みのるの「野球日記」
==すいません、ちょっと宣伝です==

●『中学の部活から学ぶ わが子をグングン伸ばす方法』(大空ポケット新書)

新刊が発売になりました。
しらかし台中(宮城)の猿橋善宏先生の
指導法などが掲載されています。
詳しくは、大空出版HPをご覧ください。
http://www.ozorabunko.jp/book/gungun/

●『グラブノート』(日刊スポーツ出版社)
BBA梅原伸宏さんのグラブ本。構成を担当しました。
親指かけ・小指かけの結び方、グリスの入れ方など、
グラブをよりよくするための方法が書かれています。

*ツイッター始めました
@mino8989 です。

2001年11月30日(金) アンチ長嶋茂雄だった

 こんなことを書いたら非国民だと言われそうだが、私は大のアンチ長嶋茂雄であり、アンチ巨人、アンチ読売グループでもある。ジャイアンツもヴェルディも、日テレも読売新聞も嫌いだ。明確な理由は分からない。気が付いたらキライになっていたのだ。

 もう2ヶ月も前のことになるが、長嶋監督が辞任した。東京ドームでは盛大な引退セレモニーが行なわれ、日テレはその模様を最後の最後まで放送した。私は、とりあえず見た。アンチ長嶋と言えども、やっぱり見てしまった。「書く」ことを職業にしたいと思っているから、このような歴史に残る1ページを見逃すわけにはいかない。ただそれだけの気持ちだった。
 
 引退セレモニーが終わると、大の巨人ファンである女友達からメールが入ってきた。「長嶋さん今までありがとう。長嶋さんがいないプロ野球なんて考えられな い。来年から野球を見なくなりそう」
 「コラコラ! なんて大げさなヤツだ」と思った。でも彼女は長嶋監督の笑顔が好きで笑顔が見たくて、巨人ファン、野球ファンになった。以前、目を輝かせながら、そう話していた。とてもじゃないが、「オレ、アンチ長嶋なんだ」と言えるような雰囲気ではなかった。
 彼女は私と同じ年の24歳。当然ながら、現役時代は知らない。でも、長嶋さんの魅力にとりつかれた。笑顔にハマった。

 
 私はこんなふうに、アンチ長嶋と言っておきながら、ホントにそうなのかなと思った瞬間があった。あの一瞬、身体は固まり、長嶋さんの姿、笑顔にオーラを感じた。
 昨年、毎日新聞社が主催した日米野球があったが、私は事務局でアルバイトをしていた。大会期間中は東京ドームやセイブドームのベンチ裏や主催者室に入ることができ、野球好きにとってはこれ以上ない「おいしい」仕事だった。
 そこで第何戦かは忘れたが、東京ドームでボクシングの畑山隆則が始球式をしたときがあった。主催者室にいた私は、生・畑山を一目見ようと、一塁側のベンチ裏通路で待ち構えていた。
 すると、何と一塁ベンチから日本チームの監督を務めていた長嶋さんもひょっこりと姿を現した。「畑山くん、ナイスピッチ!」とTVで見慣れた笑顔で握手を交わした。畑山を見に行った私は生・長嶋にくぎづけ。「お〜!長嶋さんだ〜!」と野球少年のように、純粋に喜んでいた。しばらく興奮は収まらなかった。


 長嶋監督の辞任が発表されると、書店には「長嶋茂雄特別号」が数多く並んだ。私は日頃から慣れ親しんでいる「ナンバー」の「長嶋増刊号」を買った。特に、「すごく読みたい!」と思って買ったわけではなく、「長嶋引退」を自分の記憶に残しておきたかったからだ。
 だから、買ったはいいものの、ずっと部屋の隅に置きっぱなしだった。暇なときに読もうと思いつつも、そんな余裕もなく・・・。
 
 それが最近、やっと読める時間ができた。これがまた、読み始めると面白い。仕事中も、ずっと読んでいたほどだ。読み終えて思ったのは、じつは長嶋さんについて、「何も知らなかった」ということだ。誰かが長嶋さんについて語ることはあっても、長嶋さん自身が語る機会をあまり見たことがなかった。あったのかもしれないが、アンチ長嶋であるがゆえに、避けて通っていた。

 「ナンバー」を読んで、考えさせられた。そして、なぜ長嶋さんが多くのファンから支持されているのか、おぼろげながら理解できた。長嶋さんはファンのことを第一に、魅せるプレーを常に考え、誰よりも野球が好きだった。今、私に「アンチ長嶋です」と堂々と言える自信はない。

 スポーツジャーナリストの玉木正之氏との対談の中で、こんな言葉があった。長嶋さんがルーキーのとき、首位打者争いの真っ只中にいたときの話しである。

「腹立たしいというよりも、不思議に思ったですね。タイトル争いの、こんなおもしろいときに、なんで田宮さんは休むんだろうと、ちょっと首を傾げましたね」

「敬遠攻めには、正直言って腹が立ったというか、非常に残念でした。だって、大勢のお客さんが見に来てくださっていて、しかも、お金を払っていただいていることはもとより、貴重な時間を割いてわざわざ来てくださっているのに、失礼ですよね」

 今更ながら、長嶋ファンには「気づくのがおせぇ〜んだよ!」と言われそうだが、「あぁ、長嶋さんの魅力はこういうところにあるんだな」と感じた。プロフェッショナルを感じられた。

 長嶋ファンの女友達の気持ちが今ならわかる。長嶋茂雄を好きになりそうだ。早く一人前のスポーツライターとなり、長嶋さんに話しを伺ってみたい。



2001年11月26日(月) 書きたいことを書く

 地元の図書館で本を借りた。直木賞作家である海老沢泰久さんが書かれた『球界裏の演出者たち』。タイトルの通り、野球界を陰で支える人々に焦点を当てた本である。
 
 その中に「スポーツ新聞記者」というテーマがある。日刊スポーツ(当時)の名物記者を描いたものだ。

 こんな文章が、私の心に留まった。日刊スポーツの仕事を初めて経験したときに海老沢さんが感じたことである。

「実際に記者席に座ってみて気づいたのだが、これはぜひとも書いておかなくちゃならないと思うような試合が、考えていたよりずっと少ないということだった。ほとんどの試合はダラダラと長いばかりの凡戦で、楽しみといえば試合がはやく終わってくれることだけだった」
 
 海老沢さんは子供の頃、野球記者に憧れていたが、「憧れていたほど楽しいものではないことを知った」とも書いている。

 電車の中で、この文を読んだとき、私は思わずページの端を折り曲げた。何か心にズシリと響いたからだ。帰ってから、読み直そうと思った。

 同じページに名物記者の言葉もある。高校野球について書くときに感じることだという。
「記事がみんなセンチメンタルになって、ときどきふっとおれたちはどんな読者を対象にしてスポーツ新聞をつくっているんだろうと思いますね。女子供向けにつくっているんじゃないんだぞと思います」

 
 スポーツライターのNさんに教わっていたとき、「自分の書きたいことを書くことは、難しいことじゃない。でも、それだけをやっていたら、ライターとして飯を食っていくことはできない。やりたいこと、書きたいことだけやってたら、生きていくことはできないよ」と言われたことがあった。

 これは新聞記者にも当てはまる。「センチメンタルな記事を書きたくない」と思っていても、読者が、そしてデスクが逆のことを要求していれば、自ずとそうならざる負えない。
 「書きたいことを書けること」は、年に数回程度なのだろうと思う。

 
 大学を卒業して、あっとう間に2年が経った。来年には3年目を迎える。就職活動は、スポーツ新聞を中心に受けた。内定直前までは何度か来たが、「決定」まで至ることはなかった。

 野球がオフシーズンに入った。野球が終わると、色々と考えることが増える。考えられる時間が増える。つくづく、野球中心に生きているのだなと実感する。「これからどうしよう」と自問自答する日々が続く。
 
 「自分の書きたいことを書きたい」という究極の目標だけは、常に持ち続けたい。そういう意味では、細々と続けているこの『野球日記』は最高の舞台だと思う。



 なお、『球界裏の演出者たち』は昭和62年に発行された単行本です。「スポーツ新聞記者」の他にも当時、公式記録員だった千葉功さん、パ・リーグ広報部長の伊東一雄さんや、日本に初めてスコアラーという考えを導入させた尾張久次さんのお話しもあります。10年以上前の本ですが、今のプロ野球について、考えさせられることが多い本でした。お薦めの一冊です。



2001年11月25日(日) 2年後のドラフトを目指し

「高校のチームメイトがプロに入って、悔しい気持ちはあるでしょう?」と訊くと、「う〜ん・・・。悔しさも羨ましさもありますけど・・・。でも、一緒にやっていた仲間ですから。頑張って欲しいですよ」と川岸は答えた。

 今年の明治神宮野球大会大学の部で優勝を飾ったのは、東都大学連盟代表の駒沢大学だった。チームを引っ張ったのは、秋のリーグ戦で最優秀投手賞を受賞した4年生の川岸強。初戦から決勝まで3試合全てに先発し、いずれの試合でも大崩れすることなく、見事に監督の期待に応えた。

 川岸は神奈川の名門・桐蔭学園の出身である。桐蔭時代は、3年夏に神奈川大会を制覇するが、甲子園では2回戦で西京(山口)に延長戦の末敗れ、涙を飲んだ。

 私は川岸の投球フォームが好きだった。右サイドハンドから、キレのあるストレートを投げ込む。投げ終わったあと、マウンド上で跳ねあがる。その躍動感に目を奪われた。

 小学校から野球を始めた私は、ずっとピッチャーをやってきた。初めは上手投げだったが、中学2年のときから、少しサイド気味に投げるようになった。「身体の使い方がサイドに向いている」と野球部の先生に言われたからだ。
 当時、お手本にしたのが、巨人で全盛を誇っていた斎藤雅樹だった。彼もまた、マウンド上で跳ねた。躍動感の塊のようだった。私は憧れた。
 桐蔭時代に見た川岸の姿は、憧れていた斎藤にダブった。今でもよく覚えている。

 当時の彼は、センターと投手を兼用していた。エースナンバーを背負っていたのは、法政大に進学した浅井良。だから、いつもいつも川岸が投げているわけではなかった。大学で、外野手の道へ進むのか、それとも投手か・・・。川岸は駒沢大に進学すると、投手の道を歩み出した。

 
 神宮大会で川岸の投げる姿を3試合とも見た。桐蔭学園の頃よりも、躍動感が増していた。4年前の川岸を思い出し、なぜか妙に嬉しくなってしまった。

 ドラフト候補に挙げられていた川岸だが、今後は社会人に進むという。桐蔭時代にエースだった浅井は、法政に進学後捕手に転向。その実力を認められ、阪神の自由獲得枠でプロへと進んだ。また、ショートを守っていた平野恵一は、東海大に進学後「守備の天才」と謳われ、彼の守備を見るために、球場に足を運ぶ観客ができるほどの選手に成長した。平野もまた、自由獲得枠でオリックスから指名を受けた。いずれも、川岸とともに高校3年間を過ごした仲間である。

 川岸は「頑張って欲しい」と浅井と平野にエールを送った。今でも、携帯電話で連絡を取り合っているという。 
 同期がプロに進んだことに関して、その口ぶりからは「悔しさはない」ようだった。でも、川岸は最後に自分の決意はしっかりと示した。
 
「2年後、自分もドラフトで指名されるような選手になって、絶対にふたりと同じ舞台に立ちますよ。負けてられないですよ」

 躍動感溢れる川岸のピッチング。
 プロの舞台で目にする日を、今から楽しみにしたい。



2001年11月22日(木) 頑張れ大須賀!!

「申し訳ないです。監督や部長、控えの選手に申し訳ない。悔しさよりも申し訳ない気持ちでいっぱいです」
 大須賀の口からは、何度も何度も「申し訳ない」という言葉が出てきた。負けた悔しさよりも、周りの期待に応えられなかった気持ちが強く現れていた。

 東北福祉大の4番大須賀は、1年のときから試合に出場。「4年になる頃には、間違いなく逆指名候補になる」と言われた選手だった。
 でも、大須賀は期待通りに才能を開花させることはなかった。リーグ戦では好成績をあげられても、神宮に来ると目立った成績は残せない。その繰り返しだった。

 最終学年の今秋。大須賀はいつものように4番ショートで出場した。初戦を勝ちあがり、翌日の駒沢大との準決勝。0−0で迎えた6回にチャンスが回ってきた。1アウト満塁。先制得点の絶好のチャンスだった。
 初球。レフト線へ痛烈なライナーが飛んで行った。福祉大応援席は大歓声で沸きあがり、駒大側は一瞬沈黙した。だが、打球は無情にもファール。フェアゾーンまで、わずか10cmほどの際どい当たりだった。結局、この打席、一塁ファールフライに倒れ、チャンスを生かすことはできなかった。

 1点を追う8回、大須賀の前にまたもチャンスが巡って来た。2アウト1.3塁。一打出れば、同点に追いつくチャンス。
 「大須賀!最後の仕事してこい!」
 ベンチから声が掛かると、「ハイ!」と力強く答えた。
 
 けれど、言葉が現実に変わることはなかった。

 
 控え室から球場外に出てくると、大須賀には無数のフラッシュが浴びせられた。マスコミも一般のファンも、ドラフト候補の大須賀の最後の姿を撮ろうと、カメラを構えた。それほど注目された存在だった。

「1年からずっと使ってもらって、貴重な経験を何度もさせてもらって、でも最後の最後までそれに応えることができなかった」
 目を真っ赤に晴らしながら、ブレザーを着た野球部員に目をやった。
「メンバー外の選手も一生懸命応援してくれた。でも、その応援を裏切ってしまった。ほんとに申し訳ない」
 口をつくのは申し訳ないという言葉だけだった・・・。

 ドラフトに関する質問を向けられると、
「今日やり残したことで頭がいっぱいで、ドラフトのことは考えられないです。とにかく優勝することしか頭になかった。最後の最後までみんなと野球をやっていたかったので、こういう結果になって、今は何も考えられないです・・・」

 大須賀はマスコミの取材から解かれると、ファンからの写真攻めにあった。でも、拒否するでもなく、淡々とそれに応じていた。


 敗戦の翌日。ドラフト6位で巨人に指名された。率直に言って、6位で指名されるような選手ではない。もっと上位で指名されるべき選手であった。

 やり残したことは、プロの世界で返していけばよい。ずっと起用してくれた首脳陣に対して、恩返しできる最高の場所も与えられた。それは、誰かがくれたものではなく、自らの力で掴んだものである。

 大須賀は最後に、ポツリと言った。
「いつまでも負けを引きずっててもしょうがないんですよね。引きずってても、何も起こらないですからね」



2001年11月21日(水) ドラフト指名選手の将来

大相撲九州場所10日目。平幕の大善が横綱武蔵丸を寄り切りで破り、大金星を挙げた。この金星は昭和以降6番目となる年長金星。36歳11ヶ月の大善が起こした波乱だった。

 大善は、武蔵丸とはちょうど10年前の九州場所で一緒に新入幕を果たした。そのときは初日に顔を合わせて勝ち名乗りを受けたが、以降の相撲人生は対照的。横綱まで上り詰めた武蔵丸。一方の大善は幕内と十両を6回も往復。今は幕内最年長のベテラン力士である。

 新聞に大善のコメントが載っている。
「プロ野球は解雇されたら終わりだけど、相撲は辞めるときは自己申告。気持ちがある限り続けられる」

 
 なるほど。私は新聞を読みながら頷いた。周りが体力の限界を示唆しても、最終的な判断は自分にある。「まだやれる。まだやりたい」と思えば、続けられる。
 ゴルフもそうだ。50歳を超えればシニアがあるし、ジャンボ尾崎はシニアでプレーするのを嫌がり、今でも若手に混じってツアーに参加している。

 野球とサッカーのように、チームと契約するプロスポーツは、「気持ちがあっても」続けられない。

 けれど、ごく一部の選手は違う。
 今年、巨人を引退した村田は引退に際し、「こんなに素晴らしい引退セレモニーをしてもらって、野球人としてこれ以上幸せなことはない」と喜びを表した。
 村田とともに現役を去った斎藤にしろ、槙原にしろ、彼らは「解雇された」わけではない。自らの意志で、現役に終止符を打った。ともに、「自分の力に限界を感じ」引退を決意した。現役を続行する「気持ち」があれば、まだ続けることはできた。


 先日のドラフトで87人の新人選手が指名された。
 大善の言葉のように「気持ちがある限り続けられる」偉大な選手は、何人育つのだろうか。
 ドラフト1位として騒がれるのは、最初の1、2年だけ。入団した時点から、ドラフト1位も15位も同じプロ野球選手となる。力のあるものだけが生き残り、力のないものは球界を去る。
 
 数年後、87人のうち、どれだけの人数がプロ野球選手として生きているのだろうか。




2001年11月19日(月) 城西大優勝ならず

 城西大の初出場初優勝の夢は、駒大の2本のホームランの前に消えた。明治神宮野球大会大学の部決勝は、東都代表・駒大が5−3で首都代表・城西大に競り勝ち、8年ぶり4度目の優勝を遂げた。

 試合は、城西大が初回に駒大先発の川岸(4年・桐蔭学園)を攻め、5番荒井(3年・東京)、6番藤本(4年・大阪桐蔭)の連続適時打で2点を先制。しかし、その裏にショート渡辺(3年・牛久)の守備のミスが重なり1点を返される。2回には先発比嘉(3年・読谷)が駒大1番・梵(3年・三次)に勝ち越し2ランを打たれ、3−2と逆転を許す。追う城西大も、5回に3番竹原(3年・関西)がレフト中段席へ同点ソロを放つが、追いつ追われつの展開に決着をつけたのが、駒大の前田(4年・多度津工)。6回裏にレフト最前列へ2ランを放ち、2点を勝ち越し、その後は3番手の田中敬(4年・別府大付)がピシャリと締め、城西大の反撃を絶った。

 試合後、城西大の原田監督は「ここまで来れて嬉しいのと、決勝で負けてしまって悔しいのと半々。リーグ戦が終わってから『優勝するぞ!』という気持ちはみんなにあったのですが、何せ初めての神宮大会なので、調整の仕方や調子の持って行き方が難しかったですね」と悔しさ交じりに話していた。

 投手陣は、大黒柱であるはずの小林(4年・甲府商)、そしてリーグ戦MVPの小沢(2年・花咲徳栄)が本調子ではなかった。唯一、調子を持続していたのが抑えに先発と大車輪の活躍を見せた比嘉だけ。準決勝、そして今日の決勝と好投した左腕・濱元(3年・中央学院)の活躍がなければ、ここまでの結果は残せなかった。投手陣の不調については、「リーグ戦の疲労もあるが、調整がうまくいかなかった」と監督は言う。

 首都大学のライバルチームである東海大は、今春の全日本選手権で久しぶりに頂点の座についた。98年春、99年秋、00年秋と3年連続で決勝戦敗退。あと
1勝が遠く、ようやく叶えた日本一だった。

 原田監督は「決勝では力の差はなかった。負けた原因としては経験の差かもしれない。2点を先制したのに、全くアドバンテージがあるように思えなかった。今後、優勝を狙うには、リーグ戦が終わってからの調整をしっかりと行うことです」

 初戦、準決勝と先発した小沢は言う。
「まずは目標はリーグ優勝。それから大学日本一です」
 
 来春のリーグ戦では、東海大が「打倒、城西大」で挑んでくるのは間違いない。最終学年となるエースの久保(3年・沖学園)や今秋ベストナインと最優秀防御率に輝いた筑川(1年・東海大相模)が城西大の前に立ちはだかる。
 
 神宮への出場を懸けた首都大学は、例年以上に熱くなりそうだ。

 最後に原田監督は、「今度は東海大に追われる立場になりますね」と記者に質問されると、「そんなわけないじゃないですか。リーグ戦も苦しんで勝ってきて、やっとここまで来たんです。勝ったおごりもないですから」

 東海大が「あと1勝」で苦しんだ道を、城西大も歩みだした。同じリーグで互いに刺激しあい、首都大学の人気が盛り上がることを期待したい。




2001年11月18日(日) 城西大決勝進出!

今年の神宮大会は、城西大を応援している。秋のリーグ戦で、東海大の6連覇を阻止。97年春以来、2度目のリーグ優勝を飾った。
 城西大は私が応援していた東海大を破った。明治神宮大会で筑川が投げる機会も奪った。でも、城西大には「首都大学」のために勝ち進んで欲しかった。首都は、六大学・東都に比べて「地味」といわれる。日本一を勝ち取った東海大学がいるにもかかわらず、新聞の取り上げ方も少ない。「首都大学」をアピールするためにも、城西大の活躍を期待した。

 16日の初戦、福岡大学を7−3で破り、神宮大会初勝利をあげた。先発した小沢、二番手の比嘉が、ともに調子が良いとは言えないデキであったが、総合力で勝利を手にした。ドラフト候補の喜田に同点2ランを浴びた直後の8回表には、満塁から三連続スクイズを敢行するなど、積極的な攻めを披露。「首都の代表として、まずはひとつ勝つことが目標だったので嬉しい」と原田監督は笑顔で話していた。

 今日の準決勝。城西大は2回戦で慶応を破った愛知学院大と対戦した。先発は、初戦に引き続き2年生の小沢。秋のリーグ戦でMVPと最優秀投手賞を受賞した城西の大黒柱である。
 初戦は6回を投げ、失点こそ1点に抑えたものの、被安打8、四球3と満足の行くデキではなかった。「今日は試合には勝てたけど、自分としては悔しさでいっぱいです。最後まで投げ切りたかった」
 
 今日もまた、小沢は不調だった。武器であるストレート、スライダーのコントロールが定まらず、苦しいピッチング。4回を投げ、失点2、四死球5でマウンドを降りた。試合も0−2と劣勢。重苦しい雰囲気が漂っていた。
 その雰囲気を打開したのが、2番手で登場した左腕濱元。城西大は秋のリーグ戦を小沢、比嘉、そしてドラフト候補といわれている小林の3投手で戦ってきた。だが、リーグ戦での疲労が蓄積したのか「小林は球が全く来てない。使いたくても使えない状態なんです」と原田監督は話す。抑えを予定している比嘉はまだ使えず、大役が回ってきたのが秋の公式戦では一度も登板がなかった濱元だった。
 「濱元に力があるのは分かっている。でも、問題はココなんです」と原田監督は心臓付近を指した。本人も認識している。「秋に投げれなかったのは、故障とかではなくて、全て自分の気持の問題。リーグ優勝はしたけれど、自分は全然貢献できなくて、悔しさもあった」

 5回からマウンドに上がった濱元だが、ここには原田監督の配慮もあった。直前の4回に無死満塁の大ピンチがあり、既に小沢はいっぱいいっぱいの状態。ブルペンでは濱元が準備万全。でも、監督はマウンドに行き、激励をしただけで、交代は告げなかった。
 「アイツをあそこで出したら、多分押し出しですよ(笑)。あそこは経験のある小沢に任せて、濱元は回の頭から投げさせてあげようと思いました」
 濱元は、見事その期待に応えた。左腕からの大きなカーブを武器に、5回から8回まで無安打ピッチング。登板直後の5回裏には、小野寺の同点2ランも飛び出し、流れは一気に城西大へ傾いた。

 そして、8回裏。1死満塁から藤本のライトヘの犠牲フライで、ついに1点を勝ち越す。9回は、3番手の比嘉が締め、初めての神宮大会で決勝進出を決めた。

 原田監督は言う。「首都大学の代表として、ここまで来れて嬉しい。ウチが初戦で負けたら、『首都は東海大以外弱いじゃないか』と言われてしまいますからね」好投した濱元は、「東海大に勝って優勝したとき、東海大の選手から『お前らなら、神宮でも優勝できるぞ』と声を掛けられました。春も秋も東海大には2勝している。チームとして日本一の学校を破ったことが、自信になってると思います。首都は東海大だけじゃないことを、見せたかったです」

 日本一の学校を倒さなければ、リーグ優勝はない。城西大の前に、常に立ちはだかっていたのが東海大だった。その東海大を破っての首都大学優勝は、大きな自信となった。

 明日の決勝で駒沢大を破れば、春の全日本大学選手権を制した東海大に続き、秋も首都大学代表の城西大が日本一の栄冠を勝ち取ることになる。
 
 首都大学のレベルを全国に見せるには、格好の舞台が整った。
 



2001年11月13日(火) ドラフトを前に〜忘れられない言葉〜

 2年前のドラフトで、最も注目を集めていたのは国学院久我山のエース河内貴哉だった。甲子園出場はないものの、左腕から繰り出される140kmを超えるストレートと、ダイナミックなフォームにスカウトは注目した。 
 ドラフト前、「意中の球団は中日」と報じられた。正式に公言したわけではないが、それが河内の心だった。ドラフト当日、河内を指名したのは中日を含めた3球団だった・・・。
 

 ドラフトの4ヶ月前。河内は神宮球場で悔し涙に暮れていた。西東京大会の決勝。延長12回の死闘の末、8対6で日大三に惜敗した。
 5回までは完璧なピッチングを繰り広げていた。大会通算25回無失点という記録も続行中。付け入る隙はないはず、だった。しかし、6回裏。自らが打った二ゴロで一塁へ向かおうとした際、右腿裏側を痛めた。それを機に、球速はダウン。反撃の隙を与えてしまった。そして、それに拍車をかけるように不運な当たりの連続。神宮の女神は、河内に微笑まなかった。        
 「プロでやってみたい。夢ですから・・・」とコメントを残し、神宮を去った。

 
 河内はドラフトで最高級の評価を得た。甲子園で活躍した、正田樹(桐生第一ー日本ハム)、高木康成(静岡ー近鉄)を凌ぐ評価。甲子園不出場選手の重複指名は、あの江夏以来33年ぶりという快挙であった。
 
 交渉権を得たのは、「意中の球団ではない」広島だった。 

 だが、河内は真っ直ぐと前を見つめ、「大好きな野球ができるので、球団は関係有りません。喜んで、入団させていただきます」と、少し緊張した面持ちで答えた。指名して頂いた他の2球団に対しても、自分を評価してくれたことに「ありがとうございました」と誠実に感謝の意を述べた。
 
 「大好きな野球ができる」という言葉を聞いたとき、私は思わずジーンと来た。河内は、高校2年の春季大会で左肩の鍵板を負傷した経験がある。そのため、最終学年になるまで、満足行く投球ができなかった。ケガで野球ができない悔しさを身を持って知っていたのだと思う。
 

 今年もまた、ドラフト会議が近づいてきた。
 
 野球をしたものなら、誰もが小学校の文集に「夢はプロ野球選手」と書いたと思う。けれど、上へ行くにつれ、現実を見る。ふるいに掛けられ、自分の才能がないことに気づく。でも、「野球が好き」なことは変わらない。テレビの前で、球場で、にわか評論家となり、うんちくを語る。身体がうずけば、草野球で、そしてバッティングセンターで、野球に熱くなる。

 ドラフトで指名される選手は、幸せものだ。野球をして、お金を貰えることができる。野球をすることで、子供たちに私たちに夢を与えてくれる。


 河内はプロ入りに際し、「40歳まで野球を続けて、200勝投手になりたい」と抱負を語った。

 河内らしい、夢だと思った。



2001年11月10日(土) 地方紙を読む楽しみ

 来週末から行なわれる明治神宮大会のデータを集めるために、横浜の図書館へ行った。調べることは、参加校の勝ち上がり方とバッテリーである。ネットで調べられるものもあるが、それだけで全てをカバーすることは出来ない。連盟のHPがある大学野球は何とかなるが、高校野球は特に難しい。各地の高野連のHPも、充実してるとは言い難い現状である。

 そこで図書館に行くと、ネットでは調べられなかった情報が手に入る。情報ソースは地方紙。私も地元の神奈川新聞を購読しているが、当然のことながら県内の情報に関しては全国一である。もちろん、神奈川の高校野球に関しても、群を抜く詳しさだ。高校だけでなく、県内の中学野球の情報も盛りだくさん。以前、私が読んでいた中学野球の記事を、友人が覗き込みながら、「中学のことまで載ってるのか」と驚いていたほどだ。

 まず図書館に着くと、関東大会で優勝した宇都宮工業の戦績を調べるために、「下野新聞」を手に取った。神奈川新聞に負けず劣らず、県内のスポーツに関しては豊富な情報量があった。高校野球栃木大会も1回戦から、大きなスペースを割き、でかでかと伝えていた。「退部か?」と噂になった、宇都宮学園の泉投手に関する記事もあり、思わずコピーをしてしまった。優勝候補の作新学院に敗れてしまったが、その豪腕ぶりは健在とのこと。

 そういえば、大学の部で一校だけ、ネットで調べられないチームがあった。中国六大学連盟に所属している徳山大学である。何とか、秋季リーグ戦の結果は調べられたのだが、バッテリーが分からなかった。そこで、地元紙の「山陽新聞」と「中国新聞」を見ると、バッテリーが掲載されていた。けれど、両紙とも高校野球については、スタメンや記事を載せ、充実させているのに、大学野球の扱いはとても少ない。地元紙がこれで良いのか・・・と思ってしまった。

 その後、北海道大会優勝の札幌日大を「北海道新聞」で、東北大会準優勝の秋田経法大付を「河北新報」で調べた。経法大付については、秋田県大会の準々決勝までのバッテリーが分からなかった。おそらく、「秋田さきがけ」を見れば分かると思うのだが・・・。

 地方紙を読んでいて嬉しいことは、下野新聞を例にとると、「長嶋監督勇退」と「宇都宮工優勝」が同じぐらいの活字の大きさで掲載されていることだ。栃木の高校野球ファンにとっては、それぐらい価値のあるニュースである。
 北海道新聞では、「札幌日大初優勝!」という記事が、一面にカラー写真入りで載っていた。高校野球好きの私にとっては、たまらなく嬉しい扱いだった。


 データを集めている最中に、何度も手を止め、高校野球の記事を読んだ。「なるほど。4番とエースは同じシニアチーム出身なのか」など、地元紙だからこそ入手できるネタが満載だった。
 図書館で、このように地方紙を読むんでいると、「地方紙のスポーツ欄だけを集めた新聞を毎日読んでみたい」と毎回のように思う。
 
 いっそのこと、思いっきり地元ネタだけを集めた「ローカル版スポーツ新聞」を、どこかで発行してくれないかな。まぁ、マニアにしか売れないだろうけど・・・。
 
 



2001年11月09日(金) 忘れられない表情

 1年前の6月中旬。整体院の診療室で休んでいると、ジャージを着た学生が入ってきた。がっしりとした身体に坊主頭。すぐに、野球部だと分かった。「どこの学校の方ですか?」と尋ねると、甲子園を狙う強豪校の名が返って来た。でも、声にハリがない。ボソボソと、うつむきながら話していた。夏の県大会を1ヶ月後に控えたことだった。

 昨年の6月、筑川の取材のためにほぼ毎日、整体院に通っていた。そこには、色々なスポーツ選手がやってくる。野球はもちろん、マラソンやバスケットなど。彼らは「痛み」を抱えてやってくる。大好きなスポーツをやれない辛さが、表情に出ている。表情は沈んでいる。
 
 坊主頭の彼も、暗い表情をしていた。当時2年生でありながら、夏のベンチ入りは確実と見られており、新チームのキャプテン候補にも挙げられていた。しかし、2年生に進級してすぐの柔道の授業で、左鎖骨を骨折してしまった。野球どころではなくなった。
 藁にもすがる思いで、整体院を訪れた。学校に行く前に、治療をしてもらい、安静にする日々が続いた。治療を受けるすぐ側では、中学や他の高校の野球部員が筋力トレーニングに励んでいる。でも、やりたくてもやれない。身体が動かなかった・・・。 

 7月に入ると、徐々に笑顔が見えるようになった。全く上がらなかった左肩が、動くようになり、キャッチングにも支障がなくなるほどに回復していたからだ。「先生、ぼくにもトレーニング教えて下さいよ」と、他の選手が行っていたトレーニングをこなすようにもなった。「これ、きついっすね」と言いながらも、常に笑顔は絶えなかった。身体を動かすことができる喜びを感じていた。

 県大会開幕を数週間後に控え、地元新聞にはベンチ入り(予定)20名が掲載された。彼の名はない。まだ、左肩は万全ではなかった。
 だが、大会を目前に控えると、嬉しそうな笑顔が溢れていた。「何とか、ベンチ入り出来ることになりました!」控えではあるが、背番号を手に入れた。初めて会ったときに見た「沈んだ表情」は、もうなかった。

 夏が終わると、トレーニングに力を注いだ。そのせいか、少し太めだった体型ががっちりとし、顔つきまでもが変わってきた。先輩が抜け、自分たちの代になった責任もある。引き締まった表情をしていた。
 「新チームどう? もうキャプテンは決まったんでしょう?」と問いかけると、「いやぁ、ぼくになっちゃいました」と笑いながら話してくれた。左鎖骨を負傷してから4ヶ月あまり、チームの柱になるまで成長していた。

 翌年の1月31日。高野連から「選抜出場決定」を知らせる朗報が届いた。身体全体で喜びを表していた。

 
 キャプテンとして臨んだ夏の県大会は、先輩と同じように準優勝に終わった。試合終了後、応援団に挨拶を終えると、我慢していた涙が一気に溢れ出た。

 1ヶ月後の秋季大会では、後輩を応援する姿があった。高校進学を考えていたとき、彼には希望していた進路がもうひとつあった。しかし、縁がなかった。だからこそ、引退した彼に聞いてみたかった。「この高校で3年間やって来れて良かった?」
 一瞬の間もなく、答えた。「甲子園にも行けましたし、すごい良かったですよ!」。初めてあったときに見た暗い表情は、もうない。左肩も、完全に治った。トレーニングも完璧にこなせるようになった。最後の最後まで迷っていた大学も、「ようやく決まりそうです」と話してくれた。
 今度は大学で、もっともっと輝いた表情を見てみたい。



2001年11月05日(月) 引退・・・。

 11月3日から始まった東都大学野球の1部2部入れ替え戦を3試合とも観戦した。本当は土日だけの予定だったのだが、一番緊張感のある第3戦を見逃しては意味がないと思い、最終戦も神宮へ足を運んだ。
 試合は、東洋大がドラフト候補でもある専大先発の酒井(4年・大宮東)を4回に捕まえ、2点を先制。投げては、第2戦に次ぐ先発となった上野貴(1年・帝京)が、9回途中まで本永(4年・西京)のソロホームラン一発に抑える好投。前日、1回3分の2でノックアウトされた屈辱を晴らした。9回途中からはエース山脇(1年・東洋大姫路)を投入し、3−2で接戦をものにし、1部残留を決めた。

 試合後、球場の外にはベンチ入りした選手を出待ちする控え部員の輪があった。球場向かって右に専大、左に東洋大。最初に、負けた専大の選手が出てきた。ブレザーを着た野球部員は、大きな拍手で彼らを迎えた。集まった父母から「お疲れさま」と声が掛かる。選手は、待っていた部員たちと握手をする。ホームランを打った4年生の本永の表情には、負けた悔しさというよりは、4年間やり終えた満足感が見てとれた。
 エースとして、キャプテンとして、チームを引っ張ってきた酒井が球場から出てくると、一際大きな拍手が上がった。酒井の目にも涙はない。第1戦では散発の3安打、14奪三振という見事な投球で完封勝利を挙げた。この日の第3戦では、5回2失点でマウンドを降りたが、終盤には一塁ベースコーチャーにつき、チームを後押しした。「後輩のために勝ちたかったんですけどね・・・」。記者の質問に答える酒井の声が聞こえた。自分の力を試すために、プロ入りを目指すという。
 選手が全員出てくると、ベンチ入り、ベンチ外の選手、そしてマネージャー、応援団、卒業する4年生が集合し、写真撮影が始まった。数分前、1部昇格が叶わなかった悔しさは微塵も感じられない。みんなが、思い出の1枚に収まった。

 遅れて、東洋大の選手も控え部員のもとへ集まってきた。1部残留を物語る、満面の笑顔があった。入れ替え戦で7打数4安打2打点と大活躍した5番の浦崎希(4年・PL学園)は、「のぞむ!のぞむ!」と名前を連呼する4年生部員に握手攻めにあった。専大の選手が写真を撮るほんの数メートル先で、東洋大選手たちによる歓喜の輪が出来あがっていた。
 

 4ヶ月前。私がずっと追っていた神奈川・桐光学園は、夏の県大会決勝で横浜高校に敗れた。2年連続準優勝。夏の甲子園初出場は後輩たちに託された。
 横浜高校の校歌が流れる中、選手たちは泣いた。3年生以上に涙に暮れていたのが、2年生部員だった。嗚咽するように泣いていた。
 だが、4番を務めた藤崎は、すがすがしい笑顔を浮かべていた。泣きじゃくる下級生に「泣くんじゃねぇよ」と声を掛け、肩を叩いた。藤崎はベンチ上にいた知り合いを見つけると、「負けてしまったけど、悔いはないです。一生懸命やりましたから。悔いはないです」。「悔いはない」と、笑顔で2回繰り返した。 
 この藤崎の言葉を、私は一生忘れないと思う。それぐらい強烈な言葉だった。「悔いはない」と言い切れるだけの練習をしてきた自信が藤崎にはあった。決勝では、甲子園で活躍した横浜エース畠山から3ランホームランを放った。3年間の練習の成果は出せた。


 満足した表情を浮かべる東洋大、専大の選手たち、そして藤崎の姿を思い出し、ふと思った。人生の節目で「悔いはない」「やり残したことはない」と、私は言えるのだろうか・・・。

 野球から教えられることは多いと、改めて感じた。
 



2001年11月02日(金) 東大の歴史を変える男

 「松家(まつか)はほんとにスゴイですよ。キャッチボールをしていると、他の人とは全然違う感覚に陥るんです。ボールの出所が全く見えなくて、受けてるこっちが怖いぐらいです。出所が見えないうえに、最後にボールがピュッと伸びてきますから」
 東大野球部の1年生が今夏、松家のすごさをそう話していた。それを聞いた私は、「とにかくすごいヤツが東大にいる」という情報が頭に残った。

 松家卓弘は、高松高校時代、夏の地方大会準優勝に輝いた右腕投手である。2年秋には、センバツを懸けた四国大会でベスト4入りするなど実績を残している。松家は、ドラフト候補にも名を連ねた。しかし、子供の頃から六大学でプレーすることを目標としてきた松家は、プロの誘いを断り、進学準備に専念した。
 半年後の冬。松家は東大文科二類に現役で合格。地元新聞にも「松家、東大合格」と記事が掲載されるほど注目を浴びた。

 春季リーグ戦、松家の登板はなかった。そして、秋季リーグでも神宮のマウンドに姿はなし。受験勉強でなまった体を本調子に戻すには、時間が必要だった。


 東大入学から7ヶ月後、松家はついに登板した。11月2日、東京六大学新人戦の3位決定戦で、大学入学後初の公式戦マウンドに上った。情報以上に、すごいヤツだった。
 相手は甲子園出場経験者が数多くいる法政大学。松家は先頭の佐藤に初球を投じると、くるりとスコアボードを振り返った。スピード表示を見るためだ。「あれ?」という表情を見せ、苦笑いを浮かべた。初球ストレートは130キロだった。しかし、それは初球だけ。徐々にスピードが上がっていき、初回は三者凡退と、上々の滑り出しを見せた。

 バックネット裏から見ていると、「キャッチボールが怖い」という東大野球部員の言葉が良く分かる。リリースの瞬間が最後まで見えない。その証拠に、法政打線はファールのヤマ。右バッターは一塁ベンチ側に、左バッターは三塁側に打ち込む。前へ飛ぶ気配がなかった。
 だからといって、球速が出ているわけではない。135キロ程度である。でも、打者は詰まる。手元での伸びが予想以上なのだろう。
 4回頃からは、スピードも上がりだし、MAX139キロを記録した。法政の投手が140キロ台のストレートを投げていたが、素人でも分かるぐらい、球のキレが違った。
 私の付けていたスコアブックを見ると、東大が5回までに打ったファールが11球。対する法政は22球ものファールを打っていた。ちなみに、続いて行なわれた決勝戦では立教が8、明治が9である。法政のそれが異常に多いことが分かる。

 松家は結局、6回を投げ、法政打線を散発の3安打、無失点に抑え込んだ。
 この日の配球は、ほぼストレートが中心。なぜなら、変化球のコントロールが安定していなかったためだ。これで、変化球に磨きをかけられれば、もっと大きな投手になることは間違いない。
 変化球が2球外れてカウント0−2。「次は間違いなくストレート」という場面が何度かあった。でも、法政は待っていたストレートが来ても、ファールになるだけだった。分かっていても、キレの良さについていけなかった。

 決勝戦の最中、私の近くに座っていた他の大学の野球部員が話していた。「松家、すごかったらしいな。法政が打てなかったってさ」
 
 東大野球部の歴史を変える男になる可能性は十二分にある。

 


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