊共に与えることにしたい」と山背大兄皇子は言って山から下り、再び斑鳩寺へ入って子弟、妃ともども従容として自決の場へ臨んだ。

 太秦にひきこもって隠遁生活を送る河勝のもとへも都の惨事は伝わった。
秦河勝は山背大兄皇子一族の自決の様子を伝え聞いて、「捨命と捨身とは皆これ死なり」という聖徳太子の思想を悟得し実践したのは山背大兄皇子であり一族が従容として死に赴いたのは菩薩行の実践であったのかと今、初めて理解し粛然とした気持ちになるのであった。

 秦河勝は自らの人生を顧みて、政治の表舞台に飛び出したいとはやる心を戒めて常に裏方に徹し奢ることなく、経済力の向上に力を注いできたことが秦一族の存続繁栄にとって如何に賢明な選択であったかを思うのであった。思えば父の国勝は蘇我氏の真似をして娘を入内させて天皇の外戚として権力を握ろうと夢みていたことがあったが、自分は必ずしも気乗りがしなかった。政治に手をだしたくないという気持ちが本能的に強かった。崇竣天皇から唆されたときが一番危なかった。もしあの時、蘇我氏と対峙していたら今頃は山背大兄皇子一家のような運命になっていたであろう。以後秦河勝は努めて政治や軍事の表舞台にでることは避けて仏法の興隆にこそ精を出そうと決心したのである。

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2005年04月09日(土) 秦   河 勝 連載52

日本書紀は万民の嘆き悲しむ様子を次のように記録している。(講談社学
術文庫宇治谷孟現代語訳 日本書紀下巻より抜粋)
「天下の人民は老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも
分からぬ程であった。若い者は慈父慈母を失ったように悲しみ、泣き叫ぶ声
は巷にあふれた。農夫は耕すことを休み、稲つく女は杵音もさせなかった。
皆が言った。(日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰
を頼みにしたらよいのだろう)と」 翌年の秋7月に新羅と百済は大使とし
てそれぞれ奈末智洗爾、達率奈末智を遣わし共に朝貢し、泣き弥勒の仏像一
体及び金塔と舎利を献上した。仏像は秦河勝が聖徳太子の菩提を弔うためひ
たすら祈りを捧げている葛野の蜂岡寺へ安置された。また金塔と舎利は四天
王寺へ納められた。

 秦河勝は蜂岡寺で聖徳太子の菩提を弔う瞑想の日々を送りながら聖徳太子
の事跡を回想する。既に60才になっており頭にはいつしか白いものをのせ
ていた。
「聖徳太子の生涯は蘇我氏との戦いであったと一言で総括できるのではない
か。蘇我一族の血が流れる父母を持ちながらなお天皇家の一員として、天皇
家の絶対的権威を高めるために蘇我一族の叔父、兄弟達と対峙していかなけ
ればならない宿命を心の中ではどのように消化しておられたのであろうか。

蘇我馬子は老いたとはいえ、まだその勢力は衰えていない。彼の地位は冠位を超越しており、官司制の統率者として、依然として官僚達を牛耳っているし、豪族連合の上に張りめぐらせた権力基盤は聖徳太子の努力によっても殆ど微動だにしていない。しかし、この20年程の間に何かが変わってきてい
る。太子は対隋外交に積極的に取り組まれた。天皇から隋国皇帝にあてた国
書は対等な立場に立った文面であり、隋国皇帝の怒りを買ったとは言うもの
の、大国の隋から日本の天皇宛に使者を出させるという快挙をなし遂げられ
た。官吏達は、さすが太子様だ、天皇様だとその力量を評価し有り難がるよ
うになってきている。その天皇の有り難さを思い知らせるようにと天皇の歴
史や国の歴史、臣・連以下の諸氏族の歴史の編纂までおやりになった。この
歴史の編集には蘇我馬子も参加させたが歴史の古さとなると現在権勢を誇る
蘇我一族といえども天皇一家には及ばない。蘇我一族と対抗するため、自分
の先祖は昔、天皇の皇子であったとか御落胤であるといいたてるものまで現
れてきている。それだけ天皇一家の権威が高まってきた証拠ともいえるのだ
ろう。そういえば、仏教興隆についても数えれば、四天王寺、斑鳩寺、中宮
寺、橘寺、池後寺など多くのお寺を建立されているので、その信心深さから
いけば蘇我氏を凌駕するまでになったのではなかろうか。排仏だ崇仏だと騒
いでいた頃は蘇我氏が排仏派の妨害をうけながらも仏教をこの国に広める中
心的役割を果してきた。仏教への最初の帰依者は蘇我氏であったということ
を人々は忘れて、仏教興隆と言えば聖徳太子とイメージするまでになってき
ているではないか。こう考えてくると現実政治面・物質面では朝廷内におけ
る蘇我氏の優位は動かし難いが少なくとも精神面での天皇の権威は蘇我氏を
上回るようになってきている。このことが、蘇我氏のあせりとなって遺児で
ある山背大兄皇子一家に災いを及ぼすことにならなければいいのだが・・・

馬子は老齢だから円くなってきており、もうあくどいことはしないだろう。
蝦夷は比較的公平・慎重な性格で温厚な人柄だといわれているが、まだまだ油断はできない。その子の入鹿は若いのに傲慢・勝気で自尊心が人一倍強いようだから特に警戒が必要だ。そうだこのことも祈念しておかなければならないだろう。それにしても、推古天皇はもう70才が近い。随分年をとられ
たものだ。自分が腹を痛めた竹田皇子に皇位を譲りたいばかりに、自ら天皇
になるという策謀をたてて、うまくいくようにみえたが、頼みとする竹田皇
子はあえなく病で倒れてしまった。ご自分自身こんなに長生きするとは思わ
れなかったのだろうが、いままた聖徳太子にも先立たれてしまわれた。これ
が人間の業というものであろうか。推古天皇が御健在のうちに早く、山背大
兄皇子を皇太子に指名して戴くよう運動しなければなるまい。これが聖徳太
子の菩提を弔う最善の方法かもしれない」



2005年04月08日(金) 秦   河 勝 連載51

聖徳太子の生母穴穂部間人皇后が621 年の暮れに崩御された。その翌月の正月に聖徳太子は母の後を追うかのように悪性の癌にかかって床につ いた。知らせをうけた秦河勝は病床に太子を見舞った。
「太子の御容態は如何ですか。お見舞い申し上げます」と太子の枕元で看病
している妃の一人である膳大郎女に秦河勝は声をかけた。
「これは秦河勝殿。太子の容態は良く有りません。看病していても居たたま
れない程のお苦しみようです」と膳大郎女は看病で窶れた顔で秦河勝に訴え
た。
「それはいけませんな。私に代われるものなら替わって差し上げたいもので
す」
「私もそう思っているのですが、こればかりはままなりません。太子のお苦
しみようを見るのが切なくて」と目に涙を湛えている。
「どうでしょうか。太子と等身大の釈迦像を造って差し上げて仏の功徳をお
願いしては」と秦河勝が提案した。
「そうだ、よい所に気がつかれた。早速発願し造仏にとりかかりましょう」
と見舞いのために枕辺に侍っていた膳大郎女の兄が賛意を表した。
「それがいい。もしもこの病が現世で治らないものであるならば、早く成仏
して御霊が極楽浄土に安住できますようにとの願いを込めて差し上げましょ
う」と山背大兄皇子はじめ太子ゆかりの皇子、王妃達も賛同した。
 しかしながらその甲斐もなく寝ずの看病をしていた膳大郎女も病に倒れ、
太子と枕を並べて病臥することになってしまった。一族、群臣の願いも虚し
く膳大郎女が2月21日に崩御し、後を追うように翌日、聖徳太子も薨去
した。大和朝廷における天皇の権威を高めることに挺身し、遂に天皇になる
ことができず皇太子のままで生涯を終えた49才の人生であった。

 秦河勝の落胆は大きかった。信仰上の先達であり、天皇となり理想を実現
する日を夢見て後ろ楯となって支えてきた太子のいないこの世は生きていく
に甲斐のない世界であった。河勝は蜂岡寺に籠もり聖徳太子から授かった弥
勒菩薩の像と対峙してひたすらに太子の御霊が西方の極楽浄土へ昇華安住さ
れるようにと祈るのであった。



2005年04月07日(木) 秦   河 勝 連載50

「小野妹子が国書を失ったのは確かに罪ではあるが、隋国の使者が多数滞在している折りでもあり、軽々しく罰することはできない。使者達への聞こえがよくない」と聖徳太子は仰った。妹子達遣隋使一行の苦労を理解した上で秦河勝の意見を採り入れた処置であった。
隋の使者達は難波で一月半も待たされたのち、8月3日に大和へ入ることになり、飾り馬75頭に迎えられて大和へ入り、海石榴市に到着した。出迎え
て挨拶したのは額田部連比羅夫であった。12日隋の国使一行は阿部臣鳥と物
部依網連抱の案内役に導かれて朝廷に入った。諸皇子・諸王・群臣がそれぞれに黄金の髪飾りを頭につけて着飾っている。ある者は錦や紫地に刺繍をした手の込んだ衣服を着、あるものは五色の綾・薄絹を纏っている。盛装した貴賓列座の中を国使の一行は庭中に進み大門の前に置かれた机の前で立ち止まった。

裴世清は捧げ持った献上品を置き、やおら国書を懐から取り出して捧げ持ち、再拝を二度繰り返して使いの旨を言上した。満場寂として声なく裴世清の朗々とした中国語が響きわたった。
「隋の皇帝から倭の皇(すめらみこと)にご挨拶をおくる。使者の大礼小野妹子らが訪れてよく意を伝えてくれた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。倭の皇は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内平和で人々も融和しているし、皇には深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。懇ろな皇の誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無事である。鴻臚卿裴世清を遣わして送使の意を述べ別に贈り物を届けさせる」
と国書には書かれていた。

裴世清の国書朗読が終わると阿部臣が国書を受け取り、大伴連囓が取り次いで机の上に置き後刻天皇へ侍従が奏上することになる。この儀式には推古天皇は姿をみせていない。隋の煬帝と同格である以上、国使に天皇が親しく謁見することはできないのである。このあたりは聖徳太子が秦河勝と相談して隋使に与える印象と列席した諸皇子、諸王、群臣に天皇の権威を実感させるよう計算して作り上げた儀式の運営方法であった。馬子を始め蘇我氏一族もこの隋使送迎の儀式には姿をみせていないのであるが、これは聖徳太子が企画し実施した対隋外交の進展を蘇我氏が快く思っていなかったことの現れであった。

隋使の一行は数日間朝廷での饗宴に臨んでから難波に戻り、9月11日帰国の途についた。この時、再び小野妹子を大使として遣隋使が派遣された。このとき煬帝にあてた国書には次のように記されていた。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使者鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来られて、久しく国交を求めていたわが方の思いが叶いました。この頃漸く涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。当方は無事です。今大礼小野妹子、大礼難波吉士雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」
このとき隋に派遣されたのは、学生倭漢直福因、奈良訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済ら合わせて八人であった。
隋からの使者を送りだしてから2年ほど経った610 年に今度は百済と新羅
からの使者が筑紫にやってきた。蘇我馬子は迎えの使者を筑紫へ派遣した。10月8日新羅と百済の使者が都に到着することになったので、額田部連比羅夫を新羅の客を迎える飾り馬の長に任命した。百済の客の担当には膳臣大伴を任命し同じく飾り馬で迎えさせることとした。両国の使者は大和の阿刀の河辺の館に旅装を解いた。翌日10月9日には秦河勝と土部連莵が新羅の導者、間人連塩蓋・阿閇臣大籠が任那の導者に任命されて朝廷の庭で使者謁見の儀式が行われた。
両国の使者は導者に案内されて、南門から入って粛々と進み御所の庭に立った。頃合いを見計らって、大伴咋連、蘇我豊浦蝦夷臣、坂本糠手臣、阿倍鳥子臣らは席から立って中庭に平伏した。両国の使者は拝礼して使いの言葉を言上した。四人の太夫は前に進んで今聞いた言葉を蘇我大臣に申し上げた。大臣は起立して政庁の前へ進んで使いの言葉を聞いたのち両国の使者へ贈り物を授けた。今回の儀式には聖徳太子は姿を見せず蘇我馬子を中心に儀礼が行われた。

隋国使者裴世清を迎えたとき、聖徳太子の儀式運営が天皇の権威発揚に大いに預かって力あったことに対抗する意味もあって、今回の外国使者謁見の儀式は蘇我一族が取り仕切ったのである。聖徳太子の寵臣である秦河勝が新羅の導者に任命されたのは、隠然たる勢力を養ってきた秦一族の実力を流石の馬子も無視できなくなっていたからである。



2005年04月06日(水) 秦   河 勝 連載49

607 (推古7年)聖徳太子は第二回目の遣隋使として皇帝煬帝のもとへ 小野妹子を使者として送った。
「海の西の貴国には菩薩のような立派な天子が仏教興隆に励んでおられると聞いております。私たちは入朝の使者として派遣されてきましたが、仏教をもっと学ぶために僧侶数10人も連れてきました」と使いの一行は隋の役人に言って国書を提出した。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という言葉が国書には記されていた。隋からいえば東夷の一つに過ぎない日本が隋を対等に扱ったこのような文意の国書を提出してくるということは、国際関係に無知で無礼な態度であるといえた。

当然のこととして煬帝は怒った。
「蛮夷の書、無礼なる者有り、またもって聞するなかれ」と煬帝は国書を見て鴻臚卿(外務大臣)に言った。
 この年7月に隋に派遣された小野妹子は半年も経つのにまだ帰ってこなかった。往復の途中で船が難波したのではなかろうか、或いは国書の内容が煬帝の怒りに触れて使者が抑留されてしまったのではないだろうかと聖徳太子は心配な日々を過ごしていたが、608 年4 月、妹子一行が筑紫に到着したという速報が斑鳩宮で待ちわびる聖徳太子の許へ届けられた。
「小野妹子一行の遣隋使が筑紫に帰着しました」と飛報をもたらした使者が言った。「大儀。小野妹子は無事か」と聖徳太子は使者を労いながら言った。
「はい。隋国よりの使者裴世清様一行12人を伴われました」
「そうか。あの大国の隋が使者を差し向けられたか。早速国使を歓迎する準備にかからねばなるまい。まず難波吉士雄成を出迎えのため筑紫へつかわせ。次に国使を歓迎する館を難波に建てよ」と聖徳太子はテキパキと指示をした。
妹子の一行は筑紫で雄成の出迎えをうけてから大和へ向かった。豊前から再び船に乗り瀬戸内海を通って六月十五日には難波の津へ入ったが津の入口には飾り船三十艘が出迎えるという国をあげての大歓迎であった。国使は新築なった迎賓館にはいり、中臣宮地連麻呂・大河内直糠手・船史王平が接待に当たった。中国語の話せる船史王平が通訳にあたった。
隋の国使が難波で歓待を受けている間に、小野妹子は一足早く飛鳥の都へ戻り、復命した。
「只今、帰国致しました。国書は確かに隋国王煬帝に提出致しました」
「煬帝のご機嫌は如何であったか」と聖徳太子が聞いた。
「使者は直接皇帝と謁見することはゆるされませんでしたが、鴻臚卿を通じて煬帝のご機嫌は上々と承っております。返礼の国使を差し向けられたことをご覧になればそのことは御理解戴けるものと存じます」
「煬帝からの国書は」
「私が帰還の時、授かりました。まことに申し訳ないことですが、帰国途中百済国を通っているときに、百済人の襲撃を受け国書を奪われてしまいましたので残念ながら提出することができません。同行した裴世清が同じ内容の国書を持って参ります」
「他国宛の国書を盗んでも何の役にもたたないと思うが」
「百済国では東方の大国大和と西の大国隋が軍事同盟を結んで百済国を襲撃するとでも思ったのではないでしょうか。そのために煬帝からの国書は是非見てみたかったのだと思います」
「盗んで見たはいいが、内容は儀礼的なことばかりでがっかりすると同時に安心もしたことであろう」と聖徳太子が言った。
「いずれにしてもけしからん。使者たるものは命をかけても大国の国書は守るべきなのに、怠慢も甚だしい」と大臣蘇我馬子が言った。
「そうだ。国使の任務をなんと心得る。厳罰に処すべきでありましょう。流刑に値いしましょう」と群臣の一人も賛同した。
「少しまたれよ。その考えかたは如何なものでしょうか。遣隋使は大変な危険を冒して使命を果たしたのです。そのことは隋国の使者を一緒に連れて帰国したことで証明されているでしょう。国書を盗まれたことは確かに失策ではありますが、その影響を考えたとき、百済国に日本の国威を見せつけることにこそなれ、これを損なうことはない筈です。功績は失策を相殺してあり余りましよう。その功績をこそ評価してしかるべきだと考えますが如何でしょうか」と秦 河勝が言った。



2005年04月05日(火) 秦   河 勝 連載48

百済と高句麓に対しては新羅遠征軍派遣に先立って、601年(推古9年)
に使者を送り任那復興に協力するように要求した。両国とも新羅が力をつけてくるのを恐れていたから推古朝の申し入れには友好的であった。602年には
百済から僧観勒が暦天文・地理の書を携えて来日した。同時に兵術・仙人の術を伝えた。高句麓からも僧の僧隆と雲聡が来日して帰化しているので両国との関係は友好的なものであった。
 僧観勒を謁見した聖徳太子は周囲に居合わせた諸太夫に言われた。
「観勒師の三論、成実の高説を教わるにつけ仏に帰依し仏法をますます広めなければならないという気持ちはいやますばかりです。私は長年慧慈師に仏法を教わりましたが、今日はまた観勒師より三論、成実の教説を教わり目から鱗が落ちた心地です。何か功徳を施さなければと考えますが、幸い私は尊い仏像を持っています。この仏像を丁重にお祀りし仏の功徳を広めたいと思う者があれば授けたいと思っています。誰か希望する者はいないでしょうか」と聖徳太子がなみいる諸太夫に聞かれた。

「私にお授け下さい。葛野の地へお寺を建ててお祀りし、このお寺を我が秦一族の氏寺にしたいと思います」と秦河勝が目を輝かせながら申し出た。
「その方ならきっと大切にお祀りして呉れるであろう。この仏像は弥勒菩薩と言って百済から将来した有り難い仏像です。ゆめゆめ粗末に扱ってはなりませぬぞ」と聖徳太子は侍従に運ばせてきた仏像を拝みながら秦河勝に向かって言った。
「有り難いことでございます。長年の願いが叶いました」と秦河勝が弥勒菩薩に対峙して手を合わせると憑依現象が起こった。秦河勝の体がぶるぶると震えだし「蘇我一族の未来に何か不吉なことがおきるぞ。因果応報は三世の摂理」と嗄れた声で喋りだした。事情のわからない諸太夫はざわめいた。
「秦造に神がとりついた」
「神でなくて、異国神がとりついたのであろう」
「物部守屋大連の顔付きによく似ているぞ」
「蘇我氏に余程恨みを抱いているのだろう」
「そうだ、守屋大連の顔と同じだ。恨めしそうな表情をしていることよ」と諸太夫は口々に騒ぎだした。
「静かに。仏法の功徳で霊にお引取頂きましょう。南無釈迦牟尼仏。南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧・・・・・・・・・」と聖徳太子がお経を唱えるとたちまち秦河勝の顔は穏やかになり元の形に戻った。
この場には蘇我氏はいなかったのでことなきを得たが、蘇我氏が居合わせれ
ば秦河勝との間で一騒動おこる託宣であったといえよう。
秦河勝はこの弥勒菩薩を太秦へ持ち帰り蜂岡寺を建立し奉安した。現在の広隆寺である。



2005年04月04日(月) 秦   河 勝 連載47

新羅征討は崇峻朝からの継続事業であった。馬子の采配で591 (崇峻4 年)に筑紫に派遣された二万の大軍は、現地へ滞留のまま天皇暗殺事件を経て推古朝を迎えたわけだが、渡海することなく、595 年(推古3年)には大和へ引き上げた。軍事的には成果が挙がらない作戦であったが、新羅に対する威圧効果は十分あったものと思われる。597 年(推古5年)に吉士磐金を使者として新羅に遣わすとその翌年、新羅は鵲二羽を献上し続いて孔雀を奉り恭順の意を表した。599 年(推古7年)には百済からも駱駝一頭、驢馬一頭、羊二頭、白雉一羽が献上された。九州出兵の成果といえよう。
新羅は珍しい動物や鳥を献上し、大和朝廷のご機嫌をとっていたが、貢物は朝廷を満足させるほどの量ではなかったし、併合した任那を返還しようとしなかった。
600 年(推古8年)大和朝廷は再び任那復興を目的として蘇我馬子主導のもとに大将軍に境部臣・副将軍に穂積臣を任命し兵力一万余を預けて新羅攻撃を決行した。この遠征は成功し新羅王は殆ど抵抗なしに白旗を掲げて、多多羅、素奈良、弗知鬼、委陀南加羅、阿羅の六城を日本に割譲した。しかし任那として復興したわけではなく割譲の条件は六城の地から産出する金、銀、鉄等の大和朝廷にとって貴重な金属やその製品、また錦、綾等の高級な織物を新羅が任那に代わって貢物として献上するという程度の内容のものであった。形の上では恭順の姿勢はみせていたが、新羅はこの頃百済と戦って勝っており、国力も上昇していたので、たやすく大和朝廷の言いなりにはならないぞという気概をもっていたのか、なかなか約束通り貢ぎ物を送ってこなかった。
推古朝廷ではこの年、600 年に隋に使者を送っており、隋の役人の問い対して「倭王は姓は阿毎(天)あめ」「名は多利思比孤(帯彦)たりしひこ」と答えている。これは天下を統治する天皇厩戸という意味である。この600 年の新羅遠征は隋に対して新羅を大和朝廷が実力で討伐することの承認を求めようとする意味を持つものでもあった。
602 年(推古10年)に推古朝廷はみたび、軍衆二万五千人編成で新羅攻撃
を計画したが、将軍は聖徳太子の同母弟の来目皇子で軍団編成は諸々の神部および国造、伴造等からなり、臣・連姓氏族は参加していなかった。今回の遠征は摂政として次第に実力を養ってきた聖徳太子が、朝鮮問題の主導権を蘇我氏等の有力豪族の手から天皇家のもとへ奪回しようとの意図のもとに計画されたものであった。今度の作戦では渡海準備中に総指揮官の来目皇子が陣中で病死し、後任に聖徳太子の異母弟当麻皇子が任命された。当麻皇子は難波より乗船し播磨までさしかかったが同伴した妻の舎人姫王が明石で死んでしまい皇子は大和へ引き上げた。竹田皇子は今回の作戦が計画された時病の床にあり、本来であれば来目皇子よりも前に総指揮官に任命されるところであったが、病は回復せず死んでしまった。このような事故が続いたので遠征は中止されたが皇族将軍のもとで、大軍の組織化に成功したことの意義は大きかった。



2005年04月03日(日) 秦   河 勝 連載46

秦河勝は厩戸皇子に皇太子就任のお祝いに駆けつけて日頃気にしていることを申し述べた。
「皇太子様、今回推古天皇が即位されましたが、崇竣天皇の暗殺はどうも臭いと思いますがどのようにお考えでしょうか」と河勝。
「東漢直駒が大臣蘇我馬子の命令によって暗殺したのであろう」と太子。
「世間ではそのように考えられているようですが、私の見方は一寸違います」と河勝。
「ほうどのように」
「さればでございます。私の見るところこれは皇位纂奪の仕組まれた武力行使だったと思います」
「おだやかでないね」
「大方の見方は厩戸皇子が即位されて、推古天皇は後見されるとみていましたが、そうはならなくて、いまだかって例のない女帝が即位されました。これはなにかいわくがありますよ」
「推古天皇が首謀者だったというのかね」
「御意」
「根拠は」
「美しいが故の傲慢さです。皇子も十分気をおつけになって下さい。崇竣天皇の二の舞にならぬよう御注意が肝要です」
「何故そのようなことを言う」
「竹田皇子が天皇として即位できる年齢になられるまでにあと四〜五年ありますがそれまでの繋ぎの即位なのです」
「私が皇太子だが」
「そこが問題なのです。竹田皇子は推古天皇が腹を痛めた皇子です。厩戸皇子より五歳年下でございましょう。親心としては竹田皇子を即位させたいのはやまやまですがまだお若い。おそれながら、厩戸皇子も竹田皇子より五歳年長とはいえ即位するにはまだ早い。そこで摂政という立場をお与えになった。これは罠です。厩戸皇子を貶めようとする仕掛けです。きっと暗殺団が太子を狙うでしょう」
「何故だ」
「厩戸皇子がこの世にいなくなれば竹田皇子に皇位が廻ってくるからです」
「天皇は私の叔母だよ。蘇我大臣は大叔父だよ」
「皇位争奪戦となれば肉親も兄弟もなくなるのです。崇竣天皇だって皇子の頃 兄弟の穴穂部間人皇子の討伐戦に参加したではありませんか。しかも推古天皇は討伐の詔書までお出しになっている。そのことをよくお考えになってください」
「人間の心はそんなに虚しいものなのかね」
「皇太子の母上の穴穂部間人妃は用明帝崩御のあと異腹とはいえ子供のところへ娶られていかれたのですよ。どなたの差しがねだと思われますか」
「悲しいことだが、大臣蘇我馬子が考えたことでしょう」
「多分、推古天皇の思いつきでしょう」
「何故わかる」
「先の皇后が天皇になる前例をつくるときに対抗馬があっては困るからです」
「そこまで、考えるものだろうか」
「馬子大臣の感化を受ければそうなるでしょう」
「それに美しい人は美しさも幸せも自分で独占したいものなのです。そのためには、穴穂部間人妃のような美しい人は不幸にならなければならないと思っているのです」
「なんと恐ろしいことを」
「美しいことは罪悪を作るのです」
「世間虚仮。唯仏是真という言葉が仏典のなかにあるがこのことだね」
「御意。仏の教えを広めねばなりません。恐れながら皇太子が難波に四天王寺を建立なさったことは仏法を広めるうえからも素晴らしいことでございます」
「物部守屋討伐の折り、四天王に誓ったことだから当然のことだ」
「その当然のことが出来ないのが口先だけで政治を行おうとする野心家達なのです」
「人の心を捉えなければ政はできないと思う。人の心を支配しなければ天下の統治は難しいということだろうか」
「恐れ多いことですが皇太子を取り巻く人間関係には非常に難しいものがありますので十分気をおつけになってください。ところでこのような中でどのような方針で政務を行われるお積もりですか。及ばずながら秦河勝は皇太子の為に一肌脱ぐ積もりでおりますのでお漏らしください」
「まず天皇の権威を高めることだろうね。臣下が天皇を殺そうと思ったりすることのできない程、天皇の権威を高めることが必要だと思う」
「仰るとおりです。大臣蘇我馬子も朝廷内の権力を握りこれを強化発展させていくためには天皇の伝統的な権威を利用しようとするでしょう。そして官司制を整備したうえで豪族連合を強化し実際政治の上で実権を握ろうと画策する筈です。そのためには天皇の地位は尊重しながらも不執政の地位に押し上げようと考える筈です」
「崇竣天皇に対してとったと同じ手法によるだろうね」
「推古天皇は女帝だし、大臣の姪だという血族的な関係を考えてもその傾向はますます強くなると考えなければなりません」
「されど大臣蘇我馬子と摩擦を起こすことは得策ではない」
「そうです、天皇権力を強化するということを常に頭におきながらも、官司制を整備し朝廷権力を強化するという大臣の方針には協調姿勢をしめすことが必要でありましょう」
「そうなると精神面で天皇の権威をたかめることに力を注ぐことを考えなければならないということになる」
「推古天皇は直接政務を執られることはないでしょうから、蘇我大臣が実質的に朝廷を動かすことになるでしょう。しかし、皇太子は将来、天皇になられるわけだから即位されてからのことを考えて蘇我氏から全ての権力を奪回し、専制権力の確保を計るよう常に考えておられなければなりませんぞ」
「私は精神面で天皇の権威を高めるためには隋国との外交と仏教の興隆がもっともよい方策だと思っている」
「私が思いますに隋国には早い機会に使者を遣わし挨拶をしておくことが皇太子の権威を高めることになると思います。その使者には僧侶を同行させ隋国における仏教興隆の実情をつぶさに観察せしめることも肝要かと心得ます」
「使者には国書と貢物を持たせることにしよう」
「それがよいかと存じますが、天皇の権威を示すためには相手が大国であっても遜ってはなりません」
「私もそう思う。国書を持たせれば返書を持ち帰るはずだから文面はよく考えなければなるまい」
「それに新羅征伐のことも、隋国に対して理解を求めておくことが大切でしょう」
「その通りだ。早く隋国へ使者を派遣する準備を始めることとしよう。それには大海原を航海する船を作らねばなるまい」
「御意」
「船は誰に作らせればよかろうか」
「王辰爾の手の者が船作りは上手です。しかし、王辰爾の一族は船氏を名乗って蘇我氏の配下になっておりますが」
「蘇我氏の力をこの際は借りることにしよう。私のほうから依頼しておこう」
「皇太子、隋国に使者を派遣するのも大切ですが、その次に必要なのは新羅征討軍を臣・連姓氏族から組織するのではなく国造や伴造の部民から徴兵する必要があると思いますが」
「そうだ。指揮官にもこれまでのように臣・連姓氏族を当てるのではなく皇族を中心にして編成してみよう」
「それと百済、高句麓に対しても使者を送り、朝貢を求めることが天皇の権威を高めることになると思います。是非ご検討ください」
「判った。よく考えてみよう。武力で服従させるのではなく心を支配して従わせることはできないものだろうか」
「仏の教えの神髄を極めてこれを万民に施せば可能なのではないでしょうか」
「そのためには先達を迎えて仏の心を学ばねばならないね。合わせて、お寺を各地に建てて仏法を広めなければならない」
「私も仏像を迎えてお寺を建立したいという夢を持っています」
「なかなかよい心掛けじゃ」



2005年04月02日(土) 秦   河 勝 連載45

群臣の前で蘇我馬子が発言した。
「この度 崇竣天皇が崩御されて、次期天皇には候補として押坂彦人皇子に厩戸皇子と竹田皇子がおわしますが、押坂彦人皇子は御病弱であらせられるし、厩戸皇子と竹田皇子は重職を担われるにはお二方ともお若過ぎる。ここは、皇后として長年政務にもかかわられた炊屋姫に御即位願うのが最も良い方法であると考えますので御推挙申し上げます」

 群臣達は意外な発言にどよめいたが異議を唱えるものもいない。
「私には任が重すぎるので辞退します」と炊屋姫。
「対外的にも任那の再興等重要な時期なので是非お受け戴きたい」と馬子。
「辞退したい」と炊屋姫。群臣達は隣の人と囁きあっているが意見をいうわけでもない。大臣馬子の真意を計りかねてただ顔を見合わせている。
「それでは百官が上奏文を奉ろうではないですか。ここは多事多難の折りですが、是非お受け下さい」と大連の某が大臣蘇我馬子にとりいるような素振りをみせながら一方では群臣達の意見を取り纏めるような言い方をした。
「それがよい。皇祖の霊に上奏文を奉ってお受け戴こう」と群臣達は口々に言った。

 三度目の要請で炊屋姫は即位することを受諾した。このようにして、推古天皇が日本史上初めての女帝として誕生し、12月8日豊浦宮で即位され た。翌年4月10日厩戸皇子を皇太子にたてられて、摂政とし国政を全て任された。



2005年04月01日(金) 秦   河 勝 連載44 

大臣蘇我馬子は炊屋姫のもとへ伺候して次期天皇の人選で相談をした。
「今度の天皇は古来の慣行からすれば、先帝の兄弟に適格者がないため第一原則の適用はない。第二原則の適用で先帝の直系の皇子ということになると押坂彦人皇子か厩戸皇子ということになりますが、押坂彦人皇子は病弱で激務に耐えられないでしょうから厩戸皇子が最有力ということになりますね」と馬子が炊屋姫に言った。馬子からすれば、父母ともに蘇我一族の血を引く厩戸皇子が皇位につくことが蘇我一族の繁栄のためには一番良いことだと判断していた。

「竹田皇子だって先帝の直系の皇子ということでは、厩戸皇子と条件は変わりませんわ」と炊屋姫がまけてはいない。

「厩戸皇子は19歳だから天皇になるには若すぎるくらいだと考えております
が、適任者がいないのでここへ落ちつかざるを得ないと思います。竹田皇子は厩戸皇子より更に若いので厩戸の次ということになるでしょう」と馬子が言った。
「それでは、先帝の皇后が皇位につくことにしては」と炊屋姫は思惑通りことが運びそうなので内心笑みをたたえながら言った。
「先帝の皇后が天皇になるという先例はありませんが」と馬子。
「これは敏達天皇在世の頃、私に示された原則です。言わば敏達天皇の遺命といってよいでしょう」と炊屋姫
「大三輪逆がそのようなことを言っていたが、書いたものでもあるのでしょうか」と馬子。
「大三輪逆は敏達天皇の遺訓を書き留めて私のところへ持ってきましたわ」と炊屋姫は手文庫の中から書きつけを取り出して広げた。
「皇后の期間が長かった点ではそなたということになるでしょうな。穴穂部間人は、皇后の期間が僅か二年しかなかったから問題にならないでしょう」と馬子。
「それに穴穂部間人は多目皇子と再婚しているのですから天皇というわけにはいかないでしょう」
「それでは、そなたが天皇として即位されたうえで厩戸皇子を皇太子に指名されるという手順を踏んだほうがよいでしょう。しかし、女帝は初めてのことだから群臣に推されて即位するという形をとつたほうがよいと思います。私が推薦者になりますから一〜二度は辞退されて三回目くらいにお受けになったほうがよいでしょう。反対がでたときには証拠として敏達天皇の遺訓を開示しましょう。そのときのためにもその文書は、私が一時保管しておきましょう」と馬子。
「それでは、これを預けましょう」と炊屋姫。
 馬子には群臣達の中から女帝の先例はないから如何なものかという異論が必ず出てくるのに違いないという思惑があった。敏達天皇の遺訓を認めた文書は馬子の手中にあるのだし、これを記録した大三輪逆はこの世にいないのだから闇に葬ることができる。そのときには厩戸皇子が皇位につくことになる。これは蘇我一族にとって外戚としての地位が永続することを意味する。

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