加藤のメモ的日記
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| 2016年01月31日(日) |
マイナンバー制度はあなたの資産を丸裸にする �� |
いつの間にか10月スタート
恐怖の名寄せで一発追徴課税
親の遺産、株の利益から妻の掛け持ちバイト、隠していた小金まで一つにまとめ上げて、あなたを吊るす。
知らず知らずのうちに導入が近づいていたこの制度。役所での手続きが簡単になれば便利だが、人が番号で管理されるというのはやっぱり気持ちが悪い。逃げ道のない監視社会が、間もなく訪れる。
「遅い!」首相官邸の5階にある総理執務室。安倍晋三総理の甲高い怒声が響く。連日のように呼び出され、叱責を受けているのは、マイナンバー制度の実務を担当する内閣官房社会保障改革担当室の宮島室長だ。「いよいよ10月5日から日本に住むすべての人に一枚のカードが配られる。12ケタの「マイナンバー」が記された「通知カード」である。
いったいいつのまに。そう思う人も多いだろうが、国民全員が一生変えられない番号を与えられ、個人情報のすべてが国によって管理される日が、わずか3ヵ月後に迫っている。通知を目前に控えた今、なぜ安倍総理は黙っているのか。内閣官房職員が明かす。「6月1日に公表された不正アクセスによる約125万件の年金情報流出事件以来、参院でのマイナンバー法案の審議はストップしている。サイバーテロに対するセキュリティーを一から見直さなければなりませんが、それが進んでいない。だから阿部さんは怒っている。
6月末に閣議決定する『新成長戦略』の目玉はIT分野だが、そのために『万全のサイバーセキュリティ―』という文言を成長戦略に入れなければならない。もちろん、マイナンバーのためにもです。それなのに、現場から上がってくる報告はセキュリティーは『万全ではありません』というものばかり。他省庁からITに詳しい人間を呼ぼうにも、そもそも人材がおらず、安倍さんのイライラが募っています」実際にマイナンバーを国民に通知するのは全国の自治体の仕事。監督官庁がこの調子なのだから、市区町村の現場はさらに混乱している。総務省自治行政局の職員が言う。「『準備を進めてください』と必死に自治体の尻を叩いています。しかしマイナンバーの呼びかけだけして、実質何の準備もしていない自治体も少なくないんです。登録者が集まらず、大失敗に終わった住基ネットの二の舞になると考えている首長までいる」
現場での準備が全く進んでいないのに、10月に通知、来年1月からの制度開始とスケジュールだけが決まっている。内閣府のアンケートでは「制度を理解している」人が3割いるというがこの数字も怪しい。「概要を知っているだけの人も『理解している』に入れるようなアンケートで意味はない。実際に制度の詳細を理解している国民はゼロに近いでしょう」(前での内閣官房職員)なぜマイナンバー制度を導入するのか。政府はその目的を「社会保障、税、災害委対策の分野で効率的に情報を管理」するためとしているが、これはあくまで表向きの理由。本音は財産を丸裸にして、課税対象となるカネの流れを完璧に把握するためだ。
マイナンバー制度を利用するには、今年平成27年10月に配られる「通知カード」を持って来年1月以降に役所に出向き、顔写真などを提出して『個人番号カード』を作らなければならない。そしてこの「個人番号カード」に登録された情報は、12ケタの固有の番号とともに、政府によって一つにまとめ上げられ管理される。肝となるのは、今年(2015)3月10日に、預金口座を利用する際にマイナンバーを登録する、閣議決定されたことだ。登録は任意だが、数年で強制申告制になると言われる。
元国税庁職員で税理士の赤池光男氏が解説する。「マイナンバー制度の導入は『個人所得を完璧に把握しよう』という政府の姿勢の表れです。預金口座にマイナンバーを紐付けられれば、税務署にとって資産の把握がはるかに容易になる。あちこちから資料を集めずとも、マイナンバーをもとに『名寄せ』すれば、その人の資産と納税状況が一発で把握できるようになるわけです。
週刊現代7.11
| 2016年01月28日(木) |
シナトラとマフィアとケネディー �� |
ジアンカーナの協力
マフィアコンプレックスを抱えていた一方、彼は意外な人物とも親交を深めた。当時はまだ上院議員だったジョン・F・ケネディーだ。ケネディーは言わずと知れたハーバード大学出身のインテリで、第二次世界大戦で勇敢に戦った英雄でもある。高校中退のシナトラは同時代のケネディーを特別視して崇めていたという。シナトラの娘ティナ・シナトラは著書で「父は昔から知っているマフィアと正反対で、自分とも正反対だという理由で賢い人たちに興味を示していた」と書いている。
ケネディーは、シナトラを通して間接的にマフィアを利用しようとしたと言われる。ちなみにシナトラは、既婚者だったケネディーに女性も紹介している。この女性、ジュデス・キャンベルは大統領になったケネディーと2年ほど付き合った。同時に、シナトラとかなり親しいマフィア、ジアンカーナの愛人でもあった。もともとケネディーの妹と結婚したイギリス人俳優、ピーター・ローフォードと知り合いだったシナトラは、そこからケネディーと彼の父親であるジョセフ・ケネディーと付き合うようになる。その背後にはシナトラ自身が民主党支持者であり、弱いものに情けを示すたちで慈善事業に積極的だったことも関係しているという。
ケネディーが1960年の大統領選に民主党から出馬すると、ジョセフはシナトラをマサチューセッツ州の別荘に呼び立てた。そしてこう切り出したという。「君と私は共通の知り合いがいる。誰のことを言っているかわかるだろう?」「もちろん」とシナトラは答えた。「私が会いにけば、ジャック(ジョン・F・ケネディー)に迷惑がかかる可能性がある。だが君ならできる。ジャックのためにできる最善の協力は、彼らに君の個人的な頼みだということで協力をお願いすることだ」シナトラはそれ以上何も聞かずに頷いた。ケネディーは大統領予備選を勝つためにどうしてもいくつかの劣勢だった州で勝利する必要があった。そこでシナトラは、FBIの盗聴を恐れてジアンカーナとゴルフに出かけ、ケネディのために協力を要請した。ジアンカーナは、「何本か電話を掛けたら片付く話だ」と言った。
その言葉通り、ケネディーはウエストバージニアやイリノイなど苦しい州で次々と勝利し、一気に勢い付いた。さらにジアンカーナは、ケネディーが大統領になれば利用できるともくろんで、ケネディー陣営に資金を提供し、あちこちで組織票も確保した。そしてケネディーは大統領の座を射止め、ジアンカーナは「あいつは俺のおかげで大統領になれたんだ」とうそぶいた。だが、話はこれで終わらない。
矛盾にまみれた人生
シナトラは思いがけない形で裏切られる。ケネディー大統領によって司法長官に任命された弟のロバートは、就任後数か月すると突如、”マフィア狩り”を始めたのだ。理由は、大統領選での協力が漏れるのを恐れたため、と言われている。ジアンカーナの側近たちには厳しい捜査の手が回り、ジアンカーナもどこに行くにも尾行がつく有り様だった。その後、シナトラは一度だけホワイトハウスにケネディーを訪ねている。だが父のジョセフと弟のロバートが、彼の訪問を好ましく思わなかったために、それ以降訪問することはなかった。そうしてケネディー家との関係は消滅した。
そして1963年、ケネディーはテキサス州で暗殺された。そのニュースを映画の撮影所で聞いたシナトラは、自宅の自室にこもって3日間出てこなかったという。ケネディーの裏切りがマフィアの逆鱗に触れケネディー大統領は暗殺されたのだ、とする陰謀説はいまだに根強く語り継がれている。弟のロバートも兄の死後4年半後に暗殺された。しかし、当のシナトラは、ケネディー大統領を責めることは一切なかったという。娘のティナは著書にこう記している。「彼は、自分に対して信義を守る人たちには必ず信義を守った」。
大統領を批判しなかったのは、子供時代からマフィアに囲まれながら育ったシナトラが自然と身につけた生きる術だったに違いない。そしてケネディーの一件から、イタリア系としての血への信頼をさらに強くしたはずである。マフィアとケネディーという相容れないはずの者を繫いだシナトラ。そのせいか、評論の多くは、彼の人生は矛盾に満ちていたと指摘している。シナトラも1963年のプレイボーイ紙とのインタビューで自分自身について、「強烈な感情の矛盾にまみれた人生を送ってきた」と語った。名曲『That`s Like』はこう終わる。操り人形、貧乏人、海賊、詩人、人質、王様/何にだってなってきた/そして一つ気が付いた/どんなに打ちのめされても/自分を鼓舞して/また戦いに戻るのさ彼の戦いの場には、常にマフィアの存在があったのである。
週刊新潮12.17
| 2016年01月24日(日) |
シナトラとマフィアとケネディー �� |
誰しも人には言えない秘密の一つや二つはあるという。生誕100年を迎えるフランク・シナトラの最大のタブーはmイタリア系マフィアとの黒い交際。ケネディー大統領誕生には彼の仲介でマフィアが一役買い、FBIも両者の関係を長年追い続けていたのだ。
リスナーに語りかけるような独の特甘いバリトン・ヴォイスで20世紀を代表す る偉大な歌手として活躍したフランク・シナトラ。60年を超えるキャリアの中で31枚のゴールド・アルバムを世に送り出し、9度のグラミー賞に輝いたシナトラは伝説的な歌手と呼ぶにふさわしい。
12月12日、フランク・シナトラが誕生してから100周年を迎える。アメリカでは今、その生涯を祝ったイベントが目白押しである。ハリウッドでは、シナトラに影響を受けた有名歌手が多数出演するコンサートが開催され、その様子は全米にテレビ中継された。1998年に82歳でこの世を去ってから17年。現在でも彼が崇められる理由は、エンターてぃなーとして功績だけではない。そのスキャンダラスな人生と波乱に満ちた生き様が、シナトラの伝説をさらに魅力的なものにしているからだ。
シナトラは生前、数多くのナンバーワンヒットと生み出してきた。その代表作の中には、1966年50歳の時に歌った「That`s Life」という名曲がある。人はそれが人生だという/4月には飛ぶ鳥を落とす勢いでも/5月には撃ち落される/だけどうまく流れを変えて/6月にはまた頂点に立っているのさ
むちゃくちゃな契約に縛り付けられたり、恩を仇で返されたり……。シナトラの人生はこの歌詞のごとく、まさにアップダウンの連。そして、その生き様を語る際欠かせないのがマフィアの存在である。1998年、FBI(米連邦調査会)は、「シナトラ・ファイル」ならぬ捜査書類の機密を解除し、一般に公表した。1275ページに及ぶ機密文書は、FBIがシナトラとマフィアの関係を40年以上にわたって追いかけてきた事実を明らかにした。
文書には、シナトラと付き合いのあったマフィアの大物が次々と登場する。アル・カポネの元幹部でシカゴマフィアのボスだったサム・ジアンカーナ、全米最大といわれたガンビーノ一家を率いたカルロ・ガンビーノ、史上最も悪名高いドンといわれたニューヨーク暗黒街の支配者ラッキー・ルチアーノ、西海岸にはマフィアを作ったバグシー・シーゲルなどだ。彼らこそアメリカのマフィア史に名を刻んだ面々である。
そもそもシナトラの人生にマフィアが絡むのは仕方のないことだった。1915 年、ニュージャージー州で生まれたシナトラは、イタリア系移民の一人息子として育つ。大恐慌と禁酒法の時代にあって、母親はレストランに見せかけたスピークイージー(違法酒場)を経営していた。近所はギャングだらけでその酒場はマフィアの巣窟になっていたとの話もある。事実、シナトラの叔父らはマフィアの世界に足を突っ込んでいた。
歌手を目指したシナトラは、ニューヨークのナイトクラブから頭角を現した。当時j、ナイトクラブはマフィアが裏で牛耳っており、シナトラの周囲にその手の人々がうろついているのは自然なことだった。この頃のシナトラについて、こんな逸話が残っている。シナトラは20代後半、ソロになるために彼の名を売ってくれたバンドを去ることに決めた。だがバンドのリーダーは難色を示し、結局、シナトラの収入から33%を生涯受け取るという常識では考えられない契約を結ぶことで脱退を許す。ソロシンガーになったシナトラはすぐに最初のブレイクを迎えたのだが、するとこの契約が何かと邪魔になった。そこで彼はニュージャージーを仕切るマフィアの幹部で、子供時代近所に住んでいたウィリー・モレッテイに契約問題の解決を依頼した。モレッテイはバンドリーダーと会い、その口に拳銃を突っ込み、1ドルで契約書を買い取ることに合意させたという。
マフィアコンプレックス
誤解のないように言うが、フランク・シナトラという偉大なエンターティナーは、決してマフィアによって作り上げられたわけではない。当時、他のエンターティナーらがそうだったように、キャリアを築く上でマフィアの存在は避けられなかったといわれる。とはいえシナトラにとってマフィアは『特別な存在』であったことは間違いない。FBIは1962年の機密メモで、シナトラはマザコンならぬ『マフィア・コンプレックス』があったと記録している。そして「もし彼に勇気があったなら、ショービジネスでの地位を捨ててでもマフィアになっていただろう」と。
彼の人生に、それを示唆するエピソードは少なくない。例えば1940年代後半から、シナトラの人気が一気に低迷したのは、マフィアとの交友が発覚しスキャンダルに発展したからだ。1947年、シナトラはシカゴの悪名高いマフィアであるフィスケッテイ兄弟とともにキューバのハバナに降り立った。目的は、過去最大級となるマフィアの集会に出席するためだった。そこではアメリカからイタリアへ追放処分になっていたラッキー・ルチアーノや、ニューヨークのボスで「暗黒街の首相」と呼ばれたフランク・コステロといった大物マフィアから、アメリカ各地を収めるボス連中が大集結していた。シナトラは彼らのためにコンサートを行い、ハバナ滞在中は存分に羽を伸ばした。裸の女性を侍らせ、マフィアらと一緒にスイートルームでの乱痴気騒ぎを起こしている。
ルチアーノは後に当時について、シナトラが歌手として成功したことを祝うためだったと語っている。「奴がまだ十分に稼げない頃に金銭的に支援をしてあげたこともある。そういうサポートが彼をトップスターにする手助けになったから、わざわざ感謝を示すために奴はハバナまでやってきたのさ」(ルチアーノ)だが不運なことに、アタッシュケースを手にマフィアとともに飛行から降りる様子は、見事にマスコミに撮られてしまう。結局、子のハバナ旅行は米国内で大スキャンダルに発展し、メディアの中にはシナトラがマフィアのために200万ドルの現金を運んだと主張するものもあった。
では、シナトラはなぜ「マフィア・コンプレックス」があったのか。それは、イタリア系移民の子として肌で感じてきた差別が深く影を落としていたとされる。これが同じイタリア系の多いマフィアとの結束感を生み、親密な関係につながったという。シナトラ自身はキャリアの絶頂期を過ぎた1970年代に、こんなことをインタビューで語っている。「ハリウッドだろうがニューヨークだろうが、蝶ネクタイをして最高のクリスタルグラスを使う上品なパーティーでも、部屋の隅からこんな風に俺のことを思いながら見ている奴がいるんだ。イタ公め、ってね」
だからこそ、1940年代から50年代後半、どん底にいた時、映画『地上より永久に』に抜擢されてアカデミー賞助演男優賞を獲得したとき彼が頼れたのはマフィアだけだった。実際、マイアミからラスベガスに至るまでのナイトクラブを治めていたマフィアたちは、自分たちの店にシナトラをブッキングして支えた。マフィアとの関係を忌み嫌っていた妻のガードナーにも、「誰も仕事をくれない時期に仕事をくれたのは彼らなんだ」と諭したという。
『週刊新潮』12.17
| 2016年01月22日(金) |
田中角栄 23回忌 追憶の証言者�� |
番記者たちが涙した栄光と挫折
類稀な才覚で権力の階段を駆け上がった「今太閤」は、ロッキード事件後も『闇将軍』として影響力を誇示したが、最後は子飼いの議員にすら背かれ、失意のうちにこの世を去った。その人生をつぶさに見つめてきた『番記者』が、栄光と挫折の日々を振り返る。
最古参の”田中派番の一人、元時事通信の増山栄太郎氏(85)はこう語る。”「田中は岸内閣で郵政省に任命されたけど、30代での大臣就任は戦後初。まもなく政調会長に抜擢され、”これは大物だ”と各社が番記者を置くようになった。それまでは派閥の領袖クラスにならないと番記者なんてつけなかったんだからね』当時の角栄の印象は、”派手な遊び好き”だった。
「後に秘書になる佐藤昭が働いていた、新橋のキャバレー「ショーボート」が行きつけで、番記者を引き連れて遊び歩いた。金遣いはめっぽう荒く、ダンサーにまで1万円のチップを渡すんだ。元外相の椎名悦三郎が咎めても、角栄は”俺は集まったカネを溜めずに、ばら撒いているだけ。札束が俺の目の前を流れているんだ”と言ってきかなかった」(同)
その後、総理の座へと上り詰めた角栄は。日中国交正常化交渉に臨む特別機に同情した、元読売新聞の中野十郎氏(81)は機中での会話を鮮明に記憶している。「揚子江の流れを見下ろしながら”なぜ中国に行くんですか”と尋ねたのです。すると、角さんは”運命だからだ”と短く答えた。タラップを降りて、周恩来と火花の散るような握手を交わした時はカッコよかったですよ。歴史的瞬間を目撃したという感慨を覚えました。ギリギリの交渉が続く中、角さんだけがマオタイ酒を飲んで悠然としている姿も印象的でした」
一方その人心掌握術は番記者をも魅了した。「目白の田中邸に詰めていたら、角さんが電話で”通常国会は12月21日にするぞ”と話し始めた。そして受話器を置くや、私に”君、いたのか。誰にも言うなよ”と言うんです。もちろん特ダネだと思って国会へ行ったんですが、黒塗りの車が追いかけてきてね、よく見ると角さんが乗っていて、”20日になった。間違えたらいかんからな”。ただの金金権政治家だと思っていた角さんのイメージが一気に変わりました」(同)だがロッキード事件で退陣を余儀なくされると、「角栄にとってマスコミは敵になった。”君らはマムシだ”と罵られたよ。それでも、こっちが追いすがると”おい、マムシ”と呼び寄せて取材に応じる。そういう人間歴魅力があった」
とは、元毎日新聞の長崎和夫氏(72)の弁。角栄は復権を目指したが、派内の混乱は収まらず、1985年に竹下登らが創政会を結成。新潟日報社の小田俊三社長(65)によれば、「当時、佐藤昭さんから”オールドパーのボトルを毎日一本開けている”と聞きました。角さんは4歳で亡くした長男と同い年の小沢一郎の裏切りが最も許せなかったようです。まもなく酒浸りの生活生活が祟って(たたって)、脳梗塞で入院してしまう。角さんが倒れた晩は、田中直紀を囲む会をセットしていたのにまてど暮らせぞ来ない。夕方に角さんが東京逓信病院に運び込まれたわけだから当たり前ですよね。それに気づけなかったのは番記者として一生の不覚です」
角栄は表舞台から完全に姿を消し、1993年12月16日に死去する。享年75.追憶の人となった今も、これほど語り継がれる政治家は角栄を措いて他にいない。
『週刊新潮』12.17
| 2016年01月21日(木) |
田中角栄 23回忌 追憶の証言者 �� |
高等小学校卒業という学歴ながら、総理大臣まで上り詰めて今太閤ともてはやされるも、「金権批判」と「ロッキード事件」で奈落の底へ。田中角栄が他界したのは今から22年前の12月16日。角栄の傍にいた人々の追想は幾星霜を経てなお色褪せることがない―。
4000人規模「田中派葬」で守ってくれた父との約束 石破 茂
石破茂大臣(58)の父親は、鳥取県知事や自治大臣を務めた石破二郎氏。彼は10歳年下の田名角栄と交誼(こうぎ)を結び、」人柄に心酔していたというが、その葬儀をめぐるエピソードは人々の心を揺り動かさずにおかない。
私の父親は1981年の9月16日に他界しましたが、その一週間前ぐらいに「田中に一目会いたい」と言う。それを田中先生にお伝えしたら、すぐ父が入院していた鳥取市内の病院まで飛んで来られましたよ。「最後の頼みだ。葬儀委員長をやってくれ」と父に言われた田中先生はその足で当時の鳥取県知事に会い、「私は石破君から頼まれたが、石破君は知事を4期15年もやった実績から言って県民葬になるだろう。葬儀委員長は君がやってくれ」と依頼し、葬儀では友人代表として弔辞を述べるわけです。
「葬儀委員長をやると約束したのに君の実績ゆえこうして県民葬になった。友人代表として祝辞を述べることを許してくれ」涙ながらにそう語りかけていましたが、普通であればそれで義理を果たしたと思うでしょう。ところが後日、私が目白まで行ってお礼を言ったら「おい、あの葬式には何人来たんだ」と聞かれるので「確か3500人だったと……」と答えたら、すぐに秘書の早坂茂三さんを呼んで「4000人集めろ!青山斎場を予約しろ」と言い出しましてね。私が「な、なんですか?」とおずおずと尋ねると、「お前の親父と約束したんだからな。俺が葬儀委員長で葬式をやるぞ」と言うのです。
それが、最初で最後の「田中派葬」と言われるものになりました。派閥が主催する葬式なんて聞いたこともないね。父は大臣までやっているから自民党葬でもよかった。ただ、党葬にしていた場合、葬儀院長は時の総理大臣、鈴木善幸先生になっていたでしょう。そこで田中派の衆参両院議長が発起人になってね。田中先生は葬儀委員長として泣きながら弔辞を読むのです。「石破君、君との約束を今日、こうして果たしているぞ」こういうことは権力さえあればできる、金さえあればできる、というようなものではない。それを超えた何かがあったんだろうね。発想力や決断力、いずれも常人の及ばざる類まれなるものがあった。私は、田中先生は人間じゃない、「魔神」だと思っている。
この「田中派葬」のお礼を言いに再び目白まで行った時、父の跡を継いで政治家になるよう田中先生に言われるわけですが、その頃私はまだ24歳。父は参議院議員で、参議院の被選挙権年齢は30歳でしょう。すぐに跡を継いで選挙に出られるわけではないのでそう答えると、田中先生は、「誰が参議院に出ろと言った、衆議院だ!」と仰った。「再来年は衆参ダブル選挙だ、その時お前も26だろう!、そして、「いいか!」と言って机をバシーンと叩くのです。
「この日本で起こることは、全てこの目白で決めるんだ、分かったか!」これはすごかったね。私も24のあんちゃんだから、たじいろいでいるとさらに、「君は自分さえ良ければそれでいいのか!君の父親は県知事15年、」衆議院議員7年。君が後を継がなかったら、これまで応援してくれた地元の人に申し訳ないと思わないのか!」そうまくしたてられ、「考えさせてください」と答えるのが精一杯でした。田中先生がいなかったら、私は間違いなく政治家にはなたらなかった。それは100%言える。今頃、あの世で父と田中先生はどんな話をしているのかなぁ……。
『週刊新潮』12.17
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