加藤のメモ的日記
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2011年05月30日(月) |
宇宙飛行士の選抜 (33) |
「回転いす検査」は回転するイスに座って目隠しをして、合図に合わせて頭を前後に振るものだが、、二次選抜、三次選抜の検査を通じて一番苦しい検査だった。宇宙空間では無重力状態となるが、宇宙飛行士は無重力の世界に適応するまでの数日間突然吐き気に襲われることがある。この現象は宇宙酔いと呼ばれ、アメリカの1960年代初期のジェミニ宇宙線の頃から知られていた。
とくに宇宙服を着て宇宙船の外で宇宙遊泳をしている時にヘルメットの中に吐くと、宇宙船の外ではヘルメットを脱ぐことはできないので宇宙飛行士の生死にかかわる事故になる可能性があり、その防止法や宇宙酔いにかかりにくい宇宙飛行士の選抜方が研究されてきた。「回転いす検査」は人工的に宇宙酔いを起こさせ、比較的船酔いに強いものを選抜する方法として採用されたものである。
毛利衛宇宙飛行士も向井千秋飛行士も当然この検査に合格して宇宙飛行士に選ばれたのであるが、二人とも宇宙飛行では軽い宇宙酔いを経験したと語っている。私の場合、「回転いす検査」が終了した後も、吐き気が収まるまで二時間ほどかかったことを記憶している。作業適性診断は手先の器用さを調べる試験と、観察の注意深さを調べる試験が行われた。試験の内容はそれほど高度なものではなかったが、とにかく12名の中から次の選抜への生き残りがかっているので気を緩めることはできなかった。
昨年事故で逝った天才F1ダライバーのアイルトン・セナは運転の技量が抜群であったことはいうまでもないが、マシンのセッティングでもやはり抜群であった。F1レースは毎回異なったサーキットを転戦して行われ、マシンをそのサーキットに最適になるようにセッティングする必要がある。F1ドライバーとして大成するには運転の技量に加え、注意深い観察眼とそれを言語で伝える表現力が欠かせない。超高速でサーキットを走りながらマシンの調子や反応を的確にピットに伝えることが要求されるのである。
スペースシャトルに毛利衛宇宙飛行士が登場して実験を行なっている最中に、実験装置に冷却水の水漏れが起こったため、最悪の場合には10種類ほどの実験を全て諦めなければならない事態になったことがある。しかし注意深い観察で、水漏れの状況を地上に的確に伝えることができ、地上からの指示に従って水漏れを修理した結果、実験はすべて行うことができた。
映画にもなったアポロ13号の事故の場合も。月への途上で酸素タンクが爆発し、刻々と酸素が失われていく状況の中で3人の宇宙飛行士が無事に生還できたのは、危機の中で状況を的確に把握し、それを地上に正確に伝えることができたからである。
起こりえるケースとして最終的に87種類の異常が抽出されたが、実は88番目のものがあった。それは「予期せぬ出来事」というケースであった。87種類のケースについては宇宙飛行士がどう対処すべきかの明確な指針が作られていたが、88番目の「予期せぬ出来事」に対しては具体的な指針は作られなかった。スペースシャトルの飛行中に「予期せぬ出来事」が発生した場合、宇宙飛行士は自分で判断して最良と思われる対処をすることが求められている。与えられた指示を忠実に守ることは大切だが、それだけのマニュアル人間では宇宙飛行士は務まらない。
1992年、毛利衛宇宙飛行士がスペースシャトルに搭乗して実験を行なっている最中に、実験装置から水漏れがおこった。実験装置には電気炉などから出る熱を逃がすために冷却水の配管が組み込まれている。地球上では少しばかり水が漏れても、床にしたたり落ちるだけで、ふき取ってしまえば大した問題にならないことが多い。
しかし宇宙空間では無重力状態になるため、漏れ出した水は床に落ちることなく濡れた個所で大きな水滴となって膨らんでいく。その水滴がスペースシャトルのわずかな振動で装置の内部に漂い出し、電気の接点に付着すれば大きな事故に発展する危険もある。地上ではたいしたことのない水滴が宇宙空間では危険な凶器にもなりうるのである。
スペースシャトルに積み込まれた実験装置の水漏れを止められなければ、その実験装置を使用禁止にしなければならず、そうなれば長年かけて準備した多くの実験ができなくなるおそれがあった。地上では実験装置の水漏れを止めるための方法が技術者たちによって検討され、修理の方法がスペースシャトルに伝えられた。修理の方法はわかっても、地上から宇宙へ修理工を送ることはできない。修理は宇宙飛行士自身が行わなければならないし、工具や部品もスペースシャトルに準備してあるものだけしか使うことができない。
毛利衛宇宙飛行士と実験のペアを組んでいたマーク・リー宇宙飛行士が、地上から支持された方法で修理を行なって水漏れは止まり、計画されていた実験はすべて完了することができた。宇宙飛行士は自分が担当する装置やシステムについてよく知っていると同時に、それらにトラブルが発生した場合には、修理もできるだけ熟練した腕前が要求されるのである。
宇宙ステーションは地球の周囲を回っているので、宇宙飛行士の生命にかかわるような事態が発生した場合には緊急に地球へ帰還することも可能である。しかし2020年から2035年頃に行なわれると考えられている有人火星探査では、いったん地球を出発した探査船は最短でもも2年間は地球に帰還できない、有人火星探査戦は6~12名の宇宙飛行士が搭乗すると考えられているが、2年の探査旅行の間に起こるかもしれないすべての事態に搭乗員だけで対処しなければならない。もちろんコンピューターの支援や地球からの指示を受けることは可能であるが、実行するのは搭乗員である。宇宙飛行士は科学技術分野の能力、語学力、肉体的適性、心理的適性などのすべての点で一定以上のレベルにあることが要求される。
『宇宙飛行士になりたい』
2011年05月26日(木) |
論争とは泥仕合のことか (32) |
ごく最近出版された佐原真氏の著書『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)に出ていたことだが、縄文馬をめぐる大論争があったという。国立民族学博物館で開かれたシンポジウムで、国分直一氏がこの馬の存在について否定的な発言をすると、田中塚氏が出土した馬の骨に含まれるフッ素の分析結果に基ずいて、その発言に”あやしい”という表現で応じたという。
ところが、それに対し、「発掘をした野口義麿氏を信じないのか」とつかみ合いともなりそうな“すごいやり取り”があった。事実関係に関する論争でも、人を信じるか信じないかといったことで、事実についての問題から離れてしまい、科学に基ずいた議論ができなくなってしまうことがある。これもその一例である。
化石骨や石器など出土品については、発掘の手続きや方法によって、誤った結果をもたらすことのあることが佐原氏の著書にも示されているが、縄文土器と一緒に馬の骨が発見できたからといって、それらが同一時代のものとは直ちにいえないのは当然である。それなのにフッ素分析の結果に基ずいた発言に対し、つかみ合いのごとき激しい応酬があったとはおどろく。
日本では、学問的な事実を発言、発表をした人の人格やその地位との間の峻別ができていないので、事実に基ずいた論証でやり込められた場合でも、人格が汚されたとか、人の顔に泥を塗ったとかいったことになってしまう。これでは学問的な正しい論争などできはしないのである。非論理がまかり通って学問がやれるなどと考えているほうが、実はおかしいのである。
『大学の罪と罰』
2011年05月23日(月) |
沖縄の悲劇が生まれた理由(31) |
…こうして沖縄作戦の戦局は悪化の一途をたどり、住民約10万人が死亡するという悲劇を生んだ。悲惨な集団自決があちこちで起こった。これは、日本軍が「敵に辱めを受けるぐらいなら、自決せよ」と教えたからだとされている。実際、アメリカ軍はガダルカナルでもニューギニアでも日本兵を皆殺しにした。捕虜をとらなかった。
洞窟に日本兵が立て籠もっていると、出て来い、とカタコトの日本語で呼びかけて、出てくると火炎放射機で丸焼きにした。猿の丸焼、というわけだ。ハルゼー艦隊司令官は、次期作戦はいつかと聞く新聞記者に向かって「もうすぐ猿の肉をたくさん取ってくる」と言っている。パプアニューギニア、フィリピン、レイテと、米軍は捕虜をとらずに攻めてきた。捕虜になったのは、人事不省だった兵隊ぐらいである。南方作戦では、手をあげて出て行ったら殺されるというのは、常識になっていた。
大岡将兵の小説でも、主人公が投降しようとして出て行きかけたら、他の兵隊が先に「降参、降参!」と言って飛び出し、アッという間に蜂の巣にされてしまうという場面がある。これは特殊な例ではない。両手をあげて出ていけば助かる、という国際条約は存在しない。降伏とは、集団でするもので、これは現在の米軍の戦闘マニュアルでも、そう書いてある。
降伏とは指揮官同士の話し合いで決定する。指揮官の命を帯びた軍使が白旗を揚げて、条件交渉をして降参する。ハーグ陸戦規定はそうなっている。個人投降の規定はない。個人投降は殺してもよい。個人投降を必ずしも受け取る必要はない。考えてみれば当たり前の話で、勝ちそうな時は攻撃して、負けそうになったら助けてくれというのは虫がよすぎる。
大岡将兵の小説に書いてあるのは、アメリカは降参する人間を殺したと弾劾しているのではない。「やばいな、これでは殺される。じゃあ投降するのはやめた」と逃げて、死んだ戦友の肉を食う。それがこの小説のテーマだ。それからもう一つ付け加えると、戦友は「死んだら俺の肉を食ってもいいよ」と言って死ぬのである。これは小説だが、大岡氏はフィリピン線の体験者だし、人間は昔から食人をしているから、切羽詰まればあり得ない話ではない。
戦後に間違った常識がまかり通っているが、激戦の最中に捕虜はとらない。足手まといだし、いつ裏切るかわからない。片付けて進むのは当然である。アメリカ軍もイギリス軍もソ連軍も、そのようにして戦ったが、戦後、映画にされて広く世界に伝えられたのは、負けたドイツ軍と日本軍のほうだけ、というのは気の毒だ。これは戦争について考えるに際し、根本の常識が間違っていることの一例である。
『人間はなぜ戦争をするのか』
地震大国・日本の原発研究者の中には手厳しい批判をしていた人たちがいたのである。にもかかわらず、お金をかけたくないというコスト優先主義によって無視されていったのだと思う。福島原発の1~4号機に使っている原子炉は、米・ゼネラルエレクトリック社が作ったもの。1975年にはすでに危ういと、自身の職をかけて闘った同社の設計者、デール・ブライデデンボーという男がいた。
彼は冷却機能が失われると内部からの圧力で損傷してしまうと懸念していた。格納容器の貧弱さも、これまた想定内だったのである。神戸大学の石橋名誉教授は指摘していた。「大地震が起これば、長時間外部電源が止まって、早急に修理されない可能性がある。激しい揺れで備蓄燃料が漏れてしまうこともありうる。非常用の発電機が立ち上がらない可能性も無きにしもあらず」と。今回の福島の事故が想定されていたのだ。
そもそも、関東の電力を供給するのに、なぜ原発を福島に作るのか。それは事故がありうるからだろう。東京に原発を作って、ひとたび事故が起これば、首都機能は壊滅する。だから作らない。事故が起きうることは想定内なのだ25年前、チェルノブイリ原発が炉心爆発を起こした。僕は94回医師団を送って救援しながらチェルノブイリを見てきた。今も原発から200キロも離れていて高汚染が続いている地域がある。原発の傷は想像以上に深い。
福島原発での事故はチェルノブイリと同じレベル7になった。ということは、25年に1度、原発の大事故が起きる可能性があるということだ。日本の原発は安全と、原発を推進してきた科学者や政治家は言い続けてきた。100%大丈夫な技術などありえないはずだ。原子力安全委員会や原子力安全・保安院、そして東電の幹部や政府の担当者たちは現場を歩いてみるといい。地震と津波、そして目に見えない放射能と風評被害。現地の人は、今も先がまったく見えない。
東電は、コストに合わない意見は切り捨ててきた。それを後押ししてきたのは、旧政権や新政権の政治家達だ。さらにその上で、「原子力村の学者」が「科学的「という呪文のような言葉を使いながら、福島原発の欠点と弱点を覆い隠してきた。反対意見をいう人、異論を唱える人をこの国はもっと大事にしなければいけない。民主主義の大原則だ。原子力村のナアナアのネットワークが、こんな大事故を起こしたのだ。
核燃料として利用されるウランは、あと50年で枯渇するといわれている。埋蔵量は豊富なのだが、海底などに多くあり、採掘しても採算に合わない。だから長くは続けられないエネルギー政策なのだ。そろそろパラダイムの転換が必要だ。今回の事故で世界では原発の安全基準が厳しくなるだろう。安全確保のための経費を考えると、原子力発電はコストが安いとは決していえなくなる。
風力発電や太陽光発電などの再生可能なエネルギーは、2010年の世界では、合計3億8100万kwになり、原子力発電のエネルギーを抜いた。今や、これが世界の潮流である。日本の意識が遅れているだけ。貿易立国として、産業界は再生可能エネルギー促進に全力で取り組み、国がそれを全力で支援すべきだ。
土壌改良がきちんとできるまでに何年かかるだろう。農地を、町をもとに戻すには何年かかるのだろう。海を汚してから、日本への同情は少なくなった。海外からの風評被害をなくすのにも何年もかかるだろう。数年後、事故の可能性が低い原発を開発しました、というのでは世界から尊敬されない。今度こそ、原発の事故を起こしませんなんて寝言はやめてほしい。
福島第一原発から20キロ圏内に代替エネルギーとして太陽光パネルを敷き詰め、原発の沖合には海上風力発電の設備を置く。世界をアッといわせる必要がある。代替エネルギーへの転換に日本の技術力を見せつければやっぱり日本は凄い、と世界が称賛するのではないだろうか。発想の転換が必要だ。
『週刊ポスト』
…2002年に、東電が自主点検した際、原子炉がひび割れしていたのに国に報告せず、当時の東電の社長、会長が引責辞任に追い込まれた事件のようなことが他にもなかったのか、ということが今後の大きな争点だからだ。もし、東電に瑕疵があれば当然その責任は膨れ上がり、東電は水俣病患者への補償を行なうためだけに存続しているチッソや、薬害エイズ事件を引き起こして消滅したミドリ十字と同じ運命を辿ることになるだろう。
被害を拡大した高すぎる免責率 さらに、国が国民を守る責任を本当に果たすためには、保険業界に対する指導も不可欠だ。例えば、05年にアメリカ南東部を襲ったハリケーン・カトリーナの場合は、被害総額12兆円の半分以上が保険でカバーされた。一方、阪神・淡路大震災の場合は6兆~7兆とされる被害総額のうち保険でカバーされたのは20%ほどでしかなかった。
読売新聞によれば、東日本大震災で被害を受けた自動車の大半についても損害保険が支払われない見通しとなっている。車両保険の契約者のうち、地震や津波などによる損害を補償する特約の加入者が1%未満にとどまっているためで、損害保険会社がその特約を積極的に販売してこなかったからだという。
つまり、本来なら国は国民の負担を減らすために平素から保険業界を指導すべきなのに、実際は何でもかんでも免責にしてしまうイカサマな保険の販売を容認し、いざとなったら1000年に一度の大震災と巨大津波の被害はカバーされないという状況をもたらしたわけである。「国民の生活が第一」というスローガンが聞いて呆れる。
東電にしても責任ある民間企業として、今回のような大規模事故を想定した保険に入っていなければならなかったはずである。前述の原賠法により、電力会社は原子力損害賠償責任保険への加入が義務付けられて入るが、その賠償措置額は一つの原発について1200億円でしかなく、今回の事故の賠償には全く足りない。政府は最悪の事故が起きても国民に被害が及ばないようにするために保険に加入しなさい、その保険料に関しては電気料金に反映してもかまわない、と電力会社を指導すべきだった。
それも怠っていたこの国の政府には、基本的に国民の生命や財産を守るという思考体系が欠落していると言わざるを得ないだろう。つまり、企業の国の社会的責任が、日本政府には欠落しているのだ。福島第一原発の事故の教訓、それは無能な政府を持つと国民がどれだけ苦しい生活を強いられ、かつまた高いものにつくか、ということだ。
『週刊ポスト』
2011年05月14日(土) |
自然エネルギーの不都合な真実 |
4月22日の朝日新聞に夢のような見出しが躍った。〈風力なら原発40基分の発電可能 環境省試算〉記事によれば、日本全体で風力発電を導入すると稼働率を24%としても、原発7~40基分に相当するというのである。検証してみよう。日本で発電可能な風が吹く時間は、年間約2000時間とされるから、「稼働率24%は妥当といえる。
日本で導入されている大規模有力発電で使われる2000kwクラスの風車で考えるならば、原発1基分(100万kw)を代替するにはおよそ1770基の風車が必要になる。風車が互いに干渉しないためには風車を、最低でも100メートルづつ離す必要があるから直線に並べれば177㎞になる。ざっと東京から福島県のいわき間の距離だ。その40基分となると、この40倍だから、北海道の稚内から鹿児島県の薩摩半島最南端の指宿間を1往復する計算になる。もはや現実的ではない。
風力発電はヨーロッパなどでは大規模な導入実績や計画があるが、日本には当てはまらないという。大陸の最短にあるヨーロッパでは、一定して偏西風の西風が吹くが、東端の日本は風向も風力も安定しない。また、ヨーロッパの海は遠浅で洋上風車が建設しやすいが、日本はその点で不利なうえ、台風や落雷が多く、実際に被害も起きている。
「太陽光神話」も、原発事故を機に広がっているが、コストと発電能力の面で、「神話」の域を出ない。コスト面では、資源エネルギー庁の試算で、太陽光発電は1kwあたり49円とされている。これは原子力の約8倍である。実際の電気料金と比べても、現在1kwあたり15円程度だから、その3倍もかかる。
現状でも、日本の電気料金は先進国のなかでも高く、OECD30か国中8番目である。これが3倍の値段になれば、国民生活を圧迫することはもちろん、あらゆる産業が国際競争力を失って倒れるか、海外に出ていくだろう。発電能力は どうか。経済学者の池田信夫氏はこう語る。
「100万kwの原発1基分を発電するためには、面積でいうと山手線の内側すべてにパネルを設置しなければならない。風力もそうですが、再生可能エネルギーは広大な土地を必要とするのです。砂漠の多いアメリカでは開発可能でも、日本は国土面積がその25分の一で、平地が3割しかないので向いていない。そのアメリカでさえ、ビル・ゲイツ氏の予測によれば、将来的に再生可能エネルギーでまかなえる電力は最大30%とされています」
原発1基分100万kwを発電するためには、太陽光パネルが約、山手線内と同等の面積(58㎢)が必要になる。東北電力が建設中の「八戸太陽光発電所」は3ヘクタールにパネルを敷き詰めた国内最大規模の「メガソーラー発電所」だが、その発電能力は年間160万kwにすぎない。原発は年間2800億kwほど発電しているので、メガソーラー1基は原発1基のたった3000分の1である。
国の発電の機関として考える場合。風力と太陽光には別の致命的欠陥がある。発電量が一定しないことである。天候や風況が目まぐるしく変わる日本では、夏に太平洋高気圧に覆われて列島全体が「凪」になれば風力発電は止まるし、梅雨には太陽光発電はほとんど動かないだろう。「その間は別の発電で支えればいい」ともいえない。安井氏が解説する。
「どこで発電して、どこへ供給するかを制御する作業をスイッチングと呼びますが、これは発電、需要の変化を予測しながら人間がコントロールする神業のような作業です。そこに発電量の揺らぎが大きい風力や太陽光が10%以上入ってくれば、大停電を招く恐れもあり非常に危険です。電力系統の設計を根本的に変更する必要があります」だから現実に、世界で風力や太陽光を発電の基幹にしている主要国はない。
「新しいエネルギーとして私が有望だと思うのは、天然ガスの一種であるシュールガスです。これまでは採掘コストが高くて開発されませんでしたが、技術革新で採算が合ってきた。埋蔵量は膨大で、今後100年以上はもつ。これを利用したガスタービン発電はますます注目されるでしょう。日本は優れたエネルギー技術を持つ。電力会社の独占を排除してベンチャーを促せば、新しい方策が見つかるでしょう」
原発促進が頓挫したからといって、まるで風力や太陽光が「夢のエネルギー」のような幻想を抱くことは危険である。新しいエネルギー開発が「未来の問題」ではなく目の前の課題になった今こそ、冷静で多角的な国民論議が必要なのではないか。
『週刊ポスト』
原子炉の炉心の温度は、通常300度C前後になる。燃料が核分裂を起こして高熱を発生させるのだが、福島第一原発の事故では冷却水の水位が下がり、2000度C以上に達したと推定されている。そのため炉心が損傷して、核燃料そのものが溶融するに至った。
それだけのエネルギーを生み出す核燃料は、極めて小さな物質の集合体である。ペレットと呼ばれる直径、高さともに1センチ程度の、濃縮されたウラン粉末を、円柱状に成型して焼き固めたもので、原子力燃料の最小単位といえる。
ペレットに含まれるウランは、同じ量の石油の約200万倍のエネルギーを作ることができる。日本で多く稼働している沸騰水型原子炉の場合、1個のペレットで一般家庭の約8カ月分の電力を賄うことができる。このペレットが約400個収められたものが核燃料棒だ。沸騰水型原子炉では、炉の出力にもよるが、数万本の核燃料棒が装填されている。福島第一原発1号機には、約900万戸、2号機には約1200万個ののペレットが炉心にある。
すさまジイエネルギーの塊を扱う原子炉だが、運転が開始された当初は核燃料棒の破損事故がよく起こり、何度も炉が停止していた。工学博士の舘野淳氏は語る「ペレットが変形して、核燃料棒を破損させてしまっていたのです。その後、改良が進みましたが、まだ課題が残っています。通常では問題がないのですが、今回のように燃料棒が冷却水の水面より上に露出して1200度C以上の高温になると、状況が変わります。炉心に発生した水蒸気と燃料棒が反応して、大量の水蒸気が生み出され、大爆発に繋がることがあるのです」核燃料棒は、大きなエネルギーと危険が共存した物質なのだ。
核燃料棒が引き起こす事故は水素爆発だけではない。最も怖いのがメルトダウン(全炉心溶融)だ。メルトダウンは、炉心の冷却水が足りなくなった結果、核燃料棒が高熱で破損する「炉心損傷」から始まる。温度が上がり続ければ、ペレットが溶けだす「燃料ペレット溶融」へと進み、最終的に核燃料棒がすべて溶け落ちる「メルトダウン」に至る。工藤氏が語る。
「炉心損傷では、燃料棒に封じ込められていた放射性ヨウ素などが放出されます。ペレットは2600度Cを超えると溶けだし、どろどろの状態になって、原子炉圧力容器の底に落ちます。この状態がメルトダウンです。その時、ある程度まとまった量が落ちて、圧力容器の下に溜まっている水に触れると、水が水蒸気に変わることで一気に原子炉内の圧力が高くなり、水蒸気爆発が起こる可能性がある」
最悪の場合、大爆発が起こり、頑丈な圧力容器も原子炉格納容器も吹き飛ばしてしまうのだ。過去、重大なメルトダウン事故は世界に3例あった。‘69年のリュサン原子炉事故(スイス)、‘79年のスリーマイル島原発事故(アメリカ)そして‘86年のチェルノブイリ原発事故だ。舘野氏が指摘する。
「冷却水が流れ出てしまう空焚き事故が進行すると、炉心溶融に至ります。国内では、関西電力の美浜発電所(福井県)で起きた2つの事故が最も危険だったと思う。‘91年に、2号機で蒸気発生器の伝熱細管が破損し、冷却材を一時喪失する事故が発生しました。‘04年には、3号機の配管が破断し、蒸気漏れ事故で5人が死亡した。どちらも、もし緊急炉心冷却装置が作動しなければ、メルトダウンを招きかねない重大な事態だったのです」メルトダウンは、特別な事故ではなく、いつ何時にも起こる危険がある。
『週刊現代』5/7
2011年05月10日(火) |
海に汚染水を流すとは… |
中国は現在、原子力発電の能力を1080万kwまで高めていますが、それを2030年までに8000万kwまで増やそうとしている。さらに台湾も韓国も原発を増設しようとしています。そうしたなかで、もし日本が原子力の平和利用技術に対するこだわりを捨ててしまったら、日本はエネルギーにおける国際的な立ち位置を失ってしまう。原子力安全利用への貢献どころか、発言力を失って、どこからも相手にされなくなってしまいます。
今、IAEA(国際原子力機構)の事務局長は日本人ですけど、IAEAで一定の発言力を持ち、世界の原子力コントロールにおいて日本が役割を果たしていこうというなら、専門性の高い原子力技術の蓄積は不可欠です。つまり日本だけが原発から撤退する、あるいは距離をとることで何かが保たれるかといったらそうじゃないからこの問題は複雑なんです。
東北電力の女川原発は津波にも持ちこたえた。女川は大丈夫だったのに、なぜ東京電力の福島第一原発はやられてしまったのか。ここは重要ですよね。女川原発は海岸から15メートル高い所につくられていた。これは偶然だったのかというと、そうではなくて、明らかに津波を想定したものです。過去に何度も津波に襲われたエリアだから、15メートル高い所に設置しようと。これは東北電力の判断だったわけです。
それを想定しなかった東電は、津波に襲われて電源供給を断たれた。しかも万一の備えだったディーゼル発電機も、地下に配置していたために冠水して動かなくなってしまった。そして、最も肝心な放射性物質の漏洩が起きたらどうするかという想定もなされていなかった。
これはあってはならないという思いから、充分な布陣を敷いていなかったと言わざるを得ない。実際に放射能漏れを起こした時、緊急危機管理上どうするかを担当する専門家があまりにも脆弱だった。つまり、原子力を安全に維持、稼働させるための技術陣はそろっていたけれども、いったん多重防御が破られた後の対応能力に著しく欠けていたことを見せたのが今回の出来事です。
原発は儲かる。原発で大事故があったらもう終わりだが、そんなことはあり得ない、と思うことにしよう。‘68年の始め、福島の木村知事は、新聞記者を集めた新年の挨拶で誇らしげに語った。「すでに大熊町に建設州の福島第一原発に続き、東京電力は新たに富岡、楢葉両町に第二原発の建設を決定いたしました。さらに候補地の選定を進めていた東北電力も、浪江町を最有力候補とすることをこのほど決定いたしました。これによって『浜通りのチベット』といわれた双方地方が、世界一の原子力センターに生まれ変わるのであります」
大熊町で公務員をしていた男性(73歳)は、避難所で暮らす今、本誌の取材にこう語る。「子供の頃、第一原発があった海辺は子供たちの格好の遊び場でした。何もないけど、海で泳いだり虫取りをしたり、そういう場所だったんです、でも暮らしは貧しかった。いわきにあった炭鉱の恩恵を受けることもなく、経済成長の波にも乗り遅れ、町自体が過疎化していくことは子供心にもわかっていました」
その土地は戦争中、特攻隊の訓練場だった。終戦後、民間に払い下げられた時に、半分を堤康次郎率いる国土計画が買い取り、塩田として使用していた。そんな浜通りに‘60年、突如持ちあがったのが原発誘致の話だった。大人たちは一も二もなく飛びついた。町にカネが落ち、人が集まり、雇用が生まれる。反対の声が上がろうはずもなかった。
なぜ、東電は浜通りに目をつけたのだろうか。背景には‘60年に原子力産業会議が行ったある試算があった。日本初の原発となる茨城県東海村の東海一号炉が重大事故を起こした場合、死者720人、障害5000人、要観察130万人。お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都近郊には造れない。それが東電の判断だった。
原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で、他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットはほぼ自動的に浜通りに決まった。何のことはない。「危険すぎて首都圏には造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島県浜通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。
受け入れた町はどうなったか。双葉町の県議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4件5件と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。東電の100%出資の子会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。
また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚には餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタつぶれました」結局、潤ったのは最初の十年で数十億(現在の貨幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。それも、町役場やコミュニティーセンターなどの箱モノに消えた。広く整備された道路に立ちならぶパチンコ店とコンビニ。貧しくても住民同士支え合っていたかってのコミュニティーは、完全に失われた。
ただ、原発という巨大なシステムは、夢から覚めたからといって追い出すことはできなかった。原発反対運動を続けてきた元福島県議、伊東達也氏(70歳)が言う。「私らは‘04年から、大津波が来たら原発はもたない、と東電に訴え続けてきた。でも何も変わらなかったし、真剣に報じてくれるマスコミは一社もなかった。自分の無力さが情けなく、そして悔しくてならない。原子力産業は、産官学にマスコミと、すべてを掌握しながら進んでいったんです。今、東電は『想定外』を連発するけど、彼らには『ただあなた方が想定したくなかっただけのことです』と言ってやりたい」
最後に、大熊町の住民が呟いた言葉を記しておこう。「誘致が決まった時は皆で大喜びしたんだから、東電ばっかりを責める気持ちにはなれねえ。ただ、騙されたな、とは思う。事故はもちろんだけど、廃炉にするにも莫大な時間とカネがかかるなんて、そんな厄介なシロモノだなんて、俺ら住民は一人も知らなかったんだ」
『週刊現代』
2011年05月09日(月) |
塩の健康常識 (30) |
肌のカサカサ、傷の治りが遅い人の共通点は、塩の不足が原因である。塩のナトリウムイオンが体内に不足すると、新陳代謝は衰えてしまいます。人間の細胞は細胞膜を通して必要な栄養素を細胞外液から取り組み、代謝の結果できた老廃物をまた細胞外液に出していて、この内液・外液間の物資の移動は浸透圧の差を利用する形で行われています。このときにナトリウムイオンの量が少ないと、物資移動が活発に行われなくなり、新陳代謝がスムーズにいかなくなるのです。その為、新しい皮膚の再生が遅くなって、皮膚がカサカサしたり、傷が治るのにも時間がかかるというわけです。
腎臓は塩が足りないと弱ってくる
ナトリウムは腎臓の働きを促進する役割も担っています。腎臓は血液をきれいにして、一部再吸収するという働きを持っていますが、この働きはナトリウムイオンによって助けられています。また腎臓には尿を作って、老廃物を尿と一緒に体外に出す働きがありますが、ここでもナトリウムイオンが大きな手助けをしているのです。
そんなナトリウムが不足すると、人間の体は、尿の中に出したナトリウムを再吸収して外に出さないように機能し始めます。そのことが腎臓に大きな負担になり腎臓は弱ってしまうのです。そのうえ尿の量も減るので、体内の老廃物が体外に排出できなくなり、健康が阻害されてしまうのです。
高血圧の犯人は『塩』と決めつける説に疑問があることは、実は10年以上も前から日本の学者が指摘していたことでした。アメリカではすでに1980年頃から、この誤りへの反省が始まっていたのです。しかしこうした医学界の新情報はなかなか私たちの耳には入ってきません。そのため日本ではいまだに『塩』は頭から悪者扱いされ、高血圧の患者さんたちは必要以上に塩を控えた味気ない食事を強いられているのです。
こんな偏った思い込みに陥ったのは、戦後まもなくのこと、アメリカのダール博士が、日本の都道府県別の食塩摂取量と高血圧発生率との関係を調べ、「高血圧は塩分の取りすぎが原因」という説を発表しました。それによると、1日30グラムもの食塩を摂取していた秋田県では、成人の約40%が高血圧を発症。これに対し当時のアメリカ人は現在の日本人と同程度の12~13グラムの塩分摂取で10~15%の発症、大阪ではおよそ15グラムで約20%。さらにアラスカのエスキモーは食塩摂取がほとんどゼロで、高血圧症発症もゼロという調査結果だったのです。
ダール博士はこのデータをもとに「塩と高血圧には相関関係がある」としました。さらに「エスキモー、あるいは原始種族の生活には塩は存在しなかった」との推論をもとに「人間にはもともと塩への欲求はなかったはずだ。従って塩を取らずとも人間は生きていける」とまで結論づけ、塩を徹底的に悪者扱いにしたのです。もちろんこのように極端で独善的な主張は、現在ではすっかり支持を失うに至っています。
『塩と水の聖なる話』
大熊町で公務員をしていた男性(73歳)は、避難所で暮らす今、こう語る。「子供の頃、第一原発があった海辺は子供たちの格好の遊び場でした。何もないけど、海で泳いだり虫取りしたり、そういう場所だったんです。でも暮らしは貧しかった。いわきにあった炭鉱の恩恵を受けることもなく、経済成長の波にも乗り遅れ、町時代が過疎化していくことは子供心にもわかっていました。
その土地は戦争中、特攻隊の訓練場だった。終戦後、民間に払い下げられた時に、半分を堤康次郎率いる国土計画が買い取り、塩田として使用していた。そんな浜通りに‘60年、突如持ちあがったのが原発誘致の話だった。大人たちは一も二もなく飛びついた。町に金が落ち、人が集まり、雇用が生まれる。反対の声が上がろうはずもなかった。
「私の家は先祖代々、米を作っていました。家族を養うのにもぎりぎりで、農閑期には出稼ぎしなきゃならない状態。そんな時に、『夢の原発』ですよ。誰もが疑いもせず飛びつきましたよ。だって、政治家も東電も『安全だ』って呪文のように繰り返すから……」こう語るのは福島県双葉町で建築業を営んでいた男性(61歳)だ。現在は避難生活を送っている。
日本で「反原発」の動きが生まれるのは、‘79年の米スリーマイル島原発事故以降のこと。‘60年といえば、マスコミを含め日本中が「原発は夢のエネルギー」と盛り上がっていたころだ。何せ、読売新聞社主の正力松太郎自らが原子力委員会初代委員長を務め、紙面でも「原発推進大キャンペーン」を張っていたのだ。浜通りの大人たちが反対しなかったのも、無理からぬことだった。
しかし、なぜ福島だったのか。スリーマイル島の事故以後、原発反対運動に身を投じた双葉町の住民が解説する。「建前は大熊と双葉が誘致に手を挙げたことになっていますが、それは順序が逆。‘55年に原子力発電課をスタートさせた東京電力が、すぐさま浜通りを第一候補としてピックアップしたのです」その背景には、当時、東電の「次期社長」と召されていたある人物の存在があった。
「当時副社長だった木川田一隆氏です。浜通りより少し内陸の伊達郡の出身地で、福島の地理には精通していました。県は県で、‘60年に原子力産業会議に加盟。浜通りの立地調査を開始した。時の佐藤善一郎知事と木川田氏のホットラインで、話はとんとん拍子に進んだんです。後に「東電方式」と呼ばれるやり方だが、第一原発が大熊、双葉という二つの自治体のまたがって造られることも早々と決まった。こうして「利権」を分散することで、多くの住民を籠絡する作戦だった。
佐藤知事は、大熊、双葉両町長を呼びつけて言ったという。「あんたら財政的に困ってんだろう。原発を誘致したらどうだ。固定資産税が入るし、将来、町の発展につながるんだから」
なぜ東電は、浜通りに目をつけたのか。背景には、‘620年に原子力産業会議が行ったある資産があった。日本初となる茨城県東海村の東海1号炉が重大事故を起こした場合、死者720人、障害5000人、要観察130万人。お手盛りの過小評価試算でこれである。危険性を考えると、とてもじゃないが首都圏には造れない、それが東電の判断だった。原発が発電するために必要な大量の水があり、人口が希薄で、他の産業が廃れているエリア。そう考えた時、ターゲットは自動的に浜通りに決まった。
何のことはない。「危険すぎて首都圏に造れない」という理由で、過疎地の財政難につけ込み、福島浜通りに白羽の矢を立てたに過ぎなかったのである。受け入れた町はどうなったか。双葉町議を8期務めた丸添富二さん(76歳)が語る。「町は東電の下請け、孫請け、ひ孫請けの原発労働者で溢れ、確かにサービス業は潤った。東電の社員が4件5件と飲み歩き、ネオン街も栄えました。しかし、それは最初だけだった。
東電の100%出資の子会社『東双不動産』という会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚に餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタと潰れました」
結局、潤ったのは最初の10年で数十億(現在の紙幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。それも、町役場やコミュニティーセンターなどの箱モノに消えた。広く胃腸整備された道路に立ちならぶパチンコ屋と混b位に。貧しくても住民同士支え合っていたかってのコミュニティーは完全に失われた。
ただ、原発という巨大なシステムは、夢から覚めたからといって追い出すことはできなかった。原発反対運動を続けてきた元福島県議・伊藤達也氏(70歳)が語る。「私らは‘4年から、大津波が来たら原発はもたない、と東電に訴え続けてきた。でも何も変わらなかったし、真剣に報じてくれるマスコミは一社もなかった。自分の無力さが情けなく、そして悔しくてならない。原子力産業h、産官学とマスコミと、すべてを掌握しながら進んでいったんです。今、東電は『想定外』を連発するけど、彼らには『ただあなた方が想定したくなかっただけのことです』と言ってやりたい」
大熊町の住民が呟いた言葉がある。「誘致が決まった時は皆で大喜びしたんだから、東電ばっかりを責める気持ちにはなれねえ。ただ、騙されたな、とは思う。事故はもちろんだけど、廃炉にするにも莫大な時間とカネがかかるなんて、そんな厄介なシロモノだなんて、俺ら住民は一人も知らなかったんだ」
『週刊現代』
2011年05月03日(火) |
日本列島が地震の巣 (29) |
世界の中の日本という視点で見れば、日本列島全体が一つの地震帯になる。日本列島には地球上の地震の10%が起こっている。これに対しその地震の起こっている面積は地球の全表面積のたかだか0.1%であり、いかに日本列島付近に地震が多いか理解されよう。しかし、日本列島という狭い視野に立てば、そこでも地震のほとんど起こらない地帯と多発地帯とが存在する。
かっては日本列島内に起こる地震をグループ分けして淀川地震帯、信濃川地震帯というような呼び方をしたが、地震の震源決定の精度が上がった今日では、日本列島内ではあまり細かい地震帯は意味がなく、むしろ地震地域というような概念のほうがよい。
日本列島の太平洋岸はマグニチュード8以上の巨大地震の多発地域である。同じ地域に約100年に一回ぐらいの割合で、巨大地震が繰り返し起こっている。1970年代後半から注目されている東海地震もその一つで、駿河湾から遠州灘沖にかけては少なくとも過去数十年間、マグニチュード5以上の地震が起こっていない地震の空白地域となっており、大地震発生の可能性の高い地域として注目されている
北海度南方から三陸沖にかけては、十勝沖地震や三陸沖地震と呼ばれるマグニチュード8以上の巨大地震が発生し房総半島沖合も同様な地域である、さらに房総半島沖合から駿河湾にかけてのほか、本州南方の遠州灘から四国の沖合も歴史的に大きな地震が起こるので注目されている地域である。第二次大戦末期前後の1944年12月7日(東海地震M8.0)、1946年12月21日(南海地震M8.1)似巨大地震が起こったが、それより90年前の1854年12月23日と24日にも、約250キロ離れた地域でマグニチュード8.4の地震が2個続いて発生した。 このようにこの地域では巨大地震が数日から1~2年のうちに2個続けて起こる傾向もある。
マグニチュード7クラスの地震の頻度はもっと大きい。北海道南岸から東北地方の太平洋側にかけては、10年に1回ぐらいに割合でマグニチュード7以上の地震が起こっている。福島県から茨城県にかけての沖合の太平洋ではマグニチュード7クラスの地震が続発する傾向がある。1938年11月5日から6日にかけて、マグニチュード7.7の地震が24時間以内に3回発生した。さらに関東地方から東北地方にかけての太平洋沿岸にも、時々発生している。
九州の日向灘も地震が起こる地域で、巨大地震の記録はないがマグニチュード7クラスの地震が100年間に5~6回の割合で発生している。マグニチュード6クラスの地震は1885年から1970年までの85年間に36回起こっている。
地震の大きさが話題になる時、マグニチュードと震度の違いが混同されることがある。マグニチュードは地震そのものの大きさである。板張りの体育館で体重の重い人と軽い人が同じ高さの台の上から飛び降りたとする。当然、体重の重い人の起こす衝撃のほうが軽い人の衝撃より大きい。これがマグニチュードである。
震度はその衝撃を感ずる場所での振動の物差しである。二人の飛び降りた場所から近くの同じ距離にいた人は、体重の重い人が飛び降りた衝撃のほうが軽い人の起こした衝撃より、大きい振動を感ずるはずである。しかし、ずっと離れて体育館の隅にいた人は、どちらの振動も感じない。震度はゼロである。つまり震度は、ある場所での振動の大小であって、振動を起こした源の大きさの大小ではない。
南アフリカで起こったマグニチュード8の大きな地震でも日本では人体には感じないので震度はゼロ、つまり日本では無感の地震となる。しかし、自分のいる近くでマグニチュード4の地震が起これば、恐らく震度は2とか3となり、被害はなくとも地震は感じる。人体に感じる地震を有感地震と呼ぶ。有感地震となる地震のマグニチュードは3ぐらいからであるが、時にはマグニチュードが2という有感地震も起こっている。
『地球のなかをのぞく』
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