加藤のメモ的日記
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2011年04月29日(金) ユダヤ人(28)

紀元70年、イスラエルがローマ帝国によって滅ぼされ、そこにいたユダヤ人たちは全世界に散らされていった。ユダヤ人の中には、スペイン以外の地に定着した人々もいる。とくにそのユダヤ国家の崩壊の中、自分たちがユダヤの根幹を守らなければならないと考えた者たちがいた。それが当時のパリサイ人や法律学者、すなわちユダヤの指導者たちであった。

彼らはエルサレムを後にしてまずエジプトのアレキサンドリアに行き、そこに『ユダヤ地下政府』ともいうべきものをつくった。そしてアレキサンドリアから小アジア、さらにイラクのバグダッドへと移動していった。タルムードが編さんされたのはこのころである。その後、ユダヤ地下政府はヨーロッパに潜入した。彼らはタルムード思想ばかりかかバラ思想などを身につけ、ユダヤ帝国とユダヤ王存続を夢見続けた。このユダヤ地下政府の流れから、今日ちょうど海に浮く島のように顔を出しているのがロスチャイルドである。ロスチャイルドとネットワークのあるユダヤ地下政府がある」

ベニスが栄えた頃は、まだ地中海貿易が盛んなころであった。ベニスではあたかも治外法権であるかのように、これらオリジナルなユダヤ人たちは自由に貿易に携わることができが。やがて時代が下って、オランダが無敵艦隊を持つようになる、大航海の時代が到来した。

その時オリジナルなユダヤ人たちのコミュニティーの中心はオランダに移った。オランダがイギリスに敗れることによって、さらにその中心はイギリスへと移った。イギリスは世界の七つの海を支配した帝国である。このイギリスの経済、王室の財務などをこれらのオリジナルなユダヤ人たちが担当することになっていったのである。オリジナルなユダヤ人とは、ユダヤの根幹を守らなければならないと考えた、新約聖書が言っている本当のユダヤ人の流れをくむ人々である。ロスチャイルドはイギリスから出たのではなくドイツのフランクフルトから出発した。その支店はロンドン、パリ、ナポリ、そしてウィーンへと広がっていった。

やがてイギリスとアメリカの間に戦争が起きる。いわゆるアメリカ独立戦争である。アメリカが独立したといっても、アメリカだけで経済的に成り立つわけではない。アメリカが本当に独立したのは産業革命たけなわのころである。イギリスやヨーロッパから工業技術の他、多くの金融資本を導入しなければならなかった。当時イギリスに根を張っていたロスチャイルドは、自らの配下をアメリカに送った。またドイツのユダヤ人もアメリカに送り込まれていった。彼らユダヤ系の指導のもとに、後のアメリカの東部エスタブリッシュメントたちが育成されていく。ある者は製造業で成功し、ある者は石油業で成功し、ある者は金融業で成功していった。

紀元前587年、バビロン帝国がユダヤ王国を滅ぼし、多くのユダヤ人たちをバビロンに連れていった。これが本格的ディアスボラの始まりである。後にバビロンが滅びてペルシャの時代になり、彼らは解放されたが、ある者はそのバビロン地方に残り、ある者たちは祖国に帰った。ギリシャの時代、アレキサンダー大王がエジプトのアレキサンドリアを建設した時、そこにも多くのユダヤ人がいたことが当時の記録に残っている。ローマ帝国がユダヤ王国を支配下におき、ついに衝突が起きたのが紀元70年。そこ時ローマ軍はユダヤ人たちをローマ帝国内のあるゆる地域へ散らしてしまった。これが全世界的ディアスボラ(離散)の始まりとされている。


第一次世界大戦終結から始まったユダヤ地下政府のアメリカ侵攻

1717年、イギリスでフリーメイソンが形成された。フリーメイソンは自らは宗教団体ではなく、親善団体であると言っている。しかしキリスト教との立場からは、彼らは聖書にある神を崇めるのではなくサタン礼拝を行なっていると言われている。その真偽のほどは闇に包まれているが、いずれにしろ彼らは全世界を支配しなければならないという信念に燃えている。

毎日新聞は1992年6月12日、次のように報じている。全世界に600万人の会員を擁するとされる巨大な秘密結社『フリーメイソン』の会合が10日、初めてロンドンでマスコミに公開された。ここではフリーメイソンが有力な人々の集まりであり、600万人もの会員を有すると明言している。フリーメイソンの階級は、ブルーロッジといわれる3階級からスタートするが、4階級から33階級まで上がるにつれいっそう秘密主義が守られる。

大知事世界大戦は1914年から1918年まで戦われた。未曾有の死者が出た。軍人と民間人合わせて約2200万人といわれている。全人類がそれまで体験したことのない最大の戦争であった。この戦争は物的な意味での途方もない損失だけではなく、20世紀を揺り動かした政治的、革命的な事件としてさらに重要であった。

さらに戦争後に巻き起こった広範な改革は、なおそれから半世紀余りたった今日においても全世界を揺るがし続けている。その中の一つは1939年から戦われた第二次世界大戦である、それは第一次世界大戦の再開であり、終結ということもなるだろうか。その他にも、この第一次世界大戦の結果として世界権力の中心としてのヨーロッパが、誰の目にも明らかな勢いで衰退していくということである。よーろぱ帝国主義の終末である。そしてアメリカが超大国として出現した。このポイントが非常に重要である。なぜならばヨーロッパが衰退してアメリカが浮上してきたということは、ロスチャイルドやいわゆるユダヤ地下政府の活動範囲が、ヨーロッパ支配を終えてアメリカ支配に入っていったということになる。



『ユダヤと戦って世界が見えた』


2011年04月26日(火) 想定外の災害

今回の地震は想定外の災害だとか未曾有の出来事だというけれと、それは嘘です。同じようなことは過去にも起きている。一方、過去の災害から学ばなかったから大きな被害につながったというのも嘘で、みんな知ってはいても日々の生活の中にそのことを織り込むことができなかったんですね。

1896年には明治三陸大津波が、1933年には昭和の三陸大津波が起きている。そして今回が2011年ですから、100年に一度は大津波が来ることを想定しなければならなかった。さらにいえば、もっと長い歴史に学ぶことも必要です。福島原発の周辺は、海岸線から3〜4キロmのところまで津波が来たことがあるのを地層が物語っています。

実際、平安時代の貞観大津波級の津波が来れば、あの辺りはコテンパンにやられると、東電に働きかけていた人たちがいたのに、それをすべて無視していた。失敗はそんなふうにしてくり返されていくんです。津波は一般的には、波が押し寄せて水面が静かに上昇するだけだと考えられていたけれど、そんなものではなく非常に流れの速い水の塊が海から攻め込んでくる、と考えなければならない。

そういう正しい津波のモデルを知識として持ち、いざという時にどう逃げるかを仮想演習して、普段から避難訓練を重ねておくこと。ただしそれに盲目的に従うのではなく、最終的には自分の判断で行動すること、それで初めて自分の命を守れる、ということが『津波災害―減災社会を築く』岩波新書には書かれています。今回の震災でも、津波教育を徹底していた小学校などでは、多くの子供たちが逃げのびることができました。

原発の寿命は50年前後といわれている。‘54年に世界初の原子力発電所が旧ソ連で運転を始めた直後から、欧米諸国で競うように原発が作られるようになったため、すでに寿命が尽きたものも多く、各国で解体作業が次々と進められているのである。

廃炉はどのような手順で行われるのかというと、「運転を停止したら、まず、余熱を帯びた使用済み核燃料を1〜2ねんかけて冷却し、原子炉からとりだします。次に、機器や配管を除染し、放射性物質の量が充分に下がるまで待ちます。これに10年ぐらいかかる。その後、原子炉から遠い建屋や施設の解体を始め、少しずつ原子炉近くへと解体を進めていく。そして最後に原子炉圧力容器を切断するのです。これらの作業が完了し、原発のあった場所が更地になるまでの年月は、原子炉の規模や出力の大きさなどで変わってきますが、多くの場合20〜30年を要します。」原子力研究センターの森氏が語った。

実に長い時間がかかるのだ。しかしそれですべてが終わったことにはならない。そこに原発の恐ろしさがある、工学博士で、著書に『廃炉時代が始まった』がある舘野敦氏が指摘する。「最大の問題点は、放射性廃棄物が残ることです。使用済み核燃料は、原子炉から取り出した後も放射性物質を出し続けます。地中深くに、数万年という単位で埋めておかなければ安全なレベルにはならない。大きな地震に見舞われ埋設施設が損傷すれば、放射性物質が流れ出すことも考えられます。また、地下水によって保管容器が劣化し、放射性物質が漏れて、地中を汚染する危険性も否定できません」原発を造ってしまったことのツケは、遠く後世に回されるのだ。



『週刊現代』4/30

想定外とは、そこまで考えていませんでした。私がバカでした。ということである。


2011年04月23日(土) モーツアルトの手紙(27)

モーツアルトは、ウィーンではかなりの収入をあげていたし、勢い、結構大きな家に住んだり、贅沢な暮らしをしていたようです。馬も持っていました。当時は馬車に乗ったり、乗馬するというのは、王侯貴族の生活に属していたことでした。つまり、ステイタスシンボルとでもいうべきものでした。馬を持てば、その世話をする人もいるし、馬小屋だって必要になります。維持するのに大変なお金がかかりました。ということは、彼にはそんなことができるぐらいの財力があったのでしょう。

モーツアルトは6歳のころから旅また旅の生活をし、いつも馬車で旅行していたこと、そしてその馬車には当然のことながら馬が必要で、馬には慣れていたこと。しかし、馬車は自家用馬車であっても、馬は駅で乗り換えていくものでした。ところが、ウィーンに出てお金に余裕が出てくると、モーツアルトは貴族然として、馬を乗り回したくなったのでしょう。

作曲のレッスンという点では、モーツアルトは、英国人音楽家トーマス・ヤーコブに音楽理論を中心にかなりきめ細かい教えぶりで、英語でメモを残したりして、作曲家の先生としても、一流であったようです。しかし、弟子の養成という点では、映画『アマデウス』で、モーツアルトのライバルを演じたサリエリのほうがはるかに上であったような気がします。サリエリは、ベートーベン、フンメル、シューベルトといった音楽史に名が残る作曲家を世に60人も送り出しています。サリエリの場合、弟子のほうが先生より有名になってしまったわけですが…。

モーツアルトは6人の子供を持ち、二人は長生きしました。モーツアルトの死後、妻だったコンスタンツェは、ゲオルグ・ニッセンと再婚しました。モーツアルトの先生には、ヨハン・クリスティアン・バッハ、ヨーゼフ・ハイドンがいます。

H3年はモーツアルトの没後200年の年ということもあり、彼の死因について、数多くの仮説が登場し、新聞雑誌をにぎわせました。モーツアルトが世を去ってすぐに、ベルリンの週刊誌に早くも毒殺説が登場します。19世紀の20年代にはサリエリによる毒殺が云々され、19世紀末にはフリーメイソン結社が結社の奥義をもらされた復讐のため、モーツアルトを毒殺したとの説も登場します。



『レクイエム』が未完のまま、モーツアルトが世を去ったことは、広く知られています。モーツアルトの死後、この未完の『レクイエム』を補筆完成させる役割は、助手を務めていたジェスマイヤーの仕事でした。しかしそのジェスマイヤーの補筆が稚拙だということで、この200年間、なかなかかまびすしい論議が戦わされてきたのでした。この『レクイエム』をモーツアルトはどうしても完成させたかったといわれています。その証拠としてあげられるのは、次のモーツアルトの手紙です。

「敬愛する貴下
あなたのお申し出に、喜んで従いたいのですが、しかし、どうして私にそれができるでしょう。私の頭は混乱しています。お話しするのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。いつでも、私はその姿を見ています。彼は懇願し、せき立て、せっかちにも、私に作品を求めます。私も作曲を続けています。休んでいるよりも、作曲している時のほうが疲れないのです。それ以外、私には怖れるものとてないのです。私には最後の時が鳴っているように思われます。私は自分の才能を十二分に楽しむ前に終りにたどりついてしまいました。でも、人生はなんと美しかったことでしょう。生涯は幸福の前兆のもとに始まりました。でも、人は自分の運命を変えることはかないません。人はだれも自分で生涯を割りふることはできないのです。摂理の望むことが行われるのを甘受しなければなりません。筆を置きます。これは私の葬送の歌です。未完のままに残しておくわけにはいきません。                    ウィーン 1791年9月」

モーツアルトの最後の年の、そして最後の時期の心境を見事に伝えている手紙として、昔から大変有名でありましたが、その手紙は、現在では現在では大きな疑問符がつけられているのです。この手紙はイタリア語で書かれていますが、何かモーツアルトの従来の、イタリア語の手紙とは異なったスタイルを示しています。それに宛名も残されてはいないし、でき過ぎているのです。

『レクイエム』作曲中のモーツアルトの心境を、いわば余すところなく伝えてくれているといった性格を持っています。とりわけ最近の『レクイエム』の研究成果は、モーツアルトが白鳥の歌の作曲にとりかかったのは、おそらくは『魔笛』の作品と上演のあと、10月に入ってからとも推測されるからです。

確かに、モーツアルトの最後の時期のこうした物語は、後世の人間にとってまことに強い印象を与えてくれるものを持っています。事実と想像とが混然と一体になって、こうした手紙が生み出されたものなのでしょうか、いずれにしても、モーツアルトの最後の姿は、私たちの心をとらえて離しません。贋作が生み出される所以なのでしょう。



『モーツアルトちょっと耳寄りな話』


2011年04月21日(木) 「熊取6人衆」真の研究者たち

御用学者、御用記者、御用文化人と言った輩は、どんな分野にもいる。ただ、福島原発をめぐる彼ら、彼女らの言動は常軌を逸したものが多すぎる。「最悪を想定しても、外部に多量の放射能が出るとは考えられません」「住民の避難域?10�劼能淑�」「原発は多重の安全対策が施されています。一時的に放射性物質が飛散しても、住民はすぐに戻れるでしょう」

以上は、いずれは政府の原子力安全委員会などを務めた東大、阪大教授らが3月12日から15日にかけて発した言説だ。すべてはあとに覆されたが、事態が悪化すると今度は開き直る輩が現れた。政府系の研究所幹部を務めた学者はテレビの討論番組で「今回の事故はいい教訓です。これから安全性を高めればいい」と言い放ち原発CMで「安全性」を強調していた女性経済評論家はこうまくしたてている。

「そもそも放射性物質が、実際よりかなり怖いと思われていることに問題があるんですよ」「今回の原子力の問題、死者が出ましたか?津波の死者と比べて、報道のされ具合と死者数のバランスが悪いと思います」この愚劣な言動の裏にあるのは保身なのか、それとも単に恥知らずなだけなのか。私は数年前に見たドキュメンタリーを思い出す。‘08年の秋、大阪の毎日放送が取材・放映した「なぜ警告を続けるのか〜京大原子炉実験実験所、“異端”の研究者たち」と題した番組と、その後日談だ。

京大は、大阪府熊取町に研究用の原子炉を持つが、ここには一風変わった6人の研究者がいた。原子力を研究しつつ原発に懐疑的な立場をとり、その危険性を訴え続けたのだ。。彼らは「熊取6人衆」などと呼ばれ、閉鎖的な「原子力村」の中で異端視され、徹底して排斥された。

6人は、京大や阪大などを卒業したエリート研究者だったが、教授どころか准教授にもなれず、助教(助手)や講師のまま定年を迎えていった。今も残るのは今中哲二氏と小出裕章氏のみ。二人もやはり、助教のままだ。真夏でもエアコンを使わぬという質素な研究室。取材カメラを前に二人は訥々と語る。「原子力を選ぶか否かは、一人一人がどう生きるか、どんな地球をつくるかの問題で、それぞれに考えていただくしかない。ただ、私は科学者の立場から自分の責任を果たしたい」「原子力の専門家という立場から原子力に警告を発し続ける、そんな人間が必要なんです」

大勢に抗い、清貧に甘んじ、自らの信念を貫く彼らに真の知識人の姿を見たように思った。その警告を真摯に受け止めていれば、今回の惨事を防ぎ得たのではないか、との悔いも覚える。その番組は、反原発色が滲み出ていたが、過剰な演出を抑えた秀作ドキュメンタリーだった。ところが地元・関西電力は猛烈に噛みついた。日曜の深夜、それも大阪ローカルの放送なのに、同局の全番組から広告を引き上げ、「原発がいかに安全か」という講習を局幹部が受けるようねじ込んできたのだ。

馬鹿げた話だが、各地域の電力を独占供給する電力会社は意に沿わぬ学者やメディアを徹底的に締めあげ、一方で御用学者や御用メディアに甘い汁を吸わせてきた。私が知る記者は電力会社からPR記事への協力を依頼され、そのギャラに仰天したという。まともに記事を書いていれば、稼ぐのに数カ月は優にかかる額だったからだ。

信念を曲げてすり寄れば、甘い汁が待っている。いや、実は自らの信念すら持たず、ひたすら利得に群がる恥知らずが、この国には跋扈している。福島の事故は私たちが今後何年も、あるいは何十年も苦闘を続けねばならぬ大惨事だが、せめて利得の周辺で蠢く恥知らずの化けの皮だけは、これを機に剥いでおかねばならない。



『週刊現代』


2011年04月19日(火) 輸入リンゴ (26)

……ところが、食品の安全問題に取り組む市民グループ(日本子孫基金)が、アメリカから輸入されたリンゴ10個の残留農薬を独自に調べがた結果、日本の食品衛生法では収穫後の使用が禁じられているチアベンタゾール(防かび用殺菌剤)が、6個の果皮から検出されたと発表している。市民グループは1月10日、11日の両日、都内の大型小売店の店頭からアメリカ産のこのリンゴ10個を無作為に選んで買い入れ、横浜国立大学環境科学研究センターに依頼し、残留農薬を調べてもらったところ、レッドデリシャス4個と、ゴールデンデリシャス2個の皮に0.15ppm〜1.2ppmのTBZが含まれていることが判明した。

2月5日に朝日新聞が報じた内容では、ネズミなどの動物実験では催奇性が認められているTBZは、東京都と横浜市の両衛生局によるアメリカ産リンゴの店頭抜き取り検査でも、ゴールデンデリシャス各1個から、それぞれ0.1PPMと0.12PPMが検出されている。

リンゴに限らず輸入食品、特にコメなどは今後数年にわたって、より多くの輸入を年ごとに増量するよう強いられている。結果的にはコメの自由化、輸入・開放が目的とされたものである。消費者にとってリンゴにしろ、コメにしろ、その他すべての食品・果実類が安い値段で購入できるなら、これにすぐるものはないではないか、という意見がどうしても生じる。

農薬とワックスをスプレーしたリンゴは、8カ月以上の貯蔵が可能である。こうしたリンゴの中には催奇性、発ガン性の物質がたっぷり含まれている。当然ながら輸入のジュースも危険である。

アメリカ産のリンゴが上陸した3日後の12日付の毎日新聞には「輸入リンゴ拒絶派続々」の記事が載り、学校給食に際しての残留農薬の不安感が述べられている。リンゴ生産地の青森県をはじめ、大阪、神戸、京都、横浜、名古屋など各市の教育委員会が残留農薬の心配から「給食は国産品だけ」とし、大阪教育委員会は「輸入物は残留農薬が心配、安さより安全第一」としている

日本のリンゴにも、その他の果実、コメ、野菜にも、農薬や化学肥料は使用されている。しかし、輸入食品で最も怖いのは、船で輸送する際に施された防虫・防腐のためのポストハーベストである。輸入食品に頼る以上、こうした薬物の被害は避けられない。

人間の健康や生活を快適にする食品は、自分が住んでいる身近なところ、できれば同じ町村、県のものが最善で、少なくとも国産の食品をと、栄養学者や食品研究者は提言している。そして、農薬や化学肥料にまみれていないものが最上である、と。しかし日本のリンゴも農薬がかけられており、リンゴ農家の人は、日本のリンゴを食べる際は皮を厚くむいて食べるように話している。

まさに、今後の農業や食品の世界は”安いよりも安全”不自然でなく安全””病気から健康”への経路をたどりだれもが幸せになるには、食品が作られる過程、その流通システム、今後のあり方などを知っておく必要がある。



『いま地球が危ない』


2011年04月17日(日) 義援金は渡るのか

今、日本中に募金を呼びかける声があふれている。東日本大震災の被災者に対する義援金は史上最高になると予測されている。しかし「いったいあの金はどこに行くのか。本当に被災者に届くのか」という疑問を感じている向きは多いのではないだろうか。もちろん多くは善意のものだが、中には悪事をはたらく者もいる。

警察庁に寄せられた義援金詐欺の相談件数は3月29日の時点で158件にも上った。「相談は1日10件のペースで増えていて、被害届もすでに10件受理しています。『震災で不足している注射針を送るために金やプラチナを集めている』と、老女を騙して指輪2個を詐取したケースなど、さまざまな詐欺が横行しています。

募金詐欺が横行するには、こんな事情があった。「実は募金には法的な規制がほとんどありません、どこからも許可を取る必要はないし、領収書も発行する必要もない。収支報告を公表している団体もありますが、ほとんどはしていない。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせるのが実情です。証拠が残らない街頭募金はやりたい放題です。『NPO緊急支援グループ』を名乗る自称NPO団体では、アルバイト雑誌で集めたバイトを使って、‘4年の10月〜12月のたった3ヶ月で2500万円も集めました。だから募金詐欺はなくならないのです」

本誌も上野駅前で、ある団体を見つけた。中年の男女二人が「日本ボランティア会」を名乗る団体の募金だ。記者が使途を尋ねると「すでに被災地に100万円を届けました。明日は岩手県山田町に物資を届ける予定です。事前に役所と連絡を取っています」との返答だった。しかし岩手県と山田町の災害ボランティアセンターに確認したところ、そうした連絡は入っていないという。どういうことかと同会に問い合わせたところ、「担当者は明日から募金を渡しに被災地に入っています」と答えたが、その後、和田会長と名乗る人物が出てきて「山田町には東海のスタッフの実家があり、そこに物資を運びました。避難所に入っていません」などと二転三転、少なくとも山田町の被災者に募金が届いていないことは間違いない。

全額、被災者に届くのか?
歌手のGACKTが設立した団体の募金は、当初振込先に民間企業の口座を使ったことで疑惑をもたれた。「実はGACTOは、新潟県中越地震の時にもチャリティーを謳ったアクセサリーを販売して7000万円以上稼いだのに、寄付はたった200万円という”前歴がある”今回も約1億円の募金を集めたと聞いていますが、被災者のもとに全額届くのか不明です」(所属事務所関係者)この件に関して所属事務所から返答はない。

この他、県や市町村にこ直接振り込まれてくる義援金もある。震災地対応でほとんどの自治体では未集計だが、岩手県には10億7000万円(25日現在)、茨城県には3億8000万円、が寄せられている。義援金の行き先は大きく分けて三つある。1つは日赤などから被災者それぞれに現金で分配されるもの。2つ目は現地の復興支援活動団体へ寄付され、物資や活動経費として使われるもの。

3つ目は被災地の自治体に直接送って、被災地の復興に当てられるものだ。最も信頼性の高い募金団体として義援金の半分以上を集める日赤には、30日現在で約594億円がプールされており、今も1日10億円単位で増え続けている。募金のペースは阪神、淡路大震災の差の約24倍で、このままいけば単純計算で4000億円を突破する勢いだ。

義援金が届くのは当分先

しかし実はこの金が日赤から被災者のもとに届くのは当分先になるという。被災地が多数の県にまたがっているせいだ。義援金は、被災した都道府県が設置する「義援金分配委員会」が決定する被災状況に応じた配分基準に従って、被災者に届けられるのが通例だ。阪神・淡路大震災の時は、被災1週間後の1月25日に前身団体にあたる義援金募集委員会を兵庫県が設置した。しかし今回は被災地が複数県にわたり、被災状況もつかみきれないため、どこがいつどのように委員会を組織する目処も立たない状況だ。

「現在検討されているのは、配分委員会を、被災地全体、被災県、被災市町村の3段階で開いて義援金を配分する形です。これなら県や市町村に直接寄せられた分の義援金をその自治体で配分することができます」(茨城県保健福祉部)`04年に発生した新潟中越地震で義援金配分委員会長を務めた関西大学の河田教授が語る。「新潟県中越地震は10月23日に起きました。雪が降る前に配分したいと目標を立てました。義援金の配分というのは被災状況に応じて設定するので、被災者への罹災証明の発行が終わらないとできず、そのために時間がかかった。今回私が心配しているのは、福島原発の混乱のせいで罹災証明の発行が相当遅れるんじゃないか、ということです。本来罹災証明の発行は災害後一ヶ月で始まるものですが、今回は難しいかもしれない。第一次の配分は最速でも6月頃、現実的にはもっと後でしょう」

せっかくの義援金の配分が自治体の機能停止で遅れるのは何とも歯がゆい。これに対し、寄付金のほうはすでに自治体やNGOの物資の購入や輸送などのための資金として活用されている。義援金をとりまとめ被災地で活動するNGOに活動資金を割り振るNPO法人にジャパン、プラットホームがある。24日現在で18億円を集め、難民を助ける会、国境なき子供たち、などのNGOに助成している。普段の募金は使途となる災害地を特定していないが、今回は義援金の全額を東日本大震災に充てる。

自治体の募金については、「ふるさと納金」を利用する手もある。極端に言うと、自分の払う住民税を、被災地に寄付できる仕組みだ。寄付の領収書を持って確定申告すると、寄付金額から5000円を引いた分住民税が控除される。被災地が本当に必要としているタイミングで、必要な額の義援金を届けたいものだ。



『週刊現代』4/16


2011年04月15日(金) 責任能力(25)

「社会に責任があるって、よく言いますやろ。あれ、どういうことですの?」兵庫県明石市にある割烹「一とく」のカウンター越しに、女将の曽我部とし子さんと私は話をしていた。お会いするのはこれで5回目になる。曽我部さんは、いつも私に何かをずばりと訊く。その瞬間、まず私の頭の中をよぎるのは、専門家ならこのように答えるだろう、けれどもそんな暗記しただけの”正答”に曽我部さんは納得がゆかなかったのだろうなあ、という脱力感である。

「本当に責任を取らなければならないものを半人前扱いにして、事件そのものを『なかったこと』にしたい時、社会に責任があるっていう言い方をするんだと思います」私はそのように答えた。もちろんまだ、曽我部さんは納得したふうではない。そんな簡単に納得できるわけがないのである。

1996年6月9日、長男の雅生君(当時24歳)が外出したのは午後一時。その一年半前から魚屋で包丁さばきを修業した後、「一とく」の三代目となる決意をして店を手伝っていた、雅生君を慕って若い常連客も増え、売り上げも順調に伸びて、とし子さんは前途有望な後継ぎに目を細めるばかりだった。雅生君が出掛けに「ゆっくり楽しんでこいや」と母に言ったのは、その日の午後、母がずっと以前から楽しみにしていた里見浩太郎ショーがあったからだ。

店から500mほどしか離れていないJR明石駅近くの繁華街の歩道で、一面識もない西島恭二(当時47歳)に雅生君がいきなり背中を刺されたのは午後2時30分だった。その5分後、さらに東へ50メートル離れた交差点で信号待ちしていた若い夫婦も西島に襲われる。西島は刃渡り18センチの包丁を振り回し、「殺したる」と喚きながら近づいてきた。とっさに身重の妻(当時20歳)をかばった夫(同20歳)は転倒してしまう。そこへ馬乗りになった西島は、男性の右わき腹を二度刺した。

大量出血のため雅生君が亡くなったのは、刺されてから40分後のことだった。「息子さんが救急車で運ばれた病院からの請求は、誰が支払ったのですか」と私は曽我部さんに尋ねた。「私です、ほんま、おかしいですよねえ」雅生君の医療費を、国は一銭も負担していない。二人を殺傷した西島は、通行人に取り押さえられた時、ちょっと怪我をした。その治療費は全額、国が負担している。

この年、日本全体で加害者には総計約46億円の国選弁護人報酬と、食料費+医療費+被服費に300億円も国が支出した。対照的に、被害者には遺族給付金と障害給付金を合計しても5億7000万円しか支払われていない。さらに私が調べたところ、西島は現行犯であるにもかかわらず、現場では逮捕されていない。パトカー先導の救急車で病院に運ばれ、自業自得で「10日間の怪我」を負っただけだなのに、明石署は殺人と殺人未遂の容疑で逮捕状を請求したものの、その軽い怪我が完治するまで逮捕もしなかった。

新聞各紙は10日の夕刊あるいは、11日の朝刊で小さな記事を掲げてはいる。「どうやら普通ではないらしい」との情報を明石署から得た記者たちは、被害者3人を実名報道しながら、凶悪犯の名を伏せた。《二人とも病院に運ばれ✽✽さんは2週間、男は十日間のけがをした》(朝日新聞96年6月10日夕刊)

記事中の❉❉には、信号待ちをしていて西島に襲われた若い男性被害者の実名が入っている。にもかかわらず犯人の実名は避け「男」または「土木作業員」とだけ書き、これで人権配慮記事一丁あがり、ということらしい。しかも《二人とも病院に運ばれ》の《二人》には、直後に絶命した雅生君が入っていない。犯人と被害者を仲良く《二人とも》などと併記する神経にも私はいらだつ。

不起訴になりそうだとの感触を得た記者たちは足並みそろえて取材を放棄し、神戸新聞を例外として、各紙とも続報を書いていない。芸能人ならのぞきや覚せい剤程度で執拗かつ大げさに続報を書くくせに(敢えてのぞきや覚せい剤程度と言っておく。殺人と比較した被害の実態に照らして、だ)。雅生君より3歳年下の次男隆徳さんは、葬儀の挨拶で、こう話している。「兄はこれから幸せになるはずでした」隆徳さんは留学中の米国から後日、母にこんな手紙を送っている。「加害者に対する最高の復讐は、被害者が幸福になることだと、自分は思っています」



『そして殺人者は野に放たれる』


2011年04月12日(火) 記憶の再生 (24)

私たちの人生は70〜80年が限界であり、その後は何も残ることはなく”無”の状態に戻るとすれば、なぜ誠実さと努力が必要なのか。私にはそのような考えを受け入れることはできない。永遠の時の流れの中で人間の一生は一瞬の出来事にすぎず、その短い人生を楽しまなければ、またいつ楽しめるのか?手段と方法を選ばず、楽しみを求めて人生を満喫するほうが理にかなっているのではないか。いくら努力しても死んでしまえば終わりならば、なぜ、わざわざ苦労を買って生きていかなければならないのか。いくら他人に迷惑をかけようが、悪い行いをしようが死んでしまえばすべて終わりなのだから、一体誰に遠慮をする必要があるのか?

だが、私たちに永遠の命をもつ魂があるとすれば、問題は大いに違ってくる。もし、その魂が私たちが生きている自分自身の人生によって何らかの償いと咎めを受けるために、新しい身体を受けこの地上に戻ってきたとしたら?自分の本当の姿を積極的に究明している人達にとっては大変興味深い理論であり、逆に新しく見慣れないものを恐れる人達には負担で拒否感をおぼえる考えだとも受け取れるだろう。

キム: 法名は何ですか?

ウォン:……ユシムです……。

キム:それではこの生涯の死の瞬間に行きましょう。何が見えますか?

ウォン:……離れの小さな部屋です。私は横になっています。周りには尼僧が三人座っています。

キム:何歳ですか?

ウォン:67歳です。

キム:病気でしたか?

ウォン:……心臓病です。30代の尼僧と若い尼僧二人がいますが、30代の尼僧は泣いています。彼女は現世で私と一緒に仕事をしているパク・チョンシクです。……。泣くことではないのに泣いています。私の心はとても平穏です。私の姿はとてもやつれた老人です。

キム:死の瞬間に行ってみましょう。

ウォン:…暗いです…。再び明るくなり、私は部屋の中に浮かんでいます。私の肉体が見えます。尼僧たちが泣いています。今、部屋の外に出ました。

キム:何が見えますか?

ウォン:……青い空が見えます。明るい光が見えます。その光について行きます。

キム:その光について行きながら見えるものを話してください。

ウォン:……この生涯でしなければならなかったことが浮かんできます…。もっと修業をしなければならなかったのに挫折し、他人を助けるということができませんでした。私を凌辱した清国の兵士たちの霊魂は本当にかわいそうです。…。私はもっとたくさんの修行と悟りを教えなければならなかったのにうまくできませんでした。

キム:心を落ち着かせて、そろそろ戻りましょう。(現在に戻り、目覚めさせる) 


彼は自責と後悔の感情をとても強くあらわし、現世にもどり催眠から目覚める前に退行で見た二人の娘のうち、一人がいま現世での自分の母だといい、自分を強姦した清国の兵士二人も現世で同じ会社の同僚だといった。目覚めたあとの彼の表情はとても呆気にとられた様子であった。まるでハンマーで頭を殴られたような面食らった顔で自分が見てきた事柄に対して、本当に信じて良いのかわからないといった。次の面会の約束をし、彼は複雑な表情で帰って行った。彼を送り出した後、録音したテープを整理しながら状況によって変わる声のトーンと、彼が見せた強い感情の数々をもう一度確認することができた。

前世への退行が成功した場合、ほとんどの人が彼と同じようにその生涯で一番強く、衝撃的な記憶の中に入り込むことが多い。その理由として、たぶんその事件の記憶の中にそれだけ強く感情的エネルギーが蓄積されるからであろう。前世退行で回想される内容は、本当にその人だけが持っている個人的な記憶なのか?その真偽を幻像や幻覚ではないかと多くの人たちは疑問に思う。もちろん、私もそのような疑問を感じた。

しかし、精神障害者たちが見る幻覚症状は患者の回復の助けにはならない。幻覚症状と複雑な思考障害を持つ急性精神分裂症患者を治療する場合、アズ最初に薬物治療に反応するのが幻覚症状だ。患者たちの幻覚は怖がったり恐れたりと非常に主観的な内容が多く、前世退行のように映画を見ているがごとく一貫したストーリーになっていることはない。

前世退行を通して現在の問題の原因がわかった人たちは、その症状や問題の劇的な好転を経験することになる。これらは精神分析的な面談治療中に忘れられていた記憶を思い出すことで、その記憶と現在の症状との関連について理解し、その結果、症状の好転を得ることができる場合と同じである。まとめると、前世退行は現在でも行われている催眠分析である年齢退行療法を延長し、生まれる前の過去にさかのぼる点が違うだけなのだ。

カール・ユングが主張する集団的無意識理論は、各自の集団ごとに共通の経験と文化背景で形成されている共同の記憶倉庫があり、その集団の構成員はだれでも倉庫に入り記憶をよみがえらせることができるという理論だ。しかし前世退行をした記憶の再生はとても個人的で鮮明であり、その記憶を調査して見ると、実際に痛人物がその時間その場所に存在し、詳細な部分までが一致するなど、その存在を確認できることが多い。また、前世の記憶の内容を見るとその人の現在の性格や特別な才能、弱点度が理解できることも多い。

この患者も初めて経験した退行で、中国に対する漠然とした恐怖と嫌悪感の原因とみられる場面を思い出し、前世で幼い時に置いてきた娘が、現世では自分の母親として生まれ変わり、息子に対し異常な干渉と強い執着で患者に負担を与えている。これはたぶん、前世で置いてゆかれた娘の悲しい記憶が潜在意識の中にあるために、前世で娘だった今は母親がまた、自分から離れていってしまうのではないかという気持ちが知らず知らずに怖れとなっているのであろう。

この患者は幼い時から仏教自体には関心はあったが、お寺に行くとなぜか気持ちが落ち着かないといっていた。仕方なく家族と離れ、別れなければならなかった尼僧にとって修道寺の生活は、心が休まるところとはいえなかったのだろう。自分を強姦した二人の兵士たちと同じ職場で会い、同じ寺で過ごした尼僧の一人とも同じ職場で再び出あった。これは、彼らに患者との関係で清算しなくてはならない何らかのカルマが残っているためであろう。



『前世旅行』



2011年04月10日(日) 生と死は同じ世界にある (23)

死後の世界という場合、何が死後に存続するとお考えですか。

「実は私は、死後の世界という表現はあまり正しいものだとは思っていないんです。死後の世界とは時間的、あるいは空間的にこの世とは隔絶した向こう側の世界であることを意味しています。私はどうもそのところが根本的に違っているのではないかと思うのです。この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなくて、実はつながっているのではないか、いやもっとといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに、見え方が違っているのではないかと思うのです。一つのたとえ話をすると、私が子供のころテレビは三チャンネルしかなくて黒白でした。放送時間も朝から夜までで、ニュースなんて15分しかありませんでした。衛星中継なんてありませんでしたから、外国の出来事は黒白のスチール写真で報道されました。ところが今のテレビは41チャンネルもあって、カラーでステレオで、ニュースは24時間流されていて、地球の反対側は衛星中継でリアルタイムで見られます。昔は昔で、世界を見たつもりになっていたけど、実はほとんど何も見ていなかったのだということが今になってわかります。死を境にして起こる変化というものも、そういう世界の見え方の変化ではないかという気がします。我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうではない。我々はこの世では、実は何も見ていないに等しい。死によって人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんなものが見えてくる。その時、どういうものがどういう風に見えてくるのか、この世にとどまっている我々にはとても想像がつきません。ただ、臨死体験者の報告で多少はその想像がつくということなんじゃないでしょうか」

でも、臨死体験と死そのものとは違いますね。

「違います。ですから、彼らの報告も、死そのものの向こう側に広がる世界を、ほんの小さな穴を通して見たという程度のことにすぎないと思います。本当の向こう側はやはり自分が死んだときでないとわからないと思います」

じゃあ、死ぬのが楽しみですか。

「ええ、早く死にたいということじゃないんですが、とても素晴らしいことなんだろうと期待しています。私が臨死体験の研究をやって本当に良かったと思うのは、死に対する恐怖から完全に自分が解放されたことです。今の私には、死に対する恐怖はまったくありません。そして死に対する恐怖がなくなったことで、生きることがとても大切に思えてきました。逆説的に聞こえるかもしれませんが、そうなんです。昔、死によって人間の存在が完全に消滅して無になると思っていたころは、だからこの生を大切にとは思わず、生きるなんて大したことじゃないんだと、一種のニヒルな感情を持って人生を眺めていました。それが、死後の生を確信するとともに、逆にこの世がとても大切になり、もっとたくさんのことを学びたい、もっとたくさんの人と知り合い、もっといい人間関係を結びたいと考えるようになったのです。つまり、死後の生の問題から解放されるとともに、もっと生きてる間にやるべきことがあるということに気がついたのです。死んで向こうの世界に行った時に、『お前は生きている間にどういうことをやってきたのか』と問われた時に、『いやあ実は、たいしたことは何もやっていません。人は死んだらどうなるかを考えているうちに一生が終わってしまいました』と、頭をかきながら答えるような羽目にはなりたくないということです」

その確信はいつも全然揺るぎませんか。時にはもしかしたら違うんじゃないかと思うことがありませんか。

「世界が私が考えた通りの構造になっているかどうかという点についての哲学的な確信という点では、時に揺らぐことがあります。しかし、死後の生の存続を確信し、死に対する恐怖がなくなり、死後の問題で心がかき乱されることがなくなったという点がゆらいだことは一度もありません」


 体外離脱とは何か

臨死体験の内容は。体験者の生まれ育った文化によってかなり大きな違いがみられるということを書いた。それは、臨死体験が現実体験ではなく、脳内のイメージ体験にすぎないということを示唆しているように思われるが、前章で紹介したパスリチャさんの見解のように、文化的な違いは体験そのものの核心部分にあるのではなく、体験の周辺部にあるにすぎないと考えれば、現実体験説とも矛盾しなくなる。あるいは、原始的体験事実は普遍的なのだが、それを解釈し、言語表現するときに、体験者の文化のフレームワークの中に入れられてしまうのだと考えてもよい。かくして、文化的影響という側面から見ることも、臨死体験の謎を解く決め手にはならないわけである。

これまで、さまざまな角度から臨死体験を分析してきたが、結局、そもそも臨死体験とは何なのかという根本的な疑問がなかなか解けないのである。根本的には”死後の世界”を現実に体験したのだとする現実体験説と脳内に生まれたイメージにすぎないとする脳内現象説とがあるが、これまで述べてきたことでわかるように、どの角度から見ても、どちらが正しいと一方的にはなかなか決められない。文化的影響の問題にしてもそうだったが、解釈の仕方ひとつでどちらの説も成り立ち得るのである。

だが、もし本当にそうなら、現実体験説が有利という論点が一つあった。それは体外離脱によって、普通では知りえない情報を知ったというケースである。

これまで出てきた例をいくつがあげてみると、ルーカネン・キルデがラップランドで体外離脱して、千キロ離れたヘルシンキの実家で、母親が花模様のドレスを縫っているところを見たり、姉が男友達とデートしているところを見たりしたという例。バーバラ・ハリスがサークルベッドで失禁した時、看護婦がそれを洗いもしないで、ただ乾燥機の中に放り込んだだけで済ませてしまったのを体外離脱中に見たという例。スイスで交通自己にあって体外離脱した人が、事故による渋滞に巻き込まれた車の中に事故の犠牲者のために祈ってくれている女性を発見し、その車を、その時見たナンバーを手掛かりに探し当てたという話。シアトルの病院にかつぎ込まれたマリアというメキシコ人女性が体外離脱して、自分のいる病室とはずっと離れたところにある窓の張り出し部分に古いテニスシューズがあるのを見つけたという話などがある。日本の例では、松本武さんが、体外離脱で祖母の頭を上から見て、隠されていたハゲを見つけたという話。

これらの話がもし本当だとすると、脳内現象説は崩れることになる。脳内現象説は、臨死体験ははじめから終りまで脳内で起きている現象だとする。体外離脱したというのは、体験者の単なる思い込みに過ぎないと考える。自分の肉体を天井あたりから見下ろしたというのも、どこか遠くへ飛んで行って何かを見たり、誰かと会ったりしたというのも、すべて夢と同じイメージ体験にすぎないのである。

しかし、もしそうだとするなら、体外離脱中に外界についての新しい客観的な情報が得られるわけはない。だが、これらの例においては、イメージ説では説明できない客観情報が体外離脱中に得られたということになっている。それが本当なら、何らかの認識主体が、本当に肉体を離れて、その客観情報を持ちかえったのだと考えるほかはない。

レイモンド・ムーディーやキュブラー・ロスなどが、結局、現実体験説を信じるようになったのも、こういう体験との出会いが決め手になったということである。臨死体験の他の要素は、どちらの説でも説明可能である。しかし、ここにあげたような客観情報を持ち帰った体外離脱例だけは、脳内現象説では説明できない。ムーディーやロス以外にも、現実体験説を信ずるという研究者に何人か出会ったが、彼らになぜ脳内現象説を否定するのか、その最終的な根拠は何なのかと問いただしてみると、結局、この問題を持ち出す人がほとんどなのである。そういうわけで、私も基本的には脳内現象説が正しいだろうとは思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。             

よりよく生きることへの意欲

ただ実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、たいした問題ではないと思っている。臨死体験の取材に取りかかった初めのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。

しかし、体験者の取材をどんどん続け、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐ろしくなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが怖くなくなってしまったのである。これだけ多くの体験者の証言が一致しているのだから、多分、私が死ぬ時も、それとよく似たプロセスをたどるのだろう。だとすると、死にゆくプロセスというのは、これまで考えていたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたからである。

そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているか。現実体験説のいうようにその先にすばらしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。もっと若い時なら、自己の存在消滅という考えをそう簡単には受け入れられなかったかもしれないが、今は、ある程度年をとったせいもあるのか、それほど大きな心理的障害なしに、そういう考えも受け入れられるのである。

いずれにしても受け入れらなければならないものを受け入れまいとしてジタバタするのは、幼児性のあらわれであり、あまり見っともいいことではないから、しないですませたいと思うのである。それに、いずれの説が正しいにしろ、今からどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、絶対に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも私が死ぬ前に答えが出るはずがない。だから、いずれにしても私は決定的な答えを持たないまま、そう遠くない将来に、自分の死と出会わなければならないわけである。

そのとき、いずれにしろ、どちらが正しいのかは身をもって知ることができるわけである。そのことに関して、今からいくら思い悩んだとしても、別の選択ができるわけではない。それなら、どちらが正しいかは、その時のお楽しみにとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口と思うようになったのである。「死ぬのが恐くなくなった」ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、「臨死体験してから、生きるということをとても大切にするようになった。より良く生きようと思うようになった」ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際は逆なのである。

みんなより良く生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、「いずれ死ぬ時は死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きてる間は、生きてる間にしかできないことを、思い切りしておきたい」と考えるようになったからであるという。それはそうだと思う。聖書にも、「死者は死者をして葬らしめよ」とある。生きている間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩み続けるのは愚かなことである。生きてる間は生きることについて思い悩むべきである。               




『臨死体験 下』


2011年04月09日(土) チェルノブイリの今

いまだに立ち入りを制限される半径30�匏�内

チェルノブイリ原子力発電所で4号炉が爆発した‘86年4月26日。人類が決して住めない土地が地球上に生まれた。4号炉はその日、原子炉実験中に制御不能に陥り、炉心融解(メルトダウン)を起こし、爆発へと至る。爆発によって拡散した核燃料は約30トンに及び、広島に投下された原子爆弾の400発分以上ともいわれる放射性物質が世界中にまき散らされた。

しかし、当時のソ連政府は、機密漏洩と住民のパニックを恐れ、その事実を公表せず、80万人もの労働者を動員して、4号炉を「石棺」と呼ばれるコンクリート壁で封じ込めた。この未曽有の大惨事は、あとに定められた国際原子力事象評価尺度(INES)において、最高危険度を表すレベル7に位置づけられている。そして文字通り史上最悪の原発事故から25年を迎えた現在、チェルノブイリ原子力発電所の周囲には、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの3国を合わせ約4800㎢といわれる制限区域が広がっている。

事故直後に住民が強制退去となった、原発から半径30�匏�内の地域は「ゾーン」と呼ばれる。‘10年12月21日にウクライナ政府によって、立ち入り制限は一部解除されたが、境界線上には多くの検問所が置かれたままだ。
日本政府は現在、事故を起こした福島第一原発の半径20〜30km圏内の住民に対して自主避難を呼びかけている。もちろん「自主避難」と「強制退去」の違いは大きいだろう。背景の異なる2つの事故を単純に比べることは難しい、それでもチェルノブイリの30�匏�内、「ゾーン」が今もなお「聞こえてくるのは鳥の声と枝葉のすれる音だけ」だという事実は、今後、福島原発周辺の地域が迎えるかもしれない最悪の事態を想定するヒントにはなるはずだ。

ちなみにこれらの土地で再び安全に人間が生活するには、数100年の時間が必要だと予測する学者もいる。カイ・サワベ氏はチェルノブイリの南東100�劼飽銘屬垢襯Ε�ライナの首都キエフから北上し「ゾーン」との境界を目指した。原発まで50〜40キロメートルと近づいたあたりから人の住む集落がまばらとなり、屋根の落ちくぼんだ家や廃墟と化した建物が目立つようになる。さらに車を走らせると、それ以上の進行を妨げるようにバリケードが現れた。

「道の上に倒壊した鉄塔などが横たわり、30�匏�内まで近づいたことがわかる。境界を超えるには政府が発行する許可証が必要なので、検問所には警察が常駐しています。ただし彼らが着ているのは普通の制服。防護服はもちろん、マスクも手袋も着用していません」(サワベ氏)
実は「ソーン」内部での防護服着用は義務付けられていない。許可証も手続きさえ踏めば取得はさほど難しくないため、政府関係者や原発従事者だけではなく、研究者や観光客など出入りは意外と多い。しかし、一歩30�匏�内に足を踏み入れると、目に入る光景からそこが死んだ街であることが如実に伝わってくる。

倒壊寸前の民家や無人の集合住宅、市民プールや病院など、廃墟と化した建物が並ぶ。当然、一部を除いて電気や水道、公共交通機関などのインフラはまったく機能していない。事故以前、原発の半径30km圏内には80近い村や街があった。出稼ぎ労働者や期間労働者も含め、13万5000人もの住民が強制退去させられた。

カワベ氏が続ける。「井戸から伸びる水道管は、壊されたり蛇口が潰されたりして使えないようにされていました。当時の生活が感じられる分、誰もいないことの衝撃が大きい」チェルノブイリの原発の従業員たちが住む町、ブリチャビ市の住民に避難が布告されたのは、事故発生の翌日だった。‘86年4月27日の昼ごろ、同市では次のようなラジオ放送が流れたという。「身分証明書を携帯し、必要なものと3日分の食料を持参してください」避難民たちは、「3日分の食料」というからには3日離れれば、また我が家に戻ってこられると考えていた。しかし実際に彼らが家に戻れたのは数ヵ月後。それも再びそこで生活するためではなく、防護服に身を包み、貴重品を運び出して、慣れ親しんだ街に永遠の別れを告げるためだった。

解体までに100年以上かかる

事故から25年経った今でも、この地で人が生活できないとされるのは、空気中の放射性物質が減少しても、セシウムやストロンチウムなどが水や土壌に蓄積されているからだ。事故後、セシウムによって㎢あたり1キュリー以上汚染された農耕地は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3国合わせて約440万haもの土地が利用不能となってしまった。

ウクライナ政府は、事故直後から‘90年代を通して、除染や汚染された農作物を摂取させないための対策を積極的に講じた。しかし‘00年を境に、対策費は削減され続け、‘07年以降、事実上ゼロになってしまっている。セシウムの半減期(放射能の強さが半数以上に減少する期間)は30年といわれているので、汚染区域は行政から見放された格好だ。

本来は居住が禁じられている「ゾーン」内に、現在も故郷から離れることなく、そこで生活する人たちがいる。「70歳くらいのおばあちゃんが、原発から10�劼販イ譴討い覆じ鼎ぬ渦箸法▲棔璽ぅ侫譽鵐匹醗貮い慮い醗貊錣吠襪蕕靴討い燭鵑任�」電機も使えないし食料品も手に入らないから、生活物資を手に入れるためには、彼女はいちいち立ち入り禁止区域の外の街まで行かなくてはなりません」

老女は‘86年当時の強制撤去の際、一度は居を移したが、親族も知人もいない汚染区域に再び戻ってきた。「居住禁止」といいながら、ウクライナの役人は見て見ぬふりという。30kmゾーンの境界線上、放射線汚染区域を通る道路の終点に、テレムチという村がある。そこの住民の一部も、‘86年当時、避難を拒否している。ここは実際、汚染の少ない地域にあり、首都キエフの大通りよりも大気中の放射線量は低い。しかし仕事もなく、補助金なども支給されない「ゾーン」の住民は、生活に窮することがほとんどだ。その結果、自ら育て採集した食物を食べることになる。当然汚染された植物や卵、魚などを口にすれば、内部被ばくを起こす原因となる。

それでも彼らは「ゾーン」に留まる。理由は何か。「老い先短い身で放射能に怯えていられないわ。不便でも生まれ育った街だから、それに家賃がかからないもの」老女がそう語るように、一度離れた我が家に戻ってくる「ゾーン」出身者は決して少なくない。

チェルノブイリ原発が建てられたブリビチャ市をはじめ立ち入り制限区の多くは、そもそも緑に恵まれた豊かな土地だった。それが強制退去のために、住民たちは農業に適さないステップ地帯の村やキエフ周辺に立てられた簡易住宅に、他人の家族とともに放り込まれてしまう。避難先の住民の誰もが歓迎してくれたわけではない。少ない仕事を奪い合うライバルと見なされ、放射能に汚染された地から来たことを理由に、不当な扱いを受けることもあった。

このように被ばくへの恐怖より精神的なダメージが勝ることは、決して珍しいことではない。そして今後、日本でも同様の事態が起きないとは言い切れないのだ。昨年12月の立ち入り制限の緩和により、観光客らがチェルノブイリ原発近くを見学することが可能になり、ドイツなどのヨーロッパ諸国では、原発訪問ツアーがすでに人気を集め始めている。しかし、これでチェルノブイリが完全に安全な場所と約束されたわけではない。総被ばく者数は9000人以上、いまだ被ばく患者は増えていると主張する専門家も存在する。

先月28日には、チェルノブイリ原発の管理当局のボブロ第一副局長が、「解体までに100年以上、毎年約1億2500万ドル(約102億円)が必要となる」と述べた。石棺と呼ばれるコンクリート壁の老朽化が問題となり、現地では労働者が放射線被ばくの危険にされされながら、その補修に追われている。原発事故の傷跡は深く長い。その系譜に、福島原発と周辺被爆地はすでに連なってしまった。この3月に、運転開始40周年を迎えるはずだった福島第一原子力発電所。その歴史はチェルノブイリ同様、事故以降がより印象深く忘れられないものとなるだろう。


『週刊現代』4/16


2011年04月08日(金) 魚は大丈夫なのか

「検出されたヨウ素131の濃度の高さを考えると、特に危険なのは海藻類です。なぜなら、ヨウ素は海藻に吸着しやすい性質がある。ですから、太平洋岸の今の海流の流れからすると、福島から千葉までの沿岸海域で採れる海藻類には注意が必要です。

原発からドボドボ流れ込んでいる放射性物質を含む海水が東日本沿岸海域に流れてくると、どうなるか。「要素やセシウムなど揮発性が高い放射性物質は、淡水に溶けて一緒に移動します、そして、放水口から流れ出るわけですが、海水より軽い淡水は沖合いまで出ることもない、狭い海流の幅で沿岸部を流れることになります。

ちなみに、九州大学柳教授はプルトニウムも、すでに海にまで飛散している可能性が高いと指摘する。「沿岸に建つ原発から500キロ離れた敷地内でプルトニウムが確認されているのですから、海までプルトニウムが飛散したと考えるほうが自然でしょう。プルトニウムはヨウ素やセシウムと違って重たいので、海に入れば海底の泥に混じって沈澱する。当然、プルトニウムが付着した餌を魚が食べ、その体内に放射性物質が溜まるということもありえます」

放射性物質で汚染された海流で生息する魚介類はサンマ、タラ、サケ、カツオ、サバ、マグロ、イカ、カキ、イワシなど、膨大な種類にのぼる、プルトニウムの半減期は2万4000年と非常に長い、汚染された海に長期間、生息していれば、魚たちの放射性物質の濃度はいやでも高まっていくことになるだろう。政府や東電が対処を怠っている間に、海水と魚介類の汚染は確実に進んでいるのだ。

大根の葉は大丈夫か?
各地の農協の話を聞いても、風評被害は進んでいるが、むしろ怒りは国のやり方に向いていた。「もう群馬県産と名前がつくだけで、まったく売れない。理解できないのは国の暫定基準とやらで、それまでなかったのに急に作って、それを下回ったらアウトというンは酷すぎる」(群馬県JA)

この「被爆食品」の出荷制限をめぐっては、すでに福島県遠賀川の農家で64歳の男性がそれを苦に自殺する事件も起きている、この男性は有機栽培にこだわって米やキャベツなどをつくっていたが、3月23日に福島県全域でキャベツの出荷制限が決まった翌日、「これで福島の農産物は売れなくなる」と言い残して首を吊ったという。

国は早い段階で規制値と補償を打ち出し、一時的に苦労をかけるが、ある条件になれば制限を解除すると決めておけば、こうした悲劇も未然に防げたはずだ。規制値についても、恣意的に上下させようとするから、農家と消費者の無用な不安を煽るのである。環境総合研究所の池田こみち副所長が語る。

「国の姿勢は、水の摂取制限の時も滅茶苦茶でした。東京では、乳児は飲むなといった翌日には飲んでもいいという。しかし、その理由がわからないからだれも信用しません。テレビで『安全だ』とくり返すばかりの御用学者と同様、はじめから『安全ありき』だからダメなんです。

福島第一原発からは、放射性要素やセシウムに加え、ついにプルトニウムまで漏れだした。こうした放射性物質は、土壌をどんどん汚染していく。今後も規制値を上回る品目が増えることは避けられまい。

日本環境学会前会長の畑昭郎氏はは、「3月30日、原発から40キロ離れた飯館村でJAEA(国際原子力機関)の避難基準を超える土壌の汚染が見つかりました。ということは、相当広い範囲で土壌が汚染されていることは確実です。放射性物質の中でもセシウム137は土中5センチくらいのところまで入り込むので、薬物だけでなく、根菜類にも注意が必要です。その上で農地調査を行い、汚染度をきちんと公表し、作付制限をかけたり、土壌を掘り返して汚染された部分をそっくり入れ替えることも考えなければなりません」

国家的危機のさなか、最高指揮官にかかるプレッシャーは尋常なものではないことは間違いない。だが、東京電力の清水正孝社長もそうだが、その肝心な時にあっけなく病気になってしまうようなものは、リーダーとは言えない。危機の真っ最中に一週間おきにしか会見せず、出てきたと思ったらメモなしでは話もできず、「あ〜」「う〜」と言い淀みながら話す総理大臣は、その存在自体が国民の不安のタネだ。

それでなくとも、日本政府は近いうちに、原発処理に関して重大な決断を迫られる見込みが強い。「自国への放射能被害の拡大を恐れる米国やロシアからは、『さっさとチェルノブィリ型の”石棺”をつくって放射能を封印せよ』という圧力が日本側にかけられています」(外務省関係者)日本側はこれに難色を示しているという。

石棺は一時的に放射能を封じ込めることができても、原子炉が安全停止しなければ放射能が漏れ続け、結局は周囲の土地が使えない。「事故から25年が経った現在もチェルノブイリ周辺が”死の土地”であるのと同様に、日本は福島県やその周辺の一部を、国土として半永久的に失うことになってしまう」(政府のアドバイザースタッフの一人)

かと言って日本サイドで検討されているのは、「原子炉建屋に”布”をかけて覆い、放射性物質の飛散を防ごう」などという、これも応急色が強いもの。「汚染水をどうするか」などと悩んでいる時点で、根本的解決は程遠い。菅首相は、自分が呼び寄せた専門家の一人から、「事態の収拾には、長ければ10年以上かかる」と言われ絶句した。


『週刊現代』




2011年04月05日(火) 東海地震の危機

浜岡原発は止めるべきだ

ここ数年、浜岡原発に近い御前崎が年々沈み込んでいるデータや、プレートのひずみの蓄積がわかる海底音波探査の結果などを見て、東海地震が近いのではないかと心配していました。09年8月駿河湾地震(M6.5)が起きました。09年にはスマトラ沖(M7.6)、サモア(M8.0)、10月にはバヌアツ近海(M7.8)、10年2月のチリ沖はM8.8ですからね。これはどう見ても太平洋プレートの動きが関連しているとしか思えない。

09年8月11日の駿河湾地震は、浜岡原発がある静岡県御前崎市などで震度6弱。東名高速の路肩が崩れて、お盆の帰省客が足止めをくらいました。浜岡原発では4号機と5号機が緊急自動停止しました。浜岡原発の被害は、予想をこえるものでした。中でも耐震性が一番高いと言われていた5号機の揺れが最も激しくて、被害が集中しました。

10センチから15センチの地盤沈下が起きて、原子炉で発生した蒸気を配管で引きこんで発電するタービンがある建屋は、コンクリートの壁にひびが入った。原子炉の核反応を止めるための制御棒を動かす駆動装置の一部も故障しました。07年7月にはM6.8の新潟県中越沖地震が起きて、柏崎市で震度6強を記録し、想定をこえる揺れに襲われた柏崎氏は原発で変圧器が火災を起こすなど大被害が出ました。それでも地震学的には小地震です。あんな怖い地震でも。

M8.0から8.5と予想される東海地震は、立っていられないような激しい揺れが1分から2分続くといわれます。地震のエネルギーでいうと、09年の駿河湾地震の178倍から1000倍もの大きさがある。安政東海地震(1854年M8.4)では御前崎の周辺が1〜2�知患�したことがわかっています。09年の小地震でもあれだけひどくやられたのですから、、1�辰睥患�したら原発の配管が持つわけがない。建物が傾いて、蒸気と高温の水が循環する配管はめちゃくちゃになってしまうでしょう。

配管が破断して、原子炉を冷やす水の供給が止まれば、ウラン燃料が灼熱状態になって溶け落ちるメルトダウンを引き起こして、大事故につながります。非常時に水を炉心に送り込む緊急炉心冷却装置も金属パイプでつながっています。原発は、核分裂で発生する熱で水蒸気を発生させてタービンを回して発電する。発生した蒸気は、復水器という熱交換機で海水を使って冷やされて水に戻し、原子炉が循環している。水蒸気と水が流れるパイプは、すべて一本の回路でつながっているので、どこが切れても熱を奪えなくなる。世界的な原発論争で最大の論点になってきたのも、この配管破壊による「冷却材喪失事故」だったのです。

09年の駿河湾地震では、制御棒の駆動装置の故障も報告されています。原子炉を止めるには、中性子を吸収する制御棒を使います。浜岡原発のような沸騰水型の制御棒は四つのブレードを持つ十字型で、燃料体のすき間に下から挿入する。縦揺れと横揺れが同時に襲ってくると、周囲にぶつかって正常に挿入できなくなる可能性がある。

電気系統が破壊されることも考えられます。浜岡原発では、チェルノブイリの原発事故が起きた88年、1号機で無停電電源という絶対にしてはい電源がストップした事故が起きています。水を循環させる再循環ポンプや制御棒の駆動装置が止まってしまい、何が起きているのかわからなかった。最後は手動で原子炉を止めたのですが、大惨事につながる恐れがある事故でした。

沸騰水型の原子炉では、配管などが壊れなくても地震で核暴走が起きる可能性があります。93年の宮城県北部地震では、わずか震度4の揺れだったにもかかわらず、近くの女川原発で核分裂を起こす中性子の数がガッと上がって、原子炉が止まってしまった。核暴走の瞬間的な反応を計器がとらえ、自動的に制御棒が挿入されたのです。83年と87年に同じ沸騰水型の福島第一原発でも、小さな地震で同様に中性子数は異常上昇しました。

沸騰水型では燃料棒の周りにあぶくがたくさん出いて、その効果でウラン燃料の核分裂が一定の割合で継続している「臨界状態」なっています。ここに地震がドーンと来ると沸騰したやかんをドンと置いたときのように、あぶくが消滅する。すると瞬間的に核分裂の連鎖反応を促進する中性子が増えるのです。中性子数の異常上昇は別の原因をあげる報告書もありますが、いずれにしても沸騰水型の弱点として、小さな地震でも核暴走が起きる危険性に変わりはない。浜岡原発でも一瞬のうちに核暴走が起きる可能性があります。

学者の中には、原発の大事故が起きると、日本は放射能汚染地帯の烙印を押されて世界貿易から取り残され、経済的にも激甚損害を受けて廃墟になると考えるのが最も妥当な推測であると主張する人もいる。浜岡原発が大事故を起こしたら、風速およそ2�辰曚匹里修萇�でも、三日くらいで首都圏、中部経済圏、関西経済圏が大量の放射能で覆われてしまう。また、原発は老朽化が進んで、地震が来なくても原発事故はいつでも起こりうるのです。

巨大地震が続く活動期に突入か

江戸時代の地震活動を調べると、どれもみんなすさまじい。1703年の元禄大(M8.1)、1707年の東海・南海地震(M8.4)。2ヵ月後の富士山の宝永大噴火では江戸まで全部灰に埋もれている。今の日本がこのような活動期に入っているのかどうかはわかりませんが、起こっていることがあまりにも似ているので、当時と同じ力が作用している、と思います。

政府の地震調査研究推進本部によれば、東海地震は30年以内に起こる確率が87%とされています。いつ起こるかはわからないけれど、近い将来に東海地震は必ず起こる。起きてしまえば壊滅的な被害を受けるという意味で、原子炉はまさに時限爆弾です。まずは東海地震の震源域に建っている浜岡原発を止めなければいけない。逆にいえば止められるんですよ。

クリーンで原発よりもはるかに効率がいい最新鋭の火力発電所を、中部電力も建設すると発表しています。電力供給の点からいえば、浜岡原発が止まっても問題はありません。大事なのは世論です。みんなが危険性に気づけば、浜岡原発は止められるはずです。



2010 11/26『週刊朝日』


2011年04月03日(日) 石原裕次郎も体験者 (22)

ごく最近の文献で現体験者と記述者の距離がぐっと近いものがある。石原慎太郎の『わが人生の時』がそれである。わたしの仲間にもその川を見たという男がいる。結局は癌で死んだ議員の玉置和郎はその以前重症の糖尿病だったが、病気を甘く見て死にそこなった時、病院のベッドの上でやはりその川を見たという。

昏睡で見た夢の中に、天の川のようなほの白い帯のようなものを見たそうな。彼の夢の中に何度となく、以前死んだ彼を可愛がってくれた長兄の姿が現れてきた。病室の壁の前に立ったその兄が、しみじみ愛おしそうに、『和郎、そんなに苦しいなら兄さんと一緒に向こうへ行こう。兄さんが手を引いていやるよ』と招く。

その兄の後姿にはほの白い川のようなものがかかって見えた。何度も兄の差し出すその手にすがろうとしたが、なぜか最後はその気になれず、まだこちらにしなくてはならない用事が残っているのだと言い訳してベッドにとどまり続けたそうな。

『何が私を引き止めてくれたのかは知りませんが、あの時兄貴の手にすがってあの川のようなものの向こうに行っていたら、たぶんそれで終わりだったんでしょうな。白く光った帯のような川でしたが、自分がそのすぐ間近まで行ったことだけは覚えていますよ』彼は言っていた。私の弟も、その川のすぐ近くまで行って帰ってきたようだ。剥離性動脈瘤という、名前も初めて聞く厄介な病気の発作に見舞われ、彼は文字通り地獄の入口まで行って来た。

石原慎太郎の弟というのは、いうまでもなく、石原裕次郎である。裕次郎は、9時間に及ぶ大手術のあと、一命は取りとめたが、それから一週間にわたって意識は朦朧としたままだった。意識を取り戻した後、二人はこんなやりとりをした。

『ひどく痛がっていたそうだが、自分が痛かったこともよく覚えていないよ。要するに手術の後長い間、俺は半分眠っていたみたいなものなんだな。痛かったことより、意識が戻ったなと自分でわかるまで、いろいろな夢ばかり見ていた、ということだけは覚えているよ(中略)その中でも一つだけ、長い間にわたって何度も見た夢がある。今考えても妙な夢だった』『どんな?』『どこかの川の夢なんだ。川というより川原だな、何か時代劇のロケーションで、最初は馬に乗って、そのうちいつの間にかスタッフの連中と一緒にジープに乗って広い川原を走っているんだ』

いつまでたってもつかぬ段取りに業を煮やして、ジープを運転している誰かに命じて車で川を向こう岸へ突っ切らせようとするんだが、車がハンドルを切り返そうとするたび、なぜか他の誰かがそれを止めて車はまたもとのこちら岸へ戻ってきてしまう。そんな夢をきりなく見続けていたことだけはよく覚えていると言った。

『あれが三途の川というやつだったんだろうな。しかし。川原の石も、水も、ススキの穂もみんな眩しいように白く光って何かとても透明な、とにかく俺が今までどこで見た川よりも綺麗な川だったよ』

これなどは、かなり信頼できる報告だろう。しかしまだ、現体験者と記録者が別の人間という不満が残る。体験者の原体験そのものとその口頭での言語表現との間には通常深い落差がある。その落差がどれくらい大きいかは、その人の言語表現能力、記憶力、観察力、内省能力などにかかってくることだから一口には何とも言えない。

我々は何も見えていない

臨死体験とはそもそも何であるかという解釈をめぐって、死後の世界を垣間見た体験であるとする解釈もあれば、これは死を目前にした人の脳で起こる一種の幻覚にすぎないとする解釈もあります。大別するとこの二つの解釈があると思いますが、ケネスさんはどちらの立場なのですか。

「わたしはどちらの陣営にも属していません、私は臨死体験が死後の世界の存在を証明するものだとは思っていません。確かに、体験者の多くは、体験によって物質的な生命活動が終息した後も、何らかの形で生命が存続するのだということを確信するようになったと語っています。しかし、その証拠はあるか、それは証明されているかと問われれば、ノーという以外ありません。

しかし、また一方では、この現象はすべて純粋に生物科学的に説明がつけられることであって、そういう説明がつけば、すべて終わりということでもないと思っています。たしかに、人が死ぬ時、一連の生物科学的現象が次々に起こります。脳の機能は低下し、失われていきます。肉体のあらゆるシステムが機能を失い、解体していきます。

そのこと自体は疑いようがありません。私がいいたいのは肉体がそのような状態に陥った時に初めて見えてくる別の現実があるのではないかということです。人間が健康な状態にある時の日常的な目覚めた意識があると、それにおおい隠されていて見えない現実が、そのような状況下で初めて見えてくるということがあるのではないかということです。それはちょうど夜になると空に星が光っているのが見えてくるようなものです。星は昼間も出ているのに、昼間は見えません。太陽の強烈な光が星の微弱なまたたきを圧倒して見えなくしてしまうからです。しかし、太陽が沈み、他を圧倒する光がなくなると、全天に光り輝く無数の星が見えてきます。その時始めて我々に、宇宙の広がりが見えてきます。

昼間、太陽の光の下で我々に見えているのは、このちっぽけな地球という惑星のごく限られた一角だけです。昼間、我々は自分には何でも見えていると思っていますが、宇宙的スケールでいえば、実はほとんど何も見ていないのです。広大無辺な宇宙の広がりが見えてくるのは、太陽が沈んだ夜になってからです。それと同様に、日常的な意識が目覚めた状態にある時は、我々の認識は強烈な感覚入力に圧倒されて、本当は見えるはずの内的宇宙の広がりあ見えていないのです。肉体的死の接近とともに、それまで太陽のように輝いていた日常的な感覚能力、認識能力が姿を隠し、それによって初めて真の内的宇宙が見えてくるのです」

なるほど。しかし、その比喩が成立するためには、肉体が死んでも何らかの認識主体が存続すると考えなければなりません。それは何なのでしょう。そういうものがありうるのでしょうか。

「何かが存続するかもしれないし、何も存続しないかもしれない。存続という概念を使うこと自体が誤りなのかもしれない。存続という概念は時間にかかわる概念です。我々が生きているこの世界は時間的にも空間的にも限られた世界です。そこでは存続というような概念が成立しています。しかし、死、あるいは臨死状態の向こう側にある世界が永遠の世界だったとしたら、そこでは時間というものは存在しない。従って、存続というような時間を含む概念は意味を持ちません。体験者の話に『時間というものがない世界に入った』、『時間と空間を超越した世界だった』という表現がよく出てきます。そして、その世界にはいった途端、『すべての真理を把握した』、『すべての知識が獲得できた』、『我々が何のために生きているのか分かった』、『数年にわたって疑問に思っていたことがすべてわかった』ともいいます。

死の境界をこえるとそういう時空を超越した、人智を超越した世界に入るのであるとするなら、”存続”だの、”認識主体”だのといったこの世でのみ通用する概念は意味を失ってくるわけです。我々がこの世で使っている概念がみんな意味をなさなくなってくるような異次元の世界が向こうには広がっており、その中に入ると、我々も一気に時間を超越した存在になってしまうのだと考えれば、そういう疑問はなくなってくるでしょう」     P377

キュブラー・ロスは例えば、『続・死ぬ瞬間』では、次のように書いている。「死はこの生における成長の究極段階である。トータルな死というものはない。ただ肉体が死ぬだけなのだ。自己といい、霊というもの、その他あなたがどういう名前で呼ぼうとも、このものは永遠である。死はカーテンだ。我々が意識しているところの存在と、我々から隠れている存在とを仕切るカーテンである」

肉体は死んでも、霊魂は不滅であり、存在の次元を変えて永遠に生き続けるという、ギリシア哲学からキリスト教に受け継がれた古典的な霊魂不滅説がキュブラー・ロスの中で生き続けているのである。



『臨死体験 上』


2011年04月02日(土) 東電国有化

●賠償金は10兆円超●自民は猛反発●民主党支持母体の東電労組のために出てきた話


福島第一原発の事故で巨額の賠償金を求められることが避けられない東京電力に、国有化議論が沸き起こっている。さらに、「原子力安全・保安院を経済産業省から分離する案まで浮上した。永田町でもカンカンガクガクの議論が続けられているが。

玄葉光一郎国家戦略担当相(46)は29日の会見で「東電の在り方はさまざまな議論が当然あり得るだろう」と話した。同日、枝野官房長官は(46)現時点で検討していることはない」と否定。とはいえ、東電に求められる賠償金は10兆円を超えるとも言われている。こんな状況では、電力供給に支障が出てしまう恐れがあるために、国有化の議論が出ているわけだ。

「想定外の天災」を理由に人ごとのような東電幹部、現場を知らないエリート集団と言われる”国家企業”だけに「原発を任せてはおけない」と誰もが思っているはずだ。

民主党議員は「国有化の話が出てくるのもおやむを得ないだろう。今や『民から官へ』だよ」と話す。永田町関係者は「国有化になると、賠償金を国が肩代わりすることになる。税金で払うということ」と指摘。今回の原発事故でも避難区域や、農作物の出荷規制など、東電の他に国が保証する部分があるが、国有化なら全額国負担となる。

自民党関係者は「国有化の必要はない。したところで原発事故がよい方向に進展するわけじゃない。民主党の支持母体である東電の労組のために出てきた話じゃないんですか」と反対する。公務員になったら社員の身分は保障される。そんな目的が透けて見えて違和感があるとも言う。しかし、国の支援はやむを得ないとも。

国債発行論も

「賠償金は誰がどう見ても払えない額になることはわかりきっている。国民には納得いかないかもしれないが、国は10兆でも20兆でもそれ以上でも国債を発行し、借金をして肩代わりするべき。増税は絶対いけない、借金は将来的に東電から回収すればいい。過去にも企業に対する公的資金の注入はやってkたじゃないか」(自民党関係者)

並行して浮上している保安院の分離についても反対はある。「中身の人間が変わらないなら、天下り先が省内にあるのか、省外にあるのかの違いにしかならない」(政府関係者)放射能漏れ事故の処理が急がれるが、落ち着けば東電と保安院などの責任追及が始まるのは必至だ。



『九州スポーツ』


加藤  |MAIL