表身頃のココロ
ぼちぼちと。今さらながら。

2005年05月31日(火) 5月のパフォーマンス

5月に見たパフォーマンス

「不時着」
パフォーマンスグループ・水と油

前回、初めて見て虜になった水と油。やはし好き。

ちょっと逸れるが、私はNHK教育テレビの“ピタゴラスイッチ”が大好きだ。
科学するココロをやさしく柔らかい頭と心で教えてくれる番組だ。
初めて見たときには感動のあまり、じ〜んと心がしびれたものだ。
・・という番組、その中で“アルゴリズム体操”というのがある。
(前置きが長いが)水と油を見ていて、ふとアルゴリズム体操を思い出したのだった。
水と油の極めて高度に構成された精度の高いアンサンブルは、アルゴリズム体操を数百倍複雑にして、流れるようにのびやかにしたパフォーマンスだ。

水平方向の動きだったはずのものが、同じ動きなのにいつの間にか垂直方向に変わっているなど、発想の斬新さにも舌を巻く。
前回見たものと被るパートもあったが、不条理で不可思議でおかしな世界、素晴らしい。

今回の『不時着』では、メンバーのじゅんじゅん(高橋淳)が病気のため欠場。
ももこん・おのでらん・すがぽんのオリジナルメンバーに加え、丸山武彦、中村達哉(イデビアン・クルー)の2名がじゅんじゅんに代わり出演。

(5/28 at グローブ座)


「ロック曽根崎心中」

原作:近松門左衛門
人形役割:桐竹紋寿・吉田文吾
構成・作詞:阿木曜子
音楽:宇崎竜童・安岡力也・尾崎亜美 

文楽人形の動きの美しさに泣く。道行きの美しさに泣く。

舞台前方で文楽人形が操られ、後方で宇崎バンドが歌い演奏する。
舞台の両そでに積み上げられた巨大スピーカー。
初めて国立劇場でロックが演奏されたそうな。
宇崎竜童の音楽はちょい時代がかっているが、その短調・情念系のメロディラインが曽根崎心中という素材にフィットするのではないかと思っていたが、ちと気恥ずかしい感じ。
義太夫語りの名調子を阿木曜子作詞の曲に変えて演奏される。
例えば「いつ迄言うてせんもなし。はやぅはやぅ殺して殺して」という部分が「どうぞ殺して下しゃんせぇ〜♪」と歌われるのだ。うーむ・・・ぽりぽり。

通常の文楽では、歌舞伎と同じように照明つけっぱなしだが、ここでは演劇的な照明が施される。夕刻時、郭の提灯に灯りがともる夜景の美しいこと。道行きの夜道の美しいこと。スポットライトも効果的に決まる。

どうも音楽のこっ恥ずかしさにとらわれて、時々ぎゃっ!と言いそうになるが、道行きのシーンは、歌詞なし音楽のみで舞台も照明もシンプル。
人形の動きの美しさが際立つ。あぁぁ〜うつくし。

(5/24 at 国立劇場小ホール)


「五月大歌舞伎」夜の部

・義経千本桜
・鷺娘
・野田版 研辰の討たれ
(5/26 at 歌舞伎座)



2005年05月30日(月) 「ライフ・イズ・ミラクル」「オープン・ウォーター」

ライフ・イズ・ミラクル
Life is Miracle
[セルビア/2004年/154分]
監督・脚本:エミール・クストリッツア

大っ好きなクストリッツアの新作、オープニングから絶好調。
くぅーっ!たまらんぜぇとのびのびと安心して浸る。
いつもながらの不条理なドタバタ、大らかでエネルギッシュでハイテンションな世界、クストリッツアのノースモーキング・オーケストラの音楽がけたたましくそれが心地よく響くなか、さりげなくも大胆に政治情勢が語られる。
クストリッツアがセルビア人であるので、ボスニア戦争では悪党側にされてしまったセルビア側(この辺の事情の一側面が「戦争広告代理店」というドキュメント本に詳しく、心底面白かった!)が舞台となるが、当然ながら戦争に善玉も悪玉もなく、しみじみと納得したりする。
私見ながら、クストリッツアの中では「アンダーグラウンド」に次いで好きかも。
「スーパー8」は別格。

(5/30 at よみうりホール)

オープン・ウォーター
Open Water
[アメリカ/2003年/79分]
監督・脚本:クリス・ケンティス

“サンダンス映画祭観客賞”に弱い私。
ちと期待が大きすぎたみたい。
いや、カナズチの私、充分怖かったけど。

(5/31 at 明治安田生命ホール)



2005年05月25日(水) 「エレニの旅」「北京にブラームスが流れた日」

エレニの旅
TRILOGIA I: TO LIVADI POU DAKRYZEI
[ギリシア/2005年/170分]
監督・脚本:テオ・アンゲロプロス

爆睡したこともある、唸ったこともあるアンゲロプロスの映画。
少々臆しながらも新作に足を運ぶ。
普段は見る前に情報を入れない私であるが、(びびっているので)これは前もって少々調べてみた。が、一夜明けるとすっかり忘れて、可哀想な私の脳には“何やら壮大なるギリシアの歴史の序章であるらしい”位しか残っていない。
などと少々不安な気持ちで向かったわけだが、始まってみると、興味は前へ前へと尽きず、何より映像の美しさにひたすら右脳が活性化。
ため息も漏れる。

しかし、ギリシアの現代史など何も知らない私、それをエレニが体現しているというキモの部分についてはぴんと来ないまま終盤を迎える。
が、ファシズムの台頭から大戦〜内戦にかけて、夫はアメリカ軍として大戦に参戦し、双子の兄弟は政府軍と反乱軍として内戦に参加、エレニ自身投獄されるなど悲惨な行方を見守るうちに、そもそも難民として始まった彼女らの厳しい運命を思いやる。
ラスト、あからさまな観念の世界で(倒れたエレニの幻覚かもしれないが)、エレニの悲痛なまでの叫びに胸がつまる。
これがギリシアの慟哭か。
(5/25 at シャンテシネ)


北京にブラームスが流れた日〜小澤征爾、原点へのタクト〜
『スゴバン/すごい番組がありました』という、テレビマンユニオンの制作した番組のレトロスペクティブがライズXであった。何本も見たいものがあったのだけれど、結局これ一本の鑑賞となった。

・中国の文化大革命中、厳しく封印されていた“西洋音楽”が初めて甦った。
反革命の罪で9年も獄中にいたコンサートマスターが率いる北京のオーケストラ『中央楽団』。その指揮は中国で生まれた小澤征爾。
当時、中国との国交がなかったにもかかわらず5年越しの交渉が実る。
1978年7月放送

この間の事情は、以前に読んだ武満徹との対談集『音楽』でも触れてあって、かなり印象深く残っていた。
革命中は12年間も政治的な音楽以外は、自国の古典音楽さえも禁止されていたという。
実際、練習前に「この中でブラームスを弾いたことのある人は?」という問いに、映像ではひとりの挙手があったきり。(本では3人ぐらいになっていたけど。)
基礎技術は高くても、ブラームスの弾き方を全く知らない、でもいつか弾きたかったというオケの熱い思いに小澤が応える。

練習時間が極端に短かったり、国民性の違いなどにも苦労したように見受けられるが、演奏が終わり、涙を流す楽団員や観客の姿は、決して中央からの押しつけの成功や感動とは違うもののような気がした。

また、昨年たまたま演奏会で見た、二胡の建姜華が18才の頃の映像があったのにも驚いた。
今ではすっかりあか抜けた大人の女性だが、当時の彼女はリンゴのほっぺのまんまるお下げ髪少女。
そういえば小澤に認められて広く活躍するようになったと聞いた気がする。
18才の彼女の演奏を聴き、泣く小澤の映像は印象的だった。
(5/29 at ライズX)



2005年05月21日(土) 「クローサー」「弥次喜多」

クローサー
Closer
[アメリカ/2004年/103分]
監督:マイク・ニコルズ
戯曲・脚本:パトリック・マーバー
出演:ジュード・ロウ、クライブ・オーエン、ナタリー・ポートマン、ジュリア・ロバーツ

エンドクレジットで、この映画が舞台劇の映画化ということを知って納得。
なるほど、男と女の辛辣かつ皮肉でしゃれたセリフの数々・さりげない時間推移のしかたなど、舞台ではさぞや面白いことだろう。
同じセリフを話しても、カリカチュアされた皮肉な人間模様を浮き出させる(であろう)舞台と違って、この映画では背景を丹念に描けば描くほどただ生々しく流されるだけのドラマになってしまっているような気がする。
ただ、役者はジュリア・ロバーツ以外ははまり役で好演。
元々好きではない女優なのでどうしてもマイナスの目でみてしまうのだが、ジュリア・ロバーツはアンサンブルが命のこの劇を壊しているようにしか思えない。
(5/21 at TOHOシネマズ市川)


真夜中の弥次さん喜多さん
二度目。
前回見たとき、席を立ちながら感激のあまり連れに「クドカンって天才〜」などと話していたのだが、さすがにそれは言い過ぎと自覚している。
しかし、職人としての力量は大したものだと思う。
今後も目を離しませぬぞ。
ところで、私は若いときからテレビドラマが苦手だ。ほとんど見ることはない。
しかし先シーズン、クドカンということで見てみた「タイガー&ドラゴン」!
あまりの面白さに一回目からすっかりココロ奪われ。
それにしても毎週楽しみにしてるドラマがあるということは何と楽しいことか。
最終回も終わった現在、テレビは用無し。何となく淋しいなぁ。
(5/22 at シネマライズ渋谷)



2005年05月20日(金) 東響 / N響

東響+ハインリッヒ・シフ
指揮:大友直人 チェロ:ハインリッヒ・シフ
ドヴォルザーク;チェロ協奏曲ロ短調
エルガー;序曲「フロワッサール」、変奏曲「エニグマ」
(5/20 at 東京芸術劇場)


N響オーチャード
指揮:パーヴォ・ヤルビィ チェロ:トルルス・モルク
ペルト;バッハ主題によるコラージュ
ハイドン;チェロ協奏曲第1番
シベリウス;交響曲第2番
(5/29 at オーチャードホール)



2005年05月18日(水) 「ミリオン・ダラー・ベイビー」

◆ミリオン・ダラー・ベイビー

幸いにもネタバレ地獄に落ちる前に試写会で見ることができたものの、はや2か月近く経つ・・・。
ココロ打ち震えつつ“これはもう別格だ!”と思ったものだ。
久々に記憶の開墾を始めてみる。

“ボクシングとは尊厳を奪い合うスポーツだ。勝ったものが負けた者の尊厳を奪い取るのだ(大意の記憶)”という、冒頭のナレーションが後で大きく沁みてくる。

優れた映画の常として、この映画もいろんな角度からきちんと描かれているが、私的にはイーストウッド演じるフランキーの“贖罪と許しの物語”としての見方が気に入っている。

冒頭、就寝前の祈りで、返還された手紙から娘のために祈り、その後“あとは毎日同じ祈りなので省略”と言っていたが、後にそれはモーガン・フリーマン扮するエディとのことによる祈りと知れる。また、23年間、1日も欠かさず教会に通い詰めていた事も後に知れるが、それもまたエディに対する罪の意識からだったのだと思える。
カソリックであること、ゲール語のイェーツ・リングネームとしてつけた“モ・クシュラ”、リング衣装の緑などからも彼がアイルランド系と知れるが、アイリッシュ気質の頑固さそのものだ!
そのかたくななまでの教会通いは自分に課した罰のようにも見受けられる。
また、司祭をおちょくるような質問ばかりしてたが、両者の間には長年にわたる信頼関係が築かれていることも後に知れる。
などなど、カソリックとしてのバックグラウンドが丹念に描かれれば描かれるほど、後の選択が厳しく重いものとしてのしかかってくる。

フランキーは、23年前の試合でエディが失明に至った事を自分のせいとして十字架を背負って生きてきた。
そして23年後、愛弟子マギーの生死の選択を迫られ、苦渋の末、再びより重い十字架を背負うこと覚悟でアドレナリン注射をバッグに入れ出かけようとする。
その時、フランキーの行動を悟ったエディが言う。
「生を与えられ、マギーは充分生きた」。
それはすなわちエディが夢見、失明により中断され叶えられなかった生のことでもある。
生きるだけの為に23年間という残りの時間を過ごしてきたエディの言葉は深くフランキーの心に沁みたはず。エディにより許され、背中を押された形で事に及ぶフランキーに迷いは無かったはずだ。

“ボクシングとは尊厳を奪い合うスポーツだ”という、冒頭のナレーションが思い出される。尊厳を勝ち取ったのがマギーなら、奪われたのは誰になるのだろう?
機械によって生き長らえていたかもしれないマギー自身のような気がしてならない。

本国アメリカでは尊厳死の観点から論争が起こったと聞いたが、「海を飛ぶ夢」のように真っ正面から尊厳死を扱った映画ならともかく、この映画はその是非を問うものではあり得ない。その決断に至るまでのドラマとして深く味わうべきだと思う。

また、脇の話も皆素晴らしい。
エディの110試合目(!)の勝利は、この映画唯一のカタルシスだ。

リングネームの“モ・クシュラ”の意味、日本語訳はぴんとこなくて忘れてしまったが、"My dearing, my blood"・・・熱い!そして感動。 

マギーの育った環境や家族の言動は、典型的ホワイトトラッシュとして決して特別なものではないように思う。福祉切り捨てとかが連想され、思わずブッシュの顔が浮かんでくる。
超反則技くり出しドイツ女とマギーの家族が悪役扱いされるが、彼女らなりの心貧しいが生きるすべなのだ。

フランキーが消えた後、エディがジムを維持していく事になるのだろうが、経営者として漂白剤のブランドは変えるのだろうか?

ところで、エンドロールを眺めていて、えっ?と思ったのは“Little girl on truck”モーガン・イーストウッド!。ガスステーションでマギーと微笑みを交わしていた子だ。
「許されざる者」で、娼館のおかみを演じたキャリー・フィッシャーがイーストウッドの子を産んだと覚えているが、映画でのモーガン・フリーマンとの友情もあるしその時の子かなと思って調べてみた。
いやいやびっくり、その後また再婚した超年下妻との子だった。
音楽は息子共々担当しているし、イーストウッド、かっこいいなぁ。



2005年05月11日(水) 「やさしくキスをして」「靴に恋して」「イブラヒム〜」

何も書かないまま、時だけが過ぎゆく状態が続いてしまっている。
とりあえずタイトルだけはメモしてあるのだが、時間が経てばたつほど記憶を掘り起こす作業がつらい。
いけないいけない・・・、記憶のリハビリはどうなった・・・と。
以下、ほとんど印象。

◆やさしくキスをして
AE FOND KISS...
[イギリス/2004年/104分]
監督:ケン・ローチ

イギリスに暮らすパキスタン二世の青年とイギリス人女性、突然の愛の始まりはどの世界に属していようが世界共通だ。その後、どうやって愛をはぐくんでいくかという普遍的なテーマをケン・ローチらしいアプローチで描いていく。
イギリス人であるケン・ローチは今まで社会的・政治的なテーマを深く見つめ描き続けてきた監督だ。このラブストーリーも例外ではない。
モスレム社会とイギリスの社会因習を偏ることなく描き、やさしいユーモアを交えつつも避けがたい溝を深く厳しく描き出す。
映画は一応ハッピーエンドだが、根本の解決には遠いことから、この先色々あるに違いない。しかし新しい世代の二人は自分たちの形を模索しつつ努力で乗り越えていくのだ。

現代の日本で暮らす我々には到底測ることの出来ない価値観を持つ世界は多い。
その本質のようなものを多少なりとも感じることができる映画に対する興味は尽きない。
理解できないものを生半可に断罪することは簡単だけれど、私は理解することに努めたい。
・・って、何を言っているのだせう。ちょっと含むことのある怒りモードか。
(5/11 アミューズCQN)

◆靴に恋して
PIEDRAS
[スペイン/2002年/135分]
監督・脚本:ラモン・サラサール
誰もが自分の足にぴったりフィットする靴が欲しい。
もちろん物理的意味で、サイズがぴったりで好みの姿形で履き心地の良い靴があるとどんなに良いだろう。そんな靴とはなかなか出会えない。
同じように、人生を共に過ごす相棒もまた靴のようなものだ。
この映画は、どこかにいるベターハーフ(うっ!死語かいな!)を求めてやまない5人の女の話だ。・・いや、正確には4人の女+心は女の1人?。
それぞれのエピソードが織られ描き出された模様は、普遍的な人間そのもの。
ひたすら胸につまされる。厳しくもやさしい映画だ。
(5/10 ギンレイホール)

◆ イブラヒムおじさんとコーランの花たち
MONSIEUR IBRAHIM ET LES FLEURS DU CORAN
[フランス/2003年/95分]
監督・脚本:フランソワ・デュペイロン
老いてなお美しいオマー・シャリフの魅力にあふれた一本。
(5/10 ギンレイホール)



2005年05月10日(火) ルオー展/ゴッホ展/ベルギー象徴派展

出光コレクションによる「ルオー展」
私はルオーが大好きだぁ。
所蔵する出光美術館ではルオーコーナーで小出しにしているものを、今回どどーーーんと気前よく現代美術館へ貸し出し、一気に展示の偉業。

たまたま前日、突然聴きたくなってアルヴォ・ペルトの音楽を私的大特集で聴いていたのだけれど、ルオーを見ながら思い出した。
ルオーとアルヴォ・ペルト、似ている。
ジャンルは違うけれど、共に内に向かう視線とその先にある魂がたまりませぬ。
展示替えもあり、後半に再度行くつもり。

現代美術館では同時に「ハウルの城展」なるものを開催していたのだが、ルオーと両方鑑賞すると少々割引になるらしく、ハウルに来たのだろう親子連れが時々早足で通り過ぎる。
小さいお友達には暗〜くて陰気なルオー、トラウマになったらどうする!
(5/8 at 東京都現代美術館)

ゴッホ展
人気のゴッホ展の終わり近く、とにっかく混んでいた。私もそのひとりなのだが。
噂には聞いていたので平日の朝に行ったのにこれだ。
もうゆっくりと見ることは不可能。
人の流れのペースでのろのろ見る気にはなれず、とりあえず見たい絵だけをちゃっちゃと鑑賞。「夜のカフェテラス」「糸杉と星の見える道」本物があると思うだけでどきどきしてしまうのに・・なかなか集中できない。
何故だか前に人がいなかった「麦の穂並み」が気に入ってしまった。好みではあるのだが、人が周りにいないことで集中できたからなのか。
その後ざっと見るが、ゴッホの生涯に沿っての流れ・影響を受けた作品までも展示など興味深いことこの上なし。
ゆっくりともう一度見たい〜。相当不完全燃焼。
教訓・・人気の展覧会は早めに・・っていつも思う。学習能力ゼロの私。

いつも列を作っているので敬遠していた近代美術館内のレストラン「クイーンアリス・アクア」。今回オープンと同時に行ったらすんなり入れた。
・・・・。料理以前の問題が山ほどあるように思う。もう二度と行かない。
とはいうものの、心底キモチの良い陽気だったのでオープンテラスに席を取ったのは大正解。皇居のお堀を眺めつつちょっとした幸せを感じる。
(5/9 at 国立近代美術館)

ベルギー象徴派展
19世紀末、ウィーンでは「ウィーン分離派」、イギリスでは「ラファエロ前派」が花開いた頃、ベルギーでは「ベルギー象徴派」が活動を始める。
ウィーンやラファエロ前派に比べるとちょっとマイナーの香り漂う。
特に好みではないのだけれど、主題をギリシア神話や物語や聖書などから取った絵の数々は楽しい。
(5/11 at Bunkamuraザ・ミュージアム)

ジョルジュ・ラ・トゥール展
性懲りもなく三度目。→1度目の感想
やはり「荒野の洗礼者聖ヨハネ」素晴らしい。
(4/19・5/20 at国立西洋美術館)



2005年05月02日(月) 「キャビン・フィーバー」「ローマの一日」

◆ キャビン・フィーバー
[アメリカ/2002年/93分]
監督・脚本:イーライ・ロス

久々にシネパトスへ出かけ、シネパトスらしい映画を見た〜♪
えーっと、この映画、ピーター・ジャクソンが推薦しているのである。
「ロード〜」のみならずB級ホラースプラッターコメディの金字塔「ブレイン・デッド」を作ったピーター・ジャクソンだ。
彼が推薦するものを見ずにはおられようか・・・。

えー、いやはや確かにB級ホラーそのものである。
5人の若者が森の小屋で休暇を過ごすも、謎のウィルス発生で恐怖にひきつりパニくり暴走。
皮膚が腐りどろどろ出血の描写にこちらもひきつりつつも、後半、彼らの見っ事な暴走っぷりに脱力しつつ笑いつつツッコミ入れつつ感嘆。
てんでバラバラな5人のキャラが、ホラーの様式に則りながらも、思わぬ所で裏切ってくれる小気味よさ。

若者たちが過ごす森があるど田舎の町は、冒頭、「悪魔のいけにえ」など無知な白人差別主義者たちの住む不気味な町を連想させてくれるが、それをラストですこぉぉぉーーーんと裏切ってくれたる気持ち良さ。
ピーター・ジャクソンご推奨に納得。
映画館を出るときも微笑みが止まらない、こんなホラーは珍しい。

しかし・・・私って何て節操無く映画を見ているのだろうか・・と時々思う。

(銀座シネパトス)


◆ ローマの一日
[イタリア/2003年93/分]
監督:エットーレ・スコラ

今年のイタリア映画祭は、これ一本になってしまった。
が、これ一本で充分満足。
ローマに住む市井の人々の一日を描いたセミドキュメンタリーだ。
先月見た「永遠のハバナ」とコンセプトが同じで、どちらも“珠玉の”という言葉を冠したいが、ハバナが手作り感に溢れた印象だったのに対して、ローマは見事な職人芸のモザイクという印象。短い一日の描写の中に現在のローマの姿のみならず過去や未来も包括、優しさに溢れながらも鋭い視線が感じられる。

ナンニ・モレッティが大きな広場で演説している姿が挟まれていた。
モレッティは映画監督としてだけでなく左翼知識人(?)としても有名だが、人間の鎖運動のリーダーの頃の映像なのかもしれない。

(朝日ホール)


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