加藤のメモ的日記
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2017年08月30日(水) |
家族を見送るということ② |
幸い病院には備え付けのソファがあったので、私は息子の妻に時々代わってもらいながら、病院で夜を過ごした。どんな所でも家族と言っても私だけだが、傍らにいることを、朱門は家にいるときから好きなおようだった。家では夕飯時の時間に、私が彼のベッドから3メートルほどしか離れていないソファの上で、書いたり、本を読んだり、面白い番組があればテレビを見て2時間から3時間を過ごす。耳が遠い朱門とは会話はないのだが、彼にとって私は一種の見慣れた家具のようなもので、そこにいれば(あれば)落ち着いた気分になれたのだろう。
夜8時半になると、私はドクターから与えられている睡眠薬を渡しておやすみなさい、をいう。早く渡すと、時間まで待つのを忘れて早く飲んでしまうのである。その定番の夜の時間が過ぎれば、彼の一日は穏やかであるらしかった。
病院でも私は、意識の混濁のある彼の傍らで同じような平凡な夜を過ごそうとしていた。ソファで横になると私は小さくても明るいLEDの電気スタンドを持ち込んで本を読んだ。まだそんなに弱っていなかったころ、私たちはそうして夕食後を過ごしていたのだから、入院後も同じようでありたかった。私は人間の死は、ごく平凡なある日に、それとなく自然に訪れることが望ましいと考えていた。死ぬ方も送る方も、今日が最後の日などと意識しないほうがいい。
もっとも私は、病院のベッドの傍に取り付けられているモニターと呼ばれる機械の、基本的な部分だけは読めるようになっていた。朱門の最後の頃、家族も及ばないほど付きっ切りで面倒を見てくれた看護師の廣子さんから習ったのである。私がしていたことは、恐ろしく乾燥する病室内の空気を、自宅から持ち込んだ加湿器で潤すことだけだった。私は夜中に2リットル以上、加湿器に水を運び、時間帯によって細かく室温を調整した。
私は意識があればの話だが、朱門が寝たままベッドの上から月や、中原街道と呼ばれる幹線道路の自動車のヘッドライトの生き物のような流れが見えるように、細かくカーテンを調整した。朱門も遊飛や朝日や、町の雑踏を見るのが好きだった。生きている地球の営みの姿を眺めていられるということは、一種の贅沢なのだ。
『週刊現代』3.11 曽野綾子
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