加藤のメモ的日記
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2011年03月31日(木) 東北人の特質

津波で被災人たちはじっと耐えている。これは日本人の特質だけで語られものではなく、東北人特有の気質ゆえだろう。東北地方は西日本など他の県に比べて格段に寒が厳しい。その寒さに耐えることが生活の出発点になって、困難に対する粘り強さが伝統的に形成されたのでしょう。毎年、多量に降り積もる雪を真正面から受け止め、それをしのぐ能力があるんです。

『今日は疲れたから雪下ろしはできない』などとこぼしていては生きていけないわけですから、予想をはるかに超えた甚大な被害にも対処して、立ち向かっていくことができる。思いがけない困難な状況の中でも、整然としていられるわけです。

岩手県や宮城県などの太平洋岸には、春から秋にかけて”やませ”と呼ばれる東からの冷たい風が吹きつける。農業や漁業に悪影響を与えますし、冷害にも繁雑に苦しめられます。だから、与えられた冷酷な環境を織り込み済みのものとして、一生懸命、黙って仕事をしていかないと暮らしていけない。そこから、粘り強く、こつこつと努力する特質が生まれたのだと思います。

東北人特有の、まじめで忍耐強い気質は、自然環境に鍛えられてきたのである。今回の震災では、92時間ぶりに救出された75歳の女性、96時間ぶりに救出された25歳の男性など、辛抱強く救援を待って九死に一生を得た人たちがいた。一般に、被災者の生存率は災害発生時から72時間を過ぎると急激に低下するという。その「壁」を20時間以上も乗り越えて生きていたのだから、その不屈の精神には驚くばかりだ。

民俗学者の谷川健一氏が分析する。「たとえば、イタリアでは、火山の噴火で埋まったポンペイにの跡地には町をつくりませんでした。しかし、三陸では何度被害を受けても、同じく沿岸部に住んできました。人々は災害にめげることなく。漁業を営む日々の生活を優先させているからです。津波などの天災を覚悟しながら、生活しているのでしょう。

運命を受け入れ、余計なことは話さず。真面目に仕事をする気質。それは東北人は「無口」だというイメージとつながる。例えば、秋田県出身の中日ドラゴンズ監督・落合博満氏のように、無口で不愛想だとしばしば眉をひそめられることもあるだろう。東北弁の独特な語り口がそのイメージを助長するのかもしれない。

「東北弁は、あまり大きく口を開かなくても容易に発音できる言葉です。例えば、『寿司』が『すす』と発音されるように、普通に話すのと比べて舌をあまり動かさなくても済むため、母音の”い”が”う”に近い音で発音される。また、『食え』が『けぇ』、『食う』が『くぅ』となるように、母音がくっついて短く発音される傾向がありますから。他の方言と比べて、はっきりとしゃべらなくても、また口数が少なくても通じるんです。

東北弁が他の地域の人々にとってわかりにくいのは、単語そのものが特異である以上に、普通の言葉を極力短縮して話すからだと言えるかもしれない。口をほとんど動かさなくとも東北人同士では会話が通じるので、冷たい空気が口から体になるべく入らないように、東北弁は発達したという説もあるほどなのである。

ちなみに、青森県出身の作家・太宰治が書いた名作『津軽』には、初対面の津軽人から過剰なまでの接待を受け、当の太宰自身が冷めている場面が出てくる。その津軽人はリンゴ酒、干鱈、家の砂糖を全部アンコウのフライ、卵味噌でもてなすように女房に言いつけたうえで、何でもいいからとん額をかけて楽しませうようとする。やり過ぎだとも思われても気にせず、相手のためを思って無心にささげる。それが良くも悪くも東北人気質なのだ.


『週刊現代』


2011年03月30日(水) 菅直人という人

地震と津波の発生から半日すぎた3月12日未明、菅首相は唐突に、「福島原発を視察する」と言い出した。それを枝野官房長官が発表し、数時間のの午前6時すぎ、首相は官邸でわざわざぶら下がりの会見を開き、カメラの前で、「ただ今から福島に行って参ります」と芝居がかった表情で宣言し、自衛隊ヘリに搭乗した。

その姿は、‘96年厚生大臣を務めていた菅氏が、テレビカメラの前でこれ見よがしにカイワレ大根を頬張った場面を彷彿とさせた。ハッタリとパフォーマンスで総理大臣まで上り詰めた男……。それこそが菅直人という政治家の本質だ。ただ、カイワレ大根をパクつくだけで国民を騙せた当時と違い、今回、彼が直面しているのは”千年に一度”の大震災と、その後に起きた史上最悪レベルの原子力危機である。

自らも言う「国家存亡の危機」の前に、菅首相の下らないパフォーマンスは、まさに百害あって一利なし。福島原発の状況が決定的に深刻化したのも、首相のこの思いつきによる“現場視察”が原因だった。「首相がやって来るということで、現場では急きょ、警察が警備体制を組み、東電側も副社長ら現場幹部が事故対策そっちのけで対応せざるを得なかった。しかも首相が被曝をしないように、圧力がすでに高まっていた1号機の排気をすることもできなかった。『あれが爆発につながった』というのが、政府内でも一致した見方です」(官邸関係者)

首相は視察を終えて東京に戻ると、12日午後3時から官邸で与党党首会談を開き野党党首を前に、「自ら視察してきた。放射能が漏れることはない」などと“断言”した。しかし、福島第一原発1号機の建屋が、灰色の噴煙を噴き上げて大爆発し、放射性物質を撒き散らしのは、首相が「任せておけ」と胸を張ったのとほぼ同時刻、午後3時36分の出来事である。「東電からは事態の説明が1時間以上も遅れ、首相はメンツをつぶされたこともあり、『爆発しないって言ったのにどういうことだ』とキレまくりました。この時の怒りが、15日早朝に、東電本社に怒鳴りこむ伏線になっている」(官邸スタッフ)

政治評論家の浅川博忠氏が指摘する。「地震が起こった瞬間、菅首相はこの震災を自らの延命に使うだろうと感じましたが、案の定でした。さっそく12日には作業着姿で原発の視察に赴いてアピールしていましたが、あれは被災国のトップとして一番やってはいけないことです。首相のために警察は警備人員を割かなければならないし、東京電力も説明対応の人員を回す。本来やるべき仕事が疎かになり、事態の早期解決を遅らせる結果につながりました。

そもそも瀕死寸前だった菅内閣には、この非常事態を抜ければ退陣してもらうしかない。ただ救国内閣にふさわしい人材が、永田町を見回してどこにいるだろうか。

結局、震災が想像を絶する規模になったことに慌て、在日米軍に正式に支援の要請が行われたのは、地震発生から7時間以上もたった後の、11日午後10時ごろだったという。「それも、菅首相や北沢大臣の判断ではありません。外相に就任したばかりの松本剛明大臣が、米国のジョン・ルース駐日大使に支援要請することで、初めて米軍が動き出したのです。首相の判断任せにしていたら、米軍の出動は翌日になったかもしれません。

非常に分かりやすいのが、まったく場違いな場所に突如として登場した、蓮舫”節電啓発”大臣と、辻本清美”ボランティア担当”首相補佐官である。「危機管理において素人同然の彼女らを、この期に及んで抜擢する意味はまったくない。蓮舫大臣は、津波対策の財源になっていた災害対策特別費4000億円を、事業仕分けでカットした張本人。ツィッターで『余震に気をつけましょう』などとノー天気に発言したところ、『お前が言うな!』『くだらない事業仕分けで被害者が増えた』『絶対民主党を許さない』などと批判が殺到し、ツィッターが炎上しました」(全国紙政治部記者)

北沢防衛相が現場を説得し、一度はヘリが離陸したが、放射能が多かったため、その日の作戦は頓挫した。防衛相関係者は「現場の隊員は、最後の土壇場になったら、国のために命を盾にする覚悟を決めている。しかし、だからといって『被爆して死んでもいいからとにかく水を撒け』と言わんばかりの菅首相の感覚は理解できない。命令するにも、やり方というものがあるでしょう」と憤りを隠さないという。

元宮城県知事の浅野史郎氏は、こう語る。「テレビでインタビューを受けている若者の映像を見てください。被災当事者ではない若者が、国民の一人としてやれることをやろうと語っている。停電が起こっても過剰に文句を言ったり、非難する人もいない。他国ではこういう非常時には略奪が起こることもあるが、日本はそういうことが一度もない。食糧を配る際にも、整然と並んで待っている。こういう姿に、国民の教養の高さや、日本文化の高さが表れている。

人類史上でも稀な、超巨大地震と津波に襲われながらも、被災者たちは必死に生き抜き、他の国民は彼らを支援し、一つになろうとしている。菅首相は、頼むからその足を引っ張らないようにしてもらいたい。



『週刊現代』


2011年03月29日(火) 言葉をこえる沈黙 (21)

危険から守られることを祈るのではなく、
恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。
痛みが鎮まることを祈るのではなく、
痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。
人生という戦場における盟友を求めるのではなく、
ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。
恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、
ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。
成功の中にのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、
自分が失敗した時に、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。
                    
                     ルビンドラナート・タゴール
                          『果実採り』より



患者の命が尽きるときがやってくる。痛みは消え、意識は遠のく。ほとんど何も食べなくなり、周囲のことも闇同然でわからなくなる。そういうとき患者の近親は、病院の廊下を行ったり来たりして、その場を去って自分の生活に戻るべきか臨終に備えて控えているべきか迷いながら、死を待つ苦しみに耐えている。もはや何を言っても始まらないが、言葉を使うにしろ使わないにしろ、近親がもっとも助けを求めているときでもある。医療が介入するには遅すぎる(よかれと思って介入したとしても、それはあまりにも残酷である)が、死にゆく人を完全に切り離してしまうには早すぎる。もう迎えが来てほしい。終わってほしいと思っているにせよ、永遠に失おうとしているものに必死にしがみついているにせよ、いずれにしても、家族にとっては最もつらい時である。

患者に対しては黙ってそばについてあげること、近親者に対しては必要な時にはいつでも求めに応じてあげられる事が必要な時でもある。

医師や看護師、ソーシャルワーカー、牧師は、こういう時に家族の葛藤を理解できれば、そして家族の中から最も落ち着いて臨死患者に付き添っていられるものを一人だけ選ぶ手助けができれば、こうした最後の時期に大きな力になれる。選ばれたものは事実上、患者のセラピストとなる。
あまりにも動揺の激しい者に対しては、誰かが患者の臨終まで付き添うからといって罪悪感を軽くして安心させればよい。そうすれば家族は、患者が一人ぼっちで死んだのではないとわかり、多くの人にとって見届けるのがむずかしい死の瞬間に立ち会わなくても、恥じたり罪悪感を持ったりせずに帰宅できる。

「言葉をこえる沈黙」の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情を持った人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中の一つが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。

臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二も存在であることがわかる。そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。70歳を過ぎるまで生きられる人は多くないが、ほとんどの人はその短い時間の中でかけがえのない人生を送り、人類の歴史という織物に自分の人生を織り込んでいくのである。


『死ぬ瞬間』


2011年03月26日(土) 温暖化と砂漠化(20)

今、温暖化が目に見える形で進んでいるところが、北極や南極の極地である。北極の海は、一年中氷に閉ざされている。この海氷は、冬の終わりの3月には厚さ、面積ととも最大になり、夏の終わりの9月に最小になる。そこからまた氷が育つというサイクルを繰り返しながら、一定の氷の量を保ってきた。ところが、その氷が急激に溶けだしているのだ。

2005年9月。NASA(米宇宙局)の発表では、北極圏の海氷面積が、衛星による観測を始めてから最小の530万㎢を記録した。これは1978〜2000年までの9月の平均面積(660万㎢)より20%も小さい。

さらに冬の氷も減っている。2006年1月の時点で、1年前より氷が14%消失。この消失面積は60万㎢にもなり、日本列島の約1.6倍。冬になっても、海氷が以前のように育たなくなってきているのだ。北極海にあるグリーンランドの氷の融解も著しい。NASAの発表は、グリーンランドを覆う氷河の年間流出量はここ10年で2.5倍になったという。衛星写真で見るグリーンランドは、確かにわずか10年で氷に覆われた部分が3分の2以下にまで減少している。

このまま温暖化が進めば。氷が溶ける速度は20年以内に4倍に加速し、2040年の夏には北極圏の氷はほぼ消滅すると、米国立大気研究センターは警告していいる。すでにホッキョクグマは絶滅危惧種に指定された。氷上で生活する生物にとって、氷の消失は死を意味する。

一方南極の氷も大規模な崩壊をくり返しており、これまでの溶けて消失した氷の面積は13500㎢。南極大陸最北端にある南極半島の気温は、過去50年間で2.5度上昇した。地球のほかの地域よりも、かなりのハイペースで温暖化が進んでいるといえる。

南極には、地球の氷の9割が集中している。この南極の氷が溶けたら、北極の氷が溶ける以上に大きな影響が出る。なぜなら、陸氷の溶解は海水面の上昇に直結するからだ。海氷はもともと海に浮かんでいる氷だからそれほどの影響はないが、陸氷が溶けるということは、そのまま海の水を増やすことだ。

さらに、南極や北極の温暖化は地球全体の温暖化に影響する。この極地の膨大な氷が、地球全体の冷却装置の役目を果たしているからだ。この氷があるから地球は、一定の温度を保っていられるのだが、それが消失すれば地球の温暖化は加速度的に進むだろう。

それだけではない。氷が減ること自体が、温暖化を進行させる原因になる。氷は太陽の熱を反射するが、海は吸収する。氷が溶けて海の面積が増えると、その分、熱が吸収されて海水温が上がる。するとそこに浮かんでいる氷は、上がった水温によってさらに溶けるという悪循環に陥るのだ。実際に地球の海面温度は過去100年間で0.5度C上がり、海面も年1〜2ミリの割合で上昇している。

南北極の氷が溶けると、地球が真球体になり、地下のプレートが動いて、地震や津波が多発すると警笛を鳴らす人もいる。地球が楕円形を保っているのは地球の両極に氷山があるからだそうだ。溶けているのは、極地の氷だけではない、アルプスやアンデス、パタゴニア、ヒマラヤなど、世界各地の山岳氷河が溶け、山肌が露出したり湖に変わってしまっている。こうして溶けた氷は、最終的には海に戻っていく。

北極や南極は、異変をいち早くかぎつける「炭鉱のカナリア」だといわれている。今、世界全体の平均気温は14.5度Cである。もしこの平均気温が2〜3度C上がったとしたら、赤道では0.5〜1度しか上がらないが、北極では7度も上がる、温暖化は寒い極地から始まり、徐々に暖かいところに伝搬するのである。

アラスカの冬の気温は過去50年間で3〜4度上昇した。いつか私たちもこの温度上昇を体験することになるのだろう。

 砂漠化する地球  
温暖化とならんで懸念されるのが、地球の砂漠化だ。この二つの現象は、決して無関係ではない。温暖化が砂漠化を招き、砂漠化が温暖化に拍車をかける。今砂漠化がすごい勢いで進んでいる。国連環境計画の調査によると、毎年6万㎢ずつ砂漠化しているというのだ。これは、九州と四国を合わせた面積にほぼ匹敵する。

この国連のデータをもとに、「砂漠化リアルタイムカウンター」が設定されている。2000年8月1日から、「現在の砂漠面積」と「緑の大地がなくなる日まで」の日数をリアルタイムで表示している。とくに深刻なのが、アフリカとアジアだ。すでにアフリカ大陸の3分の2は砂漠、もしくは乾燥地と化している。アジアでも、中国、インド、パキスタンなどの広大な土地が日々乾燥し、砂漠化しているのだ。砂漠化した中国の砂は、黄砂となって日本にも飛来する。この黄砂の量が年々増えているのは、中国の砂漠化が進んでいるということだろう。



『死に向かう地球』


  




2011年03月25日(金) 東北市街壊滅

3月11日、東北、北関東を襲った、日本観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震と大津波。

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世界最大級の地震と津波が東日本各地を襲った、東日本大震災は、万単位の犠牲者数も予想される未曽有の被害をもたらしている。3階建ての校舎の屋上は住民たちでいっぱいになったが、ここまで押し寄せるほどの津波はなく、午後一時ごろ、警戒は解除された。

小学校から海までの距離は約4キロ。校庭は泥田のようになっており、マグニチュード9.0という巨大地震とともに襲った津波が、ここまでたどり着いたことを物語っていた。仙台市内の海岸から約4キロの範囲は、ことごとく津波に襲われた。宮城県が想定していた浸水範囲は、この40分の1の100メートル。東北大学の研究チームは「海岸のすぐ近くでは、津波の高さは10メートル以上に達したとみられる」と発表した。

泥水で覆われた田畑には、跡形もなく崩壊した家屋の瓦礫が山のように積み上がり、横転した自動車が水没している。特に、岡田の南側の若林区荒浜は海岸沿いの集落が崩壊し、200〜300の遺体が発見され、市内でも最悪の被害地となった。岡田のやや北の海岸沿いに住んでいたある一家は、地震のあった14時46分ごろ、家にいた82歳の祖母と高校生の孫娘2人が被災した。

地震直後、近所の男性が車に乗せてくれて、急いで海から離れたが、津波に追いつかれて車は横転。投げ出しされた孫娘二人は木に引っかかったが、祖母と男性がそのまま流されたという。孫娘二人は、すぐに救助されたが、祖母は仙台市にで見つかった遺体の安置所になっている仙台近郊の体育館に運ばれていた。祖母が流されて離れていくところを目の前で見ていた孫たちは、祖母の死を知って号泣した。一緒に逃げてくれた男性は行方知れず。

岡田小学校の海側2キロほどの自宅に住んでいた60代の夫婦は、立っていられないほどの地震の後に、津波を警告するサイレンを聞き、小学校に逃げ込んだ。当時、33歳の一人息子は数キロ南の海岸近くにある仙台空港付近の会社に勤務中。夫婦は寝泊まりする小学校に息子が現れることを信じてただ待ち続けているが、空港周辺はほぼ壊滅状態。息子の携帯電話は不通のままだ。

それでも無事でいることが当たり前のように、「職場近くの避難所に入っていればいいけど、違う地区なので白い目で見られていないかどうか」と、相互扶助である一方で、閉鎖的な側面もある日本の農村独特の心配を口にした素朴な夫婦の様子に、筆者も奇跡を祈らずにはいられなかった。

“すれ違い”ストレスが募る
「また津波が来たら、そんときは死ぬっちゃ。覚悟決めたわ。体育館に泊っては迷惑かかるし、泥で臭くたって、家のほうがいいべよ。杖ついた年寄り担いで校舎昇るの大変だし、それなら家で死ぬっちゃ」13日の津波警報の解けた岡田小学校の校舎では、親子とおぼしき女性二人が声を荒げていた。家は無事だったが、高齢の父親がいるため、津波警報のたびに避難するよりも、避難所への滞在を希望した。

しかし、約800人がすでに避難生活を送る体育館に入ろうとしたところ、「もう一杯、といわれた。引っ越して半年だから、よそ者扱いされた」といい、この日、ようやく再会できた親子は涙を流しながら去っていった。長野県で新聞記者をしていた筆者にとって、これも日本の田舎らしいと感じる光景だった。

親子の話を聞いていた40代男性は「入れないといわれたわけじゃないはずだけど、みんなイライラして、こういうすれ違いが多い。自分も家を片づけないといけないが、会社は壊滅状態。しばらくはここに通って少しでも助けになりたい」と涙ぐんだ。警察庁によると、3月16日20時現在、12都道府県で確認された死者数は8194人。阪神大震災の死者数6434人を上回る見こみ。

04年末のスマトラ沖地震の津波取材でインドネシア・アチェを取材した際、発生2週間後になっても瓦礫の中から遺体が発見される様子を見ている。死者数はさらに膨らむだろう。三陸海岸沿いの農漁村における被害はとくに甚大だ。福島県では、原子力発電所が炉心熔解をを起こすなど、世界的な大惨事も想定されている。

労働者を都市に供給する過疎・高齢化地域が、原発などの“迷惑施設”を受け入れるという“中央を支える“典型的な日本の田舎を襲った震災といえる。関西経済の重要地域で、人口流入もあり、元に戻る方向で復興した阪神大震災とは、復興の方向と意味合いが違ってくるだろう。

アチェの大津波では、長年続いてきたインドネシア中央政府との内戦を終結させ、汚職や格差を生んではいるものの、新たな社会づくりが進む契機となった。この震災も、日本社会のあり方をどうしていくのか、日本人全体が考えながら、復興に取り組まなければならないことは確かだ。



『週刊大衆』


2011年03月24日(木) 戦慄の巨大連鎖地震

未曾有の国難となった東日本大地震。宮城県南三陸町では町が、丸ごと大津波に流され、石巻市では地盤が1メートル近く沈んだ。巨大地震の影響で、日本列島全体が2.4メートル動いたことも判明している。政府は、この巨大地震のマグニチュードを8.8から9.0へと修正した、世界最大級の巨大地震となった。

「東日本の大西洋側は、日本列島が乗る北米プレートの下に、太平洋プレートが沈み込んでいます。その北米プレートは年間8〜10センチのスピードで陸側に進み、どんどんプレートの境界線に歪が蓄積される。それが限界に達して境界部分がずれると、大地震となります」(全国紙科学部記者)

これが今回発生した地震のメカニズムだが、今回の地震が巨大化した理由は、震源地が連動したこと。政府の地震調査委員会は「宮城県沖」「三陸沖南部」「福島沖」「茨木沖」の各震源域が連動して巨大地震が発生したと発表した。

「3月11日午後2時46分に発生した今回の地震では、最初に宮城県沖の震源域が崩れ、70秒後にさらに南の震源域が次々に壊れ始めたんです」それによる断層のずれは南北500キロにわたる巨大なもので、そのエネルギーが巨大な揺れと10メートル超の津波を発生させました」この「連動型」の大地震は過去、何度か日本列島を襲っている、その代表が約300年前の宝永大地震(1707年)。その直後に富士山大噴火をもたらしたことでも有名だ。

ところが、それでも地震の強さはM8.6(推定)。「マグニチュードが0.2大きくなると、地震のエネルギーは2倍になります。つまり、同じ連動型の宝永地震と比べても、4倍の巨大地震であることが明らかになりました」(政府の地震予知関係者)

科学ジャーナリストの大宮信光氏は、こう説明する。「今回の巨大地震で発生した大津波の規模は、今から1142年前に起きた貞観地震(869年)の大津波に匹敵すると考えられています」そのとき、古文書によると、仙台平野周辺で1.000人の水死者を出す大津波が発生している。また、産業技術総合研究所によると、その際の震源域(断層の長さ)は、宮城県沖から福島県南部沖までに及んだことも明らかになっている。

「つまり、震源域や津波の大きさも、ほぼ同じ。今回の地震は300年に一度どころか、貞観以来、実に1.000年に一度という巨大エネルギーが放出されたことになるんです」(前出・科学部記者)その巨大エネルギーの放出は、その後の余震の大きさや、余震の終息する期間にも大きく影響する。京都大学の梅田康弘名誉教授が、こう語る。「余震のマグニチュードは、本震に比べてマイナス1と言う数字が過去の経験則によって弾き出されています。今回これだけ大きな地殻変動が起きたわけですから、その余震の強さはもとより、かなり長期間にわたる恐れが出ています」

通常、余震は一週間〜一カ月で終息するといわれているが、梅田名誉教授は、「今回の場合、一カ月以上半年以内の範囲で大規模に余震が続くとみています」と語り、その根拠に、ニュージーランドのクライストチャーチを襲った地震を例に挙げる。その直下型地震M6.3は、2月22日に発生した。日本人留学生らが犠牲になったことは周知のとおりだが、実は、昨年の9月4日、この地震の40キロに市を震源とするM7.0の“本震”が発生している。「つまり、今年2月に起きた地震は、昨年9月に起きた地震の“余震”だったというわけです。

釧路沖と千葉北東沖は危険!
しかし、今回の東日本大地震の発生の危険は、実は09年の7月、政府の地震調査委員会で“予測”されていたのだ。「当時の、地震調査委員会は、“今後30年以内に震度6弱以上の強い地震に襲われる都道府県の確立を発表し、なんと、50%以上が24か所と、半数以上に及んでいました」(科学雑誌編集者)

その地震調査委員会の発表直後、本誌はその資料をもとに、47都道府県の地震危険度マップを危険度「A」から「D」まで簡略化して報じた。そして、特に危険度「Aランク」と発表していたのが、今回の巨大地震で甚大な被害を受けた「岩手」「宮城」「福島」だったのだ。「当時、地震調査委員会は宮城県沖で、”30年以内にM7.5以上の地震が発生する確率を、99%と予測した。

また、岩手の三陸沖でも90%、福島東方沖でも高い数字を弾き出していたんですよ」同時に、岩手、宮城の沿岸部はリアス式海岸であるため、「津波の威力を何倍にも増幅しやすい地形だったという警笛を鳴らしていた」のである。さらに、この地震調査委員会の発表に対して「最悪の場合、この危険は震源域が連動する可能性もある、と主張する専門家もいた」

そして、この予測は現実となり、巨大地震は東日本の太平洋岸を襲い、壊滅的な被害をもたらした。では、今後、各地の地震危険度はどう変わっていくのだろうか。まず、琉球大学名誉教授の木村政昭氏が説明する。「今回の震源地となったプレート境界に沿った、北海道釧路沖と南の千葉北東沖は、今回と同じプレート境界型の大きな地震が起こる可能性があります。特に千葉北東沖は、いつ大地震が起きてもおかしくない。早くて数年以内と見ています」

さらに、木村教授は、青森県沖のほか、日本海溝の延長上にある伊豆、小笠原沖を危険地帯にあげ、こう付け加える。「日本海溝では、能登半島沖でも大地震の可能性があります。地震空白区であることに加え、昨年の3月、富山や石川で巨大深海魚のリュウグウツノカイが漂着しています。子も深海魚が発見されると、大地震が起きるといわれています。

日向灘の「地殻」に変動が!
ちなみに、今回の巨大地震発生の一週間前、茨城県鹿鴨市の海岸で5頭の小型鯨が打ち上げられた。また、前述のニュージーランドの地震発生の2日前には、南西沖のスチュアート島で、ゴンドウクジラ107頭が打ち上げられている。これらの事象について、大宮市はこういう。「地殻変動に伴う電磁波の発生で、クジラたちが迷った結果だとすれば、地震の予兆と考えられます」

地震の予兆といえば、気になるのが、今年になって活発な噴火活動を続ける新燃岳(九州・霧島)だ。「火山噴火は、地殻変動でマグマ溜まりが圧縮されて起こるもの。そのため日向灘の近くに、何らkの変動が起きていると考えるのが自然です。52年ぶりの新燃岳の噴火は、地震の前兆である可能性があるんです」(木村名誉教授)

さらに、梅田名誉教授は、大都市を襲う直下型地震の危険について、こう語る。「関東や関西の平野部には確認されていない活断層が多く存在しています。特に首都圏では、前回の断層地震(1894年)から100年以上経過しており、いつ何が起きても不思議ではありません」加えて、日本が地震大国である以上、他の地方でも警戒は必要だ。「今回の巨大地震により、その歪みが他の震源域(東海および東南海・南海地震)や活断層に刺激を与え、大地震を誘発する恐れがあります。(大宮氏)

それだけではない。21世紀に入ってから、2004年のスマトラ沖地震(M9.1)や、08年の中国・四川省(M7.9)など、巨大地震は10年に内に集中している。「地震には“激動期”と“静穏期”があり、阪神大震災以降、地球全体が地震の激動期に入ったとする説もあるんです」(大宮氏)


『週刊大衆』


2011年03月22日(火) 太陽黒点説

2001年の報告書では、温暖化を決定づける理論として「ホッケーの棒理論」が使われていた。「地球は産業革命以来、急に温暖化するようになった。だから犯人は人類だ」と、主張するこの理論は、二酸化炭素排出規制を求める先進国の政府と市民による運動の、最大の理論的拠りどころになってきた。

実は、ホッケーの棒理論は、世界の学者の間では非常に評判がわるく「都合のよい過去のデータだけを寄せ集めて、歴史的な世界の温度変化だと強弁している」と批判されていた。専門家の間では、未来の温度予測はおろか、過去の歴史的な温度変化についても、まだ議論百出の状態なのである。「もはや温度変化は疑いの余地がない」という結論は、政治的な意図にもとづいてIPPCの事務局が、他の学者たちの科学的誠実さを無にして暴走した結果のエセ科学である。

IPPCの報告書で問題にすべきもう一つの根本的なことは、コンピューターのシュミレーションプログラムを絶対視してしまっていることである。気候のメカニズムは非常に複雑で、人類がわかっていないことも多い。わかっていないことを適当にシュミレーションに置き換える際に、政治的な思惑が入ってくる可能性は充分ある。

IPPCの報告書では、温暖化の原因は、二酸化炭素などの温室効果ガス増加に集約されており、他の原因については少ししか議論されていない。だが、最近の研究では、実は二酸化炭素よりも太陽の黒点のほうが、温暖化に関係しているのではないかという説が有力にになっている。

これはデンマークの学者、ヘンリク・スベンスマルクらが10年以上前から研究しているものである。宇宙は、星の爆発などによってつくられる微粒子で満ちている。微粒子は地球にも常に降り注ぐ宇宙線として知られている。大気圏に降り注ぐ宇宙線の微粒子には、その回りにある水蒸気がくっ付いて水滴になり、雲をつくる。降りそそぐ宇宙線が多いほど雲は多くなる。

太陽は、黒点活動が活発になると、電磁波(太陽風)を多く出し、宇宙線を蹴散らすので、地球に降り注ぐ宇宙線が減る。すると、雲が少なくなり晴れの日が多くなり温暖化する。逆に太陽黒点が減ると、降り注ぐ宇宙線の量が増え、雲が増えて太陽光線がさえぎられ寒冷化する。世界史を見ると、太陽黒点がとくに少なかった1650年からの50年間に、地球は小さな氷河期になり、ロンドンやパリで厳しい寒さが記録されている。

IPPCでは「20世紀は、地球の工業化で増えた二酸化炭素によって温暖化した」という説が有力だが、スベンスマルクの説だと、20世紀は太陽黒点が多い時期で、宇宙線が少なく雲の発生が少なかったので、温暖化の傾向になったのだとされる。雲を研究している学者の多くは、宇宙線の多寡は雲のできかたに関係ないと主張しており、スベンスマルクの説は否定されていたが、スベンスマルクらは2005年の実験で、宇宙線が水蒸気をまきこんで水滴をつくることを証明した。

実験は成功したものの、おそらく温暖化の二酸化炭素説が政治的な絶対性を持っていたため、地球温暖化の定説をくつがえす内容を持っていたスベンスマルクらの実験結果の論文の掲載は、権威ある科学の専門雑誌からことごとく断られ、ようやく2006年末になって、イギリスの王立研究所の会報に掲載され、遅まきながら権威づけを得ることができた。だが、IPPCの報告書は、未だにこの新説を無視している。



『田中宇の国際ニュース解説』


2011年03月21日(月) 地球温暖化(19)

地球上には、危険を真っ先に感じて知らせる“炭鉱のカナリア”役割を果たす場所が2か所ある。つまり、温暖化の影響を特に敏感に感じ取る地域だ。一つは、北極だ。もう一つは南極である。氷の世界でもある南極でも北極でも、地球上のどこよりも急速に変化が起こっており、温暖化の影響がどこよりも早く劇的に出ている様子を、科学者は目の当たりにしている。

写真でみると、北極と南極はよく似ている。どちらも、見渡す限り氷と雪である。しかしその奥に目をやると、びっくりするほどの違いがある。南極の氷冠は厚さ3000メートルもある巨大なものだが、北極の氷冠の厚さは平均3メートルもない。それぞれの氷の下をみると、その違いの原因がわかる。つまり、南極は海に囲まれた大陸であり、北極は陸地に囲まれた海だということである。

北極の浮氷の厚みはこれほど薄く、北極海をぐるりと囲む北極圏の北の陸地では凍った土の層もとても薄い。だから、北極は急上昇する温度にとくに弱いのだ。その結果、温暖化が北極に及ばしている最も劇的な影響は、氷が加速度的に溶けていることだ。北極では、地球上のいかなる場所よりも急速に気温が上昇している。

科学者は、地球の気候システムの中でも驚くほど脆弱な部分が、北大西洋にあると言う。メキシコ湾流が北極からグリーンランドを渡ってきた冷たい風と出会う場所である。メキシコ湾流に冷たい風がぶつかると、メキシコ湾流から熱を奪う。その熱は地球の東への自転が起こす卓越風に乗って、、蒸気として西ヨーロッパへと運ばれる。

海のすべての海流はつながって、一つの大きなメビウスの輪のようになっている。この輪は「海洋コンベアベルト」と呼ばれる。よく知られているのは、米国の東海岸に沿って流れるメキシコ湾流だ。その下には逆方向に流れている冷たい深層水がある。

この巨大な沈みこみ現象を、科学者は“巨大なポンプ”だと言っている。より正確に言うと、「熱塩ポンプ」である。このポンプの原動力は熱と塩分だからだ。このポンプは、世界の海流システムの止まることのない流れを作り出す原動力として、大変な役割を担っている。

1万年ほど前、ある事態が発生した。科学者は、また同じ事態が起こるのではないかと心配している。北米最後の氷河の氷床が溶けた時に、広大な地域に淡水がたまった。五大湖はこの巨大な淡水湖の名残だ。そびえたつ大きな氷が、ダムのようにその湖の東側をせき止めていた。

ある日その氷のダムが決壊し、淡水がどっと北大西洋に流れ込んだ。かってない量の淡水が大地を裂いてセントローレンス川を掘りながら、いっきょに北大西洋へと流れ込んだ時、ポンプの動きが止まり始めた。メキシコ湾流は、ほとんど流れなくなってしまったのだ。そこで西ヨーロッパに、メキシコ湾流からもたらされる熱が届かなくなってしまった。

その結果、ヨーロッパは氷河期へ逆戻りし、900〜1000年の間、氷河期がさらに続くことになった。そしてこの変化はかなり短時間で起こったのである。現在、この現象が繰り返されのではないかと、真剣に心配している科学者たちがいる。ウッズオール研究センターのルース・カリー博士は、グリーンランドの氷が急速に溶けていることをとりわけ憂慮している。それは、グリーンランドが、このポンプが稼働している場所のすぐ近くに位置しているからだ。

最近、カーリー博士は、「このような極端な事態が起こる可能性があるとしたら、温暖化のせいで北大西洋の海洋環境が21世紀に崩壊するなんてありえない、とは言えなくなる」と述べた。

ところで、メキシコ湾流からもたらさせる熱がヨーロッパへ運ばれるおかげで、パリやロンドンでは、ほぼ同じ緯度にあるモントリオールやノースダコタ州のファーゴよりずっと暖かい。マドリッドとニューヨーク市の緯度は同じだが、マドリッドのほうがずっと暖かいのである。

北大西洋で暖かい水が蒸気となって蒸発すると、あとに残る水は、水温が低いだけではなく、塩分が高くなる。水が蒸発しても、塩分はそのまま残るため、塩分濃度は増すのだ。そこで水はぐっと重くなり、毎秒2000万立方メートルという、信じられない速度で沈み込んでいく。この水が海底に向かって真っすぐに落ちていき、南へ向かう冷たい海流の始まりとなる。  151


今、世界中の多くの生物種が、気候変動の脅威にさらされている。中には絶滅しかけているものもある。原因の一つは気候の危機であり、もう一つの原因は、その生物種が繁栄していた場所に人間が入り込むようになったことだ。実際私たちは、生物学者が“大量絶滅の危機”と叫び始めている事態に直面しつつある。種の絶滅は特別な要因のない自然な状態でも起こるが、現在の絶滅は自然な状態の1000倍もの速さで進行しているのだ。

この絶滅のうねりを高めている要因の多くが、気候の危機をも悪化させている。この二つはつながっているのだ。例えばアマゾンの熱帯雨林が破壊されると、多くの生物種が絶滅すると同時に、さらに多くの二酸化炭素が大気中に吐き出されることになる。

陸地に棲む生物にとって熱帯雨林が重要であるのと同じように、海に生きる生物にとって、サンゴ礁はとても重要だ。そのサンゴ礁が、温暖化によって大量に死滅しつつある。観測史上最も気温の高い年となった2005年、多くのサンゴ礁が姿を消した。中には、コロンブスがはじめてカリブ海にたどりついた当時から、いきいきと元気だったものもある。1998年は観測史上2番目に気温の高かった年だが、この年には世界のサンゴ礁全体のうち、16%が失われたと推定されている。

このようにサンゴ礁が消えつつある背景にはたくさんの要因がある。近くの岸から流れてくる汚染物質、開発の進んでいない地域でのダイナマイト漁法、海水の酸性化の進行などだ。しかし、ここ最近、前例のないほど急激にサンゴ礁の状態が悪化している原因の中でも最も致命的なことは、温暖化の影響で海水温が上がってきたことだ。科学者はそう考えている。



『不都合な真実』アル・ゴア


2011年03月20日(日) 佐久間清太郎 (18)

「食器を受けた手なのですが、手錠がかかっていないように思えたのです。もしかすると、私が見誤ったのかもしれません。そんな気がしましたので念のためご報告します」髪の白い雑役囚は、複雑な表情をしていた。
野本は、雑役囚を炊事場にかえすと、巡視している同僚の藤原看守にそれを告げ、二人揃って詰所にいる日直の看守長に報告した。網走刑務所に移送されてきてから、すでに手錠を合鍵ではずした過去を持つ佐久間だけに、雑役の口にしたことは事実に違いないと推測された。
 彼らは、すぐに詰所を出たが、近づくのに気付いた佐久間が再び手錠をはめてしまうことも予想された。現場を抑えるには、一人が足音を忍ばせて近づき、不意に視察窓を開けねばならなかった。
 野本がその役割を引き受け、靴を脱いで廊下を静かに進み、佐久間の房に近寄ると視察窓を勢いよく開けた。内部を身じろぎもせず見つめていた野本が、廊下に立つ看守長たちに手をあげた。
 彼らは走り寄り、鉄扉の錠を開けて内部に入った。佐久間は無表情な顔で食事をしていた。箸をつかんだ右手には手錠の環がなく、左手の手錠についた鎖から垂れていた。
野本が怒声をあげて佐久間の頬を殴り、腕をつかむと立ち上がらせた。食器が床に落ち、食物が散った。荒々しく検査が行われ、腋の下から短い針金が落ちた。口、鼻、耳、肛門もさぐられたが、それらからは何も発見されなかった。
 佐久間は引きすえられ、新たに持ってきた手錠がはめられた。
 その直後、佐久間は、力を込めて両手首をねじるようにし顔を紅潮させた。看守長たちは、一瞬、その動作の意味がわからず、いぶかしそうに見つめていたが、両手にはめられた手錠をつなぐ鉄鎖が音を立てて切れるのを目にした。
 野本たちは呆然と立ちすくみ、うろたえたように捕縄で佐久間の体をきつく縛った。そして再び新たに持ってきた手錠をうしろ手にはめた。その間、佐久間の顔に表情らしいものは浮かんでいなかった。
 野本がなぐり、針金の入手経路を問うと、佐久間は以外にも率直に、
「運動の時」
と、答えた。
 鉄扉がとざされ、看守長は刑務所長室に急いだ。
 報告を受けた所長は、看守長たちを召集し緊急会議をひらいた。
 日直の看守長の報告に、所長をはじめ看守長たちの顔にははげしい驚きの色が浮かんでいた。彼らは、こわばった表情で言葉を交わし、事故の内容について検討した。
 まず佐久間が、針金一本だけで容易に手錠の錠をはずせることが再確認された。視察窓からひんぱんに房内をのぞくことをくりかえしている藤原、野本両看守と夜勤の看守からは、異常を発見したという報告はないが、その間、手錠をはずしていることが多いのではないか、と考えられた。殊に、夜間、ふとんの中で両手を自由にして寝ている可能性が十分にあった。5月31日の事故の折には、はずした手錠を故意に食器差し入れ口から廊下に出しておいたが、その場合と同じように手錠のない右手を雑役の目にわざとふれるようにしたことはあきらかで、手錠が無意味なものであることを誇示しいたものと判断された。
 針金の入手方法については、運動時間中しゃがむことを禁じているので、地面に落ちていた針金をひそかに草履にさしこみ房内に持ち込んだに違いない、と推測された。
 テーブルの上に鎖の切断された手錠が置かれ、看守長たちは、それを見つめた。鎖は人力では到底ねじ切れるものではなく、それを難なくはたした佐久間が、常人には想像のつかぬ体力を備えた男であることを知った。 100

佐久間は、ただちに札幌刑務所の特別房に戻された。死刑をまぬがれたかれは、安堵したらしく珍しく上機嫌であった。夜、ふとんに身を横たえて郷里の民謡を口ずさんだりしていた。
 しかし、十日ほどたった頃から佐久間の態度が悪化した。かれは、意識的に再び頭からふとんをかぶって眠る。看守が声をかけ、頭を出すように言うと上半身を起こし、するどい目を向ける。なおも注意すると、
「またおれを逃がしたいのかね。コンクリートでかためようと、おれには脱獄することなどたやすいのだ。逃げて、あんたの家族を皆殺しにするが、それでもいいのかね」
 と、言ったりした。
亀岡は、担当看守たちにささいなことでも必ず報告するよう厳しく命じていたが、それらの佐久間の言動を看守からきき、脱獄の気配は濃いと判断した。
「決して佐久間に負けるな。少しでも気持ちがゆるんだら、それは奴の思う壺なのだ。規則違反は絶対にゆるしてはならぬ」
 かれは、看守を強い口調ではげました。
 看守たちは、時折り梯子にのぼって上方の視察窓から房内をのぞいた。佐久間は、敵意のこもった眼で看守を見あげていた。
 同じ刑務所で二度も囚人の脱獄をゆるすことは重大問題であった。亀岡は、所長と時々協議して佐久間の動きを検討し、毎日の検身と独房捜検にも立ち会うことにつとめた。検身ををうける佐久間は不機嫌そうで。声をかけても返事をしなかった。
 亀岡は、検身の折に佐久間をさとした。
「お前は、ふとんを頭からかぶるのを注意されるのが嫌いなようだな。しかし、それは絶対に守らねばならぬ規則なのだ。ふとんをかぶっていると、もしも収容者が自殺をはかった場合、発見できぬ。いわば、その規則は収容者の自殺防止のためなのだ。そんなことは、お前もよく知っているはずだ。看守たちを困らせるようなことはするな」
 かれは、甲高い声で言った。
 佐久間は、しばらく黙っていたが、
「わたしは、獄を破ることはあっても自殺などしませんよ」
 と、冷笑するように答えた。
 亀岡は、佐久間の精神状態が不穏であることをあらためて感じた。

……
 事件は、その年の4月8日午前2時ごろ起こった。
 雑貨商浦川鶴吉方に覆面した二人の男が忍び入り、店内を物色中、隣室に就寝していた養子の由蔵が物音に気付き、泥棒、と叫んだ。男たちは逃げたが、腕力に自信のある由蔵は裸足のまま追いかけ、一人を捕えて組み伏せた。他の男は、共犯者が捕らえられれば自分の罪も発覚すると考えたらしく、引き返してくると手にした日本刀で由蔵の背中を斬りつけ、組み伏せられた男も下から短刀で刺し、盗んだ手袋とキャラメル数個を落として逃走した。由蔵は、青森衛生病院に運ばれ手当てを受けたが、右背部から肺臓に達する傷が致命傷になって6日後に死亡した。

……
 無期刑囚も、服役中に事故を起こさなければ、入所してから10年後には仮釈放の検討対象となる。が、脱獄を重ね、しかも逃走罪で3年、加重逃走・傷害致死罪で10年の刑を加算されている彼は、常識的に考えて一生涯刑務所で過ごさねばならぬ立場にあった。
 しかし、と、鈴江は思った。法律的にはそれがまったく絶望とは言いきれない。原則として第一の刑の執行が終了しないければ第二、第三の刑の執行に移れない。佐久間の場合、第一刑が無期なので、死ぬまで刑務所で服役していなければならなかった。
 それを検事の裁量によって無期刑の身で服役している者と同じ扱いにしてもらうことが許されれば、途中逃走したことによって中断はしているが刑務所内で10年余りを過ごしているので、あと4,5年で刑の執行終了の措置をうけることができる。
 ついで10年の刑と3年の刑の執行にうつり、それぞれ3分の1を過ごせば刑の終了措置が取られるので、その期間を過ごせば一応仮釈放される資格を得られることになる。

彼は、山谷で骨身惜しまず働いたので、特定の建設業者から入社するよう執拗に勧められたが、自由の身でありたいという気持ちからそれに応じなかった。
 正月に鈴江の家を訪れることは続き、彼は、不幸な少年時代、家族関係を口にし、脱獄時のことも笑いを含んだ目で話した。その折、釈放後、一度故郷へ足を向けたが会うのを拒むものが多く、空しく帰郷したことを暗い表情でもらしたりした。かれは、鈴江の妻が出す正月料理をうまそうに食べ、夕方、丁重に礼を述べて帰っていった。
かれは老い、心臓疾患にもおかされるようになった。労働ができなくなり、保護観察所のあっせんで府中市の司法保護会安立園の老人寮に収容された。その後、病状が思わしくなく保護観察所員がつきそって都内にある三井記念病院に入り、治療を受けて退院した。
 一時は小康状態にあったが再び悪化、府中市内の病院に入院した。
 鈴江が佐久間の死を耳にしたのは、昭和55年秋であった。73歳で、佐久間の遺志により遺体は献体されたという。



『破獄』


2011年03月19日(土) 認知症の予防

現代医療では、治る認知症は少ないわけですから、予防するしかないんです。そのためには、認知症になる確率が高まる年齢より、前の段階で、何かをしておくしかない、私は5歳から70歳の間の過ごし方で、その後、ボケるかボケないかが決まると思っています」では白澤氏が進める認知症の予防法を聞こう。

「まず、食事でボケを予防する方法です。野菜や果物のジュースを飲む効果を調べたデータがあります。それによると、週3回以上飲む人は、まったく飲まない人に比べて、アルツハイマーになる確率が76%も下がったというんです。これは野菜や果物に含まれるポリフェノールの効果だと言われています。ポリフェノールは、リンゴ、ブルーベリー、大豆、緑茶、赤ワイン、ターメタリックなどに多く含まれています。またサバやサンマなど青魚に含まれるDHA(ドコサヘキサエン酸)が、アルツハイマーに有効というデータもある。アルツハイマーの患者に出る老人班の面積が40%も減少したのですDHA
は青魚のほかに、マグロやブリにも豊富に含まれています」

さらに、オランダで行われた大規模な疫学調査では、ビタミンEとCの摂取量の多い人は、アルツハイマーの発症率が低いことが確かめられている。「他にも、ラーメン屋脂っこい料理に多く含まれる飽和脂肪酸をたくさんとっていた人ほどアルツハイマーになりやすいというアメリカの調査がありますしカロリー制限をすると、年をとっても脳の萎縮率が低いという実験データもある。これらを参考に、食事を工夫すると、ボケを予防できると思います」(白澤氏)

本誌が実施した、ボケていない80歳以上の60人アンケートでも、多くの人が理にかなった食生活をしていることがわかった。「リンゴを一日一個食べています」(92歳・男性)「よく食べるのは、アジやサバ、大根、ニンジン、ホウレンソウ」(86歳・男性)「納豆、豆腐、生揚げなど大豆食品を食べていますが、とくにおから煮や白和えが大好きです」(82歳・女性)

冒頭で紹介した映画監督の新藤氏も、トマトや生搾りジュース、青魚、豆腐など、ボケ予防になるものを多く摂っていることがわかる。昼食に食べているというソバにも、ポリフェノールがたっぷりだ。続いて、前出、浴風会病院の大友氏が、別の予防法を挙げる。「老化は足からやってきます、例えば大腿の筋肉を構成する筋繊維は、25歳から65歳の間に40%も減る。だから、私は歩いて足を鍛えることを進めています。その最適な方法がウォーキングです」

アメリカで行われた実験では、アルツハイマー患者の脳に溜まるβアミロイドは、ウォーキングなど適度な運動をすると、減るとされている。有酸素運動で脳の働きが活発になり、βアミロイドを分解する酵素も活性化するのだ「足が弱ると外出して人に会うことも少なくなり、脳に対する刺激が減り、ボケにつながりやすくなります。その意味で、ウォーキングはボケ毛予防に必要です、散歩程度で十分だから、電車やバスを降りるのを一つ手前の駅にして、歩く距離を少し増やしましょう。

順天堂大学の白澤教授はこう話す。「東京老人総合研究所の調査データによると、ボケ予防に効果があるのは1位が旅行、2位は料理、3位がパソコンでし
た。囲碁や省義と比べて、旅行は8倍の効果があるという結果になっています。何時の電車に乗って、どういう道順でどこを回るかを、きっちり計画するだけで、脳が活性化するんです。

他にも白澤教授は「手を使うこと」「新聞を声を出して読むこと」「積極的に人に会うこと」「笑うこと」「お洒落をすること」などに予防効果があると言った。たしかに、冒頭で紹介した言語学者・外山氏も「料理は手を使うからいい」と話していた。

加えて松本氏はボケにくい人の特徴としては、「社交的」「気配りができる」「こまめに動く」「好奇心が旺盛」「意欲的」「よく笑う」「服装に気を使う」「異性への関心を失っていない」「頭の切り替えがうまい」などが挙げられる。そうでない人がボケやすいということだろう。

外山氏は、同世代の高齢者と、その予備軍にこうメッセージを送った。「攻撃は最大の防御。認知症になるまいといくら防御していても、なるものはなる。逆にそれを吹っ飛ばすような、思い切った攻めの生き方をすれば、近寄ってこないんじゃないか」100才まで頭キレキレでいるために、何でも「やってやる」という気概を持って、難敵を追い払おう。


『週刊現代』


2011年03月17日(木) 富士山噴火危機

予断許さぬ震度6の静岡東部 4年以内に発生予告

未曽有の事態が日本列島全体を覆いはじめた。16日、東京電力福島第一原発3号機から白煙が上がった。プルトニウムを核燃料としている原子炉の爆発という事態になれば大惨事だった。一方、余震が続く静岡県東部は、活火山・富士山の麓で富士山噴火を誘引する可能性が出てきた。

もう一つは15日、静岡県東部にM6.4、震度6強の地震が発生したことだ。静岡県一帯は東海大地震が警戒され、さらに震度6強を記録した富士宮市は富士山を眼前に仰ぐ場所にある。富士山は1704年に大噴火して以来、沈黙を保っているが、れっきとした活火山でいつ爆発してもおかしくない。

これら一連の不気味な兆候は、一体何を意味するのか。阪神大震災や新潟中越地震の発生を警告し、今回の東日本大震災も予兆していた琉球大学名誉教授の木村政昭氏は「東日本大震災で、太平洋プレートの北部分のカギが外れ、南へ降りてきた。あまりに東日本大地震が巨大だったため列島周辺がバランスを崩し、ガタガタになっている」と指摘する。

木村氏はM6.5以上の地震を起こす“地震の目”を分析・発見し、大地震のポイントを予知しているが、首都直下地震に関しては否定的な見方を示した。「東日本大震災で関東側にプレッシャーがかかってきていることは確かだが、弱いところが割れているだけ。楽観はできないが、かなり厳しくみても東京に地震の目はない。今回の震災の影響で目ができ、大地震を誘発するといっても30年先」

一方、16日も震度3などの余震が続いた静岡県東部は予断を許さないという。気象庁も東海地震との「関連性はない」との見解を示したが、木村氏は否定的。それより富士山噴火の可能性を指摘しており、その時期を2011年プラスマイナス4年と計算している。

「もう少し様子を見ないといけないが、地震が富士山周辺で起きたのは気になる。もっと大きな地震の前触れなのか、火山帯を刺激するようなプレッシャーがかかるのか。富士山下のマグマだまりを膨らませる方向へ働けば、噴火を早める可能性もある。逆にマグマだまりを縮ませるかのどちらかになるだろう」最悪の連鎖を引き起こさないことを祈るばかりだ。

鋼鉄製の格納容器は有害な放射性物質を閉じ込める要で、3号機はプルサーマル方式を採用している。つまり人体に非常に有害なプルトニウムを核燃料に使っているのだ。格納容器の破損や放射性物質の漏えいに、細心の注意を払うべき個所。15日に破損した2号機に続き、3号機でも破損が生じたとすれば、原子炉の損傷に歯止めをかける有効な手だてが取れていないことになる。

【太平洋プレートの「カギ」が外れ、列島周辺がガタガタに。予断許さぬ震度6の静岡東部。4年以内に発生予告。マグマだまり膨張も。304年ぶり”死の灰”が街を飲む。】

そんな中”列島崩壊”へ不気味な連鎖を見せている。東京湾での地震だ。実は11日に東日本大地震が発生してから余震は震源地となった福島、茨木沖を中心に起きているが、連動するよるかのように、東京湾でも地震が起きている。

東京湾を震源地とする地震は首都直下地震といわれ、過去には1855年に安政の大地震が発生した。1300万人を擁する首都東京を襲う直下型ととなるため、政府は1万人以上の死者が出ると試算している。専門家のあいだでは「想定が2桁違う」といわれ、甚大な被害が出ることが予想される。また横浜市は江戸時代の今から200年前の1812年、横浜駅の地下を震源地とするM6.9の地震が発生し死者が出ている。

武士や知識人が残した文書から、新潟中越地震(2004年)とほぼ同規模であった。関東の地下にはまだ多くの活断層が隠れていると言われる。同じ断層による再発の可能性は少ないが、無数とされる活断層による直下型地震に周期はなく、いつ起こるかわからない。当面は地下型への備えが重要。



『九州スポーツ』


2011年03月15日(火) 闇の物質 ダークマター (17)

宇宙には闇の存在、ダークサイドが確かに存在する。宇宙における闇の存在ははるかな昔からおそらく宇宙の開闠時からそこに在ったものだ。目の前にありながら、つい最近まで人類の誰ひとりとして気付かなかった暗黒の存在なのである。一つはダークマターという名前で引力というダークフォースを奮っている。

もう一つはダークエネルギーという名前で斥力というダークフォースを奮っている。そして真なる意味で、宇宙全体を支配し、その進化を左右してきた存在なのである。宇宙における暗黒勢力は、理由はわからないけれども決して光を出さないために、その姿をみることはできない。その点では、見えないことにかけてはブラックホールに引けを取らない。しかし宇宙の暗黒勢力も、次第にその姿を明らかにしてきつつあるのだ。

早すぎる銀河回転

いわゆる暗黒物質の存在について、多くの天文学者が真剣に悩みだしたのは1970年代に入ってからだ。一つは渦状銀河の安定性の問題だ。当時、円盤状の渦状銀河の振る舞いをシュミレートするために、円盤状に星を分散させて回転させてみると、あっという間に円盤状の形状が壊れて丸くなってしまうのである。

宇宙で壮麗な姿を見せている渦状銀河は、力学的な状況からは存在できないはずなのだ。円盤状に星を置いただけでは壊れてしまう渦状銀河なのだが、もし、正体はともかくとして、渦状銀河の周囲に星の10倍もの質量を置いてみると、円盤は安定に存在できるのである。これはどういうことだろう。

渦状銀河は回転しているので、いろいろな半径での星やガスの振る舞いを調べてみると、いろいろな半径での星やガスの回転の速度がわかる。回転の速度がわかれば、それだけの回転を起こすために必要な質量を見積もることができる。これが銀河の力学的質量だ。そしていくつの渦状銀河を調べたところ、回転速度の大きさから見積もった質量が、光で見えている質量の10倍もあることが珍しくないのだ。

すなわち、一つひとつの銀河には、目に見えないが重力に及ぼす物質、ダークマターが大量に含まれていたのである。

今日では、ダークマターは宇宙の全物質質量の90%以上を占めているのではないかと思われている。しかし見えないために、誰ひとり気付かなかったし、また証拠が出始めてからもその存在をなかなか受け入れられなかった。とにかく時がまだ満ちていなかったのは確かだが、彼の主張が正しいことがわかるまでには、まだ半世紀という年月が必要だった。


闇の勢力 ダークエネルギー

宇宙に存在するものは、目に見える物質あるいは目に見えない物質まで含めても、物質だけではない物質以外にも宇宙空間に存在して、宇宙の構造に多大な影響を与えているある種のエネルギーが存在すると考えられていて、今のところ直接的な検出ができていないため、ダークエネルギーと呼ばれている。ダークエネルギーは、ダークマターも含めた物質の数倍から10倍ぐらいあるかもしれない。

超新星宇宙論プロジェクトで判明した点は、ダークエネルギーの寄与が宇宙の全内容物の73%もあることだ。宇宙膨張を記述するアインシュタイン方程式でいえば、アインシュタインが一旦導入したあとに棄却した宇宙定数が復活することだった。そして宇宙定数があるということは、宇宙が加速しながら膨張しているということなのだ。

これは、物質や通常のエネルギーの重力作用による宇宙の減速膨張に対して、宇宙の加速膨張と呼ばれる。そして、そのような加速運動を引き起こすためには、宇宙に存在する物質自身によって宇宙を収縮させようという重力に対し、宇宙を膨張させようとする斥力が働いていることになるのである。その宇宙膨張を加速させる力のもとになっているエネルギーが、“ダークエネルギー”なのだ。

ダークエネルギーの正体はまだ不明である。一つの候補としては、真空エネルギーが考えられている、他の候補としては、クィントエッセンスと呼ばれるある種の弱い力の場だという人もいる。また他の次元からエネルギーが漏れているのかもしれない。すなわち、宇宙は高次元空間に浮かぶ膜だという説があり、ブレインワールドとかM理論と呼ばれている。そのような理論では、我々の宇宙である4次元時空の外部から重力やダークエネルギーなどの影響が入ってくる可能性があるのだ。

宇宙のダークサイドは、闇の底に深く沈んでいて、その全容が明らかになるにはまだまだ時間がかかりそうである。



『光と色の宇宙』


2011年03月13日(日) 「純文学」という言葉はなしとしよう

もちろん「純文学」と呼ばれる作品を貶めるつもりなど全くない。正確に表現するなら、『純文学』という言葉を使うことをやめにしよう」ということだ。日本の文学界には「純文学」という枠組みが厳然と存在している。「純文学作品」と呼ばれた瞬間、そこには純粋なイメージ、つまり人間の真実を追求し、なおかつ芸術的であるという印象が生まれる。

純粋な作品というものが実在するのかどうかはさておき、純粋な作品というカテゴリーがあれば、不純で大したことのない作品という分類が否応なく出来上がってしまう。しかし、純文学と対極にあるとされる藤沢周平、山本周五郎、司馬遼太郎は不純なのだろうか。あるいは五木寛之、井上ひさし、もしくはユニークな仕事で名をなした星新一はどうだろう。

彼ら「が大し作家」ではないという日本人はおそらくいないはずだ。にもかかわらず、「国民的な広がりを持った小説は純なものではない」という雰囲気が覆っている。事実、新聞の文芸時評ではいまだに純文学しか取り上げないし、エンターテインメントを論じる紙面はほとんど目にすることがない。

作品を特定の枠組みに嵌めこもう(はめこもう)とする傾向は、日本の文学が持つ可能性を極端に狭める。その結果、本来の純文学が豊かにならないばかりかそれ以外の文学も正当に評価されにくい。百歩譲って、国内だけのことなら目をつぶることもできる。問題は海外で正しく評価されていないという点である。そもそも海外には文学を純文学とエンターテインメントに分けるという発想がない。あるのは「良い文学」と「悪い文学」だけである。

残念ながら、海外で研究される日本の作品の多くは純文学だ。日本の文学を紹介する人が純文学ばかりを語るからである。当然、評価もそちらに偏る。その結果、「日本の正当な文学は純文学作品であり、そこには人間というものを追及し、社会の矛盾を問いかけ、なおかつ、高い芸術性を持っている」という先入観が植え付けられてしまった。たまにエンターテインメントが読まれても評価は低い。五木寛之の作品の不当に低い評価には唖然とするばかりだ。

その結果、「日本の正当な文学は純文学作品であり、そこでは人間というものを追及し、社会の矛盾を問いかけ、なおかつ高い芸術性を持っている」という先入観が植えつけられてしまった。たまにエンターテインメントが読まれても評価は低い。五木作品。井上作品の不当に低い評価には唖然とするばかりだ。

そもそも文学には俗っぽいところもあるし、楽しく読ませることも必要だ。そうした要素の少ない純文学ばかりが紹介されているため、「日本の小説は面白くない」という印象を持たれている。ここに日本の文学が海外で正しく評価されない一つの理由がある。日本には愉快でワクワクする作品がたくさんあるのに残念でならない。

国内の文学を取り巻く状況に目を向けるなら、芥川賞と直木賞の問題を避けて通ることはできない。多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。かってはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。

にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つだろう。私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んできたし、直木賞の選考委員という立場もある。したがって私の考えは一方的なのかもしれない。

それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が親しまれることを阻害する要因だと思う。純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。




『週刊ポスト』 阿刀田 高


2011年03月10日(木) 新撰組(16)

近藤らは新撰組の処遇に不満であった。役不足という意識が強かった。自分たちは「尽忠報国の有志」として幕府の召集に応じ、はるばる京都から上ってきた者である。ふさわしい仕事を与えられると思っていたのに、市中見回りをやらされている。当て外れであった。見廻りなどをするために募集に応じたのではないという言葉は本音である。

不当に軽視されていると感じていた。もし将軍が帰府してしまったら、今の不安定な身分のままで京都の巷に取り残される。いっそのこと、解散を命じてくださるか、隊士一人一人を帰らせて下さるか、どちらかにして頂きたいと切り口上になっている。表面は待遇改善要求であるが、心の底のもっと深いところは、今していることは何か初志と違っている。志と反しているという真剣な思いがあった。こんなはずではなかった、こんな風には使われたくなかった。自分たちは尊王攘夷の一員であり、ただ浪士狩りの爪牙(そうが)だけに甘んじるいわれはなかった。

解散やむなしの気分を吹き飛ばしたのは、元治元年6月5日の池田屋事件であった。この大量殺傷は、尊王諸藩の新選組観を根本から変えた。それまではたかが壬生浪士という侮りがあった。池田屋事件で勤王浪士の重要人物を何人も失った後は、恐るべき強敵という認識が生じ激しい憎悪の対象にされることになった。

新選組は引き返し不能の一点を越えたのである。斬るか斬られるかしかなくなった新選組が幕府=会津藩権力に一層深く組み込まれてゆくのは、必至の成り行きだったといってよい。政争の激化で武力集団の需要が高まり、新選組が「治安警察」の地位を確立するにつれて、資金も潤沢になり、幹部の身分も上がっていった。

極力、政治を排除して純粋に剣で生きる。この初心は新選組が強大な組織になった後も、埋めた井戸の底の水面のようにじわじわと滲み出すのをやめなかった。脱退は隊規によって死罪だったが、逃亡する者は絶えず、成敗される者も多く、後に伊東甲子太郎一派が分裂するのも、根本には新選組の現状が初心に反するという違和感があったからである。元治2年(1185)2月26日、真因は不明だが、試衛館時代からの仲間だった山南敬助が脱走を図り、途中から連れ戻されて切腹し、沖田総司に介錯されるという悲劇もその一駒として起きた事件であった。  

慶応3年、総司の病状はとみに悪化したと見え、12月18日、近藤が伏見街道で狙撃された日も寝込んでいて動けなかった。年が改まってすぐ始まった鳥羽伏見の一戦にも出陣できなかった。敗残の新撰組が江戸の戻る富士山丸では負傷した近藤と枕を並べて運ばれ、相変わらず冗談を言っては周囲の隊士たちを笑わせ、あとで咳が出て苦しんだ。「あんなに死に対して悟りきった奴も珍しい」と近藤は家族に話したそうだ。

慶応3年3月1日、近藤は捲土重来を期し、甲陽鎮撫隊を率いて甲府に新発する。それに先立つ2月28日、近藤は千駄ヶ谷の植木屋の離れ座敷を訪れ、骨と皮ばかりになっていた総司と惜別した。それが最後になった。甲陽鎮撫隊は一敗地にまみれ、下総流山で捕えられた近藤勇は4月25日、板橋で斬首された。病人への気遣いで総司には知らされなかった。土方歳三は、大島慶介の脱走歩兵隊に合流して北へ去った。総司がひっそりと死んだのは5月30日である。

現在の沖田総司像はことごとく「司馬総司」であるといっても過言ではない。山根貞夫が、その後、原作の司馬遼太郎の小説『新選組血風録』『燃えよ剣』を読み、びっくり仰天した。そこで豊かなイメージを持って描かれている沖田総司にはまるで無垢な明るさが満ち満ちているのである。

天保13年(1843)江戸麻布の白河藩下屋敷で生まれたと伝えられる総司は、10歳ごろから市ヶ谷甲羅屋敷にある天然理心流道場試衛館の内弟子になり、近藤周助に剣を学んでめきめき頭角を現した。同家に養子に入った近藤勇、高弟の土方歳三、山南敬助、永倉新八などに伍して腕を磨き、多摩地方にも出稽古に行った。その並々ならぬ技量は「この人、剣術は晩年必ず名人に至るべき人なり」と衆目の一致するところとなっていた。

下澤寛の文章は「ある日、沖田が道場で突き技の稽古をしていた。彼は突きの危険性を十分に承知していて、突き出すよりも、いかに素早く引くかの練習に専念していた。総司の本領は道場剣法ではなかった。斬り合いの修羅場で発揮された」

新選組には、試衛館系キャリア組と、非・試衛館系ノンキャリア組と二分されかかっている気配があった。早くも新選組には《階級》が作られ始めていたのである。当初のうち新選組は、長幼、剛弱、人望などでおのずと序列はありこそすれ、同志的紐帯で結ばれているはずであった。そんな仲間うちにいつの間にか上下関係が生じ、支配命令系統ができていたのである。

新規加入者はなおさら下積みであった。たしかに隊士に安定収入が確保され、遊郭でも妾宅でも京都の銘酒と美女の肌は思いのままだったが、それはめいめいが命のやり取りのリスクにおいて手に入れる対価であった。幹部には栄達の道があるが、平隊士には厳しい隊規に縛り付けられる。外部からは厳しい憎悪を向けられ、内部では不協和音を軋ませながら、新選組はどう引き返しようもなく、明日も知れぬ修羅の巷に踏み込んでいった。

新選組が無類に強かった理由は、白刃を連ねる集団戦法にあった。個人の剣技もさることながら、敵一人を何人かで囲んで仕留める。池田屋事件は壮絶な刀戦だった。蛤御門の戦闘には銃戦もあったが、新選組は後詰めだったから弾丸の洗礼を受けていない。正規の銃隊とは戦っていなかった。伏見、淀、橋本と新選組の剣が本格的に銃と対決した数日間の戦闘は、犠牲者続出の惨憺たる敗北をもたらしただけではない。剣を基本にした戦法の終焉をドラスティックに告げたのである。

4月25日、近藤勇は板橋の刑場で斬首された。この日に備えて髭を剃り、束髪を大たぶさに整えて、悠揚迫らぬ最期だったと伝える。そうでなくてはならない。近藤勇はこの日、立派に近藤勇自身を取り戻していたのである。その首級は三日間晒された後、焼酎に漬けられて京都に運ばれ、三条河原でもさらされた。

局地では勝っていても全体の劣勢は食い止められない。新選組はしょせんはゲリラ的奇襲であった。このころから土方歳三の胸中には確実な予感が形を取っていたようである。函館政権の終局は近い。小姓の市村鉄之助を落ち延びさせ、故郷への手紙を託して函館から横浜へ出帆する船に乗せている。手紙と一緒に届けられたのは一葉の写真であった。あの有名な肖像写真である。土方は自分の遺品のつもりで送ったに違いなかった。

額兵隊は海岸沿いに、伝習士官隊は市街地に展開して進む。土方歳三は馬に跨り、柵際に踏みとどまって叱咤激励していた。言い伝えでは、黒沙羅の詰襟服に白の兵児帯を占め、和泉守兼定の名刀を腰に帯びて馬上の姿は揺るがなかったという。敵兵が間近に迫り、砂山から狙撃して放つ弾丸が集中し、まわりで何人かが倒れたが泰然と動じなかった。飛来した一弾が腰間を貫き、さすがの土方歳三もたまらず落馬した。あたかも死に場所が用意されていたかのような最期であった。

土方歳三は「思想家」などではなかった。俳句のたしなみがあって遺品に『豊玉発句集』がある。もし俳句がいくばくかの人間の内面を映す鏡だとしても、土方の吟にその痕跡は期待できない。

会津の如来堂で死んだと思われている斎藤一は、変名で会津藩士に紛れこんで戸浪に移住し明治10年(1877)警察官に志願して西南戦争に出陣した。にっくき薩摩人をぶった斬れるなら千里の道を遠しとしようか。帰還後は警部補・巡査部長に昇進した。警視庁を退職してからは博物館の看守や、東京女子師範学校の会計係などを歴任して、大正4年(1915)に畳の上で死んだ。

近藤勇と喧嘩別れした永倉新八は、会津から米沢に入ったが同藩が降伏して行き場を失い、本籍地の松前藩に自首して帰参が認められた。明治になってから函館に移住し、その後小樽に住んでやはり大正4年まで長生きし、人に思い出話を語って倦まず、新選組の䟽影に生涯を捧げた。

その他の有名無名の旧隊士は「新撰組」という晴れては人に語れぬ前歴を背負ったまま文明開化の薄暗い片隅でひっそりと朽ちていった。その骨が時間の風化に晒されて無機物になりきるまで、新選組に向けられた怨念が消えることはなかった。

明治維新からほぼ干支が一巡して60年経った昭和の初めごろから、新選組は人々の記憶に新しくよみがえった。その物語は地下茎で生育する期間があまりにも長かったので、歴史の畑では発芽が送れ、大衆文学の度上で咲き開いた。植え替えるのがいいかどうかわからない。新選組の伝説は、後世の読者に問いかけている。正史と韛史はいずれがよく歴史の真実を語るであろうか。

一夜明けて1月4日。伏見海道では旧幕府軍が新手の歩兵隊を投入して反撃に出、一時は薩軍を押し戻して司令部を狂喜させたが、富の森の戦で日没になり戦線膠着。淀にいたはずの新選組については記録なし。実はこの日、背後の京都で大きな動きがあった。大久保利通と岩倉具視の調停工作が功を奏して、ついに「徳川慶喜討伐」を号令する錦の御旗が出たのである。これで薩長軍は「官軍」になった。旧幕軍は「賊軍」扱いにされることになった。




『新選組の遠景』



2011年03月06日(日) これを「革命」と呼ぶべきか

今回の革命からは、3つの共通した特徴を汲み取るべきだろう。「自由」「若者」「情報」だ。3つの国の独裁期間は、チュニジアのベンアリ大統領が23年、エジプトのムバラク大統領が29年、リビアのカダフィ大佐が41年。日本の自民党政権が38年だったから、その間ずっと一人の首相だったと想像すれば、その絶望的な長さがイメージできるだろう。国民の半分は、生まれた頃から政治のトップが同じなのだ。

チュニジアの革命の発端をつくったのは、大学進学を夢見ながら失業中の26歳の青年だった。多人数の家族を養うために路上で野菜や果物を売っていたところ、取り締まりの女警官に無許可を理由に商品を没収され、殴られた。絶望した青年は県庁舎前で抗議の焼身自殺を図り、大学を出ても職がない似た境遇の若者たちの間に、同情と共感が広がってデモに発展したのだ。

注目すべきは、若者たちの情報の広がり方だ。20世紀型革命のような、ビラでも看板でも演説でもない。携帯電話を使った、インターネットを通じた呼びかけだった。とくに短い言葉で呟く「ツィッター」と、会員制交流サイト「フェイスブック」の威力が大きかった。

ここでも考えてみれば、最新型の携帯電話を持っていて、縦横に使いこなせる若者が、明日のパンにも困るほど貧しいとは言えないだろう。平均すれば大学卒業程度の教育があり、生活水準は中流程度の若者である。彼らは生まれる前から語ることを禁じられている国内政治を除けば、ネットを通じて民主主義政治や自由についても知っている。

やはり革命の動機は政治的欲求であって、経済的必要ではなかったのだ。チュニジアでもエジプトでも、実際に集ってみて初めて、若者自身も数の多さに驚いた。その驚きが携帯電話を通じたメールで伝わり、数時間で新たな仲間を引き寄せた。千単位の規模なら、独裁国家は暴力装置の力で蹴散らすけれど、万単位に膨れると、物理的にそれもできなくなる。

チュニジアとエジプトでも警官隊は最初、手当たりしだいに暴行し、死者数100人、負傷者数千人を出したが、2〜3日で手がつけられなくなって警官は引っ込んだ。代わりに登場した軍は、国民を殺さず独裁者の追放に動いた。リビアでも似た展開が起きつつある。

若者が独裁者の暴力装置をはね返した勝因は、まず時間があり余っているために集まれる人数、何日も泊まり込みで街頭に繰り出せる若々しい体力、そして未経験ならではの怖いもの知らずの突進力だ。数が減り内向きに縮みこむ日本の若者とは正反対のエネルギーは驚異的だ。

潜在する若い力は、これからも揺れ動く他の中東諸国にも共通している。中東革命は中国、インドとならんで、この地域が意外な人材力を秘めていることを示した。民主化が定着していけば、最新の通信手段を駆使し、成長の機会を手にしたこれら若者の群れは10年後、大変なパワーに化けるだろう。

しかし同時にこうした特徴は、始まったばかりの中東革命が抱える弱点でもある。情報を操るといっても、「ツィッター」や「フェイスブック」で交わされるのは、深い意味や論理に基づいて書かれたものではなく、断片的な思いつきや感情、反応でしかない。彼らは民主化を通じて何を求め何をつくり、何を学ばなければならないのか、まだわかっていない。

いきなり巨大な無秩序・無計画の中に放り出され、ウジャウジャとうごめいている状態だ。これから揺り戻しや内輪もめといった混乱が続くだろう。革命は長い混乱の始まりだ。エジプトで親米独裁が倒れ、米軍基地を置くバーレーンやサウジアラビアの王政まで揺らげば、米国は中東に足場を失う。軍事地図に灰色の領域が生じる。数え上げれば民主化どころではなくなるシナリオは、いくらでも想定できる。革命の現実は夢物語や美談とはほど遠い。

だが、準備も設計図も指導者もないまま、中東は壮大な冒険に足を踏み入れてしまった。後戻りはできず、世界は中東に引きずられて荒野を進むしかない。



『週刊現代』


2011年03月04日(金) 八百長は文化?

角界関係者たちは「人情相撲があるのは仕方がない」などと口にしているが、携帯メールのやりとりから20万円で星を売買していたことが明らかになっている。それでも「「八百長が文化」というなら、新聞・テレビは、相撲の勝敗をスポーツとして報道してきたことをどう説明するつもなのか。

「相撲の起源は野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)の戦いだったと言われています。この戦いでは野見宿禰が相手を蹴り殺してしまったという。つまり相撲の原点は格闘そのものなんです。一場所15日、年間6場所すべてガチンコ(真剣勝負)でやれば怪我をするから無理という意見についても、ではガチンコ横綱と言われた貴乃花(現親方)はどうだったのででょうか。彼は幕内優勝22回、歴代5位の記録を持っています。八百長力士を擁護する発言はガチンコ力士に失礼です。正直者はバカを見て当然とでも言いたげで、違和感を覚えますね。

相撲がスポーツではなく、八百長もある興行であり、神事というなら、芸能面で報じればいい、この際、独占的に大相撲を中継してきたNHKが先頭に立って『スポーツに徹すしべし』と言わなければなりません。公共の電波を使って、受信料の中から一場所4〜5億円ともいわれる放映権料を払って、スポーツでもない興行を流すなら、受信料不払い運動が起きてもおかしくない。

新聞やテレビがやってきたことを検証すべきなのは、相撲協会や特別調査委員会も同様だ。元力士は今回の調査では絶対に八百長の根絶などできないと力説した。「大麻事件の時、相撲協会は抜き打ちで尿検査をしました。これは幕内上位の日本力士が絶対にシロだという確信があったからできたんですよ。八百長を本気でなくすつもりなら、幕内だけでなく、付け人をやるような下位力士まで一斉に携帯を没収して、調査すべきなんです。

特別調査委員会では、八百長を告発すれば、処分を軽減するとか、調査を継続しつつ5月場所を開催するといった声も上がっている。だがそれならば天皇賜杯も総理大臣杯もなくし、客にもプロレスのように筋書きがあることを断った上で開催すればよい。もちろん、協会が狙う公益財団法人の認可など諦め、財団法人の資格も返上するのが筋だ。

一般人と公務員では税金を使っている公務員のほうが厳しく律しなければならないでしょう。同じように相撲協会も公共性を主張するなら、八百長は許されない。税金の優遇やNHKの独占放送など、既得権益を主張しながら、八百長も文化なのでやりますというのは道理が通りません。本誌は相撲をなくせと言っているわけではない。八百長の存在が明らかになった以上、過去を含めて八百長が横行していたことを相撲協会が認め、八百長力士を排除したうえで、出直すべきだと指摘している。



『週刊現代』


2011年03月01日(火) 救済の理念としての輪廻(15)

初めて三島由紀夫という筆名を名乗って学習院外の雑誌に発表した「花ざかりの森」は、繊細だが不安定な感受性の持ち主である語り手の「わたし」が、憧憬と追憶というロマンチックな心をの動きによって不如意な現実を乗り越え、それとともに作者の三島もまた自己回生を図ろうとした物語で、その後の三島文学の基軸をつくった作品である。それは確かにその通りなのだが、今三島が「夜告げ鳥」によって「花ざかりの森」の世界を乗り越えようとしていることも間違いないのである。

救済の理念としての輪廻
 
いったいなぜ、三島はこのようなことを企てたのか。この問いに答えるためには、作家三島の精神の軌跡に、改めて目を向けなければならない。三島に批判的なものはしばしば、三島文学は風変わりなレトリックやテーマで人目を引くだけの浅薄なものにすぎない、というようなことを言う。しかし、そうした見方こそ浅薄であって、『裸体と衣装』で自ら言うように、三島にとって文学は生きるよすが(拠り所)なのだった。だが、そのよすがであるということの意味が「花ざかりの森」の場合と「2605年における持論」や「夜告げ鳥」の場合とでは、異なっている。

「花ざかりの森」では、語り手の「わたし」の直面する不如意な現実とは、「わたし」を心理的、性的な意味で不安定たらしめる環境、ないしそのような不安定さそのものであったと言うことができよう。そして、その不安定さは、三島を育てた祖母と生母との軋轢や、幼時から病的といってよい程までに繊細な自分自身の感受性に振り回されてきた作者三島のものでもあった。

ところが昭和19年、三島が学習院高等科を卒業し、東京帝国大学に入学する頃になると、それまで単なる心理的、性的な不安定さと見えていたものが、それだけではすまないことが明らかになってくる。

一つには、後に小説『仮面の告白』で描かれることになるサドマゾスティックな同性愛衝動が、激しく内面に渦巻いて溢れ出るほどに高まり、そのために三島にとって生の現実というものが、危険極まりない相貌を帯びて浮かび上がってきたということが指摘されなければならない。第二に、三島を取り巻く時代状況も厳しさを増していた。昭和18年末には、すでに学徒出陣が始まっており、三島もいつ戦争に駆り出されるか、予断を許さない状況だったのである。

もっとも、昭和19年5月の徴兵検査で第2乙種合格となったが、翌年2月の入隊検査で肺浸潤(軽度の肺結核)と診断され即日帰郷を命じられた三島からは、戦死の危険は当面遠のいていた。昭和20年の時点で、三島が出征せず勤労動員に赴いていたのはこのためだが、実を言うと肺浸潤と診断されたのは、風邪をひいていた三島が嘘をついて肺結核に罹患しているかのように振舞ったので、これを軍医が誤診したのだった。

このことの罪悪感は三島の心の奥底で、決して抜けることのない棘となって疼き続ける。出征は免れたが、癒しがたい傷を心に負ったのだ。そしてそれは、暴力的な同性愛衝動と重なり合って、自分は生きるに値しない人間ではないかという思いを三島に深く植え付けることになるのである。



『三島由紀夫 幻の遺作を読む』


加藤  |MAIL