加藤のメモ的日記
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| 2013年05月31日(金) |
フクシマは、チェルノヴィリの30分の1 |
福島事故の放射線被曝量は、チェルノヴィリの1/30
東京電力福島第一原発事故について、国連科学委員会が報告書案をまとめた。集団でみた日本国民の総被曝線量は、甲状腺がチェルノヴィリ原発事故の30分の1で、全身は約10分の1と推計した。故人の被曝線量も推計し、多くが防護剤を飲む基準以下で、健康影響は「6.000人の甲状腺ガンが出たチェルノヴィリとは異なる」「ガンの発生は少なく、見つけるのが難しいレベル」と結論づけた。
報告書案は、国連科学委員会の専門家ら約85人が2年かけてまとめた。5月27日からウィーンで始まる科学委員会総会で議論され、9月の国連総会に提出される。朝日新聞が入手した報告書案によると、事故は、スリーマイル島などの事故より「はるかに深刻」とした。ただし、チェルノヴィリに比べて、放射性ヨウ素131の総放出量は3分の1未満、セシウム137は4分の1未満で、ストロンチウムやプルトニウムは「非常に微量」と評価した。
原発事故との因果関係が唯一、科学的に解明されている甲状腺ガンの発生リスクも予測した。30�膳�外の1歳児の甲状線被曝を平均50ミリシーベルトと推計。女児100人がそれだけ被曝すると、甲状腺ガンは事故とは関係なく、生涯で0.8人発生するが、事故で0.2人増えると予測された。
報告書案は、個人の線量を踏まえた上で、日本全国の影響を見るため地域ごとの推計被曝線量に被曝線量をかけ合わせ、日本全体の集団線量を計算した。日本人全体の事故後10年間の集団線量は、全身が3万2000、甲状腺が9万9000(人・シーベルト)と算出され、チェルノヴィリ事故による旧ソ連や周辺国約6億人の集団線量のそれぞれ約10分の1、30分の1だった。
チェルノヴィリ原発事故と比べて、放射性物質の放出量が少なかった上、日本では住民の避難や食品規制などの対策が比較的迅速に取られたと指摘した。避難により、甲状腺の被曝が「最大500ミリシーベルト防げた人もいた」とした。チェルノヴィリの避難民の甲状線被曝線量は平均で500、汚染区域住民は平均100ミリシーベルトで、乳幼児はその2〜4倍と推計されている。約6.000人の甲状腺ガンが発生し、10数人が死亡した。
報告書案は、福島第一原発の健康影響について、「ガンが増加しても、非常に少ないため見つけるのは難しい」「福島はチェルノヴィリではない」と結論づけた。ただし、報告書は、原発事故による放射性物質放出量や、放射性ヨウ素の実測値が不足しているほか、被曝線量については不確定要素も多いと分析した。報告書は数年後に、新たなデータを踏まえて見直される予定だ。
『朝日新聞』5.27
| 2013年05月30日(木) |
橋下 慰安婦は必要だった |
慰安婦は必要だった。橋下氏暴言。日本で、世界で怒り噴出。
「慰安婦制度が必要なのは、誰だってわかる」旧日本軍の慰安婦制度を正当化する橋下徹・日本維新の会共同代表(大阪市長)の暴言に、国内外から強い怒りと批判が沸き起こっています。それでも居直り続ける橋下氏や維新の会。その背景に何があるのでしょうか。先の暴言で批判を受けた橋本氏は、同日午後の会見で、さらに開き直りました。沖縄の海兵隊の司令官と会談した際、「もっと風俗業を活用してほしい」と求めたことまで明かしたのです。日本維新の会の石原慎太郎共同代表も「軍と売春は付き物」「橋下氏は基本的には、間違ったことは言っていない」と擁護しました。日本共産党の市田書記局長は厳しく批判しました。
「これほど人間の尊厳を踏みにじる発言を聞いたことはない。首長の資格はもちろん、国政を語る資格も全くない。人間としても許されない。日本維新の会という政党の存立そのものが問われる重大問題だ」橋下暴言には深い根があります。同氏はこれまで慰安婦問題で河野洋平内閣官房長官談話の、日本軍の関与や強制を認め「心からお詫びと反省」を執拗に攻撃しました。同じく攻撃をしてきたのが自民党の安倍晋三首相、高市早苗政調会長らの、日本の侵略戦争を肯定するグループでした。
米紙「歴史に向き合う能力の欠如」 韓国大統領も異例の批判
今回の橋下徹・日本維新の会共同代表・大阪市長の暴言について、中国外務省の報道局長は14日、「人類の良識と、歴史の正義に挑戦する発言を公然としたことに驚きと憤激を示す」と避難しました。韓国でも、「侵略を否定する首相がいる限り、政治家の妄言は続くだろう」といった非難報道が続いています。5月13日の米紙ニューヨーク・タイムズ紙は、「一連の日本の政治家の発言に続くものだ」と指摘しました。
その例として挙げたのが、「侵略の定義は学会的にも国際的にも定まっていない」として日本の侵略戦争を否定する安倍晋三首相の発言でした。安倍首相は慰安婦問題で、日本軍の関与や強制を否定する立場から、河野洋平官房長官談話(1993)を批判し、日本による「植民地支配と侵略」と「国策の誤り」を認めた村山富市元首相の95年の談話についても、こう答弁しました。「侵略という定義については、学会的にも国際的にも定まっていない。それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違う」
この発言は中国や韓国の怒りを呼んだだけでなく、米紙も驚かせ、米代表紙・ウォール・ストリート・ジャーナルが一斉に社説で批判する異例の事態に発展しました。「誰が第二次世界大戦を始めたかというのは、地球は公転しているのか、との疑問と同様で、解決済みの問題とばかり思っていた。しかし日本の安倍晋三は新鮮な解釈を持っている」とし「安倍氏の恥ずべき発言」を批判しました
「事実は存在する。日本は侵略を侵したのだ」とワシントン・ポストは指摘し・安倍氏の「歴史に向き合う能力の欠如」を警告しました。米議会調査局の日米関係についての報告書も、この問題に注目し、「論争的な歴史問題についての安倍首相や閣僚の発言と行動は、日本政府が米国の利益を損なう形で域内の関係を転覆しかねないとの懸念を引き起こしてきた」と指摘しました。この状況で訪米した韓国のパク・クネ大統領は米上下両院合同会議で演説し、名指しは避けながら異例の日本批判をしました。「北東アジア地域の経済は影響力を高め、ますます相互連携しているが、歴史から生じる意見の相違が拡大している。過去に目を閉ざす者は将来を見ることができないといわれてきた。これが明らかに現実の問題として存在する」
「侵略の定義」はある―国連決議
もともと侵略の定義についての安倍首相の答弁そのものが誤りです。侵略の定義には一連の国際合議があります。これは侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使だと定義しています。一国の軍隊による、他国の領域に対する侵入もしくは攻撃などを侵略行為として例示しています。2010年には国際刑事裁判所の規定検討会議が、侵略行為を犯した個人による侵略犯罪の定義を採択しました。そもそも国連憲章に基づく今日の国際秩序そのものが日本、ドイツ、イタリアなど敵国による戦争が不正、不義の侵略戦争であることを共通の土台として、そのような戦争の再発防止を目指して成立しています。
1943年のカイロ宣言は「日本の侵略を制止し罰する」ことが第二次世界大戦の目的だと明記しました。日本が受諾したポツダム宣言も「日本国国民を…世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去」すべきだとの経ています。これが戦後日本の出発点です。ところが侵略戦争を推進した指導勢力のうち、戦犯として裁かれたのは一握りだけ。多くは復権して日本の政治の中枢を握り、自民党や、その流れの日本維新の会などに受け継がれました。過去の戦争を賛美する暴言が、今日も続く歴史的背景には、こうした事情があります。
『赤旗』5.19
女性蔑視というより人間蔑視
橋下氏の発言を聞いて、胸がざわざわするような不快感を覚えました。従軍慰安婦は必要だといい、米軍には風俗の利用をすすめる。発言の前提には、人間性を否定する戦争の肯定を感じます。戦場に駆り立てられる男のすさんだ気持ちを、女の犠牲で紛らわせろというのは、人を駒としかみない権力者の発想です。女性蔑視というより人間蔑視です。橋下さんは公党の代表ですから、個人の発言では済まされません。
安倍首相の歴史認識と合わせて、世界は日本をどう見ているのでしょうか。日本はまだこんな考えをしているのか、と驚いているのではないでしょうか。恥ずかしくてうつむきたくなります。国益を損なう事態を自らの発言で招いています。国益とは世界から信頼されることだと思います。こういう人たちが改憲しようとしていることに恐れを感じます。これらの発言を容認していはいけない。
吉永みち子 作家
国際社会の信頼を失う厚顔無恥
橋下氏の発言は、被害回復と正義の実現を求める被害女性をさらに傷つけるもので、到底許すことはできません。即刻、被害女性に謝罪し、発言を撤回することを求めます。慰安婦制度がどれほどアジアの女性たちを苦しめた人権侵害制度であったか。それを考えもせず、戦争遂行のために必要だったとするのはあまりに厚顔無恥で、これほど人権感覚がない人が政治リーダーであり続けることがあってはなりません。侵略地の女性たちを詐欺や甘言、誘拐などで慰安所に送り込み、性奴隷を強いた慰安婦制度は、当時の刑法や国際醜業条約にも違反する犯罪でした。とくにアジアの被害女性の大半は未成年でした。
橋下氏は、どの国もやっていたといいますが、組織的に他国の女性たちを強制的に慰安婦にし、国外移送をして大がかりな規模で占領地に慰安所を設置したのは、ナチスドイツに似たケースがあるにせよ、他国に例をみないものです。橋下氏の発言の前提には、アジア侵略戦争の肯定があります。安倍首相も「侵略の定義は定まっていない」などと歴史認識を欠く主張をしていますが、日本の侵略と加害を認め、被害を与えた人々に心から謝罪しない限り、国際社会からも信頼は得られないことを知るべきです。
西野留美子 ジャーナリスト
『赤旗』5.19
| 2013年05月29日(水) |
「靖国」と日本の戦争 |
靖国問題
毎年春秋の靖国神社例大祭の当日になると、テレビは「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の人達が集団で靖国神社の玉砂利を歩む模様を放映しまし。8月15日の終戦記念日も同様です。時には総理大臣が公式参拝し、外国とくに中国と韓国の政府関係者等がそれに対して強い抗議を公にしてきました。東南アジアのジャーナリズムも批判的に報道し、それぞれの地域で民衆の反発を伝えるのが恒例になっています。小泉純一郎元首相が在任中に靖国神社に公式参拝した時には、その歴史認識が問われ、中国・韓国の政府首脳との公式交流ができない事態にまでなりました。首相や政治家たちの靖国集団参拝の時には、参拝に反対する人たちが集まって垂れ幕などを示し、さらに参拝を後押しする集団がそれに罵声を浴びせるなど、騒然とした状態になるのが常例となっています。
一体なぜ靖国神社が国内外の争点になるのでしょうか。先回りしてその結論をいえば、靖国神社はたいへん政治的性格、また排外的民族主義の色彩が強烈な神社だということです。靖国神社は1879年(明治12)に明治天皇の勅命で創建され、幕末・維新以来の国事殉難者と対外戦争の戦死・戦病死者を祭った神社で、東京都千代田区の九段に位置します。祭神は現在246万6000余柱とされていますが、アジア太平洋戦争の敗戦後も、戦没が確認されるに従って合祀されたため、漸増していきました。
戦時中までは陸・海軍省管轄の別格官幣社でしたが、戦後は単立の宗教法人になりました。境内は約36000坪を超え、日本一といわれる大きな鳥居も有名です。また靖国神社には付属の施設として遊就館(ゆうしゅうかん)が設けられ、一種の軍事博物館として、祭神の関わった戦乱の解説がなされています。例大祭や合祀のための臨時大祭には大勢の参拝者がつめかけましたが、近年になって、戦没者の戦友たちの死亡や高齢化、また遺族たちの同様な事情によって、参拝者の減退が予想されてきましたが、小泉純一郎首相(当時)の参拝があった2006年の終戦記念日には、神社側の発表で25万人の記録的数字に達したといいます。
靖国神社の例大祭は、東京の市民たちによって古くから招魂祭とよばれ、広い境内では大相撲、能楽その他の見世物興行や飲食店党の露店や屋台で、多い時には10万人を超える人たちで賑わい、現在に至ります。戦時はともかく、平時にあっては靖国神社の例大祭は年中行事であり、季節の風物詩でもありました。しかし他の神社に見られないのは、昔は天皇の「親拝」でした。天皇家の祖先をまつる伊勢神宮は別格ですが、天皇が他の神社へお参りすることはなく、せいぜい勅使を参向させるのが原則だったのです。また陸海軍の部隊が必ず参列するという点で、普通の神社のお祭りとは明らかに違う特色がありました。
1853年の黒船来航以来の国事殉難者や内乱と対外戦争の戦死、戦病死者を祀る別格官弊社です。他の別格官弊社と著しく違う性格の一つは、対外戦争によって時とともに合祀者がどんどん増えていったという点です。戦死者が遺族や苦難を共にした戦友たちによって慰霊され追悼されるのは自然なことです。しかし天皇の勅命によってできた靖国神社がそうした人たちを神としてまつれば、あたらめて死者の功績を表彰することになり、一つの政治的性格を持ってしまうことになってしまいます。
もともと靖国神社の前身だった招魂社(1869年創建)は、明治維新の動乱で死んだ同志たちをまつるために勝者がつくった神社であり、敗者をおとしめるという政治的性格の強い神社でした。その政治的性格は明治維新ででき上がった天皇を中心とする日本国の行為をすべて正しく、その国のために戦って死んだ人をまつるというところに現れているといえます。もちろん、靖国神社は悲運に死んだ敗者たちを「怨霊」として祀っているわけではありません。創建された時から現在まで、靖国神社は天皇のために死んだ人=英霊をほめたたえ、顕彰するという意味を持って続いてきたことが明らかです。
1974年に自民党が衆議院で靖国神社国営化を目指した靖国神社法案を単独可決しましたが、参議院で廃案となりました。 1985年には中曽根康弘首相が「戦後政治の総決算」をとなえ、どこの国にも国のために命を亡くした人に国民が感謝をささげる墓所があり「さもなくして、誰が国に命を奉げるか」と発言し、同年8月15日に戦後初めて首相として靖国神社に公式参拝しました。それに対して中国・韓国、シンガポール・香港などで強い反対と批判が続出したため中曽根首相は10月の靖国神社例大祭への参拝を見送らざるをえなくなりました。
当時の中曽根首相ら「靖国派」の狙いとアジア諸国民のそれに対する警戒がまともにさらけ出されたといえます。「誰が国のために命をささげるか」という発言は、これからも誰かが「国のために命をささげる」ことを期待し、そのために靖国神社に参拝することを宣言したように思われるからです。またそれは二度と戦争をしないことを宣言した日本国憲法第9条の精神を裏切るものでした。かって日本軍によって占領され侵略された近い記憶を持つアジア各地の人々が改めて怒りを表し、また現代日本の対外政策の危険性に思い及んだのは当然でしょう。
小泉純一郎元首相、安倍晋三前首相の異常なまでの靖国神社への固執は中曽根元首相の志を受け継いだものといえますし、内外の反響のほとんど同様だったといってもいいでしょう。憲法9条改悪を急ぎ過ぎ、2007年参議院選挙で大敗北した安倍内閣の姿勢は、福田内閣の登場でいったん沈静化したように見えます。しかし福田首相自身が日本会議国会議員懇談会、憲法調査推進議員連盟、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーであり、閣僚や自民党の主要役員にもいわゆるタカ派が顔を並べています。靖国神社公式参拝がいつ再び強行されるか、予断を許しません。
現在の靖国問題には、大きくいえば日本国憲法第20条が定める信教の自由、国の宗教活動の禁止をうたう「政教分離」と、かっての対外侵略戦争についての歴史認識に関係するといえます。それらの問題点を掘り下げていくと、少し回りくどくなりますが、やはり靖国神社の歴史から考えなければならなくなります。
A級戦犯が合祀されたにもかかわらず、小泉元首相は靖国参拝を公約としてかかげ、公式参拝をくり返して中国・韓国をはじめ東南アジア諸国から猛烈な非難を浴び、最後には私的参拝に後退せざるをえませんでした。次の安倍晋三前首相も激しい右翼的言動にもかかわらず、靖国公式参拝は遠慮しました。これ以上のアジア諸国との関係悪化を避けようという配慮のせいだったことは明らかです。ただ注意したいのは、激しい非難は必ずしも関係諸国の政府からだけ起こったのではなく、それらの国の広範な人民たちからも起こったようです。それをしばしば反日ナショナリズムと評されますが、日本の多年にわたる大陸侵略と中国軍民だけで2400万人といわれる死者をつくりだした戦争の記憶が、まだアジアでは消え去っていない事実を物語るものといわねばなりません。
日本は台湾・朝鮮を侵略・支配し、抵抗した人達を弾圧・殺害しました。その弾圧にあたった日本軍の戦死者は靖国神社に祀られています。アジア太平洋戦争期になって台湾・朝鮮の人達を徴用等で戦場に送り、戦死者を靖国神社に祀りました。靖国の「英霊」はそれらの民族の信仰や誇りと衝突します。このままでは、日本の侵略と戦争の犠牲という二重の事実を肯定的に認めたことになるのです。台湾や朝鮮の人たちが合祀に強く反対し、その取り消しを求めるのは当然でしょう。
『靖国と日本の戦争』岩井忠熊 立命館大学名誉教授 2008 8月
| 2013年05月27日(月) |
日本の戦争はなんだったか |
日本軍は、泰天省東南部の作戦、旅順半島の作戦、遼河平原の作戦、山東半島の作戦と直隷大決戦準備の戦いを進めました。そして、南満州から遼東半島にわたる要地をむすんで占領しました。
国際的な大事件になった旅順虐殺事件
この間、日本軍は1894年11月には、国際的な大問題になった「市民皆殺し」の旅順虐殺事件を引き起こしました。今日、この事件について知る人がごく限られていることもあり、日清戦争を平気で「文明の戦争」などと美化する風潮がありますが、その虐殺の惨状は、当時新聞その他で放送されています。
「路上の屍、旅順各街至る所に死屍横たはる間々身首異にしせしものあり、半ば首の切れたるあり、脳味噌の溢出せしものあり、腸の露出せしものあり、眼球の飛び出せしものあり、その他手足切れ足砕け粘々たる血液の上に斃死せす様実に一見毛髪の焦立するを覚ゆ」(「東京日日新聞」1894年12月7日)旅順虐殺事件は、外国特派員によって「世界の新聞紙上にのぼるに至」りました。同署で陸奥が引用している報道記事によると、「この際に殺戮を免れたる清人は、全市内わずかに30有6人に過ぎず」、これは、殺された「同胞人の死屍を埋葬するの使役に供するがために救助し置かれたる者」だと書かれています。外国の新聞は、日本が『文明国』ではなく、「野蛮の本体を露した」などと避難しています。『日本外交文書』には、アメリカ公使などのこの事件に関する厳しい申し入れなどが載っています。
日本軍の侵略に対して再蜂起
ところが日本軍は、前章で述べたように7月23日朝鮮王宮の軍事占領を強行しました。これはたちまち広く朝鮮に知れ渡り、怒りが広がりました。続いて日本軍は、7月25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦闘で日清戦争を開始、朝鮮はその戦場になります。しかも、清国軍を朝鮮から駆逐しても撤兵しません。東学農民軍は、日本軍を朝鮮から追い出すための戦いに再蜂起し、日本軍と日本軍に指揮された朝鮮政府軍と各地で勇敢にたたかいました。
しかい武器らしい武器も持たない農民軍は、近代的兵器で武装した日本軍を主体とした日本軍・朝鮮政府軍の連合軍に敗れました。日本軍は、農民軍が再起の余地がないように「ことごとく殺戮」する方針を貫き、その鎮圧ぶりは徹底したものでした。東学農民軍の犠牲者は3万人あるいは数万人ともいわれます。
先駆的農民の犠牲者は3万人以上
報告書は、日本軍部の報告資料にもとづいて、「潜伏する東学党を捕獲し、……当時中隊において銃殺せり」「当中隊2名の賊を銃丸太打殺す」「潜伏する東学党十数名捕獲せし内、証拠顕著なるもの6名あり、命に依り、銃丸、打殺す」など討伐作戦中に日本軍がおこなった処刑の事実も明らかにしています。こうして日本軍と朝鮮政府軍による殺害は、3万人以上、数万人に及ぶとされます。日清戦争における日本兵の戦死・戦傷者は、全体で1417人です。それに比べて、東学農民革命鎮圧作戦の残酷さがよくわかります。その壊滅作戦の主体は日本軍であり、その指揮者は大本営だったのです。以上は、防衛省研究所の図書館に保存されている日本軍の文書など、公文書が明らかにしています。
反日義兵闘争に引き継がれた東学農民革命の精神
東学農民革命はその後、日本帝国主義の干渉と侵略に対して朝鮮人民が武器を持って戦った反日義兵闘争に引き継がれました。ところが日本は、この義兵闘争にも襲いかかり、その討伐作戦によって日本軍の発表でも18.000人近い義勇兵を殺害しました。義兵闘争は、自発的な愛国の戦いとして、高く評価されてきた人民の闘いです。義兵闘争の直接の原因は、1895年の日本による朝鮮の王妃・門妃殺害事件と朝鮮政府が行なった断髪令でした。これによって鬱積していた反日感情と怒りに火がつき、各地で日本人とこれに追随するものが襲撃されました。東学農民運動の残存者は義兵に参加しました。
義兵闘争は、日露戦争で朝鮮を戦場にしたことと、保護条約で韓国を保護国にしたことに対する怒りの爆発として、激しく本格的に戦われました。さらに1907年、ハーグ密使事件を契機に最高潮に達し、1908年の春から韓国全土で義兵が立ち上がりました。日本は朝鮮軍の抵抗を抑えようと軍隊の解散を命じますが、解散式で軍隊が蜂起して日本軍との戦闘となり、義兵に合流して全国に燃え広がりました。日本はこれを軍事力で鎮圧して、「併合」の強行となったのです。
これらも、日本による人民の闘い鎮圧の戦争というべきです。なかでも軍隊解散式での戦闘は、弾圧に当たった日本軍は韓国兵を機関銃で「猛烈に射撃せり」といった戦闘になり、「韓国の戦死将校以下70余名負傷将校以下104名捕虜600名に達す。というのです。わが軍の損害は戦死者梶原大尉以下4名、負傷、将校以下21名となっています。
全村焼き払うなど、過酷をきわめた討伐作戦
全体として日本軍は「討伐」に手段を選ばず、次のような、全村を焼き払うこともやったと書いています。「…全村を焼夷するなどの処置を実行しつつ三河地方の如き見渡す限り、ほとんど焦土たるに至れり」と書かれていました。
杉山参謀長は”百日戦争は一ヶ月、南方作戦は三カ月”と天皇に
当時の軍部の文書を見ると、長期戦になれば戦えないというのが本音でした。とくに海軍はそうで、山本五十六・連合艦隊司令長官は、近衛首相に「日米開戦の場合、海軍作戦に関する限り持続力は一ヶ月半であると所信を明らかに」しています。永野修身・海軍軍令総長は、開戦のおよそ三か月前に、帝国は各般の方面においてとくに物が減りつつあり、すなわち痩せつつあり。これに反し敵側はだんだん強くなりつつあり。
時を経ればいよいよ痩せて足腰立たぬ。……開戦時期を我が方で定め先制を占むる外なし、之によって勇往邁進する以外に手がない」と述べています。軍も自信がなかったのです。ところが、戦後近衛元首相が明らかにしたことですが、こういう見通しのない戦争だったにもかかわらず、軍部は短期に勝利できるような楽観論を昭和天皇に述べて、逆にたしなめられたという内幕までありました。対米英戦争の方針を実質的に固めた9月6日の御前会議で杉山元・陸軍参謀総長は、戦争の見通しについて昭和天皇から聞かれ、「南方の作戦は三カ月ぐらいで片づける」と答え、天皇にその甘さを指摘されています。
その昭和天皇にしても、御前会議の前に「10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとした「帝国国策遂行要項」を、「よし分かった」とし、9月10日には「動員をやってよろしい」と許可しています。日中戦争にしろ、太平洋戦争にしろ、戦争の見通しなど真剣に検討しないで安易な判断により、開始したものだったことをさらけ出したものとしかいいようがありません。天皇にこういうぐらいですから、国民に対しても責任あることなど言うはずもありません。国民の多くは「最後には神風が吹いて勝利する」と叩きこまれたのです。
欧米に代わって新たなアジア支配を狙った侵略戦争
そもそも「大東亜共栄圏」とは何だったんでしょうか。「中国並びに東南アジアに対する日本の侵略を正当化するイデオロギーとスローガン」だったと『新版日本外交史辞典』は述べています。これが客観的な評価といえます。よく引用されますが、「大東亜攻略指導要綱」は、「領土的野心はない」という宣伝とは違い、満州、中国、タイ、仏印(フランス領インドシナ)ビルマ、フィリピン、その他の占領地域を日本の支配地域とし、そのうちマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは、帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民新把握に務む」と決めていました。第一次政界大戦後、戦争が違法とされ、民族自決が叫ばれ、中国の主権を尊重する「中国に関する9カ条約」が結ばれた世界で、日本の戦争はそれに逆らい、「アジア解放」ではなく欧米の植民地支配に代わってアジアの支配者となろうとする侵略戦争に他ならなかったのです。
宣戦布告文にある戦争目的を正当化
それから60年以上がたち、戦争の実態もいっそう明らかになっています。サンフランシスコ講和条約で日本政府も受託した東京裁判の判決は、「これは挑発を受けない攻撃でありその動機はこれらの諸国の領土を占用しようとする欲望であった。『侵略戦争』の定義を述べることがいかに難しいものであるにせよ、右の動機で行なわれた攻撃は、侵略戦争と名付けないわけにはいかない」と述べています。日本の戦争は全面的に、国際社会によって断罪されたのです。
その侵略戦争を靖国神社は、東条と同じ理由をあげて正当化しています。1995年に出された、自民党歴史・検討委員会『大東亜戦争の総括』も、東条と同じく、戦争の正当性を内外に示そうとする宣伝文書でもある「宣戦の詔書」によって戦争目的の全面的正当化をはかろうとしています。これらの人々は、戦後60年余、アジアと日本国民に計り知れない惨禍を与えた戦争から、何も学びとろうとせず、ただ、正しい戦争だった、その責任はアメリカや中国にあると、戦争開始にあたって軍国主義者が言ったことと同じことを考え続けてきたのでしょうか。従軍慰安婦にされた人、強制連行された人、毒ガスにいまだ脅かされている中国人民はじめアジア諸国人民は、こんな議論を許すはずがありません。
『日本の戦争はなんだったか』
吉岡吉典 1928島根県 元日本共産党参議院議員
南京大虐殺まで起こし、負けを知らない日本軍が弱っていく
この章で、南京攻略戦で起きた忌まわしい事件について記しておきたいと思います。いわゆる南京大虐殺です。南京で日本軍に虐殺された中国人の数は、中国側では30万人といわれ、『ザ・レイプ・オブナンキン』の著書、アイリス・チャンは、最低34万人と記しています。それに対して、日本では、南京での虐殺はなかったという説から、洞富雄(ほらとみお・中国系アメリカ人の歴史家)の20万人以上だという説、そして、飯倉由明(いいくらよしあき)の「南京事件の数量的研究」による1万6000人という説。日本大学名誉教授の秦郁彦(はたいくひこ)の、4万人説などいろいろあります。私は、何度も説明を受けた秦郁彦の説にリアリティーを覚えています。
もっとも、この中で一番少ないとみられる1万6000人であろうが許されない大虐殺なのです。日本軍はなぜ、このように大量の虐殺をしてしまったのでしょう。秦郁彦をはじめ、何人もの学者に取材した結果を私なりにまとめてみたいと思います。
もとも南京を攻略、攻撃した日本軍は上海の戦闘に備えるために派遣された軍隊でした。それがいわば、勝手に南京に進撃してしまい、参謀本部は現地軍に引きずられる形で、後から南京攻略の命令を出したのです。このため、南京を攻略した日本軍に、食料、弾薬などの軍事品を補給する役割の「兵たん部隊」が追いついていませんでした。そこで。軍隊は食料などを現地で調達せよということになってしまったのです。このことが、住民からの略奪になり、そして強姦、虐殺という蛮行に広がってしまいました。もちろん、捕虜収容所の用意もありません。というより、当初は中国兵を捕虜にするという認識すらなかったのです。ということは、敵兵を見つけたら殺してしまえということになってしまったのです。
さらに南京では、中国軍の正式な降伏が行なわれませんでした。総統の蒋介石、そして南京守備隊の司令官の唐生智も、南京を死守すると内外にはっきり言いながらも、両者ともに南京攻略の前に南京から逃げ出してしまったのです。これが虐殺の原因だと指摘した学者もいました。司令官が不在となった中国軍は、大混乱し逃げだした兵隊も少なくなかったが、逃げ損なった兵隊の多くは軍服を脱ぎ捨てて、市民の服に着替えました。
そこに来て、正式の降伏、つまり「戦いやめ」の号令がないままの、大混乱の南京にどっと攻め込んだ日本軍にとっては、まだ戦闘は続いていると思い、服装だけでは兵士と市民の区別もつきませんから、見分けもつかず片っ端から中国人を殺していくということにもなります。こうして、これが、大量虐殺を引き起こしたというのです。整然と降伏という儀式が行なわれていれば、こんな惨劇は起きなかったということになります。もちろん、だからといって日本軍の大量虐殺について、その責任から逃れられるというわけではまったくありません。
さてそれ以降、中国軍は逃げては抵抗しまた逃げる、ということを最大の戦略としました。中国は非常に広い国ですから、逃げる中国人を日本軍は追いかけますが、どれだけ追いかけて勝っても、それはたいした効果を発揮しません。利益のない消耗をするばかりの戦いであるといわれたのは、まさにこのことで、日本軍は非常に弱り、苦しめられていくのです。戦いすべてに勝っていながら、ついに蒋介石を降伏させることができませんでした。
日中戦争がなぜこんなに長く続いてしまったのかということについて、井上寿一に聞いてみました。「とにかく連戦連勝で、しかも日中戦争の間、国内の景気がとてもよかったのです。負けて追い詰められれば止められますが、景気が良くて連戦連勝だと、やめるという踏ん切りもつかないものなのです」また軍隊を指揮している者は、勝つと必ず勲章をもらうことができます。軍人ですから戦っている状況一番まっとうに働いているということでもあります。そこで勲章欲しさに戦線を広げていったということもあったようです。これがまさしく泥沼化した、日中戦争だったのです。
『誰もが書かなかった日本の戦争』 田原総一郎
| 2013年05月25日(土) |
ハイリスク・ハイリターン |
またぞろ投資金融商品で問題が起こっています。高い利回りを安全と称して販売し、集めた巨額に資金が消えたようだと言います。詐欺か否かは今後の調査で明らかになるでしょう。運用の実態がなかったということですから、何をかいわんやです。『高い利回り』=『危険』は常識なのですが、日本人は金融や投資の教育を受けていないために、毎年のように同じような事件が繰り返されます。素人だけではなく、年金などのプロも被害に遭うのが実態です。
かって金融機関がバタバタ倒れた時期、大阪の小さな銀行が破綻して窓口に押し掛けた預金者の一人にインタビューしているのをテレビで見たことがあります。「潰れる思てたよ。金利高かったからな」。年配の女性がしゃあしゃあと喋っているのを聞きながら、大阪のおばちゃんは凄いなぁと思いました。確信犯でゲームを楽しむようにリスクを取っていたのですから…。
リスクとリターン、見返りとそれに伴う危険は常に正の相関をしています。ハイリスク、ハイリターン、ローリスク・ローリターン、利回り、配当、報酬の高い見返りは高い危険を常に伴います。と言うか、危険を冒さない限り、高い見返りは得られないのが現実です。”虎穴に入らんずんば虎子を得ず”の諺は皆が知っている通りのことなのです。当該金融商品が危険かどうかは、直近の利回りが郵便貯金一年定期金利(現在は0.035%)の何倍かで簡単に判別できます。これを強欲倍数と名付けましょう。「安全な運用で年6%の利回り」を今回問題の商品は謳っていたと言います。
6÷0.035=171.428……。真に安全な金融商品の171倍という強欲倍数です。どう考えてもおかしいと気がつくはずです。私が1980年代前半、系統金融機関Nで融資業務についていた時のことです。私はCという外食チェーンを担当していました。Cは無理な店舗展開で資金繰りは苦しく、メイン銀行の対応次第で即アウトの可能性がありました。メインはズサンな融資で有名で後に破綻した長信銀で、極めてリスクの高い貸出先です。
あるひ、Cから新店舗開設資金の依頼が来ました。私はCへの融資はできるだけ早く回収しよう(ローリスク化)と決め、本来なら長期貸し付けになるものを短期にし、逆に金利は他行の長期貸しよりずっと高く設定(ハイリターン化)することにしたのです。その条件を上司に相談すると「お前は本当に恐ろしい奴だなぁ!」と笑いながらも交渉を許してくれました。私は正直、Cはまず蹴って来るだろう、それから再交渉すればよいと考えていたのです。しかし、こちらの条件提示をCの財務部長は何の逡巡もせずに受け入れました。私は拍子抜けすると同時に「ここはいつか潰れる」と確信します。目先の金が必要なだけだったからです。
Cはその後、バブルによる地価高騰で担保価値が上がったことに助けられて生き延びますが、2002年に倒産しています。私が実行した融資は無事に回収できて十分なリターンを得たと信じています。この世は常識でできています。安全で儲かるものなど是っ谷ありません。金融商品の場合、高利回りを謳うものは危険が極めて高く、高利回りで元本保証や安全を謳うものは…間違いなく詐欺です。
『週刊現代』5.25
| 2013年05月24日(金) |
勝者と敗者の近現代史 |
1943年は、ヨーロッパではヒトラーの軍がソ連のスターリングラードに猛攻を加えるが落とせず、ドイツが全面的に負け始める転機でもあったが、東では日本が時を同じくして負け始める。1943年2月のガダルカナル島からの撤退、4月には連合艦隊司令長官の山本元帥がベイ機に撃ち落とされて戦死して国葬が行なわれたことは、制空権をアメリカに完全にとられてしまったことを意味していた。5月には、北方のアッツ島で守備隊が全滅し、その時初めて「玉砕」という言葉が使われる。
全般的に戦局を見れば、日本軍が緒戦の勝利の勢いに任せ、あちこち手を伸ばし過ぎた結果、長くなりすぎた補給路を反撃に転じた相手側によって寸断され、兵員および物資を運ぶ船が次々に撃沈され、日本に制空権、制海権がなくなると、相手の飛行機と潜水艦の魚雷が威力を発揮し、ほとんど100%日本の船がやられてしまうという状況になった。アメリカの反攻作戦は一つ一つの島を順次抑えるのではなく、戦略上重要な島のみを押さえる飛び石作戦をとったため、後に残された島にいる日本兵はやがて飢えに苦しむ事態となった。
一般市民の多大な犠牲
日本の海軍の思想が、日露戦争の時以来の大鑑巨砲主義をとってきたため、相手の艦隊を洋上で捕捉し、大海戦で敵艦隊を壊滅するという考え方にとらわれ過ぎたのである。 日露戦争の日本海海戦でロシアの艦隊を敗退させた成功例は実は時代遅れで、太平洋戦争では、飛行機とそれを運ぶ航空母艦の方が立派な戦艦をつくるよりも有効であった。皮肉なことにそれを最初に実証したのが、日本の海軍だったのである。
ハワイ真珠湾攻撃は、航空母艦に飛行機を載せて、近づいてそこから発信した航空隊がアメリカのハワイの軍港にいた大きな戦艦を次々に沈めてしまった。奇襲攻撃だから成功したともいえるが、日本は航空機中心主義という考えになかなか頭を切り替えられず、戦艦大和、武蔵という、当時の世界でも最も大きく絶対沈まない不沈戦艦を莫大な予算と日本の最高の技術を傾けてつくっている。しかも二つとも最後まで戦果を上げる機会もなく海に眠ることになった。
とくにアメリカとの戦争が始まってから急ピッチでつくった武蔵は、1944年10月にレイテ沖海戦に参加し、他の約30隻の艦船とともに全滅している。大和は、1945年4月沖縄にアメリカ軍が上陸した直後に、沖縄沖へ出撃しようとして、その途上で米軍機の波状攻撃を受けて沈んでいる。大和は世界の常識を超える巨大な大砲をたくさん揃えていたが、それが火を吹くことなしに悲惨な最期を遂げたのである。
学徒出陣した吉田実という優秀な人が、沖縄に出撃する戦艦大和に海軍士官として乗務し、戦艦大和と運命を共にするが、奇跡的に生存し、敗戦後軍から復員、日銀に勤めて要職につき、鎮魂をこめて『戦艦大和ノ最後』という傑作を残している。3000名を超える将兵のうち、ほとんど生存者がいない最期はやはり悲劇的である。イギリス労働党の代表的理論家ジョン・ストレイチは、日本の真珠湾攻撃の決定を独裁政治の失敗の例としてとり上げ、この作戦で日本は夢物語のような至難の技を驚くべき能力で見事成し遂げたが、大局的な知恵において致命的欠陥を示したと述べている。
一方、1944年7月、サイパン島が陥落、8月にはグアムもテニアンも落ち、直ちにサイパン、テニアンがB29の一日で日本を空襲して帰ることが可能になり、さらに翌1945年、硫黄島が壮絶な日米双方の死闘の末、3月17日に守備隊が全滅、失陥する。1944年7月、開戦内閣だった東条内閣は、サイパン陥落後総辞職した。この年の11月に、東京にB29が初めて空襲、これはある意味では偵察的な空襲で、翌1945年、3月10日の東京大空襲を皮切りに、東京、名古屋、大阪、神戸と都市爆撃が繰り返され、空襲を受けた日本の都市は126にも上り、空襲による死者はおそらく50万人を超えたと推定されている。
3月10日未明の東京大空襲はわずか2時間半で、10万人が死に、その犠牲者のほとんどは一般市民だが、その日の正午の大本営発表では、この市民の死については全く触れていない。ただ、宮城のなかの主馬寮、つまり馬小屋が焼けたというだけで、一般市民の犠牲は無視されている。あの夜の東京下町の状況は、戦地の兵隊さんとそれを支える銃後の国民という構図が、一瞬にして完全に崩壊したことを教えている。あの夜は、東京の下町一帯が戦争の最前線だった。にもかかわらず、日本人の観念はその後も変わらず、軍人、軍属の戦死と、戦争による一般市民の死とを区別し、一般市民の犠牲については調査もなく保証もない状態が続いている。
このとき、東京下町の横川国民学校の教師で、たまたま3月9日から10日の宿直に当たっていた井上雄一は、鉄筋コンクリートの校舎は安全と避難してきた1000人の人が焼夷弾による火で溶鉱炉と化した校舎で焼き殺された惨状のなか、奇跡的に生還し33年後にやっとその体験談を「憶横川国民学校」という短い詩に託し、絵日記のようなスケッチを残している。『東京大空襲』(井上有一)。
沖縄戦では日本軍は上陸するアメリカ軍と戦わず、初めからゲリラ戦法をとることになり、ゲリラ戦法では当然のことながら軍と市民が一体となってしまって、結局市民を全部戦争に巻き込んでしまう。兵隊が約10万人戦死しており、市民も10万人以上死んだと考えらえている。つまり、126都市の空襲で死んだ人が約50万人、広島、長崎の原爆による死者が約20万人、そして沖縄戦で死んだ市民が10万人以上。これを合わせると、わずか5カ月の間に一般市民の死者は80万人となる。
思えば、1942年(昭和17年)4月18日、日本国民が緒戦の大勝利に沸き立っていた時、日本に接近した空母から飛び立ったアメリカのドゥリットル指揮官によるB25爆撃機16機が東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲し、そのまま中国に着陸するという離れ業を行なったが、あれこそ、後に始まる悪夢の不吉な兆しであったのである。
敗戦国ドイツでは
第一次世界大戦は、人類に1.000万人の死者を伴う総力戦という新しい試練を与えた。19世紀では人類は、アメリカの南北戦争で南北合わせて60万人の死者を数えたのを例外とし、20世紀のような総力戦を経験することはなかった。日本は第一次世界大戦では斃死のみならず一般市民までの総力戦の悲惨さを味わうことなく済んだため、軍事的にも思想的にも日清、日露の役の延長として20世紀を迎えた。日本は第二次世界大戦になって、しかも敗戦直前の5カ月前に集中して、3月10日の東京大空襲に始まる都市爆撃、沖縄戦、広島・長崎の原爆で兵士のみならず一般市民80万人を失い、20世紀的戦争の過酷さに打ちのめされる。
第二次堺大戦での犠牲者はある研究者によれば1億2.000万人に達するという。日中戦争における中国の犠牲者は死者2.000万人(日弁連調べ)とも死傷者3.500万人(江沢民前中国国家主席)ともいう。わが国でも兵士と市民合わせて盧溝橋事件以後、310万人の犠牲者を生んだ。岡倉天心は『東洋の目覚め』の中で「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である」という言葉を記しているが、第二位世界大戦での敗北は、再び日本人の心のどこかに屈辱と怨念を植え付けている。
同じ敗戦国のドイツは、第一次世界大戦ではベルサイユ条約に対する怨念でワイマール体制下の自由な選挙を通じてナチスに政権を与えてヒトラーによる対英仏、対ソ戦争に道を開き、再び敗戦の苦汁をなめたため、第二次世界大戦後においてはフランスなど西側との間に経済共同体を築き、一方、ポーランドなど東欧諸国との間に東方外交を展開して、不信を信頼の関係に変えることに成功し、今日のEU(ヨーロッパ連合)の土台をつくった。今なお日本は明治以来のアジア観を根底から見直す機会を失い、アジアとの付き合い方で苦しんでいる。
歴史を解く鍵は文明
20世紀の特徴として、このほか人口爆発、核兵器の出現に至る科学技術の発達、民族自決と難民の発生、とくに一世紀にわたる中東問題の未解決を挙げることができる。かっての犠牲者がまた新たな犠牲者を生む加害者となるという厳しい構図を見るとき、加害者が被加害者に率直に詫びるとともに、被害者が加害者を許す(例えば南アフリカのマンデラ大統領、韓国の金大中大同僚の例)意外に解決の糸口はないように思われる。
イギリスの歴史家ボブズボームがいうように、20世紀は「短い世紀」であった、19世紀には周辺国にすぎなかったアメリカとロシアが歴史の主導国になったが、それは国際的民主主義、国際的共産主義という普遍的な訴えを、それぞれが持っていたからである。しかし、ソ連邦の崩壊は、マルクス主義者の核心の基礎であった、19世紀以来の歴史的発展段階説(古代社会―封建社会―資本主義―社会主義―人類最高段階としての共産主義)の崩壊を意味していた。そして、本流の如き東欧革命にはマルクスやレーニン、毛沢東に匹敵する理論化は見当たらず、ただ人間の自由を求める叫びのみがあった。
冷戦終結後、アメリカは遂に一極支配を手にしたかに見える。しかし、それはイスラムという巨大な異文明を抱え込んでしまったことを意味している。我々は、「歴史を解く鍵は国家、民族、階級ではなく、文明である」と主張したトインビーの『歴史の研究』をもう一度ひもとかねばならないのかもしれない。ローマ帝国は衰退の原因をゲルマンという外的プロレタリアアートの圧力とキリスト教という内的プロレタリアートの台頭に求めるトインビーの説は、21世紀初頭の世界に適用できるのであろうか。プロレタリアアートとは、基本的決定から外された社会的集団のことである。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、第二次世界大戦後40年を記念してドイツ連邦議会で「荒れ野の40年」と題する演説を行ない、「過去に盲目な者は現在も盲目となる」と警告したが、また別の演説では、「我々は、今まことに珍しい歴の中の局面に生きている……我々は歴史が提供するこの好機を認識し、それを利用するのか、それともそれを捕え損なうのか…」と、東西ドイツ統一後のドイツ人に呼びかけている。(1991年)私は勝者の成功例よりも、敗者であることを受け止める勇気を持った者の言葉に、将来への教訓を見出すべきだと感じている。
思い起こすと、日清戦争の下関での講和条約で、照射だった日本は敗戦国たる清国から当時の日本の国家予算の4年分以上を賠償としてとりたてたが、1945年の日本の敗戦に際しては、勝者となった中国は蒋介石政権も、また毛沢東政権も平和条約調印にさいし、日本に対し賠償を支払うよう請求する権利を行使しなかった。勝者はいつか敗者となり、敗者もまた勝者となりうる。勝者は、また敗者は、その勝敗をどう受け取るべきか。21世紀の日本は、その問いへの答えいかんにかかっているようにも思われる。
『勝者と敗者の近現代史』 川上民雄
| 2013年05月23日(木) |
大ハシャギの朝日新聞 |
橋下徹大阪市長と西村真吾代議士の慰安婦問題をめぐる発言で、朝日新聞はまるで鬼の首でも取ったかのような大ハシャギだ。なにしろ、朝日新聞は例の佐野眞一「ハシシタ 奴の本性」問題で完膚なきまでにやっつけられて全面降伏した後だから、この際一気に借りを返そうというのだろう。朝日新聞の5月15日の社説、タイトルからして居丈高。「これが政治家の発言か」〈橋下氏の一連の発言は、元慰安婦たちの傷口に塩を塗るばかりでなく、今を生きる女性たち、さらには米兵をも侮辱するものだ〉
そして今、日本が慰安婦問題で批判されている原因は、慰安婦の設置や管理に軍の関与を認め、お詫びと反省を表明した河野談話を何とか見直したいという国会議員の言動がいつまでも続くからだ。要するに河野談話を見直そうなんて言い出すから、こんなことになるのだというのだ。見直すのは当たり前だ。
河野談話のもととなった朝日新聞の”スクープ”では、稀代の嘘つきが済州島で朝鮮の女性を狩りたて、慰安婦として売り飛ばしたというまったくのデタラメをそのまま信じて記事にした。このスクープはその後、秦郁彦さんらの取材、研究によって完全に否定されれいる。日本軍が朝鮮の女性をムリヤリ慰安婦にしたケースはない。
朝鮮人の女衒(ぜげん)が、金を払って集めてきたケースがほとんどである。当時の朝鮮を代表する新聞は堂々と、慰安婦の募集広告が載っているし、女性たちは当時の金で大佐クラス以上の給料である月収300円であった。今、韓国で慰安婦として名乗り出ている老女たちの話はコロコロ変わって信憑性は限りなくゼロに近い。要は売春婦で、気の毒だとは思うが、日本軍、日本政府に何の責任もないのだ。
本来なら、”スクープ”した朝日新聞は男が嘘を認めた時点で、全面的に謝罪訂正すべきだったのだ。そうしていれば従軍慰安婦問題など起こらなかったのである。朝日新聞の罪は大きい。報道に誤報はつきものだ。しかし誤報したら訂正、謝罪するのがメディアの責任だろう。それをきちんとやらないからいつまでも日本が、慰安婦問題で批判されるのだ。ついでに言うと、日本の大新聞ぐらい謝罪を嫌うメディアも珍しい。
例えば南京事件を象徴する少尉らの百人斬り競争。あれなんかも、山本七平さんや鈴木明さんが徹底的に検証し、あり得ない話だと証明されているのに、毎日新聞は訂正も謝罪もしない。ジャーナリストととして公平に資料を読めば従軍慰安婦だって百人斬りだってあり得ない話だということはすぐわかる。ジャーナリストとして恥ずかしくないのかと聞きたいのだ。
花田紀凱
飯島内閣参与は訪朝の理由を国会で説明すべき
飯島勲内閣官房参与の北朝鮮訪問は、極めて疑問というしかない。まず、どういう立場で訪朝したのか。内閣官房参与であるため、政府を代表して訪朝したとしか考えられないが、安倍晋三首相らの説明は曖昧だ。関係国が歩調を合わせて北朝鮮に経済制裁を科すなか、抜け駆け的に訪朝した点も説明がない。飯島氏は北朝鮮幹部に対し「日本は拉致問題で妥協しない」などと伝えたとされるが、それは従来の政府方針だ。それ以外にどういう話し合いがあったのか。岸田文雄外相や外務省は事前に承知していたのか。通訳や同行者はいたのか。いずれもはっきりしない。
万が一、飯島氏が個人的立場で行ったとすれば、まさに「二元外交」であり、飯島氏の行動は許されるものではない。それを許した安倍首相や菅義偉官房長官の責任も問われることになる。ともかく、北朝鮮の核・ミサイル問題は日本と日本国民の安全にかかわり、拉致問題は日本の主権、被害者の方々の人権にかかわる。ともに極めて重要な問題だ。米国や韓国、中国など関係国の理解と協力も欠かせない。飯島氏は国会に出てきて、きちんと説明することが求められると思う。
こうしたなか、安倍首相の歴史認識が問われている。安倍首相は以前、戦後50周年の1995年に出された「村山談話」について、「そのまま継承しているわけではない」と語ってたが、最近は「政権としては全体として受け継いでいく」などと国会で答弁している。一見、軌道修正したかに見える。しかし、村山談話は「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と述べている。つまり、日本による過去の植民地支配と、侵略を事実として認めたうえで謝罪しているのだ。
2005年の小泉談話でも、植民地支配と侵略を認めて、お詫びの気持ちを表明している。私は5月10日の衆院内閣委員会で「安倍内閣も引き継いでいるのか」と質問したが、菅官房長官は最後まで、植民地支配と侵略の言葉を口にしなかった。植民地支配と侵略は村山談話、小泉談話の核心部分だ。安倍首相は「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」とも国会で述べているが、植民地支配や侵略の事実があったと認めたこともない。
植民地支配と侵略は村山談話、小泉談話の核心部分だ。安倍首相は「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」とも国会で述べているが、植民地支配や侵略の事実があったと認めたこともない。もし、歴史的事実と向き合わずに、村山談話や小泉談話の核心部分を認めないなら、大きな歴史認識の転換になる。ごまかさずにきちんと説明しなけばならない。日本維新の会の橋下徹共同代表の発言が注目されているが、現職首相である安倍首相の歴史認識は、それ以上に重大な問題だ。中国や韓国だけでなく、米国も問題視しており、終盤国会の大きな焦点になるだろう。
岡田克也
五輪誘致ますますピンチ
日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)による慰安婦・風俗業発言が、意外なところに波及している。2020年夏季五輪の東京誘致をめぐり、先日、東京都の猪瀬知事がライバル都市のイスタンブール(トルコ)を批判するような発言をして、国際的な注目を浴びたばかりだが、今度は橋下大阪市長の言動が世界中に報じられ、さらに厳しい立場に追い込まれそうだというのだ。
慰安婦発言 不意に追い打ち
「私は日本経済のためにも、新しい時代を築くためにも五輪誘致に賛成だが、2人の発言でかなり難しくなったと悲観的になっている」こう語るのは、元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏だ。2020年夏季五輪開催地には、東京とイスタンブール、マドリードの3都市が最終候補まで残り、今月9月7日、ブエノスアイレスで開かれる国際オリンピック委員会(IOC)総会で決定する。
猪瀬知事は先月末のニューヨーク出張中、米誌のインタビューで「イスラム教徒は互いにケンカばかりしているし、階級がある」などと発言した。ライバル都市の批判を禁じたIOCの倫理規定に違反した可能性があると指摘された。猪瀬氏は謝罪・撤回し、IOCは処分しない決定をした。一方、橋下発言には、米国務省報道官が「異常で不快」と表明するなど、悪印象が広がっている。維新には、前東京都知事で五輪誘致に手を挙げた石原慎太郎共同代表がおり、橋下氏は安倍首相とも懇意だが、招致運動にどう影響しそうか。
かなり難しくなった
前出の佐藤氏は「五輪誘致は公職選挙法のない選挙で、大衆のイメージが重要。イスタンブールにはイスラム周辺の五輪という大義があるのに、猪瀬知事はイスラム圏全体を敵に回すような発言をした。橋下氏の発言は、その真意はともかく欧米では『兵士に女性をあてがえ』と言ったと受け取られる。生理的嫌悪感を持たれるだけ。トータルで、日本人は違う文化の人達と思われてしまう」と話した。
東京誘致委員会が3月に行なった支持率調査で、都民の五輪誘致に賛成という声は過去最大の77%に達したが、政治リーダーの言動が足を引っ張っているのか。スポーツライターの玉木氏は「投票権のあるIOC委員は欧米が中心なので、橋下氏が慰安婦をめぐって欧米諸国を責め続けているのはマイナスだ。1964年の東京五輪誘致の時は、日本中が外交力を総動員した。しかし、安倍首相や慎太郎氏は親しいはずなのに、橋下氏を抑え込んでいない。日本全体に『本気で五輪誘致をしよう』というエネルギーや戦略が足りない」と語った。
橋下氏は来週27日、東京の日本外国特派員協会で記者会見するという。発言は再び世界に配信されることになる。
大阪の弁護士ら 橋下大阪市長を懲戒請求へ
日本維新の会の共同代表の橋下徹大阪市長による、旧日本軍の従軍慰安婦をめぐる発言で、大阪弁護士会所属の複数の弁護士が今月中にも、橋下氏の懲戒を同弁護士会に請求することが22日、分かった。同弁護士会は請求を受け、審査の対象とすると判断した。懲戒委員会で業務停止や退会命令などの処分を求める。
日朝協議再開を検討
政府は5月21日、飯島勲内閣官房参与の北朝鮮訪問を受けて、昨年11月以降途絶えている日朝政府間協議の再開について検討に入った。飯島氏は官邸で安倍晋三首相に北朝鮮要人との会談内容を報告後、拉致問題の解決に向けて、「これから首相が、不退転の決意で実行していく」と説明した。菅官房長官は、今後の交渉は外務省ルートで進められるとの認識を示した。日朝協議が再開されれば、拉致被害者の安否確認に関する再調査や、在日朝鮮人の帰還事業で渡航した日本人妻の里帰り問題、日航機「よど号」を乗っ取り北朝鮮に渡った容疑者らの送還などが議題になる。開催場所は、モンゴルなど第三国になることが想定される。
『夕刊フジ』 5.23
朝鮮人強制連行の語は今日の日本ではよく知られているし、しばしば使われる語である。歴史辞典でもたいがいのものは、強制連行や朝鮮人強制連行の項目が立てられている。そこでの説明からは、次のようなことがわかるはずである。それが行なわれた背景には日中戦争以降の日本男子の出征による労働力不足があったこと。労働者の動員は日本政府が1939年以降、終戦まで毎年策定した計画に基づき行われたこと、暴力的な要員確保が行なわれたことなどである。辞典によっては、朝鮮人を日本軍の兵士や軍族、従軍慰安婦としたことも、強制連行として説明しているケースもある。
朝鮮人強制連行という、この語の使用に否定的な立場の人々の理由の一つは次のようである。すなわちこの語の概念規定が厳密ではなく、使用する人によって兵士・軍属や軍慰安婦まで含めたり、労働者のみに限定したりとさまざまとなっていることである。。
しかし、歴史用語の全てが厳密な概念規定を持つわけではない。むしろ大体の人にある限度の了解事項を持ちつつもバリエーションをもって使用されている語は珍しくない。朝鮮人強制連行の語についてみれば、政府計画に基づき本人の意思にかかわりなく労働者としての朝鮮人を動員したことを最低限そこに含めることは共通の理解となっている。これは歴史辞典の説明を見てもわかるはずである。従って、ある種の幅を持つ概念だということのみをもって、朝鮮人強制連行という語を使用してはいけないということにはならないであろう。
概念規定の問題とは別な理由から朝鮮人強制連行の語を妥当ではないとする人もいる。これは戦時下の朝鮮人動員での強制性についての疑問や、朝鮮人の動員を特別視すべきでないという考えからなされているようだ。前者は要するに経済格差や朝鮮での生活の困難さから日本内地事業所への就労希望者は、当時相当いたのであり、強制などなかったという認識に基づく。
実際に動員計画に基づいて日本内地で働くようになった朝鮮人の証言の中には、自身が希望してやって来た事例があることは確かである。後者は戦時下の日本政府の計画に基づく動員は、朝鮮人に限定されているわけではないという意見である。歴史的事実としてこれも否定できない。徴用されたり、勤労奉仕にかりだされて厳しい労働を強いられた日本人は相当に多い。しかも、国民徴用令による徴用が早い段階から行なわれたのは、朝鮮人ではなく日本人に対してであり、その適用を受けたものの数も日本人が朝鮮人を上回っている。
しかし今日までの歴史研究は、本人の意思に反し暴力的に朝鮮人を労働者として連れてくる行為が行なわれていたことを明らかにしてきた。それは本書でも紹介するように、当事者の証言のみならず同時代の行政当局の資料によっても裏付けられる。また動員を遂行するための制度や政策も日本人と同じではなかったし、暴力的な動員は日本人の間では少なくともそう繁雑に起こっていたわけではない。この見方を覆すに足る新たな資料の解釈が示されない限り、やはり朝鮮人強制連行の語の使用を誤りであるとか問題があるとはいえないであろう。付け加えれば、戦時下に朝鮮人に対して暴力的な動員が行なわれたことは何も狭い歴史学者の世界のみで認められているわけではない。強制連行の被害者が日本政府や企業に被害の補償を求めた裁判では、原告の請求は退けられてはいるが、そのような事実があったこと自体は認定されている。
遅れている研究
もっとも朝鮮人強制連行という語をめぐる議論の中には、歴史研究者が十分説明してこなかった重要な問題、明らかにしてこなかった点があることも認めなければならない。植民地朝鮮には日本内地への就労を希望する人々は存在したし、実際に戦時中も望んで日本内地への就労を選択した朝鮮人はいるのである。ではなぜ、一方で無理やり朝鮮人を連れてくるようなことが行なわれたのか?あるいは、そのような暴力的な動員は普遍的な現象ではなく、特別の時期、地域に起こった例外的な問題だったのではないかという推測を立てることも可能だろう。その場合には、では暴力的な動員を生じさせた要因が何だったのかといった疑問も付随してくる。
また、より過酷な立場に置かれとされる朝鮮人の方が、むしろ日本人より徴用が遅く適用され、その数も少なかったということも理解しにくい話といえる。そもそも同じ日本帝国の領域であった朝鮮で、どうして日本と異なる動員が行なわれたのかについての説明も不足している。朝鮮人に対する動員のあり方について、日本人へ適用する法令や制度、あるいは実態がどのように違うのかを詳細に論じた研究は見当たらないのである。こうした疑問や課題に挑戦しようとする歴史研究者は現代日本ではほとんどいない。というよりも、筆者の知る限り、そもそも朝鮮人強制連行に関心を持って仕事をしている歴史研究者自体がかなり少ないのが現状である。
韓国での真相究明の活動
これに対して動員された人々とその遺族が多数暮らしている韓国では、1990 年代の民主化以降この問題が広く提起され、21世紀に入って政府もさまざまな取り組みを行なうようになった。2004年には法令に基づいて日帝強占下強制動員被害真相究明委員会が発足した。同委員会の設置期限の終了を迎えた2010年には、その業務は対日抗争強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会に引き継がれている。
これらの委員会は、韓国政府が行なう補償の前提としての、動員された本人や遺族の申告に基づく事実調査や動員されて亡くなられた方の遺骨、遺品、関連する歴史的資料や関係者証言の収集、それを編集した資料集や報告書の刊行を進めている。貴重な仕事というべきであるが、まだ朝鮮人強制連行の全体像を明らかにするような報告書は提出されておらず、前項で述べたような疑問が解き明かされたわけではない。
一方、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)でこの問題について近年の歴史研究の動向の詳細は不明である。ただし1960年代までにはいくつかの論文が出されているし、その中では韓国や日本での所在確認されない貴重な資料(おそらく北朝鮮にのみ残っているもの)を利用した研究もある。そもそも戦時中に日本によって動員された人々とその遺族は、北朝鮮にも多数いることは間違いなく、動員で生じた被害に伴う補償の問題が未解決のまま残されていることから、関心は少なくないことが推測される。また、北朝鮮系の在日朝鮮人の民族団体による、労務動員に関する調査活動は1970年代から行なわれており、現在も資料発掘や証言記録などの成果を挙げている。
『朝鮮人強制連行』 外村 大
地球上の生命の出現は、一つの大きな謎である。地球は、ほぼ45億年前に形成された。そして科学者たちが信じるところによれば、それからわずか数億年後には、簡単な形態の生命がそこに存在していたことになる。これは納得するにはあまりにも早すぎると思うのだ。最も古く、最も簡単な生命体でも30億年たって初めて生物学的な分子構造を持つという。このことを別の観点から考えれば、地球誕生からすぐに地球に生命体がいたとすれば、すでにあった何らかの生命体が地球に降りて来たからであって、無機的化学物質とガスの結合の結果から生まれたのではないと思われる。
科学者たちを困惑させそうな、この考えは、いってしまえば地球上で簡単にはつくれそうもない生命は、事実、地球上では生まれなかったということだ。ノーベル賞を受賞しているフランシス・クリックとレスリー・オーゲル博士は、科学雑誌イカルスの1973年9月号に寄稿して、「地球上の生命は遠い惑星からの小さい有機体から急に生まれたのではないか」という仮説を提起している。彼らは、地球上の生命の起源についての現在の理論に対して、科学者たちの中でもたれている一種の不安感を背景に彼らの研究を始めたのだ。
なぜ地球上の全ての生命に対して、たった一つの遺伝子暗号しかないのか?もし生命が、大部分の生物学者たちが考えているように、原始「スープ」から始まったとすれば、さまざまな遺伝子暗号方式を持つ有機体が進化したはずではないか?そして、また、モリブデンは地球上にはほとんど存在しない元素なのに、なぜ、地球上の生命に不可欠な酸素の反応を媒介する、大切な役割を果たしているのか?なぜ、クロムやニッケルのような、地球上にもっとたくさんある元素が有機的反応ではそれほど重要ではないのか。
クリックとオーゲルが提起した、一風変わった理論は、地球上のすべての生命が他の惑星からの一つの有機体から発生したものではないかというものだけではない。このような種は、あらかじめ用意されていたもので、他の惑星からの知的生物が自分たちの惑星から地球へ「生命の種」を宇宙船に乗せて送りだした。その目的は、地球上にも生命のチェーンをつくろうとしたのだという理論だった。
この二人の著名な科学者たちは、いま一つで真実をつかめるところまで迫った。前もって用意された「種づけ」などはなかったが、そのかわり、天体の衝突があったのだ。生命体のある惑星第12惑星とその衛星がティアマトと衝突して、それを二つに割った。その方割れから地球が創られた。その衝突の際に第12惑星の生命のある土壌と大気が地球に「種をまいた」。こうして、生命の有機的合成物の原型を地球にもたらしたが、その詳細は分かっていない。
もし、第12惑星の生命が、地球より1%だけ早く誕生したとすれば、そこでは約4500万年早く誕生したことになる。この一件わずかに見える時間の差が、地球上で哺乳動物が姿を見せ始めたとき、第12惑星では人間のように進化した生命が既に住んでいたという状況をつくりだした。第12惑星の生命が、このようにずっと早くから誕生していたので、そこに住む人たちがほんの45万年前に宇宙旅行に出かけることは可能だったのだ。
『人類を創成した宇宙人』 ゼカリア・シッチン
韓国大使、橋下発言に「貧弱な人権意識」
今月末に離任する韓国の甲ガク秀大使(58)が5月15日、東京都内の日本記者クラブで会見した。歴史認識などをめぐり日韓関係の緊張が高まる中、甲大使は、橋下徹・大阪市長の慰安婦問題に関する発言などを厳しく批判した。
甲大使は、戦時中の旧日本軍慰安婦を「必要だった」などとした橋本市長の発言について「日本の指導的な政治家の歴史認識や女性の人権に対する意識が、こんなに貧弱なのかと失望した」と語気を強めた。そのうえで、「日本の新聞の投稿欄や社説を読めば、良識ある市民たちが、橋下発言をどう受け止めているかわかる」とし「今回の件は、一般国民の考えとかけ離れた歴史認識を持つ政治家が、慰安婦の苦痛や、女性の人権といった問題について、もう一度よく考える機会になればいい」と述べた。
さらに甲大使は、日本には「気配り」といういい言葉があるとし、「気配り大切にして被害者の心を癒すように接してほしい」と日本側に注文した。また、植民地支配や侵略の現実を知らない若い世代に対しては、近現代に重点を置いた歴史教育が重要だ、と強調した。
『朝日新聞』5.16
米政府 橋下発言に言語道断で侮辱的
米政府は5月16日、戦時中の旧日本軍の慰安婦を「必要だった」などとした日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長による一連の発言について、「発言は言語道断で侮辱的なものだ」などと厳しく批判するコメントを朝日新聞に寄せた。
橋下氏のこれまでの発言
米政府の公式な立場を示したものとみられ、米当局者が同盟国である日本の政治家に対し、こうした態度を示すのは極めて異例だ。さらにこの当局者は従軍慰安婦について、「戦時中、性的な目的のために連れて行かれた女性たちに起きたことは、嘆かわしく、明らかに深刻な人権侵害で重大な問題だ」との考えを示し、従来の米政府の立場を改めて強調した。
橋下氏は6月に訪米を予定しているが、当局者は「橋下氏のこうした発言を踏まえると、面会したいと思う人がいるかどうかはわからない」とも述べ、要人との会談はできないとの認識を示した。今回、当局者がこれまでにない厳しい言葉で非難したことは、橋下市長の発言の推移を見極めたうえで、なお米政府が苛立っていることの表れとみられる。
橋下氏は5月13日、記者団に「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命がけで走っていく時に、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と発言した。米軍の司令官と沖縄で面会した際、「もっと風俗業を活用してほしい」といったら、司令官は凍りついた表情をしていた、ということも明らかにした。
これに対し、米国防総省報道担当官が「馬鹿げている、我々のポリシ−や価値観からかけ離れている」などと批判した。こうした事態を受け、橋下氏は5月16日に「誤解で傷ついた方がいらっしゃるんであれば、大変申し訳ないと思う」と述べた。ただ、慰安婦問題については「日本だけが慰安婦の強制連行をしたと外国から見られているが、本当に強制連行があったのかどうか、日本の公式見解は曖昧曖昧で、世界中から不当に侮辱を受けている」などと持論を繰り返した。
『朝日新聞』 5.17
橋下氏が米政府に反論
「自分たちが何をしたか直視を」橋下氏が米批判に反論
日本維新の会の共同代表の橋下徹大阪市長は17日夕方、第二次世界大戦中の慰安婦制度をめぐる自らの発言を、米政府当局者が批判したことに対し、「慰安婦制度を容認することは一度も言っていない」と改めて強調した。そのうえで「日本も悪かったが、米国も自分たちが何をやっていたのか直視してもらいたい」と反論した。市役所で記者団の質問に答えた。
橋下氏は「米国が沖縄を占領中に、現地の女性を活用したのは厳然たる事実。米国はそのことを知らなさすぎる」と批判し、「一方的に日本だけを外交戦争のなかで『性奴隷を活用していた』という批判はアンフェアだ」と持論を述べた。
自身の発言による日米関係の影響について問われると、「何もない。日本だけが侮蔑を受けて、なぜ異議を申し立てないのか」と不満を口にしたが、「米国とは同じ価値観を持って未来志向で歩んでいきたい」とも述べ、関係改善への意向も示した。
『産経新聞』 5.17
橋下氏が報道批判、ぶら下がり取材を拒否宣言
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は5月17日、いわゆる従軍慰安婦問題について橋下氏が「当時は必要だった」と発言した問題を報じたメディアに対し、「大誤報をやられた」と批判した。一連の発言の真意を確認しようとする記者団に、「一言一句、確認しろというなら、取材対応をやめます」と話を打ち切った。今後、立ち止まって質問に答える「ぶら下がり取材」に応じない考えを示した。
橋下氏は5月13日、「銃弾の飛び交う場で命がけで走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶる集団をやっぱりどこまで休憩じゃないけど、そういうことをさせてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのはわかる」などと発言した。国内外のメディアに広く取り上げられ、「女性蔑視をしている」などと批判が相次いでいた。
当時の慰安婦制度を「必要」とした発言ついて、橋下氏は「僕が慰安婦制度を必要だと思っているとか、容認しているとかではなく、世界各国の軍隊が女性の活用を必要としていた」と釈明した。「きちんと英語で伝わらなかったことは僕の表現不足。僕が必要だと思っていた、と訳すのはやめてほしい」と述べた。
「必要」という言葉の解釈をめぐり、記者団がさらに質問すると、橋下氏は「揚げ足を取るのではなく、文脈でしっかりと判断してほしい。一言一句全部チェックしろというなら、明日からぶら下がり取材はやめましょう」と質問を遮って立ち去った。
『読売新聞』 5.18
拉致問題の旗振り役だったのに……
「EXILEコンサートの観客は4万7000人、長嶋&松井の国民栄誉賞のセレモニーが4万7000人。これも支持率アップのを狙った安倍首相のコミュニケーション戦略ですよ」官邸スタッフはこう胸を張るが、10日足らずの間に2度も東京ドームに足を運んだ総理は前代未聞だろう。しかも、それが本当に支持率アップにつながるならまだしも、怒りを買ったのでは元も子もない。
先月4月27日の東京ドームで開催されたEXILEコンサートを安倍首相が2時間にわたって鑑賞したことは、すでに報じられている通りである。一部では「アベザイル」などと呼ばれ、本人もEXILEのロゴが入った旗を振るなどご満悦だった。ところが、その安倍氏の有頂天ぶりに、最大の支援者から「がっかりだ」と落胆の声が上がっているのをご存じだろうか。
実はこの日、日比谷公会堂では「すべての拉致被害者を救出するぞ!国民大集会」が開かれていた。拉致問題は、安倍首相自ら「自分が誰よりも早くからこの問題に取り組んできた」とアピールしてきた政治課題でもある。もちろん、安倍氏も集会に参加したが、挨拶のみで滞在時間わずか30分という短さ。
拉致被害者家族の一人は、後日、拉致議連の自民党議員にこう漏らしている。「安倍さんがいよいよ総理になって、私たちも盛り上がっていました。当然、大会終了までいてくれると思っていたんですが、時間がないということでしたし、確かにそうだろうと納得したんです。それなのに、こちらが30分で、その後のコンサートは2時間ですからね。笑顔で彼らと写っている写真を見て、正直がっかりしました」
民主党政権時代、野田佳彦前総理が同じ集会を30分ほどで退席した時は、安倍氏に近い自民党議員たちが「野田政権は拉致問題を解決する気がない」と散々批判した経緯がある。それだけに「拉致の安倍」で名前を売った張本人が30分で退席し、コンサート鑑賞とは、拉致被害者家族たちも予想外だっただろう。裏切られたと思うのも無理はない。
一期目は「拉致」で総理の座を射止めた安倍氏。二期目は「拉致」で総理の座を追われるかもしれない。
『週刊現代』5.25
| 2013年05月17日(金) |
従属と屈辱の日を祝うのか |
主権回復の日の式典の中止を求める
サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日に政府主催で、主権回復の日式典を開催すると、安倍首相が決めたことに対し、日本共産党の志位委員長は「従属と屈辱の日を祝うのか」と、主権回復の日の式典の中止を求める、という見解を発表した。(3月14日)
1952年4月28日発行、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約により、日本は形式的には独立国となったが、実質的には米国への従属国の地位に縛りつけられたというのが、歴史の真実だ。この日を祝う式典を行なうことは、今日に続く対米従属という国民的屈辱を祝うことに他ならない。日本共産党は、このような式典の企てを直ちに中止することを強く要求する。
サ条約は三つの重大な問題点を持つ。第一は、全面講和でなく単独講和であったことである。戦争をしていたすべての国との平和条約ではなくて、当時の米世界戦略に反対しない国々とだけの平和条約となった。日本軍国主義の被害を最も深刻に被ったのは中国、韓国、朝鮮だったが、この三国の代表ともこの条約を議論したサンフランシスコ会議には招待されなかった。ソ連など3カ国は最終的に条約に署名しなかった。
第二は、領土不拡大というカイロ宣言、ポツダム宣言に明記された第二次世界大戦の戦後処理の大原則に背く、重大な誤りが持ち込まれた。サ条約では第3条で、沖縄を日本から切り離し、永久に米国の支配下におけるようにした。さらに第2条C項で千島列島を放棄し、ヤルタ協定に基づくソ連の不当な占領を追認するものとなった。
第三に、とりわけ重大なのは、サ条約第6条で、連合国のすべての占領軍の撤廃を規定しながら、新たな条約に基づく外国軍隊の日本国の領域における駐屯または、駐留を妨げるものではない、として米軍駐留の継続を求める特別の規定を設けたことである。これは、日本占領の目的が達成されたら、占領軍は日本からただちに撤収することを明記したポツダム宣言に反するものだった。旧安保条約は、米国が日本占領中に絶対権力でつくりあげられた基地すべてをそのまま提供する条約となった。
旧安保条約は1960年に改定されたが、それは日本の従属的な地位を改善するどころか、有事の際に米軍と自衛隊が共同して戦う日米共同作戦条項などが新しい柱として盛り込まれ、日本を対米従属的な基地国家として、将来にわたって固定化するものとなった。世界でも異常な米軍基地の重圧も、日本国憲法第9条に反する米軍と自衛隊との軍事的共同も、全てその根源をたどると、1952年4月28日の日米案条約に行き着く。
旧安保条約の締結は、完全な秘密交渉として行なわれた。しかも当時の日本は、占領軍への一切の批判を弾圧する戒厳令下同然の状態だった。サ条約と安保条約は、日本国民の言論の自由を封殺したもとで押しつけられたものであり、いかなる意味でも日本国民の選択の結果ではないことを強調しなけばならない。
サ条約発効の日を祝うことは、日米安保条約発効により、日本の異常な対米従属が固定化された日を祝うことであり、沖縄を本土から切り離した屈辱の日を祝うことであり、千島列島を放棄したことを祝うことに他ならない。この動きが、日本国憲法を安倍政権の言う、主権国家回復以前に制定されたものとして、その改変を求める動きと一体のものであることも極めて重大である。
『赤旗』3.24
橋下氏の言う慰安婦正当化は問題 女性への冒瀆だ 市長を辞職すべき
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長(43)が、旧日本軍の従軍慰安婦制度を「必要だった」と発言したことに対し、市民らから大阪市役所に抗議の電話が殺到した。13日から15日午後3時までに計462件の電話やメールがあり、うち367件が発言に対する批判だった。「慰安婦を正当化するンは問題」「女性への冒瀆」といった意見のほか、「市長を辞職すべき」との声もあった。また、市長発言と受け止められかねないとして、大阪市議会全会派も抗議を申し入れた。
橋下氏はこの日、大阪市役所で急きょ会見し、発言の意図を説明した。「慰安婦制度に問題がなかったなどとは一言も言っていない。日本を正当化するつもりはないが、欧米諸国が自由恋愛の名のもとに、現地の女性を使っていたのも事実だ」と述べ、「日本だけがなぜ批判を受けているのかという問題提起だった」と釈明した。
一方、安倍首相が参院予算委員会で「橋下氏と我々とは立場が違う」と述べたことに、橋下氏は「政府が日韓基本条約で法的に解決済みだと言っていることの方が、慰安婦を傷つけている」と批判した。また、沖縄の在日米軍に性風俗を活用するよう進言したことについて「米兵の性犯罪が一向に止まらない。軍として、欲求をコントロールすことに本気になって欲しい」と持論を展開した。6月に予定される米国訪問に対し「入国拒否はないと思う」と述べ「現地で必要な議論をさせてもらいたい」と語った。
飯島氏北朝鮮5月17日まで滞在
北朝鮮消息筋は15日、飯島勲内閣官房参与が、17日まで滞在する予定だと明らかにした。飯島氏は、平壌で宋日莫・朝日国交正常化交渉担当大臣ら北朝鮮の政府関係者と会談するとみられるが、国営メディアは滞在2日目の15日に飯島氏が誰と会ったかは伝えていない。
飯島氏が接触する相手としては、宋大使のほか、朝鮮労働党の、国際部幹部らが想定される。協議の進展次第では、滞在日数が変更される可能性もある。15日付けの党機関紙、労働新聞は、飯島氏が14日に到着したことを写真付きで紹介する一方で、別の面では「日本の罪悪の歴史を覆い隠すことはできない」と題した論評を掲載した。ただ、論評は「拉致問題は解決済みとする北朝鮮の基本的な立場には触れず、日本側への一定の配慮もうかがわせた。
安倍首相 ノーコメント
安倍晋三首相(58)は、15日の参院選予算委員会で、飯島氏が14日に北朝鮮入りしたことについて、「首相、政府としてはノーコメントだ」と述べ、言及を避けた。首相は、対北朝鮮外交の基本的姿勢を「拉致、核、ミサイル問題を解決し、日朝関係を改善していく」と説明した。拉致問題について �“鏗下堊完�の生還 �⊃秦蟆鯡� ��実行犯の日本への引き渡し を挙げて「対話と圧力の姿勢で、完全解決を目指していく」と強調した。菅官房長官は「事柄の性質上、コメントは控える」とし、自民党の石破幹事長も訪問目的に関して「拉致問題も含めて糸口を探るという推測はあるが、軽々なコメントはしない方がいい」と述べるにとどめた。
また首相は、過去の中国との関係について「日本が侵略しなかったと言ったことは今まで一度もない」と明言した。過去の植民地支配と侵略を認めた村山富一首相談話に関しても継承する考えを示し、村山談話をそのまま踏襲しないなどとした従来の発言を軌道修正した。
韓国で警戒感
15日付の韓国大手紙は、飯島氏が平壌入りしたことについて「米韓はもちろん、中国まで北朝鮮に制裁を加えている状況で、国際協調を破った」(朝鮮日報)などとして警戒感を示した。東亜日報は、日本政府が韓国政府に飯島氏の訪朝を事前に通知していなかったと伝え、「日本の突出した行動により、北朝鮮に状況判断を誤らせる可能性がある」と指摘した。朝鮮日報は「日本が北朝鮮問題対する影響力が低下している状況を反転させるためのカード」と分析した。「7月の参院選をにらみ、安倍首相が勝負に出たとの見方も出ている」と伝えた。
『スポーツ報知』5.16
日中50年戦争の起源
最前線の兵士と軍夫が残した日記から浮かび上がる「日本人と中国人の戦争」
丸木が見た「道路には清兵の死体…首ばかりのもののあり」という情景は砲弾の炸裂のためか、それとも日本軍将兵による斬首が行なわれたためか。「どうしたわけかまえもしだらなく死に居」た娘は、単なる戦闘の巻き添えとは言い難いように思われる。丸木が描いた死体を見下ろす日本兵たちのなんと目つきの鋭いことか。「敗残国の人民はあわれなものなり」というのが丸木の感想であった。
このように、旅順虐殺事件の惨状は、すでに金州において規模こそ違えど現実のものになっていた。第2軍はかかる事態を経験したにもかかわらず、清軍の不規律のせいと片づけてしまって、敗残兵と住民との区別に対し何らかの対策をとろうとしなかった。このことが、旅順の事件で国際的批判を浴び、対応に苦慮させられる一因となったといえよう。
旅順虐殺事件とは、双台溝と土城子の間で清軍と日本軍奇兵隊が交戦し、日本側は戦死者11人を出す敗北を喫した。日本側の資料による清軍の死者は旅順口で約4500人。捕虜355人であった。また市街に散在する清国人の死体2000人、そのうち500人は非戦闘員だったとする。捕虜の数字は異常に少なく、しかもそのうち259人は応援に来た海軍陸戦隊の一小隊が捕えたものであり、陸軍は基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害した疑いがある。清国側の記録では死者2万人とされる。英米の従軍記者が新聞紙上でこの行為を非難したため、大本営は大山第二軍司令官に弁明を求め、虐殺の規模、原因については異論があるものの、市街の兵士人民を混一殺戮した事実は認めざるをえなくなった。
第二連隊兵士の激昂
関根が土城子の先頭において清軍が日本兵の死体を損壊、凌辱したと聞いたのは、翌19日のことだった。彼の日記には「首は斬して見えず、手足は散々断たれ、腹は裂きて胃の腑を取り除き、石を詰めて充たしめ、甚だしきは陰茎を切断して有り」という惨状が記され、それを見た兵士たちは「切歯扼腕勇々坦々に堪えず」、「瞬時も早く旅順を陥落せんとする志気」を高めた。
軍夫の見た捕虜殺害
11月21日、旅順総攻撃の日、軍夫丸木は旅順郊外の栄城子にいた。以前より「旅順虐殺事件」の分析は旅順市街地だけでなく、近傍地域における一連の事態を事件に含めて行なわれるべきだとの問題提起がなされている。大谷が丸木日記からは、確かに市街地以外でも無抵抗の捕虜殺害が行なわれいたことがわかる。
11月22日 水師営方面に大砲小銃おびただしく聞こゆる。先頭は腹減ったので土城子に休止。少し間があるから薩摩芋の徴発と出かけた。農家に入りそこに穴ぐらがあった。その穴に積み上げた薩摩芋がたくさんあり、4〜5名にて取りに入り、初めのうち薄暗くゆえ気もつかず居りしが、何やらうなり声のするので、見れは清兵の負傷者なり。皆穴より飛びいだし我が兵士を呼びたつれば、以前の清兵穴の中より飛びいだし、逃げようとするところへ大勢かけきたり、メチャメチャに切り倒したり。
殊に哀れに思いしは、婆さんに19くらいな娘と子供と23〜4の男が付き添い荷物を天秤に担ぎたるを、我が兵士これを捕えてその男を連れ行く。娘婆さんとも泣き叫ぶ、哀れなるはその男、どこへ連れてゆかれしか、定めし殺されたるべし。
25日清兵により約40名が殺されたというのは、軍夫が自衛用の武器を取り上げられていたのも一因だったかもしれない。ところで軍夫自身も捕虜殺害に関与していたことが、以下の丸木の日記における、旅順近郊での師団長による「チャン公」捕虜試し切りの描写からもわかる。
2月27日同所残兵を捕え来り斬殺するにあたり、係の人より百人長にドウダ斬ってみんかといわれ、物は試しだやってみろと、まず最初斬り方を教えられ、それから縄付きを引きたり、ひとり後ろに縄を持つ、チャン公はハアヨハアヨと泣き居り、容易よきゆえ刀抜きはなせば、チャン公逃げかかる間に首切り落としたり、その時の百人長の顔色青ざめ、惣身ふるえ、ただ茫然ツー立ッたさま血刀さげたるふう、なんとなく驚いた様子、気しょくの悪そうなあんばい、そばに見て居た人が君どうしたといわれて心付く、その時われ思う二。こういう人が神経を起こす元ならん。
また軍夫丸木は「ドウダ斬ってみんか」という軽い言葉で始まった捕虜、もしくは市民の試し切りを見ていたが、南京戦では師団長ら捕虜を使って軍刀の試し斬りをさせ、37年12月13日の日記に「捕虜7名あり、直ちに試し斬りをなさしむ、時あたかも小生の刀もこの時彼をして試し斬りせしめ、頸二つを見事斬りたり」と書いている。
旅順と南京の共通性
旅順における一連の事件と、昭和12年(1937)に起こった南京虐殺事件との共通性に思いをはせる。南京虐殺事件は『世界戦争犯罪事典』によると、1937年12月13日の南京陥落前後約2ヶ月の間に起こった中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民服に着替えて安全区などに潜んでいた兵士)、一般住民に対する虐殺などの不法行為を指し、その実態や犠牲者数は、上は30万人から下はゼロまで、をめぐっていまだに激しい論争が日本の国内外で続いている。
『旅順と南京』
| 2013年05月14日(火) |
靖国参拝 米国も懸念 |
中国や韓国は外交日程中止
4月21〜23日の靖国神社春季例大祭を機に安倍政権の閣僚が相次ぎ参拝したことに、日本に侵略された諸国が反発し、東南アジアの緊張が高まっている。何が起こっているのか。
参拝したのは麻生太郎副総理ら4閣僚。安倍首相も真かきを奉納した。中国や韓国は、日本の指導者が靖国神社を参拝するのは、軍国主義の侵略の歴史を否定しようとする意図がある、などと厳しく批判した。韓国外相の訪日と日韓外相会談、日中韓財務省・中央銀行総裁会議など、一連の外交日程が中止された。ところが安倍首相は国会で「侵略の定義は学会的にも国際的にも定まっていない」と答弁し、過去の戦争を「植民地支配と侵略」だとした1995年の村山首相談話から大きく後退した。さらに「尊いご英霊に尊崇の念を評するのは当たり前。わが閣僚においては、どんな脅かしにも屈しない」と居直った。
日本の侵略を否定する一連の動きに、韓国国会は4月29日、「未来志向的な韓国関係と、北東アジアの平和に深刻な影響を与える」と非難する決議を採択した。この事態に米政権が、日本側に懸念を伝えたとの報道もあった。米国務省のベントレル副報道官代理は「米国は域内諸国が意見の相違を友好的に対話で解決するよう協力してほしい、と何度も言ってきた」と語った。
米主要紙も社説で、安倍首相を非難し、「日本は侵略を侵した。なぜこの事実を一部の日本人は認められないのか」(ワシントンポスト)「北朝鮮問題解決で協力すべき時に、日本が中韓のとの対話を激化させるのはとくに無謀」(ニューヨーク・タイムズ)「安倍氏の恥ずべき発言が、外国で友人を増やすことはない」(ウォール・ストリート・ジャーナル)と掲載した。
侵略を美化する特殊な神社
日本共産党の志位委員長は、4月22日の記者会見で靖国神社への安倍首相の真かき奉納や閣僚の参拝について「侵略戦争を美化する立場に身を置くことであって、絶対に許されない」と指摘した。「靖国神社は過去の軍国主義による侵略戦争が自存自衛の戦いだった」「アジア解放の戦争だった」と丸ごと美化することを存在理由とし、その宣伝をいまでもしている特殊な神社だ」と強調した。
靖国神社とは
軍事官庁が管理 東京九段の靖国神社は、1869年(明治2年)明治維新期の内戦、戊辰戦争の戦死者を祀る東京招魂社(しょうこんしゃ)としてつくられ、1879年に靖国神社に改称した。最初から陸・海軍省など軍事官庁が管理する、戦争のための施設だった。
戦争に国民動員
靖国神社は1930年代以降、「天皇のために名誉の戦死をした人を、護国の英霊(神)として祀る施設となり、国民を戦争に動員する役割を担った。246万余の英霊が祀られている。
A級戦犯を合祀(ごうし)
1978年には、東京裁判で戦争を起こした罪を問われた東条英機元首相らA級戦犯14人を昭和殉難者(戦争の犠牲者)として合祀した。日本には戦争犯罪はなく、戦争犯罪人は連合国が推し付けた濡れ衣だ、というのである。そこへの参拝は、日本による戦争犯罪の否定を意味することになる。靖国神社には遊就館(ゆうしゅうかん)という展示館があり、侵略戦争を美化している。同神社は日本の戦争を「正しい戦争」として宣伝するセンターの役割を果たしている。
『赤旗』5.5
| 2013年05月13日(月) |
ペルソナ 三島由紀夫伝 |
加古川の公会堂で行なわれた徴兵検査は、学習院の青年にとって間違いなく惨めな体験だったはずだ。徴兵検査は体重や身長、視力を測り、健康状態をチェックするだけではない。腕力を確かめた。走ったり跳んだりだけでなく、重量挙げである。船江不二男は僕を、かって加古川市公会堂だった場所へと案内してくれた。正面にステンドグラスが嵌められたキリスト教会のような小奇麗な四階建てで、昭和10年の建造物である。いまは市立図書館として衣替えされたが、建物の外観はほとんど変わりない。
建造物の脇に、幹が斜めに傾いた一本松がある。枝振りは昔のままだそうだ。この松の木の下に並んだ若者たちは順番に力比べをする。米俵を持ち上げるのである。米俵といっても入っているのは砂、重さは十貫(約40キロ)だった。若者たちは上着を脱いで「えいやッ」と掛け声をあげ、一気に米俵を頭上へ揚げた。船江もなんとか持ち上げた。学習院の青年の番が来た。上着を脱いだ。肋骨が浮き出た貧弱な胸、日光に体を晒したことがないのだろう。不健康な白さ。黒い胸毛が不釣り合いな印象を与えた。
米俵の前に立った青年に、百人の若者の無遠慮な視線が集中した。青年は細い腕で米俵を抱えようとした。米俵はびくともしない。顔は力みで紅潮している。しばらく米俵との格闘がつづいた。のち三島由紀夫は、この体験を『仮面の告白』で「農村青年たちが軽々と10回も持ち上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに、検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二乙種合格で…」と表現している。その日の光景を、船江不二男ははっきり覚えている。彼は「失笑」ではなく、本気で心配したので動向をずっと凝視していた。「胸までなんてものではなく、米俵はびくともしなかった。地面に接着剤がついているように、1センチも動かなかった」と断言する。
昭和20年2月3日、三島由紀夫は勤労動員先の群馬県太田市の軍需工場から渋谷区の自宅へ帰宅した。2,3泊の予定で久しぶりの一家団欒になるはずだった。翌晩、急に玄関のベルが鳴った。赤紙、召集令状の電報だった。電文には、本拠地で入隊せよ、と書かれていた。2月6日、風邪で高熱を出して寝ていた母親は、どてらを引きずり乱れ髪のまま涙顔で玄関で見送った。息子は後ろ髪を引かれる思いで東京駅へ向かった。徴兵検査に第二種乙種合格して以来、9カ月ぶりの本籍地への旅には父親が付き添っている。東京を発ったとき微熱だったのに、志方町へ着くとはげしい熱で立っていることもできないぐらいだった。徴兵検査で泊った長者の家で手厚い看護を受けたが、熱はいっこうに下がらなかった。いよいよ入隊検査の朝、解熱剤が少し効き目をあらわしたかのようでまずまずの体調と思われた。連隊は、志方町のある印南郡より北の加西郡にあった。一面、枯れたススキに覆われ荒涼とした高台の鉄条網のなかに粗末な木造の建物があった。
『仮面の告白』を引く。「入隊検査で獣のように丸裸にされてうろうろしているうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセルとまちがえ、あまつさえこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の抗熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。営門をあとにすると私は駈け出した。荒涼とした冬の坂が村の方へ降りていた」
軍医が「この中で肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言うと三島はサッと手を挙げた。帰郷して学習院時代の親友の三谷信(父親は侍従長)にそう正直に語っている。一緒にいた父親は、この意外な結末、信じられないけれど密かに期待していた出来事について、『倅・三島由紀夫』でまったくの素顔で告白している。
「門を一歩踏み出るや倅の手を取るようにして一目散に駈け出しました。早いこと早いこと、実によく駈けました。どのくらいかは今は覚えておりませんが相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後から兵隊さんが追い駆けて来て『さっきのは間違いだった、取り消しだ、立派な合格お目出度う』とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったのです。逃げ足の早さはテレビの脱獄囚にもひけをとらなかったと思います。やっと小川の土橋のところで二人は丸太に腰をかけて小休止をとりました。ハアハアする自分の息に気がつきました。(略)汽車に乗るとやや落ち着きを取り戻し、段々と喜びがこみあげてきてどうにもなりませんでした」
徴兵検査で自覚した貧弱な体力はのちのボディビルへつながるだろうし、入隊検査の即日帰郷という結果は死への渇望として首をもたげる。そのあたりの結論をいまは急がない。確実に言えることは、三島が祖父平岡定太郎の故郷を訪れたのが、生涯で徴兵検査と入隊検査の2回だけであったこと、多感な年頃で自己の出自を、つまり自分がどこから来たのかどんな血脈に連なっているのか、知ったことだ。
『ペルソナ 三島由紀夫伝』 猪瀬直樹
認知症の定義
そもそも認知症とは、いったいどんな病気なのか。これは人によってさまざまな説明の方法があるだろうが、私なりの定義を記しておこう。
認知症とは、粗大なる記憶障害により、自分が行なった行為自体をすぐに忘れてしまったり、私は誰、ここはどこ、今はいつかという見当識を失い。自分の目の前の相手が誰だがわらなくなり、徘徊をはじめとする通常の一般的な社会生活を営めない状態になる、進行性の病気である。この粗大なる記憶障害というのは、単なる物忘れや置忘れとは根本的に違い、例えば、いま食べたことを忘れてしまったり、5分前に入浴したことを忘れるという、普通の人間なら決して起こることのない記憶障害である。「粗大なる」ということは、「大きな」に変えてもいいし、「まさかと思われる」にしてもいい。つまり、粗大なる記憶障害というのは、通常信じられない記憶障害のことだ。
また見当識というのは、覚えようとしなくても理解している記憶のことで、たとえば、普通の人間であれば、今が朝か夜か、季節は春か秋か、目の前にいる人が家族かそうでないかなど、いちいち確認しなくても理解できる。そうした記憶のことを見当識というのだが、これを失ってしまうのが認知症である。
なぜ公務員はボケ、政治家はボケないのか
多くの人が老年期に入る。しかし、そうした中からやがてボケる人と、亡くなるまでボケない人が出てくる。一方は家族に迷惑をかけ、もう一方は死ぬまでボケなかった。助かった。と感謝される。親として、子供に感謝されるのは、いかに財産を残したかででもなければ、子供を立派に育てたか、でもない。実に単純なこと、晩年にボケたか、ボケなかった、である。どんなに立派な父や母であっても、有り余るほどの財産を残そうともボケたままで10年も生きれば感謝されないし、財産がなくても死ぬ寸前まで元気で気がついたら亡くなっていたとしたら、「うちの親は立派だった」と称される時代である。晩年、人間がボケるかボケないかは、それまでの人生を丸ごと左右する大ごとなのである。
ボケる、ボケない、その差はいったいどこから出るのか。認知症の診察を続けながら、私はそんな素朴な疑問を研究し続けてきた。そして私はまず最初に、一つの結論に達した。ボケるかボケないかは、その人が長い間就いていた職業と関係があり、現役時代に抱いていた意欲が、老後まで持続しているかどうかで決まる。ということであった。
意欲は、前頭葉、側頭葉などの脳の各分野を刺激する。意欲はやる気を生み、やる気は行動を起こさせる。行動は人との積極的な接触を必要とし、それがまた新たな脳の活性化につながる。従って、そうしたことを日頃から訓練し、必要とする職業に就いていた人たちは老後も意欲をもちつづけ、それがボケを寄せ付けない。極論を言えば、若い時から意欲を持ち続け、それを活かす職業に就いている人は常に脳を上手に使っているから、歳をとってもボケないのだ。
その代表が政治家である。選挙の時のあのガンバリ、あれこそ欲のない人達には絶対真似できない芸当であり、当選したらしたで、いろいろな肩書を欲しがる名誉欲、利権に絡まねばいられない金銭欲、大臣になろうとする権力欲…自分たちの利益になることだったら、国民も騙しかねない強欲の持ち主でなければ、政治家にはなれない。良い悪いは別にして、この満々たる意欲。この意欲こそが彼らの脳内を常に刺激し続け、さらに全国を飛び回っているのだから、体力を維持しいつまでも元気であり、まさにボケている暇などないのだ。かって、田中角栄が晩年ボケたのは、失意と病気のせいで、他の政治家たちはたとえ引退しても隠然たる野望を抱いているから、基本的に政治家は最後までボケないといっていいだろう。
古い言い方で恐縮だが、公務員は親方日の丸という思想で競争意識もなく、生活も安定している。他の職業と比べて生活も安手している。だとすればそこには労働意欲もないわけだから、歳をとった時脳を駆使する必要もないままやがてボケるというわけだ。脳は使わないと衰える。脳の病気でもないのに、脳が委縮してボケるのは、足の骨や筋肉が衰え、足が人間を支えられなくなるのと同じことで、人格すら脳は守ろうとしてくれない状態なのだ。それに比べて、もういい加減にリタイアすればいいのに、70代になっても選挙カーに乗って、必死になって当選を訴えている政治家たち…。公務員がボケやすく、政治家はボケないという理由である。
ボケた人をどう介護したらいいか
実はボケた人の頭の中は、ものすごく不安感に苛まれていると思う。だから、そこで大声で怒鳴ると、さらに恐怖感が加わってひたすら引きこもるか、別の行動を起こす。つまり、ボケが一気に進行するわけである。こうした時に、自分が長く住んで遺体絵ならば柱のキズや台所の鍋釜、あるいは近所の人の顔から記憶を取り戻し「ああ、ここは私の家だ」と安堵し、あの怖い女性は自分の嫁だったとわかるのである。
それまでできていたことが、できなくなった
お年寄りのボケは、「なんだかおかしいな」と本人が漠然とした不安を感じることから始まる。この段階で本人が家族や配偶者に「なんか頭がモヤモヤして変だよ」と訴えればいいのだが、多くの場合、そうした不安を抱えたまま、誰にも告げない。そして「おかしい」と思いながら、日常生活の中で次第に生きる意欲を失い、やがて家族が気がついた時には、本格的なボケの状態に陥ってしまっているというケースが圧倒的だ。
たとえば、ある日、おじいちゃんがいつものように暖房をつけようとリモコンのスイッチを押したが、まったく機能しなかった。なぜなら、おじいちゃんが手にしていたのは、テレビのリモコンだったからだ。こんな時のおじいちゃんの頭の中を想像してほしい。〈とうとう俺は、エアコンもつけられなくなったか…〉そう思ったら、かなり落ち込んでしまう。その失望感は私たちが考える以上だと思ってあげてほしい。そうなれば、考えは悪いほう悪いほうへと向かっていくことはもうおわかりだろう。実は、ここがボケの入り口なのだ。家族や配偶者にとって、このおじいちゃんの気持ちに気がつくかどうか、ここが肝心だ。
「あれ、おじいちゃん、こんなに寒いのに、どうして暖房を入れない?」「これがエアコンのリモコンだよ。ここにおいておくからね」というように。家族や配偶者に本人の自信を取り戻させることができれば、たとえ、ボケの入り口に佇んでいようと、そのままの段階でいられるのだ。
手に負えなくなったら一人で背負わない
しかし、「ご飯、まだか」とか、「嫁が盗んだ」などという認知症は日常生活にそれほど支障がなければいいとしよう。ところが認知症の恐ろしさは、そこにとどまらない。「ひどい徘徊」「排泄物をこねる」「暴れる」「火の不始末」などといった日常生活に差し支えがあるところまで人によっては進行する。そんな時は、どうしたらいいのだろうか。私は、そうした介護を家庭でみるのは難しいと思う。清水由貴子さんのような悲劇が必ず待ち受けているからだ。
なぜなら、完全にボケてしまった人は、ボケる前の人とは別人格なのだ。それを昔のお母さんやお父さんだと思うから、介護は辛いのだ。ボケた母親を娘がみるのは美しい話だ、母親の方は、娘とわからないし、別の人格。その上、何もわからない。清水由貴子さんが追い詰められていったのは、母親だと信じて一人で頑張ったからだ。また、そういう風土が昔の日本にはあった。だが、その考えは改めよう。わからなくなった時から、もう、母ではないのだ。誰かの犠牲の上の介護には限界がある。だから社会が支えていかなければならない。そのために介護保険制度が誕生したのだが、まだまだうまく機能していない。
公共施設に入れたいが、どこも何万人待ちという状況だ。有料老人ホームには入れれば経済的に大変だ。できたら施設にもいれたくない。ではどうしたらいいか。すでにボケてしまった人は、仕方がない。問題は、私をはじめとした、これから10年後、20年後に確実に高齢者になっていく人たちである。病気になることもあるだろう。突然死ぬかもしれない。しかし、もし、生きている限り、私たちが全員ボケなければどうだろう。いまから10年後、20年後、誰もボケていない社会、それは決して不可能ではない。そして、それは何より意味がある。なぜなら、誰かがボケたことによって苦しむ家族が、どこにもいなくなるからである。
『絶対ボケない生活』
…貸与駆逐艦が英国に着いたころ、日本が真珠湾を襲う。米国の参戦が決まって「ヒトラーは終わる。日本は粉微塵にされる」とチャーチルの回顧録にある。その言葉通り日本は粉微塵にされ、仕上げにマッカーサーが送り込まれた。彼(マッカーサー)はその悪意と無能さで米国の菅直人だった。彼(マッカーサー)はまず日本を「残忍な侵略国家」に仕立て、その証拠として「残忍な指導者」とそれを実行した「残忍な将兵」を処刑した。彼を敗軍の将にした本間雅晴もこの機に乗じて辱めたうえで処刑した。
「残忍な指導者」の方は昭和天皇の誕生日、昭和21年の4月29日に起訴された。日本人にはどうしても思いつかない悪意だ。そして2年後の12月23日に7人が処刑された。今上天皇の誕生日に当たる。日本人の慶賀の日はずっと無念に散った戦犯の命日と重なり続ける。マッカーサー憲法にも彼の悪意が滲む。ホイットニーは昭和21年2月に「今月22日に幣原に閣議決定させるから、一週間で新憲法をつくれ」とシロタ・ゴードンら民政局職員に命じた。
2月22日は日本の代名詞にもなる桜の木を切ったワシントンの誕生日だ。新憲法は日本を根っこから切り倒した証と言う意味だろう。そして幣原はまさにその日、新憲法を受け入れる閣議決定をしている。彼(マッカーサー)の因縁遊びは続く。憲法はその年の11月3日に公布された。ロシアを倒し白人の世界支配を潰した強い日本の象徴、明治天皇の誕生日に当たる。
その日に日本が丸裸になりますという滅びの憲法を公布する。マッカーサーはこの思いつきにさぞ悦に行ったことだろう。しかし日本人はこの日を「文化の日」と呼び、半年後の施行日を「憲法記念日」とした。彼の悪意は分かり難くなった。「では5月3日を汚そう」と彼(マッカーサー)は考えたかもしれないが、そのうち朝鮮戦争が始まって彼)マッカーサーはクビ。思いを残したまま帰国した。
無念はマッカーサー憲法を押し頂く朝日新聞にしても同じだった。そして何年目かの憲法記念日の当日、朝日の阪神支局が右翼を名乗る男に襲われ、2人が殺傷された。護憲の朝日を、その記念日に襲う。自作自演かと思えるぐらいツボにはまった事件だった。以来、朝日はこの日が来るたびに日本人の至らなさを罵り、9条を守れと命じ、支那朝鮮のいう平和日本を実現しろと叫んできた。今年も同じだろう。そして犯人は捕まらないまま時効が成立する。そういえば「右翼だけに限らない」と意味深な捜査方針を語った警察庁長官はすぐさま狙撃された。不思議な事件だった。
『週刊新潮』高山正之 5.9
人は死を恐れる。これは論理ではなく直感である。論理的に、これはこうこうだから死が怖いのではない。無条件に怖いのである。これまた不思議なことだ。人はなぜ死を恐れるのだろうか?死後のことが未知だからか?それとも、そこに暗黒の暗闇が待っていると魂が感じているからか?この疑問は最初の問いの答えと密接な関係があると思われる。死後のことが明らかになれば、死の恐怖はなくなるのだろうか?
ここで、死後のことは現代科学で証明済みだ。死とともに自己の存在も終焉する。と主張する人もいるかもしれない。果たしてこれは正しい認識だろうか。現代科学は、宇宙のすべての現象を物質とエネルギーで説明する。この観点から見ると、確かに人間の精神活動も、結局は脳内などの肉体内の物理化現象に還元されるはずなので、肉体の死がもたらす「無」である。自己の存在は受精とともに開始し、死をもって終了する。
しかしここには一つの見落としがある。現代科学が扱ってきたのは物質やエネルギーだけであり、その範囲にとどまる限り科学はほぼすべての現象を説明することに成功した。しかし、ここで問題なのは人間の精神活動は、果たして物質やエネルギーの範囲内のものだろうか、ということだ。このことが明白に証明されない限り、肉体の死がもたらすものは無であると結論づけるわけにはいかない。
近年、脳の機能について探求が進んでいる。人間の種々の精神活動が脳のどの部位で起こるのか、いろいろ調べられてきた。ところが脳をいくら研究しても肝心な「意識の座」が、脳のどこに存在するのか特定できないという(立花隆『臨死体験』)。そこに全体を統括する、物質ではない何らかの実態を、想定する必要があるということではないだろうか。死後の有無についての長年の議論に終止符を打つには、死後について知る必要がある。果たして死後の有無を探る手段はあるのだろうか。宇宙の神秘を解明する望遠鏡に相当するものは、つまり死後を解明する画期的な手法はあるのだろうか。実はこれまでにいくつかの手段が試されてきている。
臨死体験
一つは臨死体験者の体験談から死後を推測することである。立花隆氏の『臨死体験』はいままでの数々の研究結果を総括しているが、結局のところ、臨死体験といえども脳内現象ではないのか?という疑念を払拭できないでいる。つまり、これで本当に死後のことが分かるのか、という根本的なところで足踏みを強いられているのだ。さらに、臨死体験が脳内現象でないとしても、臨死体験者の体験はせいぜい死後の世界の入り口までの体験であり、死後の世界の全容はこれではわからない。これは敵国の情勢を知るのに、国境沿いの地帯だけを調べているようなものだ。
また、本当に死んでしまった人と、生還した人で体験に本質的な違いがある可能性がある。次の例えで説明したい。あるところに花の咲き乱れる草原があって、そこにはライオンが潜んでいるという。何人もの人がそこに迷い込んでしまい、帰って来なかった。ただ、ごくわずかだけ帰ってきた人がいた。その一人は言う。「お花畑のように綺麗なところだった。太陽が明るく輝いてポカポカと暖かだった。ライオンなんていなかったし、あそこはとても素晴らしいところだ」帰って来なかった人は皆ライオンに食われてしまったのだか、私たちはその人たちの話を聞くことはできない。
退行睡眠
臨死体験以外にも、死後について解明するための、いくつかの手段が試みられている。例えば、退行催眠という方法がある。これは被験者を催眠状態に誘導した後、子供の時期、乳児期と時間を遡らせる。さらに母親の胎内にいたとき、生まれる前の時期と過去に戻り、その時の記憶をよみがえらせる。この方法を使うと前世や、さらにその前のいくつもの過去世を思い出すことが可能であると言われている。
この方法により、生と生の間の体験、つまり死後の体験について、驚くべき情報が得られてきている。例えばJ・L・ホイットン著『輪廻転生』にはいくつもの事例が紹介されている。ただ、退行催眠を行なえばだれでも過去世まで行かれるのかというと、そうではない。『前世療法』の著書ブライアン・ワイスによれば被験者の3ないし5%という極めて稀なケースであるという。
体外離脱
体外離脱能力者(意図的に体外離脱できると主張する人)が死後の世界を探求し、報告するというのも一つの手段である。体外離脱とはその人の実体が肉体を離れ、体から離れた場所の様子を見たり把握したりする現象をいう。幽体離脱とも呼ばれる、肉体とは独立して存在する自己の存在を知る体験である。私は1990年ごろ繁雑に体験した。抜け出た実体は、通常は現実世界内の別の場所に行くが、非物質界、とくに死後の世界へ行くことができると主張する人もいる。
たとえば、ロバート、モンローは1000回以上に及ぶ体外離脱体験で得た知見を、その三部作に著しているが、そこには死後の世界についての詳細が明らかにされている。ただ問題は、ここに語られていることがどこまで本当かどうか、証明不可能だという点である。あくまでも、モンローの個人的体験を綴ったものであるからだ。この問題は、退行催眠で得られる情報や臨死体験にも当てはまる。内容の政党制の証明は難しいか、不可能なのだ。ただこういった多くの報告に、特定の共通パターンが認められればそこに何らかの実体の存在を推測することは可能である。
死後の世界があるとして、モンロー研の手法でその世界を探索し、明らかにされる情報は科学的に見て説得力があるのだろうか。何らかの形で科学的に検証可能だろうか。私は答えはノーだと思う。従来の科学的な手法を用いて証明することは不可能だと思う。ただし、これはちょうど「夢」を見るのに似ているのだと思う。
もし世の中で、夢を見るのがあなた一人だったとしたら、あなたは夢を見たという体験を他の人に証明できるだろうか。客観的な事実として証明できるだろうか?おそらく不可能だろう。夢を見るという現象にるついて誰もその存在を疑わないのは、ほとんどの人が夢を見たことがあるからだ。科学的に証明されたからではない。同じように、死後の世界を見るという体験は、科学的に証明するのは不可能だろう。まして、その体験内容を証明するのは難しい。だた、多くの人がその体験を持ち、その体験を確信すれば、証明は不要となるだろう。また体験内容に共通要素が見いだされれば、そこに何らかの実在を確信することはできるだろう。
『死後体験』
熱心な護憲派ほど、時に極端な米国追随主義者に思える。彼らがいかに共産党のポスターのように「アメリカ いいなり もうやめよう」と主張しようとも、米国製の憲法を後生大事に押し頂いている姿を見ると説得力は薄れてしまう。安倍首相が「現行憲法は、連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も、まったくの素人の人達が、たった8日間で作り上げた代物だ」と指摘する通り、憲法が事実上、占領中にGHQに押しつけられたものであるのは今では、多くの人が知っている。
押し付け論はタブー
ところが、戦後長く憲法が米国主導でつくられたことに言及するのはタブーとされ、押し付け論を口にすると、右翼だ反動だと袋叩きに遭った。本当のことを言ってはならないという、閉ざされた言語空間が日本全体を覆っていたのだ。その原因はGHQによる巧みなマインドコントロールである。
GHQは占領下の日本で、中国に対する批判、戦争犯罪人の正当化及び擁護、占領軍兵士と日本女性との交渉、など30項目の検閲指針を設け、厳しい言論統制を実施した。その項目の一つが、連合国最高司令官・司令部(SCAP)が憲法を起草したことに対する批判だ。その結果、日本の新憲法起草にあたってSCAPが果たした役割について一切の言及も禁じられた。
GhQの言論統制
GHQは同時に、出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行なわれていることに関する一切の言及も不許可としたため、国民は検閲が実施されていることもろくに知らないまま、憲法は日本人がつくったと信じ込まされたのである。米紙・ニューズウィークの外信部長だったハリー・カーン氏は同誌の1947年6月23日号でこう予言していた。「新憲法は今は『押しつけられた』という言い方をされているが、そのうち必ず尊重を受ける」
安倍首相も自分の著書にこう書いている「アメリカは、自らと連合国側の国益を守るために、代表して日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦することのないよう、強い意志をもって憲法草案の作成にあたらせた」ところが、ここまで好き勝手にされても、いまだに「押し付けではない」と言い張る護憲派が政界には少なくない。時代や国際環境の変化に目もくれない彼らには、どれだけ米国製品が好きなのだろうかと、感心させられる。
ちなみに、4月25日に発足した憲法96条改正に反対する超党派議員連盟「立憲フォーラム」の役員名簿には、次のような豪華なメンバーの名前が連なっていた。菅直人元首相、江田五月元参議院議長、岡崎トミ子元国家公安委員長、辻本清美元国土交通副大臣…。さぞかし、米国の教えを真面目に守ってきた親米派ばかりなのだろうと推察する。
『産経新聞』5.2
7月の参院選は、すでに自民党が圧勝の気配。で、早くも注目されるのはその後の成り行きだ。憲法改正はどうなるのか。維新の会の共同代表を務める橋下徹・大阪市長はいかに身を処すか。公明党は連立に残留するや否や。
自民46%、日本維新の会10%、民主党6%―。勝負の結果は下駄を履くまでわからない。とはいうものの、朝日新聞が4月13,14日の両日に実施した世論調査「参院選での比例区投票先」の結果を見れば、自民党の底堅さは一目瞭然だ。政治ジャーナリストの山村氏によれば、「7月の参院選で改選となるのは121議席。自民党は60台にはのると見られます。公明党も10は維持できるはず。これに両党の非改選議席を加えると128超。つまり与党が過半数に達する結果になるのです」
投開票日を前にして内閣を揺るがすほどの醜聞の類が噴出、といったことさえなければ、自民党の大勝はほぼ確実と見える。それこそは、安倍総理の悲願たる「衆参のネジレ解消」に他ならない。その何よりの果実は法案の成立がスムーズになることだが、総理はネジレ解消の先に別なる野望の実現を企画しているのだという。自民党の関係者が言うには、「世論調査の数字にますます意を強くした総理は、先の総選挙では強調しなかった”あの公約”を、争点に掲げることを決意しました。それは憲法改正の手続きを定めた96条の改正です」
周知の通り、日本国憲法は制定から60年以上、一度も改正されたことはないが、日本大学法学部の百地教授の解説によると「憲法改正には、衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要です。そのことを規定したのが96条。96条に則り、もし両院で3分の2以上の賛成により憲法改正の発議案が可決された場合、60〜180日以内に国民投票が実施され、賛成が有効投票数の過半数となれば、改正された条文がいよいよ交付、施行されることになります」安倍総理は、この96条そのものを改正し「衆参両院でそれぞれ2分の1以上」と、発議の要件を下げることを目論んでいるのだ。衆院では与党が圧倒的多数を占める。が、大勝してもなお、参院では与党のみで現状の96条をクリアする「3分の2」を確保するのは困難である。しかし、「参院でも、賛成が3分の2に届くでしょう」とは政治部記者の見立てだ。
「なぜなら維新の会も、みんなの党も96条には賛成の立場だからです。参院選の獲得議席は維新20、みんな10と予想されている。非改選を含めると両党で41議席。これに自公を合わせると、3分の2を超す計算になるのです」96条が改められ、憲法改正の発議に必要な両院の議員数が「2分の1以上」となれば、不磨の大典に「手を入れる」までの高かったハードルが一気に下がることになる。ただ、これはあくまで第1段階にすぎない。「総理の真の狙いは96条改正ではない。9条の改正こそが目的です。9条が変われば、集団的自衛権の行使に道が開けます」と先の記者。
「ですが、たとえ内閣支持率が高くても、9条の問題に今すぐ着手する必要があると考えている国民は多くない。総理は当面、国会の解散は念頭になく、となると衆参ともに3年先まで選挙はありません。だから今後時間をかけて国民の理解を得ようと考えているはずです」さらに先の山村氏はこんな分析も披露する。「自民党総裁の任期は、1期3年で2期までと規定されている。当然、安倍さんも2期を全うしたい考えです。そこで1期目で96条改正のメドをを付け、2期目で9条改正というスケジュールを描いているでしょう。ただ、96条はともかく、9条の改正には相当強く反対する勢力がある。今のような高い支持率を長く保てるかどうかがキモですね」その道のりは決して平坦ではなさそうだが、さて、9条改正で一体、何が変わるというのか。
党分裂の火種
昨年4月、自民党が作成した憲法改正草案にそのヒントはある。「9条の2」項を新設し、国防軍を設けると明記されているのだ。その要諦を、中西京都大学名誉教授が説いてくれる。「尖閣の”領土問題”がなくなることが考えられるでしょう。領海侵犯を繰り返す中国の海洋監視船に対し今、日本ができることは限定的です。海上保安庁の巡視船が併走し、無線で”日本の領海がら出て行け”と警告するぐらいのもの。9条の改正により、ミサイルなどを装備した海上国防軍の艦船が中国に警告したり、接舷(せつげん)して領海の外に押し出したりすることが可能になる。であれば、中国船もむやみに領海侵犯してこなくなると予想されます」
自民党と同様、96条改正を公約に掲げている維新の会。だが、共同代表を務める橋下徹・大阪市長の足元は、「志」を同じくする安倍総理ほどには盤石ではない。時事通信の世論調査では、政党支持率も最高の4.6%から1.5%に急落。すでに報じられているように首長選、市議選で4連敗を喫するなど、一時の勢いはもはや見る影もない。「だからこそ橋本さんが、参院3出馬に踏み切る、というより追い込まれる可能性が払拭できないのです。無論、参院選に出馬すれば、大阪市民から”裏切り者”と罵られるのは火を見るより明らかですが…」と語るのは現地の政界関係者である。
「7月の参院選を橋本さんが見送ったとすると、次は3年先まで国政選挙がない。その間、大阪市長のままであるなら維新での求心力は低下するばかりです。国会議員団に主導権を握られ、口出しを封じられることになりますからね」だが、橋下氏が国政に転じても茨の道が待つばかり。まず問題は、橋下氏が頼みにする石原慎太郎氏の評価が党内で著しく低下していることだという。維新関係者によれば、「石原さんは、安倍総理との党首討論で公明党を”自民党の足手まとい”と批判しました。これに旧維新の会の議員が憤激しています。大阪市議会で公明党は19人の議員を抱える第2政党で事実上の与党。彼らがつむじを曲げて野党に転じると、市政運営上、市議たちも困る。それに昨年末の総選挙では多くの国会議員が、創価学会の世話になって当選しているのですから」
さらに旧太陽系の議員らが一様に石原氏を信奉しているわけではないことも、橋下氏にとっては頭痛の種。「旧太陽内で”石原さんには神通力がなくなった”と揶揄する声は少なくない。先の総選挙で、維新は石原氏の知名度を頼りに東京の選挙区では2〜3議席、比例ブロックで5議席は堅い、と読んでいた。それがフタを開けてみれば、比例で3人しか当選できなかった。石原さんはもはや張り子の虎だという、醒めた見方さえあるくらいです」(同)
石原氏という後ろ盾がこんなことでは、橋下氏が晴れて議員バッジをつけたとしても、維新の会を切り盛りしていくのは容易ではない。「橋下さんが旧維新の会のメンバーと旧太陽の党、とくに平沼さんたちの間の溝は深い。そもそも、いま最も重要な経済政策からして理念が違っている」と、先の政治部記者。「旧維新の会は構造改革を主張し、新自由主義的な経済政策を唱えていました。他方、旧太陽の党は、例えば平沼さんがかって郵政民営化に反対したように、”規制緩和は何でもよし”とはしない、概して保守的なスタンスです。選挙のために目を瞑っていた、こうした路線対立がいよいよ顕在化する恐れがあります」
言い訳の歴史
自民党の連立パートナー、公明党。彼らとて、維新の“足並み不一致”を高みの見物、というわけにはいかないようだ。平和と人道、連帯を標榜する同党にとって、9条改正を見据えた96条の改正は到底、呑めるはずもない。つまり、自民党にとっては目の上のタンコブになりかねず、自民党を補完する別の勢力が現れれば、参院選の選挙結果次第では連立から追い出されかねない状況なのである。そのことは、山口那津男代表が口にした、苦し紛れの次の発言が象徴している。「連立の目的以外のことで、自民党と意見の食い違いがあったとしても、国民の期待に忠実に応えていきたい」自民党とは「大抵のことでは別れない」と言わんばかりなのである。が、実は、96条改正については公明党も、党内が二分している状態だという。
公明党担当記者によれば、「山口さんは改正に慎重なグループの代表格です。が、改憲容認派も、決して少なくありません。とくに漆原さんは先鋭的で、”山口代表は言い過ぎだ。与党に残るために、どうせ改憲を容認する。だからっもっと上手く言わないと軌道修正が難しくなるよ”と怒ってこぼしていたほどです」事実、公明党はそのあけすけな弁の通りに振る舞うことになりそうだという。「公明党は、間違いなく与党に残りますよ」こう断言するのは、福本・元公明党参院議員だ。
「改憲にアレルギーが強い、支持母体の創価学会員から異論が出ようと、“連立を組むことで我々が暴走を防ぐブレーキになるのです”という弁明をするはず。公明党はこれまでも、与党残留のために主義主張をかなぐり捨ててきた“言い訳の歴史”がある。たとえば1992年、カンボジアへの自衛隊のPKO派遣問題が審議された際には、当時の市川書記長がPKO協力法案の作成に加わり、会員から猛烈な抗議が殺到しました。が、”世界平和を守るためには、新しい形の国際貢献が必要だ”などと、もっともらしい理屈を捻りだしています」長期政権を夢見る安倍総理。内部分裂にフタをしたまま政権入りを目指す維新の会。そして与党にしがみつこうとする公明党。すなわち、憲法改正を巡る権力ゲーム。参院選が自民党の圧勝で終わっても、醜き「永田町劇場」は終わりそうにない。
『週刊新潮』5.2
現代日本人の成り立ちはこうだ
日本人の成り立ちを改めて考えてみると、現代日本人の直系の祖先は、約1万8000年前の港川人や、その他の旧石器時代人まで遡ることができる。この時代、北と南の両方から日本列島に人が入ってきたが、北方系の人達は気候その他の生活環境の変化のため姿を消し、主として南方系の人達が、縄文人として日本全土に定着した。
約1万年前にヴェルム氷期が終わると、日本列島はアジア大陸から切り離されて島となった。そのために日本は鎖国状態となり、その中で縄文文化という独自の文化が育っていった。縄文文化が、新石器時代文化としては世界的に珍しいものとなったのも、多文化との交流がほとんどなかったためである。
ヴェルム氷期が去った後も、地球の気候は寒暖を繰り返し、約3500年前、地球の気温は再び急激に下がり始める。このために北アジアに住んでいた人たちが南下を始め、朝鮮半島を経て、約2300年前に日本にたどり着いた。彼らは縄文文化とは異なる異質の文化を持ち込み、日本は弥生時代という新しい時代を迎えることになる。
渡来人の多くは土着の縄文人の子孫と混血し、北九州・中国地方を経て近畿地方に達し、この地で政治的権力を握り始めた。南方系の採集狩猟民族であった縄文人と違って、北方系アジア人は強力な軍事力・政治力を用いなければ厳しい環境の下で生きていけなかったのである。
渡来者はその後も増え続け、やがて北方的な古墳文化をもたらし、さらには多くの内乱を繰り返した末、5世紀に強大な権力をもつ大和朝廷を築いた。大和朝廷はその地盤固めのために、多くの渡来人を招き7世紀ごろまでに王権を確立した。
その後、朝廷には向かう北の蝦夷(えみし)や南の熊襲・隼人は縄文人の子孫であっただろうが、やがては朝廷に屈し、北方系の人達と混血・同化していく。最後まで朝廷に同化されなかった人たちが、アイヌと沖縄人であり、縄文人の直系の子孫である。
『日本人の起源』
| 2013年05月02日(木) |
イスラム世界を敵に回した猪瀬知事 |
イスラム世界を敵に回した浅はか都知事の救い難い無知
謝罪で幕引きは甘すぎる
五輪誘致の他都市批判問題で、「真意が正しく伝わっていない」と言い逃れしていた猪瀬直樹都知事(66)が一転、「不適切な発言があった」と謝罪した。まあ、さっさと幕引きを図りたいのだろうが、「これにて一件落着」とはいかない。何のためのニューヨーク出張だったのか、わからない。猪瀬知事は先月4月14日から5泊4日で夫人同伴の上、秘書ら12人を引き連れ、自分だけファーストクラスに乗ってニューヨークに視察旅行へ。ちなみに、正規運賃なら片道で100万円以上する。
五輪誘致の協力要請も目的の一つだったが、その合間に受けたニューヨークタイムズのインタビューで問題発言だ。「イスラム教徒の国々が共通しているのはアラーだけで、互いに争い続けていて、階級がある」その結果、招致は大きく遠のいた。「発言には驚いた。IOC委員がどう受け取るか心配だ」と、関係者は危機感を募らせている。
これでは、都民の血税をドブに捨てたようなもの。それなのに都は「出張にいくらかかったか?いろいろ支払いもあるので、はっきり示せるまで2カ月かかります」(外務部外務課)民間企業なら始末書もののチンタラ仕事だ。
日本のイスラム教の国体、日本ムスリム協会の担当者も「イスラム教徒は、シンガポールやマレーシアなどの観光地にも多くいます。猪瀬知事は実態を良く知らないのでしょう」と呆れ気味だ。百歩譲って日本国内はまだいいとしても、猪瀬の不適切発言が載ったのは米紙、それもニューヨークタイムズだ。世界中のイスラム教徒の目に触れる可能性がある。
「神経を逆なですることは間違いありません」と指摘するのは、静岡県立大学国際関係学部准教授の宮田氏(現代イスラム地域研究)だ。「確かにイラクやシリアなどの紛争地はありますが、例外的な事象だけを取り上げて〈互いに争い続けている〉という意味がわからない。ひどい誤解です。イスラム世界で“神の下の平等”は常識。〈階級がある〉発言も認識不足というか、無知としか言いようがない。イスラム諸国を侮辱していると受け取られても仕方がないでしょう。浅はかな猪瀬知事の発言で、イスラム世界の親日感情を台無しにしてしまう危険性がある。怖い話ですよ」
”親分”の石原慎太郎前知事は、中韓の神経を逆なでし、今度は子分がイスラム教徒を。どうしようもない師弟コンビだ。
『ゲンダイネット』5.1
| 2013年05月01日(水) |
主権回復の日 強い国づくりを目指したい |
サンフランシスコ講和条約発効から61年を迎え、初の政府主催による「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が、天皇・皇后両陛下をお招きして開かれた。安倍晋三首相は「今日を一つの大切な節目とし、これまで辿った足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」と述べた。沖縄の本土復帰が遅れたことにも言及し、「沖縄が経てきた苦痛に、深く思いを寄せる努力をすべきだ」と呼びかけた。
国際社会の平和と安定に貢献したいという意欲がうかがわれた。安倍政権はそのために、いっそう強い国づくりを目指してほしい。
4月28日は、敗戦国日本が被占領体制から脱し、国家主権を取り戻した日である。国家主権は、自国の意思で国民や領土を統治するという、国家が持つ絶対的な権利を意味する国民主権とともに重要な権利だが、戦後、日本国憲法の下で軽視されがちだった。最近、中国が尖閣諸島奪取を狙い、周辺で領海侵犯をくり返している。また、中国艦は海上自衛隊の護衛艦にレーダー照射を加えてきた。日本の国家主権を脅かす深刻な事態である。
本紙は「国民の憲法」要綱で、国家主権を明記した。政府も国民も国家主権の大切さを改めて考えてみる必要がある。式典に沖縄県の仲井真知事は、欠席し、高良副知事が代理出席した。沖縄では、野党系議員らがこの日を「屈辱の日」とし、式典に抗議する集会を開いた。
『産経新聞』4.29
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