◆ オペラ座の怪人 The Phantom of The Opera [アメリカ・イギリス/2004年/140分]
監督・脚本:ジョエル・シューマカー 製作・脚本:アンドリュー・ロイド=ウェバー 原作:ガストン・ルルー 出演:ジェラード・バトラー、エミー・ロッサム、ミニー・ドライヴァー パトリック・ウィルソン、ミランダ・リチャードソン
劇団四季の初演当時、夫が音響に携わっていた事から、初日の数ヶ月前からニューヨーク公演の通しテープを家でさんざん聴かされ、ゲネプロ含め公演も数回見せていただくという幸運に恵まれていた。 「オペラ座の怪人が可愛そう」と、しくしく泣いていた当時幼稚園児だった小娘も現在20歳。 あれから十数年、記憶が隅々まで刷り込まれていた事に驚き、それが鮮やかに甦った事に驚く。 いやもう、それでもう充分満足。
多少の変更や新しく加わった所はあっても、ほとんどアンドリュー・ロイド・ウェーバーの舞台版そのまま。 埃をかぶったシャンデリアが甦っていくところからもうすっかり引き込まれ。 ずっと同じお顔のクリスティーヌも濃ゆいファントムも白馬の王子様ラウルも皆、がむばっておりなさった。 あぁ〜楽しかったぁ〜♪・・って、終わりかい。
聴かせるアリアや二重唱・三重唱の曲たちは、皆、美しく好きなのだけれど、それとは別に、以前聴いていて音楽的に一番興奮したのが、支配人にファントムから手紙が届く所から始まりカルロッタのご機嫌をとりゆくパート。 支配人達の二重唱から始まりラウルが加わり三重唱、カルロッタとテノール歌手が加わり五重唱、最後にはマダム・ジリーと娘が加わり七重唱となるアンサンブルはわくわくが止められない素晴らしい部分だったのだ。 それなのに、映画ではしょぼーん。 とりあえず皆ちゃんと歌っている中で、支配人の大きい方(サイモン・カロウじゃない方)の声と音程が不安定でハーモニーがハーモニーになっていなかったのだ。 映画では説明的パートとして映像で魅せる演出だったので(ミニー・ドライバー最高!)、野暮は言いたくないのだけれど、すごくがっかりしてしまったのだった。 ミニー・ドライバーは吹き替えと聞いたけれど、せめて支配人(大)も吹き替えるくらいのことをすれば良かったのに・・・。 などという文句をひとくさり言ってみたかっただけ。
新国立劇場オペラ劇場 作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ 演出:野田秀樹 美術:堀尾幸男 衣装:ワダエミ 指揮:リッカルド・フリッツァ 東京交響楽団
マクベス:カルロス・アルヴァレス マクベス夫人:ゲオルギーナ・ルカーチ バンクォー:大澤 建 マクダフ:水口 聡
野田版「マクベス」昨年の初演から一年も経たないうちの再演である。 初めてのオペラ演出なのに大胆な・・。 私はずっと野田ファンなのだけれど、昨年の「マクベス」、解釈は面白いとは思ったものの、肝心の演出が好きにはなれなかった。 なので今回の再演は見るつもりはこれっぽっちも無かったのだ。 なのに、今回ちょっと評判が良いと小耳に挟み、性懲りもなくつい当日券で行って見たのだった。
演出は、初演時とほとんど変わらず。
まず、マクベスの未来を予言する魔女を、従来の死者と生者の間に位置するものとしてではなく、既に死者となっている骸骨と設定したのは面白いと思う。 そのため予言に取り憑かれる業の深い人間の苦悩を描くというより、逆らえない運命に操られた人間を描いた日本的な解釈ができあがった。 運命が動いているときに舞台上に現れる骸骨・・特に象徴的だったのは、バンクォーの息子が命からがら逃げるとき、骸骨達が彼を取り巻き守るようにして脱出させる所だ。 骸骨を使った受動的とも言える野田の予言=運命論は面白かったのだが、骸骨ありし!で満足してそこで止まってしまったような気がする。 そして舞台演出は・・だんだん胃のあたりが重くなり、「醜悪」などという言葉がぼんやり浮かんだりするなど、本当に私には合わなかったようで辛かったのだ。 ・・と思ったのは初演時。
前回私には受け入れられなかった美術や衣装は、今回とりあえず醜悪な衝撃が薄れ、気にならなくなっていた・・というか気にしないようしたんだけど。 心底ひいてしまった群衆の動き部分は、(私の気のせいかもしれないが)改善されていた部分があったように思う。 魔女(骸骨)の饗宴シーンでは幼稚な小道具が無くなっていたように思うし、スコットランド難民のだらだら動きの繰り返しもシェイプされていたような気がするし。
出演者はマクベス・マクベス夫人とも、それぞれの事情で当初キャスティングされた歌手の代役というアクシデントが起きたのだが、逆にそれが吉と出たようだ。 結局マクベス夫人は、初演時と同じソプラノになってしまった。声の迫力だけはあるものの、前回、装飾音を皆すっとばして歌っていた(・・と思ったのだけれど・・)二幕目のアリアは一応ちゃんと歌っていたように思う。好きなタイプではないけれど前よりは良かったかと。 マクベス役のアルヴァレスは格好良かったし♪歌も声も良かった。 あ!合唱が素晴らしかった。演奏も良かったように思う。
てなわけで、割と満足したのだった。
NODA・MAP「走れメルス/少女の唇からはダイナマイト!」 Bunkamuraシアターコクーン 作・演出:野田秀樹
昨年に引き続き、二度目の鑑賞。 前回の短い感想
六角さんが病気降板 古田新の指に降臨
スルメの留守にかぶとぬしが死ぬ 主が死ぬと部下にするの メルス
2005年01月25日(火) |
「堕天使のパスポート」 |
◆ 堕天使のパスポート Dirty Prettey Things [イギリス/2002年/97分]
監督:スティーヴン・フリアーズ 脚本:スティーヴン・ナイト 出演:キウェテル・イジョフォー(オクウェ)、 オドレイ・トトゥ、セルジ・ロペス
スティーヴン・フリアーズ監督は「マイ・ビューティフル・ランドレッド」でイギリスの移民社会を描き、「グリフターズ」で詐欺師を描いていたが、このふたつの世界の幸福なドッキング + より洗練された語り口とより深い洞察により作り上げられたこの映画、佳作といっていい上質なものだった。 「グリフターズ」を引き合いに出すのは、ちと強引かとも思えるが、ラスト間際の鮮やかな逆転劇で、やはり思い出されてならなかったのだった。
脚本は昨年のアカデミー賞脚本賞にノミネートされるも「ロスト・イン・トランスレーション」が受賞。「堕天使〜」の方が優れているような気がするが、審査員のソフィア好きもありしょうがないところか。
主役のオクウェは高潔な人物として描かれ、コカの葉を噛みながら昼も夜もなく働き、話を引っ張り続け、様々な場面に顔を出し、異郷に住む人々の現実をいろんな角度からあぶり出す。 ずっと張りつめたまま突っ走り続けた彼が、最後の最後に見せる安堵の姿に、彼のその後の安全と幸福を祈らずにはいられない。
出てくる人間は皆難民・移民・不法入国・不法就労者ばかり。助け合う側も、搾取側に立つホテルのオーナーも縫製会社の経営者も皆移民というのは皮肉な現実なのだろう。 シェナイ(オドレイ・トトゥ)はトルコ難民として認定を受けたというのでクルド人という設定なのだろうか?オドレイ・トトゥはエスニックな顔立ちだがクルド人というにはちょい甘顔かもしれない。が、ものっ凄い訛りの英語はトルコ訛りなのだろう、と・・とにかく頑張っていた。やはり、世間からはみ出した系の役柄がとても似合う。
(at ギンレイホール)
◆ 岸辺のふたり Father and Daughter [オランダ・イギリス/2000年/8分]
監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 音楽:ノルマン・ロジェ、ドゥニ・シャルラン 2001年アカデミー賞短編アニメーション賞受賞作。
たった8分にの小宇宙にため息。 音楽と映像のみの語り、洗練された線、光と闇の美しさ、シンプルに反復するモチーフに凝縮された娘の人生がラストに繋がる見事さ。 アニメはあまり得意ではないが、この映画の静謐で繊細な世界に心から脱帽、打たれてしまった。
併映された、短編「Tom Sweep」「The Monk and the Fish 」は子供向けなので多少の退屈さは否めないが、この「岸辺のふたり」に至る要素を垣間見ることが出来る。 モーニング/レイトショーで800円。決して高くないぞ。
●ネタバレあり
すべて素晴らしいのだが、特に残って離れないのはラスト、父に再会した時の娘の年齢。 娘の人生の終わりの時、父との再会は、離ればなれになった幼少期当時の姿でもなく、現在の老いた姿でもなく、若く溌剌としていた時の姿だった事は、私の感情をダイレクトに刺激してしまうのだ。今、思い出しても滂沱の涙がぁぁぁ〜。
映画のはじめは海もしくは湖だったところが、だんだん干上がって行き、ついには陸となり草地となりラストにつながっていくわけだが、そこで「オランダの光」というドキュメンタリー映画を思い出した。 レンブラントやフェルメールなどのオランダ絵画に描かれた光は特別なもの・・それがいまや干拓事業などで干上がった土地が増え、古来の光が失われてしまった・・・という説を実証しようとしていた映画だ。 そんなお国柄ゆえ、浮かんだストーリーなのかなととも思う。
(at テアトルタイムズスクエア)
◇国芳・暁斎 なんでもこいッ展だィ! 東京駅ステーションギャラリー
歌川国芳・河鍋暁斎の展覧会。 正統派の浮世絵からちょい外れたスタンスが心地良い。 芳年が見たい〜。
◆ ルーブル美術館への訪問 [フランス/2004年/95分] 監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ
(at日仏学院エスパスイマージュ)
2005年01月21日(金) |
「バレエ・カンパニー」 |
◆ バレエ・カンパニー The Company [アメリカ/2003年/112分]
監督・制作:ロバート・アルトマン 制作・原案・出演:ネイヴ・キャンベル 出演:マルコム・マクダウェル、ジェームズ・フランコ ジョフリー・バレエ・オブ・シカゴ
アルトマンの映画と知らなければ、ドキュメンタリーだと思ったかもしれない。 ・・いや、ネイヴ・キャンベルもいなければ・・だけど・・。
実在のバレエ団を舞台に、経営者・団員の両側面から捉える手法はまさにドキュメンタリー。「バレエ(アメリカン・バレエ・シアターの世界)」@フレデリック・ワイズマンを彷彿とさせるが、この映画はそれに物語として血と肉を与え、語っている。
経営のトップにマルコム・マクダウェル、主人公の団員にネイヴ・キャンベルと、演技が必要な物語部分の要には役者を起用し、あとは実際の団員で固められる。
自身がバレエを学んでいたというネイヴ・キャンベルが企画を持ち込んだそうだ。 思ったより踊れているように感じたので驚いたが、やはり固いし回転は速いし、カメラワークでごまかしてもどうしても現職より見劣りしてしまう。 話の中で、レパートリーの主役として絶賛されるのはつらいところだが、これも物語と割り切ることとする。
人へのあたりは柔らかくソフィスティケートされていながらも現実的経営手腕をふるう、食えないタヌキおやじ経営者のマルコム・マクダウェルはとても素敵!
なんだかんだいいつつ、去年に引き続き二度見た私は結構楽しんでいたのだった〜!
(atギンレイホール)
2005年01月20日(木) |
「陽のあたる場所から」 |
◆ 陽のあたる場所から Stormy Weather [フランス・アイスランド・ベルギー/2003年/90分]
監督・脚本:ソルヴェイグ・アンスパック 制作:ダルデンヌ兄弟 出演:エロディ・ブシェーズ、 ディッダ・ヨンスドッティル
制作にダルデンヌ兄弟の名があったのでうっすら期待。 しかし、この映画を感じることが出来るか否かは、ひとえにエロディ・ブシェーズ演ずるところのコーラに感情移入できるかどうか・・かもしれない。
コーラ(エロディ・ブシェーズ)は若き精神科医。 ある日、身元不明で何もしゃべらない中年女性が病院に措置入院(?)してくる。 他人と視線を合わせず、エレベーター内では体が触れたからだと思われるが錯乱したりすることなどから、かなり重度の自閉症かと思われる。 コーラはそんなロア(ディッダ・ヨンスドッティル)が気になってしょうがない。 少しずつ接近し心を触れ合わせ、ついには「コーラ」と彼女の名を呼びロアの方から手を触れてくるようにまでなる。 だがまたある日、たまたまコーラの休暇の日にロアの身元が分かり、別れをせぬままロアは故郷アイスランドに強制送還されるこことなる。 どうしても感情的に納得の出来ないコーラは休暇を取り、ロアの住むアイスランドに向かう。 ・・というのが、まず第一の設定。 この段階でコーラにいらつきを感じてしまった私は、悲しいことにすでに映画を楽しめなくなってしまっていた。
ロアの住むアイスランドの中でも小さな島に降り立ったコーラは、町に精神科医がいないことを知り、そしてロアに夫と子どもがいたことを知り愕然とする。 自閉の人は日常の決まり切った繰り返しは問題ないといわれているので、困った人と認識されつつも島で普通に生活をし、受け入れられていたのだろう。 しかし、コーラはロアの治療のため誘拐同然にフランスに連れ帰ろうと試みる。 その頑なともいえる態度に、彼女の方にも問題があることが漠然と知れるのだ。 頼りなげなロアがコーラに救いを求めている→ロアを庇護し救いの手をさしのべなければ、という考えに取り憑かれ、逆にコーラがロアに依存していたのだとも考えられる。 結局、島の医師の理性的・現実的な説得を受け入れ、島でのロアの姿を見ているうちにロアのいるべき場所はこの島なのだと感情的に納得できるようになって島を離れる。
というこの映画は、詩的な成長物語だった。 途中まで、言葉は悪いが気まぐれな小娘が迷った子犬(おばさんだけど・・)に感情移入して助けてやろうとしている・・とか、独善的西欧人の甘い自己満足・・・とか、どんどんいやな感情が湧いてくる自分がいやになったけど。 ごめんよ、コーラあなたも迷子の子犬だったのね。
ロアを演じたディッダ・ヨンスドッティルは実際のアイスランドの詩人だそうだ。 彼女の存在感なしにはこの映画は成立しなかっただろうと思わせられる。
(at映画美学校 1/22よりシャンテシネで公開)
2005年01月19日(水) |
「ソン・フレール -兄との約束ー」 |
◆ ソン・フレール -兄との約束ー Son Frere / His Brother [フランス/2003年/90分]
監督・脚本:パトリス・シェロー 原作: フィリップ・ベッソン 出演:ブルーノ・トデシーニ、エリック・カラヴァカ
映画を見た直後に、チラシを読んだ。 この映画の真髄が簡潔に表現された文章があった。
人間にとって「死」とは何か?本作は、すべての芸術家が描き続けたテーマに向かい合い、その残酷さを回避することなしに、同時に逝くものと残されるものに与えられる癒しと安らぎを鮮やかに描き出す。
血小板が減少していくという難病に冒された兄とそれを看護し見守る弟というシンプルなストーリーながら、チラシの文そのものの深遠かつ静謐な世界が広がっていた。
映画はおおまかにパリとブルターニュ、ふたつのパートから構成され、それぞれの部分が巧妙に切り取られ差し込まれて配置、美しい詩が構築されている。
まず、病気が再発した兄がパリの病院に入院しているパートでは、生々しい肉体の死を予感させる描写や徐々に希望を失い疲弊していく姿が描かれていく。同時にそれぞれの恋人との決別を通し、しがらみをなくして子どもの頃の世界へ戻る準備を整えて行くのだ。 そして、医師の警告にもかかわらず退院して子どもの頃に住んでいたブルターニュの海岸沿いの家に移り住むパートでは、ふたりの静謐な世界に焦点が絞られる。 パリのパートでは現在のそれぞれの背景が見えてくるが、こちらのパートでは、ふたりの兄弟がたどった過去の関係が見えてくる。
乱暴に言ってしまうと、ブルターニュの海岸が縦軸、それに差し込まれるパリが横軸ということになるだろうか。 それぞれがまた時系列ばらばらに描かれるが、だんだんに浮かび上がってくる心情をきちんと受け止めるラストは感動的だ。
死への儀式が描かれたともいえるこの映画。 生々しい死を通じて描かれたのは“生”そのものに他ならない。
脾臓摘出手術前日、兄トマの体毛を二人の看護士が手際よく正確な手順で剃っていくシーンは、非常に印象的だった。 カメラはその行為のいっさいを何の感情も交えず延々と映し続ける。 痩せ衰えたその体を否が応でも眺めることになる我々観客は、死に近い冷たい現実をまざまざと見せつけられ、目が離せなくなる。 そこへ距離を置いて兄を眺める弟リュックが映し出され、我々の目線は弟と同一化される。 ショックを受け呆然と立ちすくみながらも、受け入れざるを得ない現実に直面した瞬間だったのだ。 震えるほど残酷で美しいシーンだった。 トマを演じるブルーノ・トデシーニはこの役のために12キロも減量したそうだが、その体あってのリアルな感動を与えてくれる。
横たわるトマを足下から映し出す映像は、モンテーニャの“死せるキリスト”の絵のようだ。また、リュックとそのゲイの恋人との裸体は、エゴン・シーレ描くところの裸体を思い起こさせる。世紀末に生き、生を謳歌した早世の画家の姿と、全てを背負って現世での死を迎えたイエス・・といいうように、生と死・明と暗の対比のイメージも何度か見受けられ興味深かった。
(at日仏学院エスパス・イマージュ・2/12よりユーロスペースにて上映)
2005年01月15日(土) |
「Clean」「デーモン・ラヴァー」 |
第10回カイエ・デュ・シネマ週間での上映
◆「Clean」 [フランス・カナダ・イギリス/2004年/110分]
監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス 出演:マギー・チャン、ニック・ノルティ、ベアトリス・ダル
昨年のカンヌ主演女優賞受賞作品だ。 私はマギー・チャンが好きでも嫌いでもないが、中盤以降ガムをくちゃくちゃ噛んでいてもよれよれの格好をしていても漂うエレガントさに驚く。 マギー・チャンの魅力を一番よく知る元夫によるマギー・チャンのための映画だ。
この映画は二人が離婚してから作られたそうだが、映画の中での夫の死による混乱からの再生とだぶって、現実の監督と女優の離婚で生じた互いの混乱や喪失感などからの再生をはかろうとする意志のようなものも感じられる。セルフセラピー映画? 成熟した大人の良い別れだったのだろうと思わせてくれる厳しくも優しい映画だった。
夫の麻薬過剰摂取による死により喪失感と罪悪感と悔恨と困惑とが、どっと彼女の細い肩の上に覆い被さってくる現実。しかし、皮膚の上と心に張られた厚いバリアで彼女自身その感情に気づかず、ただ漠とした不安で彷徨っているかのようだ。 混乱と空回りの日々から、周囲の手助けを借りつつオノレと向き合う準備を整えていく。
ラスト、義父母に預けていた息子とも暮らせそうな成りゆき。 念願だったレコーディングにこぎつけ、何となくうまくいきそうな予感がする中での休憩。湯気のあがる暖かい飲み物を前にして、急にこみ上げる安堵感。 それまでの心のバリアが取れたのか、突然だが自然な嗚咽が静かに始まる。 俯き手で覆われた顔から表情は窺えないが、マギー・チャンの自然で繊細な姿、彼女と共に観客である私も安堵の涙がつうと流れてしまったのだった。
この映画には悪人はひとりとして出てこないが、その中でもマギー・チャンの義父を演じるニック・ノルティは複雑な思いを抱えつつマギー・チャンの支えとなり手助けをする。世間一般的に言われるが義父はどうも嫁に対して甘くなるようだ。同じようなシチュエーションの「イン・ザ・ベッドルーム」でもそうだったというのは今思い出したことだが、映画を見ている間何度も頭をかすめたのは「息子のまなざし」だ。息子を殺された父親が、犯人である少年との意図せぬ出会いを通じ、混乱から許しへ、また自分自身の救済へと至ろうとする秀作だった。母親は、直接的にせよ間接的にせよ我が子を殺した相手は絶対に許せない。感情が先に立ってしまうのだ。だが父親とは感情を抑えて現状の理解から最良の選択を考えようとすることが出来る性なのかもしれない。個人差大きいけど。 などと書いているうちに、今度は娘を殺された親を描いた「ムーンライト・マイル」を思い出してしまった・・。ちょっと状況が違いすぎるが、娘を亡くした場合は父親の消耗度が激しいのだった。 映画とは直接関係のない事をつらつら連ねてしまった・・。
(at日仏学院エスパス・イマージュ 公開未定)
◆「デーモン・ラヴァー」 [フランス/2002年/120分] 監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス 出演:コニー・ニールセン、クロエ・セヴィニー、ジーナ・ガーション、 大森南朋、山崎直子
消耗度激しき映画。
思い出し中・・。
(at日仏学院エスパス・イマージュ 3/12よりシアターイメージフォーラムにて公開)
2005年01月14日(金) |
バレエ「ジゼル」 西洋美術館常設展 |
◇西洋美術館常設展 夜の「ジゼル」までの時間を、同じく上野の森にある芸大美術館で開催中の「HANGA 東西交流の波」展を見るつもりで出かけた。 間抜けなことに私は金曜は8時まで開いていると思いこんでいたのだが、あぁ・・芸大美術館は金曜の延長はなかったのだった・・・。 まだ入場はぎりぎり出来る時間だったが、大慌てで見る哀しさは何度か経験していて避けたかったのでやめにした。 気を取り直し、残った時間を東京文化会館の図書館で使うか西洋美術館の常設展にするか迷ったが、常設展にした。
西洋美術館の常設はとても好きなのだ。 企画展のマティス(良かった!)も終了している現在、常設は誰もいないだろうと思っていたが、さにあらず。思ったより人が入っていてびっくりした。 寂しくもなくじっくり見る妨げにならない程度の人で丁度良い感じ。 金曜の夜は黄金タイムかもしれない。 企画展に行った時には時間がなくても必ず見るのが、ロダンの「うずくまる女」。 何とも不自然なポーズなのだが、首や肩や背中の美しさには本当に毎回泣けてくるのだ。 あと好きなのは、16世紀フランドルから17世紀宗教画あたり。 西洋美術館が新しく購入した、ラ・トゥールの「聖トマス」も釘付けになる一枚。 今度3月に開催される「ラ・トゥール」展ほど心待ちにしている展覧会は稀なのだ。 印象派あたりはさらりと見るも、気がつくと2時間近く経っていた。 大慌てで文化会館へ急ぐ。
◇レニングラード国立バレエ「ジゼル」 オクサーナ・シェスタコワ、ファルフ・ルジマトフ、オリガ・ステパノワ 指揮:アンドレイ・アニハーノフ レニングラード国立歌劇場管弦楽団 東京文化会館
あまり期待してはいなかったのだけれど、これが良かったのだ。 ジゼルを演じたシェスタコワ、田舎娘らしい純情な可愛さが出ていた一幕目の村娘から一転、二幕目では空気を感じさせない軽さと、はかなさの感じられる妖精になりきっていた。 全幕を通じて、芯のぐらつかない安定した踊りにしびれる。 ルジマトフはさすがの格好良さ。 あと、群舞はさすが伝統なのか、素晴らしかった〜♪
2005年01月12日(水) |
「五線譜のラブレター」「アンナとロッテ」 |
◆五線譜のラブレター DE−LOVELY
[アメリカ/2004年/125分] 監督:アーウィン・ウィンクラー 脚本:ジェイ・コックス 出演:ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド、ジョナサン・プライス
◆アンナとロッテ Twin Sisters
[オランダ/2002年/137分] 監督:ベン・ソムボハールト 出演:テクラ・ルーテン 若いロッテ ナディヤ・ウール 若いアンナ エレン・フォーヘル 年配のロッテ フドゥルン・オクラス 年配のアンナ
2005年01月08日(土) |
「ベルリンフィルと子どもたち」春の祭典〜ダンス編・演奏篇 |
◆ 「ベルリンフィルと子どもたち」 <春の祭典>ダンス・パフォーマンス篇、オーケストラ演奏篇
映画「ベルリンフィルと子どもたち」 (感想はこちら) の中で演じられたパフォーマンスと演奏をそれぞれノーカットで上映しているというので行って来た。
一部は、ダンス・パフォーマンス編。 本家の映画ではダンスの練習風景を主に描いていたが、このダンス・パフォーマンス編では、<春の祭典>ダンス本番当日の全体像が映し出される。 子どもたちは主に黄色と赤、ふたつに色分けされた衣装で登場。 ふたつの部族というストラビンスキーの元解釈でいいのかな。 振付師のロイストンの奮闘の甲斐あって、きちんと真面目にそれぞれの振付を全うし演じる子どもたちの姿は感動的だ。 また、演出は力強く、ステージ上を埋め尽くすほどの子どもたちの場面は圧倒的。 生け贄や長老などの要となる役は、きちんとした力のあるダンサーが演じていて、バランスも良い感じ。 ベルリン在住250人の子どもたちといっても、数字は忘れてしまったがいくつかの学校と町の3つのダンススクールがクレジットされていて、出演する子どもの年齢の幅も実力差も大きいのだ。
二部はベルリンフィルの演奏編。 映画の中で子どもたちを招いて演奏の生リハーサルを聴かせていた場面のノーカット版だ。 厚く美しい演奏と子どもたちの表情も良い。
(atユーロスペース レイトショー)
2005年01月07日(金) |
「シルヴィア」+ N響オーチャード定期 |
◆ シルヴィア Sylvia [イギリス/2003年/110分] 監督:クリスティン・ジェフズ 衣装デザイン: サンディ・パウエル 音楽: ガブリエル・ヤーレ 出演:グウィネス・パルトロウ、ダニエル・クレイグ、ブライス・ダナー、ジャレッド・ハリス
映画を見る前に、詩人シルヴィア・プラスの唯一の長編小説「ベル・ジャー」を読む。 半自伝小説であるという。 皮膚の上から指先から神経がそのまま露出しているかのような痛々しさ、それと相反する 甘美さを感じさせる文章だ。 かなり入れ込んでしまった。 元々持っていた繊細で脆弱な神経のため、度重なる世間と自分との軋轢に苦しみ精神のバランスを崩してしまう。 自殺未遂から精神病院に入れられ、二軒目の病院で希望の光を感じる所で小説は終わる。 小説タイトルの「ベル・ジャー」とは実験に使うガラスの釣り鐘型の覆いのこと。 ガラスの覆いの中で息苦しく離人感に苛まされ神経をすり減らしていった少女は、決してシルヴィア・プラスだけではないだろう。
映画は、「ベル・ジャー」に描かれたアメリカでの辛い時期の後、奨学金でイギリスのオックスフォード大学に留学するところから始まる。 知的な仲間とのつきあいや、後に夫となる桂冠詩人テッド・ヒューズとの出会いなどで、人生を謳歌していたシルヴィアだが、結婚を機にまたも神経をすり減らしていくこととなる。 当時女性が置かれた地位との葛藤、夫との葛藤、詩作との葛藤などで徐々に彼女の内部で変化が起こっていく。 己の危うさを一番よく知る彼女自身、何とか心の均衡をはかろうとしただろうがかなわず、ついに生きることを諦めてしまうのである。 ガスオーブンに頭を突っ込むという方法は衝撃的だが、自殺願望の強かった彼女が考え抜いた確実で楽な手段だったのだと思う。 二人の子どものベッドの脇にバターを塗ったパンを置き、子ども部屋の窓を半分開けてからキッチンで淡々と死の準備を始めるシルヴィア。 子どもには心を残しながら、それでもこれ以上生きることを続けることができないと思う彼女の深い絶望が痛いほど伝わってくる場面である。 そんな、はかなげで危ういシルヴィアをグウィネス・パルトロウが繊細にかつ大胆に演じている。 冒頭の輝く笑顔から、だんだん心が内に向かうに従い目から光が消え表情が消えていくグウィネスは確かにシルヴィア・プラスだったのだと思う。
◇N響オーチャード定期 指揮:秋山和慶 J・シュトラウス 喜歌劇「こうもり」序曲 パガニーニ ヴァイオリン協奏曲2番 サン=サーンス 交響曲3番オルガン付き
実は、N響オーチャード定期2004/2005シーズンのシーズンチケットを買ってあったのだ。何を思ったのか昨年5月のチケット発売日に突然その気になったのだった。 1回毎だと絶対に面倒で足が向かないのは間違いない。曲目も好きなのが多かったし、何よりシーズンチケットだとかなりお安くなるのだ。 毎回同じ席というのは善し悪しだけれど、面白いこともある。 私の隣に座る老夫婦、音楽好きのご主人と奥様といった所。その奥様、前回は曲毎に時々お休みになっていたのだが、今回は私が席に着いたときから既に夢の中状態。今回は3曲演奏されたが、一曲中一度づつ短く意識が戻られていたようだった。大きな動きなのですぐ分かるのだが決して迷惑な動きではなく、もしかして眠りのプロかも。・・・隣の奥様ウォッチングという楽しみを見つけたのだった。
演奏はというと・・、お正月らしい華やかな「こうもり」序曲はつんのめり。若干二十歳のバイオリニストは素人の私から見ても左手ピッチカート速弾きなど凄い!と思わせる超技巧派のようだが、あまり面白くない。サンサーンスの3番は好きな曲だけれど残らず。 秋山氏手堅くそつなくってなかんじ。
2005年01月05日(水) |
「恋に落ちる確率」「ヴィタール」 |
◆ 恋に落ちる確率 Reconstruction [デンマーク/2003年/92分]
監督・脚本:クリストファー・ボー 出演:ニコライ・ルー・カース、マリア・ボネヴィー、 クリスター・ヘンリクソン
ある意味実験的、かつ心のひだを巧みに描いた面白い映画だった。
・・が私、うかつな事に、登場する主役女性二人がひとりの女優だとは気がつかなかった! 何と良く似ている女優を使ったことかとは思ったものの、だいたい好きになるのは同じタイプか、はたまた正反対のタイプになるものさ・・などと思い、スルーしてしまった。 それにしても化粧で何と印象の変わることか! 一人二役を見抜けなくても知らなくても、この映画は理解できるし楽しめる・・・が、やはり意味のある事だったのだ。込められたメッセージをリアルタイムで受け取り損ねてしまった。
また、前半と後半の二箇所でスイッチが切り替わるあたりに前後して、バーバーの「弦楽のためのアダージォ」が流されていた。「プラトゥーン」のラストでも流され印象深い旋律だが、ここでは繊細に効果的に使われていた。
◆ ヴィタール Vital [日本/2004年/86分]
監督・脚本:塚本晋也 出演:浅野忠信 、柄本奈美、KIKI、岸部一徳、國村隼、 りりィ、木野花、利重剛
◆ 酔画仙 Chihwaseon [韓国/2002年/119分] 監督:イム・グォンテク 出演:チェ・ミンシク
新しい世代の韓国映画が日本中を席巻、話題を集めまくっているが、本作は長年韓国映画を支えてきた重鎮イム・グォンテク監督のカンヌ映画祭監督賞受賞作である。
映画は、韓国の天才画家チャン・スンオプの生涯を描いている。 身分差が歴然と存在する時代に、卑しい生まれながらもその才能で画壇の大家となる画家に「オールド・ボーイ」のチェ・ミンシクが演じている。 卑しいとされる生まれ+自分の絵を求めて我が道を行く画家そのものになりきっているように見える。
日本で言う和紙(かの国では何と言うのだろう)に、筆に含んだ墨が置かれ流れるように線となり絵となっていく。 寄ったり引いたり、映像ならではの描写で描かれる課程を見ることのできる幸せ。 筆の動きに集中させられココロ奪われる。
また、障壁画に目を奪われる貴族の屋敷から裏町の飲み屋まで、美術が全て素晴らしい。
この監督の前作「春香伝」に圧倒され、それ以前の作品も見ようと思いつつ、実現できぬまま今日まで来てしまった。 どこかで上映してくれないかな。
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