2005年02月28日(月) |
秦 河 勝 連載13 |
河勝が深草の大津父を訪問してから一年程経ったある日河勝六歳の時、河勝は松尾神社に父に伴われて誓願にきていた。誓願の目的は二十日程前に生まれた河勝の妹玉依郎女(たまよりのいらつめ)が病弱なため病魔退散、悪霊退治を祈祷することであった。 河勝が神殿に向かってお祈りをしていると突然河勝の体がぶるぶる震えだし 顔の形が変わってきた。目はつりあがり口を尖らせて、しわがれた声で口走った。
「河勝よ案ずるでない。わしはお主らの先祖の弓月の君じゃ。お主の守護神として物申そう。玉依郎女は健やかに成長するであろう。彼女が長じて女の印があった日に葛野の川で衣の洗濯をさせなさい。上流から丹塗りの矢が流れてくるであろう。玉依郎女はこの矢を持ち帰り、寝室の入り口の戸へ刺しておくがよい。一夜明ければ、玉依郎女は懐胎するであろう。その子は玉依郎女が丹塗りの矢を捧げたいと思って捧げ、それを受け取った男の子である」 その声はしわがれてはいるがこの世のものとは思えない荘厳な響きをもっていた。
「あれま。若様に御先祖様の霊が憑かれた」とお守り役の下僕がはいつくばって地面に頭をこすりつけながら拝み出した。
「河勝よ、心を落ち着けて、息をゆっくりはきだすのだ。御先祖様が安心して帰っていかれるようにお送りするのだ」と父の国勝が言うと河勝は再び息をゆっくりはきだした。それと同時に顔つきは穏やかになり、もとの顔を取り戻した。
息子の憑依現象を目の前に見て、秦国勝は本日の誓願の目的を息子の河勝にしっかり教えておかねばならないと思った。秦国勝が娘玉依郎女を連れてき たのは、病魔退散もさることながら、娘を品よく育てて将来、世継ぎの皇子の后として入内させることであった。蘇我稲目、馬子親子の権勢をみるにつけ、秦一族の経済力からすれば蘇我一族にひけをとることはないのだから、皇室にどんどん入り込んで権力を掌握しなければならないと密かに考えていたのである。今日の誓願はそのことに重点があった。その思いが先祖霊に通じたのか息子の河勝の体を憑り代としてあらわれたのであろう。託宣によれば丹塗り矢が誰であるかわからないが、玉依郎女は丹塗り矢に乗り移った男子の子を宿すというではないか。願わくば、丹塗り矢の主が世継ぎの皇子であって欲しい。
2005年02月27日(日) |
秦 河 勝 連載12 |
「秦の酒の公は、秦造として部民を統率して米や織物を沢山造り、天皇に貢ぎ物を沢山奉りたいのだが、情けないことに秦人はあちこちに分散してしまい、諸豪族の配下に入ってしまっている。そのため秦造としての職責を十分はたすことができない。情けないことです。どうか諸豪族の許へ散らばっている秦人を私の管理の許に戻して下さい。それが私が願う御褒美ですと訴えられたのじゃ。天皇がこれをお認めになり、調べてみたら秦一族は全国に約百八十の勝部(すぐりべ)を作って村主(すぐり)になっていたそうじゃ」
「一族が戻ってきたということですか」
「そうじゃ、秦造の管理下に戻ったということじゃ。天皇の好意に感激した秦造の酒の公は秦造の管理下に戻ってきた部民を督励して、絹を織り朝廷に献上したところ、庭にうずたかく絹が積まれたそうじゃ。天皇は秦の酒の公の忠義な心を喜ばれて酒の君に太秦という姓をあたえられたのじゃ。それ以来、葛野の地のことを太秦(うずまさ)と呼ぶようになったのじゃ。」
「全国に散らばっていた秦人が纏まったということですか」
「その通りじゃ。住まいこそ各地に別れてはいるが、一族の長である秦酒公を中心に置いて精神的な絆で結ばれるようになったのじゃ。産業が次第に発達して、人も増え機織りの部を増やさなければならない状況がでてきたということもあったのだが、この変化を素早く捉えて天皇に訴えでた酒の公は一族の長としては適切な措置をとったことになるのだよ。一族が離散する原因となったのは蚕の神様と酒造りの神様を同じお社にお祭りしたから祟りがあったのだという反省もあって、この頃秦忌寸都理という御先祖様が松尾神社を建てて酒造りの神様だけを専属でお祭りするようになったのだよ」
2005年02月26日(土) |
秦 河 勝 連載11 |
「秦の酒の公が琴を弾きながら現れて次のような歌を歌ったのじゃ」
神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る析(か)きて 其(し)が尽くるまでに 大君に 堅く 仕え奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠(たくみ)はや あたら工匠はや
歌の意味は工匠は天皇のために一日もはやく御殿を造ろうと努力している。それなのにそれを殺そうとしている。惜しいことだということなのじゃ」
「それでどうなったの」
「天皇の前で許しもなく、かってに琴を弾いたり、歌を歌ったりすることは本来許されることではない。不敬な振る舞いとして処罰されるのが当たり前の行為なのだ。酒の公は余程の覚悟をきめて琴を弾かれたのであろう」
「酒の公は処罰されたのですか」
「処罰されなかったのじゃ。雄略天皇は、武勇に秀でた名君の誉れ高いお方であったが、人情の機微にも通じておられたのじゃな。秦の酒の公の琴の音と歌声が天皇の心をいたく動かしたのであろうか。天皇は闘鶏御田を殺すのをやめて罪を許したばかりか、処罰覚悟で、間違った天皇の行為を指摘した秦の酒の公に褒美を授けようということになったのじゃ」 「御褒美になにを貰われたのですか」
2005年02月25日(金) |
秦 河 勝 連載10 |
「そのとおりじゃ。分散して勝部を作り生産に精出していた秦の人々は、秦氏としての団結が弱くなり、勝部ごとに諸豪族に徴用され和珥氏、穂積氏、巨勢氏、平群氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、羽田氏、葛城氏等に駆使される情けない状態になってしまったのだよ」
「困ったものですね。秦一族の危機の時代ですね」
「その通りじゃ。秦造としての役割が果たせなくなったので、朝廷への貢物も少なくなり肩身の狭い思いをしたものと思うわのう」
「それで秦一族はどうなりましたか」 「秦酒の公という秦一族の中興の祖が現れたのじゃ。秦登呂志の子の酒の公は琴の名手であった。酒の公は出仕するときには必ず琴を携帯していた。雄略天皇の御代12年の10月のことであったが、秦酒の公が出仕して造営中の宮殿の前で工事の安全を祈願して琴を弾いていたところ、ある事件に遭遇されたのじゃ」
「どんな事件だったのですか」
「大工の闘鶏御田(つげのみた)が宮殿の建物を建てていたが、梁へ上がったり下りたりするのが、まるで鳥のように素早かった。たまたま伊勢の采女が天皇に奉る秋の味覚を盛ったお膳を捧げて通りかかったところ、闘鶏御田(つげのみた)が梁へ上がるのを目撃した。彼女が今まで見たこともない敏捷さで、闘鶏御田が上がっていったので、人間業とは思えなかったのだろう。度肝を抜かれた伊勢の采女はお膳を落としてしまったそうな。そこで騒ぎが大きくなったのじゃ。天皇に捧げるお膳を落とすとは不敬であり、不吉であるということになった。詮議してみると闘鶏御田が魔性をもっているのではなかろうかということになり、災いを封じ込めるためには闘鶏御田を殺して魔性を絶ってしまおうということになったのじゃ。」
「闘鶏御田は殺されたのですか」
「天皇の前に引き出されたとき、状況がかわったのじゃ」
「どのように」
「御長老わたしにも読み書きを教えてくださいませんか」
「いいとも。しっかり勉強して、一族の繁栄をはからなければならないからのう。読み書きの勉強も大切だが、もっと大切なのは神様を崇拝するということじゃ。秦一族が現在繁栄しているのは、守護神を丁重にお祭りしているからその御加護があり霊験あらたかなためなのじゃ。深草の里にお祭りしている稲荷(いねなり)神は五穀豊穣の神様じゃ。葛野にお祭りしているのは養蚕の神様だし、松尾の神様は酒造りの神様なのだ。賀茂の神様は大地の神様でこれらの神々は秦一族が畏敬の念をもって崇拝しているのだよ」 「わかりました。毎朝四方拝をし、神様を拝むように母親から教えられていますのでそれを守るようにします」と河勝は言った。
「秦一族がこの地に渡来以来、おおよそ二百年足らず経ってはいるがこの間、常に順調であったとは限らない。弓月の君が渡来してから二〜三代のうちは、族長がしっかりしており、神様を畏敬し敬う気持ちが篤かったから繁栄していた。だが、そのうち心得違いをする族長がでるようになる。そうすると一族は分散のはめになる」
「そのようなこともあったのですか」
「あれは、やはり応神天皇の御代のことであると聞いているが、須須許理(すすこり)という酒造りの名人が百済から渡来して、旨い酒を朝廷に献上したそうだ。帝は喜ばれて、須須許理を秦部に下されて酒造りも秦部の大切な仕事となったのじゃ。そのときの族長は秦登呂志(はたのとろし)といったが自分の子供の名前を「酒」とつけるくらいの酒好きであった。そのために、酒部の酒造りのほうへ力を入れすぎて、秦部の機織りのほうは蔑ろにしたということじゃ。万の神々を崇拝する気持ちが薄らいできたのだな。秦の登呂志は酒造りの神様を大切にしなければいけないということだけを考えて、蚕の神様と同じお社へお祭りしたのじゃ。こうなると蚕の神様のほうは面白くない道理じゃ。自分の神域へ他人が入ってきたのだから意地悪をしてやろうと考えられても不思議ではない。機織りのほうもおろそかにしたものだから機織りに従事していた秦部の民も面白くない。次第に秦一族の中で統制がとれなくなり、秦部の民は全国へ分散して行ったのじゃ。しかし、分散したとはいえ、秦部の民は優秀な人々が多かったうえに、稲作りの技術や、養蚕の技術や機織りの技術を持っていたので、分散していった土地で勝部(すぐりべ)を作り、村主(すぐり)になったのじゃ。勝部は稲作り、養蚕、機織りの専門技術集団のことであり、村主とはその集団の指導者のことじゃ。」
「分散してしまうと氏族としての団結力がなくなり力が弱くなるでしょうね」 と河勝が言うと長老の秦大津父は彼の利発な質問に満足げに頷きながら話を続けるのであった。
「応神天皇の御代(382 年)に、弓月の君は百済から120 県の人夫(おお みたから)を率いて大和の国へ移住を決行されたのじゃ。百済から加羅までたどり着いたところ、運悪く新羅人に妨げられて人夫は加羅に止めおかれてしまったのじゃ。弓月の君は使いを応神天皇に出して助けを求めたところ葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が派遣されて日本へ渡るのを助けたということじゃが、弓月の君が連れてきた人夫はいずれも腕の良い機織技術者と土木技術者達で、養蚕の技術も持っていたので葛野に定着してからも繁栄し今日に至ったのじゃ。」と秦大津父は白くて長い顎髭を右手の親指と人指し指で作った輪でしごきながら、河勝に物語ってくれた。
幼い河勝にとっては、先祖の流浪物語はロマンに満ちた魅力ある話であった。
「弓月の君が葛野に定着してまもなく、半島では応神天皇が軍隊を派遣し百済・新羅を討ち負かした(391 年)ので、弓月の君の渡来時期の選定は正しい決断であったことが判ったのじゃ。一族の長は将来のことも見通して決断しなければならないから責任は重いのだよ。」と大津父はやがて一族の長になるであろう幼き河勝に期待の眼差しを向けながら話を続けた。
「河勝よ、弓月の君が葛野に落ちついてから間もなく、応神天皇の御代に半島から阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類17県の民を率いて渡来してきているが、この一族は、高市郡檜隅を根拠地にして栄えている東漢直(やまとあやのあたい)氏の祖先なのじゃ。彼らは陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)画部(えかき)、錦織(にしごり)の技術に優れているので、我が一族も機織りという技術の特徴を生かして彼らに負けないように頑張らなければならないのだよ」
「ほかにはどんな氏族が渡来したのですか」
「阿知使主(あちのおみ)が渡来してのち間もなく今度は、やはり応神天皇の御代に百済から、王仁吉師(わに)が論語と千字文を持って渡来し、朝廷に百済王からの品部(ともべ)として献じられたのじゃ。彼らは朝廷では史(ふひと)としてもちいられた西文首(かわちのふみのおびと)氏の先祖で根拠地は河内の古市なのじゃ。彼らは読み書きにあかるいので代々書記として朝廷で文書を扱い羽振りをきかせているのだよ。お前も読み書きができるようにならなければのう。」
「御長老は読み書きができるのですか」
「出来るとも。大蔵掾という官職は読み書きが出来なければつとまらない役柄なのだよ」 河勝は尊敬の眼差しで改めて大叔父の顔を仰ぎみるのであった。
「弓月の君の先祖は、一旦、半島に渡ったものの、当時の半島は未開の土地であったから、秦一族は団結して開墾に励み力を養うしかなかったのじゃ。秦一族は大陸から移住して来たとき、鉄製の農工具とそれを作る技術を持っていたので、未開地の開墾は順調に進んだ。彼らは秦の始皇帝の子孫であるという誇りを持っていたから、土着民と融合することなく一線を画して平和に生活していた。それは長い長い年月であった。長い年月が過ぎる内に半島にも高句麓、新羅、任那、百済という国が誕生したのじゃ。一方、大陸では秦を滅ぼした漢という国の次に新という国ができたが、忽ち滅んでしまって、また漢という国が生まれたのだ。前の漢に対して後の漢という訳で後漢と呼んでいるのじゃ。 後漢という国が出来た頃から、弓月の君の先祖は、大陸へ帰って国を再興することは難しいと考えるようになったのじゃ。」 「そしてどうなったの」 「半島の中でも高句麓という国は強い国でしょっちゅう新羅や百済を攻撃しては領土をかすめ取ったのじゃ」 「弓月の君はどうなったの」 「その頃はまだ弓月の君は生まれていなかったのさ。弓月の君の先祖は、そうさな曾祖父ぐらいになるのかな、高句麓の攻撃を避けて百済へ逃げたり、新羅へ逃げたりしていたのだが、弓月の君の代になって海の向こうからも任那を攻撃してくる強い国があり機織りの技術や天文、医学、暦、易のことを学びたがっていることを知ったのじゃ。その国が大和の国なのじゃ。弓月の君は大陸へ帰ることを諦めて、海の向こうに安住の地を求めることを決心したのじゃ。その時には新羅から百済へ移り住んだばかりの時であったそうな。なにしろ腕の良い機織り技術者と土木技術者を沢山抱えており、鉄製の農工具とその技術を蓄えていたから、新羅の王様も弓月の君の動向に対しては注意していた筈だわな」長老の秦大津父は言葉を切って、土器の濁酒を口に運んだ。
秦部の下僕や下女達が機織りしているのを興味深く見ていた幼い河勝を手招いて、一族の長老秦大津父(はたのおおつち)が長い顎髭を手でしごきながら言った。
「河勝や、今日は弓月の君のことを話してしんぜよう」
秦大津父は山背国紀郡深草里に根拠地を構えていた。葛野の秦部が織りだした絹や深草で醸造した濁り酒を馬の背に負わせて隊列を組み、飛鳥や伊勢へ運んでは売り捌き、伊勢特産の水銀を仕入れて帰るという商業活動にも携わっていた。官職は大蔵の掾であったから位は高いほうでなかったが、日本全国に広がっていた秦人約七千戸の首領として仰がれていた。飛鳥へ行ったり伊勢へ行ったりで、秦大津父は席の温まる暇もなかった。秦大津父は河勝の父方の祖父の弟である。河勝の今はなき祖父秦河(はたかわ)は葛野に根拠地を持っていた。河勝は秦一族の直系の血筋を継いでいた。葛野から今日は深草まで父の国勝に連れられて遊びにきていたのである。忙しい秦大津父は幼い河勝の顔を見るのは始めてのことであった。河勝は目を輝かせて長老の話に聞き入った。
「弓月の君とはな、融通王(ゆずおう)とも言われるのじゃが、秦の始皇帝の末裔なのじゃ。弓月の君の先祖は秦の国が滅びたとき半島に逃げ渡った秦の遺民で、一族が離散することもなく助け合って国の再興を期していたのじゃ。弓月の君は始皇帝の十三世孫にあたられるのじゃ。わかるかの、秦一族は皇帝の血筋をひく名門なのだからお前もこのことは誇りにして生きていかねばならないのだぞ」と祖父は河勝の目を見据えながら言った。
「それでその人達はどうなったの」と河勝は先を促した。
倭人の稲は北九州の地へ渡来し栽培されしかも品種は短粒米(ジャポニカ)であったことが、福岡県夜臼遺跡や板付遺跡の発掘で判ってきている。 倭人達は稲作だけでなく、漁労の技術にもたけていた。歴史上に初めて登場する日本人は「倭人」と呼ばれている。魏史倭人伝(西暦220 〜280 年三国時代の魏の国の歴史書に書かれた倭人の条のこと)によれば「禾稲(水稲のこと)を植え」「船に乗って交易を行い」、「漁業に従い」、「水に潜って魚を手づかみしたり、貝を採ったりすることが上手で」、「皆黥面文身(いれずみのこと)」していたと記されている。また越南(今のベトナムの辺り)で越人が住んだ地帯には入れ墨をする風習があったことが知られている。このことからも越人が北へ移動して、朝鮮南部や九州に至って植民地を作りだした頃倭人と呼ばれだしたと言えるのではなかろうか。
倭人は朝鮮半島にも住んでいたが、九州にも住んでおり、その間を船で往来し交易や漁労にあたっていたのも倭人であったと考えられる。
初めて大陸に統一国家を作った秦の始皇帝(西暦BC221 〜210 )が滅んで漢民族が覇権を握ると、秦人達は追われてその一部は朝鮮半島へ逃げて定住するようになった。朝鮮半島は大陸からみれば辺境の地であり未開の野蛮な国であった。
秦人達は当時朝鮮半島で活躍していた倭人から稲の栽培方法を学び、持ち前の 秀でた農耕技術でこれを改良し水田耕作を可能にしていったのである。彼らは鉄を使う技術をもっていたから鉄の原料を産出する朝鮮半島は鋤や鍬を作り稲の水田耕作を発展させるには好都合の条件を備えていたといえよう。
日本列島に米が渡来したのは2,200 年程前だとみられている。秦河勝が生まれた頃から数えれば約770 年程昔のことである。米は倭人が日本列島にもたらしたものであることが考古学・歴史学・民俗学・比較人類学等の研究の成果としてほぼ証明されている。
そもそも倭人とはどのような人種であり、日本の経済及び文化の基礎となった米と倭人とはどういう関わりを持ったのかということを辿ってみれば、秦河勝の先祖である秦人とその子孫である秦一族が日本の農耕技術・養蚕技術・土木技術・手工業技術に秀でたものを持っており、祭祀に重きをおく氏族であって、古代大和国家の繁栄に多大の貢献をした氏族であることが理解できるであろう。
米の原種は大きく分ければ、四種類位に分けられるが、アジアでつくられるのはこのうちの長粒米(インディカ)と短粒米(ジャポニカ)との二種類である。同じ米であってもこの長粒米と短粒米とでは、人間と猿くらいの違いがある。即ち長粒米と短粒米とをかけあわせても、穂はできるけれども実ができない。つまり染色体の数が基本的に違っているからである。この長粒米と短粒米の原種の分布を調べてみると、氾濫原では長粒米しかなく、河岸段丘の上で作られていた米は殆どが短粒米であった。長粒米の発祥の地はガンジス河流域のような氾濫原であり、短粒米の発祥の地はヒマラヤ山系の谷々のような棚田である。棚田とは水を溜めれば湿田となり水を落とせば乾く田のことである。
ヒマラヤの山奥の谷間に発生した短粒米は、だんだん谷を下りて揚子江へ至り、南の流域一帯及びその支流あるいは広東から西へはいっていく西江の辺りが大きな短粒米の稲作地帯となったのである。この地帯は古くは百越の国といわれていた。越の国の人々即ち越人達が稲作技術を進化させた頃、黄河流域には殷や周のような強い国家ができて勢力を増していったが、彼らは畑作の産物を食料とした。越人達は中央の強い国の文化を求めて次第に移動して揚子江や淮河の流域に村を作った。さらに北上して山東のあたりを経て陸路は朝鮮半島に至り、海路は日本の九州にまで至って町を作った。米作技術をもって朝鮮半島南部や日本にまで渡来した越人はいつの頃からか倭人と呼ばれるようになっていた。
「河勝や、お米は今では田圃で作りますが昔は山の中の畠で作られていたのですよ。昔々、お米が此の国へ渡ってきた頃は山を焼いて、その跡へお米の種を蒔き、稔ると稲穂を摘み取りその跡へは桑の木を植えたのです。桑の葉はお蚕さんの餌になるのです。その頃はお米の収穫量はとても少なかったのです。稗とか黍や粟のほうが作りやすく手間も掛からなかったのですよ。山を焼いて種を蒔き、採り入れが終わるとその跡へ桑の木を植えて次の土地へ移っていくのです。だから今のように一つの場所に留まってお米を栽培するというようなことは無かったのです。」
母の赤子郎女は秦国勝の許へ嫁いできたときに一族の長老から教えこまれた米作りの歴史を最愛の息子に伝えるのに懸命であった。
「それでは何時頃から、今のように田圃でお米を作るようになったのですか」 「この国に鉄製の鍬や鋤が半島から渡ってきて畠を耕すことが楽になったころからですよ。今から二百年程昔のことです。その頃には山の中の畠で水を溜めやすくまた水の抜きやすい所を選んで御先祖は稲を栽培するようになったのです。このような畠を棚田というのですよ。水稲のほうが陸稲よりも収穫量が多いので水田でお米を作るようになったのです。そして、農耕技術が進んでくると、次第に人々は平地へ下りてきて大きな水田でお米を作るようになったのです。作物を作る場所を『畠』とか『畑』とか書きますが読み方はハタケとハタです。ハタケは白い田つまり火を使わないからシロイ田なのです。定まった場所で作物を作るところつまり定畑を表し、ハタは火の田つまり焼き畑を表すのです」 母は指先に水をつけて飯台に『畠』と『畑』という二文字を書きながら説明する。 「それでは水田で稲を栽培するようになったのは最近のことなのですね」 「そうですよ。秦氏の『秦』を今ではハタと読んでいますが昔はシンと読んでいたのですよ。同じように秦人はシンヒトと読んでいたのです」 「何故、シンをハタと読むようになったのですか」 「それは秦氏が管理している一番大切なもの、つまり作物を作るハタと織物を織るハタを管理している人という意味でいつの頃からか世間では秦氏のことをハタ氏と呼ぶようになったのです。このように秦一族にとっては農耕と機織はそれを抜きにしてはその存在価値がなくなる程大切な仕事なのですよ。更に土木技術にも秀でていたからこそ川の流れを変え田に水を引くことが出来、飛躍的にお米の収穫量を増やすことが出来たのです。この葛野の桂川に大堰を築き氾濫を無くしお米が採れるようにされたのも御先祖様の努力の賜物なのです」 「御先祖様って偉かったのですね。秦氏の御先祖様はどんなかただつたのですか」と河勝の好奇心は飛翔してゆく。 「遡れば秦の始皇帝にまで行き着きますが、弓月の君(ゆづきのきみ)という人が秦氏の始祖とされているのです」 「もっと聞かせて」と河勝はせがむ。 「今日はここまで。もう遅いからお休みなさい。弓月の君のことは深草の長老様にお願いして教えていただきなさい。私よりも詳しいことをご存じだから」 母の赤子郎女は我が子河勝の知識欲にたじたじとなりながら、やっと寝かせ付けた。
「この子には河勝と名付けることにしよう」と父の秦国勝(はたのくにかつ)は皺くちゃだらけの嬰児の顔を覗きこみながら、産褥にある妻の赤子郎女(あかこのいらつめ)に向かって言った。 「河に勝つですか。強そうでいい名前ですこと」と赤子郎女は嬰児の頬に頬ずりをしながら応えた。 「そうだ。桂川に先ず勝つことだ。そして世の流れという大きな河に勝つことが秦一族の繁栄に繋がることになるのだ」と国勝は最近氾濫した桂川を部民を指揮しながらやっと治めた十日程前のことを思い出しながら言った。 「先祖ゆかりの地新羅が栄えるのはよいことじゃ。この子もきっと幸せを掴むじゃろう」
秦国勝の先祖は新羅から渡来してこの葛野(かどの)の地に定着した帰化人であったが、昨日出仕したときに、大臣の蘇我稲目から最近、任那の日本府が新羅にうち滅ぼされたと聞かされていたので、新羅の国から渡来した遠い先祖のことを偲びながら言った。
河勝が生まれたのは562 年欽明天皇の御代のことであった。
この時代は、蘇我稲目が娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(こあねぎみ)の姉妹を欽明天皇の大后・后として宮中に送り込み、外戚としての地位を確立し、権勢を誇っていた時期である。
河勝は幼少の頃から聡明な子供であり、色々なことに興味をしめした。 「まあこの子はなんて勿体ない食べ方をするんでしょう。そんなに沢山飯粒を残してからに。河勝や、御飯は一粒でも残したら罰があたりますぞ。お米が食べられるようになるまでには多くの人々が八十八回も汗を流しているのですからね」と母親の赤子郎女は木の椀の端に残っている飯粒を指さしながら河勝を叱った。
「はい。ごめんなさい」と素直に謝ってから河勝は椀の端にへばりついている飯粒を可愛らしい手でつまんでは口へ運びながら聞いた。
「八十八回の汗とはどんな汗ですか」 「お米を作るには、先ず田圃を耕して、水を引き、苗代を作ります。苗代を作るためには草をとり、畝を作って肥やしをやり、また耕して畝を作りその上に種籾を蒔きます。種籾を蒔いてからも種が烏や雀に食べられないように、籾殻を焼いてその上にかぶせますのじゃ。芽がでてからも草をとったり、肥料をやったりして苗を育てるのです。苗が育つとこれを抜いて、田植えをします。田植えをするためには、その前に別の田圃を耕して水を引 き、準備をしておかなければなりません。田植えが終わってからも、田の草取りをしたり 、水車を踏んで水を田圃へやらなければならないのです。やがて稲が穂を出して実ってくるとまた烏や雀に食べられないように、案山子をたてたり鳴子をつけたりしなければなりません。十分穂がみのったら今度は稲刈りです。刈り取った稲は乾燥させて、脱穀しさらに乾燥させてから今度は籾擦りをして籾殻とお米を分離しなければなりません。こうしてできた玄米を臼で挽き、糠をとってはじめてお米ができるのですよ。このようにしてお米ができるまでには、八十八回も手間をかけ汗を流しているのです。このことを忘れないように、御先祖様は米という字を作られたのです。」
赤子郎女は秦一族が米作りに如何に血と汗を流してきたかを、一族の未来の統率者に子供のうちから教えこんでおかなければならないという使命感に燃えていた。
秦 河 勝 古代大和国家の発展を陰で支えた実力者一族の頭領
吉田山の「白樺」という学生相手の飲み屋に、私達はトグロを巻いていた。ママと高校二年生の娘が醸しだす家庭的な雰囲気に魅きつけられる何かがあったのかもしれない。眼鏡の奥底に人なっつこい笑みをたたえて、広隆寺の弥勒菩薩の素晴らしさを情熱的に語っていた秦野という学生は私と同じ法学部五組の二回生だった。
第二外国語にドイツ語を選択する学生が多い中で、フランス語を選択した数少ない変わり種の一人であった。秦野を教室で見かけることは少なく、秦野に会おうと思えば、夜「白樺」を覗いてみればよかった。
彼は、歴史書、美術書を片手に、京都・奈良の神社仏閣を訪ね歩くのを日課としており、夜になると「白樺」へ現れ、同好の学生を相手に彼独特の見方で歴史上の事実を解釈し、皆に披露するのであった。
夏休みになって、学生達がそれぞれ帰郷し、「白樺」が閑散となっていたある日の新聞に広隆寺の弥勒菩薩に抱きついて、あの見事な流れるような線の右手の指を折ってしまった学生のことが社会面の記事として報道された。犯人の学生の名前は伏せられていたが、その記事を読んだとき私は何故か秦野という学生が犯人に違いないと直観した。
「推古天皇が美人であったから、聖徳太子は半跏思惟像を秦河勝に与えたのであり、崇峻天皇が殺されたのもそのためだ。聖徳太子が天皇になれなかったのもその所為なのだ。美しいことは罪悪だ」と熱ぽっく語っていた秦野の言葉を思い出したからである。眼鏡の奥底に光るあの人なっこい眼差しは彼流にいえば犯罪だからである。
その夜、久しぶりに「白樺」へ行ってみたが秦野は帰郷したらしいということで、彼の姿を見かけることは出来なかった。この事件があってから私は教室でも「白樺」でも秦野の姿をみかけることは出来なかった。
私が秦河勝についてその生涯を辿ってみたいと思うようになったのは、学校卒業後さる大手の製造会社に就職をして20年程経ったある日、京都の南禅寺境内にある某僧坊で開かれた同窓会に出席し秦野に会ったからである。この僧坊は権限の乱用で社長職を解任され世間を騒がせた有名百貨店の社長とその愛人の女実業家が逢瀬の場所として使っていたその百貨店の元接待寮であった。
そして20年いや22年振りに再会した秦野はやはり眼鏡の奥に人なっつこい笑みを湛えていた。聞けば暴力団のみをお客にとる有名な弁護士になっているということであった。
美しいことは罪悪だと言った彼。人なっつこい眼差しは犯罪であると思った私。 この二人の22年振りの邂逅が何故か私を1,400 〜1,500 年前の世界へ誘うのである。
今岡多市様
拝啓 13日は母の新盆、本当に悲しさがこみあげてきます。母は本当に逝ってしまったのですか。27日の早朝4時半にお墓参りに行ってまいりましたが、悲しさと寂しさが胸を締めつけます。母の死は呼吸停止でその上葬儀は密葬、こんなこと聞いたことありません。母の悲報を誰にも口にだすことができず秘密にしているのです。先に故母寿子の死亡診断書の写しを送付頂くようにお願いいたしましたが、未だお返事を頂いておりません。どうして送って下さらないのですか、それによって言いがかりをつけるとか難詰したりするつもりは毛頭ないのです。ただ母の死を納得したいだけなのです。本当に母がこの世にいないことがどうしても信じられないのです。助けて下さい。死亡診断書がどうしても私には必要なのです。死んだことを納得するために。
再再度死亡診断書の写しを郵送して下さいとお願い致します。 6月12日付けのお便りに「故人の最終にして最高の意思の表明が遺言書でございますので、それを尊重することがせめてもの親孝行の道かと存じます」と書かれておりますように私は母の意思を尊重して生きていきたいと思っておりますが、福吉による暴行傷害事件の被害者である享子姉の気持ちは私とはまた別の抑えきれないものがあるようです。
親に呼ばれて集まった会合で親姉弟の前で実の弟に理不尽に殴られ怪我させられて、その事実がなかったことになっていることに怒りの根源があるのです。私としては姉が欲得なしの意地で弁護士をたてて遺留分訴訟を起こし、親姉弟間の醜く見苦しい遺留分争いになることを心底危惧いたしております。私はこの事件では直接には何の被害も受けておりませんが福吉の暴行傷害事件の現認者として、また姉を同伴した者としての責任と亡母から「稔子を頼むぞ」と頼まれている者としての責任から姉に単独行動はさせられないので、遺留分争いとなれば姉と同一行動をとらざるを得なくなることを虞れています。私の本心は遺留分訴訟はしたくないのです。だからそうならないように父親に頑張って欲しいのです。
福吉の暴行問題はひとまず稔子と福吉間の未解決問題として横へ置いておいて、以下に私の提案を述べます。
先のお便りに「貴金属や生前分与されたものを含めた相続対象となる財産目録の作成は四十九日が済んだあとにお知らせしたい」とありますが、貴方が再三仰るように「母にも貴方にも財産は何も残っていない」ということであれば、「85年間二人で頑張って事業してきたが、三人の子供にはこれだけしか残せなかった」とはっきり宣言なさった上で、「長男にはこれだけ、姉二人にはこれだけ」と少ないなりにはっきりと示され、「無駄な遺留分争いはやめて欲しい。見苦しいだけだ」とはっきり言って下さい。
「三人しかいない姉妹弟が遺留分をめぐって法廷で争う見苦しい争いはやめなさい」と父親としての威厳を保って言って下さい。母の遺言を遵守できるように毅然として事実を伝えて下さい。母の遺言に「どうか今後ともおのれの分を知り、人の立場を理解し、公正な社会人として、大小は別として、人の師表になる、子孫の教材になるような生きかたをしてくれるように望みます。それが最短ルートかと思います。私は私の死後も今岡家が安泰で、きょうだい仲良くしてもらうことが最大の願いです。」とありますように、貴方がまず模範を示して下さい。親として三人の子供に公正公平な行動をとって下さるように、そして早急に相続財産目録を送って下さるようお願い致します。相続財産が何もないのに無駄で虚しいだけの意地による遺留分争いにならないように、先送りしないで早急に晩節を汚すことなく親としての役目を果たしてくださるよう重ねてお願い致します。 敬具 平成15年7月8日 豊岡 淑子
遺言書を読んでから淑子が多市に出した手紙
今岡多市様
死亡診断書送付の請求
前略 6月12日付けの貴方よりの返信とともに亡母の公正証書による遺言書写しを本日受け取りました。初めて私の要望の一部に応えるお便りに接しました。しかしながら、お手紙には「今回法要さえ出席しないとのことですので」と書かれておりますが、「暴行傷害事件にけじめがつけられておらず、未だ依然として同席できる環境が整えられておりません。暴行傷害事件の非を認め、謝罪の意を表し、二度と同種の事件は起こさせないという誓約をしていただかない限り、席を同じくすることに身の危険を感じているから出席できないのです。」
この公正証書遺言状とともに送られてきたお手紙を拝見してがっかりいたしました。私の怒りと心情が全然理解されていないのに驚いています。貴方は真面目に私の手紙を読まれたのでしょうか。本当に読んでいただけたのでしょうか。
常日頃、孫子や社員達に「挨拶、挨拶」と口やかましく言っておられる貴方が「基本的な挨拶」を忘れているのではないでしょうか。自分で招集した会議で発生した暴行傷害事件の非なることを素直に認め、非は非として率直に被害者に謝るのが、「一番大切な挨拶」ということではないのでしょうか。何故簡単なことができないのですか。言うこととやっていることが全然違うではありませんか。 私の一番の憤りは、生前の母に会わせていただけなかったことと私の抗議の意味や心情がなにも理解されていないことにあるのです。
何か遺産目当てで騒いでいるという風にしか受け取っておられないのが悲しいことです。母の訃報に動転して国光病院に電話したとき貴方が開口一番「どんなに騒いでも財産なんか何もないよ」と言われた守銭奴的な発言のことは終生忘れることができないでしょう。
私は母がどのような最後の日々を送ったのかが知りたいし、「呼吸停止」で逝った死因を死亡診断書で確認し納得したいのです。それも暴行傷害事件のけじめがついていないので、お二人と対面してお聞きすることができないのが悔しいのです。前回のお手紙で死亡診断書の写しを送っていただくようにお願いしましたが、今回同封されていなかったのは何故でしょうか。お尋ねしますとともに重ねて死亡診断書の写しを送付して下さいますようお願いいたします。
豊岡淑子
今岡福吉から今岡寿子の遺言書のコピーが郵送されてきた。
今岡寿子の遺言書
女学校を卒業したばかりで世の中の右も左も判らない二十才の若さで、あまりにも急なもので結婚式もして貰えず、無一文の今岡に柳行李一つで嫁いできました。以来五年間、共に力を合わせて配管請負業を営み、何とか生活も楽になった頃、今岡は応召、戦地にいきました。二才と四才の娘を抱え、生家が石材店なので、父や兄の好意で手慣れない石材の運搬などを手伝って手間賃を稼いだり、生活物資の転売、ミシンを踏んで稼ぎ、畑を買って農産物を自給し、人の恵みを受けることなく自力で立派に銃後を守りました。親兄弟といえども、物品、金銭など一品、一銭たりとも、決してただではいただきませんでした。
終戦後約一年近くして、天運に恵まれ今岡が約4年の軍務を終え、復員してまいりました。今岡は私に輪をかけての努力家で、あくまでも自力本願、如何に困窮しても、精神的にはともかく、物質面においては一銭たりとも他人の恵みは受けません。独立独歩の精神に徹していたからです。復員直後は米を東京に運び、帰路は進駐軍物資の衣料などを田舎に運び、いわゆる闇屋をしたり、ぽんせんべい焼き、菓子問屋など、次から次と新しい仕事に励み、成果をあげました。世界大戦後の米ソの冷戦が始まり朝鮮戦争勃発、軍需基地となった日本の工業化が急速に発展、戦前より今岡が最も得意とする配管請け負い業が繁盛し、今岡建設株を創立,今日に至っております。今岡建設の創業は結婚後間もなくの昭和12年ですから今年で63年、共栄株は32年になります。男は仕事、女は内助の効、それにすべてをかけるのが人生の華であります。60年以上手塩にかけて生み育てた両社の今後益々の持続と繁栄を願うのは、人間最高の願望ではないかと信じます。
子供3人に恵まれ、それぞれ世間一般に照らし、恥ずかしからぬ生活を営んでおります。親としては喜びであり、誇りでもあります。
どうか今後ともおのれの分を知り、人の立場を理解し、公正な社会人として大小は別として人の師表になる、子孫の教材になるような生きかたをしてくれるよう望みます。それが人間の生きかたの幸福に繋がる最短ルートかと思います。
私は私の死後も今岡家が安泰で、きょうだい仲良くして貰うことが最大の願いです。
私の死後、無用の争いを避けるためにこの遺言公正証書を作りました。日本社会の上級知識人として、恥ずかしからぬを願います。
遺言者は遺言者の所有する左記の財産を長男の福吉に全部を相続させます。
遺言者は第3条及び第4条に記載した財産を除く遺言者の有するその余の財産の全部を全記遺言者の長男今岡福吉、遺言者の長女児島稔子(昭和14年10月1日生まれ)及び遺言者の次女豊岡淑子(昭和16年10月4日生まれ)の3名に相続させ、今岡彰子(昭和23年1月1日生、前記遺言者の長男今岡福吉の妻)及び今岡○太郎(昭和47年10月23日生、前記遺言者の長男今岡福吉の長男)の両名に遺贈する。その割合は各五分の一とする。
今岡多市様 49日の法要に欠席の件
前略 亡母今岡寿子の49日法要の案内は確かに受け取りましたが、暴行傷害事件について一言の言及もなく未だけじめがつけられていないので欠席します。
ことある度に主張しておりますが、去る平成11年1月29日発生の今岡福吉による暴行傷害事件は、貴方の招集に応じて出席しましたのに、親姉妹の面前でしかも貴方も見ているところで理不尽に殴られ大怪我をさせられたのですよ。もしもこの席に妹の淑子さんが同席していて制止してくれなければ、私は殺されていたかもしれないのですよ。
いくら兄弟姉妹の間柄とはいえ、全治3週間の大怪我をさせておいて見舞いはおろか謝罪の一言もないのはどういうことでしょうか。 このような事件を起こしておきながら事件がなかったことにして、臭いものに蓋をする貴方のやり方は一人の人間としても赦すことができません。何故事実を事実として素直に認め、非は非として素直に謝ることができないのですか。
常日頃口癖のように社員達に「挨拶、挨拶」と口うるさく言っている貴方は「最低限の挨拶もできない人品卑劣な人間で、言っていることとやっていることは全然反対の人」と思われても仕方がないのではないでしょうか。
私からの文書による抗議に対して、たまたま残っていた「親族宛に用意した印刷物である49日の案内書」をおざなりに郵送してきただけの誠意のなさには憤りがいや増すばかりです。
このような態度をとられると、あの暴行傷害事件は貴方と福吉が予め共謀して起こした事件と疑わざるをえません。阿南町名誉市民の資格はこのような共同犯罪行為を起こしこれを隠蔽しつづけなければならないほど迷惑な称号なのでしょうか。
事件にけじめのつかない限り、同じ席につくことには身の危険を感じますので欠席します。
親族の皆様に「お見せする故今岡寿子の遺言書」のコピーを6月20日までに郵送で送って下さるようお願いいたします。 敬具 差し出し日 平成15年6月6 日 名宛人 東京都大田区田園調布 今岡多市 差し出し人 東京都目黒区碑文谷 1−1−4 児島稔子
★四十九日の案内 豊岡淑子殿 拝啓 初夏の候、皆様お揃いでご健勝のことと拝察申し上げます。 さて5月10日に葬儀を済ませ、来る6月26日には亡妻久養院分応浄照大姉の四十九日にあたりますので、日蓮宗大本山池上本門寺において心ばかりの法要を営みたいと存じます。つきましては、ご多用中恐縮でございますが、当日午前10時までに同寺総受け付けに御来駕下さいますようお願い申し上げます。その折り、生前故人が遺言書を作成しておりましたので、お見せしたいと存じております。なお当日は法要の後、故人の想い出話しなど承りたく存じますので粗食の用意をいたしてございます。 敬具 東京都太田区田園調布1丁目○○番地1号 今岡多市
多市と寿子の関係その5
多市は請け負い師としては若くして成功した者のうちに属するであろう。請け負い師の宿命として請け負い工事が完成して工事代金の支払いを受けるまでは職人の手間代や宿泊食事代等を立て替えなければならない。時には若い職人達に飲まさなければならないが、手持ちの金が潤沢にあるわけではなく台所は何時も火の車であった。 勿論工事着手の時には着手金として請け負い工事代の1/3程は支払われ、中間でも出来高払いを払って貰う訳ではあったが、締め切り日の関係で何時も金には窮していた。
寿子も帳面付けを手伝いながら業界の雰囲気にも次第に慣れてきて、職人の手間代を支払う準備をしている時に、どうしても現金が足りない時には持参した帯、着物や指輪、時計等を質屋に入れて都合をつけ良き内助の功をあげていた。しかし、お嬢さん育ちの身にとっては風呂敷に包んだ質草を人目につかないよう夜を選んで質屋へ運ぶ時の切ない気持ちは我慢できないものとして心に沈殿していった。
内助の功を得て多市も喜び口では「お前のお蔭で助かるよ。今に女中を使いお前には金で苦労させることはしないからな。もう少しの辛抱だ」と言って労ってくれるので、「嫁いだからにはこの人を業界でも名の通った男にしなければ」と自分に言い聞かせとかくしり込みしがちな気持ちに笞打って頑張るのであった。そこには「おしん」の精神にも通じる戦前の女性の美徳が残っていた。
多市と寿子の関係その4
多市の強引なやり口にほとほと困惑した健吉は次女静子の嫁ぎ先の次男坊であるし、いざこざを起こしてもまずいとの判断が先にたった。結局寿子を説得して多市と結婚させることにした。
問題は町長の息子の方であるが、これは親の同意を得てない婚約であるから無効だということで秘密裏に折り合いをつけた。町長も田舎町のこと故身内のごたごたが噂されるようになると町政運営の上でも好ましくないと判断し、内々で収めることに異議はなかった。未だ親権が強力であったから、このような解決ができたのである。今昔の感がある。
このようにして二人は寿子の卒業を待つようにして結婚したのであるが、嫁いでみてびっくりしたのは寿子である。 多市は請け負い工事を手がける程のやり手として売り出し中であったから、家財らしいものはなにもない借家には若い職人達が寄宿して生活しており、賄いは通いの小母さんに依存していたのである。そんな生活の中へいきなり投げ込まれて、甘い新婚生活の夢はどこへやら毎日おさんどんの生活に追い回されるのであった。
多市と寿子の関係の3
多市の行動は早かった。寿子の両親のところへ単身乗り込んで寿子を嫁に欲しいと申し込んだ。突然の話しに田中健吉は戸惑ったが、吾一の弟であるから無下にも断れない。そこは大人の智恵で玉虫色の返事でその場を切り抜け何はともあれ、多市を引き取らせた。
その噂が姉久仁子のところへも伝わった。久仁子は寿子から婚約のことを聞いていたので実家へ急行し父親の田中健吉にその旨を伝えた。困惑したのは健吉であったが、ここはひとまず多市の方へ事情を話して断ろうということになった。
田中健吉から断りの返答を得てひるむような多市ではなかった。反対しているのが長女の姉の久仁子であることを知ると反対者を説得することから始めようと智恵をめぐらせた。教職にあるものが一番嫌がることはなんだろうと考えて、それは職場でスキャンダルの噂が流れることだろうと思いついた。やくざのよく使う手である。
多市は久仁子の務める学校へ出かけて面会を求め、二人の結婚に反対する理由をとことん問い詰めた。こんなことが数度に及んだ。
今岡多市と寿子の関係その2
多市が盆に帰省したとき、兄嫁静子の妹寿子が遊びにきていた。そこで初めて多市は寿子に会ったのであるが、その美貌と賢そうな立ち居振る舞いにぞっこん惚れ込んでしまい、この人を嫁にとまで思い込むようになったのである。 一方寿子は来年高等女学校を卒業することになっており、彼女には町長の息子で慶應大学へ在学している意中の人がいた。彼も来年卒業する予定で二人が卒業したら結婚しようということで婚約していた。しかしこれは二人だけの間の密約でまだ両親には双方打ち明けてはいなかった。
寿子は教師をしている姉の久仁子だけには二人の関係を密かに相談し、折りを見て両親に話して貰うことにしていたのである。
そうとは知らぬ多市は寿子を嫁に貰いたいから仲介を頼むと義姉に当たる静子に依頼したのである。秘密にしていたとはいえ、静子は姉の久仁子からそれとなく寿子が町長の息子と婚約していることを知らされていたので、多市に対して仲介は出来ないと婉曲に断ったのである。静子にも家柄不釣り合いの自分の結婚に不満を持っており、妹にはこの思いを味わせたくないと思ったからである。
今岡多市と寿子の関係1
寿子が今岡多市にみそめられて、求婚され結婚したのには複雑な親族関係がからんでいた。
今岡多市は東北地方の古い農家の次男であり、その実家は長兄が家督を引き継ぎ農業を営んでいた。長兄今岡吾一の嫁今岡静子は同じ町内で郵便局を営む田中健吉の次女であった。そして寿子は田中健吉の三女であった。従って今岡吾一と静子の夫婦と今岡多市と寿子の夫婦はお互いに、夫側は実の兄弟、妻側も実の姉妹という関係であった。
当時の農村では結婚には家柄ということが重視され、例え農業を営んでいても昔庄屋であった家系は家柄が良いとされていた。しかし士農工商という身分制度の名残は家柄の格付けにも影響があり、士族の末裔は例え貧乏していても庄屋よりも上に各付けされた。
田中健吉は士族の末裔であり田舎でも素封家として知られていたが、何しろ二男五女を設け五人の子女達は高等女学校を卒業させていたから家計は火の車であった。
一方次男の多市は若い頃から一旗上げようという気持ちがあり、上京して大工に弟子入りして腕を磨き、独立して請け負い工事が出来るまでになっていた。
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