加藤のメモ的日記
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2011年02月28日(月) 戦場の兵士たち(14)

戦は終わったが、日本人捕虜、逃亡に失敗して銃殺に

敗戦。ソ連は米麦やらレールや枕木まで、満州(現・中国東北部)のありとあらゆる物資をハルビン郊外にかき集め、我々日本人捕虜を使ってソ連の貨物列車に積み替え、ソ連に搬入した。その作業に従事したのは100人ほどでした。元日本人小学校と思われる廃屋のコンクリート床に敷き物を敷き、食料はコーリャンとトウモロコシ。石油缶を鍋がわりにして飢えをしのいだ。

夜昼となく物資が入ってくると自動小銃を持った監視兵に「仕事、早くやれ」と追い立てられた。そんなある日、退院患者という二人が仲間入りした。そのうちの一人が逃亡に失敗して捕まり、翌日見せしめのために全員の前で銃殺するというふれがあった。拳銃を持った将校に連れられて出てくる。沈黙。こめかみに一発、朱に染まって倒れる。遺骸は庭隅のゴミ捨て場のゴミをかき上げ放りこむ。どこの誰だか知る由もない。恐らく戦時死亡宣告で、葬られてしまったのだろう。今もその情景を忘れることができない。



  
零戦で被弾し、捕虜で終戦を迎える

昭和19年6月18日、海軍の零戦搭乗員だった私は、米機動艦隊攻撃の帰路、サイパン島上空で対空砲火で被弾し、火に包まれた。急降下する愛機を操縦してアスリート基地に着陸、風防ガラスを拳銃でたたき割って気概に脱出した。基地はすでに敵手に落ちていて捕まった。全身大やけどでハワイの米海軍病院に収容されたが、9回の手術を受けて歩行も可能になった。 

病室では通訳をした、20年8月14日早朝、顔見知りの海兵隊員に起こされた。彼は気の毒そうに小声で「ウオーイズオーバー。ジャパンサイレンダード」と言った。直ちに私は周囲の日本兵の捕虜たちを大声で起こした。彼らに「今この隊員が『戦争は終わった、日本は降伏した』と言ってきた。本当に終わったようだぞ」と説明した。皆、物思いに沈んでいった。私はその後1年4カ月をハワイの収容所で過ごし、昭和21年12月、日本に送還されたのだった。



街頭埋め延々、被災者の群れ

昭和20年3月10日に家を失った私の家族5人は、11日早朝、奥州街道を通り栃木県の父の実家を頼って行くことにした。父が運送業をしていた関係から、小さなオート三輪で運んでもらえることになった。着の身着のままで荷物の少ない5人だったが、それでも荷台は狭かった。奥州街道に入ったとたん、私たちが幸せであることを痛感する光景が目に入ってきた。

被災者の大群が、歩道いっぱい広がって歩いていたのだ。目の届く限りの街道を被災者たちは、わずかな手荷物を下げるか、手ぶらでとぼとぼ歩いていた。リヤカーや大八車を引いている人もいたがわずかだった。焼け焦げのある防空頭巾をかぶっている人、幼い子の手を引いている人、目をやられた人、道端に座っている人。だが、助けている沿道の住民の姿はなかった。

その光景は、その後写真で見た世界の難民のどれにも劣らず悲惨なものだった。追い抜くのに苦労しながら私たちのオート三輪は進んだ。被災者の歩く列は、栃木県の小山で私たちが街道を離れるまで絶えることはなかった。その後も見渡す限り続いていた。




その日を境に街の状況一変

玉音放送といっても若い人にはピンとこないのではないだろうか。私たちの子供の頃は天皇陛下のお声を聞くこともなく、ニュース映画でお姿が映し出される時は字幕に「脱帽」の文字が流れ、守らないと不敬罪に問われると言われた。そのような時代に私は、今の北朝鮮の�募亰鎧蔑疉瑤坊蛎阿箸靴洞个瓩討い拭�8月15日はソ連軍が清津港に上陸したという情報が入って4、5日たった頃だったと思う。「重大放送があるので全員ラジオの前に来るように」と伝達があった。

電話の交換任務についていた私を残して、皆そちらのほうに行ってしまった。一人で不安になった私は、まさか終戦の玉音放送とは思わなかった。耳に書けたレシーバーは雑音がひどく天皇陛下のお声とは思っても意味がわからなかった。その後が大変だった。司令官を始め士官や兵隊は前線に出動していいて残っているのは、少数の軍人と女子通信手だけで心細いことこのうえなかった。

その日を境に状況は一変した。街にはチマ・チョゴリの女性の姿がみられ、日本人はひっそりと隠れ住み、女性はソ連兵から身を守るために夜は床下や山に隠れた。日本に引き揚げてからテレビ放送が始まり、玉音放送を聞く場面があったけど、一番印象に残っているのは宮城前の広場で地面に座り込み、泣き伏している姿だった。




生への執念で4年間を生き抜く

私は昭和20年の夏、旧満州(現・中国東北部)牡丹江市の輜重兵幹部教育隊で訓練中、8月9日のソ連軍侵攻に遭い、捕虜となってバイカル湖はるか西のタイシェト地区に送られた。そしてその冬、翌春までに近接の二つの収容所で、2000人中600余人が栄養失調や発疹チフスで死んだ。私たちは度々、凍りついた屍をソリに山と積み、近くの丘の上に運んで捨てた。凍土は硬く、申し訳程度に雪をかきわけて埋めた。墓標などはなかった。

4月ごろから、タイシェトの奥地を作業隊ごとに移動しながら働いた。第二シベリア鉄道建設のための準備作業で、伐採、建築、橋梁作業、採石など休みなしに働いた。冬、零下30度以下は作業中止と聞いたが、守られているとは思えなかった。特に採石作業は毎日が地獄だった。山から掘り起こした石をハンマーで、抱えられるほどの大きさに割るのである。一振りごとに息をつく始末であった。一人2平方メートルのノルマなど到底できるものではなかった。そして時折入ってくる貨車への積み込み出は死ぬ思いがした。帰還して、私たちがいたところが「地獄のタイシェト」と呼ばれていることを初めて知った。



「ノルマ」は抑留者が持ち帰ったロシア語

ノルマとは決められた目標の達成をさすロシア語である。今は日常の生活用語として定着しているが、地獄のシベリアから私たち抑留者が日本に持ち帰ったロシア語であることは、あまり知られていないようだ。敗戦と同時に、旧満州(現・中国東北部)の日本人、軍属64万人と満蒙開拓青少年義勇軍を含む日本男子を、旧ソ連は「男狩り」して、ソ連の戦後復興のためにシベリアに強制連行した数は70万人以上といわれている。

夏服で連行された日本人に、零下30度〜50度の冬があっという間に来て、最初の冬は日本人の誰もが経験したことのない極寒、飢餓、重労働、疫病でドミノ倒しのように死に、ソ連は死亡者名簿の作成を厳禁し、帳簿上死亡者ゼロの無謀な扱いを強要した。これに追い打ちをかけたのが「ノルマ」であり、ノルマ未達成者は営倉刑や食べ物を減らされるなどの非人間的な扱いを受けたのである。飢餓状態の中でノルマに苦しめられ、望郷の願いも空しく、ノルマを呪って死んでいった多くの戦友を思うと、生きて帰ってきた日本人の一人として「ノルマ」の言葉の重みを伝えたい。




引き揚げ船を助けた米国船

シベリア抑留というけれど、私はその延長上の、当時ソ連の衛星国であったモンゴル抑留であった。横綱・朝青龍関で知られるウランバートルである。そこで国立大学の建設作業に1年半余り、従事させられた。年間、雪を見ないのは7月と8月の2カ月で、とにかく年中寒いという印象が強い。零下30度、ないし40度という極寒の中での屋外溝掘り作業など、今思い出してもゾッとする。8時間労働といいながら、その実、ノルマを達成するまでの長時間労働が強制された。食べ物は、朝夕はほとんど水分だけの雑炊、昼は黒パン少々という常に体力維持困難な、空腹の連続であった。

1万2千人余りがモンゴルに抑留され、そのうち1600余人が力尽きて死んでいった。革命児スフバートルの騎馬像(抑留者が建てた)がある中央広場周辺にある政府関係の庁舎や、モンゴル大学、その他多くの建築物は日本人の手によるものが多い。モンゴル向上発展に大いに貢献してきたというべきである。それにしても、あの過酷な労働の証明書さえ、いまだ発給されていない。



『戦場体験』


2011年02月27日(日) 武器で結びついた薩摩と長州

長州藩もそのころ、下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃していたのです。これも尊王攘夷ですね。外国の勢力に負けないぞということを誇示するために、無差別に砲撃していたのです。それで、外国も怒ってしまって、アメリカ、オランダ、フランス、それからイギリスなど、連合艦隊が下関に行ったのです。そして長州藩と戦闘をしましたが、長州藩が惨敗。大砲や青銅砲なども随分持っていかれてしまって、今アメリカなどに展示されたりしていますけど、そのようして長州も全く負けた。

その時に井上馨と桂小五郎が長崎に行きまして、グラバーというイギリスの商人と交渉して、「銃と大砲を購入したいんだ、頼む」といいましたのですが、そのころは長州征伐というのがありまして、幕府は長州だけには売るなと、外国商人に圧力をかけていたのです。それで、誰も長州藩の要求にこたえなかった。

桂と井上は、たまたま長崎に 来ていた小松帯刀のところに行って何とかして欲しいと。小松帯刀は快諾し、分かった、薩摩の名義を貸しましょうと。それで、どんどん輸入なさいと。二人は大喜びして、そして長州藩は外国の銃砲、それから軍艦まで輸入したのです。その、薩摩が斡旋したということを、長州藩の藩主とその息子さんがお礼状を鹿児島に送っている。

ともかく斡旋していただいてありがたいと。薩摩藩と長州藩で幕府を倒すことに全力を挙げましょう、そのような礼状が行っているのです。つまり薩摩と長州が結びついたのです。薩長同盟というと、坂本竜馬が斡旋したことになっているのですが、坂本竜馬は土佐藩の藩士ではなく、郷士です。坂本竜馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれど、そのようなことは史実にないのです。

一人の人間が薩摩と長州、今のアメリカとソ連のようなものですが、それを中に入って話をつけるなどありえない。いちばん最大のものは武器なのです。武器で合致してしまった。それで、この薩摩・長州藩が新鋭銃、新鋭の大砲、これを輸入して、幕府と対抗する。鳥羽伏見の戦いで幕府軍は15000人、薩摩のほうは4〜5000人なのですね。それで圧勝してしまったのです。なぜかというと武器なのです、武器の勝利なのです。

ですから、今お話ししたように、幕府が倒れた、その発端なったというのがこの生麦事件。それによって幕府というのは倒壊し明治維新が成立したのです。



『ひとり旅』


2011年02月26日(土) 津村節子 (13)

この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。彼が死去したのは平成18年の夏の暑い盛りであったが、その前年はまるで物に憑かれたように新聞連載の『彰義隊』のゲラ直しをしながら各誌各新聞にエッセイの連載を書き続け、短編小説の取材のために仙台へ行ったり東京地裁に行ったりしていた。この年エッセイ集2冊、長編23冊を上梓している。

彼の死後も未発表の短編を含めた遺作集『死顔』とエッセイ集『回り灯籠』が出版されたが、さらに文芸春秋から未発表の一篇を収めた『ひとり旅』が編まれるほどの作品があったことに驚かされる。

この中のエッセイ「一人旅」を『ひとり旅』として標題にしたのは、彼が研究家の書いた著書も、公的な文書もそのまま参考にせず、一人で現地に赴き、独自な方法で徹底的な調査をし、資料はむこうから来る、と自負するほど思いがけない発見をしているその執念と、余計なフィクションを加えずあくまで事実こそ小説であるという創作姿勢が全編にみなぎっているからである。

彼の遺作集のゲラや死後出版される著作物は私が読むことになり、この集などもそれぞれ当時のことが思い起こされる辛い仕事になった。物を書く女は最悪の妻と思っていたが、せめてこれが彼にしてやれる最後の私の仕事になった。この集に記されている一番古い戦記小説『戦艦武蔵』執筆時のこと、無名の新人が一流文芸雑誌に420枚一挙掲載されることになったその死物狂いの様子を今も胸苦しく思い出す。

それまでリリカルで鮮烈な佳品を書く新人と評されていた彼とは作柄の異なるこの長編は酷評を受ける一方で、平野謙氏に今月のベスト3の1作に選ばれ、本田秋五氏の評には、記録文学作家としての能力を十分に示した、とあった。新しい分野に足を踏み入れるきっかけになり、好きな短編を書きながら戦記小説、歴史小説を書き始めた。

夜中にうなされているのを起こすと、追手に追い詰められている夢を見ており、、『桜田門外の変』を書き始めたときは、巨大な彗星が現れたのを凶事の前兆としたいと喜んでいたのに、時代的に早すぎると破棄し、続いて252枚の書き進めていた原稿を庭で焼却しているの見たときは唖然とした。尊王攘夷に対する解釈がありきたりで、水戸藩領の海岸線が長いため外敵に対する危機感から生まれた思想だというのであった。それでも連載は間に合ったのである。

そんな激しい性格の彼も、「茶色い犬」のムクの取材の時ひどく心を痛め、、「銀行にて」で10万円おろすのに万を押さなかったので10円玉がコロンと出てきたと笑う。機械には弱い男であった。

たった1日で終った彰義隊をどう書くのか心配で、お互いの作品を読まないことにしている私も毎日読んでいたが、彼は皇族でありながら賊軍の立場に立たされた輪王寺宮の悲劇を書きたかったのだ。宮の曾孫北白川道久氏が伊勢神宮の大宮司で、『彰義隊』が完結したら二人でご挨拶に伺う予定だったのに、かなわぬ夢となった。



『ひとり旅』吉村昭


2011年02月23日(水) 医の倫理とは(12)

「研究者の一人が、懇談の席で次のような悩みを話した。「今の医学研究では、クローン技術を応用することでクローン人間をつくることも可能です。しかし、こうした最先端の研究がどこまで現実に応用されるべきか、その限界がわからない。歯止めになるのは何か、という点についての意見を知らせてほしい」私自身、先端技術の限界について、何を持って制御すべきかの答えは持っていない。むろん「ヒューマニズムに反しない」という程度の答えを返すことはできるが、実はこの社会ではこういう答えが最も多いのだが。それが実際には何の意味もないということもよくわかる。

私寺院、先端医学の限界について、何を持って制御すべきかの答えは持っていない。むろん「ヒューマニズムに反しない」という程度の答えを返すことはできるが、それが実際には何の意味もないということがわかる。

この医学研究者によれば、アメリカの医学部教育では最終的にその答えを宗教に求めるという。「神がはたしてこのような医療を許すだろうか」との問いを自らに発し、その答えを求めるプロセスの中で暗黙の了解ができあがっていくというのである。ところが日本にはこのようなプロセスがない。そこでどうなるか、研究分野の学会とか文部科学省などの判断を仰ぎ、つまるところ「官」が決めた方針に則って見解がまとめられ、それに従うことになる。一件、民主主義手法のように見えるが、実際にはこれは真摯な態度とは言い難い。何のことはない。自らが考えることを放棄して、何らかの権威を利用してそれに従うというだけの受け身の研究態度でしかないからだ。

1980年ごろに、医学部を志したものの動機づけを解析していくと、結局は二大骨格がやはり窺えてくる。それは「病から人類を解放したい」という純粋なヒューマニズムを出発点とに捉えている者」と、「医師という職業は社会的、経済的特権階級である」という、極めて功利的な考えをもとに医師という職業を選んだものの2つのタイプである。これを医師志望の二大骨格というべきだと思う。

偏差値の高い大学医学部に多いのだが、幼年期から秀才と誉めたたえられて、成績面で他人に負けたものがないという学生がいる。ところがひとたび大学医学部に入っていみると、そのような秀才ばかりの仲間をみて、初めて強い挫折感を味わうものが出てくる。その挫折感の行き着く先は、教室では卑屈、自己蔑視なのだが、社会と触れる場面では極端に他人に冷たい目を向ける。能力の低い者に対して愚弄した目を持つことになり。患者を「弱者」とみて自らの挫折感を満足させるというのだ。


教授の持っている権力

「医局のボスである医学部の教授は、他の文学部や理学部の教授と違って、研究・教育のほか、大学病院での診察を指揮し、さらに系列化の病院の人事を取り仕切るという、超人的な能力の持ち主でなければ務まらないような広大な権力を持っている。

他学部の教授でも弟子の就職に奔走する、しかし、たとえば工学部や法学部の教授が、弟子の就職先の会社に、誰を人事課長にせよ、と命令するとか、あるいは甲の会社から引き抜いて乙の会社に移すというようなことはとうてい、常識として考えることはできない。


医局講座制という語は、医学部の関係者に多様な反応を与えている、60歳以上の教官たちは、このシステムを『家族共同体』のように言い。医師・研究者として成長して行くプロセスで必要不可欠のごとく語る。だが、30代後半から40代の医師・研究者に話を聞いてゆくと、明らかに二つのタイプに分かれる。一つは60代の教官と同じように、医師の世界の伝統であるかのように話すタイプだ。忠実な医局講座生の継承者といってもよい。

他の一つはこのシステムこそ、相撲部屋、芸者置屋とならび日本三大封建組織だと不快気に語られる意見である。反乱者の怒りが増幅された声ととも見ることができるのだ。かって教授のいうことを聞いていれば、博士号も取得でき、医学知識・医療技術の中枢で腕を磨くこともできたし、自らの進む方向も赴任する病院も、そして留学先も教授が決めてくれた。医局のこの構造を青年医師連合会は崩壊させた。

教授が関連病院をも含めた医局人事を牛耳るシステムは、日本独特のものだ。関連病院にとっては医師の安定供給、派遣する大学側にはポスト獲得という利点がある。教授に反抗して、へき地の病院に飛ばされた医師もいる。患者の都合などとは無関係に人事が決定される。

医学・医療は誰のために存在するのか?むろん人類を疾病から解放するためである。そして、「生命の尊重」という。しかし、「生命」とは何かが、脳死・臓器移植、生殖医療、あるいは遺伝子治療と次々と進んでいくであろう医療技術のもとで変化していく。それと同様に、「ヒト」とは何だろう。そのような疑問がいずれ近い将来に起こってくることも間違いない。

遺伝子治療の研究レベルでは、天才的な遺伝子を持った人間を作り出すことが可能だというし、人類の生殖行為なしに次々と人造人間をつくることも可能である。父親も母親も誰かわからない人間、何らの病気を持たない人造人間、そうした人間は臓器を再生することによって「死」がなくなる時代とてくるかもしれない。いや最先端医療によってそのような人間がつくられるとすれば、「ヒトとは何か」の問いかけさえあやふやになってくるのではないか。

科学技術庁・科学技術政策研究所では、日本の産学官の研究者1200人を対象に、2000年に「21世紀に誕生する、あるいは実現する新しい技術について」というアンケートを行なった。医療に関していえば、人間のDNAやすべてのたんぱく質の構造が解明されて、エネルギー消費の少ない小型人間が生まれるともいう。遺伝子研究によって、人間の細胞も均質性を持つわりに感染性に弱く、新たに登場したウィルスによって、一気に人類滅亡の危機さえも考えられるというのである。

さらに脳の信号を変換する技術が生まれて、考えを持っただけでコンピューターへの入力ができるようになるとの予測もある。また人工知能も開発され、人間と意志の疎通が可能になる。さらにはあらゆる生物とのコミュニケーションが可能になってくる。身近にいる犬や、猫とさえコミュニケーションをとることができる。またイルカやチンパンジーといった動物の心の内面に入ることも可能である。

こうした時代が予想される時、医学・医療はどうなるのだろう。もしかすると、医学・医療は人類を疾病から解放するのではなく、人類を滅亡の方向へ向かわせる凶器となってしまうかもしれない。先に述べたように、医学部の教える側も学ぶ側も、医学・医療とは何かの疑問にゆきつくというのは、こうした不安を本能的に感じているからではないか、と私には思えるのだ。




『医学部残酷物語』


2011年02月19日(土) 遺伝の秘密

では、本人にも説明できないような「ひらめき」や「直感力」は遺伝するのだろうか。こうした要素が勝敗に大きく作用するのが囲碁や将棋の世界。日本棋院棋士会長の話は興味深い。「囲碁の場合、すでに4〜5歳でセンスのあるなしがはっきりわかります。その年頃の子どもは石で囲った地がどちらが多いかなどの計算はできません。

なのに、センスのある子はカンでどちらが勝っているかわかってしまう。そいう子供は、いいポイントにポンポン楽しげに打っていたかと思うと、要所要所では打つ手を止めて、じっと考え込むこともできる。どこが勝敗の大事なポイントなのか、本人が何かを察知するから考え込むわけです。これは教えたからできるというものではありません」

ポロの棋士になるには、本人の先天的な能力というもが大きいようだ。さらに小川氏は“棋風”について語った。「こういう能力を持った子供たちがプロを目指して、囲碁の先生の元に集まり、道場で内弟子生活を送りながら、切磋琢磨して囲碁を習っています。興味深いのは全員が同じ指導を受けているのに“棋風”はみんな違うことです。囲碁は環境によって後天的に打ち方が変わってくるというより、本人が持って生まれた素質や考え方のほうが碁盤に出やすい。

最近はプロ棋士同士で結婚される方も多く、生まれたお子さんがまたプロ棋士を目指すケースも増えてきました。棋士の世界では親が子供に直接、教えるということはあまりなく、他の先生に預けて鍛えてもらうというのが一般的ですが、親から習ってもいないのに、“棋風”は親子で似てくることが多いんです」顔や体格が似るという次元とは異なり、科学的に証明することは難しいだろうが、遺伝の不思議さを感じさせる話だ。

もう一人、言葉では表現しにくい独特の「感覚」と遺伝との関係を語る人物がいる。心臓外科医の世界で天才外科医と呼ばれている南淵明宏医師(52歳、大崎病院東京ハートセンター・センター長)である。外科医には「神の手」と称される名医がいるが、彼らは普通の外科医とどこが違うのか。

「私は普通の人より空間認識能力に恵まれているんだと思います。例えば、『明日は大変な手術がある』という日は、寝床で目を閉じると頭の中に、ごく自然に心臓の3D画像が浮かび上がってくるんです。そしてその画像をあらゆる角度から覗き込むように、頭の中で自在に回転させることが、ほとんど無意識にできる。その頭の中の画像で『ここはこうなっているから、こうやって。ここは10針ぐらい糸をかけて…』といった具合に繰り返し、翌日の手術のシュミレーションをするのです。

こういう感覚は持って生まれた能力で、子供のころから変わりません、友人の家に遊びに行って、次にまた遊びに行く時、まったく違う道を通ってもちゃんと目的地にいける。一緒に行った友人は『どうしていったこともない道を知っているんだ?『と不思議がるのですが、私の頭の中には常に東西南北と距離感が入っているので、一度行ったところは迷いようがない。



『週刊現代』




2011年02月17日(木) 『異水』(11)

 その日も数人のグループで盗みに出たが、Nは一番後ろをゆっくりと歩いていたために、病院から湯屋へ向かうと母と妹に出会った。「元気だでが」と、笑って話す母に、Nは虫酸が走った。その少し前に、妹からは母はNが上京したら「赤飯たいで喜ぶべし」と言ったと聞いていたのだ。Nはそこで怒り、店頭のマネキンに着せて飾っていた派手なセーターを皆がポカンと見る中で盗んで逃げた。好みに合わなかったが、店主に反抗して「月賦で返す」と騒ぎを大きくした。品物を返せば警察沙汰にしないという店主に従って、事件は解決した。

しかし、担任の先生は事件を会社へ通告していた。集団就職列車で上京し、会社に勤めたものの、非行が上司の口から暴かれてNはやる気を失った。そして、冷遇されている青森市出身のアメリカ人と日本人の混血の先輩に同情し、地下倉庫で彼と一緒に仕事をした。それが上司の気に入らず、首になったのだ。

 母がいる家に帰りたくなかった理由はまだある。Nが5才の時に、厳冬の網走に中学生を頭とする3人の姉兄たちと一緒に母たちに捨てられたのではないかという疑問が解決できないでいたからである。Nが中学1年の冬に父が岐阜県のある町で野垂れ死にした。父とは網走以後同じ家に住んだことがなかった。父は家族から見放されていたのだった。彼は、汚れたズボンのポケットの中に10年玉1個のみを残して死んだ

。寺での葬式の時に、次兄の忠雄が、網走に「置いて行かれたのを覚えているか」と言った。その時から網走の記憶をかき集め始めた。母に網走のときのことを訊こうとすると、「バグヂで、家、畑、、みんな取られただッ」云々と死んだ親父を非難するだけであった。父の4枚の死体写真をNが仏壇代りの小さな蜜柑箱の奥から発見した時に、家出同然に北海道へ林檎の袋掛けに出稼ぎに行っていた。母は浮気相手の駅の助役とのことでオンチャコの母親と喧嘩した後に、それをしたのだった。オンチャコは二級年上の気がいい男で、Nの友達であった。そのころにNは自殺を考えたことがあった、中学3年の秋に自転車で福島まで家出したこともあった。それらの出来事はすべて母から逃げたいがためにしたことだったのだ。

母を嫌う一方で、Nは海が好きだった。海を見ていると、網走の浜辺でセツ姉さんが幼いNに優しくしてくれたことを思い出すからである。20歳ほど年の離れたセツ姉さんは、青森の弘前市郊外にある精神病院に出たり入ったりしていた。そのセツ姉さんは、Nが小学6年になった頃に、同じマーケット長屋の同年代の男に妊娠させられた。母に頼まれてその水子の墓石となる漬物石を寺に運んだ時から、彼女を嫌いになってしまった。その分Nは海が好きになっていたのだ。


『異水』永山則夫



永山則夫

横須賀市の米軍宿舎から、盗んだ22口径の回転式6連発銃で1968年10月から、1969年4月にかけて東京、京都。函館、名古屋で4人を射殺し、連続ピストル射殺事件を引き起こす。1969年4月(当時19歳10か月)に東京で逮捕された。1970年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役にいったんは減刑されるが、1990年に最高裁で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する。1997年8月10日、東京拘置所において、死刑が執行された。全国紙はいずれも当日の夕刊の第一面で報じた。

生前永山は知人に「刑が執行される時は全力で抵抗する」と述べていた、実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたといわれている。永山の告別式は、東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差し戻し審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツクの海に、妻だった和美の手によって散布された。

「9時前ごろだったか、隣の舎棟から絶叫が聞こえました。抗議の声のようだった。すぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので案じていました」がある。



遠藤 誠 1930〜2002

第二次世界大戦中は、戦死した父の仇打ちをしようと仙台陸軍幼年学校に入学するが、戦後になって父親の形見の従軍手帳を読み、中国大陸での日本軍の行為を知る。以来、昭和天皇の戦争責任を追及し、反国家権力の立場で活動する。帝銀事件弁護団長や、反戦自衛官訴訟弁護団団長などを務める。永山則夫の弁護人も務めた。



永山則夫の主な作品

『捨て子ごっこ』親に捨てられ弟を捨てる。貧困と闘う北国の子供たちの姿を透明な抒情の中に刻み込む純文学作品集。

『なぜか、海』家族から、故郷から逃れるために少年は東京を目指した。清冽な孤独の力で魂の叫びを結晶させた作品集。

『無知の涙』4人を射殺した少年は、獄中で字を習い、本を読みながら初めてノートを綴った。比類なき魂の奇跡を伝える感動の手記。文庫版 河出書房

『木橋』津軽の13は歳は悲しい。移りゆく季節の中に幼い生の苦しみを刻んで、作家の誕生を告げた新日本文学賞受賞作他2編収録 文庫版 河出書房







2011年02月16日(水) 万死に値する大罪

政治音痴の素人政治家に、国政をゆだね、安保・外交政策を左右されることの怖さに、身震いがした。すべてが浅はかな思いつきと行き当たりばったりの政治公約・理念と信念なき政策運営だったことが、改めて明らかになった。鳩山由紀夫前首相が、本誌などのインタビューに答え、明らかにした普天間撤去・移設問題の“真相”のことだ。

政治家の言葉の軽さ、政党の約束の無意味さ。そしてこの国を動かす主体は首相や閣僚、政治家ではなく「官僚」であることを、鳩山前首相は明確に証言した。この国の民主主義の底の軽さ、基板の危うさを知った今、国民は日本を真の民主主義国家とするために早急に政治・行政改革に取り組み必要がある。

鳩山民主党代表が普天間基地問題で、普天間飛行場の移設先は「国外、最低でも県外」と公約したのは紛れもない事実だ。が、総選挙で大勝し、政権交代を実現するやわずか8カ月で「国外、県外はやはり無理」と、県内・辺野古案に回帰し、県民の怒りを買い、政治不信を招いた。

辺野古回帰の理由を問われ「学べば学ぶほど(海兵隊や各部隊が)連携し抑止力を維持していることがわかった」と語った。「海兵隊抑止論」が沖縄に海兵隊の継続駐留を認め、普天間基地の辺野古移設を正当化する論拠とされた。だが、それから8ヵ月後、鳩山氏は「辺野古移設しか残らなくなった時に理屈付けしなければならず、『抑止力』という言葉を使った。方便といわれれば方便だ」と、あっさり認めた。

これほど言葉の軽い政治家を見たことがない、そして、自らの言葉に無責任な人も。政治音痴の素人政治家が国を動かし国民を翻弄し、政治不信を高める。万死に値する大罪だ。鳩山氏が論拠に上げた「抑止力」は「ユクシ(嘘=沖縄方言)力」であると、沖縄県民の多くが指摘し、やゆしてきた。

米国務長官すら「海兵隊の機能」を疑問視し、米軍幹部ですら「有事の米国民救出」を第一の昨日と明言し、米議会は「海外駐留削減と海外基地基地閉鎖」の論議を始めていることを県民は知っているからだ。知らないのは鳩山氏と民主党政権の閣僚、そして米国追従が国是と自己保身的に信じる防衛、外務省を中心とする官僚らだ。

首相を辞め、正直に語れるようになった鳩山氏は「抑止力」は方便で、県内回帰のための後付けの説明と認め、謝罪した。鳩山氏は公約実現に否定的な北沢俊美防衛相、「県外」公約自体を否定する岡田克也外相(現幹事長)、くい打ち工法で辺野古移設を進言する岡本・元首相補佐官の存在なども、辺野古回帰の要因と語っている。

官僚主導の限界
官僚については「防衛相も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている」と説明している。そして首相でありながら官僚、閣僚すらリードできなかった自らの力量不足を敗因と認めている。

琴は謝罪で住む話ではない。辺野古回帰の論拠の「抑止力」は方便で、本当の理由は「閣内不一致」と「官僚の壁」、自身の「力量不足」と証言したからだ。指導力を欠き、官僚に翻弄され、身内の閣僚からも見放される、明らかに首相になってはいけない人が、この国を担う。民主党政権の限界も露呈している。

普天間問題の解決策は「オバマ大統領との直接対話」と指摘した鳩山氏だが、それすらも官僚の壁に阻害され、不発に終わっている。民意に沿おうとする首相が、沖縄基地の過重負担を当然視し、対米追従を是とする官僚に牛耳られ、辞任に追い込まれる。これが、日本の議会制民主主義の現実。官僚主導政権の実相である。

米国の論理に洗脳された官僚たちの言い分を検証もせず。辺野古移設を主張する菅直人首相の不作為の罪はより重罪だ。辺野古移設の根拠となった「抑止論」のウソが明らかになった今、菅首相はこの国の政治を「官」主導から「菅」主導に転換し、普天間の県外撤去のみならず、在沖米軍の駐留見直しに着手すべきだ。



『琉球新報』



2011年02月12日(土) プロでも気遣う接続詞(10)

読者にわかりやすく、印象に残るような文章を書きたい。その気持ちは、プロの作家であろうと、アマチュアの物書きであろうと変わりません。プロの作家は、接続詞から考えます。接続詞が、読者の理解や印象にとくに強い影響を及ぼすことを知っているのです。

2,3年前のこと、私は自分の参考にするために、手づるを求めて尊敬する某作家の組版ずみの原稿を雑誌社から貰って来た。10枚余りの随筆である。消したり書き直してある個所をみると、その原稿は一たん清書して三べんか四へんぐらい読みなおしてあると推測できた。その加筆訂正でいじくってある個所は、「…何々何々であるが」というようなところの「が」の字と、語尾と、語尾の次に来る「しかし」または「そして」という接続詞とにほとんど限られていた。あれほどの作家の作品にして、「が」の字や「そして」「しかし」に対し、実に初々しく気を使ってある点に感無量であった。

太宰治の師である文豪・井伏鱒二が尊敬した作家が誰なのか、気になるところですが、一流のプロに尊敬されるような作家でさえ、推敲の過程で修正するのは接続詞なのだということは注目に値します。

原爆投下はおぞましい犯罪だ、個人的には東京大空襲はさらにひどい犯罪だと考えている。「しかし」戦争犯罪を定義したのはニュルンベルク裁判だった。枢軸国の行為のみを戦争犯罪、平和に対する罪と定義し、大都市への空爆など連合国もした行為は定義から除かれた。

原爆投下をめぐってはソ連に核の威力を見せるためだったとの意見もあるが、正しいとは限らない、米国も日本も消すことのできない忌まわしい歴史を直視しなけらばんらない。「しかし」、歴史証人となる目撃者が少なくなり、権力者が史実を気高く偉大なイメージに作り直す作業が始まる。日本も同じ道をだどっているようだ、こうしたプロパガンダと戦わなくてはいけない。人間は個人生活でも、自分の行為を正当化しようとする。だが、国家や権力者がそれを始めたときは非常に危険である。

何をやっても長続きせず、意欲がわかないという若者の人生相談に対して、藤原正彦氏の回答はは、情報にあふれ、選択が無限にあるかかに見える現代、進むべき道を選ぶのが難しいのはよくわかります。「ただ」、あなたは、ここまで生きてきた過程で親や社会から大きな恩恵を受けており、その恩返しをしなければいけません。

役人は人民の召使である、用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。「ところが」委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が固有している権力で、人民などはこれについて何らの嘴を容るる理由がないものだ、などと狂ってくる。

もうすっかり知れわたっている話だけど、中国の指導者の大半は、大学の理数系卒業者で占められている、胡錦涛国家主席は水利工程学部で水力発電を学んだし、温家宝首相は地質学を専攻した。そもそもトップ9と呼ばれる共産党の最高指導部、政治局常務委員9人は、そろって理科系出身だ。「しかし」だから中国は発展しているのか、という人がいたら、それは思い違いである。「むしろ」、発展途上国だから理科系が主流になったとみるべきだろう。第四世代と呼ばれる今の指導者は、国家建設に燃えていた時代に育ったから、競って理科系に進学した。指導部もまた建設に比重を置いたから、理科系の人材を必死で育てたのである。

現代絵画は、セザンヌのリンゴから始まるとでもいうべきか。「なぜならば」、死せる自然と呼ばれたように、近世の静物画は死を寓意した表象であったが、セザンヌのリンゴの登場を持って、それは新しい視覚空間を生み出す装置となったからだ。

「しかし」、次のことも忘れないでほしい。第二次世界大戦を引き起こした元凶であるヒトラーはクーデターでドイツの権力を手に入れたのではない。ヒトラーは選挙によって、ヒトラーなら何かをやってくれる、と期待するドイツ国民に選ばれたのだということを。

「だから」原因結果の橋渡しに活躍
「それなら」仮定をもとに結果を考える
「しかし」単調さを防ぐ豊富なラインナップ
「ところが」強い意欲感をもたらす
「そして」便利な接続詞の代表格
「それに」ダメを押す
「かつ」厳しい顔つきで論理づけ
「一方」二つの物事の相違点に注目
「または」複数の選択肢を新す
「第一に」文章の中の箇条書き
「最初に」順序を重視した列挙
「まず」列挙のオールマイティ
「つまり」極端な言い変えで切れ味を出す
「むしろ」否定することで表現を絞る
「とくに」特別な例で読者を惹きつける
「なぜなら」使わないほうが洗練した文章になる
「ただし」補足的だが理解に役立つ情報が続く
「さて」周到な準備のもとにさりげなく使われる
「では」話に核心に入ることを予告する
「このように」率直に文章をまとめる
「とにかく」強引に結論へと急ぐ


猫が歩いている
俺の心が歩いているのだ       (高橋新吉 「猫})


『文章は接続詞で決まる』




2011年02月09日(水) ボケない方法(9)

私は長年、数千人にも及ぶお年寄りを黙々と見てきた。その結果、ボケずに元気で長生きしているお年寄りには、ある「法則」があることがわかってきた。それは決して特別なものではなく、毎日の生活の中でできる、何げない「習慣」である。その「習慣」さえ守っていれば、そう簡単にはボケたりしないのだ。

朝、散歩すること、新聞のコラムを声を出して読むこと、料理をすること、外出することなど。特に男性の場合、定年になって「やることがなくなってしまった」人は、こうしたボケない習慣を知っておかないと10年後、15年後には大変なことになる。ボケは年を重ねるごとに、知らず知らずのうちに忍び寄ってくるからだ。

そのボケのサインにいかに気づくか、それが家族にとってとても大切なことなのだ。好きなことをしなくなった。性格が変わったような気がする。外に出なくなった。一日中ぼんやりしている。なにかいつも探し物をしている、など。

タレントの清水由貴子さんが静岡県の富士霊園で硫化水素を吸い、自殺しているのが見つかった。霊園の職員が現場で黒いポリ袋をかぶり、すでに死亡していた清水さんを父親の墓の前で発見した。傍らには車いすに座った母親がいたが、意識があり母親には命に別条がなかった。

新聞報道によると「迷惑をかけてすみません」、「消防署に知らせてください」と大きな字で書かれた紙が二枚見つかったという。そして、清水さんの自殺の原因が「認知症の母の介護に疲れた」結果だったということもわかってきた。しかも、最初は母子心中を試みようとしたらしい。でも優しい清水さんにはそれができなかった。

あの明るい清水さんが、どうしてそこまで追い込まれてしまったのか。清水さんは責任感が強すぎたのだ。娘がお墓の前で死んでいるのに、ただ黙って車イスに座っていたというお母さんは、誰が見てもおかしい。まさに完全な認知症である。そんな母親を24時間、ずっと一人で介護できるわけがない。清水さんは、一人でそのすべてを背負った。

もっと重要な害が健康食品にはある。それは、各種の栄養を健康食品によって補強してしまうと、そういう栄養素を吸収すべき内臓機能が働くなってしまう。寝たきりになってしまうと歩けなくなるのは、筋肉が「もう使わないだろう」とその機能を衰えさせてしまうからだ。

例えば、朝、散歩をする。そうすると、脳に血流がまわる。ところが、散歩をしなければ脳は働かない。「絶対ボケない生活」は、この習慣を身につける。いわば血流を増やすことを目的とした認知症予防のための「作業療法」である。何もせず、何も考えない生活を長く続けると脳は委縮し、歩かない足の筋肉は衰え、認知症を発症するというわけだ。

例えば、「お母さんはボケの入り口にたたずんでいます。今が大切なんです」といって次のメモを渡す。「決して怒ったり、怒鳴ったりしないこと。お母さんの気持ちになってあげること。なるべく一緒に外出してあげること」。もちろん注意すべきことはまだたくさんある。まず、「この三つの約束」を家族と交わすのだ。

認知症を軽度から、中度へとどんどん進行させてしまうのは、全て家族の対応の拙さが原因である。怒れば怒るほど、その進行の度合いが早くなるのが認知症の最大の特徴である。多くの人たちが認知症の初期の段階でその対応に失敗し、父を、母を、夫を、妻を重度の認知症に陥れてしまっているのが現状だろう。

認知症とは、粗大なる記憶障害により、自分が行なった行為自体をすぐに忘れてしまったり、「見当識」を失い、自分の目の前の相手が誰だか、今、何月何日か、さらには自分が今いる場所すらわからない状況をいい、やがて徘徊をはじめとする、通常の一般的な社会生活を営めない状態になる「進行性」の病気である。

お年寄りでいえば、旅行の予定を立てたり、声を出して本を読んだりすると、前頭葉への血流が増える。また、記憶の中枢が側頭葉にあることから、記憶神経を強く刺激することによって側頭葉に血流が多く流れ込むことがわかった。意外にも朝の散歩は、前頭葉や側頭葉両方に血流が増えることがわかってきた。散歩することによって寝たきりよりはるかに血の流れがよくなるのは当然だが、外に出ることによって、季節の花を見たりして「ああ、綺麗だな」と思えは前頭葉に血が集まり、途中で近所の人と立ち話をすれば、記憶が刺激を受け側頭葉に血流が多量に流れ込むからである。

また、アルコールの大量飲酒は、脳委縮が高い割合で起こるということは、すでに医学的に証明されており、奥さんの話によれば、画像検査の結果、Bさんの脳は、60代にもかかわらず、いつの間にかまるで80代後半の脳のように完全に委縮していたそうである。それまで少量の飲酒は、認知症の予防になるとされてきたが、定年後というあり余る時間が生じて、少量から多量へと進んでしまったのだ。お酒を飲む人は一日ビール一本の晩酌程度で楽しんでもらいたいものである。

近年の研究では、漢方方剤である「抑肝散」(よくかんさん)が妄想や徘徊、暴力の抑制に効くのではないかという研究も進んでいるようだが、私たちは、エーザイより開発されたアセチルコリン分解酵素阻害薬「塩酸ドネペジル」(商品名アリセプト)を認知症改善薬として、アルツハイマー型認知症を中心に使用している。さらに最近、それまでのアリセプトという薬以外に、ガランタミンという薬も開発された。これもすでに三年の治験も終わり、いよいよ間もなく発売になり期待されている。




『絶対ボケない生活』


2011年02月08日(火) ツキノワグマ

日本では、寒冷な地を好むヒグマは北海道に、温暖な地を好むツキノワグマは本州と四国に生息しており、九州地方ではすでに絶滅しているという。岐阜県飛騨市のマタギ(68才)は「30年以上山に生きてきたが、最近山が荒廃している。何より恐ろしいのはこのあたりのクマの食べ物の変化じゃ。クマのフンで一目瞭然だが、ドングリを食べていたツキノワグマが魚やカモシカを食いよるんじゃ。あり得ないことや。そのうち人間まで食べるようになる。

人里近く現れたクマたちが飢えているのは、彼らが痩せているという多数の証言から明らかだ。「こんな町のお寺にまで入ってくるなんてことは初めてのことで驚きましたよ。ただクマはお腹がぺしゃんこでした。捕まえたあとで県が解剖をしたら、腹の中は空っぽだったそうです、何も食べていなかったのでしょうね」

人はクマを見て怖いと感じるが、クマのほうも人が怖い。しかし空腹だから冬眠を前に貪欲に食料を求めて人里に下りてこなざるをえない。そんな獰猛かつ臆病なクマと遭遇しないためには、音を出すことが有効だ。

「クマは孤独を好む動物で、他の動物や人間と遭うのを嫌う。だから自然にはないような音を出すことが大事です。ただラジオなどはクマが音に慣れてしまうので効果は薄い。鈴もよいですが山に入る時は遠くまで響くホイッスルを10分に1回ぐらい鳴らすのが一番効果的です」(北海道野生動物研究所所長)

実際取材した各地域では児童のランドセルから鈴の音が聞こえてきた。しかし、いきなりクマと鉢合わせした場合はどうするか?兵庫県佐用町の井口さん(66歳)は、自身がクマと何度も対峙している経験からこう話す「ばったり出会った途端、背中を見せて逃げると、必ず襲ってくると考えたほうがいい。大声を出すのも逆効果。かえってクマを興奮させてしまう。一番は黙って睨みつけながら後ずさりすること。こっちが慌てなければ、クマも襲ってこない」慌てず、騒がず、平常心こそ大事である。

「かってはクマの住む森と人の住む地域の間には猟師たちがたくさんいて、彼らがクマたちの人里への侵入を防ぐ“抑止力”になっていたんです。ところが、猟師たちが激減し、抑止力が失われてしまったことがクマが出没する要因の一つなんです」


『週刊現代』


2011年02月04日(金) 生命はつながっている (8)

まあ、車イスで病院の中庭や外庭まで出られるようになった。太陽の光が嬉しい、風が嬉しい、街のざわめき、生命のざわめきが嬉しい。お年寄りを見ていて嬉しい、若い人を見ていて楽しい、若いお母さんや子供たちを見ていて愛しい。生きることって素晴らしい。こんな素晴らしいことを、どうしてみんな素晴らしいと感じないのだろう。生きていることがこんなに素晴らしいことだということに、どうして気付かないんだろう。

「寂しい、辛い、死んでしまいたい」という言葉に、「そんなことはない」とか「それはひがみ」とか言っても仕方がないことがわかった。聞くだけでいいのだ。その人はそれで満足するのだ。最後に「うまくいきますよ」と声をかけると「ありがとう、ありがとう」と涙ぐむ。私も「ありがとう」と言って別れる。そうして何人か亡くなった。

人は話したいのだ、聞いてほしいのだ。そして分かってほしいのだ。多くの場合、答えがほしいのではなく、親身に聞いてくれる友人が欲しいのだ。身寄りのない不安。理解してくれる人のいない寂しさを聞いてほしいのだ。多くの場合、ただ黙って聞いてあげるだけでいいのだ。

患者さんの多くは病気よりも孤独に苦しんでいる。死ぬことよりも、一人で死んでいくこと、誰にも知られないで死んでいくことのほうが怖いのだ。見守ってくれる人、たとえ自分が死にゆく時も見守ってくれる人が必要なのだ。人はつながりを求めているのだ。

「何のために生きるのか」、それは簡単なこと。喜びのために、幸せのために、感動のために生きているのだ!

世界には無数の文明があった。一方は滅びた文明、一方は滅びなかった文明。滅びた文明の特徴は巨大な構造物、階級制度、豊かな経済、高度な技術、治水や灌漑など大規模に自然を改変したこと名でである。そしてそのことで人類の消費量が自然の許容量を超えて人類は滅亡した。

滅びていない文明の特徴はそれをしていないことである、巨大な構造物を作らず、階級制度をもたず、経済を拡大せず、自然を大きく改変せず、自然と調和して暮らしている。人類の消費量が自然の許容量を超えなければ滅びることはない。

確かに車は便利だが、交通渋滞時は歩くより遅い。日本では交通事故で毎年100万人がケガをし1万人が死亡している。車はピストルよりも多くの人殺しながら、残り少ないエネルギー資源を大量消費しながら、大気汚染物質を垂れ流ししながら走っているのである。これを便利というのだろうか。

幸せとは何か、私は交通事故のとき寝たきりを体験した。社会復帰は不可能と宣告された。回復して以来私はずっと幸せなのだ。生きていること、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、人と話ができること、当たり前のことを幸せとして実感するようになった。これは常に不自由な人と比較しているわけではない。本当にそのことを幸せと感じるようになったのだ。

つまらないことに腹を立てるのは、つまらないことだと思う。しかし怒りは生物に与えられた本能だと思う。怒ると力が強くなる。怒ると本来の自分のパワーの数倍〜10倍のパワーが発揮され、生理学的にも「怒るとアドレナリンが分泌され筋肉の働きを強化し、心拍を上げ、痛みを緩和する」ことがわかっている。

例えばアザラシの母親は子供を守るためにシロクマと戦う。本来なら勝負にならない。一撃で倒されてしまう。しかし怒りによってパワー上がる、怒りによって痛みを感じない。一撃を受けても立ち直り再び戦う。目が潰れようが、顔が裂けようが、何度も何度も向かっていく。そして子供が逃げられるまでの時間を稼ぐ。母アザラシは動けなくなるまで戦う。動けなくなった時、すでにボロギレのようになっているだろう。しかしその時、子供は無事逃げていることだろう。

擬態ははるかに離れた場所にいる敵から見て、自分がどのように見えているのかが分からなければならない。虫たちは、どうしてそれができるのだろうか。虫たちはどのようにして自分をそのような形にできたのだろうか。また、葉によく似た昆虫も、鳥には見つけられにくい。北極の白クマや北極キツネは白い雪の中では風景に溶け込んでいる。昆虫や動物にどうしてそれがわかるのだろう。このような例は注意して観察すると数多くみられる。



『転生と地球』


2011年02月03日(木) 中国の徹底した格差社会

反日デモや日本企業へのストライキが起きる根底には、中国社会の現状に対する不満もあります。近い将来、少子高齢化社会確実にやってくる中国ですが、今はまだ人口が増えているし、格差も広がる一方です。

ちょっと阿古さんにお聞きしたいんですが、一人っ子政策の中国でも、ひそかに生まれる2人目以降の子供はかなりいるはずですよね。そういう届け出もされず、戸籍のない人はどのくらいいるんですか。

う―ん、そういう統計はないので難しいです。ただ、一人っ子政策といっても、農村によっては子どもも二人まではいいとか、少数民族では3人までОKというところもありますから、一概には言えません。

参考になる数値でいえば中国では10年に1回国勢調査をやっていて、前回(2000年調査】の発表で、中国の人口は約13億人ということになっていますが、実際には約15億といわれていました。最新調査(2010)の数字はまだ発表されていませんが、僕が聞いたところでは、17億という。前回、本当は15億だったのを13億と発表したから、今度はさすがに15億くらいの数値になるとみられています。

さばを読んでいても、10年間で2億人増ですか、それはすごい。

結局、労働力の必要な農村や少数民族では一人っ子政策を適用していないから、貧困で立ち遅れた地域の子供たちばかりが増えていく。一方で、都市部のエリート層は相対的に減っていき、格差が一層広がるという構図がある。

中国の戸籍制度では、「農民」の家庭に生まれた人は農民のまま。出稼ぎに来た農民は農民工と呼びますが、農民工の子供は都市部で生まれて農村などに住んだことがないのに農民の戸籍を持っているために、給料も安く抑えられています。どの戸籍に生まれるかで、将来が大きく変わってしまう。

そういう農村に住んだこともない農民工は、「新世代農民工」と呼ばれています、1億5000万人いるといわれる農民工の中で数千万人はこの新世代農民工です。

すでに格差を背景にした暴動が起きているじゃないですか。

実際はたくさん起きていますが、それを弾圧する当局のテクニックがものすごく高度になっているんです。たとえば、生活苦やインフラの悪さなどを訴えるために、地方から北京へ陳情に来る人たちがたくさんいる。地元と北京を往復するお金もないから、彼らはテントを張ったり、トタン小屋で一時的に北京市内に住み着きます。こうした地域は「陳情村」と呼ばれますが、一時期は数万人がそこに住んでいました。しかし、そういう陳情村も、北京で国際会議があったりすると一掃されてしまう。都市部にやってきた農民を排除するための会社もあります。

ネットで見たことがありますよ。暴力団みたいな連中が、いかにも貧しそうな人殴っているところ。

私が聞き取りをした範囲内では、無理やり排除されて精神病院や労働矯正所に入れられたり、おかしな注射を打たれたりした例もあります。あまりに陳情者が多い地域では、その地域の役人の責任が問われますから、地元から私服警官がついてきて取締りを行なっています。北京には地方政府の出張事務所として利用されるホテルがあり、そこの地下室が陳情者たちの拘束場所になっている、そこは「黒監獄」などと呼ばれていて、陳情者たちに恐れられています。

阿古さんも現地で調査をしていて拘束されたこともあるんでしょう。

はい、怖い思いをしました。だいぶ前ですけど、最近はネット上にも、そういう被害報告がどんどん出てくるようになりました(笑)。だいぶ前ですけど、最近はネット上にもそういう被害報告がどんどん出てくるようになりました、私のところにも毎日のように、どこかで誰が逮捕されたとか、暴力を受けたといった情報が寄せられています。

そういう中国社会の暗部は、ますますこれから広がるわけですよね。さっきの話でいくと、戸籍を持たない人がおそらく2億〜3億人ぐらいいて、彼らは学校教育も行政サービスも受けられない。

僕はそういう中国人を何人も知っていますが、偽の身分証明書をもっているんです。どこかに行くにも、鉄道ならごまかせるらしいけど、飛行機は身分確認が厳しく、すぐに見破られてしまうから乗れない。

ということは、裏社会で生きるしかない。

そういうことです。北京でも、水商売の女性たちや出稼ぎ労働者の中に戸籍のない人がたくさんいる。

農民工は出稼ぎ先では市民権がありません、あまりに格差が広がったから、弱者に配慮する共産主義に回帰しようという動きもあり、重慶では農民工に都市の戸籍を与えようという試みもあるのですが、単に権力闘争や政治的なキャンペーンに終わるのではないかと懸念されています。

インドのカースト制度みたいですね。

都市部では差別があるから、農村に残ればいいかというと、こちらの荒廃もひどいものです。私が以前から調査している湖南省佐洋県の農村では博打が流行し、借金苦による農薬自殺や家族崩壊による独居老人の入水自殺が起きています。中には老いた親を生きたまま火葬場に連れて行こうとした息子もいたと聞きました。親を敬うという儒教思想が徹底していたこれまでの中国ではあり得ないことです。中国の急激な社会変容が。家族と地域社会を崩壊させてしまったともいえます。

都市部をみても、北京郊外などには、大学を卒業しても仕事がない若者などが貧しい暮らしをしている地域があり、彼らは「蟻族」と呼ばれています。そういう人たちは本当に不満の固まりだから、反日運動なんか、ある意味では当局からも弾圧されにくい、リスクの少ない不満のはけ口なんです。農村部の不満と、こうした都市部の学生たちの不満が結びつくと、中国社会の安定が大きく損なわれる可能性があります。


『週刊現代』


2011年02月02日(水) アフリカは文明の未来(7)

そうしますと、アフリカにはサハラ砂漠があって、広大な土地があるにもかかわらず人を養える容量は、実は現在の人口水準を見ても、もう限界であるということですか。

そうです。アフリカは非常に人口密度が低いのです、こんなに低いのになぜもう限界なのかという疑問は当然わきます。ご指摘のようにサハラ砂漠があり、高山があり、沼地がありといった具合で、結局は全アフリカの可耕地は20%程度。しかも、農地の生産性が際立って低い、実際にはその半分でしか生産活動ができないという現状があるわけです。

そういう意味では、インドなどは土地という意味では豊かなのでしょうか。

いいえ。インドの飢餓人口は絶対人口からいうと世界最大です。

自然の力という点から見たら、たとえば日本は人口も多いけれども、土地の力もそれなりに豊かですね。では、アメリカはどうなのでしょうか。さらには、中国はどうなのでしょうか。あれだけの人口で割ってみると、中国も限界に達しているのではないでしょうか。

中国は、1998年まで自給自足でしたから、まだ輸入食料が少ないのです。その後輸入国に回りましたけど、まだ、自国の生産量は大きい。ただ、中国は「一人っ子政策」の反動でこれからものすごい勢いで高齢化が進みます。ですから、おそらく2030年以降、中国の高齢化は今の日本の高齢化の比ではないでしょう。生産労働力は2015年をもって中国は減少に転じる。その後、中国がどうなるかは想像がつきません。しかも、社会保障制度は整っていませんから、一人の子供がどうやって両親と祖父母4人の大人を養っていくのか。恐ろしいようなシナリオがいっぱいできるわけです。事実、そういう資料が出ています。

話を聞いていると恐ろしくなってきますね。

今日は、崩壊のシナリオというテーマを与えられていますので、怖い話をするときはこういう話になるわけです。明るい話を描くのであれば、それなりに描けます。例えば、地球温暖化といって大騒ぎをしていますけれども、地球温度が冷えているところもあります、南半球は気温が上昇していますが、南極の中央部の気温は下がり続けています。溶けている氷河もあれば、逆に増えている氷河もある。あるバイアスがかかった情報を重ねると恐ろしい地球も描けるし、恐ろしくない地球も描けるわけです。

僕はあまりアフリカのことは詳しくないのですが、アフリカを豊かにするのは難しいと思います。先ほどいった食料生産の面で、なにか大地との関係が危ない。あそこは、野生の王国にして、シマウマとかゾウなどの野生動物が住んでいて、人類は住まないとか、将来的にはそういうイメージかと思っているのです。住まないわけにはいかないだろうけど、サハラ以南のアフリカはそういうふうになるのでは、と思っています。

よくいわれているのは、どんな金持ちの国でも生活保護世帯がある。日本でも生活保護世帯があるし、スウェーデンやノルウェーの高福祉国でも生活保護世帯は存在する。アフリカは、人類の生活保護世帯だと割り切るしかないという意見もある。明るいシナリオは、中国は2015年を境に労働人口が減っていく。おそらく、東南アジア、ベトナムとかタイとかインドとか、だいたい2030年に労働人口が減り始めます。その後、世界が安い労働力を求めるならアフリカしかない、ということになれば浮上する芽が出てくる。ちょうど今のインドのアウトソース・ビジネスみたいなものが、アフリカで起きるのではないかという期待もあるのです。

それはあるでしょうね。アフリカは地下資源が豊富で、いくつかの国は資源輸出国として経済発展を始めています。

しかし、資源国というのは、価格が暴落してしまっては元の黙阿弥です。過去10年間、アフリカの経済成長は5.5%あり日本をはるかに上回っていました。ところが今回の経済不況によって2009年には1.8%にまで下がり、おそらく2010年はマイナスになるのではないかという予測が強くなっている。資源ブームが去った後のアフリカは、もっと悲惨な悲惨な状況になるかもしれません。

文明は人類に、欲望の無限拡大をもたらすことになった。特にその圧力は森林に集中した。多くの人が鉄の便利さに目覚めて、鉄の製造が増えるほどに、精錬に必要な薪炭の生産も急増していった。このために大量に木が伐られ、乾燥性が高く降雨が冬に集中する地中海性気候のように森林再生力の低い気候帯から、森林が消えていった。

それが早くから製鉄の始まった西アジアであり、地中海沿岸であり、金属器が盛んにつくられた中国華北地方だった。さらには西ヨーロッパでも森林破壊の引き金になった。鉄器の普及は、自らの首を縮める程に環境を破壊していった。日本のタタラ製鉄でも、「山が鉄を作る」という言葉があるように、5トンの鋼をつくるのに、木炭15トンが消費され、一回の製鉄作業にひと山の樹木を丸ごと刈り尽くすともいわれた。日本は森林再生には最適の気候条件であり、早くから植林がおこなわれたことで、ヨーロッパのような状態にはならなかった。日本は世界の例外といえる。

世界人口は毎年7000万人づつ増加しており、増える一人ひとりに居住のスペース、食料、衣料、エネルギーが必要だ。すでにこの世に産まれている私たちが、未来世界と進んで資源を分かち合うことができるだろうか。

国連の人口予測では、2050年に91億人に達する。増加する人口の98%が貧しい国の人たちである。私は80億人に達する2025年当たりから、何らかの大変動が地球に現れるのではないかと考えている。

日本のの偉業は衰退衰退する一方で、ついにGDPに占める農業生産は1.0%までに低下した。とりわけひどいのが米以外の農産物である。しかし食料不足の一方で、世界的には肥満が急増している。中国では日本の人口よりも多い肥満児がいる。一人っ子政策の中国では。両親二人と、祖父母4人の6人の大人が一人の子供を甘やかす結果、肥満児が急増しているともいわれる。世界の成人男子の肥満指数をみると、とくに高いのはアメリカの30%で、日本は非常に低い数字となっている。

さらなる問題は、今、世界の多くの地域で、水資源を地下水に頼り始めていることだ。その代表がアメリカで、小麦生産のおそらく4割が地下水を水源とした生産となっている。とりわけ世界の穀倉地帯といわれる米中西部は、地下水の減少量が著しく、ひどい時には年間10メートルずつ地下水が下がっているというほど深刻な地域もある。最近は、地下水に塩水が入り始めていて、アメリカの農業の崩壊は地下水の破たんで生じるというのア、有力な説になっている。このような地下水の枯渇は、アジア全域、アフリカにも当然起こっている。

食料資源の枯渇も問題である。世界の漁獲量のデータをみると、ついに限界が来た、1980年代以降、世界の漁獲量が下がり始めたのだ。さらには人間による乱獲で東大西洋やペルー沖では、半分ぐらいの魚種が姿を消した。世界の天然資源の中で最初に限界を超えるのが「魚」であることは間違いない。したがって、今後は魚の値段がますます上がっていくことだろう。

HIVウィルスは、世界で4000万人ぐらいが感染しているといわれている、年間世界では300万人ほどが亡くなっている。HIVウィルスは、14世紀のペスト、1918年のスペイン風邪と並んで、世界史の三大疾病といわれている。HIVウィルスは。完治しなくともその発症を抑える薬が開発され、先進地域では死に至る病気ではなくなりつつある。しかし、アフリカではいまだに薬が高価なため、毎年歳200万人ほどが命を失っている。例えば、スワジランドでは、なんと成人の23%がエイズに感染している。

ノーベル賞やアカデミー賞まで受賞したゴア元大統領が、電気代とガス代に年間500万円以上も支払って、温水プール付きの広大な屋敷に住んでいたという「不都合な真実」が暴露された。地球の将来の不安を語る彼も、自分の生活を変えることはできなかった。

文明というのは、同じ緯度でしか動きません。メソポタミアアから始まって、エジプト、インダスなど同じ緯度でしか伝播しないのです。緯度が変わると温度差によって農作物の種類が変わってしまう。そのため4大文明ともほぼ同じ緯度なのです。黄河文明だけがやや緯度が高いんですけど。アフリカの場合、それよりも緯度がずっと南に下がっています、オーストラリアなどでもそうですね、オセアニアでも、結局文明は起こらなかった。

アフリカは野生動物にとっては生きやすい土地かもしれないが、人類の暮らしというものにとっては、必ずしもよいとはいえない。したがって、最初に人類がアフリカで誕生したが、住みにくいのでアフリカを出たのではないか。ゴリラやチンパンジーが暮らすには良いところかもしれません。狩猟採集民にもよいかもしれませんが、農耕民には適していなかったのではないか。人類が誕生した地であるにもかかわらず、なぜ大地にはいつくばって何千年も生きてこなかったのか。アフリカの農業からは見えてこないのです。

ブッシュマンの膨大な研究があります。ブッシュマンのような狩猟採集民族と農耕民族とではどちらが幸せかという研究があります。労働時間を比べますと、ブッシュマンは週に平均2,3日しか働かないのです。シマウマを一頭捕れば、一家が1週間食べていける。あとは遊んでいるわけです。農耕民は、その何倍もの時間働いて、土地を耕して水をやって雑草を除かねばならない。労働時間からいうと、はるかに狩猟採集民のほうが得だといえます。

次に、栄養面を見てもブッシュマンは84種類もの植物を食べています。栄養価を計算するとはるかに、狩猟民のほうがよい数値が出ています。化石骨から時代別に身長を推定した研究によると、農耕時代に入って低くなります。栄養不足のためですね、なぜ人間は農耕民になったのかという議論がそこで始まるわけです。そういう意味では狩猟民対農耕民というのは、昔から面白い議論があります。

例えば、森の音が人間の心に大きな影響を与えている、と大橋先生はおっしゃっています。森の音を聞くことで、脳内の神経伝達物質の分泌が変わり、人の心が変わる可能性はないでしょうか。

遺伝学者からこんな意見もあります。世界的に少子化が一気に進んだため、遺伝形質はどんどん劣化しているという。つまり、多産多死が健全な遺伝子維持の鉄則でしょう。それが世界定期に色覚障害や近眼遺伝子が増えているとする説もあります。これらはすでに現代においては、生存を左右する条件ではなくなったからです。そういうふうに考えると、あと何百年か経った場合、人間の遺伝子は一気に劣化して、そこで人間が自然崩壊を起こしてしまうということはないですか。

それはあり得るわけです。事実進んでいるともいます。しかし、そういうものを視野に入れた新しいライフスタイルの模索が行われているでしょうか。こういうところでそれを始めるべきだと、私は思います。





『地球文明の危機』


加藤  |MAIL