みのるの「野球日記」
==すいません、ちょっと宣伝です==

●『中学の部活から学ぶ わが子をグングン伸ばす方法』(大空ポケット新書)

新刊が発売になりました。
しらかし台中(宮城)の猿橋善宏先生の
指導法などが掲載されています。
詳しくは、大空出版HPをご覧ください。
http://www.ozorabunko.jp/book/gungun/

●『グラブノート』(日刊スポーツ出版社)
BBA梅原伸宏さんのグラブ本。構成を担当しました。
親指かけ・小指かけの結び方、グリスの入れ方など、
グラブをよりよくするための方法が書かれています。

*ツイッター始めました
@mino8989 です。

2001年10月30日(火) 与えてくれる「熱」

 今日、生まれて初めて早慶戦を観戦した。高校野球は数えきれないぐらい見に行ったが、大学野球は数えるほど。主に春の全日本大学選手権や秋の神宮大会である。
 ところが昨日、突然大学野球が見たくなった。六大学野球の早慶戦。理由は分からないが、最近大学野球に興味を持ち始めるようになった。高校のときに話す機会のあった選手が、大学でも野球を続けている。彼らが成長した姿を見てみたいからだろうか。
 先日、首都大学を見に行ったとき、「大学野球も良いもんだな」と思った。それまでどちらかと言うと、彼らのプレーからは「熱意」が感じられなかった。大人びたプレー、クールなプレーが目につき、高校野球から感じる「熱」は存在しなかった。けれど、自分がずっと追い続けてきたという贔屓目もあるにせよ、筑川が悔しさを爆発させた姿を見て、大学野球を見る目が変わった。高校野球と同じような「熱」がそこにもある。
 
 あまりプロ野球に興味のない女友達が、日本シリーズ前に放映されたTBS系の『ZONE』を見て、「プロ野球にもこんなドラマがあるなんて、初めて知った」と言っていた。その日は、近鉄のローズが優勝するまで、ホームラン記録を更新するまでの苦悩を描いた内容だった。
 首都大学を見たとき、私の心境は、その友達と一緒だった。「大学野球にもドラマがあるんだ」と思った。今まで、冷めた目で見てきたことを悔いた。

 最近、自分がなぜこれほどまでに野球が好きなのかと思う。頭の中で考えても答えははっきりと浮かばないのだが、なぜか球場に行くと「あ、こういうことなのか」と分かるときがある。
 それは、選手や観客、応援団から、野球に対する「熱」を感じたときである。「野球をする」という現役から離れた今、彼らから与えられる「熱」を求めて球場に足を運んでいる。その「熱」を私に与えてくれるのが野球。だから、野球が大好きなのだと思う。「熱」を発してくれる限り、永遠に「野球きちがい」でいる。

 今日の早慶戦、最後の最後に鳥肌が立つような思いをした。試合中から、少しづつ感じてはいたのだが、それが爆発した。
  試合終了後、両校応援団による校歌斉唱とエールの交換が行なわれた。ゲームセット後、席を立ちあがり、帰ろうとしていた私の足を止めた。空いている席に座り直し、じっと聞き入った。
 胸が熱くなった。応援団を中心に、卒業生や在校生が校歌を歌う。一糸の乱れもない。観客も帰り支度を一端止め、耳を傾ける。運営委員の方々も校歌斉唱とエール交換が終わるまで、閉会式を行うのを待っていた。
 両校のエール交換が終わると、その日一番かと思われるぐらいの拍手が起きた。無意識のうちに拍手をしている自分に気づいたとき、なぜ野球が好きなのか改めて分かった。



2001年10月28日(日) 日大三、史上5校目の夏春連覇へ

 苦しい試合の連続だった。準々決勝の国士舘戦では3−2で接戦をものにし、準決勝の早稲田実業との試合では、終盤追い上げられる苦しい展開の中、5−3で辛くも逃げ切った。目立ったのは、夏の甲子園で見せた圧倒的な攻撃力ではなく、投手を中心とした守りだった。

 そして今日28日、二松学舎大付属と東京都秋季大会の決勝戦が行なわれた。日大三は、今年の秋季大会を象徴するような試合の末、2年連続の優勝を決めた。3−3の同点で突入した延長10回、4番水野のタイムリーなどで3点を追加。そのまま逃げきり、来春のセンバツ出場をほぼ確定的なものとした。
 優勝を決めると、今夏のレギュラーでもある主将の野崎は人目もはばからず泣いた。「夏の優勝チーム」というプレッシャーの重さが、その涙からうかがいしれる。優勝候補の筆頭に当然のように挙げられていた中での優勝だった。

 ある高校野球の監督が「2年続けて全国レベルのチームを作るのは難しいことです」と話したことがあった。どうしてもレベルの高い世代があると、「このチームで全国制覇を狙おう」と、集中して練習を積むようになる。その結果、下の学年に練習をさせてはいるものの、監督本人の指導が100%行き届かないことが多々あると言う。
 加えて、夏の甲子園で最後まで勝ちあがればあがるほど、新チームへの移行が遅れる。松坂大輔がいた横浜高校も、その翌春センバツに出場するものの初戦敗退。昨夏の優勝校智弁和歌山にいたっては、秋季大会の初戦で敗れてしまった。主力が卒業する中、夏・春と続けて強いチームを作ることがいかに難しいかが分かる。 
  
 日大三は、夏の甲子園を経験した野崎や幸内、そして甲子園のマウンドを踏んだ清代を中心にして、秋季大会を2年連続で制した。これで、都大会は昨秋から無敵の27連勝。先輩たちが築いてきた記録を、後輩が引き継いだ。
 都大会優勝により、日大三は「春夏連覇」よりも難しいとされる「夏春連覇」への挑戦権を得た。長い甲子園の歴史で、過去に達成したのはわずか4校。2ヵ月前、甲子園を沸かせた猛打ではなく、守りのチームとして連覇へ挑む。

 



2001年10月27日(土) 選手として

 以前の日記で首都大学野球を相模原球場で観戦したことを書いたが、そのとき球場で嬉しい出会いがあった。
 
 「こんにちわ」と挨拶されたとき、誰だか分からなかった。何となく見たことはあるのだが、はっきりとは思い出せない。丸みを帯びていた顔が精悍な顔つきに、メガネを掛けていたのがコンタクトに変わっていた。
 挨拶をしてくれたのは昨年、東海大相模のマネージャーをしていた井上くんだった。甲子園や地方大会ではユニホームを着る部員たちとは違い、制服を着てスコアブックを書いていた。センバツで優勝したときはユニホーム組と一緒に喜び、夏の地方大会で負けたときは同じように涙を流した。
 
 井上くんと初めて話したのは、東海大相模が地方大会で負けた数日後のことだった。井上くんは高校2年のとき、門馬監督から「マネージャーをやってくれないか」と要請を受けた。特に選手生命が危ぶまれるケガがあったわけでもない、選手としての実力が絶望的に劣っていたわけでもない。でも、監督は井上くんを指名した。マネージャーとしての素質を買っていた。
 「別にマネージャーになったことは後悔してません。すごく良い勉強にも、思い出にもなりましたので。でも、5日間ぐらい考えました。登校拒否にもなりましたし」とその頃を思い出し、笑いながら話してくれた。相模の他の選手に聞くと、「井上の実力ならベンチ入りは出来た」と言う。「井上は選手の誰よりも筋肉隆々。ベンチプレスは、マネージャーの井上が一番持ち上げますから」という可笑しなエピソードまであった。
 マネージャーとしての思い出を尋ねると「センバツで優勝したとき、マネージャーのぼくにまで優勝メダルが用意してあったんですよ。貰えないのかなと思ってたら、ぼくの分まで用意されてて、ほんとに嬉しかったです」と満面の笑顔で答えてくれた。

 あれから1年が過ぎ、相模原球場で会った井上くんの顔はびっくりするほど変わっていた。「イイ男」になっていた。
 大学に入学してから、準硬式野球部に入部。日々、練習に励む中で、自然と精悍な顔つきになったからだ。マネージャーをしているときの顔とは違い、完全に選手の顔。1年前とは全く違った井上くんがいた。
 準硬式ではピッチャーをやっていると言う。それならと言うことで、試合の後、シャドーピッチングを見せてもらった。いやいや、驚いた。「ほんとに元マネージャー?」と思うぐらい、フォームに力強さがあった。
 顔つきも変われば、当然身体も変わる。見るからにマネージャー時代とは違った。聞けば、筑川が高校時代にやったトレーニングを、大学になってやり始めたと言う。
 
 とにかく、選手・井上はすごく生き生きとしていた。そんな姿を見て、意地悪な質問をぶつけてみた。「やっぱり正直言うと、高校のときマネージャーになったの後悔してるんじゃない?」すると、「いや、そんなことはないですよ。ほんとに良い思い出になってます」と、引退直後と同じ返答をしてくれた。「準硬式からプロに入った選手もいるし、頑張ってよ」と言うと、まんざらでもない様子で笑っていた。 

 ちなみに元高校球児の私は、2週間前に2年ぶりぐらいのキャッチボールをした。2年もしなかったのは、高校時代に使っていたグローブがどこかに行ってしまい、やりたくてもやれなかったからだ。それが、ひょんなことから見つかり、いても立ってもいられなくなってしまった。
 キャッチボールは私を野球少年に戻してくれた。井上くんに負けないぐらいの「イイ顔」をしていたかもしれない。
 



2001年10月25日(木) 神宮球場を禁煙にして下さい

「時代の流れキャッチ『観客席禁煙』の横浜スタジアム 増える苦情に対応」
 これは昨年3月、朝日新聞神奈川版に掲載された記事のタイトルである。「2000年3月11日のオープン戦から全席禁煙にし、家族連れを中心としたファンへのイメージアップを図り、観客数の増加に繋げたい」という内容である。
 数日後、横浜対西武のオープン戦を見に行くと、球場係員が観客ひとりひとりに禁煙を知らせるチラシを配布していた。座席の後ろには、「禁煙にご協力をお願いします」というシールが全席に貼られていた。
 一方で、愛煙家への配慮も忘れてはいない。屋内通路に喫煙所を設置し、テレビモニターまでも常備。気配りを見せている。
 東京ドームなど屋内型球場は火災予防条例などとの関係で喫煙が禁止されているが、プロ野球本拠地の屋外型球場の中で、観客席を禁煙にしたのはこの横浜スタジアムが初めてのことだった。
 横浜に続けとばかりに、同年にグリーンスタジアム神戸が「全席禁煙」を発表。次いで、今年2001年には千葉マリンスタジアムが同様の発表を行った。これで、パ・リーグ6球団の本拠地は全て禁煙となった。


 昨日、神宮球場で日本シリーズ第4戦を観戦した。試合は2−1でヤクルトが勝利。応援していたヤクルトが勝ったのだが、その喜びよりも、もっと違ったことが印象に残ってしまった。
 神宮はとにかく空気が悪い。外野の最後尾から見ると、はっきりと分かる。タバコの煙があちらこちらからムクムクと上がり、球場全体を包んでいるかのようだ。自分の前後左右に座った人が、ヘビースモーカーだったら、試合どころではなくなる。加えて、風向きが自分の方へと向かっていたら・・・。昨日、私が座った席は、このふたつの重要ポイントを悲しいことにクリアしていた。
 
 ここまでの内容でお分かりだと思うが、私はタバコもタバコの煙も大嫌いだ。服はタバコ臭くなるし、受動喫煙で健康状態は悪くなるはで、当然ながら何のメリットもない。

 私は神宮の雰囲気が好きだ。球場も好きだし、ウグイス嬢の独特の美声もまた良い。周りは緑豊かな木々に囲まれ、デーゲーム観戦終了後など時間があるときは、そのまま駅に向かうのが惜しくなるぐらいだ。
 毎年春と秋には、全日本大学選手権と明治神宮大会を毎試合のように見に行く。ここでもタバコは天敵であるが、プロ野球と違って、周りにはたくさんの空席がある。風向きを考え、スモーカーのいない場所を選び、落ち着いて野球に没頭することが可能である。でも、昨日のように満員の観客、しかも指定席で見なくてはいけない場合は、そううまくはいかないのだ・・・。

 現在、プロ野球本拠地として使われている屋外型球場は6つ。そのうち、喫煙可能な球場は3つである。神宮、甲子園、広島といずれもセ・リーグの本拠地である。
 この日記を書くためのデータを集めるために、HPを検索してたら、「甲子園も禁煙に!」というサイトを見つけた。「高校生の全国大会が行なわれる甲子園が喫煙を規制しないのはいかがなものか」との内容だ。私もこの考えには大賛成である。

 冒頭で紹介した朝日新聞の記事には、球団取締役のコメントが紹介されていた。
「屋根のない球場には、ビールを飲みながら一服できる良さがあったが、これも時代の流れです」
 その通りだと思う。時代の流れの中で、神宮を含めた残り3球場が今後どのような対応を見せるか興味深い。
 昨日一緒に見に行った女の子が言っていた。
「タバコの煙がイヤだから、神宮で野球を見るのはもうイヤだ!」
 
 神宮球場の関係者様、ファンの要望を聞いてください。



2001年10月22日(月) 筑川、ベストナイン&最優秀防御率に輝く

 今日は13時ごろから、首都大学野球連盟のHPが気になってしょうがなかった。「勝った方が優勝」という東海大対城西大の天王山が保土ヶ谷球場で行なわれていたからだ。東海大の先発は来月のワールドカップ日本代表にも選ばれている久保。対する、城西大は2回戦に続き比嘉の先発。今日も1点が重みを増す、投手戦が予想された。
 
 しっかし、連盟の速報は更新回数が少ない・・・。まぁ、どこもやってくれないので速報をしてくれているだけでも感謝しなくちゃいけないのだが。でも、優勝決定戦なんだからさ。と、愚痴をこぼしたくなるほど、マメに更新をしてくれないのです。
 最初の速報は14時前。3回を終了し、0−0の同点とのこと。予想通り、両投手の投げ合いのようだ。だが・・・、既に7回を終了していた2回目の速報を見た瞬間、城西大のファンには悪いが「まさか!」と思った。なんと! 3−1で城西大リード。東海大が先制をするも、久保が集中打を浴び、一挙に3点を失ってしまっていた。私にとっては、午前中にBSで見たヤンキース・ソリアーノのサヨナラホームランに負けない衝撃度の大きさだった。
 城西大の投手陣と東海大打線を考えると、「あぁ、もうダメだな」と私は半ば諦め気味になってしまった。やっぱり、昨日の試合がなぁ・・・(詳しくは21日の日記で)。けれども、ファンというのは勝手なもので、諦めたと思いながらも、諦めていないもう一人の夢見る自分がいる。「もしかしたら」と何度も思い、連盟のHPに何度もアクセス。しかし、更新されやしない。「もしや、延長戦に入り、試合が長引いているのかも!」「もしや、東海大が1イニングに何十点と大量点を取り、速報のタイミングを失っているのかも!」私は勝手に夢のような願望を膨らませていた。
 ついに、あまりの速報の遅さにイライラ感が募り、自分で電話することにした。104で保土ヶ谷球場の電話番号を調べ、結果を聞くことに。「すいません、本日の試合結果を・・・」。「教えて下さい」と最後まで言い終わるうちに、球場管理事務所のおばちゃん(電話の声から勝手に判断)は素っ気なく答えた。「3−1で城西大の勝ちです」。淡い期待が幻に終わった瞬間だった。
 

 春の大学日本一である東海大は、首都大学2位に終わり、来月に行なわれる明治神宮野球大会への出場は断たれた。それと同時に、首都大学の王座から3年ぶりに陥落した。優勝した城西大は5年ぶり2度目の優勝を成し遂げ、首都大学連盟代表として、神宮大会に臨むことが決まった。

 今日、東海大は優勝を逃したが、私にとって良いニュースもあった。昨日、延長17回208球の熱投を繰り広げた筑川利希也(1年・東海大相模)が初の「ベストナイン」に選ばれ、防御率0.39で「防御率1位」にも輝いた。
 ちなみに、MVPと最優秀投手賞は城西大の小沢太一(2年・花咲徳栄)が受賞。これを見ると、もし昨日東海大が優勝していれば、小沢が獲得したタイトルは筑川の元に渡っていたのでは、と思えた。
 
 首都大学野球秋季リーグは幕を閉じた。高校時代追っていた筑川が、大学でも実力を存分に発揮し、着実に成長している姿を見れたことがとても嬉しかった。延長17回、決勝点を取られたときに見せた悔しさを、いつまでも忘れることはないと思う。



2001年10月21日(日) 筑川、延長17回熱投報われず

10月21日、神奈川・相模原球場で首都大学野球の優勝を決める大一番が行なわれた。ともに勝ち点4で並ぶ東海大学対城西大学の2回戦。この試合で勝ち点を挙げたチームが首都大学の覇者となる。前日にエース久保(3年・沖学園)の好投で延長10回の末、1−0で勝利を収めた東海大は、この試合に勝てば春秋連覇。一方の城西大は何としても勝ち、明日の3回戦に持ち込みたい。試合は、いつ終わるとも知れない熱戦となった。

 東海大の先発は、東海大相模時代にセンバツ優勝投手に輝いた筑川利希也(1年)。春は登板機会に恵まれなかったが、この秋のリーグ戦では大活躍。1回戦は久保、2回戦は筑川というローテーションが出来ていた。
 筑川はここまで4勝0敗。秋・初登板となった第1週の東京経済大戦の2回に1点を失ってから、今日を迎えるまで28イニング連続無失点。第2週の日体大戦では被安打2、12奪三振、無四球の完封勝利。第3週の帝京大に対しても、被安打2で完封勝ちを収めていた。そして、今日の最終週。「勝てば優勝」という大一番に筑川は当然のようにマウンドを任された。

 試合は東海大が3回裏に、3番平間(4年・沖学園)のタイムリーツーベースで1点を先制。しかし、その直後に筑川にピンチが訪れた。4回表、1番小野寺(4年・相洋)の打球はセカンド、センター、ライトのちょうど中間点に飛ぶ、守る側にとっては難しい当たり。これが三者の間にポトリと落ち、ラッキーな二塁打となった。声をしっかりと掛け合えば捕球できたと思える、筑川にとっては不運な当たりだった。
 ノーアウト2塁のピンチ。次打者渡辺(3年・牛久)がしっかりと送り、ワンアウト3塁。迎えるは3番竹原(3年・関西)。東海大内野陣は前進守備を敷く。筑川が投じた2球目を思いっきり引っ張った竹原の打球は、ファースト平間を襲った。平間は痛烈な打球をファンブルしてしまい、その間に3塁ランナー小野寺が生還。城西大が1−1の同点に追いつくとともに、筑川の無失点記録も31イニングでストップした。すっきりとしない点の取られ方に、マウンド上の筑川は帽子を目深に被り、納得できない素振りを見せていた。

 中盤に入ると投手戦が続いた。筑川に勝るとも劣らぬピッチングを見せたのは、城西大の比嘉(3年・読谷)。右腕から140キロ台の直球と変化球を投げ込み、春の全日本大学選手権を制した東海大打線を抑え込んだ。比嘉は7回まで投げ、被安打6、失点1でマウンドを降りた。8回から登板したのは、2年後のドラフト候補と目されている小沢(2年・花咲徳栄)。右横手からキレの良い直球を繰り出す。投球フォームは、先日引退した巨人・斎藤雅樹にそっくりである。東海大打線は、城西大が継ぎ込んだ2投手の前に、得点機は作るものの、得点を挙げられず、イニングだけが進んで行った。
 投手交代をした城西大に対し、東海大のマウンドには依然、筑川が上っていた。試合が進みにつれ、投球のキレが増し、ピンチすら作らせない内容だった。試合は、両投手の投げ合いで前日に続く延長戦に突入した。
 
 延長に入ると、ベンチ前で次の投球に備え肩ならしをする筑川に変化が見られ始めた。序盤は軽いキャッチボールで終わらせていたのだが、延長ではビュンビュンと速い球を投げ、自らを鼓舞しているように見えた。完全に投手戦の展開を見せ、「1点取られたら負け」というムードがグラウンドにも観客にも漂っていた。
 
 いつしか、私のつけていたスコアブックがいっぱいになってしまった。用意されていた枠は延長13回まで。やむなく、次のページに書かなければならないほど、イニングは進んだ。「延長戦は何回までやるの?」観客からチラホラとこんな声があがってきた。それほど、両チームの投手が良く、点が入る予感すらしなかった。優勝を懸けた大一番は、息詰まる熱戦となった。
 
 筑川は一人で黙々と投げつづけた。ベンチに戻ってくるときも、肩ならしをするときも、笑顔すら見せず、打線の援護を待った。「利希也、我慢だぞ我慢!」スタンドに陣取った控え部員から、何度となく応援の言葉が飛んだ。まさしく、その通り。我慢のピッチングを続けていれば、次の回こそは・・・。
 延長16回裏、東海大はツーアウト1.3塁のサヨナラのチャンスを迎えた。打席に入るのは5番鞘師(3年・報徳学園)。鞘師は小沢が投じた4球目をうまくライト方向へ追っ付け、ライトライン際へ。悲鳴とも歓声ともつかない声がスタンドから上がった。しかし、無情にも打球はラインのわずか10センチほど右へ落ちた。打球を見届け終わった筑川は、延長戦に入ってから初めてと言ってよいほど、表情を崩した。苦笑いをし、うらめしそうに打球の落ちた方向を見つめていた。

 延長戦はついに17回に突入。筑川は一人で投げつづけ、球数は180球を越えていた。だが、投球内容に衰えは全く見られず。数字がそれを示していた。9回まで8奪三振、10回から16回までも8三振を奪っていた。
 私の隣には筑川の身体を中学から見続けいてる整体師がいた。「利希也は絶対にバテない。そういうトレーニングをしてきた」と自信を持って話していた。2人は中学時代から身体作りに励み、試合の終盤でも力の落ちない持久力を身に付けてきた。そのトレーニングは、ノンウェイトで行なわれている。整体師の言葉を借りれば、「利希也が生まれつき持つ柔らかい筋肉を維持するため。多くの球数を投げても疲労しない身体を作るため」に、独自のトレーニング方法を考え、それを筑川が黙々と実戦してきた。中学2年から作り上げてきた身体は、延長戦に入ってもへばることはなかった。

 だが、延長17回表。クライマックスは突然やってきた。2アウト1塁(エラーで残ったランナー)。迎えるは3番竹原。初球投じたストレートは右中間へ快音を残し、飛んでいった。湧きに湧く城西大ベンチ。狂ったように騒ぐ応援スタンド。打球は右中間フェンスまで達し、1塁ランナーが長駆ホームイン。ついに、勝ち越し点が生まれた。
 本塁のベースカバーに回った筑川は、両膝に手をつけ、うつむいたまましばらく動くことはなかった。ここまで投げてきたものが全て消えてしまう「痛恨の1点」だった。
 マウンドに戻ろうとした筑川だが、途中で歩を進めるのを止めた。自軍ベンチから伊藤監督が投手交代を告げるため出てきたからだ。筑川はマウンドに戻る途中で、怒りをあらわにした。帽子とグローブをグラウンドに投げつけ、最後の最後で打たれた悔しさをぶつけた。一緒に観戦してい筑川の東海大相模時代のチームメイトが「あんなに悔しさを表した利希也は初めて見た。打たれた自分に、めちゃくちゃ腹が立っていると思う」と話していた。ベンチに帰る寸前にも、グローブを思いっきりベンチに叩きつけ、悔しさを爆発させた。

 17回裏、東海大の攻撃が0点で終わると、城西大ベンチは優勝したかのような喜びに包まれていた。負けた東海大は、試合終了後ベンチ前で短いミーティングを行っていた。筑川は円陣の後方で、うつむいたままだった。
 
 試合終了から数分後。東海大の選手が、選手控え室からバスに乗り込むため続々と出てきた。もちろん筑川もその中に。帽子を可能な限り深く被り、表情を悟られたくないようだった。相模時代のチームメイトも筑川に声を掛けようと出待ちをしていたが、筑川が発する「悔しさ」の前に何も言うことは出来なかった。「利希也、良く投げたよ。お疲れ」と筑川が誰よりも信頼を寄せる整体師が肩を叩くと、一瞬顔を上げ、軽く頷いた。
 
 筑川は、16回3分の2を投げ、被安打8、17奪三振、自責1という見事な投球内容だった。通算成績は、4勝1敗、46回3分の2を投げ、自責わずかに2、防御率0.39という見事なピッチングで終わった。
 けれども、大きな大きな1敗が最終週で記録された。チームメイトの誰もが、「今まで見たことがない」というほどの悔しさを見せ、グラウンドでそれを爆発させた。以前、筑川はこんなことを言っていたことがある。「ぼくよりスピードの速い投手はたくさんいる。でも、ぼくが他の人に絶対に負けないことは勝つこと。勝つことへのこだわりなら負けないです」
 
 どんなに良いピッチングを見せたにしろ、不運な形での失点だったにせよ、勝負には勝てなかった。そえゆえにグラウンドで爆発させた悔しさと、打たれたことに対する自分への怒りを、新たな成長への糧とし、更なる飛躍を遂げて欲しい。
 



2001年10月18日(木) 時は経てども・・・。

 先日、ある資料を探すために、地元の図書館に足を運んだ。そこで、20年ほど前の新聞の縮刷版を読んでいて、興味深い記事を見つけた。
 1977年8月23日。「スポーツ中継 アンチ巨人戦」というタイトルで、読者からのハガキを紹介している。掲載されているハガキは5つ。それぞれの小見出しを挙げると、「一辺倒中継なくせ」「他試合途中経過を」「困る声援調の放送」「日本TV系に不満」「パの中継を増やせ」。
 この記事を読んだとき、私は思わず笑いそうになってしまった。77年といえば、もう24年も前のこと。私が生まれた年でもある。それなのに、見出しをみると今の時代にも十分に当てはまってしまう。この5つの中で、改善されたことと言えば、「他試合途中経過を」ぐらいではないか。
 興味深いのが、「一辺倒中継なくせ」と「パの中継を増やせ」だ。両者とも、言いたいことは似ている。「いつまでも巨人一辺倒のTV中継はやめて、他のチームの試合も放送して欲しい」という内容である。おそらく今、同じタイトルで読者投稿を募れば、これと同じようなハガキが多数寄せられるだろう。

 今シーズン終盤戦、ヤクルトがマジック1と優勝に王手を懸けていたとき、「勝てば優勝」の試合が一度も地上波では放送されなかった。「優勝が決まりそう」という展開になったときに、臨時的に中継されたぐらいである。一方で、消化試合となりつつあった巨人戦は、相変わらず毎日のように放送されていた。以前は当たり前のように視聴率20%を超えていた巨人戦が、10%前半に落ち込み、10%を切ることがあったにもかかわらずだ。
 今週始めに放送されたNHKの「イチロー特集」が、同時間の日本テレビの「長嶋監督勇退特別番組」を視聴率で上回ったことが、スポーツ新聞に書かれていた。その記事は、「プロ野球界の世代交代が始まった」と締め括られていた。

 20世紀最後の日本シリーズで、日本が生んだスーパースター長嶋監督が宙に舞い、21世紀最初のシーズンでその長嶋監督はユニホームを脱いだ。ここのところ加入者が急増しているスカイパーフェクトTVでは、12球団全ての試合を見ることも出来る。巨人戦しか選択の余地がなかった時代から、巨人戦以外の試合も自由に選べる時代になった。かく言う私も、今年ほど巨人戦を見なかった年はない。今シーズンに合わせて加入したスカパーをフルに活用し、ほぼ毎日のように西武の試合を見ていた。

 1977年から24年経っても、野球中継に対する多くのファンの不満は依然として昔と同じままだ。しかし、野球ファンの見方は確実に変わり始めている。巨人戦の視聴率が落ち、イチローの特集番組が高視聴率を記録した。今度は番組を提供する側が、変化を見せる番かもしれない。
 「史上まれにみる地味な対決」と言われる日本シリーズが、明後日土曜日に開幕する。けれども、「地味」というのはあくまでも視聴率を取りたい制作側の考え。今年の日本シリーズは、昨年のON対決よりも楽しみがたくさんあると私は思っている。もし、今回のシリーズの視聴率が、昨年のそれを上回るようなことがあれば、時代が確実に変わっている証明となる。
 



2001年10月15日(月) 伝令 No.3 〜伝令から見える監督の考え〜

 一週間ほど前の話になるが、、、10月6日高校野球神奈川県秋季大会の準決勝を観戦してきた。桐蔭学園対桐光学園、平塚学園対東海大相模。いずれも、甲子園出場経験のある強豪校だ。
 この4チームは、それぞれが「伝令」のスタイルを持っており、試合内容とはまた別に面白いものを見られた気がする。

 準決勝第1試合は、桐蔭学園が10対3で桐光学園を下した。桐蔭はこのまま全国に行っても、十分に上位が狙えるほどの力を持っていた。この試合、伝令を送った数は桐蔭が1回、桐光は0回。終始劣勢であった桐光であるが、一度も伝令を使わずに試合を終えた。
 先制をしたのは桐蔭。2回表に打者一巡の猛攻で5点を先取した。この間、桐光守備陣には守りの乱れが二度。四球も絡んだ。流れが悪かったのは明らか。だが、ベンチから伝令が送られることはなかった。
 
 桐光を率いる野呂雅之監督は、以前の日記でも書いたがほとんど伝令を出さない。ベンチからキャッチャーに自分の意志を伝えることで、それを補っている。ただし、新チームのときはそうもいかない。準々決勝では3回の伝令を使い切っている。主将であるキャッチャーに対して、「失礼だけど、まだそれほどの信頼がないから、伝えることはしっかりと伝令を送って伝えたかった」と、準々決勝後に監督は話していた。
 では、なぜ準決勝の桐蔭学園戦では一度も伝令を送らなかったのか。それは、動きに精彩を欠いた(以前の日記参照)ショートの1年生・上宇都を最後の最後まで代えなかったことと関係していると思う。決して「試合をあきらめた」わけではないが、まだ秋の段階。春、夏と続く戦いのために、経験を積ませたかったと推測する。「旧チームのように伝令を出さなくても、選手がやるべきことを理解できるチームになってほしい」と準々決勝の試合後に言っていたことからも、感じることができる。

 一方の桐蔭学園は、大量リードの場面で伝令を送った。場面は、6対0とリードした5回裏の守り。1点を返され、なおツーアウト3塁。バッターは1番という状況でベンチは動いた。
 桐蔭を率いるのは、高橋由伸(巨人)や高木大成(西武)らを指導し、自身では高校時代に全国制覇の経験もある土屋恵三郎監督。桐蔭のスタイルはとにかく「基本を大事に」。それは試合前ノックや、選手の打撃フォームを見れば分かる。良い意味でも悪い意味でも、選手みんなが同じような動きをする。
 桐蔭を表す言葉を挙げれば、「慎重」「堅実」「緻密」。準々決勝では、1イニングに3スクイズを試みている。言葉は悪いが「いやらしい」野球をする。「野球は何が起こるか分からないから、最後の最後まで手を抜かない」という意識が見ている側に伝わってくるのが桐蔭野球であり、土屋監督の教えである。
 
 もし両チームが逆の立場。つまり、桐光学園が桐蔭学園をリードしていて、上記と同じ状況になったと考えると、桐光はリードしている場面では伝令を送らず、桐蔭は守備のミスが出た時点で伝令を送っていたと思う。
 この試合は中盤で大差がついてしまい、勝敗への興味は薄くなってしまったが、伝令に注目することで、面白く試合を見ることが出来た。高校野球独特のルールである「伝令」に視線を寄せれば、試合をもっと興味深く観戦できると思う。



2001年10月13日(土) やっぱり自分の足で・・・

 私の目標であり師匠でもあるライターのM氏は、「とにかく、足でネタを稼げ。自分の足で現場に行って、掴んできたネタは、どんな理論にも勝てる」と口酸っぱく言っていた。「球場に行って生で観戦することで、テレビでは見つけることができない発見がある。選手に話しを聞くだけが取材ではない。自分の目で観戦することも、取材のひとつ。とにかく、その場にいかなければ何も起きない」

 昨日(12日)、日本シリーズの神宮球場分のチケットが発売された。発売方法は、電話予約と都内プレイガイドでの店頭販売。私は、もちろん電話予約を選んだ。「もちろん」というのは、店頭販売と聞くとすぐに「朝早く並んでの行列」が浮かんでしまうからだ。早く起きるのは大の苦手。しかも、並んでもチケットを取れる保証はない。昨年のONシリーズと違って、今年は「地味」と言われているヤクルト対近鉄。まぁ、電話予約でも大丈夫だろうと高を括っていた。
 
 「こちらはNTTです。只今お掛けになった電話は大変混み合って・・・」。発売開始から30分を経過しても、一向に繋がる気配がない。ちょっと、焦ってきた。11時前。やっとのことで繋がった。が、「予定枚数は終了致しました」。続いて20分後、別のチケットセンターに通話成功。「終了致しました」。同じガイダンスが流れていた・・・。
 12時を過ぎ、さすがにもうあきらめた。第1回の日記で書いたように、私は大の西武ファン! 近鉄vsヤクルトなんて・・・。と思いながらも、内心では「日本シリーズを生で見なくてどうする!」という思いがあった。
 8割方あきらめつつ、仕事に出た。23時過ぎに帰宅し、インターネットに接続。某掲示板でチケット情報を手に入れるためだ。掲示板を見た途端、後悔の念が襲ってきた。店頭発売では、「余裕で買えた」という書き込みが多数。しかも、20時頃でもまだ余っているという。あの電話予約の時間は何だったんだ・・・。悔しいというか、情けないというか。明日、ダメもとでも良いから、銀座のプレイガイドに行ってみよう。まだ残っていることを信じて、眠りに入った。「銀座に10時(発売開始時間)につくには、8時に起きて・・・」。時間を計算しながらウトウト・・・。

 翌朝、あまりの眠さで起きれない(いつものことだが)。目覚ましを何度消しただろうか。昨晩考えた予定の行動はどこへやら。「まぁ、正午ぐらいに銀座に行ければ」。情けないほど、意志の弱い自分・・・。
 結局、銀座のプレイガイドに着いたのは13時過ぎだった。お目当ては、24日の一塁側内野B席。店頭に張られた『チケット販売状況』には、24日のB席はまだ空いていることが記されていた。ほっと一息付き、前の男性の後ろに並ぶ。「24日のB席を2枚ください」。コラコラ! 売りきれたらどうするの! と思いハラハラ。すると、売り場のお姉さんが、『販売状況』に黒ペンで「×」を書き込んだ。それは、24日のB席が売り切れたことを意味していた。昨日今日で、これが何度目の後悔だろう。あのとき、目覚ましを消さなければ・・・。
 最後まで余っていた「24日のレフト側外野席B」を購入し、お店を出た。希望の席は買えなかったが、昨日の電話を考えれば良しとするべきか。

 それにしても、今年は売れ行きが悪いようだ(大阪ドーム分は別として)。発売1日目で完売しないのは、去年では考えられない。でも、そのおかげで手元にはチケットがあるのだが。今度、また別の機会に書こうと思うが、今年のシリーズはすごく面白いと思う。いてまえ打線対古田。古田がどんな攻めをするのかを考えるだけで、ぞくぞくする。

 電話販売で買うことができず、店頭であっさりと入手できたとき、冒頭に書いたN氏の言葉が何度も浮かんだ。
「とにかく現場に足を運べ」
 自分の情けなさを、そして現場に行く大切さを身に染みて感じた2日間だった。



2001年10月12日(金) 練習グラウンド

 駅前の商店街を抜けると、お目当ての高校が視界に入ってきた。駅から7、8分歩いただろうか。「こんなところに学校があって良いの?」と思うほどの立地条件だった。校舎の隣には、学生のひとり暮らしに最適なアパートがあり、マンションもそびえ立っていた。

 今日は「わけ」あって、東京都のある学校に足を運んだ。東京・品川駅から電車で20分ほど(23区内。東の方です)。下町とまでは言えないが、とても込み入った感がある。A高校(すいませんが、表記はこれで)はそんな中に、ひょっこりと姿を現す。
 訪れた「わけ」は、野球部の練習を見学するためだ。人伝に「最近、実力を付けてきている学校」と聞いていたこともあり、どんなチームなのか興味を持っていた。見学と言っても、学校側に許可を取っているわけではないので、さすがに堂々とグラウンドに立って見るわけにもいかない・・・。
 どこか人目に付きにくい場所はないかと思い、とりあえず学校を一周してみることにした。いやはや、驚いた。何せ、5分もしないうちに一周してしまった。とにかく、びっくりするほど小さな学校なのだ。調べたところ、生徒数もそんなに多いわけではなく、むしろ少ないとのこと。でも、それだけが「小さい」理由ではない。「東京の住宅街」という理由も当然存在するはずだ。

 私は何周も回ってしまった。なぜなら、どこにも野球部員が見当たらないからだ。練習をしているのはサッカー部だけ。あとは、体育館に柔道部や剣道部が練習する姿があった。
 何周もして、学校の全容(おおげさな・・・)が掴めた。何と土のグラウンドがない。土どころか、グラウンドそのものがないのだ。サッカー部の練習場所はテニスコート(3面ぐらいあったかな)。この学校で運動するのに一番広い場所が、テニスコートのようだ。しかも、コートは正門を入るとすぐに現れる。とにかく、敷地が狭すぎる。
 せっかく来たのだから野球部を見たいと思い、下校中の生徒に声を掛けた。「野球部はどこで練習しているの?」「グラウンドで練習していると思いますよ」「え? グラウンドってどこにあるの?」「学校に」「え? なかったけど・・・」「あっ、テニスコートのことです」。生徒には、テニスコートがグラウンドになっていた。体育の授業も、そこで行われているという。なんか、可哀想になってきた。都会の学校、住宅街にある学校は、こういうケースが多いのだろうか・・・。
 練習場所を学校に問い合わせてみた。「野球部はいつもテニスコートで練習してます。でも、今日は河川敷じゃないですかね」と事務員らしき女性が丁寧に教えてくれた。やっぱり、いつもグラウンドと呼ばれるテニスコートで練習をしているみたいだ。でも、やっぱりこんな狭いところじゃ、バッティング練習もできやしない。定期的に河川敷のグラウンドを予約し、練習を行っているとのこと。すごくホッとした気分になった。

 もう、日も暮れてきた。どうしようかなと思いつつ、電車に乗り河川敷まで行くことにした。20分ほどで目的地に着いた。でも、辺りはかなり暗くなっており、案の定、練習を引き上げる姿が・・・。野球をやっている姿ではなかったけど、またしてもホッとした。なぜだか、嬉しさもあった。「あんな小さいグラウンドで、野球はやれないよなぁ」

 結局、練習は見ることは出来なかったが、いろいろな発見があった。グラウンドの狭さを感じたとき、東東京の強豪・帝京高校を思い出した。確か、他の部とグラウンドを共有していて、内外野の連係プレーが満足に出来ないと聞いたことがある。
 最近、東京の高校野球は西東京の活躍が目立つ。西東京は、八王子や国立など、比較的「のどか」で、「田舎」の匂いがする地域である。一方の東は、渋谷や新宿、品川など、山手線エリアを中心に、「都会」という言葉が当てはまる地域だ。
必然的に、学校の敷地面積にも影響してくる。西の方が、圧倒的に敷地が広く、野球の練習を存分に行うことが可能なグラウンドを備えているところが多い。もちろん、グラウンドの有無で実力が決まるとは思わない。でも、毎日毎日、野球が出来る環境にいるチームの方が、少しは有利ではないだろうか。ここ数年、帝京を始めとする東東京勢が、西東京勢に比べ目立った成績を残せていない一因にグラウンドの有無もあるのではと、最近とくに感じている。
 さきに行なわれた神奈川県秋季大会を初制覇した平塚学園はつい最近、両翼100M近い野球専用グラウンドが完成し、思う存分野球が出来る環境になった。同じく専用グラウンドがある桐光学園に今春入部したある1年生は、「専用グラウンドがあることが、桐光に入学する決め手ともなった」と話していた。スカウティングを考えてもグラウンドの有無は、影響するかもしれない。

 いつもテニスコートで練習しているA高校は今週末、秋季大会の2回戦を迎える。これに勝てば、「21世紀枠」の選考基準を満たす、地方大会ベスト8入りとなる。さて、結果やいかに・・・。
 



2001年10月09日(火) 伝令 No.2 〜高校野球特別規則〜

 昨日の日記に、「数年前に、伝令は1試合につき3回が限度と決まった」と書きましたが、そんなことを書いているうちに「伝令」に関する規則が他にもあるのではないかと思い、今日さっそく調べてみました。ご親切なことに、日本高等学校野球連盟のホームページでは「高校野球特別規則」の全てを見ることが出来るのです。この特別規則以外にも「アマチュア問答集」など、ためになる項目が多く、なかなか充実したホームページと言えます。

 さて、いきなりですがここで問題です。(A)と(B)に当てはまる数字を入れてください。

「高校野球特別規則」より抜粋 
14. 試合の進行をスムーズにするために下記の規則を採用する。
 (1) 守備側の伝令に関する制限 
  (d) 伝令は、審判員が“タイム”を宣告してから(A)秒以内とする。

注)計時は控え審判が行い、球審に知らせることとする。

(f) 内野手(捕手を含む)が(B)人以上マウンドに行った場合は、1回にカウントする。

注)野手がマウンドに集まることについては、各塁と投手板の間の中間距離を目安とし、それを越えた場合は、1回としてカウントする。


 野球をよく知っている方なら(B)は分かりやすいと思いますが、問題は(A)ではないでしょうか。私はこの規則を今日初めて知りました。答えは(A)30、(B)2です。そもそも『試合の進行をスムーズにするために』伝令を3回までと制限することに、ちょっと首をひねってしまいますが・・・(だって、1回や2回増えたところで、大して時間は掛からないと思うんですが)。
 それにしても細かい規則が定められているんですね。もう高校野球を卒業して6年も経つので、こと高校野球の特別なルールに関しては疎くなってしまいました。でも、この『30秒以内』の基準は何なんでしょう。20秒でも、15秒でも良いと思うんですが。『計時は控え審判が行い・・・』そんなこと初耳です!(常識ですかね?)そもそも、ほんとに計時しているんでしょうか。
 と、別にこの規則に関してのあら探しをしているわけではないので、あしからず。伝令に関して、「こんなにも細かい規則がある」ということを知って欲しかっただけです。(f)の注)などは、初めて読んだとき笑ってしまいました。そんなに細かく定めなくても良いのに・・・。『各塁と投手板の間の中間距離』ですか。すごく分かりにくい「微妙な」場合はどうするんでしょうね。
 この伝令に関する規則を頭に入れて高校野球を見ると、控え部員がマウンドに向かって駆けてくる伝令が待ち遠しくなりそうですね。私は既に楽しみになってしまいました。そういえば・・・。伝令に走る選手は必ずと言って良いほど、塁線を跨いで来ますよね。未だかつて、塁線を踏んでマウンドに来た選手は見たことがありません。これが礼儀(暗黙の了解?)なのでしょうか。
 まさか、伝令だけでこんなにネタがあるとは思いませんでした。これからしばらく、「伝令」にハマリそうです。

 さて、あと3時間ほどで大リーグのディビジョン・プレーオフが始まりますね。生で見る人はどれくらいいるのでしょう。私はもちろんビデオに録画しますが。心配なのは、現在の横浜は雨と風が強いこと。BSの受信がちゃんと出来るのか不安です。では、「伝令 No.3」をお楽しみに。



2001年10月08日(月) 伝令 No.1

高校野球においては、「試合中の伝令は3回まで」という決まりがある。確か2、3年前に「試合時間短縮」の目的で実施された覚えがある(別に伝令の1回や2回など、時間にしたら数分。おかしな話しだと思うが)。このルールが出来てから当然、監督はむやみやたらに伝令を送ることができなくなった。序盤にピンチを迎えても、「終盤のために伝令をとっておきたい」と考えることが増えた。
 なぜ、今回は「伝令」の話しを書いているかというと、先週、神奈川県秋季大会の準決勝を観戦しに行ったとき、登場した4校がそれぞれ違う考えで伝令を送っているように感じたからだ。そもそも、今まで伝令にはあまり注目してこなかったのだが、桐光学園を取材するようになってそれが変わってきた。前にも書いたが、桐光の野呂監督は、全くと言って良いほど伝令を送らない(今年の新チームは違うが)。しかし、それは選手に全てを任せたということではなく、ベンチから監督自らがキャッチャーにジェスチャーや言葉を送ることで、伝令の役割はこなせていると考えているからだ。野呂監督からそのような考えを伺ってから、桐光の試合を見ているときは、伝令を使うのか使わないか、他の試合よりも気をつけて見るようになった。そんなことで、伝令に対する眼が養われ(?)、先週の準決勝は「お! このチームはこういうふうに伝令の役割を考えているんだな」と考えて見るようになり、色々な発見があった。
 
 ここまで書いて、試合中に気づいた点を書き込んだスコアブックが手元にないことに気づきました。明日また、記録を見つめ直して「伝令 No.2」として書き込みます。そうそう、伝令といえば、今年は宜野座が有名になりましたね。「やきそば食べに行こう」「USJに行こう!」などなど。ピンチのときに、そういうことを言われるとリラックス出来るんでしょうね。でも、それを何かすごいことのように言うのはどうなんでしょう(宜野座の奥濱監督を特集した某局の番組でもそのことが取り上げられていましたが)。
 でも、「伝令」の言葉を分解してみると、「指令(命令?)を伝える」となるんですよね。と、手元に国語辞典があったので、意味を調べて見ました。『軍隊などで、命令を伝えること』と記されています。指令ではなく命令でした。どっちにしろ、何かすごく強いイメージですね。じつは「伝令」という言葉は、高校生がやるスポーツにそぐわないのでは、と今になって気づきました・・・。
 「バント」だけで、あれだけ深い作りに仕上げてしまう野球小僧編集部さん。次回、「伝令特集」はいかがでしょうか。なかなか面白いと思うんですが! そういえば、大学野球の場合は監督自らマウンドに行く場合がほとんどですよね。高校野球に慣れ親しんだわたしとしては、初めて見たときはかなり違和感のある光景でした。
 伝令って、結構、いやかなり奥が深い! この日記を書きながら、改めて実感しました。今回がめでたく「伝令 No.1」。せめて「No.10」まで行くようにネタを仕入れたいと思います。では、また次回・・・。



2001年10月06日(土) 桐光学園、全国制覇を目指し No.3

桐蔭学園との準決勝は完敗に終わった。投手を中心とした「守り」に大きな差があった。桐光学園に注目するようになって2年弱。これほど完膚なきまでにやられた試合は初めて見た。10対3の大敗。来春のセンバツは、ほぼ絶望・・・。

 勝敗は、2回表の桐蔭学園の攻撃でほぼ決まった。この回、打者一巡の攻撃で5点を奪い、試合の主導権を握った。だが、2回に生まれたヒットは3本だけ。3つの四死球と桐光守備陣のエラーを確実に生かし、大量得点に繋げた。
 2回表、桐蔭学園はノーアウト1、2塁のチャンスを迎えていた。バッターは7番濱中。初球外角ストレートに対し、濱中はバントの構えからウエイティング。だが、バントを予測していたセカンドランナー吉田の離塁が大きく、キャッチャー船井の牽制球で刺される。状況は、ワンアウト2塁に。桐光は最初のピンチを乗り切ったように思えた。続く2球目、濱中は内寄りのストレートを強引に引っ張り、打球は三遊間深くへ。桐光のショート上宇都(かみうど)泰平がうまく回り込んで打球を処理。セオリーに反して三進を狙っていたセカンドランナーをサードで殺そうと、上宇都はサードへスナップスロー。次の瞬間。桐蔭スタンドから歓声が、桐光サイドからは悲鳴が上がった。上宇都の送球はホーム寄りにずれ、ボールはバックネットを転々とした。桐蔭の先取点は、エラーから生まれた。
 場面はツーアウト2塁に。迎えるバッターは9番菊池。菊池が打った打球はショート前の平凡なゴロ。けれども、ショートの動きはスタンドから分かるほどガチガチだった。この回、2つ目のエラーを記録。守りの要がおかした痛すぎるエラーだった。
 スリーアウトチェンジで終わったはずの桐蔭の攻撃が、このあと数十分続いた。満塁から走者一掃のタイムリーも生まれ、桐蔭ベンチは湧いた。もし今年ドラフトにかかったとしても「間違いなく上位で指名される」というほどの逸材である、桐蔭エース栂野を相手にいきなりの5点はこのあと重くのしかかっていった。
 上宇都はこのあとも試合の流れに乗れていなかった。中継プレーのミス、ポテンヒットを生んでしまった消極的な守り。2回表のふたつのエラーが、プレーを小さくしていた。それは必然的に打撃にも影響した。今日の試合は準々決勝の7番から2番に抜擢されたが、栂野の140kmを超すストレートを芯で捉えることが出来ず、凡打を繰り返した。
 上宇都がぎこちないプレーをすると、スタンドからは野次が飛んだ。「またショートかよ! 早く交替させろよ!」 打席に入っても同じだった。「代打出せよ!」 心ない野次だった。

 3ヶ月前の夏の県大会。桐光学園はベンチ入り20人の中に3人の1年生が名を連ねた。今や準エースにまで成長した左腕・望月、スピードボールに特徴のある吉田、そして内野手でただひとり背番号を付けたのが上宇都だった。本職はショートだが、チーム事情からこのときはセカンドで試合出場を目指した。
 夏の大会前、桐光の悩みは2番バッターが決まっていないことだった。主砲石井、藤崎にいかに繋げるか。2番の役割は大きい。「上宇都には2番バッターとして期待を懸けている」と野呂監督が名指しするほど、その実力を買われていた。初めてスタメン起用された3回戦の関東学院戦では2打数1安打とまずまずの活躍。だが、まだ信頼感がないのか、終盤の7回からはセンバツ時のレギュラーである丸に交替させられた。
 5回戦、私学の強豪・横浜商工との試合でも上宇都は2番スタメン出場を果たした。この試合、序盤から1点を争う好ゲームが展開。少しのミスも許されない雰囲気だった。上宇都は2度打席に立つが結果は出ず。野呂監督は早目に選手交代を決断した。1対1で迎えた5回裏横浜商工の攻撃時から、上宇都をベンチに下げ、丸を守備につかせた。結果的にはこの采配が的中する。丸は延長11回に勝ち越しとなる決勝適時打を放ち、守備でも無難な守りも見せ、監督の采配に応えた。試合後、この交代について監督に訊くと「接戦になったときは、やっぱり経験の浅い上宇都よりは、3年生の丸を使ったほうが良いと思いました。局面での状況判断がまだ上宇都には足りないから」
 期待はしているが、まだ完全なる信頼がない。あっさりと交代を告げられてしまう理由がそこにあった。

 今日の桐蔭学園との準決勝。野呂監督は、最後の最後まで上宇都をベンチに下げなかった。9回裏、10対2と桐蔭学園リード。ツーアウト2、3塁で打席は回ってきた。ここまで桐蔭・栂野に対し4打数0安打。うち三振が2つ。上宇都よりも打撃力の優れた打者は控えにいたはずである。でも、ベンチは動かなかった。結果、上宇都は投手エラーで出塁した。夏の大会では、あっさりと交代させられていた上宇都だが、新チームとなった秋には不振に喘ぐ中でも「代えられない」存在になっていた。ミスをするとすぐに交代させる監督もいるが、野呂監督の場合そのような采配は見られない。「ミスは自分で取り返せ!」と選手を使いつづける。
 エラーのシーンを見ながら、ふと思い出した試合があった。今春のセンバツ2回戦。東京代表の日大三は東福岡と対戦した。好カードとして注目を集めたが、終わってみれば8対3で東福岡が快勝した。ここまで点差が開いたのは、5回裏の日大三の守りのミスに原因があった。1イニングに3エラー。全て同じ選手がミスをしてしまい、一挙に5点を取られた。試合後、3つのエラーをおかしたセカンドの都築は誰よりも悔し涙をこぼしていた。
 夏の甲子園に再び都築の姿があった。二遊間をおそう難しい打球を幾度となく処理。センバツで見せた守備の乱れがウソのように攻守を見せ、優勝に貢献。センバツでの汚名を自らの力で晴らした。

 「あの子はほんとにセンス抜群の選手」と上宇都を指導したボーイズの監督はいう。上宇都はボーイズ時代、キャプテンとして全国大会で好成績を残している。夏に1年でベンチ入りを果たしたのも堅実な守備を買われてのことだった。
 上宇都はまだ1年生。甲子園に行くチャンスは、まだ3回もある。都築のようにミスを取り返すチャンスは必ずやってくる。心ない野次を飛ばした者に、上宇都本来の実力を見せ付けて欲しい。
 今度の公式戦は4月の春季大会。まだ6ヶ月も先のこと。大きくなって戻ってくる上宇都に期待したい。



2001年10月05日(金) 桐光学園、全国制覇を目指し No.2

 明日6日、神奈川県秋季大会の準決勝が保土ヶ谷球場で行なわれる。対戦カードは桐蔭学園対桐光学園、平塚学園対東海大相模。この準決勝を勝ち上がれば、10月下旬から栃木県で開催される関東大会への出場権を獲得できる大事な一戦となる。
 大会前、優勝争いは「3強」を中心に繰り広げられると言われていた。夏の代表校・横浜、ベスト4の桐蔭学園、そしてベスト8の東海大相模の3校。いずれも、甲子園優勝経験がある強豪校である。3チームに共通するのは絶対的なエースがいること。横浜には、甲子園の準決勝で登板した福井良輔、桐蔭には来秋のドラフト指名確実と言われている栂野雅史、東海大相模には140kmのストレートを放る渡辺裕之がいる。このエースの力こそが、前評判で「3強」と言われた理由だ。
 
 前評判で、地元紙に「ダークホース」という扱いを受けたのが、今春センバツ出場校であり、夏の県大会2年連続準優勝の桐光学園である。1年生のときから、レギュラーとして活躍していた石井正浩や藤崎勇人ら主力がごっそりと抜け、戦力ダウンは明らかだった。公式戦初戦は、法政二校に完敗。「今年の桐光は弱い・・・」というイメージが、さらについてしまった。(9月29日の日記にも書いていますので、ご覧になって下さい)
 チームを率いる野呂雅之監督は、新チームになった当初から「目標は全国制覇!」と選手に伝えた。ある部員は、「しつこいぐらい、聞かされている」と話す。野呂監督は2年前まで、「夏の神奈川を制すること」を目標に置いていた。この考えが、「全国制覇」に変わったのは、2年前の夏の県大会決勝戦で横浜高校に敗れてからである。「あと一歩で甲子園に行けなかったことが、2年連続であった。このまま同じ事をやっていても、ずっとその繰り返しになるんじゃないか。あと一歩のカベを破るには、県大会優勝を目標にしていてはダメだ。もっともっと上の目標。全国で勝つことを目指せば、おのずと神奈川を制することも出来るのではと思った」と監督は言う。
 この成果が出たのが、2000年の秋季大会である。夏、準優勝に終わった悔しさを力に変えて、秋季県大会初優勝を遂げた。「決勝で負けたことに落ち込むことなく、次の大会に全力で臨んでくれた結果」と選手を誉めた。神奈川代表として出場した関東大会では、ベスト8に入り、センバツ初出場を決定づけた。「全国で勝つ」と掲げた目標が早速、実を結んだ。

 今年の新チーム、メンバーはがらりと変わったとはいえ、秋季大会を迎える状況は昨年と全く一緒だ。夏の大会で、昨年と同じく横浜に敗退。準優勝からのスタートである。
 先週行なわれた準々決勝・神奈川工業との一戦で、新チームを象徴するシーンがあった。野呂監督がピンチのとき、伝令を惜しみなく使い、都合3度マウンドに送り出した。試合を見ていた前キャプテンの天野喜英は「3回も伝令を使うなんて、珍しいですよ」と、少し驚いた表情をしていた。旧チームのときは、センバツと夏の予選を含め伝令を送ったのは、たった1度だけだった。その頃、野呂監督は「キャッチャーの天野にベンチから指示を出している。伝令を送らなくても、天野に伝えれば、守備陣全員に意思疎通が出来るという信頼関係がありますから」とナインに信頼を寄せていた。
 しかし、今のチームはそこまでのレベルに達していない。3度も伝令を送ったわけを監督に訊くと「新チームには悪いけど、旧チームほどの信頼はまだない。だから、伝令を送って、ベンチの考えをしっかりと伝えることで、こちらの考えもわかってくると思う。そのうち、ベンチからの指示だけで、理解してくれるようになれば良いんだけどね」と答えた。そして、「新チームによくあることだけど、試合をするごとに、一戦一戦強くなってきている」と付け加えていた。

 前評判では優勝候補にも挙げられなかった桐光学園だが、ベスト4にまで勝ち上がって来た。「今年の桐光は弱い」という評判を吹き飛ばす活躍である。明日の準決勝の焦点は、相手エース栂野攻略に全てがかかる。
 準々決勝の試合後、桐光学園の選手は慌しく球場をあとにした。もう、時間は18時を過ぎ、辺りは暗くなりつつあった。「これから学校に戻って、22時まで練習があるんですよ」。準々決勝から、わずか数時間後、桐光学園の意識は準決勝で当たる桐蔭学園に向けられていた。
 いよいよ明日、関東大会に出場する2校が決まる。



2001年10月02日(火) 新リーディングヒッター福浦和也

 現在、10月2日の午後6時前。あと少しで、パ・リーグのリーディングヒッターの座が決まる。
 今年のパ・リーグは「ポスト・イチロー」に注目が集まった。言わずと知れた「安打製造機」。94年から、日本球界を去る2000年まで、6年連続で首位打者を獲得。「首位打者=イチロー」という間違いのない方程式が存在していた。それを崩そうと挑む選手も確かにいた。イチローに最も迫ったのが、99年ライオンズの松井稼頭央だ。3割4分3厘のイチローに対し、松井は3割3分。その差、1分3厘。最も迫りながら、背中すら見えていなかった。イチローは別次元だった。
 
 そして、今年。10月1日終了時点で、首位打者の座にいるのはマリーンズ不動の3番打者福浦和也だ。髪の毛は若干薄いが、プロ入り8年目の26歳。93年オフにドラフト7位で習志野高校から入団した。同期入団にライオンズ松井や、同じマリーンズの小野晋吾がいる。ちなみにこの年、ドラフト7巡目まで指名を行ったのはマリーンズのみ。すなわち、一番最後に指名されたのがこの福浦だった。
 習志野高校では投手として活躍。打者としても1年のときから、強豪・習志野の4番に座る実力を持っていた。プロ入りも、最初は投手として入団した。しかし、打撃センスを見出され、すぐに打者に転向。「打者・福浦和也」として、プロの世界に挑むことになった。
 福浦がブレイクしたのは97年。いつ見ても違和感があったピンク主体のユニホーム時代だ。当時監督の近藤昭仁が、シーズン中盤から、プロ4年目の福浦を3番に抜擢。福浦はその抜擢に見事に応えた。終盤戦まで3割をキープし、非凡な打撃センスを数字でも証明した。次ぐ98年には完全にレギュラーに定着。129試合に出場し、2割8分4厘の成績を残した。順調に階段を上がっていた福浦だが、99年には出場試合数が114に減った。この年、新外国人のボーリックが入団し活躍、先発出場の座を奪われてしまった。福浦の守備位置は、打撃力が何よりも重要視されるファーストだった。
 福浦にとって、勝負の年は2000年。ジャイアンツから石井浩郎が入団してきて、ポジション争いが激化したのだ。福浦は勝負を懸け、打撃改造を試みた。秋の鹿児島キャンプでは長打力アップを目指し、連日のようにウエートトレーニングに励み、さらに変化球にも対応出来るようにと、バットを「立てる」構えから、バットを「寝かす」新打法に変えた。その成果は、早速オープン戦から見えた。9打数連続安打を記録するなど、5割近い打率を残した。「あれだけ打ったら、スタメンから外すわけにはいかない」。山本監督にそう言わせるほどの大活躍だった。外野と一塁で131試合に出場し、2割9分6厘の成績を残した。活躍を認められオールスターにも初出場。一番最後にドラフトで指名された福浦だが、着実に実力を付けてきていた。
 だが、課題もあった。前半戦はイチローに次ぎ、打率2位の成績を収めながら、後半戦に失速。3割にも届かなかった。数字で見ると、後半戦の落ち込みようは顕著だ。8月、2割3分9厘。9月にいたっては、0割8分8厘と大不振に陥った。「シーズン通して、安定した成績を残すこと」が来季の課題となった。

 今シーズン、福浦は序盤から打ちまくった。7月終了時点で、3割5分。開幕直後こそ、不振で6番に入ることもあったが、ヒットを量産してからは3番に定着。マリーンズの主軸に成長した。問題は、昨季打率を落とした8月だった。福浦は、昨季と同じように不振に陥った。月間打率、2割5分6厘。序盤の好調がうそのように、凡打を繰り返した・・・。「また、去年と同じなのか」。ファンは嘆いた。
 9月。福浦は蘇った。11試合連続安打を記録。4割以上の打率を残し、1ヶ月で2分も打率を上げた。9月下旬には、首位打者の座をファイターズ・小笠原道大から奪い、初のリーディングヒッターに手の届く所まできている。
 シーズン最終戦、マリーンズはファイターズと対戦する。福浦と小笠原の直接対決となる。昨日まで、3割4分5厘と3割3分8厘。ほぼ、首位打者の座は安泰と言っても良いだろう。
 でも、福浦には小笠原との対決よりも、もっと大きな存在と対決してほしい。それは、99年にイチローが首位打者を獲ったときの3割4分3厘を上回ることだ。鹿児島キャンプで、「バットを寝かす」打法に変えてから、イチローそっくりの打撃フォームになってきた。背筋をピンと伸ばし、アゴを引く。見間違えそうになるほどだ。今日の試合。無安打に終わらなければ、99年イチローの打率を抜くことは確実だ。惜しむなくは、打撃開花した福浦が、イチローと首位打者争いをする姿を見てみたかった・・・。
 「ポスト・イチロー」から「リーディングヒッター・福浦和也」へ。見えない相手イチローを超えて欲しい。










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